無風老人の日記

価値観が多様化し、自分の価値判断を見失った人たちへ
正しい判断や行動をするための「ものの見方・考え方」を身につけよう。

内閣支持率と自主規制

2007年10月01日 | Weblog
なるべく、一般的・普遍的なテーマで哲学的?に書こうと思うのだが、人のブログを見ていると私の言いたいことを適切な表現で的確に言い表しているものが多く、記憶力・文書表現力もないものだから、ついついそれを(見てすぐに)使って自分の意見にアレンジしたくなってしまう。
今日も、下記のブログから盗用して書くことにした。自分の書こうと思っていたテーマと違う今日の日記となった。

きまぐれな日々http://caprice.blog63.fc2.com/blog-entry-458.html

以下 ◎=ブログより引用、※=無風老人の付け足し

※「腐ってしまったマスメディア」の報道により、福田内閣支持率が53%~57.5%と高いものとなった。
これも、自民党員以外、国民に関係の無い自民党総裁選だけを放映し「麻生か福田かどちらがいいか」と国民の目をそこに集中させ、いわば「洗脳」してきた結果で、集中長期化した自民党による腐敗政治の諸問題を隠し、安倍氏の突然の退任による国民の税金500億円の無駄をも過去のものにしてしまった。
この報道の仕方による「結果」が福田内閣の高支持率であり、現マスメディアこそが上記ブログで「B層」国民が異様に増大した、と嘆く元凶である。
 
◎福田内閣支持率50%超に見る日本人の知性の劣化

あのどうしようもない安倍内閣が先月末に内閣改造を行った時、内閣の支持率が10%ほど上がった。その2週間後に崩壊した内閣の支持率が、である。
だから、福田内閣の支持率は50%くらいはいくだろうと思っていた。しかし、現実に読売新聞で57.5%、共同通信で57.8%、朝日新聞で53%という数字を見せつけられると、気が滅入るものがある
昔から、どんな内閣であっても、発足当初は支持率が高めに出るものではある。だが、小泉純一郎内閣以来、その傾向が異常になってしまっている。国民の批判能力が落ちている、というより国民の知性が劣化していると思う。誤解を恐れずにいえば、「B層」が国民全体に占める割合が、異様に増大しているのだ。そして、内閣発足当初の支持率が、昔ではあり得なかったようなはね上がり方を示すようになった。
こういう「B層」の話を持ち出すと、愚民思想だといって非難する向きがあるが、実際にファシズムを生み出すのはこうした「B層」であり、私はこれに対する批判が現状では弱すぎると思う。

私は、ここまで国民の知性が劣化したのは、国民が「考える訓練」を十分にしなくなったからではないかと思う。日本の学校教育は、70年代がもっとも内容が難解だったそうだ。70年代というのは、自民党の支持率が極小値をとった時代である。当時のカリキュラムは「詰め込み教育」だとして批判されたが、私は人間が「考える力」を身につけるためには、子供時代にはある程度知識を詰め込むことも必要だと思う。たとえば、政治問題や経済問題については、いろいろな立場での考え方があることを知った上で、どういう解が最適かという自分の意見にたどり着くのではないだろうか。

三浦朱門という作家がいて、「被支配層にはほどほどの教育を施しておけばよい、その上で、優秀な支配層が被支配層を導いていけばよい」という思想を持っている。「私の妻(曽野綾子)は二次方程式が解けなくとも、日常生活に不便はなかった」、「これからはかけ算の九九を言えなくて中学を卒業する子も出るだろう。すべての生徒がある程度のレベルをマスターできると思うのは錯覚だし、マスターさせようとするのも愚かしい」などというのが三浦の発言である。

70年代国民の政府批判に業を煮やした文部省(※70年代、国の教育への介入が始まった=教育指導要領の法規制化・教科書検定強化等)は、“ゆとり教育”への転換を行ったのだが、その背景には三浦のような思想があったと考えるべきではないだろうか。つまり、国民を支配しやすくするために、国民の教育水準を下げようという考え方である。そして、少数の者には、被支配者を支配する術を叩き込もうというのだ。

痛恨事だったと思うのは、「ゆとり教育」というのが、一見、日教組やリベラルの人たちに受け入れられやすい政策であったために、抵抗なく広がっていったことだ。その結果、日本はいまや先進国の中でもっとも子供たちが勉強をしない国になってしまった。これではダメだ。十分な知識という土台があって初めて「考える力」が身につくのではなかろうか。

よく「グローバル・スタンダード」がどうのというのだが、この言葉に内在する欺瞞性はとりあえずおくとして、支配者が国民を支配しやすくするためだけなら、愚民化政策も(支配者にとっては)有効なのだろうが、それでは国際的な競争力を失ってしまう。安倍前政権の「教育カイカク」のごときは、国家主義の強制であって論外だが、「ゆとり教育」は改めなければならないと思う。すべての国民が、一定以上の教育水準に達している必要があると私は考えるのだ。

話を戻すが、先週と今週は三連休が連続したが、17日と24日の月曜日に、普段は見ない朝のワイドショーをちょっとだけ見ていたら、自民党総裁選や福田新総裁の話題を延々と垂れ流していた。いまや、政治は娯楽化している。おそらく、コイズミの「劇場型政治」が国民をひきつけて以来の現象なのだろうと思う。昨年の安倍内閣発足の前後には、実は私は日本にいなかったので、ワイドショーはおろかニュース番組も見なかったのだが、さぞかしひどい安倍の宣伝番組が垂れ流されていたことだろう。当時、安倍内閣の支持率は60%を超えており、読売新聞の調査では、実に70%をたたき出していた。 …以上、「きまぐれな日々」より抜粋・強調は私。


※私は何回もマスメディア批判をしているが、上記ブログに補説すれば、小泉政権を批判した政治評論家森田実氏が、マスメディアの「自主規制」により登用されなくなったように、小泉政権以降、政府(権力者)に反対する評論家がテレビに登場しなくなったこと。そして、政府が「マスコミと協力してキャンペーンを行なう」といって実行したこと。権力の上位者が「協力して」という言葉は、「協力させて」若しくは「やらせる」に置き換えるのが正解である。例で挙げれば会社社長(経営者)が「社員と協力してリストラを断行していく。」というようなもの。NHKも、従来のトップ選出方法を無視した政府人事によって送り込まれたトップにより政府広報局となってしまった。

こうして、政府政策キャンペーン報道(訓練報道・生徒の体験学習・伝統文化・政府側政治報道)しかテレビに流れないようになった。まさにマスメディアが「B層」国民を大量に作り出しているのである。

余談ですが、津久井弁護士のブログで「放送禁止歌」について書かれていて、それによると法的な「禁止歌」と言うのは無く放送局自体の「自主規制」で「放送禁止歌」が生まれるそうです。
今では、歌詞に「戦争反対・戦争批判」の意味が込められたものも放送禁止歌に入るそうです。

◎独裁政治(愚民化政策)の野望を打ち破る方法は、ただ一つある。それは、国民のみんなが政治的に賢明になることである。

人に言われて、その通りに動くのではなく、自分の判断で、正しいものと、正しくないものとをかみ分けることができるようになることである。
民主主義は「国民のための政治」であるが、何が「国民のための政治」であるかを自分で判断できないようでは民主国家の国民とはいわれない。
…以上、文部省が60年前に作成した教科書「民主主義」より再掲。