この間、新しい記事を書くことはおろかコメントに対する返信もままならない状態でした。コメントをしてくださった皆様、申し訳ございませんでした。以下は、薩長公英陰謀論者さんからいただいた「黒船来航神話」の虚構をはがす内容の投稿です。多くの方々に読んでいただきたいので、新記事としてアップいたします。ペリー艦隊の来航に「幕府」があわてふためいて狼狽したという俗説が、明治維新を正当化するために明治以降に作られた「神話」であるということです。実際には万全の体制を整え、公儀は手ぐすね引いてペリーの来航を待っていたのだ、と。
ご存知の方も多いと思いますが、「太平の眠りを覚ます上喜撰 ( じょうきせん )、たった 四杯で夜も眠れず」という狂歌は、ペリー来航時に詠まれたものではなく、ペリー来航から25年後の明治11年に詠まれたものだそうです。以下のサイト参照。
http://homepage3.nifty.com/yoshihito/joukisen.htm
最近の教科書はどうか知らないのですが、私が中高生のころは、あたかもこの歌がペリー来航当時に江戸市中で詠まれたものであるかのように教わったものでした。明らかに、教科書で堂々とウソが教えられていたわけです。これも、長州史観のプロパガンダといえるでしょうか。「幕府」が狼狽し、外交能力がなかったかのような虚構をねつ造することで、日本人全体に明治維新の「正当性」なるものを刷り込もうとする意図を感じます。
当時の江戸公儀にとって最大の「脅威」はペリーではなく、徳川斉昭でした。ペリー来航を積極的に利用して通商条約の締結にまで持ち込もうとした老中・松平忠優(後の忠固)らの思惑に対して、徳川斉昭は観念的攘夷論を振りかざして駄々をこねまくってそれを阻止し、忠優を失脚に追い込み、その後の政局を迷走・混乱に導いたのです。
*********
以下引用です。
http://blog.goo.ne.jp/reforestation/e/d36d7e3c416948dde1b39cacf21b73a6
軍事オタクから見たペリー艦隊来航。長州史観のロゼッタ・ストーン。 (薩長公英陰謀論者)2015-06-14 20:24:28
長州史観のロゼッタ・ストーンたりうるかと、維新近代化物語の始点であるペリー艦隊来航について、軍事オタクの見方を殴り書きしてみます。
1853年に浦賀沖に姿をあらわしたペリー艦隊4隻は、外輪蒸気艦2隻と、蒸気艦のために甲板まで石炭を満載した帆走艦2隻から成っていました。外輪蒸気艦を当時「最大最新鋭のハイテク艦」と思うのは無知の極み。すでに時代遅れの使いようがない無用弱体艦であり、これを外用遠征に運用するのは無理がありすぎるものでした。
外輪方式は波のない河川やせめて近海専用のもので穏やかな水面での低速走行以外は燃料効率は最悪、波浪の高い外洋では左右のバランスが取れないため操船不能で結局帆走となり外輪が無用の抵抗となります。
対艦戦闘においては運動性は劣悪で、深刻なことは、舷側にあって狙いやすい大きな外輪が砲撃を喰らうと身動きが取れなくなることで、小型で機敏な帆走艦のほうがよほど戦闘力にまさるわけです。
ペリーは対メキシコ戦争の際に、陸地に対する艦砲射撃による威圧効果をねらって大型の外輪艦を集中投入しようとしましたが、全艦が完成する前に戦争が終わってしまい、無用の長物たちに対する非難をそらすために東洋艦隊の編成と日本遠征という壮大な計画を考えたのだと睨みます。
当時の欧米の眼は広大な市場である大陸中国を見ており、日本列島はそのためのたんなる踏み台でした(現在においてなお?)。日本列島を大陸への踏み台にする必要があったのは太平洋をはさむ米国のみで、インドを経由してくる英国にとってはそのような踏み台は無用だったのです。
しかし、波浪に弱く燃費最悪の外輪艦で一気に太平洋を渡ることはできず、ペリーは石炭を補給しながら陸づたいにはるばる来航せざるを得ませんでした。ちなみにペリー来航を奇貨として、その直後に江戸公儀は先訓をあらため外洋大型船をオランダに発注、それは時代に遅れないスクリュー船でした。船酔いで意気地なく倒れたままだった勝海舟を乗せて太平洋を一気に渡った、かの咸臨丸です。
それはそれとして、石炭を節約して帆走で海をわたり、陸地から見えるところに来て勇躍釜を焚いて黒煙をモクモクと吐いて威圧しようとしたアメリカ人らしく単純な自己肥大オツムのペリーさんの自慢的議会報告である、ペルリ提督『日本遠征記』二巻目(岩波文庫、1948年)から引用します。
p220以下(日本側のはじめての乗艦):
香山栄左衛門とその随員たちは極めて上機嫌らしく、サスケハンナ号の士官たちの供した歓待に快く甘えて、極めて立派な教養を示す洗練された態度でそれを受け、それに答えたのであった。・・・奉行は特に外国製のリキュールが好物らしく、殊にそれに砂糖を混ぜたのを賞味し、大きく舌鼓を打ちながら一滴も残さず飲み乾したほどであった。通訳たちは歓楽を尽くして気も楽になり、奉行の陶然たる姿を見て心も軽く笑ひながら、栄左衛門が飲みすぎないようにとの心遣いを述べて、『も早やお顔が赤くなっている』と注意したのであった。
彼らの知識や常識も、その高尚な態度や物腰に比して決して劣らぬものであった。・・・地球儀を面前に置いて、それに書いてある合衆国の地図に注意を促すと、すぐさまワシントンとニューヨークに指を置いた。あたかも一方が吾国の首府にして、他方が商業の中心地であることを知悉しているかの如くであった。
彼等は又地峡横断の運河がもう完成したかどうかとも訊ねた。これは恐らく当時建設中のパナマ鉄道のことを指していったのであらう。兎に角彼等はそれが両大洋を結びつけるために行われている事業たることを知っていたのであって、・・・
彼等は艦内各種の装置全部に対して理知的な興味を抱き、大砲を観察して、それは『ペーザン』型であると正確に語ったのであったが、完備した蒸気船内にある驚異すべき技術と機構とをはじめて見た人々から当然期待される驚愕の態度を少しも現はさなかった。
p204(日曜日に好奇心でペリーとおしゃべりにと出かけた高位の武士たち):
その翌日は日曜日で・・・日本役人たちとの交渉は一切行われなかった。けれどもその日、縞の旗を立てた一艘の小船が漕ぎ寄せてきた。・・・彼等はゆっくりと扇子をつかっていた。彼等は明らかに名だたる人々で、同じように聡明な顔をしており、また著しく慇懃な態度であった。舷側にやって来てから同行の通訳に通じて乗船の許しを請うた。提督へ用件があるのかと訊ねると、用件はないが唯話をしたいのだと答へたので、提督の命令によって応接することができない旨を鄭重に答へた。
p190(ファースト・コンタクト):
やがて一隻の防備船が旗艦の舷側に横付けとなった。・・・サスケハンナ号の士官はそれを受け取るのを拒絶した。・・・それはフランス語で書かれた文書で、貴艦は退去すべし・・・といふ趣旨の命令が書かれているのを発見した。・・・横付けにした防備船上の一人は甚だ立派な英語で『余は和蘭語を話すことができる』と語った。彼の英語はこれだけ云うのが精一杯らしかったから、ポートマン氏は和蘭語で彼と会話を始めた。けれども彼は和蘭語に熟達していると見えて、矢継ぎ早にいろいろな質問を浴びせかけたが、・・・。彼は艦隊がアメリカからやって来たのかどうかと尋ねた。そして、アメリカから来た船なることを期待しているようであった。
<引用以上>
いかがでしょうか。ペリー艦隊の実像と舞台裏を江戸公儀はオランダからの情報で充分に認識していたと思います。「たった四杯で夜も眠れず」という黒船神話が長薩一派のプロパガンダというより、フィクションであったことが、わずかの引用で示されると思います。
p190の記述はきわめて重大であると思います。江戸公儀は、米国からのコンタクトを読み、期待し、待っていたのです。インドで、またアヘン戦争でメチャクチャやったイギリスではなく、そのイギリスと戦って独立したアメリカと、アジア進出で出おくれながらイギリスとなんとか対抗したいアメリカと、まず最初に国交をむすびたいと。こう考えたのは、関さん、松平忠固ですね。
ペリーが浦賀にやってくると読んで、長崎から最優秀のオランダ語通訳を呼び寄せて待ち受けていたのですから。
*************************
ペリー艦隊蒸気外輪艦に関する参考記事の報告ならびに、6月24日の本ブログ記事とコメントのお礼(その1)。
(薩長公英陰謀論者)2015-06-25 00:57:28
先の投稿の「黒船」外輪蒸気艦に関する部分は、記憶に頼って腰だめで、勢いに任せて書いたものであることをお詫びします。
後ればせながら、その内容と符合する記述を日本海事科学振興財団 「船の科学館 資料ガイド4 黒船来航 ペリー艦隊の実像に迫る」に見つけました。該当部分を抜粋引用します。
念のために・・・1853年に浦賀沖に来航した4隻は、蒸気フリゲート艦の「サスケハナ」と「ミシシッピ」、帆走スループの「サラトガ」と「プリマウス」でした。翌年の再来航に加わった蒸気艦が「ポーハタン」で、この蒸気艦3隻すべて「外輪」艦です。
「ミシシッピ」は1841年の完成当時は革新的な新鋭蒸気艦でした。浦賀に来航したペリー艦隊には建造後12年目に加わったわけです。「サスケハナ」と「ポーハタン」は米メキシコ戦争(1846年~1848年)の最中1847年起工で、米メキシコ戦争終結後の1850年に完成し、米国「東インド艦隊」に配属されています。
なお、先の投稿での外輪船に関する言及をオタク的知識というのはまことに口幅ったく、外輪船・外輪軍艦の特徴と問題点はウィキペディア(「蒸気船」)を含め随所に言及されておりました。ひとりよがりを恐縮いたしますとともに、ここでは逐一の参照を略させていただきます。
<以下最後まで、首記記事からの抜粋引用です。項番と見出しは投稿者のものです>
https://nippon.zaidan.info/seikabutsu/2003/00915/contents/0007.htm
01 ペリー艦隊の一員として浦賀に来航する12年前に完成した当時は世界最新鋭艦だった蒸気外輪艦「ミシシッピ」:
・・・1837年になってやっと“フルトン”II(1,011排水トン)が建造されました。“フルトン”IIは沿岸警備用の軍艦ですが、・・・。この艦の艦長になったのが後のペリー提督です。彼は蒸気艦の建造に熱心で、“フルトン”II をワシントンまで回航し大統領や有力な政治家に見せて蒸気艦のPRに務めました。その努力が実って1839年に新たに2隻の大型蒸気軍艦の建造が認められました。これが “ミシシッピ” と “ミズーリ” です。・・・ペリーは蒸気軍艦の建造を熱心に推進したので、後にアメリカで「蒸気軍艦の父」と呼ばれるようになりました。
“ミシシッピ” と “ミズーリ” は排水量が共に3,220トンで、“ミシシッピ” が1841年12月、“ミズーリ” が1842年2月に完成しました。この2隻はアメリカ海軍で最初の本格的な航洋蒸気艦でした。しかし“ミズーリ”は処女航海で・・・火災が発生し焼失しました。
02 世界最初の蒸気スクリュー艦「プリンストン」は故障多発のため「ペリー来航」4年前に廃艦に;
・・・ その後1840年代には“ミシガン”(604排水トン)、“プリンストン”(1,046排水トン)、“ユニオン”(956排水トン)、“ウォーターウィッチ”(190排水トン)、“アレゲニー”(1,020排水トン)が建造されました。 “ミシガン” は1843年に完成した鉄製の外車蒸気艦ですが、五大湖の警備用に建造された艦です。“プリンストン” は1843年の完成ですが、・・・世界で最初のスクリュー艦でした。・・・“プリンストン” は故障が多く、1849年に廃艦になりました。
03 米メキシコ戦争で活躍、同戦争中に増強がきまり急きょ建造された蒸気外輪艦4隻は同戦争終結後に完成し、そのうち大型艦2隻が米海軍東インド艦隊に配属されて「ペリー来航」に参加:
・・・1846年5月に始まったアメリカとメキシコとの戦争で蒸気艦の性能が評価されて、アメリカ議会は1847年に4隻の蒸気艦の建造を承認しました。この時建造された4隻の内訳は“サスケハナ”(3,824排水トン、外車、1850年完成)、“ポーハタン”(3,865排水トン、外車、1852年完成)、“サラナック”(2,200排水トン、外車、1850年完成)、サン・ジャシント(2,200排水トン、スクリュー、1851年完成)です。“サン・ジャシント”は蒸気機関の故障が多く1854年に別の蒸気機関に換装されました。この艦もペリー艦隊に参加する予定でしたが、結局不可能になりました。
04 ペリーの日本遠征記には「ペリー艦隊」と米海軍の主力蒸気艦が時代遅れになっていたことを嘆く記述がある(記載箇所確認中):
・・・ 1840年代のアメリカ海軍は“ミシシッピ”のようなオーソドックスな設計より、一風変わった設計に肩入れする風潮があったと思われます。このため失敗作が多く、技術の進歩も停滞したのでしょう。この事実をペリーは「日本遠征日記」の中で次のように述べています。
「蒸気艦を持つ世界中のあらゆる国、あらゆる民間蒸気船会社は航洋蒸気船の改良という点については、あらゆる分野で我が海軍より進んでいるのが真実である。その事を残念ながら告白せざるを得ない。この艦(注:“ミシシッピ”)と“ミズーリ”はわが海軍に導入された最初の航洋蒸気艦であるが、一時は世界における最初の本格的な蒸気艦とまで断言された。その後我々は軍艦建造技術において進歩したというよりむしろ後退して来た」
この文から40年代の初めには世界の最先端を走っていたのにその後、技術開発の方向が横道にそれたので世界の第一線から遅れを取った状況を残念に思う気持ちがにじみ出ています。なお1850年代の後半になるとオーソドックスな設計の蒸気軍艦の建造が加速され、1850年代の末には蒸気軍艦の整備が急速に進展しました。この結果アメリカ海軍はイギリス、フランスに次いだ海軍力を誇るようになりました。
・・・外車の直径は31フィート(9.45メートル)で1分間に12回転というゆっくりしたスピードで回ります。外車の先にはフロートと呼ばれる水かき板が取り付けられていて、これが水をかいて船を動かします。蒸気機関を止めて帆だけで航走する時には、この板をそのままにしておくと水の抵抗で速力が落ちるので、これを取り外しますが、この作業は好天の時しかできません。また時間も2、3時間かかるので、・・・汽走と帆を併用して走ることが多かったようです。
なお、ペリーの「日本遠征日記」によるとイギリスの軍艦は外車の軸と蒸気機関の駆動軸の間を簡単に脱着できる装置がついており、わずか2、3分で外車を遊転させることが可能で、水かき板を取り外さなくても済むようになっていました。
以上です。思い立って取り急ぎ。「開国黒船神話」の鱗を剥がすために。
ご存知の方も多いと思いますが、「太平の眠りを覚ます上喜撰 ( じょうきせん )、たった 四杯で夜も眠れず」という狂歌は、ペリー来航時に詠まれたものではなく、ペリー来航から25年後の明治11年に詠まれたものだそうです。以下のサイト参照。
http://homepage3.nifty.com/yoshihito/joukisen.htm
最近の教科書はどうか知らないのですが、私が中高生のころは、あたかもこの歌がペリー来航当時に江戸市中で詠まれたものであるかのように教わったものでした。明らかに、教科書で堂々とウソが教えられていたわけです。これも、長州史観のプロパガンダといえるでしょうか。「幕府」が狼狽し、外交能力がなかったかのような虚構をねつ造することで、日本人全体に明治維新の「正当性」なるものを刷り込もうとする意図を感じます。
当時の江戸公儀にとって最大の「脅威」はペリーではなく、徳川斉昭でした。ペリー来航を積極的に利用して通商条約の締結にまで持ち込もうとした老中・松平忠優(後の忠固)らの思惑に対して、徳川斉昭は観念的攘夷論を振りかざして駄々をこねまくってそれを阻止し、忠優を失脚に追い込み、その後の政局を迷走・混乱に導いたのです。
*********
以下引用です。
http://blog.goo.ne.jp/reforestation/e/d36d7e3c416948dde1b39cacf21b73a6
軍事オタクから見たペリー艦隊来航。長州史観のロゼッタ・ストーン。 (薩長公英陰謀論者)2015-06-14 20:24:28
長州史観のロゼッタ・ストーンたりうるかと、維新近代化物語の始点であるペリー艦隊来航について、軍事オタクの見方を殴り書きしてみます。
1853年に浦賀沖に姿をあらわしたペリー艦隊4隻は、外輪蒸気艦2隻と、蒸気艦のために甲板まで石炭を満載した帆走艦2隻から成っていました。外輪蒸気艦を当時「最大最新鋭のハイテク艦」と思うのは無知の極み。すでに時代遅れの使いようがない無用弱体艦であり、これを外用遠征に運用するのは無理がありすぎるものでした。
外輪方式は波のない河川やせめて近海専用のもので穏やかな水面での低速走行以外は燃料効率は最悪、波浪の高い外洋では左右のバランスが取れないため操船不能で結局帆走となり外輪が無用の抵抗となります。
対艦戦闘においては運動性は劣悪で、深刻なことは、舷側にあって狙いやすい大きな外輪が砲撃を喰らうと身動きが取れなくなることで、小型で機敏な帆走艦のほうがよほど戦闘力にまさるわけです。
ペリーは対メキシコ戦争の際に、陸地に対する艦砲射撃による威圧効果をねらって大型の外輪艦を集中投入しようとしましたが、全艦が完成する前に戦争が終わってしまい、無用の長物たちに対する非難をそらすために東洋艦隊の編成と日本遠征という壮大な計画を考えたのだと睨みます。
当時の欧米の眼は広大な市場である大陸中国を見ており、日本列島はそのためのたんなる踏み台でした(現在においてなお?)。日本列島を大陸への踏み台にする必要があったのは太平洋をはさむ米国のみで、インドを経由してくる英国にとってはそのような踏み台は無用だったのです。
しかし、波浪に弱く燃費最悪の外輪艦で一気に太平洋を渡ることはできず、ペリーは石炭を補給しながら陸づたいにはるばる来航せざるを得ませんでした。ちなみにペリー来航を奇貨として、その直後に江戸公儀は先訓をあらため外洋大型船をオランダに発注、それは時代に遅れないスクリュー船でした。船酔いで意気地なく倒れたままだった勝海舟を乗せて太平洋を一気に渡った、かの咸臨丸です。
それはそれとして、石炭を節約して帆走で海をわたり、陸地から見えるところに来て勇躍釜を焚いて黒煙をモクモクと吐いて威圧しようとしたアメリカ人らしく単純な自己肥大オツムのペリーさんの自慢的議会報告である、ペルリ提督『日本遠征記』二巻目(岩波文庫、1948年)から引用します。
p220以下(日本側のはじめての乗艦):
香山栄左衛門とその随員たちは極めて上機嫌らしく、サスケハンナ号の士官たちの供した歓待に快く甘えて、極めて立派な教養を示す洗練された態度でそれを受け、それに答えたのであった。・・・奉行は特に外国製のリキュールが好物らしく、殊にそれに砂糖を混ぜたのを賞味し、大きく舌鼓を打ちながら一滴も残さず飲み乾したほどであった。通訳たちは歓楽を尽くして気も楽になり、奉行の陶然たる姿を見て心も軽く笑ひながら、栄左衛門が飲みすぎないようにとの心遣いを述べて、『も早やお顔が赤くなっている』と注意したのであった。
彼らの知識や常識も、その高尚な態度や物腰に比して決して劣らぬものであった。・・・地球儀を面前に置いて、それに書いてある合衆国の地図に注意を促すと、すぐさまワシントンとニューヨークに指を置いた。あたかも一方が吾国の首府にして、他方が商業の中心地であることを知悉しているかの如くであった。
彼等は又地峡横断の運河がもう完成したかどうかとも訊ねた。これは恐らく当時建設中のパナマ鉄道のことを指していったのであらう。兎に角彼等はそれが両大洋を結びつけるために行われている事業たることを知っていたのであって、・・・
彼等は艦内各種の装置全部に対して理知的な興味を抱き、大砲を観察して、それは『ペーザン』型であると正確に語ったのであったが、完備した蒸気船内にある驚異すべき技術と機構とをはじめて見た人々から当然期待される驚愕の態度を少しも現はさなかった。
p204(日曜日に好奇心でペリーとおしゃべりにと出かけた高位の武士たち):
その翌日は日曜日で・・・日本役人たちとの交渉は一切行われなかった。けれどもその日、縞の旗を立てた一艘の小船が漕ぎ寄せてきた。・・・彼等はゆっくりと扇子をつかっていた。彼等は明らかに名だたる人々で、同じように聡明な顔をしており、また著しく慇懃な態度であった。舷側にやって来てから同行の通訳に通じて乗船の許しを請うた。提督へ用件があるのかと訊ねると、用件はないが唯話をしたいのだと答へたので、提督の命令によって応接することができない旨を鄭重に答へた。
p190(ファースト・コンタクト):
やがて一隻の防備船が旗艦の舷側に横付けとなった。・・・サスケハンナ号の士官はそれを受け取るのを拒絶した。・・・それはフランス語で書かれた文書で、貴艦は退去すべし・・・といふ趣旨の命令が書かれているのを発見した。・・・横付けにした防備船上の一人は甚だ立派な英語で『余は和蘭語を話すことができる』と語った。彼の英語はこれだけ云うのが精一杯らしかったから、ポートマン氏は和蘭語で彼と会話を始めた。けれども彼は和蘭語に熟達していると見えて、矢継ぎ早にいろいろな質問を浴びせかけたが、・・・。彼は艦隊がアメリカからやって来たのかどうかと尋ねた。そして、アメリカから来た船なることを期待しているようであった。
<引用以上>
いかがでしょうか。ペリー艦隊の実像と舞台裏を江戸公儀はオランダからの情報で充分に認識していたと思います。「たった四杯で夜も眠れず」という黒船神話が長薩一派のプロパガンダというより、フィクションであったことが、わずかの引用で示されると思います。
p190の記述はきわめて重大であると思います。江戸公儀は、米国からのコンタクトを読み、期待し、待っていたのです。インドで、またアヘン戦争でメチャクチャやったイギリスではなく、そのイギリスと戦って独立したアメリカと、アジア進出で出おくれながらイギリスとなんとか対抗したいアメリカと、まず最初に国交をむすびたいと。こう考えたのは、関さん、松平忠固ですね。
ペリーが浦賀にやってくると読んで、長崎から最優秀のオランダ語通訳を呼び寄せて待ち受けていたのですから。
*************************
ペリー艦隊蒸気外輪艦に関する参考記事の報告ならびに、6月24日の本ブログ記事とコメントのお礼(その1)。
(薩長公英陰謀論者)2015-06-25 00:57:28
先の投稿の「黒船」外輪蒸気艦に関する部分は、記憶に頼って腰だめで、勢いに任せて書いたものであることをお詫びします。
後ればせながら、その内容と符合する記述を日本海事科学振興財団 「船の科学館 資料ガイド4 黒船来航 ペリー艦隊の実像に迫る」に見つけました。該当部分を抜粋引用します。
念のために・・・1853年に浦賀沖に来航した4隻は、蒸気フリゲート艦の「サスケハナ」と「ミシシッピ」、帆走スループの「サラトガ」と「プリマウス」でした。翌年の再来航に加わった蒸気艦が「ポーハタン」で、この蒸気艦3隻すべて「外輪」艦です。
「ミシシッピ」は1841年の完成当時は革新的な新鋭蒸気艦でした。浦賀に来航したペリー艦隊には建造後12年目に加わったわけです。「サスケハナ」と「ポーハタン」は米メキシコ戦争(1846年~1848年)の最中1847年起工で、米メキシコ戦争終結後の1850年に完成し、米国「東インド艦隊」に配属されています。
なお、先の投稿での外輪船に関する言及をオタク的知識というのはまことに口幅ったく、外輪船・外輪軍艦の特徴と問題点はウィキペディア(「蒸気船」)を含め随所に言及されておりました。ひとりよがりを恐縮いたしますとともに、ここでは逐一の参照を略させていただきます。
<以下最後まで、首記記事からの抜粋引用です。項番と見出しは投稿者のものです>
https://nippon.zaidan.info/seikabutsu/2003/00915/contents/0007.htm
01 ペリー艦隊の一員として浦賀に来航する12年前に完成した当時は世界最新鋭艦だった蒸気外輪艦「ミシシッピ」:
・・・1837年になってやっと“フルトン”II(1,011排水トン)が建造されました。“フルトン”IIは沿岸警備用の軍艦ですが、・・・。この艦の艦長になったのが後のペリー提督です。彼は蒸気艦の建造に熱心で、“フルトン”II をワシントンまで回航し大統領や有力な政治家に見せて蒸気艦のPRに務めました。その努力が実って1839年に新たに2隻の大型蒸気軍艦の建造が認められました。これが “ミシシッピ” と “ミズーリ” です。・・・ペリーは蒸気軍艦の建造を熱心に推進したので、後にアメリカで「蒸気軍艦の父」と呼ばれるようになりました。
“ミシシッピ” と “ミズーリ” は排水量が共に3,220トンで、“ミシシッピ” が1841年12月、“ミズーリ” が1842年2月に完成しました。この2隻はアメリカ海軍で最初の本格的な航洋蒸気艦でした。しかし“ミズーリ”は処女航海で・・・火災が発生し焼失しました。
02 世界最初の蒸気スクリュー艦「プリンストン」は故障多発のため「ペリー来航」4年前に廃艦に;
・・・ その後1840年代には“ミシガン”(604排水トン)、“プリンストン”(1,046排水トン)、“ユニオン”(956排水トン)、“ウォーターウィッチ”(190排水トン)、“アレゲニー”(1,020排水トン)が建造されました。 “ミシガン” は1843年に完成した鉄製の外車蒸気艦ですが、五大湖の警備用に建造された艦です。“プリンストン” は1843年の完成ですが、・・・世界で最初のスクリュー艦でした。・・・“プリンストン” は故障が多く、1849年に廃艦になりました。
03 米メキシコ戦争で活躍、同戦争中に増強がきまり急きょ建造された蒸気外輪艦4隻は同戦争終結後に完成し、そのうち大型艦2隻が米海軍東インド艦隊に配属されて「ペリー来航」に参加:
・・・1846年5月に始まったアメリカとメキシコとの戦争で蒸気艦の性能が評価されて、アメリカ議会は1847年に4隻の蒸気艦の建造を承認しました。この時建造された4隻の内訳は“サスケハナ”(3,824排水トン、外車、1850年完成)、“ポーハタン”(3,865排水トン、外車、1852年完成)、“サラナック”(2,200排水トン、外車、1850年完成)、サン・ジャシント(2,200排水トン、スクリュー、1851年完成)です。“サン・ジャシント”は蒸気機関の故障が多く1854年に別の蒸気機関に換装されました。この艦もペリー艦隊に参加する予定でしたが、結局不可能になりました。
04 ペリーの日本遠征記には「ペリー艦隊」と米海軍の主力蒸気艦が時代遅れになっていたことを嘆く記述がある(記載箇所確認中):
・・・ 1840年代のアメリカ海軍は“ミシシッピ”のようなオーソドックスな設計より、一風変わった設計に肩入れする風潮があったと思われます。このため失敗作が多く、技術の進歩も停滞したのでしょう。この事実をペリーは「日本遠征日記」の中で次のように述べています。
「蒸気艦を持つ世界中のあらゆる国、あらゆる民間蒸気船会社は航洋蒸気船の改良という点については、あらゆる分野で我が海軍より進んでいるのが真実である。その事を残念ながら告白せざるを得ない。この艦(注:“ミシシッピ”)と“ミズーリ”はわが海軍に導入された最初の航洋蒸気艦であるが、一時は世界における最初の本格的な蒸気艦とまで断言された。その後我々は軍艦建造技術において進歩したというよりむしろ後退して来た」
この文から40年代の初めには世界の最先端を走っていたのにその後、技術開発の方向が横道にそれたので世界の第一線から遅れを取った状況を残念に思う気持ちがにじみ出ています。なお1850年代の後半になるとオーソドックスな設計の蒸気軍艦の建造が加速され、1850年代の末には蒸気軍艦の整備が急速に進展しました。この結果アメリカ海軍はイギリス、フランスに次いだ海軍力を誇るようになりました。
・・・外車の直径は31フィート(9.45メートル)で1分間に12回転というゆっくりしたスピードで回ります。外車の先にはフロートと呼ばれる水かき板が取り付けられていて、これが水をかいて船を動かします。蒸気機関を止めて帆だけで航走する時には、この板をそのままにしておくと水の抵抗で速力が落ちるので、これを取り外しますが、この作業は好天の時しかできません。また時間も2、3時間かかるので、・・・汽走と帆を併用して走ることが多かったようです。
なお、ペリーの「日本遠征日記」によるとイギリスの軍艦は外車の軸と蒸気機関の駆動軸の間を簡単に脱着できる装置がついており、わずか2、3分で外車を遊転させることが可能で、水かき板を取り外さなくても済むようになっていました。
以上です。思い立って取り急ぎ。「開国黒船神話」の鱗を剥がすために。
未だつぶさに閲覽してはゐませんが、「長州史觀から日本を取り戻す」と謂ふカテゴリーの論考には、一長州人たる余の立場から紐解いても首肯すべきものが多いです。アスペルガー松陰
を過大評價し、21世紀の當今でもなほ明治維新の呪縛から脱却出來ないことは、實に大多數の山口縣人の宿痾にして日本人の惡弊であり、これからも舌鋒鋭く切り込んで下さいね。
関良基さま:
じつは10数年前、明治維新への興味を突然かき立てたのが、たまたま店頭で手に取った雑誌で見た「ペリー・ショック、黒船来航神話」についての比較的簡単な内容の特集記事でした。
「黒船&上喜撰」が意図的に産生された神話であることにそれまでまったく気づかなかったことに衝撃を受けて今に至ります。
その後、当時の公儀側の対処を冷静に評価する歴史研究者が少なからず現れました。ただし諸文献に触れた限りでは、ペリーの『日本遠征記』(米議会報告)で描かれた状況と、ペリー艦隊のなりたち自体については、関心の対象となってこなかったように思えますことから、思い切って投稿をこころみました。
親切にご覧になり御ウェブログ記事に取り上げていただいて本当にありがとうございます。
関さんのコメントであらためて、「太平の眠りを覚ます上喜撰」・・・と、ながめておりまして、「そうだったのか、泰平つまりおだやかな平和を眠りと言ったのか!」と、その覚せい剤的心理効果の威力に唸りました。
「ペリー・ショック」は、水戸に発し長州で政局を動かす軸に仕立てられた尊皇攘夷の怒号の原点として、後世の歴史教科書まで染め上げたわけです。
あらためて思いますに「近代日本」は平和を「眠り」と誹ることによってつくられていったのかと愕然といたします。いまふたたび?
ネット・ニューズでたまたま見ました長妻昭氏による記事によって恥ずべきことにはじめて「厭離穢土 欣求浄土」という松平元康(徳川家康)の旗印を知り、あわてて見てみましてそのゆえんに触れました。
http://www.huffingtonpost.jp/akira-nagatsuma/ieyasu-tokugawa--peace_b_7861938.html
http://www.okazakicci.or.jp/konwakai/18okazakigaku/18-6.pdf
どうもいまだに長州お家芸らしい、強引なクーデターによって日本列島を千島から琉球まで乗っ取って、富国強兵「天皇制文武絶対官僚支配による侵略主義帝国」に仕立て上げた長州式尊皇攘夷と、彼らによって「眠り」と貶められた平和を希求した「厭離穢土 欣求浄土」とを対比してため息をついております。
しかしいま、厭離穢土が日本のすべてをさすものではないこと、おそらく0.1%をはるかに下回る人びとが目いっぱい敷きひろげた鈍色の迷彩模様の絨毯の上だけのことであろうと信じています。
長州より暖かいエールを賜ったこと、望外の喜びであり、深謝申し上げます。
「アスペルガー松陰」とは言い得て妙でした。
しばらく長州の方々にはご迷惑をおかけいたしますが、安倍首相の暴走が止まるまで、ないし安倍的な政治状況が止まるまでしばし続けざるを得ないと感じております。
本日の『東京新聞』(29面)において、安倍首相が吉田松陰の愛した孟子の言葉「自ら反(かえり)みて縮(なお)くんば、千万人といえども、吾往かん」という言葉を繰り返し口にし、自己陶酔状態に陥っているようだと指摘する記事が掲載されていました。
民意や憲法の制約も無視して、「私が省みてなお正しいと思ったら、千万人を敵にしても絶対に突き進むのだ」などと主張されたら、立憲民主主義国家の指導者としては、もはや完全に不適格と申し上げざるを得ません。
関良基さま:
横須賀市発行の『開国史研究 第10号』に上喜撰の狂歌がペリー来航直後に詠まれたことを示す書簡が存在することが発見者によって報告されており、
明治になってつくられたのではないかという疑義から最近は教科書から消えたこの狂歌を再掲復活してほしいとのアピールがなされた旨が、5年前に報道されていたことを知りました。
神奈川新聞 2010年07月06日
http://www.kanaloco.jp/article/18015
江戸の書肆、山城屋左兵衛から土浦の薬屋で国学者の、色中三中あての書簡に、異国船来航騒動の際につくられた狂歌・落首の紹介があり、その中に「太平之ねむけをさます上喜撰(蒸気船と添え書き) たつた四はいて夜るもねられす」が含まれていた由。
いったい、当時「蒸気船」という言葉をすぐに詠み込むことができたのだろうか?と見てみましたが、その可能性をあながち否定はできないように思える記事がありまして・・・・憮然としました。
http://sucra.saitama-u.ac.jp/modules/xoonips/download.php/BKK0000039.pdf?file_id=3588
『文教大学 言語と文化第20号』 阿川修三「翻訳語『蒸気』の形成についての試論」
<抜粋>
青地林宗の女婿、川本幸民が「気海観潤』を注釈、増補した、「気海観潤広義』(1851~1858年)にも、林宗が用いた訳語「蒸気」が見え、 同様に「水蒸気」も見える。 ・・・この書の刊行された頃には、訳語「蒸気」は、文明の利器である「蒸気船」や「蒸気車」の訳語の一部にも利用され、定着したのである。
1850年代になると、日本に当時最先端の文明の利器である、 「steam-carriage」や「steamboat」乃至「steamship」の情報やその実物、模型などが入ってくる。その時、「steam」の訳語に「蒸気」が使われ、前者が「蒸気車」、後者が「蒸気船」と訳されたのであった。
・・・と、あるのです。されば、ペリー艦隊の4隻の黒船のうち2隻は煙突から煙を吐かない純帆船だったことは認識されていたのでは、という「茶々」を入れるのは、やはり詮無いことかと、あらためて「上喜撰」の歌を見まして、はて、と思いました。
「たった四はいで夜も寝られず」という表現は市中の興奮を示してこそおれ、これを公儀が眠れないほど狼狽動揺したことの風刺だと読み取らせるのは(長薩明治政府サイドからの)心理誘導ではないか、という疑問に駆られております。
それに・・・曜変天目をひと目見たいと思いながら足が向かない、明治維新の功労者にして最大の受益者と言える、あの岩崎弥太郎、三菱岩崎家のコレクション「靜嘉堂文庫」で発見されるとは!?
それはひとまず措き、ハーバート・ノーマンの江戸時代観の吟味の材料と思い立って『江戸時代と近代化』(筑摩書房、1986年)を見ておりましたら、芳賀登という方(当時、筑波大学 歴史・人類学系教授)が以下のような指摘をしておられました(同書;p456):
「1804年にレザーノフが来たときは大騒ぎになるわけですが、長崎にレザーノフが来たことを江戸の外れのしがない所に下宿していた一茶がちゃんと聞き知っていて、『春風の国にあやかれおろしや船』という俳句を作っています。
日本は春風駘蕩の平和の国である。だからここにやって来たオロシャの船は荒々しいことをせずにこの春風の国にふさわしい平和な振る舞いをしてくれよ、と一茶は庶民の願いを代弁しているのです。
・・・一茶のような人も、一国の平和というものについての自覚がすでにあったのだと読み取ることができるでしょう」
・・・と。越後につながる信州の北辺、野尻湖の近くを出生と終焉の地とした一茶の俳号は、29歳で江戸を発ち初めて故郷、柏原に帰った際の『寛政三年紀行』の巻頭で、自分の身を「たつ泡のきえやすき」一杯の茶に喩えたゆえと聞きます。
おなじく茶をトリガーにし、おなじく黒船ショックに気を急かれながら、今日のマス・メディアにしてしかりの、
目の前の強いものに媚びてシッポをたれて、弱いと思えるものにむかって吠える上喜撰連中とは正反対である、
一茶の凜とした気概ある平和主義、父と同郷の信州の先人を誇りに思い、深い感銘を受けました。
プランタンさま、静かな示唆に富むコメントをいただき感謝しております。本ウェブログのご主人を差し置いて思わず飛び出しましたことをご容赦ください。
維新により成立した長州帝国を敗戦によって破滅させたという「賊軍のルサンチマン」(@内田樹氏)の認識射程が、長州の背後にいた英国、そしてやがて交替して覇権を握る米国に正確に届いていなかったために、非戦70年にして長州帝国がなんといま復活させられつつあるというわけでしょうか。
するとこれに対応して、明治皇軍の初めての外征である1874年の台湾侵攻からはじまる、敗戦までの70年戦争ということになりましょうか。
しかし、たったいまピークを迎えている戦後最大のルサンチマン=「沖縄」は、アベ長州の向こうに明らかに米国を見据えています。
1950年の朝鮮戦争以降の米ネオコン帝国による「70年戦争」を終焉に導くことに貢献し、長州帝国ファシズムの完全復活を未然に防ぐのは、この沖縄ルサンチマン、かの長薩官軍による東北蹂躙にまさる暴虐さを欲しいままにする無慈悲な「 ABE JAPAN 」に対する「 ALL OKINAWA 」の不撓の抵抗ではないでしょうか。
それは世界の大きな動きに先進的に呼応し世界史的な意義を持つものにちがいないと、祈るような思いでエールを送ります。
じつは御コメントによって、傑出した存在である山川捨松をはじめて知って驚き、また独りよがりの歴史知識の狭さ浅さを恥じました。テレビを見ないせいにすることはできません。ありがとうございました。
この間、いただいたコメントに返信するのをサボっていて申し訳ございませんでした。
>大名の城を破壊するだけでなく、神武天皇陵の創作など明治政府のやったことに甚だ疑問に思っていました
プランタンさま
城郭破壊、廃仏毀釈、「天皇陵」の捏造、神社合祀・・・・・いずれも許しがたい文化破壊、歴史捏造でした。まさに日本版「文化大革命」と呼ぶにふさわしいと思います。ネット上では急速に真実を求める声が高まっています。私も微力ですががんばります。
>長薩官軍による東北蹂躙にまさる暴虐さを欲しいままにする無慈悲な「 ABE JAPAN 」に対する「 ALL OKINAWA 」の不撓の抵抗ではないでしょうか。
薩長公英さま
たしかに安倍政権による辺野古建設強行の対沖縄強行策は、たしかに戊辰戦争の東北蹂躙の延長上に存在するように見えます。地方は中央の命令に従わねばならないという命題は「長州イデオロギー」の産物ですね。
プランタンさま:
「お返事」ありがとうございます。日露戦争の前線で指揮した元帥陸軍大将の妻であった公爵夫人山川捨松と、華族女学校の教職を嫌って津田塾を開いた津田梅子をにわか勉強で比べますと、津田梅子に強い共感を覚えてしまいます。
山川捨松が日露戦争の戦費カンパを母校に呼びかけたとのこと。日露戦争は英米の対露代理戦争という色彩が強いと思量いたしますこと、また山川捨松が英国の対日外交政策を卒業論文とし、それをもとに卒業式で講演した内容が米国現地の新聞に掲載されたことから、「賊軍」出身であることによる圧迫というものよりむしろ、英国の影を見てしまいます。
後年にCSISを生んだジョージタウン大学の地でホームステイをした津田梅子は、日露戦争に際してどのような態度をとったのでしょうか。
日露戦争に公然と反対した幸徳秋水については歴史の教科書で習ったこと、いわゆる大逆事件が石川啄木と永井荷風に強いインパクトを与えたことのみしか存じないまま、日露戦争の数年前,1901年に刊行された幸徳秋水の『帝国主義』(岩波文庫、2004年)を部屋の本棚でさがし、拾い読みをしたところを見直しました。その第2章「愛国心を論ず」その三に:
・・・一面には激烈なる自由競争の人心をしてますます冷酷無情ならしむるあり、一面には高尚正義なる理想と信仰滔として地をはらう。
・・・姑息なる政治家や・・・奇利をおうの資本家は・・・絶叫していわく、四境の外を見よ大敵は迫れり、国民は・・・国家のために結合せざるべからずと。
・・・これに応ぜざるとあれば即ち・・・非愛国者なり国賊なりと。
知らずやいわゆる帝国主義の流行は・・・いわゆる国民の愛国心、換言すれば動物的天性の挑発に出でたることを。
・・・と、あります(前同書、p28)。これは・・・一字として違わずいま眼前にしていることそのものではないかと慄然といたします。
徳冨蘆花が幸徳秋水たちの処刑を阻止に力を尽くしたとのこと。文学者の直感からして大逆事件を国権による謀略と見抜いてのことであると推測します。
中江兆民から幸徳秋水に引き継がれた思想的伝統が無産政党の形成と壊滅を含む後年の歴史にどのように流れ込んでいるのか、そして現在に至るまで,及び、これからを、若い世代を念頭に置きつつ、その手がかりを掴むことができればと思います。