無風老人の日記

価値観が多様化し、自分の価値判断を見失った人たちへ
正しい判断や行動をするための「ものの見方・考え方」を身につけよう。

「現状」と「現実」を取り違えている人たち

2007年10月17日 | Weblog
昨日の「プロパガンダにより洗脳された国民」の続きでもあるのだが…。

護憲派を「現実をみていない」といい、「平和憲法はいい、戦争もいけない、でも現実は国際紛争の解決手段として戦争がある」といったブログを書いている多くの人は、その「現実」を「現状」という言葉に変えて下さい。

上の「でも現実は…」と言って戦争反対派を馬鹿にしている改憲派は「現状容認派」「現状肯定派」であり「現実逃避派」である。

こういった人たちは、年金が役人に盗まれていたことや、参院選前に圧倒的多数の横暴でどんどん出来てしまった「悪法」も、それが施行されれば「現状」だから仕方ないですね、と容認、つまりどんなに悪いことでも「現実」として「現状」を認めてしまう、といった自分の価値観を持たない人たちである。

こういう人たちが、政府のプロパガンダ、マスメディアの情報操作によって洗脳されると、権力者の言いなりの国民になってしまい、あたかも自分の方が知っているといった態度で、ちょっと聞きかじった「太平洋戦争の真実」といった,とうの昔に否定されごみ箱入りしていた大東亜共栄圏理論を振りかざし、「知っていますか」と反戦派を嘲笑的に批判することになる。

・日本も戦争しなかったら生き延びられなかった。
・アメリカに基地を引上げられたら、攻められる。日本が無くなってしまう。
・今まで日本が侵略されなかったのは、アメリカに守られていたから。
・それなのにアメリカが攻められたのに黙って何もしないでいて義理が立つのか。
・貿易に頼っている日本がアメリカからストップを喰らったらすぐ潰れてしまう。
・ここぞとばかりに叩く、それしかやることのないバカ政治家たち=反対するしか能の無い野党→自民党はいったことはやる実行力のある責任政党。等々

全て、独裁国家・全体主義国家を目論む政権政党(権力者)の言っていることをそのまま信じての発言である。

下記ブログは、「そこまで国民は馬鹿ではないだろう」といっているが、福田内閣の支持率アップ等をみると、そうも言っていられないのではないか、と思ってしまう。

「きまぐれな日々」さんのブログから引用

(引用開始)
自民党の政治家たちがポピュリズム(*注)に走るようになってから、彼らの言動がずいぶん下品になった。

(*注)ポピュリズム=大衆迎合主義。 減税や補助金のバラマキなど国民受けする政策を行い、選挙を有利にしようという政治姿勢

自民党の言動例:
(1)「給油に反対するのはテロリストくらいなもの」テレビの政治番組で自民党の中谷元・元防衛庁長官
(2)「くれぐれも 北の走狗などと揶揄されぬように」週刊誌に「媚朝外交」を批判された安倍元首相
(3)「自民党が敗北すると改革が止まり、それで一番喜ぶのは民主党、二番目は北朝鮮だ」参院選の選挙戦終盤の塩崎前内閣官房長官

すべてがこの調子である。国民を馬鹿にし切っている。

これらの言動(彼らの論法)の特徴は下記の三つだ。

(1)まず、ありもしない幻想をふりまく。

「郵政民営化さえ実現すれば、改革がどんどん進んで良い世の中になる」といわんばかりの小泉のスローガン「改革を止めるな!」がその例だ。

(2)次に、「仮想敵」を作る。

それは北朝鮮だったり朝日新聞だったり民主党・社民党だったり「抵抗勢力」だったりする。そして被害者を装う。
安倍晋三は、NHKや朝日新聞の捏造報道の被害者であるかのように訴えたが、実際には安倍の方が嘘をついていた。

(3)最後にやるのが反対勢力に対する「排除の論理」だ。

ただ、これはコイズミが抵抗勢力を攻撃した頃には効果があったが、民主党を北朝鮮やテロリストの味方呼ばわりしても、自民党の下品さだけがクローズアップされて逆効果なのではないかと思う。
国民はそこまで馬鹿ではないはずだ。

しかし、給油継続の問題については、マスメディアを味方につけての自民党の世論操作が功を奏したかに見え、いまや世論も給油賛成派の方が反対派を上回っている。
こういう時こそ、自民党のよこしまな意図や、その論理のイカサマ性をつくブログの主張が求められるのだ。
ともに憲法違反の疑いがあるとして一緒くたにされがちな、自民党の主張する「給油継続」と小沢一郎の主張する「自衛隊のISAF参加」の質的な違いを指摘した当ブログは、残念ながらブログ界においては少数派だ。
なぜ小沢の意見に必ずしも賛成でない当ブログが小沢の立場を説明しなければならないのかと思ってしまう。…引用終り

話はもとに戻すが、「現状肯定派」は、戦争するのは良くない、でも現状がこうだから仕方が無い、とする無気力なアキラメ派であり、議論(ディベートの対象)にならない。

前にも書いたが、人間ならば「悪い・間違った現在の状態がある」→「どうしたら良くなるか、悪い状態を打破できるか」→「悪い現状に反対、悪くなる方向にむかうことを何とか阻止しよう」と考えるのが普通である。今の人には「正義」という言葉は死語になってしまったようである。
「弱きを助け、強きをくじく」といった精神は見られず、「寄らば大樹の陰」「長いものには巻かれろ」「見ざる聞かざる言わざる」(悪事を見なかったことにしよう、聞かなかった=知らなかったことにしよう、それを言葉に出して追求するのはよそう)「トラの威を借る狐」「赤信号みんなで渡れば怖くない」等々の自己チュウな無責任な無気力な無責任な考え方をしている。

間違って「悪法も法だ」と言ってくる人の為に、下記ブログを載せておく。

「悪法も法なり」だが・・・

(引用開始)
コミュニティができると,様々な物事のルールが決められることになる.そのような中で,決められたルールに対し,なにがなんでも自分は同意できず反対であるからそのルールには従わない,他の人はどう思うとその結果どんなことになろうと独自路線を貫く,という人たちがいる.このような人たちが出てくると,コミュニティ内での公平性が保たれなくなるなど,大変困った事態に陥ることになる.

自分が正しいと思う道を,妥協せずに歩もうとすることは,それはそれで大変結構なことである.しかし,自分が所属する様々な単位のコミュニティで,いったんルールが決まったら,まずはそれに従って物事を進めるべきであろうと,私自身は常々思っている.その意味で,私はまさに「悪法も法なり」の立場を取っているのである.そして,自分がそのルールに納得できないのなら,決められたルールで当面進めつつも,その不当性や不合理性を訴え続け,改める努力をすべきものと考える.

さていっぽうで,ルールは守られるべきであると,それだけを声高に叫ぶ人たちもいる.これは既に決められたルールだからの一点張りで,制度を維持しようとする人たちである.実は,コミュニティのルールを守らない人たちと同様,この人たちも大変困った人たちである.往々にしてこのような人たちは,そのルールの成り立ちや正当性,合理性を,深く掘り下げて考えていないように思える.なぜなら,そのルール自体についての話し合いが,この人たちとは成り立たないことが多いからである.

そもそも,ルールや方針作りの過程が大事なことはいうまでもないが,周囲の状況は時々刻々変わっていくのであるから,ルールや対する普段の検証や見直しも,同時に大事であると思っている.すなわち,「悪法も法なり」なのだが,同時に,当然のこととして「悪法であれば改められるべきもの」と,私は思うからである. …引用終り