無風老人の日記

価値観が多様化し、自分の価値判断を見失った人たちへ
正しい判断や行動をするための「ものの見方・考え方」を身につけよう。

更新に先立ち

2008年08月27日 | Weblog
更新日記は次の日付からですが、最近の「ひどい」出来事を羅列。

(1)北京五輪前後の中国バッシング

私の身内の者が「北京五輪が何事も無く無事に終わったね」(これはマスメディアによる前後報道から“無事には終わらない”とのスリコミがあり、無事に終わったことが“不思議”だ、といったニュアンスの発言)
マスメディアによるスリコミの恐ろしさを見る思いがした。

聖火リレー・四川大地震・チベット(ウルグイ)騒乱・食物問題等々でマスメディアは「テロ警戒、戒厳令五輪!」と“恐い中国”を強調。


(2)北京五輪に関する産経ニュースの評論家(潮匡人氏)のNHK批判

(引用開始)
■自局記者らが中国の武装警察に暴行拘束されたと報じた「ニュース・ゼロ」(日テレ)で村尾キャスターは「中国にオリンピックを開催する資格があるのか」と厳しく問うた。民放はもちろん、NHKすら明言しない骨太の正論である。 思わず拍手喝采(かっさい)…(中略)…
最悪の報道はNHK。ニュース枠まで取り払い、中国共産党の国威発揚を延々垂れ流しただけ

■前回小欄(14日付)で五輪開会式当日の「各局の五輪報道を検証」して「最悪の報道はNHK」と断じたが、閉会式はどうだったか。やはりNHKだけが2時間以上も「中国共産党の国威発揚を延々、垂れ流した」。
 女性アナウンサーが「華やかですね」「すごいですね」と礼賛。男性アナは「閉会式は中国55の少数民族の多様な文化を表現するのもテーマ」と解説、「無事に終わろうとしています」と語った。…中略…

NHKは知らないのか。北京政府が五輪開催中も「少数民族」を弾圧したことを。「華やかな」イベントの影で冷酷な報道規制が敷かれたことを。北京五輪は「無事」終了したのではない。中国当局が力ずくで抑え込んだのだ。

期間中、総合テレビのニュースは五輪宣伝番組と化した。教育テレビも中継に供された。ふだん海外放送局のニュースを伝える「BS1」も五輪中継で占拠。結果、欧米メディアの五輪批判報道は閉ざされた。
 加えて連日の甲子園中継。NHKは視聴者から「知る権利」と受信料を収奪。それらを恭しく関係当局に献上した。
 他方、英国は王室以下、官民挙げて中国を批判。メディアも「偽装五輪」などと断罪した。
日英の溝は深い。NHKは背伸びしてもBBCに追いつけまい。(引用終わり)

(3)毎日新聞つぶし…恐ろしい日本国の風潮

(4)高知白バイ事故の“国家権力”(警察)による冤罪事件と、“司法”(裁判)の消滅…国民が思い込んでいた「三審制度・上告制度」は“幻”だった。

(5)櫻井よし子の「秋葉原事件は、日本国憲法のせい」発言…憲法のせいで利己的な日本人が形成された、憲法を改正し国民の義務の強化が必要との主旨。

(6)福田首相の「給油活動継続は、国際公約だから何としても(再議決しても)通す」発言

ちょっと、思いつくまま書いてみてもこれだけ出てきた。

時間が無いので、他人様のブログを引用しておく。

【2007年2月7日】
嘘つかぬメディア夢見るより…【神戸女学院大教授・内田 樹 (たつる)】

■…テレビメディアの中立性やフェアネスに対する社会的信用はずいぶん低下したようである。

■しかし、「テレビの言うことならほんとうだろうと信じていたのに。裏切られた気持ちです」というようなナイーブなコメントを読むと、それはそれで、背筋に寒気が走る。
というのは、テレビが虚偽を報道したのを知って、「裏切られた気持ちです」というようなことをしれっと言ってのける「無垢(むく)な視聴者」のポーズそのものがすでに「テレビ化された定型」に他ならないように私には思えるからである。

■「視聴者はメディアの言うことをすべて無批判に信じるのだから、メディアは真実のみを報道すべきだ」という「正論」に私は与(くみ)しない。

「メディアは真実のみを報道すべきだ」というのはたしかにご卓説ではあるが、ほとんど現実性がない。
「これこそが真実だ」と複数の情報源が別の事実を言い立てる場合、メディアはそのどれかを選択しなければならない。
そこで報道されるのは「メディアが真実だと信じたこと」ではあるが、それは必ずしもつねに真実ではない。

それ以上に問題なのは前段の「視聴者はメディアの言うことをすべて無批判に信じる」という部分である。
これは現実ではないし、それ以上に現実であってはならないと私は思う。

■「メディアは中立的・客観的な立場から、真実のみを報道しているので、私たちはそれをすべて信じることができる」と国民がきっぱり言い切れる社会があったとすれば、それは恐怖政治の行われている社会だけである。

 私はそのような社会の到来を望まない。

■だから、視聴者のそのようなナイーブな言明が「実現されるべき理想」であるかのように語るメディアの態度を支持しない。

どれほど嘘(うそ)をついても、人は嘘をつくことを通じておのれの欲望を露呈することからは逃れられない。

メディアが虚偽の報道をし、事実を歪曲(わいきょく)した場合でも、私たちは「虚偽を伝え、事実を歪曲することを通じて、メディアは何をしようとしているのか?」と問うことができる。
メディア・リテラシーとはその問いのことである。

■メディアはしばしば嘘をつく。それをとどめることはできない。
だから、私たちはメディアの伝える情報における「真実含有率」について、自己責任で判断を下すべきだし、下せなければならないと私は思っている。
その能力開発に資源を投じる方が「決して嘘をつかないメディア」の構築を夢見ることよりもはるかに現実的だろう。…引用終り

(もう一つ引用開始)…天木直人のブログより

もはや国家権力は国民の敵…。

■世界の様々な国に勤務してその国の政治を見てくると、残念ながら国家権力は国民の敵であるような国が実に多く存在する事を知る。

まさか日本はそんな国ではないだろう、と(M:日本国民が)思っているとしたら間違いである。

国家権力は、自己保身のために、時として悪意を持って国民を犠牲にする。

そんな事件が公然と高知県で起きていた。

先日講演で徳島を訪れたとき、隣の高知県でバスの運転手の冤罪事件を知った。

停止していたスクールバスに白バイがぶつかって、白バイを運転していた警官が死ぬという事件が起きたのは06年3月の事だった。

警察と国は、組織防衛の為にその事故はバスの運転手の過失致死罪と言い張り、その運転手は有罪となる。

これはとんでもない冤罪だと訴えを起した運転手。その訴訟が最後は最高裁まで上がって争われていた。
そして最高裁が上告を退けて冤罪が確定した、という事件である。

高知から来た人が言う。「誰もが警察のでっち上げと思っているのに、みな口をつぐんだままだ。運転手は気の毒だ」と。

こんな不条理な事が実際にありうるのだろうか。

そう思っていたら、この警察、司法の国民無視のやり方を一貫して糾弾しているブログを見つけた。「きっこのブログ」である。

その22日のブログには冤罪にされた運転手の悲痛な叫びが掲載されている。
警察、司法の国民弾圧の非道が告発されている。

これほどまでに重大な冤罪であるのに、大手新聞がまともにこれを報道する事はない。
テレビが伝える事はない。だから国民は知らないままだ。(引用終り)


私の憤懣やるかたない気持はここまでであり、この詳細については検索して皆に見てほしいのだが、天木氏のブログは下記のように続いていて重要なので参考までに載せておく。
 
(引用再開)
■気の滅入るような出来事の中で、救われる思いの出来事が起きた。

26日の各紙は、海上自衛隊員の自殺事件をめぐって被害者の両親が国を相手取って起していた訴訟において、福岡高裁は国の賠償責任を求めた、というニュースを報じていた。

自衛隊内部でのいじめで自殺に追い込まれたり犠牲になっている隊員は少なからずいる。

その家族の一人がかつて講演中の私を訪ねてきたことがあった。その際私は、決してなき寝入りしてはいけない、正義は必ず勝つ、と励ました事があった。

その家族が、粘り強く訴訟を続けた結果、ついに福岡高裁は「上司の言動は指導の域を超え違法」と断じたのだ。素晴らしい判決である。

国家権力の中にいても正しい判決を下す裁判官もいる。

そこに私はこの国の将来に関する一条の光を見る思いがした。…引用終り

次の日記が更新再開の日記なのだが、まだ書きかけで完成していない。こちらが先に投稿となった。