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海軍のジンクス

2011-07-01 | 海軍




こと命にかかわるミッションに臨む団体でジンクスを担がないものはないでしょう。



昔から船には女性は乗せない、ということになっていました。
船の神様は女神なので、女性を乗せると怒りを買うという理由からです。
女性が嫉妬深いので、自分以外の「女」を認めない、という一般論からのジンクスでしょう。

船の守り神と信じられていた猫を乗せることも、二次大戦中でさえ行われていました。
この守り神は船にはびこるネズミを取ってくれるので一石二鳥だったわけです。


いきなり余談ですが、以前「ネズミ上陸」という稿で
「船のネズミを取ったら御褒美に上陸許可がもらえた」という話をしました。
このネズミは「二度使い禁止」、
つまり一度捕えたネズミさんを二度と再利用できないように髭を切ったらしいのです。
むんずと身体をつかんでわざわざ髭切ったんでしょうか?

しかしこれでうげげ、などというのは早い。
なんと御褒美上陸にはネズミのみならず
「ゴキブリ上陸」というものが・・・・・

これは

「ゴキブリ100匹につき一回上陸」・・・うわああああああああっ

というもので・・・・・・。取ったゴキブリを壜かなんかにためておいて、毎日数えて
「うふふ、あと17匹で上陸だ
なんて楽しみにしてたんでしょうか。

そして、ちゃんと百匹あるかどうか

「ゴキブリが一匹、ゴキブリが二匹、ゴキブリが三匹(中略)・・・ゴキブリが99匹、
おいっ一匹足りんぞ!上陸は認めん」


って、数えてたんでしょうか・・・・数えたんだろうなあ。軍の規則だから。
そして、数合わせのために人のゴキブリ瓶から盗んだりとか・・・まさか、まさかね。


それた話を戻しまして、ジンクスです。
アポロ13号は、13というキリスト教国には縁起の悪い名前がついていたため、
やはり計画当初からそれについての逡巡やらなんやらが各方面から湧きあがっていたのですが、
この辺りが科学の最先端を突っ走るものの驕りとでも言うのでしょうか、
NASAはそのジンクスをあえて破るために
「13時13分」
に発射をしたというのですね。

・・・・なんと挑戦的かつ何と不遜な。


そして、結果は皆さんご存知の通り、だーかーらー云わんこっちゃない、I told you so.というもので、
飛行士が生きて帰ってきただけが不幸中の幸い、という盛大な事故を起こしてしまいました。
さしものNASAも、これ以降ジンクスに挑戦するようなマネはしていないようです。
(してませんよね?)


飛行機乗りも当然非常にジンクス担ぐ人は多かったようです。
第一次世界大戦中のドイツの撃墜王リヒトホ―ヘンは出撃前決して写真を撮りませんでした。
何故か愛犬と一緒に写真を撮ったその日、彼は撃墜され25歳の生涯を終えています。


伊33潜の痛ましい事故に、不思議と3がまつわっていたことから、
その後、帝国海軍の潜水艦乗りの間には3を忌み嫌う、というジンクスが生まれました。
しかし、一般的に昔から船乗りは「偶数」を嫌いました。

「4」が縁起が悪いのは当たり前ですが、何故偶数なのかというとその理由は
「2で割れてしまうから」
なのだそうです。
船が真っ二つ、という言葉を想像するからだったようですね。

さて、このブログです。

気づいている方はおそらく一人もいないと思いますが、海軍について書くときは必ず奇数日に掲載しています。
震災までは月が変わるときは海軍ネタが二日続くことがあったのはそのためです。
海軍は偶数を嫌う、というジンクスに配慮しているわけです。


で、今日画像のマンガ。
最近オムライスの上にグリーンピース、って見ない気がしますね。パセリは添えてあっても。
黄色いタマゴに赤いケチャップ、ここにはやはり緑が美しい、ということで
必ず昔はグリーンピースが乗っていたようです。

その数が必ず奇数であることを、賄いの兵は厳しく叩きこまれたのだそうです。


ところで、海軍とジンクスについて調べていて、大日本帝国海軍そのものがこれまでのジンクスを破った、
あることに気づきました。


昭和20年の敗戦、そして帝国海軍の消滅。
しかし、海軍は全く死んでしまったわけではありませんでした。


戦後日本近海に散らばる二次大戦の遺物である機雷の撤去に始まり、
その後朝鮮戦争において、旧海軍軍人で組織された部隊が、
掃海艇での機雷撤去に「従軍」した話をご存知でしょうか。
(阿川尚之氏や桜林美佐氏がこのことについてノンフィクションを著していますので、
興味がおありの方は是非一読をお勧めします)

帝国海軍の関係者は、終戦で海軍がこの世から消えてしまったと思われる時期にも、
いや、消滅直後から、海軍の再興にに思いを巡らしていました。
彼らは極秘のうちに計画を練り、来る日に備えたのです。

そして幸いなことに、この掃海活動があったゆえに、海軍の人的伝統と作戦活動は、
敗戦によっても終わりとならなかったのです。

阿川氏の著書によると、
米軍は当初から日本海軍の再興再建については考えていなかったということです。
日本海域は米軍が守り、せいぜい保安庁があれば沿岸警備は事足れり、
という認識にすぎませんでした。

しかし、朝鮮戦争勃発によって、米軍は極秘にですが旧海軍の出動を要請することになり、
掃海艇の活動はそのマンパワーを継続させるという結果に繋がりました。

しかしこの作戦は過酷なもので、「戦死」した「軍人」もいるのです。

その後、元海軍大将、開戦時の駐米大使であった野村吉三郎を始めとする海軍出身者が懸命の働き掛けをし、
ついに昭和二十七年、保安庁とは別個の海上警備隊として、
現在の海上自衛隊の元になる海軍組織が誕生したのです。

極秘のうちに募られた士官はほとんどが帝国海軍の元士官でした。
彼らの結束と海軍に対する帰属意識は驚くほど固く、
そのため募集はその少し前に発足した警察予備隊(現在の陸自)と違い、
非常に順調だったと云われています。

彼らもと海軍士官は、自分たちの教わったやり方を若い世代に教えるため、
放っておいても旧軍の伝統とやり方は新しい組織であるはずの海上警備隊に引き継がれることになります。
現在の海上自衛隊が、隊内のしきたり、伝統、方法に置いてもっとも旧軍のそれを色濃く持っている、
というのはこのためだそうです。



さて、そして、みごと大日本帝国海軍は戦後七年目に不死鳥のように甦りました。
この年日米間で締結した船舶貸借協定に基づき、
翌二十八年、米海軍が横須賀基地で正式に計十隻の船舶を警備隊に引き渡したとき、
老提督野村吉三郎の目には涙があったと伝えられます。


・・・・え?ジンクスの話はどこへ行った、って?

そう、かつて世界には海軍に関するこのようなジンクスがありました。
「いったん滅びて消滅した海軍が甦ることは決してない」

日本国海上自衛隊は、歴史上そのジンクスを初めて打ち破る存在となったのです。







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