代替案のための弁証法的空間  Dialectical Space for Alternatives

批判するだけでは未来は見えてこない。代替案を提示し、討論と実践を通して未来社会のあるべき姿を探りたい。

週刊エコノミストが今度は「ビジネスマンのための資本主義批判(!)」特集

2017年04月27日 | 新古典派経済学批判
 この間、多忙につき、新規投降もいただいたコメントへの返信も滞っておりました。読者の皆様、ご容赦お願いいたします。

 前回、『週刊エコノミスト』の自由貿易批判特集を紹介いたしました。いま発売中の『週刊エコノミスト』は「ビジネスマンのための資本主義入門」特集。その中身は、「ビジネスマンのための資本主義批判」と言うべき内容となっています。ビジネス誌としては、自己否定に近い特集に思われます。ビジネスマンに、この手の特集に対する需要が発生しているとしたら、時代の変化を実感いたします。

 私も「宇沢弘文と『資本主義の幻想』」という記事を寄稿し、宇沢先生が資本主義の何を批判し、どのような未来社会を構想していたのか、解説してみました。





 私の記事はさておいても、面白い記事が並んでいます。寄稿者が経済学のみではないのがビジネス誌としては異色で、文学者、哲学者、環境学者などが多角的な視点で資本主義批判しています。


 たとえば、木本伸氏(ドイツ文学者)は成長を求めてもなぜ人間の幸福に直結しないのかを論じ、
 竹田青嗣氏(哲学者)はヘーゲル哲学の『相互承認』と『一般福祉』概念を手掛かりに、アメリカの正義を乗り越える可能性について、
 鷲田豊明氏(エコロジー経済学)はアメリカ資本主義では地球が5.4個必要になることを論じ、
 小林よしのり氏はロバート・ライシュの『最後の資本主義』を手掛かりに、富裕層に有利につくられたルールを変更する必要性を訴えている・・・・・といった具合です。

 大半のビジネスマンは、こうしたことが気になりつつも、生き残りをかけて、資本主義システムの激流の中で、日々もがき続けねばならず、立ち止まっている余裕などないのでしょう。しかし、GW中、少しでも時間が取れる方は、一読の価値ありと思われます。
  
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「自動車の社会的費用」前日譚 (renqing)
2017-05-02 15:44:05
ブログ主 様

学生時代、宇沢氏『自動車の社会的費用』の出版に関するエピソードを某教授から伺ったことがあります。

宇沢氏が帰国し、東大教授として『自動車の社会的費用』の出版を準備しているとき、匿名の電話が随分かかってきたというのです。「自動車業界は貿易立国日本を支えている。お前はそれでも日本人か。出版をとりやめろ。」といった類の抗議(らしき)ものから、真夜中の無言電話とか。宇沢氏も当初は歯牙にもかけていなかったのですが、あまりにしつこいので、電話回線を切ってしまった、というのですね。

宇沢氏が私生活においてもナチュラリストを一貫するようになったのはそういう体験が前史としてあるように伺いました。

貴記事に Stationary State の話題がありましたので、本記事に、弊blogの関連記事をTBさせて頂きました。ご参考になれば幸甚。
コメント感謝申し上げます (関)
2017-05-04 11:34:02
renqingsま

 「週刊エコノミスト」の拙稿を読んでくださいまして、またミルのstationary stateのTBもありがとうございました。

 資本主義の自己否定のにもつながるミルのstationary stateのような話を、ビジネス誌に書けるようになったというのも、時代の変化を象徴していると言えるでしょうか。
週刊エコノミストの特集「ビジネスマンのための資本主義入門」に見る「日本の国体としての資本主義」。 ( 睡り葦 )
2017-05-07 23:25:22

 関さん、このようなコメントを投稿してよいものかどうか、もう少し考えてと思っておりましたが、つぎの週末になるのは間延びしすぎるかと、タイトルを含めて雑駁、不行儀、かつ乱暴なもののままであることをご容赦ください。

 週刊エコノミスト5月2日・9日合併号の特集「ビジネスマンのための資本主義入門」を見まして、言いようのない思いにとらわれました。
 関さんのご寄稿「よみがえる社会的共通資本」のなかで言及されている1891年のローマ法王回勅副題「資本主義の弊害と社会主義の幻想」が相応しいのではないかと目が眩みました。あたかも日本において「資本主義が不滅の国体である」と宣言しているように思えたのです。むろん、関さんのご寄稿を例外として。

 吉川洋氏は特集冒頭の「特別対談」において、「市場をベースにした自由主義経済、そういうものを我々は資本主義と呼んでいる・・・今、資本主義に対する ” ダメ出し ” というのは筋が違っている。・・デフレだし、人口は減るし、マイナス金利になってと、いろいろなことをネガティブに解釈して資本主義が終わっていると考えるのは、ほとんど終末論であり、乱暴すぎる」という発言をしています。

 対談相手の萱野稔人氏は、「資本主義は資本の自己増殖を『目指す』経済体制である」・・・その条件の一番の基礎は「私有権」がそれとして数値化され得るかということだ。・・・資本主義経済のいちばんの歴史的メリットは政治と経済を分離したことにある。・・・政治と経済の原則的分離によって自由で民主的な社会が作られてきた。だから、資本主義を否定したり、資本主義の『終焉』を唱えたりする人は、資本主義以外の方法で政治と経済を分離する方法を示さなくては、知的には無責任と言わざるを得ない。それが示せないなら、社会主義と同じように権力による経済への介入を招くだけだ」と応じています。

 そして、インタビュー「金融のゼロサムゲーム化が危機を生む」において竹田青嗣氏は「近代になって資本主義経済が動き出したことで生産性が上がり、はじめて絶対主義支配体制から、社会運営のルールを全員が対等な権限で決める方向に近づいた。資本主義は今までで最善のシステムであり、今のところ、これに代わるものはないと考えている」、哲学者?と目を擦りました。

 期待の論考、「経済と自然の調和が持続社会を生む」において鷲田豊明氏は、「資本主義経済を構成する市場システムは、資金を効率的に配分するという洗練された機能を持っている。しかし、効率的に動かせるのは市場につながっているものだけだ。・・これからの経済システムは、環境負荷が適切に市場経済でコストとして反映される仕組みにしなければ持続的なものにはならない」と、ある種の市場原理主義、新自由主義と受けとめざるを得ないような主張をしています。

 ハインリヒ・ベルの物語と木本伸氏の解説は別として、「資本主義の幻想」という立脚点から論旨を展開しておられるのは関さんだけではないかと、あらためてアベ治世下の現在における現実に「やはり」と、少し茫然といたしました。

 ともあれ、関さん作成による図、「社会的共通資本が経済を支える」に、じつは強い衝撃を受けました。勝手なイメージとしては、私的資本による経済活動すなわち資本主義経済を、社会的共通資本がくるみ込むかたちの国民経済社会または地域経済社会が無数に浮かぶ宇宙を想像してしまいました。
 そしてそこで、とりわけ強いインパクトを受けたのは「金融が社会的資本とされている!」ということだったのです。これはまたすごいことです。いまどき「ありえないこと」ではありませんか。いえ、ここから経済思想のイノベーションが・・・という思いに駆られております。とうてい手に負えないテーマでありますけれど。

 そして、「成長」拡大しつづけなくとも、大丈夫「熱的死」に至ることなどはない社会のあり方(定常状態社会)。つまり「質的発展を核とする社会(世界)の創造」という課題の人類史的または宇宙史的画期性です。竹田青嗣や鷲田豊明氏の資本主義へのオード(頌歌)には、資本主義社会の片隅にいる者としては知らず知らず顔が赤らむ感じがいたしましたが、ご寄稿を拝見して、さすが関さんであると思いました。ありがとうございます。
「社会的共通資本としての金融」が現在において意味するものの極度の重大さについて。 ( 睡り葦 )
2017-05-14 18:00:23

 関さん、また一知半解のままで思い込みからのものをとお叱りを受けますが、なんとか認識理解を進めるためにコメントらしきものをまとめることをこころみます。とっ散らかったままを、とのお叱りを覚悟で、寛容にご指導いただきますようよろしくお願いいたします。

 少し考えてみれば、「社会的共通資本」に金融という「制度資本」が含まれることは疑いのないことで、それにはまったく違和感がありませんし、明確にそのように措定することによって、「資本」という言い方が自然と社会の物理的インフラに対して「自然資本」や「社会資本」というように当てはめられることへの、率直に言って感じる、ある種の違和感が中和されるように思えます。
 手もとにある宇沢先生の『経済学の考え方』(岩波新書、1989年)によれば社会的共通資本とは「市場経済制度を内蔵している、より広範な社会における自然的、人工的、制度的な環境を経済学的にとらえて、市場経済に投影したものである」とされていますから。

 金融が経済社会の不可欠のインフラであると同時に、政府の政策の重要な道具となるという意味で典型的な社会的共通資本でありながら、私的セクターとして市場にゆだねられることから投機に振り回されてバブルとパニックを繰り返し、実体経済社会全体に狂乱的インパクトを与えてきたことは自明の事実です。
 しかし、2007年の欧州(世界)金融危機のあと、リーマンのような例外は除いて、破綻寸前の金融機関は天文学的な額の公金投入で救済され、また当然のこととしてこころみられた、国際金融資本の活動に対する国際的な規制の動きは、まったく成功に至らないままであるように、金融投機に対する挑戦はことごとく跳ね返されてきました。

 他方で、「アベノミクス」の正体は極度の「放漫金融・放漫財政」政策であると思えます。それによる日経平均株価の上昇と、メディアへの買収恫喝によってねつ造された内閣支持率にささえられて、本質的に貨幣操作であるアベノミクス的日本経済は自転車操業を続けていると思います。当然ながら、軍事経済、戦争経済、全面的統制社会への誘惑に駆られるでしょう。

 そこで、すでに死語となった「国家独占資本主義」すなわち、寡占的大資本が国家と日銀のような「公的」制度を道具にすることによって民衆を一方的に支配して強蓄積をはかるという、気がつけばTPPそのままと言える事態になっていることに鑑みますと、社会的共通資本が、すでに市場経済とすら言えない私的セクターのための「独占的入会地」になって「反社会化」している観があります。

 それはそれとして、金融が社会的共通資本であるというあたりまえのことに目を剝いてしまいましたのは、とりわけて「アベノミクス」によって、価値の表象が貨幣ではなくて「株式」となり、株式が普遍的貨幣としてあらゆるものを代表するようになった時代における、そのインパクトの激烈さに気がついて腰を抜かして驚いたからです。

 2000年以降に、企業すなわち株式会社はすべからく株式所有者、株主の利益のために存在するということになり、「アベノミクス」まで絶対的なパラダイムであった「GDP成長」がみごとに「日経平均株価の上昇」に置き換わりました。
 そして、金融とは現物投資のための貨幣の貸付、すなわち融資のことではなく、非生産者間で取引される株式の売買にかかる投機のことになりました。

 社会的責任投資というものが、企業の活動に社会性を持たせることになるという議論があらわれたのは、その2000年以降であったと記憶していますが、社会的責任投資の株式市場における自由な活動が持ちうるインパクトが「金融社会的共通資本論」に照応するところがあるように思いました。

 「合理的経済人による自由な市場経済」というものは純然たる思考モデルかと思っておりましたら、「株式市場」がまさに現実としてそのパラダイムで動いている唯一の存在であることに気がつきました。
 そして、株式市場経済のもとに猛威を振るい、企業経営の様相を全面的にかつその芯から変貌させてしまった「株主価値経営」に、奇しくも「金融社会的共通資本論」をかぶせると、どのようなことになるかと戦慄(おそらく良い意味で)いたしました。
ビジネス誌の限界はありますが・・・・ (関)
2017-05-17 23:03:47
睡り葦さま

>あたかも日本において「資本主義が不滅の国体である」と宣言しているように思えたのです

 やはりビジネス誌ですから、その辺、やはり突破できない限界はあると思います。ましてや体制御用学者・吉〇氏あたりでは、言わずもがなです。
 もっとも、竹田氏の議論は、インタビューではうまく真意が伝わっていないですが、ヘーゲル哲学の「自由の相互承認」やルソーの「一般意志」の概念で、「自由」の意味をはき違えた、まさに「今だけ、カネだけ、自分だけ」の新自由主義を制御できるという発想です。
 それによって、搾取の自由、収奪の自由を制御できれば、少なくとも新自由主義ではなくなります。「資本主義」の定義が人によって違うので、ややこしくなっていますが・・・・。
 詳しくは、竹田青嗣『哲学は資本主義を変えられるか ーヘーゲル哲学再考』(角川ソフィア文庫、2016年)があります。

 金融にかんしての論考、ありがとうございました。
 金融は放置すれば必ずカジノ化しますので、金融を社会的共通資本として制御しない限り、資本主義が生み出す経済的不均衡や社会的不安定性(格差など)の問題は解決しないと宇沢先生は考えておられました。
 
竹田青嗣氏の国家と資本主義論から考えましたことについて(その1/2) ( 睡り葦 )
2017-08-27 18:50:01

 関さん、書きなぐり以上のことはできませんで、お目よごしを承知で力尽きたところでとりあえずお送りして、それからまた繰り返して考えます。どうかご容赦ください。

 有名なAI専門家である矢野和男氏によれば、現在もっとも進んだAIは人間によって課題さえ与えられれば、脈絡や関連性が不分明な厖大な情報(「ビッグデータ」)を「処理」して超高速の試行錯誤をおこない、新しい仮説を生み出してくれるとのことです。

 さすれば、あのピケティ氏のもちいた経済格差基礎データを含め、森林の減少と砂漠化、大気汚染のみならず、フクシマ核事故や原発の使用済み燃料の累積といったものを含めて、世界中のありとあらゆる経済産業社会情報を、資本主義とそれ以外というグルーピング情報を付した上でAIに与え、(1)「資本主義とはどのようなシステムなのか」、(2)「資本主義は生産を拡大しつづけるのか」、(3)「資本主義に代わって生活経済を維持することができるシステムはどのようなものか」という課題を与えてみるとどうなるだろうかという夢想に駆られます。

 竹田青嗣氏の『哲学は資本主義を変えられるか』(角川ソフィア文庫、平成28年)によれば、(1)の答えが(2)であり、それゆえに(3)にあたるものは存在しない、ということになります。その「生産の持続的拡大」は、「普遍的分業、普遍的交換、普遍的消費」という三位一体によってもたらされるというわけです。

 ただし(2)の不可避の内在性の副作用として(2−1)「格差が生み出される」という問題があり、これは生産の拡大によって解消されるはずのものであるところ、(2−2)「資源エネルギーの有限性および生活環境汚染」という制約によって阻まれる、という事態に直面しているとされます。

 さらに、(2−3)「資本主義のグローバル化」によって現れた「世界資本主義/金融資本主義/新自由主義」が、実体経済を金融資本原理に従属させて格差を極大化し、実体経済の民生(国民の生活)の安定を確保しようとする国家を空洞化するという問題があるとされます。

 竹田青嗣氏は、二一世紀において、やがて先進国において(2−3)グローバル新自由主義の転換がなされ、それをトリガーにして(2−2)資源環境問題が解決に向かうであろうとしています。
 すると生産が順当に拡大して(2−1)格差が解消されるわけです。したがって、資本主義の廃絶を言うのは、生産の拡大すなわち生活の向上を否定することと同義となる狂気の沙汰であるというわけです。

 竹田青嗣氏は、国家は国内の「普遍的暴力」を消滅させて「自由の相互承認」による平和と治安をもたらす一方で、国家間には「自由の相互承認」が存立しないために、激しい国家間競争と闘争が起きるとして、先進諸国間における「自由の相互承認」の成立が必要であるとしておられます。
 国家の廃絶を言うのは、国内に普遍的闘争と暴力をふたたび招くことになる、まさに愚行であるというわけです。

 竹田青嗣氏は、カントが伝統的な形而上学の不可能性を証明したことが、理性による世界と社会の探究を解放したように、国家権力と資本主義の廃絶の不可能性を明らかにすることによって、社会批判思想のあらたな展開をもたらそうと考えたと2016年04月付けの「あとがき」で述べています。
 そして、権力と資本主義の廃絶をめざした思想と、それを批判する竹田氏の考えの核は対立するものではないことから、国家と資本主義の廃絶を否定する本著を書き上げることによって、自分のなかに新しい可能性が現れかけていると感じていると述べています。

 資本主義経済社会とされる世界の片隅のインサイダーとしての経験見聞、むろん資本家ではなく生産資本から「疎外された」労働者としての体験体感にもとづいて竹田青嗣氏の主張をトレースしますと、次のようなポイントが出てくると思います。

 「資本主義が生産を持続的に拡大する」一方で、ハンガリーで社会主義を内部から体験した経済学者コルナイ・ヤーノシュが指摘するように「社会主義が生産するのは『不足の経済』である」ということが問題なのではないと思います。

 (2−1)の格差問題(2−2)の資源環境制約ということは措いて考えまして、(2)「資本主義は持続的に生産を拡大しつづける」と考えることはできないと思います。この数十年間のあいだに「バブル崩壊」と「恐慌」を幾度経験したことでしょう。
 事実上、資本主義は生産の拡大の継続のために、生産したものの暴力的な破壊を必要とします。それを「スクラップ・アンド・ビルド」と言って済ますことはできません。それは「もの」だけではなく「生命と人々の暮らし」を根こそぎ破壊するからです。

 ソ連の社会主義がかって権威を持ったのは、1929年世界恐慌のなかで経済社会の建設を進めた「不況と失業のない経済システム」であったからです。これは、企業で働くエンジニアであった父が社会主義とは何かということについて子供の頃に私に説明してくれたことから実感的な確信があります。

 さらに直接に経験したことではありませんが、1873年の初の世界恐慌(「一九世紀末大不況」)が第一次世界大戦を結果し、1929年の世界恐慌が第二次世界大戦による破壊と破壊のための軍事需要によってようやく解決されたことを歴史的事実として知っています。
 そして、おそろしいことに、この二つの国家の生産資源を総動員する「総力戦」が、資本主義の「進歩」の鍵であるイノヴェーションを集中的に生み出してきたということです。
竹田青嗣氏の国家と資本主義論から考えましたことについて(その2/2)。 ( 睡り葦 )
2017-08-27 18:54:23

 ハンガリー社会主義の内部体験者、コルナイ・ヤーノシュは、資本主義の特質をイノヴェーションであるとするシュンペーターに完璧に同意しています。
 コルナイは自ら体験した社会主義の官僚的計画経済のシステム的制約がもたらす生産の停滞と消費物資の不足から、社会主義システムは過去のものとなり、資本主義だけが将来性を持っていると『資本主義の本質について』(NTT出版、2016年、原著2014年)の2015年5月付「日本語版の序文」において述べています。
 しかし、シュンペーターは資本主義はその成功によって社会主義を生み出すと考えていました。

 「共産党宣言」による1848年の革命への期待が裏切られたことを反省したマルクス・エンゲルスの1859年の「経済学批判」の序言において「一つの社会構成体は、それが生産諸力にとって十分に余地を持ち、この生産諸力がすべて発展しきるまでは、決して没落するものではなく、新しい、更に高度な生産関係は、その物質的存在条件が、古い社会自体の体内で孵化されてしまうまでは、決して古いものに代わることはない」と定式化したことに対して、シュンペーターの方がこれに一致する考え方をしていることになります。

 振り返りますと、急速に大規模重化学工業化した産業を動員して戦われた第一次世界大戦において、凄まじい破壊力を持つ爆薬、ディーゼル・エンジンの艦船、航空機、潜水艦、戦車、毒ガスを含む化学兵器が登場し、一挙に「実用化」されました。
 化学工業の飛躍的発展によって化学肥料、農薬、食品保存料、食品添加物の大量使用がはじまり、食糧の「幾何級数的」増産がマルサス人口論の前提を過去のものとし、生産の拡大をささえる労働人口の増加をもたらしたわけです。むろん、人間の自然的生命と健康は人体が想定しなかった合成物質による危機にさらされることになりました。

 第一次大戦を受けて米国産業経済には1920年代に黄金時代がおとずれ、テイラーイズムとフォーディズムによる生産方式の革新による、自動車と家電品の圧倒的普及が実現しました。
 その「バブル」の反動としての1929年恐慌が日本の大陸への侵略を加速したことを含めて第二次世界大戦につながっていくわけです。

 第二次世界大戦においては、英米においてレーダーとコンピューターを生んだITエレクトロニクス、そして核。ドイツにおけるジェット・エンジン機とロケット及びミサイルの開発が、戦後の資本主義の発展を牽引したわけです。
 また。石井四郎陸軍軍医中将の「731部隊」と、ナチスによる人体実験の「成果」を吸い上げた米国においてバイオ・テクノロジーが飛躍的に発展したことを忘れるわけにはいきません。

 竹田青嗣氏が強調する「普遍的分業」は、アダム・スミス時代の社会的分業・工場内工程間分業と交換経済から、ベルト・コンベア方式による標準作業に、そしてロボットによる生産であるオートメーションにすすみ、このようなイノヴェーションが生産性を飛躍的に向上させました。
 そして今は、AIの発展によってあらたな生産性の革新が期待できるのではないかという「インダストリー4.0/第四次産業革命」といわれる段階に入りつつあります。

 すなわち、マルクスが経済学批判序言で定式化した考えによれば「社会主義はまだ待たねばならない」ということになるわけです。
 しかし、それ自体があらたな市場を生み出す可能性がある資源環境問題は措いて、産業資本主義がその成果として飛躍的に拡大した資本蓄積が生み出した金融資本主義による「グローバル新自由主義」すなわち「金融市場原理主義」というべきものがもたらす経済活動に対する破壊的かく乱作用が資本主義の生産性の向上を根本的に制約していると指摘することは、社会的支配パラダイムへの反逆として現代のタブーとなっています。

 事実上、1990年のバブル崩壊以降30年ちかくにわたり、日本の経済と社会が発展してきたと強弁することはできませんし、そうであるからこそ、非正規雇用の拡大による就業率の改善とマイナス金利という異様な金融政策と公的年金資金の消尽による株価の維持による刃の上の綱渡り(アベノミクス)になるわけです。

 これは、2007年以降10年にわたるサブプライム金融危機による停滞をつづける米国とEUにおいて同じであり、資本主義に対する懐疑を、ソ連型社会主義の失敗の記憶を呼び起こして冷却するとともに、超金融緩和という麻薬、さらにテロや北のミサイルといった人為的危機を引き起こして恫喝することによって抑える、という事態にあります。

 おそらく、最大の危機は「生産を持続的に拡大する」という資本主義原理が最も大規模にまた強力に働くのが米国軍産複合体であるという絶望的な問題です。消費市場としての戦争が「持続的に」必要とされるからです。
 そして、そのための「ツール」が国家です。アルカイダでは取り回しがわるいために「IS=イスラム国」という国家をつくらざるをえなかったことに、この意味での国家の本質が露呈しています。
 1990年以前は冷戦という格好の生産消費メカニズムがありましたが、それ以降の世界がどうなったか、眼の前で見てきたことを繰り返す必要がないほどです。

 ・・・と、いうような、すべての人が知っていることを書きつらねてしまいました。
 では、これから、このような資本主義をどうするのか、ソ連型社会主義を含めて、弁証法的代替案があるのか・・・、半分冗談ですが、AIを駆使して考えるのはいかがでしょうか。

 ソ連型計画経済が人間の管理計画能力すなわち情報処理能力では経済社会は制御不能であることを実証し、市場メカニズムに委ねることとなった結果、事実上その市場は1%の私的な利害によって操作管理されていることがあきらかになった現在こそ人間的知性が飛躍するチャンスであると思います。
現実にあるのは混合経済システム (関)
2017-09-01 16:27:48
睡り葦 さま

 返信遅れてしまい、申し訳ございませんでした。

 「資本主義がどのようなシステムか?」という点で、資本主義の定義が論者によってまちまちなので、資本主義について議論するとき混乱が生じているように思えます。
 私は「資本主義は生産を拡大しつづけるシステム」というのは、資本主義の定義としては妥当ではないと考えます。
 
 「すべての生産手段が私的に所有されるのが資本主義」、「すべての生産手段が社会的に所有されるのが社会主義」というのが、資本主義と社会主義の定義としてもっとも妥当だろうと私は考えます。
 
 すると、近代国家の歴史の上で、完全なる資本主義国などいまだ存在したことはなく、実際に存在するのは、程度の差こそあれ、資本主義と社会主義の中間の混合経済体制でしかありません。
 
 いわゆる市場原理主義(新自由主義)イデオロギーは、公的に管理されてきた水道などの公共インフラを含めたすべての社会サービスを私有化・民営化させようという点で、純粋資本主義を目指す運動ではありますが、アメリカも含め、それを達成できないまま、その結果として発生した社会矛盾の激化に苦しんでいます。
 かつてのソ連のように、純粋資本主義のユートピアを目指す壮大な新自由主義の社会実験は、社会的矛盾の拡大によって無残に敗北しつつあると言えるでしょう。
 
 両極端を想定した不毛な二項対立を超え、目指すべきは、市場原理に適さない社会的共通資本を社会的に管理するという、混合経済体制でしかありえません。
 これは、睡り葦様が言及されたハンガリーのコルナイ・ヤーノシュが目指したことでもあったろうと思えます。

 「資本主義に代わる経済体制はあり得ない」と言いきってしまう竹田氏の誤謬は、資本主義の定義がおかしいことから生じているように思えます。

たちまちにしてアタマの輪を取り除けていただき感謝いたします。 ( 睡り葦 )
2017-09-10 13:12:40

 アカデミックな知的訓練を欠くために、あてずっぽうが無慈悲に跳ね返されそうなところではからっきし意気地なしとなって、その風貌が畏怖を感じさせる狷介な哲学者、竹田青嗣氏の高踏的な議論に数ヶ月のあいだ金縛りになっておりました。
 この幼稚な精神的怯懦が子供の頃からの決定的な弱点で、なにかの拍子にカオを出すのに難儀しておりますが、今回は関さんに素速く救っていただきまして、ご親切に心から感謝しております。
 さらりと引いていただいた線をなぞりながら、虎の威を借るカワウソで悔しまぎれに今さらのご託を並べさせてください。

 竹田青嗣氏による、ひょっとするとオジサンの言う生産性原理と中味はほとんど変わらないのではないかと思える資本主義正当化論と、優等生の学級委員の言い方そっくりに響く国家の必然性の主張に茫然として、数ヶ月途方に暮れておりました。
 そこに2017年9月1日のコメントをいただき、ふと思いついて、関さんにあって竹田青嗣氏にはないものは、と指を折ってみて、ようやく視界を得ることができました。
 それは、(1)弁証法的な運動の認識。(2)歴史的な運動の認識。(3)人間の支配・被支配関係による社会の認識。この三つです。
 そしてそこから、世界を代表するように見える「支配する側」ではなく「支配される側」に視点を置いて、支配される側を客体としてではなく、主体として認識することであると思います。

 なお、竹田青嗣氏にあって関さんにはないものは、(1)「市民」という近代性を象徴する概念。ではないかと思えます。あきらかに竹田青嗣氏にとってもっとも重要なものである自由とは、いわゆる「市民的自由」を含意すると思われます。関さんは「市民」という言葉をつかわず、すべての地域・職域にかかわらず(「社会に出ていない」とされる家事従事者、失業者や、さらにホームレス、また、服役者という市民権を剥奪されている人々にわたる)老若男女すべてを含めて「国民」と言われると思います。
 それからつくづく思いましたことは、(2)原理と理論を現実より優位におく竹田青嗣氏の「プロクルステスの寝台」が、関さんにはないということです。

 弊前投稿においては、「普遍的分業の進展と普遍的消費による資本主義的生産の永続的な拡大」が、資源環境問題があらわれる以前から歴史的現実ではないことに固執して、竹田青嗣氏の資本主義の定義が先験的原理論であることを射抜こうとしました。
 しかし「すべての生産手段が私的に所有されるのが資本主義」であるというコロンブスの卵にあ然としてようやく催眠術がとけました。ありがとうございます。

 なるほど、生産資材・技術・生産設備がプライベート・セクターすなわち営利資本の所有のもとにあり、その生産手段によって被雇用者がつくりだした生産物と、その市場対価がすべて営利資本の所有に帰するという事実から見る資本主義は人間の歴史から見て、さらに自然の運動から見て、異様に思えてしまいます。

 そこで、健全な社会成立のリトマス試験紙として竹田青嗣氏の「自由の相互承認」原則に拠ろうとすると、雇用側と被雇用者の間に「自由の相互承認」が成立するのか、という問題すら立てられないだろうことに気がつきます。

 さらに、「私的所有」に対するものが「社会的所有」であるのか、右翼的無政府主義者のつもりの私には得心がゆきません。
 「所有」というものそのものをあらたなものに置き換えることができるのか・・・。

 それはともかく、これまで存在した「混合経済」は、私的な営利資本による資本主義を維持し「延命」させるためのものであったように思います。
 政府事業による社会資本を「社会的共通資本」に置き換えることによって、これが変化するのか、私的な営利資本がすべてをその手におさめることが社会の崩壊を招くことが経験的にあきらかになったこの時代において、実際の社会設計の提案としてこころみるべきではないかと思います。

 金融が資本主義のインフラストラクチャーではなくなり利己的専制的支配者となった歴史的段階において、金融を社会的共通資本とすることの意味と、そうするための方策を提示することのインパクトは激烈でしょう。
 さらに、いわゆる民間軍事会社、それにエンジニアリング企業を含めて軍需産業・武器産業についてはどうでしょうか。現代の世界の最大のガンである米系軍産勢力を究極的には社会的共通資本に改組する・・・・?!
 それは国家のあり方そのものを変えることにならないでしょうか。これこそが弁証法的代替案になるのでしょうか?
新しい記事で感想を書きます (関)
2017-09-13 21:50:51
睡り葦さま

 大変に刺激的な論考ありがとうございました。軍産複合体を社会的共通資本に・・・・という見解、同感です。実行に移すには、あまりにも険しい道のりではありますが、とにかく夢物語でもなんでも、その可能性を語ることから始めなければならないでしょう。
 というわけで、私の感想も含めて、新しい記事として投稿します。

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