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関東大震災における海軍の災害派遣と料亭小松

2016-05-25 | 海軍

歴史ウォークの「小松」見学は、玄関の中に数歩入るだけで終わり、
(なんといっても営業しているわけですから)
あとは建物の塀ごしに見える大宴会場のある棟を見ながら歩いて行きました。



この直後、この部分が全て焼け落ちてしまったのがまだ信じられません。
この建物の二階に160畳敷きの大広間があったのだそうです。
ここにいったことのあるガイドさんによると、「広すぎて向こうが見えない」
くらいの広大な宴会場だったとのこと。

ここは、大正12年、9月1日に起きた関東大震災のとき、
ちょうど新築中でした。


小松が隆盛を誇ったのは明治時代のことです。
日本海海戦の勝利により人々が祝賀ムードのうえ、毎日のように
横須賀に凱旋入港する艦船の乗組員による祝勝会が開かれたのです。

その勢いをかって、小松は100畳の大広間の建設が行われました。

しかし大正年間に入ってからの小松の営業は決してうまくいっていたとは言えません。
昔女将が「いつでも働きながら海と海軍の艦が見られるように」と、
をわざわざ田戸の海辺に建てた小松の目の前の海が埋め立てられてしまい、
白砂に青松の立地を奪われて客足が遠のいたところに、
世界大恐慌のあおりを受け、娼妓がストライキを起こしたりしました。

そして山本コマツは一端料亭小松を休業して置屋に仮寓していました。
 
しかし多くの海軍軍人たちの小松の閉店を惜しむ声に後押しされる形で、
彼女は当時景色が良かった現在の店舗がある米が浜に約400坪の土地を購入し、
大正12年(つまり震災の年の)春頃から料亭小松の再建工事を開始しました。

それがこの建物です。
大正12年当初は、ここ米が浜もまだ海岸沿いだったんですね。 

地震が起こったとき、コマツや彼女の孫の山本直江さんは置屋にいましたが、
ぐらっと揺れた瞬間全員がわーっと言って飛び出そうとしたのを、女将は

「出ちゃダメ!」

と大声で制して皆を止めました。
そのとき建物の外に出ていたら、倒れてきた前の家の下敷きになっていたそうです。
さすがはおばあちゃんの知恵袋、亀の甲より年の功。

頃合いを見て「いまだ!」と女将が号令をかけ、みんなで走り出て
海岸に逃げて20人ばかりは一人も怪我すらせずにすみました。



さて、先日起こった熊本大地震では、自衛隊の動きが大変早かったので
国民はむしろ驚いたくらいでした。

4月14日21時46分 震災発生 


    
21時26分 最初の災害派遣要請 
    熊本県知事→陸上自衛隊第8師団長 大分県知事→西部方面特科隊長(16日)

    防衛省、初動対処部隊「ファストフォース」を派遣
    陸海空が情報収取のため「F2」2機、「P3C」1機、「UH-1」1機を派遣


4月16日2時45分 陸海空統合任務部隊を編成するための自衛隊行動命令が発令
   2時間後陸災部隊(13,000名)、海災部隊(1,000名)、空災部隊(1,000名)
   いずれも活動開始


4月17日  
   陸自 全国にある方面隊が部隊を投入
      中央即応集団 第1ヘリコプター団 航空学校

   海自 護衛艦「ひゅうが」「いずも」「やまぎり」「あたご」「きりさめ」など
      救難飛行隊を有する航空部隊投入

   空自 航空隊や救難隊などを投入
  
   即応予備自衛官招集 最大300人程度 招集は東日本大震災以来2回目


これだけ初動が早かったのも、阪神大震災の教訓の賜物だと言えましょう。

 

それでは関東大震災のとき、海軍はどのように動いたのでしょうか。


当時の横須賀鎮守府長官野間口兼雄中将は、地震発生後ただちに部署を発動し、
艦船部隊をあげて鎮守府構内に起こった火災を消火し、
派遣防火隊と警備隊を海軍内で編成して市の活動に協力させました。



第9代の温厚厚顔なおじいちゃま風が野間口中将です。


横須賀鎮守府はすぐさま艦艇を品川と横山に派遣し、現地の治安維持にあたらせ、
艦艇で東京方面との連絡、救護物資の輸送を行っています。
関東大震災のとき、艦船の被害はほとんどありませんでした。

そして佐世保鎮守府長官に打電で食料と医療品の収集を依頼し、
たまたま帰ってきた特務艦(水上機母艦)「神威」(かもい)には、
伊勢湾方面での食糧収集を命じました。

神威

横須賀鎮守府の動きは全てすぐさま海軍省から下された命令に基づいており、
海軍省がいかに初動を起こすのが早かったかということになります。

海軍省は同時に連合艦隊と火各鎮守府に物資と人員の輸送を命じていますが、
当時の通信で命令が全て到達したのは9月2日のことでした。
全海軍に向けて最初に非常事態を発信したのは送信局指揮官だった一大尉で、

彼はこれを独断で9月1日の午後3時に行っています。

独断といえば、呉鎮守府長官だった鈴木貫太郎も艦艇の派遣を
上からの裁可を仰がずに行いました。

地震発生当時、連合艦隊は裏長山列島(遼東半島沖)で訓練中でしたが、
すぐさま東京湾に向かい、一部艦艇には食糧と救急品が搭載されました。
そしてまず巡洋艦や駆逐艦など、軽量の艦船が品川沖に到着。
「長門」「伊勢」「日向」「陸奥」は一旦九州に向かい、

「長門」に物資を積み替えて東京湾に向かわせます。

そして9月5日、「長門」は品川沖に到着。

このとき、「長門」は震災の救援を申し出た英海軍の巡洋艦に監視追随されていましたが、
公表されている船速23ノットよりも速い全速力で東京に向かっています。

連合艦隊は海軍省内に指揮所を置き、そこから指揮をして、被災地に物資を運んだり、
避難民を輸送するといったように全軍あげての救難活動を行いました。
このとき連合艦隊司令長官だったのが竹下勇中将で、旗艦の「長門」に座乗していました。

竹下勇中将・駐米武官時代

竹下中将はナイト(勲功爵)位を持っていたので、タイトルは「Sir」です。
このとき、英海軍巡洋艦は竹下中将に敬意を表して礼砲を撃っています。
ちなみに原宿の「竹下通り」はこの人の家があったことからついた地名です。


このとき東京湾には続いて「金剛」が、そして呉から「陸奥」が到着し、

海軍の総力を挙げて救援に当たりました。


さて、熊本地震での発生は4月14日9時26分。
その5分後の9時31分には、政府は首相官邸の危機管理センターに
官邸対策室を設置、さらにその5分後には首相が談話を出しています。

現代の大災害発生直後の政府が行うことが対策室の設置であれば、当時は
その災害の規模にもよりますが、戒厳令の布告が行われました。

戒厳令というとクーデターのときに布かれるものというイメージがありますが、

「戦時もしくは事変に際し、兵備をもって全国もしくは地方を警戒する法」

と明治憲法下で定義されるものです。

兵力を用いて警戒を行う必要がある場合を戒厳とするものですが、重要なのは
戒厳の際、

「平時には法律の規定で保護されているものを一時停止して、包括的な
執行の権限を軍司令官に与えることである」

と定義していることです。
つまり、兵力で警戒、鎮圧を行わなければいけない関係で、その間
軍司令官に指揮権が与えられる、ということなんですね。

震災が発生して政府がすぐさま戒厳令を布告したので、関東大震災のときには
軍がどこにも伺うことなく迅速に行動を起こしたということがありました。
もっとも、「戒厳令」という緊迫した響きに当時の国民が不安を感じ、

朝鮮人の暴動の噂に必要以上の猜疑心を煽られたというマイナス面も否定できません。



戦後の日本では、災害の際にも憲法に縛られて、危急を要するのに自衛隊は動けない、
という問題があったにもかかわらず、それが戦後未曾有の災害となった
阪神大震災が起こるまで、表面化することがなかったという不幸がありました。


今回のように、知事からの自衛隊出動要請が災害発生から1分以内に
(派遣要請9時26分であるのに注意)行われるならともかく、それができずに
阪神大震災のときには救うことのできる命が救えなかったといわれています。

たとえば、兵庫と隣接した京都府にある福知山の陸自駐屯地の連隊長は、
全く知事からの要請がこないので、とりあえず部下を連れて駐屯地を出て、
京都府と兵庫県の県境で命令が出るのを待ち続けていたそうですし、
当時の村山総理大臣がテレビを見ながら呆然と「どうしたらいいのか」
とつぶやいたとか、自衛隊をわざと派遣させなかったとかいわれますが、

とりあえず当時の関係者は、

「要請をためらったなんてありえない。自衛隊に連絡が取れなかっただけだ」

「渋滞で主力部隊が被災地に入ってこられなかった」

などと言っており、貝原兵庫県知事(当時)に至っては

「要請が遅れたというのは自衛隊の言い訳だ」


とまで断言しています。
今となっては真相は藪の中でこの言い分を証明しようがありませんが、
少なくとも福知山の連隊などの例は実際に多数あったのです。



その後、法律が改正され災害が起きた時には自衛隊の独自の判断で動ける、

と仕組みが変えられ、東日本大震災にはその成果を挙げることができています。


その点、戦前の日本は、大災害の時に戒厳令を敷くことで動く権限を軍が持つことになり、

軍隊の出動を必要とする事態に対応するという仕組みだったので、ようやく
災害派遣に関してのみ、このころの即応性を取り戻したと言えるかもしれません。




関東大震災による横須賀の被害について少し述べておきましょう。

全所帯17,010世帯のうちほぼ74パーセントに当たる12,488世帯が被害を受け、
2094世帯が焼失しました。

死者は市内だけで683人。
被害で多かったのは崩れ落ちた岩石で生き埋めとなったケースでした。
なかでも、修学旅行で横須賀軍港を見学に来ていて山崩れに遭い、
全員が生き埋めになった静岡の女学校もあったということです。

海軍工廠の被害は、あまり公にはなっていませんが甚大でした。
まず、ドックに入っていた潜水艦が揺れで横倒しになり、
どちらも全損していますし、工廠の各工場では煉瓦の建物の倒壊が起こり、
その結果即死107名、重軽傷者290名という被害が出ました。

このとき「天城」型1番艦の「天城」も全損してしまったため、代艦として

「加賀」型戦艦1番艦「加賀」の空母改造が決定されることになっています。

損害額でいうと、横須賀市の被害が約20万円だったのに対し、
海軍関係だけの被害では約7000万円という巨額に上ったということです。


なお、関東大震災のときの流言飛語によってパニックに陥った人々が
自警団を結成して朝鮮人を殺害したという事件が起こりました。
間違えてろうあ者や方言を持つ日本人まで殺されたという惨事でしたが、
特筆すべきはこのとき、海軍が多くの朝鮮人を民衆から保護した事実です。

野間口長官の副官だった草鹿龍之介大尉(後の第一航空艦隊参謀長)は、

「朝鮮人が漁船で大挙押し寄せ、赤旗を振り、井戸に毒薬を入れる」

といった類のデマを受け入れず、海軍陸戦隊が実弾の使用を要請してきたり
在郷軍人が武器放出を要求してきたのに対しても断固として許可を出しませんでした。

それだけでなく、このとき横須賀鎮守府は、戒厳司令部の命により避難所として
朝鮮人をここに集めてかくまっているのです。
(この件に対して、現在「虐殺」を主張する韓国人団体や日本の団体が決して
当時の軍について触れないのは、このことを明らかにしたくないためだと思われます。)

 

さて、料亭小松ですが、営業していなかった田戸の旧小松の建物が無事だったので、
女将はそこに戻って生活をし、例の160畳の大広間は被災者に
開放して避難所として被災者を泊めたということです。
160畳ですから、おそらく近隣の人々はほとんどここで過ごしたのではないでしょうか。

この写真に残る建築中のこの米が浜の新館の方は、幸いなんの被害もなく、
工事は継続され、震災の2ヶ月後の11月には落成して、
小松はその秋から営業を再開することができたということです。



なお、海軍の一連の活動に対して市民は感激し、翌年の2月、

奥宮横須賀市長は横須賀鎮守府の野間口長官にあてて、

「吾人横須賀市民の全てが前横須賀鎮守府司令長官野間口大将閣下に
負うところの鴻恩に至りては、けだし最も広汎に、最も深刻に
個々感銘して、ながえに忘るる能わざるところなりとす」

という感謝状を送っています。


続く。



 


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3 Comments

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猛反省! (雷蔵)
2016-05-25 05:18:03
中越、東北と今回の熊本と5年と間をおかず、大きな地震が起こっています。初動の速さから言って、自衛隊の練度は高過ぎると言ってもおかしくない域に達していると思いますが、災害派遣は自衛隊の本来の任務ではありません。あくまでも戦うことが任務です。実弾と空包くらい間違えないように、今一度、原点に立ち返って頑張らなきゃと思います。猛反省!
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遅い!というだけの簡単なお仕事 (佳太郎)
2016-05-25 22:39:07
民主、もとい民進党はそれだけしかしていませんね。自分たちがやった事はどんなんだったんでしょうな。とりあえず原発を爆発させていましたな。
しかし関東大震災も海軍の動きははやかったのですね。陸軍も迅速に動いたようですけど。これらの心意気は現在の自衛隊にも受け継がれているのでしょう。やはり自衛隊は日本に不可欠です。
一番は自衛隊が活躍しないことだと思いますが。地震も洪水も起こらないのが一番ですからね。
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衣の焼ける臭い (筆無精三等兵)
2016-05-26 22:18:00
「小松」焼失に続いて、実包取り違え事故、更には決着のついたはずの「おおすみ」事故に対する「遺族」の賠償請求訴訟(本来なら監督省庁に対して賠償を申し立てて、協議の結果双方の合意が得られなければ不服を覚えた方が訴訟を起こす、というのが一般的な流れのはずですが、何故かいきなり裁判沙汰です)など、新旧問わず日本の軍事関係の「不祥事」が発声されており、関係各位や雷蔵さん達のようなOB、予備役の方々におかれる忸怩たる思いは、私などにはとても量れるものでは無いことと思います。

ですが、「小松」については事件とも事故とも判然としないので別にしても、実包取り違え、「おおすみ」追訴については背後に薄気味悪いものが見える気がします。
素人の私がいうのもなんですが、実包の取り違え、ましてや渡された全員が気づかないことなど本当にあり得るのでしょうか?
CNNなどのドキュメンタリーとかで見ていると、武器庫から装備を受けとる際には必ず、弾倉を覗いて装弾を確認しています。その為、一人程度ならいざ知らず、全員が見間違える可能性はほぼゼロでしょう。
それに実弾を使用するなら、事前に注意喚起の訓示が行われるでしょうし、負傷した隊員の怪我が実弾発射で吹き飛ばされたブランクアダプターに因るものということが、空砲での訓練であると全員が認識していた証左です。
オートマチック機構を有する銃の空砲には、機関を確実に作動させる為の被帽が装着されていると聞いたことがありますが、それならば余計に見分けがつくだろうと思いますし。
「亡国のイージス」並に荒唐無稽な妄想ですが、最初の一発のみが空砲で残りが実弾であったとすれば、装填まえのチェックをすり抜けるのではないでしょうか?もしそうなら、取り違えよりももっと重大で恐ろしい問題ではありますが。
不謹慎ではありますが、雷蔵さんが「不甲斐ない」と思われることが原因である方が、私はまだ気が休まると思います。
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