代替案のための弁証法的空間  Dialectical Space for Alternatives

批判するだけでは未来は見えてこない。代替案を提示し、討論と実践を通して未来社会のあるべき姿を探りたい。

女性経済学者が増えれば世界は変わる?

2016年06月12日 | 新古典派経済学批判
 前の記事のコメント欄でのやりとりを新記事として再掲させていただきます。


話がかみ合っているかわかりませんが (りくにす)  
2016-06-11 21:39:49

ジェイン・ジェイコブズの『市場の倫理 統治の倫理』に登場人物たちが「取引を始めたのは、男か女か」と論じる場面があります。「どうして『男が』って言うの?女かもしれないのに」と言うのです。最晩年の著書『経済の本質』では女のほうが取引に向いているとしています。ところでいま榊原英資・水野和夫の『資本主義の終焉・その先の世界へ』を読むと「その先の世界」へソフトランディングする提案はあるものの、「マッチョ」で「覇権的」な印象が否めません。経済学の教科書からして「マッチョ」で「覇権的」なのでしょうか。
学校での経済学の授業は教科書なしだったためかただ眠くてしょうもないだけでしたけど。

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モノとモノの取引は女性かも知れませんがカネは・・・ (関)  
2016-06-11 23:34:56

 目で見て確かめることのできる財の取引は女性の方が向いているかもしれません。しかし実態が不明の金融商品などギャンブル性の高いものに手を出したがるのは男かと・・・・。

 新古典派のモデルそのものが、空理空論で雲をつかむような実態のないもので、あの手の玩具を好むのは男の方が多いと思います。
 理系分野の「リケ女」は増えていますが、経済学は女性研究者の割合がもっとも低い分野の一つであることは間違いありません。理系分野は実験する対象の実態がありますが、経済学のモデルには実態がないからだと思います。

 まあ、男のような女もいますし、女のような男もいますのでもちろん一概には言えませんが・・・・。

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新古典派経済学について。そしてあたらしい経済学とは。 (薩長公英陰謀論者)  
2016-06-12 02:37:45


 新古典派経済学が生まれたのは1870年代だと思います。手もとの教科書によれば、産業革命で大きく先行して世界の工場となったイギリスに対して、ドイツとアメリカの生産力が追いついて起きた1873年恐慌(事実上の最初の世界恐慌としての「19世紀末大不況」)の時期にあたります。

 かっての「自由競争」の時代から大企業・大資本による「寡占競争」の時代に移行して重化学工業が飛躍的に発展し、グローバルな市場を争う帝国主義となってゆく時代に、新古典派経済学は誕生し発展したことになります。

 この時期に産業資本が金融資本化して、巨大な金融資本が世界の原理的中心についたように思われます(ヒルファディングとレーニンのうろ覚えの受け売りです)。

 ヘーゲルによれば、方法は「内容の形式」だとのことだそうで、一見して内容に立ち入らず方法論に終始するように思える新古典派経済学は、じつは、巨大金融資本という内容の形式を、方法として映し出したものではないでしょうか。
 つまり「限界革命」とは、はたらいてつくりだす価値の、計算と思惑で交換取引する効用への、すなわち金融への転化だと。

 さすれば、国民全体を戦争経済に総動員する「総力戦」を第一次世界大戦において世界史上はじめて登場させた、帝国主義の正体である巨大金融資本にジェンダー原理が見られるとすれば、それが新古典派経済学に反映感染していることになるかと思います。

 偉大な女性経済学者といえば、ジョーン・ロビンソンの名前しか思いつきませんでしたけれど、『女性経済学者群像 ー アダム・スミスを継ぐ卓越した八人』(和訳:御茶の水書房、2008年)という本があって、ジェーン・マーセット、ハリエット・マーティノゥ、ミリセント・フォーセット、ローザ・ルクセンブルク、ビアトリス・ポッター・ウェブ、ジョーン・ロビンソン、イルマ・エーデルマン、バーバラ・バーグマンという名前が並んでいるとのことです。ローザ・ルクセンブルク!
 最近のお二人を含めてこの方々は、力学モデルをお人形にしたり、砂場でしゃがみ込んで遊ぶことからは縁遠いように思えます。

 水野和夫さんの「ゼロ成長社会へのソフトランディング」というのは、あくまで「成長」という枠組みの中で発想しているわけですから、すべてを貨幣量に換算する計算の世界にまだしゃがみ込んだものだと思います。
 オカネが人間に対する支配の表象となった「資本主義」を根底的にリストラすることを「リーマン・ショック」後の現代において考えるのが経済学の真の課題であろうと想像しますけれど、まず方法より内容が?


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ジョーン・ロビンソンから社会的共通資本の着想も (関)  
2016-06-12 12:13:21

皆さま

 ブログでこの手の議論をしだすと、また新古典派のエキセントリックな方々から攻撃を受けそうですね。彼らの攻撃性そのものが、新古典派の男性原理を証明していることにしかなりませんが。

 弁護士の伊藤和子さんが、典型的なその手の経済学者といえる池田信夫氏からネット上でひどい名誉棄損・誹謗中傷の攻撃を受け、池田氏を訴える裁判を起こしたそうです。
 拍手です。応援したいです。以下参照。

http://worldhumanrights.cocolog-nifty.com/blog/2016/06/post-5487.html

>『女性経済学者群像 ー アダム・スミスを継ぐ卓越した八人』(和訳:御茶の水書房、2008年)

 この本未読でした。ぜひ読みたいと思います。イルマ・エーデルマン、バーバラ・バーグマンって、どんな業績の経済学者なのか私も知りません。ぜひ勉強したいです。
 
 実際、女性経済学者がもっと多くなれば、世界は変わると思います。

 男性的マッチョ経済学に一貫して挑戦し続けたジョーン・ロビンソンの経済学を継承する女性経済学者が増えてくれれば・・・・。
 余談ですが、宇沢弘文先生の社会的共通資本の考え方はジョーン・ロビンソンの経済学を継承しています。

 現在、宇沢先生の評伝を書いているジャーナリストの佐々木実さんは、「宇沢弘文:資本主義の探求者」(『G2』vol.18. 講談社MOOK)の中で、渡米してケネス・アローやロバート・ソローにインタビューをして、宇沢経済学の源流を探っています。

 宇沢先生、アメリカでケネス・アローと一緒に研究していたころは、それこそモデルづくりを探求する「マッチョな経済学」を追及していたように見えます。日本に帰って『自動車の社会的費用』などを書いて、社会的共通資本の研究を始めてから、研究スタイルは大きく変わったと言われています。(もっとも、底流にある問題意識は一貫していたと私は考えています。)
 アローは、それを「ビッグ・チェンジ」と呼び、ヒロ(宇沢先生のこと)はなぜ変化したのかどうしてもわからないと述べています。佐々木実さんのインタビューに答えて、ケネス・アローは次のような問いを発しています。

「ヒロに関して、私にはどうしてもわからないことが一つあるんだが・・・・・彼はどういう経緯で環境の問題に強い関心をもつようになったんでしょうかね。『自動車の社会的費用』というヒロの本がありますね。私はこの本は非常にすばらしい著作だと考えているんだが・・・・・」

 アローは宇沢先生の「ビッグ・チェンジ」の理由を今でも疑問に思っているのです。
 
 これは佐々木さんと私で意見の一致するところですが、宇沢先生にビッグ・チェンジをもたらしたのは、ジョーン・ロビンソンとの交流でした。佐々木さんは前掲の記事で、宇沢先生とロビンソンの対話を引用しながら、宇沢先生の変化の理由を読み解いています。
 ケインズの弟子でもあったジョーン・ロビンソンは、単に完全雇用を実現すればよいという発想のケインズ経済学を批判し、「何のための財政出動か、何のための雇用か」という根源的な問題を発し続けました。そのロビンソンの問いかけに対する回答を得ようとして、その後の宇沢先生が生涯をかけて探求し続けたのが社会的共通資本の理論だったのです。
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