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「戦争に包帯を巻く方法」〜ハインツ歴史センター ベトナム戦争展

2021-05-27 | 歴史

ハインツ歴史センターのベトナム戦争展、今日はベトナム戦争に投入された
医療関係機器や従事者について取り上げたいと思います。

コーナーの中心には、我々日本人にはおなじみのシェイプ、

■ UH-1H メディカル・エバキュレーション・ヘリコプター
(医療避難ヘリコプター)

がそのままの形で(尾翼は切ってありましたが)展示されていました。

ヘリコプター、特にこのUHヒューイは、ベトナム戦争の最も象徴的な装備のひとつです。
ヒューイモデルUH-1Hは1963年、初めて戦争に投入されました。

製造は1954年テキサス州フォートワースにあったベル・ヘリコプター社ということなので、
生産されてから9年で実戦デビューをしたということになります。

UH-1Hは1967年に実戦配備されて兵力の輸送、捜索救助、患者後送、空襲、
そして地上攻撃などに広く使用されました。

後ろに回ってみると、ヘリの内部を見ることができます。
操縦席を後ろから。

機長&コパイの席と逆向きに据え付けられた椅子には、
シートのキャンバス地と同じオリーブドラブの軍装とヘルメットが置いてあります。
もちろんこれはベトナム戦争に参加した人が寄贈したものです。

メディック用のブーツとストレッチャーも。
後送する負傷者の状態を書き込むための書類のバインダーも見えます。

 

ヘリの後方には、銃を持って進軍するアメリカ兵たちと、
その周りを取り囲むようにして飛ぶたくさんのヒューイの写真の壁が・・。

■ 医療従事者の横顔

野戦病院に装備されていた手術用の簡易無影灯とベッドの前に、
医療関係者二人が着用していた服が展示されていました。

歯科大学を終了後、海兵隊に従軍し、フエのフバイで勤務した

ケネス・ロツィツキー(Kenneth Rozycki)

の刺繍入りジャケットです。
アメリカとベトナムの国旗のクロス、虎のマークが見えます。

空母の中にも歯医者が普通にあるアメリカですので全く驚きませんが、
ベトナムでも各部隊にちゃんと軍の歯科医を派遣していたんですね。

1968年、クリニックの外でポーズするロツィツキー医師。

治療中のロツィツキー医師と彼のアシスタント。
彼女はベトナム人で、ミッシー・ハーさんといいます。

ちなみに名前検索をしたところ、ピッツバーグの歯科医院が見つかりました。
現役でお仕事中なら凄いですね。

ジャケット背中にはロツィスキー医師が勤務したフバイの文字と
フバイを含むフエのコンバットベースの位置を記した地図が刺繍されています。

フバイには海兵隊が五個大隊、航空隊が駐屯し、航空基地がありました。
この航空基地は現在国際空港になっています。

そして左のナースの白衣ですが、これは、歯科衛生士だった

アリス・アンブローズ・ネスター(Alice Ambrose Nestor)

が着用していたものです。

1972年のアリスさん。

アリス・アンブローズ・ネスターと彼女のWAC同期の記念写真。

クレム・ブレーズウィック(Clem Blazewick)は、
サイゴンから20マイルの距離のロンビエンに展開していた
第93避難病院で臨床検査技師として勤務していました。

これらの写真は彼が撮影したもので、着陸したヘリコプターから降りた人々が
イマージェンシールームに負傷者を運んでくるところです。

ベトナムで使用された救急車は保護色のグリーンをしていました。

病棟に収容され回復を待つ兵士たち。

第93避難病院のメディカルラボの様子。
顕微鏡をのぞいているのはブレーズウィック本人かもしれません。

 

1965年6月に徴兵されたブレイズウィックは、ベトナムでの戦力増強が始まる直前、
クリスマスの日にサンフランシスコから東南アジアに向けて出発しました。

彼は 負傷した軍人の治療に当たり、毎日のように重傷者を目の当たりにし、
 時には死んだ軍人の検死を手伝うこともありました。

両足と両腕の一部を失い、66パイントの血液を輸血されながらも奇跡的に生き残った
コロラド州のチャーリーという兵士のことが、彼の記憶にいまだに残っているそうです。

ロバート・ペチェク博士(Dr. Robert Pacek)は、外科医として
フーキャットの医療隊に1966年から1年間勤務していました。

これは水筒に水を入れている?ペチェク医師。

MASHのユニットの外で治療を行なっているぺチェク医師。

MASHとは Mobile Army Surgical Hospital(陸軍移動外科病院)のことです。

赤十字のトラック運転手と話しているぺチェク医師。
ドクターバッグは革製のいかにも堅牢そうなものです。

まるでスターのプロマイドのようですが、サインはこの写真を撮った
ぺチェク医師の友人、カメラマンのエディ・アダムズのものです。

エディ・アダムズはベトナムで撮ったあの「サイゴンの処刑」
ピューリッツァー賞を受賞した人です。

 

ぺチェク医師は2002年に医師を引退しています。
彼のことを報じた新聞記事を翻訳しておきます。

「1965年のある夜、ベトナムの荒涼とした海岸に降り立った
ロバート・ペチェク少佐の旅は、恐怖から始まったものでしたが、
彼はそこで思いやりに満ちた使命となりました。

当時ピッツバーグ大学の新米医師だった彼がベトナムに到着したのは、
米国の戦争参加がピークに達する数年前です。

フー・タイは舗装された道路もない辺鄙な村で、飲料水は
町の真ん中にある共同の井戸から汲んでいました。

病院の向かいにある難民キャンプでは、女性や子どもを中心に
数千人が広い草原に小屋を建てて暮らしていて彼は衝撃を受けました。

子供たちはアメリカ軍のジープを見かけると駆け寄ってお菓子をねだりました。

そんな彼らに何かをしてあげたいと思ったペチェク医師は、
プロフェッショナルとしての医療技術の提供とともに、故郷の家族に呼びかけて
地元でおもちゃの寄付を募る「ヴェトナム(sic)・トイ・ファンド」を立ち上げてもらい、
おもちゃや夏物衣類などを集める活動を始めたのでした。

運動は瞬く間に広がり地元の商工会議所、退役軍人会、女性団体などの市民団体が
お金や衣類、医療品などを集めました。

その後、地元の消防士が各家庭の前に出された段ボールを集めて回り、
ボーイスカウトなどと一緒に包装をしたものがベトナムに送られましたが、
プレゼントのあまりの多さに、医療分遣隊だけでは手が足りず、
他のアメリカ軍や韓国軍の助けを借りてプレゼントを配りました。

"私たちは人々を助けているのだと思いました。
彼らは共産主義者に抑圧されていたのですから”

とペチェク医師は語りました。

1966年に兵役を終えたペチェクは、妻のジョイスと一緒に、
さらに10年間、病院に薬やその他の物資を送り続けました。」

 

■ トリアージ

アメリカ軍の医療関係者は南ベトナムがテト攻勢に見舞われたとき、
数千人の負傷者を治療しました。

衛生兵、メディバック・ヘリコプターの搭乗員、伝令、医師、看護師は
すべて軍の医療システムにおいて重要な役割を果たしました。

負傷した軍人や民間人は、プレイクの第71病院、ダナンの第51病院に
「チョッパー(Chopperd)」=ヘリで搬送され、そこで彼らは
できるだけたくさんの命を救うためにスタッフによってトリアージを受けました。

トリアージで生存の可能性がないと判断された者(the expectants)は、
残念ですが、死ぬまでそこで放置です。

ついでに世界共通のトリアージ色分けについて書いておきます。

赤(immideate・即時) 即時処置しなければ生存できないが、生存の可能性がある

黄色(observation・観察) 要観察(後に再トリアージの可能性)今のところ状態は安定
すぐに死に至る危険性はないが、病院での治療が必要であり、通常であればすぐに治療が行われる

緑(wait・待機)歩けるが要治療、後回し

白 (dismiss・却下) は、医師の治療を必要としない軽傷

黒(expectant・予期)死亡している、治療を受けても助からない

この中で案外つけられて本人が一番辛いのは黄色かもしれない・・・。


このような新しいシステムと医療人材の豊富な投入によって、ベトナムでは
朝鮮戦争(1950ー53)で負傷した軍人の2倍が命を救われました。
(二つの戦争の間の期間に発達した医療技術の恩恵もあったでしょう)

中でも最も重症を負った者は、現地からグアム、沖縄に送られ、
症状によっては本土に送り返されました。


ベトナムではおよそ1万人のアメリカ人女性が看護師として任務を行いました。
そのうち約半数が陸軍看護隊の軍人です。

志願の理由は愛国心とアメリカ人の義務からという者、また
兄弟や夫が入隊しているのでその支援をするためという者、
そして女性として独立した仕事、誰かのためになる仕事をしたい、
という熱意を持った女性たちです。

彼女らの「仕事」は常に悲痛さを伴うもので、かつ、しばしば危険にさらされていました。

上の兵士に手当てをしている女性の写真は、医療隊の募集用紙です。
用紙にはこのような「キャッチフレーズ」が申し込み用紙ともに記されています。

「戦争に包帯を巻く方法」

 一度に一つの傷を処理する

 一度に一人ずつ

 看護師としての技術を駆使して

 あなたの心の中にある全ての明るさで

 あなたは あなたがアーミーナースであるがゆえにそれをする

 陸軍看護師部隊

 

続く。