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八方園と砲艦「赤城」慰霊碑:おまけ 軍神廣瀬の兄〜江田島旧海軍兵学校跡

2021-02-03 | 海軍

もういつのことだったかというくらい昔の話になりますが、
江田島の旧海軍兵学校跡を見学した時のことをお話しします。

このときの解説とご案内は海上自衛隊幹部の方にしていただきました。

まずいきなり例の「号令を聞いて育ったのでまっすぐ育った松」について

「ここは内海なので海からの強風を受けることがなく、
そのせいで松もまっすぐ育ったといわれていますね」

と科学的な「ネタバラシ」がされるというある意味ディープな始まりとなりました。

この時の話によると、兵学校時代からの松は年々寿命でその数を減らしており、
ついこの間も一本切ったということでした。

この写真に写っている桜も昔からのもので、すでにもう寿命が来かけているため、
その後ろに代替わりの桜が植えられたそうです。

次に赤煉瓦の横に移動しました。

赤煉瓦の横にあるこの建物、実はかつては特別な・・・・
そう、宮様専用の「おとうじょ」であったとか。

写真を撮り忘れましたが、この右側にある建物がそれ以外の、
つまりシモジモの者たちが使える厠所だったそうです。

どちらも作りが堅牢なので現在危険物倉庫として使っているんだそうですが、
たかがトイレなのにどんだけ丈夫に作っていたんだよっていう。

 

 

さて、次に見学させていただいたのは「八方園」です。

以前卒業式に参列した時、赤煉瓦から出ていく時左手に小高い丘があり、
そこに上っていく階段があるのに気がついたので、近くの自衛官に

「あの上に何があるんですか」

と聞いたら誰も知らなかったということがありましたが、
実はそこがあの八方園だったのです。

 

手すりのないおそらく昔のままの階段を上っていくと、
そこには思ったよりずっと開けた平地が広がっていました。

平地は長方形に切り開かれており、その一端には
いわゆる八方園、
方位版があります。

八方園にはご覧のように、国内と海外、
いろんな土地の方位を表す黒曜石の方位盤があります。

「八方園をどうやって知ったのですか」

案内の幹部に質問されました。
とっさにわたしは何が最初だったか思いを巡らせました。

兵学校の入学生が、最初にここに連れて行かれ、方位盤で自分の故郷の報告に
頭を下げることと、何より大切な皇居への遥拝を行うことを教えられたついでに、
上級生がひょいと腕時計を外して(当時の腕時計は超高級品)方位盤の横に置き、

「見ておれ」

といってその場を去ると、時計はその日のうちに持ち主のもとに戻り、

「いいか、兵学校生徒は決して不正やごまかしはしないのだ」

と誇らしげにいったという「兵学校物語」か。

それとも、映画「あゝ海軍」で、東北出身の主人公が母危篤の報を受けるも
幹事の勧めも断って兵学校に残ることを選び、ここに駆けつけて
故郷の方向に一心に手を合わせていたあのシーンだったか。

あるいは、戦後の幹部候補生がここにやってくると、少なくない者が
押し戻されるような「拒否の気」を感じるという(それはつまり
兵学校卒の”先達の霊”が海自幹部を海軍の後継者として認めていないという話)
ことを書いたエッセイだったか。


しかし、この時受けた説明によると、八方園は戦前のものとは同じではないそうです。

そう思って見ると、土台はコンクリート製であり、
明らかにデザインも戦前のものには見えません。

長方形の広場の方位盤の反対側には、碑が立っています。

ここには兵学校時代天照御大神を祀った神社がありました。
戦後進駐軍が来てから取り壊されてしまったのですが、
その後このような石碑がその跡地に建てられました。

この長細い敷地のほとんどはかつて神社の参道となっており、
この碑の場所に御神体があり、その手前に拝殿があり、と
本格的な神社であったようです。

現在はただただ長細い空き地となっている神社跡地ですが、
当時の写真などを見ると、一番奥に御神体を納めた本殿の手前に拝殿、
さらにその20メートルくらい手前に鳥居もあったことがわかります。

兵学校 八方園神社

 


ここにいるとき、八方園全体の地形が江田島全体からみても

小山のように小高くなっていることに話が及びました。

「昔は周りが海で、ここは島だった可能性もあります」

そういえば昔、兵学校のグラウンド部分は、かつての海を
海軍によって埋め立てられたものだと聞いたことがあります。

このとき、兵学校がここに建設する前の江田島の写真と地図を見せていただいたのですが、
驚いたことに、八方園以外は湿地のようになっているではありませんか。

なんでもこのとき埋め立てられた面積は7万4千坪=約24万4千㎡、
東京ドームの敷地面積4万7千㎡の5倍余であったといいます。

 

「本当に海だったんですね・・・・」

写真をつぶさに見ていくと、そんな昔の写真に、
江田島に現在存在する建築物がすでに写っています。

「水交館はこの頃からありました」

そして、現在の岸壁のところには兵学校生徒の練習船
「東京丸」が停泊しているのが写っています。

東京丸

このリンク先にもあるように、東京丸は海軍兵学校が築地から移転後、
5年もの間、赤煉瓦の完成まで兵学校生徒の宿舎となっていました。

おそらくわたしが見せてもらった写真は、ごく初期の、
まだ整地もろくに行われていない状態で撮られたものでしょう。

「坂の上の雲ではここが撮影に使われたということですが、
実際には秋山真之も広瀬武夫も、赤煉瓦の校舎完成前に卒業したそうですね」

わたしがいうと、

「寝床はハンモックでしたから、そのときの生徒も
ずっと船の中で兵学校の生活を送るのは
大変だったと思います」


どこかにこの写真がないか検索してみたら、赤煉瓦生徒館の改修について
詳しく述べているサイトの中におなじものがありました。

海上自衛隊幹部候補生学校庁舎
(海軍兵学校第2生徒館・
東生徒館
)大改修物語

これにもいかに練習船「東京丸」での学生生活が大変だったか書かれています。

ところであれ?

海軍兵学校がここにできることを決めた時、海軍は、というか国は、
この地域から神社とか民家に住む人を立ち退かせ、そのときに立ち退いた
一般人の子孫を、先の水害の時に第一術科学校が災害出動してご恩返し云々、
という話があったと思うのですが、ほとんどが海だったというのに、
「立ち退かせた」という人たちは当初いったいどこに住んでいたんでしょうか。

 

 

続いては、上ってきたのと反対側にある階段 を降りていきます。

昔かつてのままに木々の深く緑生茂る小山の斜面を降りたところに、
こんどはこんなものが見えてきます。

「軍艦赤城戦死者之碑」

「赤城」で検索すると航空母艦の情報しかトップに出てきませんが、
この「赤城」は、

「摩耶型砲艦」

の4番艦で、1890年に竣工した「最初の赤城」です。
砲艦というのは英語でいうところのガンボートで、沿岸・河川、
内水で活動する戦闘艦艇のうち、比較的大きなものがこう呼ばれました。

「赤城」は典型的な汎用水上艦で、日清戦争で活躍したことで有名です。

その活躍とは、軍令部長樺山資紀らが座乗していた輸送船「西京丸」
(民間船だったが徴用され巡洋艦代用に改造されて戦線投入された)

とともに清国海軍の艦隊と遭遇した「赤城」は、「遼遠」「定遠」「鎮遠」など
6隻の清国艦の集中砲火から旗艦「西京丸」を守り抜いたということです。

画面右上が清国海軍と戦う「赤城」と艦長坂元八郎太大尉
このあと坂元艦長は砲弾を受けて戦死し、少佐に特進しました。

赤城の奮戦(坂少佐)【明治海軍軍歌】

当時はこんな歌もあったようです。
上の錦絵も、この歌詞も「坂元」を「坂本少佐」と間違えております。
軍神なのに・・・・。

 

「赤城」はその後日露戦争における旅順攻略作戦などにも参加し、
民間に払い下げられて「赤城丸」となりました。

現存するこの「赤城戦死者の碑」というのは、「赤城」が軍艦として
戦闘に参加した際、戦死した英霊を慰めるという意図で建立されました。

「赤城」で戦死したのはもちろん坂元少佐だけではなかったのです。

ここからはわたしの想像ですが「赤城」が民間に払い下げられ、
造船会社で武器を全て取り除いたとき、不要になった主砲を一本保存して、
慰霊碑を作ろうという話が持ち上がったのではないでしょうか。

これは、この当時、まだ坂元少佐の戦死を始め、日清日露戦争で活躍した
「赤城」の記憶が人々の中に鮮明だったということだろうと思われます。

砲身をそのまま碑にするにあたり、書を浮き彫りに溶接するなど、
日本には明治時代にすでにこんな技術があったんですね。

砲の、というか碑の裏側に回ってみると、日付はなく、

琴石齋西道仙

という人が揮毫したということしか書かれておりません。

この名前、いったいどこで切れるのかさえわかりにくいですが、
本名、

「西道仙」(にし どうせん)1836−1913

琴石齋というのは雅号というかペンネームのようです。

西道仙は明治時代のジャーナリスト・政治家・教育家・医者で、
wikiによると晩年は「あちこちで揮毫しまくっていた」そうです。

たしかにこの達筆ですから、書家という肩書きがあってもよさそうな感じです。

この碑が建立されたのは、これらの情報を総合する限り、
「赤城」が民間に払い下げられた1911年から西道仙が亡くなる1913年まで、
この2年の間のできごとであることだけは確実です。

 

ところで超余談ですが、「赤城」について調べていて、
旅順攻略作戦のときに「赤城」が衝突事件を起こしていたことを知りました。

原因は濃霧で視界が悪かったからということですが、このとき沈んでしまった
砲艦「大島」の当時の艦長は、廣瀬勝比古中佐と言います。

廣瀬中佐には海軍軍人のお兄さんがいたんですね。
廣瀬ファンで伝記も読んだという人以外知らなそうですが。

このとき「大島」艦長だったのが海軍兵学校10期の広瀬勝比古。

この「大島」沈没の事故が起こったのは、実は驚くなかれ日露戦争中の
1904(明治37)年5月18日でした。

6歳年下の弟の武夫がその2ヶ月前、同じ旅順港で閉塞作戦参加中、
沈みゆく船内に部下を探しに行って戻ってきた時爆死し、
その部下思いの指揮官ぶりから、国を挙げてその死は称賛され軍神になったばかりです。

このとき兄廣瀬は、幸い?沈没事故で命を落とすことにはなりませんでした。

わたしはここでふと考えてしまったのです。

あの軍神広瀬の海軍軍人の兄という人が無名な理由は、
この事故でうっかり?助かってしまったからではないのかと。

どんなネット媒体を当たっても一切描かれていないのですが、
このときの事故で「大島」の130名もの乗員は全員救助されたのでしょうか。

ここからはわたしの予想です。

このとき「大島」には助からなかった乗員、つまり廣瀬の部下がいたと思われます。
このことがニュースになれば、艦長だった広瀬兄がその責任上、
わずか2ヶ月前、部下の命を救うために戦死した弟と比較されることは
免れなかったでしょう。

そしてそのことは「軍神広瀬の美談」に味噌をつけるとして、
海軍内の暗黙の了解のうちに「大島」の艦長が広瀬兄だったことは
秘匿されたのではなかったでしょうか。

それどころか、海軍は衝突の末「大島」が沈没したことそのものを隠し、
事件から1年も経ってからようやく喪失を公表しています。

 

海軍軍人としての広瀬勝比古はその後も海軍に奉職し、
艦長職を歴任しながら40代で予備役に入り、最終階級は少将でした。

まあ、普通といえば普通でそこそこの経歴ですが、あの軍神の兄にしては
海軍からも世間からも無視されすぎではないでしょうか。

そしてその理由はと考えると、わたしにはやはり大島事件のせいとしか考えられないのです。




 

旧海軍兵学校跡見学、もう1日続きます。

 

 



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4 Comments

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拒否の気ではないような (Unknown)
2021-02-03 13:44:35
>「あの上に何があるんですか」と聞いたら誰も知らなかったということがありましたが、実はそこがあの八方園だったのです。

接遇は幹部だったと思うのですが、赤レンガで過ごした人だったら、みんな知っていると思うのですが。

>戦後の幹部候補生がここにやってくると、少なくない者が押し戻されるような「拒否の気」を感じるという(それはつまり兵学校卒の”先達の霊”が海自幹部を海軍の後継者として認めていないという話)ことを書いたエッセイだったか。

兵学校卒の方が自衛隊を海軍の後継者と認めてないというのはあるかもしれませんが「拒否の気」を感じるというのは初めて聞きました。よく掃除をしましたが、鈍感だからなのか、何も感じませんでした。

我々の頃は、今はなくなってしまった(耐震構造ではないので、取り壊し)赤レンガ裏の隊舎が寝室でしたが、参考館との間は、誰もいないのにざわざわ気配を感じることがありました。拒否の気ではなく、至らぬ後輩を見守ってくれているんだと聞いています。

>ここにいるとき、八方園全体の地形が江田島全体からみても小山のように小高くなっていることに話が及びました。

正門から入ると、あそこは小高くなっていますが、あの奥の古鷹山方向は斜面で、あそこだけ高い訳ではありません。

>海軍兵学校がここにできることを決めた時、海軍は、というか国は、この地域から神社とか民家に住む人を立ち退かせ、そのときに立ち退いた一般人の子孫を、先の水害の時に第一術科学校が災害出動してご恩返し云々、という話があったと思うのですが、ほとんどが海だったというのに「立ち退かせた」という人たちは当初いったいどこに住んでいたんでしょうか。

正門から、庁舎、厚生棟、赤レンガの方向は、埋め立てと言われたら、そんな感じですが、八方園から衛生課(旧江田島病院)の方は斜面になっていて、段々、高くなっています。あそこは元々、海軍の敷地ではなく、住民がいたのではないかと思います。従道小学校跡地もあります。
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赤城と大島 (お節介船屋)
2021-02-03 15:12:06
砲艦「赤城」
明治23年小野浜造船所で竣工
614t、10kt、12㎝砲4門、その他の大砲6門
「摩耶」型でしたが船体が全鋼製となり、21㎝砲を使いやすい12㎝速射砲に改めています。
日清戦争で明治27年9月黄海海戦では速力が遅く、800mの近距離から清国巡洋艦「来遠」「致遠」等から集中砲火を浴び、艦長坂本八郎太少佐以下28名が戦死しました。
損傷しましたが難を脱しました。
明治44年除籍後、貨物船「赤城丸」として昭和28年まで使用された超寿命でした。

砲艦「大島」
「摩耶」の改良型で呉造船部小野浜分工場で明治25年竣工
630t、13kt、15㎝砲2門、その他の砲2門
日清戦争で朝鮮半島北部の偵察に従事。
日露戦争では船団護衛、上陸支援に従事しました。
明治37年5月濃霧に遭遇し、仮泊のため停止し、投錨準備中、後続艦「赤城」の衝角が本艦機械室右舷に衝突、右舷に傾斜し2時間後沈没しました。
この5月は日本海軍受難の時期で「宮古」「初瀬」「八島」蝕雷沈没、「春日」との衝突で「吉野」沈没が相次いで起こりました。

広瀬勝比古については広瀬中佐の項の時コメントしましたが武夫の5期上の第10期で日清戦争時は東郷平八郎艦長の巡洋艦「浪速」砲術長でした。
日露戦争では戦艦「富士」「筑波」艦長となっており、日露戦争時は大佐であり、明治37年砲艦「大島」艦長ではないと思います。
なにかの間違いと思います。

日露戦争後戦艦「筑波」艦長を最後に海軍少将で退役しました。
温厚であり部下を一度も叱ったことがなかったと言われています。

軍神の家であり、武夫の喪主となった娘が同姓の海軍士官と結婚し、毎年法要や軍神の部屋も飾り、銅像の式典の参加等をされていました。
なお勝比古は大正9年59歳で病没しています。

参照KKベストセラーズ中川務、阿部安雄編「幕末・明治の海軍」、産経新聞「日露戦争その百年目の真実」
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赤城の碑 (お節介船屋)
2021-02-03 16:09:09
https://www.mod.go.jp/msdf/onemss/about/facility/ph17_L.html
上に添付したように海上自衛隊ホームページには大正6年建立としか書かれていません。戦争遺跡等の本を調べましたが詳細は分かりません。
明治27年9月の戦死であり、「赤城」は明治44年除籍であり、それからも相当の年月が経って大正6年建立ですが昭和20年の閉校後、昭和31年海上自衛隊に施設等が移管されるまでの間昭和20年10月から昭和30年8月まで米陸軍、英豪軍進駐があったりして破壊や作り変え等もあり、多くの年月が経っており経緯が分からなくなったのでしょう。
返信する
広瀬勝比古 (お節介船屋)
2021-02-03 16:43:34
前コメントで砲艦「大島」艦長は間違いではと記しましたが中佐で艦長でした。

ただ衝突された方であり、約1週間後、金州城攻略戦に支援砲撃中被弾した砲艦「摩耶」型2番艦「鳥海」艦長林三子雄中佐が戦死後「鳥海」艦長を発令されており、戦時中であり、その統率力も良かったのでその後巡洋艦「秋津洲」「浪速」艦長に発令されたのではと思います。
誤り訂正。
参照KKベストセラーズ中川務、阿部安雄編「幕末・明治の日本海軍」

軍神の家族であり、無視はされていません。それどころか養子の末人を含め軍神家系として人一倍苦労されたと思います。

逝去後は自宅2階8畳の間が「神様の部屋」とされていて、3月27日命日に武夫とともに勝比古の木主も安置され神道儀礼の祭祀が行われていました。
参照産経新聞「日露戦争その百年目の真実」
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