ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

或る陸軍軍人のこと(士官学校編)

2011-11-13 | 陸軍

       


カーキに最も合うとされている色は、フランソワーズ・モレシャン(知ってます?)によるとだそうです。
フランス人のモレシャンさんも太鼓判。
ベストマッチのカラーコーディネートを、日本帝国陸軍は大昔に軍服に採用していました。
なので、背景も赤にしてしまいましたが、今まで描いた画像の中、
この陸軍士官学校の候補生画像だけが、ブルーっぽい作品群の中で目立っています。

エリス中尉は「ネイビーブルー」にしか興味なかったんじゃないのか、と思われた方。

全体的に海軍ファンであるところのエリス中尉ですが、陸軍が嫌い、と言っているわけではありません。
決して戦争賛美するわけではありませんが、陸海問わず軍隊と言う究極の規律団体に属する男性は、
すべからく、その個人の全てを国への忠誠と滅私の精神の象徴である軍服によって押し隠され、
それゆえにとても一般人には到達できないあるストイックな美しさを湛えるものだと思うのです。

・・・・難しく言ってみましたが、要するに、軍服姿はどこのでも好きだってことですね。

陸軍の制服は、前にも言ったように、防暑用のハイウェストのズボン、そして士官の着用するマント、
そして本日画像の陸軍士官学校の軍服がデザイン的に優れていると思っています。




以前から陸士のお話を聞きたいと思っていた方がいました。
終戦時にちょうど士官学校を終えた方で
「終戦後卒業証書が送られてきたので、陸軍少尉が最終階級なんだよ」と言う方。

しかしながら、その方は業界なら知らないもののない超有名、超名士。
言わば有名界の重鎮です。
そんな方にエリス中尉の興味ごときのためにお時間を取らすことなど畏れ多くて
(しかも陸軍のことをあまり知りませんし)ずっと具体的な話にならなかったのですが、
先週「早く話聴いとかないと、オレ死んじゃうよ」とご本人がおっしゃるので、
まさかとは思いつつそうなっては一生後悔することになると、慌てて会合をセッティング。



82歳にして重職をいくつも兼任されている方なので、先方の会合の前にこちらがその場所に伺い、
2時間近く、お話を聞かせていただきました。


N氏は、陸軍士官学校61期。
ご尊父は日露戦争で二〇三高地に参加もし、その後(おそらく)日支戦線で戦死、
(この部分はご指摘もありましたがつじつまが合わないのでこういうことであろうと理解)
金鵄勲章功労をされています。
N氏が生まれてすぐのことで、父親の顔を知らないで育ちました。
金鵄勲章功労者にはそれなりの功労金が国から支払われますから、
N家はそれで壮麗な墓所を建設したそうです。

しかし、先の東北地震で倒壊してしまい、「それを直さなくてはいけないんだが・・・・」
地震後の建築学会の歴史的建築物復興プロジェクトが忙しくて、ということです。

父上は職業軍人ではなく徴兵で召集された一般人だったそうですが、
長じてN氏が軍人の道を志したのは、戦死した父上への思いであったでしょうか。
N少年は陸軍士官学校、海軍兵学校を受験し、どちらも合格します。

「よくねえ、陸軍幼年学校ですかなんて言う人いるんだよね。
あれは違うの。あれはだってほら、中学生だもの」

戦後一般人の「陸士」に対する知識は実に適当で、N氏はその長い人生、何度か、
「ほー、陸士と言うと、陸軍幼年学校ですか」
などと聴かれてきたと見え、少しその件にはおかんむりのようでした。
まあ、エリス中尉も陸軍については詳しいとも言えないのですが、陸士と陸幼の違いくらいは・・・。

因みに陸幼は旧制中学1年から2年に受験資格がありました。
俳優の藤岡琢也は陸幼出身、なんと作家、大杉栄は中退者です。
このとき大杉は何かに目覚め、それがアナーキストとして後に陸軍に殺害されるという因縁
(甘粕事件)の導火線となったのでしょうか。


N氏は「殿下クラス」です。
同期には東久邇宮俊彦王がおられ、同じ隊でした。
殿下入学を迎えるために、陸士では「殿下舎」をわざわざ作ったそうです。
ちなみにこの殿下は「ブラジルに行ってそのまま帰ってこなかった」ということですが、
いつ、なんのためにブラジルに渡ったか、は聞きそびれました。

海兵と違うのが、
分隊とはいわずグループを例えばN生徒のいた「比叡隊」「三笠隊」などと、呼んでいたことです。
正式には1隊、2隊という数字の番号名ですが「軍のことなのでカムフラージュ」の意味があったようです。

因みにN学生は1隊で、殿下の同隊ですから、おそらく超優秀な入学成績だったのでしょう。
もしかしたら、父上の金鵄勲章が何かこのクラス割に関係あったかもしれません。
剣道の達人でもあったので、卒業式では天覧試合に出たり、
「フリーハンドで線や与えられたテーマ(例えば防空壕)の絵を描いたり」
したそうです。



絵?
絵を描いているところを天覧というのが不思議なのですが、これはよほどN生徒の絵の腕前が凄かった、
ということのようです。
N氏の戦後のお仕事は(現在も現役)建築家。建築界の大御所です。
フリーハンドで線を引くなど、朝飯前のお仕事(のはず)です。
のみならず、趣味の絵で個展を開いたりしているというのですから、当然この頃からお上手だったわけですね。

成績優秀、武道の達人、絵を描かせれば右に出る者なく・・・・かっこいいなあ(ため息)。

当然のことですが「厳しいなんてもんじゃない」陸士の学生生活。
まず大声を出すことから身体に叩き込まれます。
これは激戦地で号令をかけるのに肉声が聞こえなくては話にならんと言う理由で、海軍と一緒ですね。
鉄拳制裁も当たり前、と言いたいところですが

「鉄拳制裁はやっちゃいけなかった。海軍兵学校はそりゃひどかったみたいだけど」

だそうで・・・すみません・・・ってなんでわたしが謝まってるんでしょうか。

しかしまあ、軍隊ですからやっぱり上級生は下級生を殴ります。
「Nの突き」は危険なので禁じ手にされてしまった、と言うくらいの剣道の達人であったN生徒、
殴られる瞬間ボクシングのスウェイバックのように後ろに少し身体を逃がして衝撃を軽減していたら、
「貴様―!」
と、今度は壁に身体を押し付けられ、逃げないように殴られたそうです(T_T)

「たった1年しか違わないあったま悪い奴が、指導生徒と称して殴るんだよ。もうこいつーって思ってたね」
そしてその上級生と、N氏は戦後再会します。
某テレビ局に就職した元上級生がN氏にあることで「助けてくれ」と平身低頭する立場でした。
きっと心の広いN氏のことですから、黙って助けてあげたのでしょうが、
「先輩、昔俺のこと殴ってくれたよな~」
くらいのイヤミは言ってもよろしかったのではないでしょうか。

N氏は「ぼくは航空だったから」と言います。
それまで士官学校を卒業した航空志望者は、航空兵科士官候補生と言う名で訓練に入ったのですが、
終戦の頃、日本にはすでに乗る飛行機もガソリンも全く無い状態でした。
本来ならば埼玉県豊岡町(現在の入間市、入間基地になっている)にあり、
修武台と名づけられた陸軍航空士官学校に行くはずだったのでしょうが、61期生徒であるN学生は「未入校」です。
この期は「予科士官学校で航空科を指定された者」と、ウィキペディアにはあります。

国内に飛行機もガソリンが無いのでは仕方ない。
59期と60期の航空学生はこのころ満州で教育課程を受けており、61期のN学生のその後の予定も満州でした。
しかしちょうどそのとき終戦。
「それは運がよろしかったということでしょうか?」
エリス中尉がこのように訪ねると
「いやー、大丈夫だったんじゃない?
後で聴いたら『もし来てても、将校だから真っ先に帰してましたよ』って関係者が言ってたし」


それは確かで、59期と60期の生徒は終戦の勅を受けてすぐ、しかも8月中に復員しています。
N氏のお話をうかがう限り、決して士官学校の生徒が全て優秀だったわけでもなさそうですが、
何と言っても国費を投入して育てたエリート中のエリートですから、終戦の際にも、いや終戦だからこそ、
彼らを保護し、どんな形であれ今後の日本のために働いてほしいと国が特別に扱ったと言うことでしょうか。


そのN候補生の見た終戦についてもまた書きたいのですが、次回は少しこのN氏について、
「現在のお仕事」の話をさせていただきましょう。








最新の画像もっと見る

1 Comments

コメント日が  古い順  |   新しい順
訂正しました (エリス中尉)
2011-11-28 07:34:19
この部分、ご本人のおっしゃるまま書いてしまいました。
「実は二百三高地にも参加したが」
とおっしゃりたかったのでしょう。
ご尊父の戦歴については(かなり)省略されていたようですね。
ご指摘ありがとうございます。

post a comment

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。