長岡京エイリアン

日記に…なるかしらん

たそがれる神さまと “はんにん” のポルカ  ~舞台『三条会のゼチュアンのぜんにん』~

2014年06月08日 23時29分12秒 | すきなひとたち
 せんちめんたる じゃぁ~ハぁ~にぃ~♪ みなさま、週末いかがお過ごしでしたでしょうか。そうだいでございます。
 いやぁもう、ここ数日の関東地方の梅雨らしさときたら、どうだい! 梅雨っていうか、もう梅雨を超えた「災害」になってませんでしたか、金曜日なんか!? 土曜日も、夜は千葉と埼玉の間あたりの電車が運休になってたようで。さんざんでしたねぇ。

 そんな、なるべくならば外には出ずに、家の中でゆったりカモミールティでも飲みながら1ページ1ページと、読むというよりはむしろ書くような丁寧さをもって読書にひたりたい、ややしんどい週末ではあったのですが、例によって私はお仕事、お仕事! そして、そのあいまをぬって久しぶりに東京の下北沢に向かいまして、これまた久しぶりの演劇鑑賞を楽しんでまいりました。
 前回にお芝居を観たのは2月……でしたかね? まだ未曾有の大雪が降って電車がちゃんと動くかどうか、とか言ってたころでしたからね! そうとうあいたねぇ~。感覚としては完全に一瞬のうちだったんですけどね、今年の3~5月なんかは。ただひたすら単純に、お芝居を観る余裕がありませんでした! 忙しくしようと思えば、忙しくなるもんなんだねェ。


舞台『三条会のゼチュアンのぜんにん』(演出・関美能留、作・ベルトルト=ブレヒト 2014年6月5~8日 下北沢ザ・スズナリ)


 最近はだいたい年に一度のペースで上演されている三条会のザ・スズナリ公演の、今年2014年ヴァージョンの登場です。

 私が三条会の公演、もしくは三条会を主宰する演出家の関美能留さんの演劇公演を、他のどの団体の企画にたいしてよりも高いフィーバー度をもって、なるべく多く観ようとこころがけているのには、もちろん理由があります。というか、ここまで観たいのはなぜなんだろうか、きっとなにか理由があるんじゃなかろうかと、自分で自分の在庫僅少な知恵を総動員して考えてみました!

 そりゃまぁ、かつて大変お世話になった歴史のある関さんと三条会である、というたいせつな「縁」も当然あるわけなのですが、現在、もっぱら一人の観客として公演を楽しめる立場になった私を強くひきつけるのは、関演出が、かなり自覚的に練り上げられ、配置された「けっこう難しい問題」の数々を「ちゃんとおもしろく」出題してくれる非常にたぐいまれな演劇だから、という点だと思うんです。
 もちろん、特にそれにたいする自分なりの回答を考えつかなければいけないという制約もないですし、答えが出なくたっていいわけなのですが、要は「脳みそを自分から揺さぶりたくなる」物語に出逢うことが必ず確約されている空間。それが関さん、そして三条会の創る演劇公演の場なんですね。こんなエンタテインメント、なかなかないと思うんだよなぁ。

 私の観ているかぎり、演劇や映画のほとんどは、「今こういう俳優さんがいるんだけど、どう?」、「こんなストーリーを考えついた人がいるんだけど、どうよ?」、もしくは「今わたしは世の中のこういう問題が気になっています。みなさんはどうですか?」といった「いかがですか方式」になっていると思います。作り手が純粋に「こういう作品を作ってみたかったんだ! 文句あっか!?」と強く主張するものは意外と少ないですよね。おしなべて低姿勢で、受け手に理解してもらうためにやさしいつくりになっているものが満ち溢れています。

 そんな中で、関演出の作品、特に三条会の本公演にあたるザ・スズナリ公演における作品は明らかに、お客さんに提供する情報の量が意図的にシェイプアップされているというか、他の演劇公演だったら当然のようにストーリーをわかりやすく伝えるために補足されているような視覚情報が「最小限からさらにちょいけずり」くらいに豪快にカットされ、その上で、一見ストーリーとはまったく関係のないようにみえる「謎また謎のキーワード」が舞台上いたるところに配置されているのです。

 今回の作品でいうのならば、原作となったドイツ人劇作家ベルトルト=ブレヒト(1898~1956年)の『ゼチュアンの善人』は、ブレヒトがナチス・ドイツの迫害を逃れてドイツ本国から亡命していた1939年3月から構想が始まり、1940年5~6月にフィンランドの首都ヘルシンキで執筆され、1943年2月にスイスのチューリッヒで初演されたという、波乱と不安に満ちた情勢の中で生み出された作品です(祖国ドイツでの初演は第2次世界大戦後の1952年11月のフランクフルト公演)。
 物語の舞台となっている「ゼチュアン」という町は、ブレヒトが創造した「中国のどこかにある架空の都市」です。この作品が本場の中国で翻訳された際には、発音が似ているからという実に単純明快な理由で、西南部に位置する「四川(スーチョアン)」にあてられて『四川一好人』となっているそうなのですが、ブレヒトがゼチュアンを四川省(省都は成都)のどこかに想定していた、という事実はありません。
 ていうか、ブレヒトにはこの物語の舞台が「キリスト教プロパーでない異国のどっか」であるのならば別にどこでもいいと考えていたと思われるフシがあり、1945年には舞台をジャマイカの町にしてオール黒人キャストで上演する企画も考えていたとか。てきとー!!
 ただし、完全にヨーロッパの常識からはずれた文化圏を舞台にしたかったわけでもないらしく、ブレヒトは「なかばヨーロッパ化されたゼチュアン」という但し書きを加えており、ストーリーにもけっこう唐突に「失業中の飛行機乗り」という妙に現代的な設定のキャラクターが出てきます。
 こうなると、「なんで中国にしたの?」という疑問も自然にわいてくるというものなのですが、ここらへんには、「いいひとと神さまが主人公」というメルヘンチック、昔話チックな物語設定をフォローする「空想感」を生みたかったブレヒトのこだわりがあったのではないのでしょうか。全てがテキトーなゼチュアンなわけですが、その徹底したテキトーさに哲学があるというわけなのです。う~ん、実に絶妙な「ドーナツの穴」理論ですよね! 「存在のなさ」こそが、時代を超えうる「絶対的存在」。

 このような作品を上演するのだとしたら、やっぱり「いかにも中国」な衣装や舞台美術をこしらえたくなるのが人情というものでしょう。
 しかし、そこはそれ三条会というか、ストーリーを補足するためのそういった意匠はまるでもちいられず、さらには売春婦、タバコ屋、建築業者、貸家の大家、おまわりさん、床屋、飛行機乗りといった登場キャラクターたちの職業を説明する衣装さえも採用されてはいません。男性の俳優さんが演じている建築業者はいつも黒い女性用スリップにオシャレな黒いつば広帽子、おまわりさんはユニクロっぽい赤のフードつきウインドブレーカーを着ているヒョロリとした女優さんだし、床屋の女優さんはなぜかお祭り気分満点の黒はんてんに白の鯉口とももひきの上下、飛行機乗りの女優さんも上下黒のスーツといった混濁ぐあいになっています。三条会バージョンでは、舞台設定と同じくらいに登場人物の性別もあいまいになっているんですね。

 これに加えて、原作の『ゼチュアンの善人』は私の手元にある未来社『ブレヒト戯曲全集 第5巻』版のテキストでも130ページにおよぶ大作となっているわけなのですから、セリフもそうとうに膨大。はっきり言いまして、俳優さんがたの奇抜な衣装に気を取られてセリフを聞きのがしてしまうと、いったい誰が誰とどんな関係で、誰の性別がどっちで誰とイイ感じになっているのかという設定がわかりづらくなってしまいます。

 さらに、登場人物たち以上に自己主張しているのが舞台美術なのでありまして、そこには一面に、人間ひとりがゆうに入ることができるサイズのものからヘルメットくらいのサイズのものまで、大小18コのかわいい「犬小屋」がたちならんでいます。
 藤子不二雄ワールドに出てくるような典型的な犬小屋で、赤・青・ピンクなどと明るい色の屋根がそれぞれにあしらわれており、それ以外は黒一色となっている舞台にいろどりをそえていますね。非常にかわいらしく平和な風景なのですが、そこに犬でなく人間がたむろすると、とたんにどことなく閉塞した「貧民街」のかおりがただよってくるのですから心憎いですね。
 こうやって、いったん遠くに離れていったようでありながらも、必ずまわって原作の意図にたち帰ってくるブーメラン効果こそが、関演出一流のぶっとび意匠なのです。ただ脈絡のないイメージをつなげて奇をてらっているわけではない、確実にその本質を射抜いた具現化がなされているんですね。最初から「お客さん向けのわかりやすい説明」にエネルギーを弄することを避けている「迷いのなさ」。このいさぎよさが開演前に入場した時点から舞台に満ち溢れているからたまんないんだよなぁ。そうこられたら、客のこちら側も「喰らいついていってやろうじゃねぇかよう!」とボルテージを上げざるをえなくなるわけなんでありまして。


 さて、そんな『三条会のゼチュアンのぜんにん』なのですが、ならば、なぜ物語の全編にわたって『名探偵コナン』の BGMが使用されているのでありましょうか。

 毎回、活躍する俳優さんのセリフと同等に雄弁なメッセージをもって内容にからんでくる三条会作品での楽曲使用なのですが、今回は1時間45分休憩なしというボリュームにも関わらず、使用された「ヴォーカルつき」楽曲はたったの3曲という厳選ぶりになっていました。それらのもたらした効果については、またのちほど。

 それで、それとは対照的に作中でひんぱんに流れていたのが、ヴォーカルのない「インストゥルメンタル」楽曲で、ここ10年間ほど三条会作品といえば重要なシーンで流れているという感のある、globe の『 genesis of next 』のピアノオンリーバージョン(2003年)に加えて、今回はあの長寿推理アニメ『名探偵コナン』(1996年~ 原作マンガの連載は1994年~)から、あまりにも有名すぎるメインテーマも含めた BGMの数々がふんだんに使用されていました。真実はいつもひとつ! まぁ、最近の我が『長岡京エイリアン』の動向をごらんいただいてもおわかりの通り、私自身はコナンくんにかんしては完全な門外漢なんですけどね……ジッチャンの名にかけて!!

 はて、この作品は名探偵も犯罪者も、殺人も爆弾テロもない、「いいひとと神さま」が中心となった寓話であるはずなのです。それなのに、なんでまた勧善懲悪な暑苦しいまでの大野克夫サウンド(言うまでもなく『太陽にほえろ!』イズム)が随所で炸裂してしまうのでありましょうか?

 ここではたと思いいたってしまうのが、他ならぬ主人公「シェンテ」の、尋常でない「いいひとっぷり」、つまりは社会のルールを凌駕した異常な才能の生み出す悲劇としての『ゼチュアンの善人』、という構図なのです。


 この作品に登場する売春婦のシェンテ(演・大倉マヤ)は、ある日突然、まさに文字通り「天から降ってきた」かのように神さま(演・志賀亮史)から与えられた大金(三条会版では100万円、原作では1000銀ドル)を使い、家主のミーチュウ(演・渡部友一郎)から空き店舗を借りてタバコ屋の経営を始めます。ところが、もともと貧しい人々ばかりのゼチュアンで急に裕福になったシェンテの周囲には、頼みごとを断りきれないシェンテの天性の「いいひと」ぶりにつけこんで、元タバコ屋のおばちゃんシン(演・立崎真紀子)や家のない8人家族(演・羽鳥嘉郎)、シンに払ってもらえない改築費をシェンテに肩代わりしてもらおうともくろんで怒鳴り込む建築業者のリントー(演・小田尚稔)といったうすぎたない面々がむらがり、シェンテの富をふんだくってやろうと画策しだします。
 いいひとであるがゆえに、せっかく神さまからいただいた幸せをまったくの無に帰してしまう危機に瀕したシェンテは、その富を守り抜くために、「いいひとでない冷酷なリアリスト」としての架空の人物「いとこのシュイタ」に変装し、ゼチュアンの人々をあざむきながら多くの障害をバッサバッサと切り捨て、自身のタバコ業を発展させていく経営者を演じるという二重生活をえらぶのですが……


 今回の三条会バージョンでは豪快にカットされているのですが、原作ではシェンテが神さまから大金をもらったのは、「いいひとが一定数いなかったら世界を滅ぼす」というものすごいスケールのリサーチのために中国を放浪していた3人の神々を、シェンテが無償で自分のアパートに泊めたため、その宿賃として……という経緯が序盤で描かれています。さらに言えば、原作では神さまが3人であることに加えて、神さまにはシェンテの行動を逐一報告してくれる「水売りのワン」という狂言回し的なキャラクターがついているのですが、ワンもまた、三条会版ではカットされています。え? ワンだと……そうか、だから三条会版の神さまはいたるところで犬のマネをしていたのか! なんという一人二役!!
 原作のワンは非常に軽いスタンスのユーモアあふれる小市民で、シェイクスピアの戯曲にでも出てきそうな(『真夏の夜の夢』の妖精パックとか、『ヴェニスの商人』の召使ランスロットとか)、いかにも演劇っぽい立ち位置の好人物なのですが、このシェンテと神さまとの重要なパイプラインをとっぱらったことによって、三条会版の作品は原作よりもさらにぐっと接近した距離で神さまがず~っとシェンテを見つめている、という「せつない神さま効果」がアップしたと感じました。そりゃせつないですよ! 近くにいるのにシェンテの行動にいっさい手を出さない(出せない?)神さまの、寂しい孤独感。『神々のたそがれ』ならぬ、「たそがれる神さま」よ!

 ところで、ある人物が他人に変装、しかも別の性別の人間になりすまし、それがちゃんと功を奏してかなり長い期間周囲の人間をだましおおせている、という流れをみますと、いかにも神さまが『シンデレラ』の魔法使い的なくるくるミラクルパワーをもってシェンテに特殊能力をさずけているような気がするのですが、シェンテの変装は完全に彼女ひとりのたゆみない努力のたまものでありまして、神さまはまるで感知していません。つまり、この作品における神さまは、シェンテにちょっとした大金を払っただけのおじさんなんですね! なんだチミは!? とんでもねェ、あたしゃ神さまだよ!!


 ストーリーを追っていくと、シェンテは確かに殺人のような重罪は犯していないものの、他でもない本人が「罪悪感を持っている」であろうことはまず間違いない、他人をだまして二重生活を続けるという「罪」を背負って生きていることがわかります。シュイタとして自分のタバコ屋店舗の間借り保証人となっていることもまごうことなき犯罪っちゃあ犯罪なんですが、それ以上に、今まで同じ最底辺の生活の中で生きていたゼチュアンの人々を次々と自分のタバコ事業の労働者として組み入れていき、冷酷であるがゆえの合理的経営からまたたくまに大企業に成長してしまったタバコ会社のトップに君臨することによって、彼らから多くのものを半永久的に搾取し続ける側の「支配者」になってしまったシェンテ。それにしても、神さまの手をいっさい借りずに完璧に男性に変装して、タバコ屋を大企業に発展させていくシェンテの万能感がハンパありません。こういうトントン拍子なリズムもたいがいおとぎ話っぽいんですが、そこを軽快に演じていく大倉さんの天衣無縫さには、あらためて畏れ入りました。なんかこう、完全に「逆ジャンヌダルク」って感じなんですよね、その祝福のされっぷりが。
 神さまに見いだされた女性っていうと、たいがい近寄りがたい神経質さとか、悲劇に直結するヒステリックさがありそうな先入観があるんですが、そこらへんに正々堂々と「異議あり!」を唱えたブレヒトの意志を全身で理解した名演だと見受けました。
 ただ単に「朝が気持ちいい」ということだけにあんなに感動するシェンテ……これはまさに、社会に適合できないレベルの「いいひと」さですよね。

 さて、まず最初に「神さまからの贈りものを守りたい」というピュアな想いがあったことは真実であったとしても、その結果、シュイタを生んで自分が選んでしまった人生は果たして、「いいひと」をまっとうしていると胸を張って神さまに言えるものなのか、どうか?

 この問いに苦しむ後半のシェンテのたたずまい、そして、シェンテとシュイタの関係にいいかげん「あれ……なんかヘンだぞ?」と周囲が疑問をいだき始めた末にたどり着く、「シェンテ拉致監禁容疑」の裁判クライマックス。
 これは明らかに、終盤でこの『三条会のゼチュアンのぜんにん』という作品が、シェンテという一人の「心理的犯罪者」の視点からつづられていた告白の物語、つまりは、最初から犯人がわかっている「倒叙ものミステリー」形式だったということを示しています。
 なるほど、これで、8人家族をひとりで演じていた俳優が盛り上がったときに『名探偵コナン』のテーマを情熱的に唄いあげていた意図がわかりました。彼は名探偵でこそありませんが、シェンテとシュイタが同一人物であるという疑惑にいち早く気づいていた急先鋒だったのです。イヤなやつだねぇ~!

 こう考えたときに私の脳裏に浮かんだのは、同じように主人公が冒頭から切々と恐るべき犯罪の物語をつむいでいき、終盤で「ちろっ。」とだけあらわれた名探偵にすべての真実を知られたと悟った瞬間に、驚くべきいさぎよさで「人間打ち上げ花火」と化して自身の築き上げた一大理想郷の上空で華と散る、という筋の、江戸川乱歩の超々々々々名作『パノラマ島綺譚』(1926~27年)でした。この作品でも、主人公はある別の人物に、そりゃあもう涙ぐましいまでの努力の末になりすまし、心ゆくまで犯罪をおかしとおします。そして、名探偵(北見小五郎と名乗るが、どこからどう見ても明智小五郎!)は、彼の犯罪はいっさい防げませんでしたが、すべてを知っているというドヤ顔で彼に引導を渡すのです。
 似てる! 似てはいるんですが、犯人が明確な神さまではなく、自分がその神さまにさえなりすまして創造したパノラマ島に「ほんとうの神」を幻視しているという『パノラマ島綺譚』(『ゼチュアンの善人』より20年早い)のほうが数段「いっちゃってる」気がするのですが、まぁそれはいいでしょう。

 私はつねづね、1970年代まるだしの『名探偵コナン』BGM の美しいまでのダサさに「いまさら、なぜ?」という疑問をいだいていたのですが、それはコナン君の設定の「ありえなさ」からくるヒーロー性と同時に、「ほぼ週に1回」というバカバカしいペースでバカバカしいトリックに自分の人生を賭けた末に、年がら年じゅう七五三みたいな格好をしたいけすかないガキンチョにすべてを暴露されて人生を終了させる無数の無辜の犯罪者たちにささげる鎮魂歌の役割も果たしているという両輪体制のもとに成立した帰結なのだなぁ、と、なぜか三条会のお芝居を観て確信いたしました。どんな事情があるのだとしても、犯罪は哀しい末路しか生み出さない……ダメ、ゼッタイ!!

 ちなみに、「他人になりすます」という行為が、それによって利益を騙し取ったり他人を殺したりするといった犯罪につながらなかったのだとしても、他人を心配させるという「まごころ」の面において立派な罪になる、というポイントを的確に突いた早すぎる名作(1891年)に、他ならぬコナン=ドイル卿の「名探偵シャーロック=ホームズ」シリーズの「ある作品(ネタバレになるのでタイトルなし!)」があるわけなのですが、これをみごとに映像化したグラナダTV 版のエピソードもまた、原作になかったエピローグにおける、犯人のえもいわれぬ「せつない」表情が印象的な大傑作になっていましたね。

 なんにせよ、「自分でない何かになる」という願望が具現化したシェンテの変身は、作品上はこれみよがしな仮面と衣装でコミカルに処理されていたのだとしても、現実的な「やっちゃいけないことをやっちゃう魅力」に満ち満ちた実にデンジャラスなものなのです。危険な、か、ほ、り!


 さて、こういったシェンテの「ぜんにん」であるがゆえの「はんにん」の物語、というポイントにだいぶ字数をさいてしまいましたが、三条会版の今回の公演は、それを抜きにしても、実に多彩な「ヘンなやつら」が主人公シェンテにまとわりつくという、バラエティ豊かな群像劇になっていました。まぁ、群像劇っつうか……『うる星やつら』?

 神さまから大金をもらった時点でシェンテは夜のお仕事を早々にやめるわけなのですが、そんな彼女にも、またたくまに2人の恋人ができます。ひとりはシェンテの財力を目当てに近寄る失業中の飛行機乗りヤンスン(演・平川綾子)、もうひとりはシェンテの日ごろのいいひとっぷりにすっかり心酔してしまう、向かいの床屋の主人シュウフー(演・大谷ひかる)。シュウフーさんは床屋ですが、シェンテのためなら1千万円(原作では1万銀ドル)さえも引き出せる小切手をポンとプレゼントしてくれるという、たいへんな財産家です。あれ……神さまの10倍ありがたいんですけど、この人。

 ヤンスンはシェンテを妊娠させてしまうし、シュウフーもシェンテのタバコ会社の重要な株主になるわけなのですが、そういったいいとこどりな三角関係を「いとこシュイタ」をうまく使いながら続けつつも、シェンテの心は常に、恋人との恋愛にはおぼれきらない「あらぬ方向」を見つめ続けているような気がします。
 ここが三条会版のおもしろいところだと思うのですが、今回の公演では、シェンテに言い寄る2人の男性を、どちらも女優が演じているのです。自分自身に財力のないヤンスンなんかは、そのぶん情熱的でロマンティックな名ゼリフの数々をぶっぱなしてシェンテを籠絡しようと接近するわけなのですが(雨の夜のシーンなんか、必殺技レベルの名言のオンパレード!)、そこにはどことなく、シェンテとのあいだに今ひとつ埋めがたいウソっぽさというか、スキマ風が生じているような気がします。

 そして、シェンテとの直接のやり取りはほとんどないものの、シェンテの真実を、原作の戯曲以上に近い距離で見つめ続けている神さまは、男性の俳優が演じています。

 う~む、深い!! 劇中でその目と目があう機会はゼロに近い「はんにん」と「神さま」。そのすれ違いの哀しい味わいこそが、あの神さまのたそがれた背中と、犬の遠吠えのマネに隠されたエッセンスだったのです。せつねぇ~!!


 ほ~ら、そんな感じでいつもどおりにペースをぜんぜん考えずにくっちゃべってたら、あっというまに字数が1万字ちかくなっちゃった。

 他にもいろいろ感じたことは山ほどあったわけなんですが、ともかく今回の三条会公演は、原作の『ゼチュアンの善人』をただ戯曲に忠実に舞台化するだけでは伝わらなかったであろう、コミカルなおとぎ話の裏に隠された「作者でさえも放棄せざるを得なかったテーマの深刻さ」を、またしても誠実にお客さんに提示してみせる作品になっていたと思います。「未完であること」を、ブレヒトが包み隠さず役者のセリフを通じて告白して終演するという、『新世紀エヴァンゲリオン』を半世紀さき取った『ゼチュアンの善人』。よくぞまぁ、真の意味で舞台化してくださいました。未完になったことを正直に……って、作者もどんだけいいひとなんですか!? ブレヒト、あざとい!!

 今回の公演は、三条会の俳優の榊原毅さんが、おそらくはスケジュールの都合で出演できないという珍しい作品になったわけですが、そこをうまく逆手にとって、アツいパワーを惜しげもなくさらけだすタイプとはまた違った俳優さんが集まって、中心がないようなあるような、リーダーがいないようないるような……といった、実に「犬っぽい」不思議な町ゼチュアンを形成している空気感がとてものんびりしていて、素敵でした。
 それだけに、JUDY AND MARY の名曲『 DAYDREAM 』にのせて展開されるクライマックスの激しさも胸に迫るものがあり。またいい曲を持ってきましたなぁ!


 う~ん、他にも、町のおまわりさん役の平井優子さんが絶妙だったとか、演出家として活動している方(志賀さんと羽鳥さん)を俳優として起用したことのものすごさとか、三条会の過去の公演をほうふつとさせる要素の数々(『メディア』、『砂の女』、『ひかりごけ』etc.)とか、記しておきたいことはまだまだあるのですが、とにもかくにも、

『三条会のゼチュアンのぜんにん』、おもしろかったよー!!

 ということで、ひとつ。


 「 GOD 」と「 DOG 」って、ねぇ……ステキよね。
コメント
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