代替案のための弁証法的空間  Dialectical Space for Alternatives

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久坂玄瑞と佐久間象山と赤松小三郎

2014年03月05日 | 長州史観から日本を取り戻す
 前の記事で紹介した松本健一氏の『評伝佐久間象山』(中公叢書、2000年)。松本氏がいかに幅の広い視野で象山の人間関係を俯瞰しているのかに関しては、ふつうの佐久間象山伝では無視されている象山と赤松小三郎の交流にまで言及している点でもわかる。

 松本氏は、象山の暗殺と赤松小三郎の暗殺が同じ政治力学の中で発生したものであると、事態の本質を捉えている。松本氏は以下のように述べている。

 
赤松は公武合体論者であったために、慶応三年には討幕派に転じた薩摩藩士(桐野利秋ら)の手で暗殺されている。学問の師であっても、政治的立場が異なれば斬る、というのが、幕末の政治力学であり、その意味では、象山が長州系の尊攘派によって暗殺される構図とよく似ているかも知れない。(松本健一、前掲書、273頁)
 


 全く同意である。元治元年の長州藩による佐久間象山暗殺と慶応三年の薩摩藩による赤松小三郎暗殺は、全く同様な政治力学の中で発生した事件である。通常の幕末史では近年に至るまで一切無視されてきた赤松小三郎と佐久間象山の交流にまで目を配るとは、著者の視野の広さと洞察力の鋭さに舌を巻いた次第である。

 松陰門下の高杉晋作や久坂玄瑞は、松陰が死してのち松陰の遺言に従って、相次いで松代に蟄居中の象山を訪れ、象山の教えを受けている。久坂などは象山の砲術知識を攘夷戦争に活用しようと考え、熱心に象山を長州藩に招致した。
 ところが長州は、象山が自分たちの掌中に入らず、敵方の徳川慶喜に味方してしまったと知るや、その存在を消してしまおうと考えるようになるのである。まったく武士道に反する卑劣なふるまいとしか言いようがない。

 長州は、「開国による国力の増強」という象山の思想は理解しなかったが、攘夷戦争のために象山の技術だけ借用しようとした。薩摩も、議会制民主主義と人民平等という赤松小三郎の思想を理解しなかったが、イギリス式の陸軍歩兵戦術という小三郎の技術的知識だけ借用しようとした。そのはてには「その才能が敵方にわたるくらいなら抹殺してしまえ」という恐るべき身勝手な発想に帰着するのだ。木戸、大久保、西郷という「維新三傑」は、いずれも佐久間象山暗殺あるいは赤松小三郎暗殺という犯罪に関与している可能性が高い。

 久坂は、象山に会うと「攘夷・攘夷」と盛んに訴えた。象山は、西洋諸国と日本の科学技術と産業水準の圧倒的な開きを久坂に説明し、現時点での攘夷などおよそ無理、開国し交易を行い国力を蓄えてこそはじめて真の攘夷が可能になるという持論を久坂に伝えた。久坂も半分は分かりかけていたらしい。

 久坂が象山に言われた「開国による真の攘夷」の説を井上聞多(井上馨)に伝えると、井上は目からウロコが落ち、「わずか三日」でイギリス留学を決意した。井上は象山に直接教わったことがないが、久坂を通して間接的に象山の教えを聞いただけで、攘夷の無理を悟り、テロリズムから決別できた。この時点で井上馨と伊藤博文がテロリズムから決別したことは、長州にとって幸運なことだったのだ。

 しかるに、その井上がイギリスから帰国した際、すでに象山は、あろうことか自藩に暗殺されてこの世にはいなかった。
 
 残念ながら、久坂には井上ほどの思考の柔軟性はなく、その後も原理主義的攘夷論に固執した。
 象山門下の松陰自身、いったんは井上と同様、「開国し外国の知識を吸収することこそ真の攘夷」という象山の節に共鳴していたはずである。いったいどうしたことか松陰は密航に失敗して萩に幽閉されると象山の教えを忘れてしまい、松下村塾で、神がかった空想的攘夷論を弟子たちに吹聴した。ここに、そもそもの問題があったのだ。


 久坂玄瑞は文久2年末から3年(1862年)にかけて、象山に会いに松代に赴いた後、その帰路に上田によって赤松小三郎に会おうとしている。上田藩士の桜井純造と恒川才八郎は吉田松陰の友人でもあり、上田藩主の松平忠固は老中として象山と松陰を助けようと腐心していた名君であった。老中松平忠固を敬慕していた吉田松陰は、久坂にも高杉にも象山のみならず、上田の桜井と恒川にも会うように伝えていたのだ。
 
 久坂は、松代の象山から、上田藩に赤松小三郎という天才がいることを聞き及んだ。象山は自信過剰のウヌボレ屋だったように言われているが、赤松小三郎に対しては驚くべきほど謙虚に接している。赤松小三郎の才能が、自分でも及ばない驚異的なものであることを熟知していたからである。象山は、才能をもった人物にはきわめて謙虚だったのである。

 久坂は上田に来て赤松小三郎との面会を希望したが、あいにく小三郎は上田を留守にしていたので会えなかった。しかし小三郎は、久坂が何を言ったのかを桜井と恒川から詳細に聞き、久坂の暴論に辟易している。
 
 小三郎が、江戸にいる兄の芦田柔太郎に、久坂の様子を報告した書簡の断片が残されている。当時、兄の柔太郎は江戸麻生の米国公使館の警護の任に就いていたので、久坂ら長州過激派の動向をとりわけ憂慮していた。上田市立博物館の資料より抜粋引用する。

 「先日長州之諸生日下(久坂)玄瑞、上田一宿仕り、桜井恒川出会ひ候由、攘夷之説甚だ敷く君公も此の節ハ専ら攘夷の説之由。・・・攘夷之説を唱へざる者をバ異勅と名づけ敵之如く・・・(書簡の後半部分欠損)」(文久3年1月 芦田柔太郎宛赤松小三郎書簡 上田市立博物館編『赤松小三郎・松平忠厚』36頁)

 小三郎は、「久坂の攘夷の説は過激この上なく、まるで私たち開国論者を敵の如く・・・・」とあきれた様子で報告している。後半の欠落部分では、長州の過激派にどのように対処しようとしていたのか、その戦略が書かれていたものと思われる。この肝心な部分が欠損しているのはじつに惜しい。外部に漏れてはまずいと判断した柔太郎が破り捨てたのかも知れない。

 薩長中心主義史観では、長州や薩摩が先進的で、「佐幕派」諸藩の藩士たちなど不勉強でまるで遅れているかのように描くことが多い。実態は逆である。草深い山奥の信州上田の人間たちから見て、久坂玄瑞の不勉強で稚拙な認識に基づく過激攘夷論など笑止でしかなかったのである。

 
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