日本地図を広げると、長野は西の方を向いた人の横顔に見えます。
今回おじゃましたのは、横顔の耳よりの方、です。
空港のある松本市と県庁所在地の長野市、こんなに離れていること改めて知りました。
耳よりな情報もとめての0組ツアー。
おかげさまで、3日間ともすこぶる快晴 すばらしい旅となりました。
長野県
『O組ツアー2015日程』
とは・・息子たちが通っていた幼稚園で顔なじみになったお母さんたちとの旅行。O組のOは園長先生のイニシャル。
5月30日(土)
ANA240便 福岡07:00~羽田08:40
京急線で品川~山手線で東京
北陸新幹線かがやき509号 東京10:32~長野11;54
●善光寺参拝その1
長野泊
長野市
5月31日(日)
●善光寺参拝その2
JR信越本線小諸行 長野08:44~上田09:30
●上田散策
しなの鉄道線 上田15:20~軽井沢16:04
●軽井沢散策その1
軽井沢泊
上田市
6月1日(月)
●軽井沢散策その2
北陸新幹線あさま618号 軽井沢発14:39~東京着15:56
山手線で品川~京急線で羽田
ANA268便 羽田発19:00~福岡20:56
軽井沢
レポは、
その1≪善光寺編≫
その2
≪真田幸村のふるさと編≫・・今日です。
その3≪軽井沢編≫
その4≪グルメ&お土産編≫
・・へと、続きます。
どうぞおつきあいくださいね~。
はじまり
長野をあとに上田へ。
来年のNHK大河は「真田丸」です。
「真田丸」とは、1614年、徳川家康が大阪城を攻めた大坂冬の陣の際、豊臣方の武将・真田幸村が大阪城の平野口に築いた出城の名称。
そうです、ここ上田は、この真田幸村のふるさとなのです。
真田幸村さんって、
安土桃山時代の武将。信濃上田城主真田昌幸の次男,左衛門佐信繁と称する。父とともに豊臣秀吉に仕え,天正 18 (1590) 年小田原征伐 に参加。慶長5 (1600) 年関ヶ原の戦いには兄信之と分れ,父とともに西軍に応じ,居城上田城に拠って,東山道を西上して関ヶ原の戦いに参加しようとする徳川秀忠の大軍を真田丸と呼ばれる砦を作り、徳川家康軍をわずかの手兵で阻止し,武威をあげた。方です。
真田幸村公騎馬像
上田城にいたのは青年期であったため像は若武者の姿をしている。
予約していた観光タクシーに乗り込ます。
案内していただいた順路に沿って、写真を並べますよ。
上田藩主居館表御門
上田高校の校舎が上田藩の藩主館跡に建てられており、校門は上田藩主居館表御門を継承している。周囲には堀も残されている。門、塀、堀はともに上田市の文化財に指定されている。
伊勢山笑門
砥石城址の門。天文十九年には武田晴信が、この砥石城に攻め込んでいる。これが有名な、戸石崩れと言われている物である。この少し前、真田幸綱(幸隆)は武田晴信に従ったようで、その翌年天文二十年幸綱の謀略によりこの戸石城は落とされ、武田の物となった。この事をきっかけに、北信の雄村上義清は没落に向う。武田勝頼が滅んだ後は、上田城が出来るまで真田昌幸の上田平での拠点となっていた。
真田氏本城跡
上田城築城までの間、真田氏の本城であったと推定され、土塁や郭が今に残る。小高い山の上にあり、砥石城や上田平が眼下に広がる。
「ここは、来年の大河のオープニングに使われる予定です。」
と、運転手さん。
わあ~そうなんだあ。
ロケ地巡り好きにはたまりません。
さきどりです!!!
上田平
真田氏本城跡よりの展望。長野県東部(東信地方)、千曲川中流域に位置する盆地。
長谷寺(ちょうこくじ)
六文銭が刻まれたアーチ型の石門とそれを覆うようにシダレザクラが咲く。幸村の祖父・幸隆が開山し、父・昌幸の代に整備された真田氏の菩提寺。
真田家の家紋は、
「六文銭」です。
真田氏は家紋に六文銭を用いることで、戦争や日頃の駆け引きについて、死をもいとわない不惜身命の決意で望んでいることを示していたと言われてる。真田氏の代名詞になっているほど、特徴的な家紋で、これは真田幸隆が旗印として採用したのが始まりだと言われている。
石塔
幸隆・幸隆夫人・昌幸の墓所があります。
お賽銭は、どなたも「六文銭」の形に並べておられます。
信綱寺
信綱は真田幸隆の長男、父の死後家督を継ぐが、天正3年の長篠の合戦で、弟昌輝と共に戦死している。信綱の首は、家臣の白河兄弟の手によって真田に持ち帰られ、信綱寺に葬られた。
ちょっと、整理。
真田氏の家系図です。
上田城址に着きました。
東虎口櫓門
真田十勇士になりきった“信州上田おもてなし武将隊”が城内をガイドしてくれます。
面白エピソードを交えながら楽しく解説してくれます。
本日、案内してくれるのは、穴山小助さん。
この穴山小助は、真田幸村に背格好が似ていたため、幸村の影武者だったそうです。
来年の大河ではどなたが演じるのでしょう。
楽しみですね。
真田十勇士とは、戦国時代末期から江戸時代初期にかけての武将・真田幸村に仕えたとされる、10人の家臣のこと。あくまで伝承上の架空の人物といえるが、歴史的な由来を持つ人物もいる。立川文庫以来、基本的な構成は、猿飛佐助、霧隠才蔵、三好清海入道、三好伊三入道、穴山小助、由利鎌之助、筧十蔵、海野六郎、根津甚八、望月六郎の10人となっているが、作品によって差異が見られる。
真田石
上田城本丸東虎口櫓門の正面右手の石垣にある。高さ約2.5m・横約3mの大石.真田昌幸が築城の折り柱石として据えたものと伝えられ真田石と呼ばれている。真田信之が松代へ転封に当たって父の形見に持ち運ぼうとしたが、大勢の人の力をもってしてもびくとも動かなかったと伝えられる。
酒樽茶室
真田井戸
この井戸からは、抜け穴があって城北の太郎山麓の砦に通じていた。敵に包囲されてもその抜け穴より兵糧を運び入れるにも、城兵の出入りにも不自由しなかったという。
隅櫓跡
西櫓
寛永3~5年(1626~1628)にかけて仙石氏によって建てられ、上田城で築城当初のままに残されている唯一の建物。本丸西虎口を固める櫓。
真田赤備え兜
二度にわたり徳川の大軍の攻撃を退けた真田の「智勇」は天下に轟き大阪夏の陣において武具を赤で統一した「真田赤備え」部隊を率いた真田幸村がかぶった朱色で鹿角型の兜が「赤備え兜」。
写真の兜には六文銭が見えます。
しかしながら、
真田幸村は大坂の陣で六文銭を使用しなかった。小説やテレビドラマなどの影響で、大坂の陣の時に真田幸村が六文銭の旗を掲げて家康の本陣へ突入していったと思われがちだが、実際は武具を全て赤一色で統一する赤備えで決戦に望み、少なくとも目立つところには真田の家紋は一切使わなかった。これは、徳川方についた真田宗家である兄真田信之に対して気遣ったものであり、尚かつ赤備えで活躍した武田氏の流れを汲む者であることを意識してのことだと思われる。
石垣
二の丸橋標柱
「2のマルハシ」と読めます。
私電のプラットホーム跡
二の丸橋の下を見下ろすと、
昭和3年から47年までけやき並木遊歩道には電車が走っていた。
大坂の陣の後。家康は幸村の首実検の際に、「幸村の武勇にあやかれよ」と言うと、居並ぶ武将達がこぞって遺髪を取り合ったという。そして家康は「幸村の戦いぶりは敵ながら天晴れであり、江戸城内にて幸村を誉め讃えることを許す」とした。石田三成のように名前さえ口に出来ない者がいる一方、「誉め称えていい」というのは極めて異例なこと。家康は本陣が崩壊するほど窮地に追い込まれながらも、騎上の幸村に同じ戦国の男として感嘆していたのだろう。
高野山から出なければ、命は長らえたのかもしれません。
現に 兄の信之は、93歳で亡くなり、天寿を全うしておられます。
上田城歴代城主は
真田氏が1583~1622
仙石氏が1622~1706
松平氏が1706~1869
と、真田家が一番短いのですが
上田の人たちは、やはり真田のお殿様をいまも愛しておられるのだそうです。
上田城とは、
長野県上田市にあった平城(ひらじろ)。国指定史跡。日本城郭協会選定による「日本100名城」の一つ。安土桃山時代の真田氏の居城で、江戸時代には上田藩の藩庁が置かれた。1583年(天正11)に、甲斐武田氏旧臣の真田昌幸が築いた。徳川氏は、1585年(天正13)と1600年(慶長5)の関ヶ原の戦いの直前の2度にわたり同城を攻めたが撃退された。この戦いは第一次および第二次上田合戦と呼ばれる。関ヶ原の戦い後、真田昌幸と次男の信繁(真田幸村)は西軍に与したため死罪を命じられたが、本多忠勝らの嘆願で高野山に、のちに九度山に流罪となり、上田城は徳川氏により破壊された。関ヶ原の戦いで東軍に与した昌幸長男の真田信之(信幸)が上田藩主となり、三の丸跡に陣屋を構えた。その後、真田氏が信濃国松代に転封すると仙石氏が入城し、破却された上田城を現在残る姿に再建した。本丸の煤と柿渋で防水した黒い下見板張を用いた3棟の櫓(やぐら)(南櫓、北櫓、西櫓)などは、仙石氏の時代に整備されたものである。仙石氏3代の後、松平氏が入城して明治維新を迎えたが、城の遺構の破却と移築が進み、城内には石垣と櫓1棟だけが残る状態になった。昭和に入り、移築されていた櫓2棟が本丸の元の位置に復元され、さらに平成に入って櫓門や塀などが復元された。現在、旧二の丸が上田城跡公園として整備されている。本丸跡には、明治に建立された歴代城主を祀る松平神社(真田神社とも呼ばれる)がある。藩主居館のあった三の丸跡は上田高校の敷地となっており、ここには松平氏時代の屋敷門と堀が残されている。
上田市のマンホール
旧上田市のシンボルマークである「六花文」を中心に市花であるツツジをあしらったデザイン。
おしまい
この旅もよく歩きましたぁ。
1日目16355歩
2日目18676歩
3日目10776歩
てくてくとことこ。
レポは、≪軽井沢編≫へと続きます。
よろしくお願いします。
【追記】
金曜恒例自作の陶芸作品紹介はお休みします。
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