代替案のための弁証法的空間  Dialectical Space for Alternatives

批判するだけでは未来は見えてこない。代替案を提示し、討論と実践を通して未来社会のあるべき姿を探りたい。

宇沢先生の業績は初期から晩年まで一貫している

2014年10月04日 | 新古典派経済学批判

 宇沢弘文先生の業績を知らずに批判する論者は、宇沢先生の初期の代表的な業績である新古典派の成長理論の二部門モデルや最適成長理論と、晩年の業績である社会的共通資本の理論のあいだには断絶があり、前者が輝かしい世界的業績であるのに対し、後者は左派的で反経済学的なイデオロギーに過ぎないといったレッテルを貼りたがる。

 たとえば池田信夫氏が、相も変わらずネット上で稚拙で卑劣な宇沢先生批判を展開している。池田氏は次のように言う。

****池田信夫blogより引用*****

http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51913176.html


 (宇沢先生は)60年代にはそれを動学的に拡張した成長理論を構築し、内生的成長理論の先駆とされる。この分野でノーベル賞が出れば、Paul Romerとともに受賞する可能性もあった。彼の最適成長理論も、のちの動学的均衡理論の原型になった。

 (中略)

 数学的に行き詰まった40代以降の彼の業績には、見るべきものがない。数学者としては超一流だったが、「社会科学はわからない」と言っていた。思想的には左翼で、晩年には農本主義に回帰して荒唐無稽な農業保護論を主張した。


****引用終わり******

 池田氏の文章の稚拙さ、卑劣さは相変わらずである。これが「日本の知識人」かと思うと、読んでいて恥ずかしくなる。人を批判するときの最低限のマナーも全くわきまえていない。

 「40代以降の業績に見るべきものがない」と主張するのであれば、先生の40代以降の業績を具体的にあげて、「見るべきものがない」ことを論証すべきであろう。
 宇沢先生が「社会科学はわからない」と言われるのを私は聞いたことがないが、学生時代の池田氏に対してそう言ったとするのであれば、浅はかなマルクス主義イデオロギーにかぶれた左翼学生たち(○マル派系のサークルに属していた池田氏のように)の主張する「社会科学」と称するものが「わからない」とおっしゃられたのであろう。内ゲバ殺人を平然とやってそれを肯定するような輩の語る「社会科学」など「わからない」のが当たり前である。
 また、宇沢先生は「農本主義」を評価するような発言など一度としてしたことはない。池田氏は、それでも「農本主義」者と呼びたいのであれば、少なくともどの箇所がそう読み取れるのか、宇沢先生の書いたものの中から引用して、農本主義者であることを実証しようとすべきであろう。ご本人が言っていないことを勝手に「言った」ことにして、それを批判するというのは、常軌を逸している。


 実際には、宇沢先生の30~40代の頃の業績と60代を超えてからの業績は全く一貫しているし、数学的に行き詰ってもいない。そもそも、行き詰る以前に数学など全くできない池田氏が、宇沢先生の数学的業績を客観的に評価できるわけもないのだ。
 
 宇沢先生の経済学は、池田氏が評価する1960年代の新古典派成長理論の時代から、池田氏が「農本主義」と批判する晩年の社会的共通資本の理論の時代まで、全く一貫していて、同じ問題意識に貫かれている。

 新古典派成長理論の先駆となったロバート・ソローのモデルは経済成長の安定径路を示した。それに対し、60年代の宇沢先生は、ソローのモデルを発展させ、財を資本財と消費財の二部門に分け、より現実に近づけたモデルを構築したところ、経済成長の不安定性が示されたのであった。このときから、宇沢先生の社会的共通資本の理論への模索は始まっていたのである。
 
 宇沢先生は、均衡を信じていたし、現実の経済を均衡させたかった。その意味では宇沢先生はまぎれもない新古典派の経済学者である。

 しかし、現実の市場経済は均衡しないシステムであった。すべての財の私的所有と市場機構を通じた配分に委ねた場合、つまり万物に私的所有権を付与して、万物を商品化していくことを前提とする市場原理主義の経済システムは、本来的に不安定であり、それを推し進めると市場不均衡(需給ギャップの拡大)と社会的不安定性(貧富の格差の拡大)がとめどなく進んでいくことを宇沢先生は示されたのである。

 では、現実の市場経済を均衡させるにはどうすればよいか。「万物の私有化・商品化」という市場原理主義から決別するしかない。

 すべての財の私的所有と商品化によって、不均衡と不安定性が正のフィードバックのように広がっていくのであれば、それを制御し、均衡と安定を実現するための負のフィードバックを経済システムに埋め込んでいくしかない。
 すなわち、「私的資本」と「社会的共通資本」の二部門経済を構築し、前者が生み出す不均衡を、後者によって社会的に制御し、社会的な「制度」の力で「均衡」をつくり出すしかないのだ。
 
 宇沢先生の社会的共通資本の理論は、本来不安定な市場機構に、安定径路をつくり出そうという模索の中で誕生したものである。初期の業績から晩年の業績まで、問題意識は一貫していて、何らブレるところはないことが分かるであろう。

 
 宇沢先生がこれからの世界が目指すべき理想としてよく話されていたのは、ジョン・スチュアート・ミルが『政治経済学原理』の中で展開した「定常状態」の概念であった。
 ミルの「定常状態(stationary state)」とは、国民所得、相対価格、資源配分のパターン、名目的所得の分配などは時間を通じて一定水準に保たれている。しかし、ひとたび経済社会の実体的側面に目を向けるとき、そこには多様な文化的、社会的活動が展開されていて、安定的でゆたかな人間的社会が具現化されている。文化も社会も発展しながら、経済指標は持続可能で安定している。これこそ新古典派経済学が理想とすべき一般均衡の究極的な状態と言えないだろうか。しかしながら、この均衡状態を実現するためには、反新古典派的な「社会的共通資本のネットワーク」という制度的な装置が必要になるのである。
 

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