無風老人の日記

価値観が多様化し、自分の価値判断を見失った人たちへ
正しい判断や行動をするための「ものの見方・考え方」を身につけよう。

法の精神

2007年11月29日 | Weblog
最近は「法の精神」が歪められて来ている。

人は自分が生きていくために、他人との共存を考え、(ルール)をつくり、協同作業や役割分担をして社会生活を営んでいる。

この「自分のため」「皆のため」の法が、往々にして権力者の都合の良いように作られ、適用されることが起こる。

ヤメ蚊さんは、多くのマスメディアや国民や裁判所の法(刑法)に対する考え方が根本的に間違っていると指摘している。

(以下、ヤメ蚊さんのブログを引用)

■刑法は国民の行動の自由を保障するもの

◎刑法は、国家権力が強制的手段をもって取り締まる範囲を限定するもの。

刑法というのは、国家権力が身体的拘束を伴うような強制的手段をもって取り締まる範囲を限定するものだ。
取り締まる範囲を明らかにすることで、市民の行動の自由を保障しているわけだ


つまり、刑法で規定された犯罪類型に当たる行為をしなければ、逮捕されたり、起訴されたりすることはない…ということだ。

(ところが最近では)国家が市民の自由を保障するためにある刑法を利用して、国家が自分に敵対する者を弾圧している。…引用終り

最近は政府・マスメディアの言う事やることがウソだらけで、以前の私のブログ「最近の嘘ことば」に書き切れなかった言葉が、下記の法律に一杯見受けられる。

■『日本をだめにする40の悪法』合同出版社

<1> 統制国家をめざす悪法~いつのまにか国民をコントロールしている
1 共謀罪
2 組織犯罪対策3法(盗聴法,組織犯罪処罰法,刑事訴訟法)
3 ピッキング防止法
4 改定・住民基本台帳法
5 改定・入管法
6 心神喪失者医療観察法
7 ホームレス自立支援法
8 テロ対策基本法

<2> 思想信条の統制やメディア規制をうながす悪法
9 盗聴法
10 個人情報保護法
11 青少年健全育成基本法
12 人権擁護法
13 教育振興基本計画
14 児童ポルノ禁止法

<3> 軍事国家化をめざす悪法~テロ対策は隠れみの
15 有事3法(安全保障会議設置法,武力攻撃事態法,自衛隊法)
16 テロ対策特措法
17 防衛省昇格法
18 海上保安庁法
19 米軍行動円滑化法
20 イラク特措法
21 周辺事態法
22 米軍再編法

<4> 国民の責務を強調する悪法~行政の責任がいつのまにか自己責任に
23 健康増進法
24 少子化社会対策基本法
25 国民保護法
26 生活安全条例
27 裁判員制度

<5> 命と暮らしを破壊する悪法~格差を広げ弱者いじめにつながる
28 医療制度改革法
29 改定・介護保険法
30 障害者自立支援法
31 ホワイトカラー・エグゼンプション
32 改定・労働者派遣法
33 消費税率改定
34 郵政民営化法
35 生活保護制度の改定
36 改定・年金法
37 市町村合併特例法

<6> 憲法改悪・立憲主義の危機をまねく悪法
38 自民党新憲法草案
39 新教育基本法
40 改憲手続き法

私は、この本を読んでいないのと、これらの法律内容に目を通していないので、詳しいことはコメント出来ないのだが、「名前だけ見ると“よさそうな法律”に見えるものも多いが、内容は悪法だ」と指摘している本なので読んでみたいと思っている。「自立支援法」=弱者切捨て法、といった各法律のイメージは分かる気がする。例えば、

(引用)
斉藤:厚生労働省と内閣府が検討している『残業代ゼロ法案=ホワイトカラーエグゼンプション』というのがあります。雇用規制緩和という名の下に、サービ残業を強いるものです。舛添厚労大臣は、『家族団らん法案』とか『早く帰ろう法案』などに名称を変えると言っていますが…。(会場から笑い)
「みなさん、自分で働き方を決められますか?(無風注:今日はもう帰ろうとか「残業してくれ」と言われ「しませんよ」といって帰ることが出来ますか?) 『過労死』と『過労自殺』は同じだとすでに言われています。働き方を変えない限りホワイトカラーエグゼンプションが施行されても残業代が減るばかりかサービス残業が増えるばかり。権力を持っていない人の尊厳・命が大切にされないのです。」…引用終り

(更に引用)

安田:『統制国家を目指す悪法』とは何か? それは、『人間の内面に立ち入る(踏み入り、規制する)法律』です。これらの対象になるのは、(思想の)左右に関係ない。(国民全てを統制)

例えば、先日開催された世界陸上大阪大会会場付近の公園で、ある青年が逮捕されました。この公園で生活する人たちが排除されたことは結構報道されましたが、この件はほとんど報道されていません。この青年は、支援団体の人です。逮捕理由は道路運送車両法違反ですが、共謀罪がなくてもこのような逮捕(予防拘束)ができてしまいます。

抜身の刀をちらつかせるだけで萎縮させる。上の方から押さえつける。これが政府の狙いです。共謀罪は何のために取り締まるのでしょうか。国民が(思ったことを)やらない、言わない社会になっていくでしょうね。


司会者「ところで、必要以上に不安を煽っているといった斉藤貴男批判がありますが、いかがですか?」

斉藤「オオカミ少年か?という話ね(笑)。確かに、絶対に私が言ったとおりになるということは断言できないけれども、取材で得た感触から判断している訳です。みんなが知っているようなことだけではないですし。」

「例えば、『兵籍簿』は現在の納税者番号に繋がっている。兵役のためと言って個人の情報が国家に管理されていた。納税の管理のため必要という住基ネットは国民総背番号制になりかねない。つまり、1つの法や制度はマスターキーとなるのです。国家の管理は1個進めば2個、3個はすぐ進みます。」
…引用終り

■『統制国家を目指す悪法』=『人間の内面に立ち入る(踏み入り、規制する)法律』について、コメントしたい。

秦の始皇帝の中国統一の基盤を作った一人と言われる「商鞅(しょうおう)」のやったこと。

商鞅の政治改革(法律至上主義)

まず始めにやったことは「什伍(じゅうご)の制」

国民を五軒、十軒毎に分け隣組を作らせた。(連座制・密告の奨励・信賞必罰・厳罰主義)
『五人組、十人組の制度を設け、人民を互いに監視、告発させて、組ごとの連座制を布く。
他人の罪を知りながら告発しないものは、腰斬(ようざん)の刑に処する。
告発したものには敵を斬ったのと同じ賞を与え、一方、罪人をかくまったものには、敵に降伏したのと同じ罰を与える』

公布後、まもなく、太子が新法を犯した。

商鞅は言った。「人民が法を守らないのは、上のものがこれを犯すからだ」(無風注:私もこの言に“同感!”、今の日本国にピッタリ)
しかし、太子は世継ぎであり、本人を処分するわけにはいかない。
そこで、侍従長の公子虔(けん)を処罰し、教育係である公孫賈(こうそんか)を入れ墨の刑に処した。
この効果はてきめんで、国中一人残らず法に服するようになった。

納税や防犯の連帯責任をとらせるために組を作らせ、例えばその中のどこかの家が犯罪者をかくまったりしたらその隣組全員が罰せられる。
税金を納めたり、兵士や人夫を出したり、とにかく政府との関係で連帯責任を持たせた

この制度は、太平洋戦争直前に日本でも「隣組」として政府によって取り上げられ、戦時体制(全体主義国家)の柱となったシステムです。

無風注:この『商鞅』のこの改革を書いてあるサイトに「農民は最初戸惑ったが、のちに、それまで無かった『向こう三軒両隣』といった相互扶助の精神が芽生え、感謝された」といった今の政府方針を後押しするようなことが書かれていたが(もっとも『史記』にも同じような記載はあるが)、あなたは、自分が悪いことをしていないのに隣組の誰かが罪を犯しただけで、腰斬の刑(体真っ二つ)に処せられることになる法律を『感謝』しますか?…注終わり

始皇帝がこの“法律”により中国を統一したことで、それまでバラバラだった度量衡や轍の間隔が統一された、といった「良い面」は、「戦争のおかげで飛行機等の科学が飛躍的に進歩した」というのと同じで、だから独裁君主制はいいんだ、とか科学の発展の為に戦争しなくては、といった理屈にはならない。

商鞅の改革は、ずいぶん抵抗もあったようです。ある時田舎の長老たちが商鞅のところに面会に来た。商鞅に対して、政治が厳しすぎる、もっと優しくしてくれ、と訴えたんです。商鞅はどうしたかというと、一般民衆の分際で支配者に文句を言うとはけしからん、と言ってみんな処刑してしまった。

ところが商鞅の政治が軌道に乗ってくると治安も安定して、盗賊はいなくなる、道に財布が落ちていても恐れて誰も拾わないくらいになる。そうしたら、別の田舎の長老たちが商鞅に面会に来た。今度はなにかというと、「商鞅様のおかげで安心して暮らせるようになった、有り難や。」と商鞅を誉め称えに来たんです。
そうしたら、商鞅、どうしたと思いますか。今度も処刑してしまったのです。

庶民の分際で、御政道を誉めるとは身の程を知らぬ、畏れ多いおこないだ、というのが理由です。

要するに商鞅は国民が政府を批評する(いい・悪いを口に出す)こと自体を許さなかったんです。

黙って支配されておるべし、というわけだ。

今、政府が目論んでいるこの隣組制度の復活(今は、消火訓練・災害避難訓練・救助訓練・連絡網の整備といった地方自治体に行なわせている「訓練」→憲法改正で地方自治体から住民へ[地方自治へ参加の義務・国防の義務]→隣組の復活)を考えてみてください。

訓練への強制参加(無風注:今でも半強制=10日程前、出勤日である土曜日に[休暇届]を出した人が、その日にどうしても会わなければいけない来客が午後4時ごろにあるため、会社に出たきたので、「休暇とったのに大変ですね」と声を掛けたら、その休暇は「町内会の消火訓練」に出席するためとのこと。今でも国民は「ゆとりのある生活」をしていないのに、仕事だけでなく行政の肩代り、司法の肩代り=裁判員制度等々で段々と精神的肉体的に追い詰められていく。)が行なわれ、顔はニコニコの近所付き合い(ご近所の底力)は、自分の属する隣組から御政道に盾つく罪人は出ないか(連座制)と常に隣人に対し「疑心暗鬼」の心理状態を作り出す。

「人を見たら泥棒と思え」といった世の中が出来上がってしまう。

自分が連帯責任を取らされるのがイヤだから、例えば貴方が「こんなに(国は)税金を取らなくてもよかろうに」といっただけで、貴方を良く思っていない隣人から密告され逮捕される事態も起こることになります。

「物言えば唇寒し…」の時代となっていくのです。

(引用開始)

法律の功罪

秦の歴史を見ていておもしろいのは法律の果たした役割です。
秦に法律を取り入れたのは商鞅です。
彼は、厳罰主義、連座制、密告の奨励、信賞必罰と、法家の理想とする法律至上主義の制度を作りました。
これにより、これまでは有能な支配者が出ても、その支配者がいなくなればもとの木阿弥になってしまったのに、確立した法律は生き続けるため、改革の路線をそのまま走り続けることができたのです。
秦が後に始皇帝によって天下を統一するまでになったのも、この“法律”のおかげと言えます。

他方、法律には欠点もあります。法律至上主義が行き過ぎると、人心の底が見えなくなることです。(無風注:私が述べた世相となります)

人民の大部分が法律によって苦しめられるようになったとしたらどうでしょう?(無風注:法に触れると思わない何気ない行為や何気ない会話で「死刑!」と言われる世の中に生きる雰囲気をイメージして下さい。自分は何も悪いことをしていなくても隣組の一人が悪いことをして連座制で「死刑!」もアリなのです。)

秦の始皇帝、及び、その丞相李斯は法律をものすごく厳しくしました。

秦が滅亡した原因の一つはそのあまりに厳しすぎた法律にあります。

人民は法律に苦しめられるようになり、民心が離れていったのです。

だから劉邦(漢帝国の始祖)は、秦を滅ぼした時、秦の法律をすべて廃止し、「人を殺すものは死。人を傷つける者、盗む者はそれ相応の罪にあたる」というきわめて簡単な原則「法三章」を立て、民衆から大きな喝采を浴びました。

人々が生きるために法律(ルール)がなくてはならないが、行き過ぎもよくない。そういうことが、秦の歴史を見るとよく分かります。…以上、引用終り

■「汝、殺すなかれ」といった「~してはいけない」「~したら罰を受ける」といった“法”は、自分の為・相互の為に出来るのですが、それが往々にして権力者の国民支配に利用されます。
政府が法を「改正」する、と言ったときには、一つ一つ充分吟味し検討する必要があります。

法治国家で国民生活の基本となる法律が、政権政党の圧倒的多数によって一国会期間で17件も「強行採決」される国=日本。
国民は、それに対し「おかしい」「狂っている」と民主主義の崩壊を警戒する“常識”=良識を持つことが必要です。

教訓

2007年11月28日 | Weblog
終戦直後に日本国民の多くが感じたことは、「何のための戦(いくさ)だったのか?」という“戦争行為”の虚しさと、親を・子を・兄弟を・友を・夫を・恋人を・全てを奪った“戦争”を憎む感情だった。

今、戦争行為を“はずかしい行為”“許されざる行為”と感じさせることを「反国家的行為」と論じたり、「負けて尚、我に(日本国に)正義あり」といった戦争行為を肯定する論調が横行している。

「何故、大東亜戦争は正義の戦争だったと教えないのか!」「何故、当時の欧米の謂われ無き『黄禍論』(日本バッシング)によって日本が生き残るために止むを得ず“戦争”に突入した、と教えないのだ!」「日教組の間違った教育」「偏向報道」といった幼稚な大人(大人になりきっていない子供)の論調のことである。

戦争行為は、子供の喧嘩(感情)と同じであり、大人の正常な感情からすると“恥ずべき”行為なのである。

昔、こういった幼稚な論調は、少数の「右翼の思想」であり、何を馬鹿なことを言っているんだ、と一笑に伏せたのだが、今は(特に安倍首相になってからは)、国家(政府)の思想となり、国論は戦争肯定へ大きく傾いている(戦争への道を突き進んでいる)。…自衛隊の海外派兵・新テロ特措法・防衛省・憲法改正・等々。

終戦時の日本国民の「戦争を憎む心」(戦争行為への反省)が現憲法を『ありがたく』受け入れる根幹となっていた。

憲法前文にあるとおり「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないようにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。」である。国民の全てが“同感”し素晴らしい憲法だ、と感動したのである。

今、再び政府の手によって、戦争行為が正当化され、戦争が行なわれようとしている。

軍隊は戦争をするためにあり、日米安全保障条約は軍事同盟(戦争の敵味方を明確にしたもの)である。テロの脅威・中国北朝鮮の脅威と「敵」を創り、海外派兵・テロ特措法による戦争への加担・海外派兵を可能にした防衛庁の「省」への昇格・憲法改正により、正規軍隊化・国民への国防の義務(徴兵制)・軍事裁判所の設置(敵前逃亡者を死刑にする軍法会議)・国民保護法による個人財産(土地等)の国(軍隊・基地)への提供・協力の義務・等々、これだけ戦争に向かっている日本なのに、「今の若者は戦争など行かない」などと言って、「考え過ぎだ」といっている人は、何も考えていない人だ。

少し話しは横にズレるが「防衛庁」が「防衛省」になり、予算を自分で要求できるようになったことに対して、私は下記の記事が頭に蘇り「危惧」を感じた。

■ぐんさんふくごうたい【軍産複合体】 大辞林
〔military-in-dustrial complex〕軍部と軍需産業とが密接に結びつき国内の産業経済に大きな影響力をもっている体制をいう。
1950年代後半、アイゼンハワーはソ連の脅威を誇張し、有りもしない恐怖によって国民を洗脳する軍事産業・政治家・軍事専門家などの集合体を「軍産複合体」と呼び、アメリカにとって危険な存在であると警告した。

(そのクダリを引用)
1960年退任を前にアイゼンハワー大統領はテレビ演説を行い、「アメリカの民主主義は新たな、巨大な、陰険な勢力によって脅威を受けている。
それは「軍事産業複合体」とも称すべき脅威である。」といい、アメリカには制御が困難な軍産複合体が生まれつつあると警告した。
息子で元軍人のジョン・アイゼンハワーは「父は予算拡大を求めるペンタゴン(国防省)と戦い続けていた」と回想する。…引用終り。

今から50年ほど前にアイゼンハワー大統領が警告した民主主義の脅威は今、現実のものとなってアメリカを支配している。この軍産複合体はケネディ大統領の暗殺や9・11~アフガン・イラク戦争に至る経緯に関係しているとの噂も出るほど巨大化してしまった。

この話は置いておくが、アメリカで大統領が国防省と闘い続けたような事態が、今後の日本(国会VS防衛省)で展開することになり、日本も今のアメリカの二の舞になることが容易に想像できる。膨大な軍事費供出のための増税(国民負担)等。

さて、話を元に戻して、「戦争」に関しては同じなので、昔のベトナム戦争時のブログを引用しておく。

“国家のため”“主義のため”“民族のため”“宗教のため”に戦争が行なわれている。

これら“抽象”のために、本来的根源の“具体”が吸収・デリートされ、人々を錯誤させて誤った道を歩ませる危険性を「社会」は常に含有している。

即ち、“抽象”(社会)が“具体”(個人)を犠牲にし、“全体”(国家)が“個”(国民)に優越し、“形式”(国家の品格)が“生”(人格)から分離する、といった事象が人間の社会生活に不可避的に生起する。

私たちは「離れ小島に一人で暮らしているのではない」から、そこに他人との「折り合い」(共存)が必然的に生じてくる。

それは、私たちが求める価値(生きてゆくための必需品)が「希少価値」であり、社会の構成員全員が獲得できず、あるいは団体的集団的な力・協同作業によって始めて獲得可能な価値であることから、他人との協力(=妥協)が、自分の為に必要となり、そこに社会が起生されるのである。

こうして、個人の価値追及(生存・生活)に不可欠な社会や国家(国家の存在価値云々は別の議論とする)が出来ているわけだが、この“個人”と“社会”という“具体”と“抽象”が、往々にして逆転を起こす。

個人のため=社会のため=国家のため、という観念が通常の理念であるが、時として、国家あるいは社会、又はその他の“抽象”概念が、少数人の手によって、その形式性・抽象性を利用され、大多数の個人の犠牲の上に自分たちの価値(利益)の追求が行なわれる場合がある。

“国家のために個人は犠牲を惜しんではならない”“祖国の為に死ね”etc.という場合には、「国家のため」と「自己のため」の同一性を疑ってみる必要がある。

アメリカがベトナムで戦っている。その戦争の名目は「南ベトナム人民の共産主義の侵略からの擁護」と言われている。果たしてそうだろうか?
又「アメリカの国益の擁護」とも言われている。
だがその「国益」と、その構成員(国民)の利益とは同一のものではない。
アメリカ政府は「民主主義・自由主義の擁護」ともいっているが、自分の「主義」を他人(他国)に暴力(戦争)で押し付けようとすることが、最も民主主義から遠い行為であると、彼らは考えないのだろうか?

従軍記者の記事で、南ベトナム(敵地ではない・アメリカが擁護しようとしている側)の村々をアメリカ軍が進軍しているのだが、「村には老女と子供だけであり、その中に若い男性を見つけると、ベトコンとして捕まえ拷問や射殺が行なわれた。」というのがあった。即ち、戦争の実態は南ベトナムの人民も全て「人民解放軍」であり、決して北からの共産主義の侵略ではなかったのである。
戦争の名目は「南ベトナム人民の擁護」「民主主義・自由主義の擁護」である。
これは大東亜戦争時の日本の名目「列強諸国に植民地化されたアジア諸国の開放」と同じである。

最近の映画『フルメタル・ジャケット』のなかのセリフ「いいぞ ベイべー! 逃げる奴はベトコンだ!! 逃げない奴はよく訓練されたベトコンだ!!  ホント 戦争は地獄だぜ! フゥハハハーハァー」…南ベトナムの地でも周り全てが敵である。

今の戦争は民主主義のため自由主義のため平和のためとの名目で行なわれている。何故「アメリカだってやりたくない戦争を(平和のため・民主主義の為に)止むを得ず買って出ているのだ」といった歴史の教訓を全く生かしていないブログが出るのか、私には理解できない。

私たちの時代(平和な時代)にはたいした歌ではないと思っていた加川良の「教訓Ⅰ」がYOU-TUBEに載っていた。愛国心教育が国によって進められている今、もう一度、この歌を聴いて戦時中のことに思いを巡らせてみる必要がある。

加川良「教訓Ⅰ」http://www.youtube.com/watch?v=FSaMY7TRgFI

最後に、戦争についての言葉を幾つか挙げておく。

*誰が何と言っても戦争って汚くて、むごたらしく、いやあなものです。
これも人生の必然ならよろこんでしなければならないんだが…。
ウソッパチの新聞武勇談みたいなことは現代の戦争にはないと思いなさい。
僕には許されても(ウソの武勇談なんか)書けないよ、さいなら (「きけわだつみのこえ」より戦没学徒兵の手記)。…多少無風の修正あり

*いかに多くの罪悪が《国家のために》という美名の仮面のもとになされたことか。(マクドナルド)

*戦争は国民の生活問題を何一つ解決しません!何一つ!
それは働く者(国民)のみじめな状態をさらにみじめにするだけだ。(マルタン=デュ=ガール)

*国家は祖国ではない。
それを混同させるのはそれによって儲ける連中だけだ。(ロマン・ロラン)

*勝利に終わる戦争と言えども,常に一つの悪であると私は考える。
政治は民衆をそれ(戦争)から守る努力をしなければならぬ。(オットー・フォン・ビスマルク)

*往時においては母国のために死ぬことは心地よく,ふさわしいものであると書かれたが、近代戦争では戦死が心地よくふさわしいものは何もない。
諸君は犬のように死ぬであろう。(犬死するだけだ)(ヘミングウェー)







「99.9%は仮説」的発想の薦め

2007年11月26日 | Weblog
私の日記は「正しい『ものの見方・考え方』を身につけよう!」というテーマで書き始めたのだが、最近は時事放談的になってしまった。

「反戦な家づくり」さんのブログに今日のテーマにピッタリの意見が載っていたので、参照されたし。

「反戦な家づくり」http://sensouhantai.blog25.fc2.com/

この内容を紹介する前に、今日のテーマについて少しコメントを…。

上記「99.9%は仮説」は、昔の「頭の体操」「発想の転換」といった類の本で硬くなった頭(硬直した見方・考え方)を柔らかくするのに最適な本と言えます。

昔は私たちの住んでいるこの大地が動いている、という人がいたら「何を言うか!」とキチガイ扱いされました。
当時は「地球の回りを太陽や惑星やそのほかの星々が回っている。」という天動説が信じられていました。
空を見れば太陽や星は東から出て西にしずみます。
地面が動いていることなどまったく感じません。
地球が止まっていて天が動いていると考えるのは当然です。
そのころの人は「地動説」を唱える人たちを,「人々をまどわすわす大うそつき」だと思いました。
実際,宗教改革で有名なマルチン・ルターなども「このばか者は天文学全体をひっくり返そうとしている。(聖書で)ヨシュアが“留まれ”と言ったのは、太陽に対してであって、地球に対してではない。」と地動説を唱える人を批判し「地球が動いて,太陽が動かないなどとデタラメなことをいって世の中の人をまどわすのは,まったくけしからん。」というようなことをいっています。
 そこで,地動説をさらに発展させて「私たちが住むような世界(太陽系)は、この宇宙の中に無数にある。」と唱えたブルーノという人は「いくら注意をしても人をまどわすデタラメを言い続けた。」として,宗教裁判で火あぶりの刑に処せられました。(人のブログ引用)世間もそれを「当たり前だ」=『常識』と思っていたわけです。

「魔女狩り」「アカ狩り」も世間で“当然だ”と支持された時代があり、現在でも、マスコミの情報操作による社会ヒステリー現象により、こういったことが公然と常識として国民にスリコミされています。

■光市弁護団へのバッシング
■朝青龍へのバッシング
■亀田親子へのバッシング
■喫煙者へのバッシング
■反エコ行動に対するバッシング(CO2による地球温暖化等)

「津久井進の弁護士ノート」http://tukui.blog55.fc2.com/?q=%C4%AB%C0%C4%CE%B6

(上記より引用)…テーマと少しズレますが、民主主義について出ていますので、少し引用

民主主義というのは,単なる多数決とは違う。
   A.少数の意見にも耳を傾け,
   B.十分議論を尽くした上で,
   C.多数決による,
ということでワンセットである。

しかし,もうひとつ大切なのがある。
   D.的確な情報の流通
である。

 日本の民主主義で,欠けているのは,この「D.的確な情報流通」ではないか。
 そんなことを,最近話題の以下の問題を見て感じる。
    ■光市弁護団へのバッシング
    ■朝青龍へのバッシング
    ■亀田親子へのバッシング

 「赤信号みんなで渡れば怖くない」とか「付和雷同」とか,いろいろな言葉があるが,日本では何かあるとすぐに圧倒的多数意見が形成されて,そうなると疑問や検討もすっ飛ばして具体的な動きに移っていってしまう。
 こういう国民性は統率良い面もあるが,それは,もちろん悪い面でもある。

 朝青龍や亀田親子のバッシング問題など,どうしてここまで熱烈な国民的行事に発展するのか私には理解できないが,上記3つの問題に共通するのは,報道機関の異常なヒートアップだ。

やはり,「マスコミを見る目」は十分に肥やしておかなければならない。

以前に紹介した,文部省著作 教科書「民主主義」という民主主義の基本書がある。
この本では,報道機関について,「報道に対する科学的考察」という章を立てて,次のように論じている。

真実を探求するのは,科学の任務である。
だから,うそと誠,まちがった宣伝と真実とを区別するには,科学が真理を探究するのと同じようなしかたで,新聞や雑誌やパンフレットを通じて与えられる報道を,冷静に考察しなければならない。
乱れ飛ぶ宣伝(プロパガンダやデマ)を科学的に考察して,その中から真実を見つけ出す習慣をつけなければならない。
その上で,5つのポイントを呈示しているので,参考までにご紹介する。

1 先入観を取り除くこと

2 情報の出所を知ること

3 各マスコミ会社の立場や傾向を知ること

4 内部だけでなく全体的見地に立ってみること

5 一つの面だけでなく別の視点も持つこと

そして、一人ひとりが賢明になること,ということである。

戦後直後の教科書としてはなかなか良くできた書物である。…以上、引用終り。

今の国民は麻薬中毒ならぬ「マスコミ中毒」にかかっている。
治療には麻薬中毒患者同様、テレビ等のマスメディアを一定期間、絶つことが必要である。旅行へいって温泉に入り自然と戯れるのも一策だが、旅館に着いて、すぐテレビのスイッチを入れるようでは中毒症状から抜けられない。
マスメディアからの情報を絶ち、1ヶ月ほどネットのブログでニュースを見ていると中毒症状が無くなるのだが…。
麻薬絶ちや禁煙同様、テレビ絶ちも非常に強い意志の要る行動である。

現在の「常識」も皆、仮説より成っている。

例えば、「核の抑止力」(核を持てば、相手から攻撃を受けない)「力の均衡理論」「核の傘理論」「CO2ガスによる地球温暖化」「マイナスイオン」等々…。

従って、上記文部省の教科書「民主主義」の5つのポイントをよく噛みしめる必要がある。

昔、誰でもが教わった「盲目の人たちと象さん」のお話(訓話)を自分に当て嵌める謙虚さを持とう。

「群盲、象をなでる」

町に盲学校があった。 あるとき、子供たちを森にピクニックに連れていった。昼ご飯を食べて、皆おもいおもいに休んでいると、そこに象と象使いが通りかかった。先生は子供たちに象という動物を学習させたいと思い、象使いに頼んでみた。象使いはにこにこしながら言った。「いいですよ。この象はおとなしいから、さわっても大丈夫です」
先生の指示にしたがって、子供たちは象をとりかこむようにしながら、それぞれ象に触れはじめた。一人の子供は象の耳にさわった。その大きな耳をやさしくなでながら、彼はこう思った。「象は大きなうちわのようだ」
別な子供は象の足にふれて、思った。「象は太い柱のようだ」
また別な子供は象の鼻にふれて、「象は太いこん棒のようだ」と思った。
象の腹にふれた子供は、「象は大きな壷のようだ」と思った。
だれもが象にふれた体験をよろこんでいた。
学校に戻ってから、先生が子供たちにたずねた。
「象というのは、どんな動物でしたか?」
子供たちは、それぞれ感じたことを話しはじめた。
「象は大きなうちわみたいなものです」と最初の子供が言った。
「違うよ。君はわかっていない。象は太い柱みたいなものだ」と二番目の子供が言った。
三番目の子供が、笑いながら二人のあいだにはいって、言った。
「なんてばかなことを言ってるんだ。象はうちわのようでもないし、柱のようでもない。それは太くて長いこん棒みたいなものだよ」
三番目の子供が言いおわらないうちに、また別な子供が口をはさんだ。
「だれもわかっていない。象は大きな壷みたいなものだ。そうでしょう、先生!」
子供たちの議論は白熱して、しまいには口論になっていった。それが峠をすぎたころ、先生が言った。
「先生が象とはどんな動物か話してあげよう。みんなが言ったことは正しくもあり、また間違ってもいる。君たちのそれぞれが触れたのは、象という動物の一部分だ。そこから象の全体像を描こうとしても、それは正確なものではない。象はうちわのようでもあり、柱のようでもあり、またこん棒のようでもあり、壷のようなものでもある。そして、これらすべてをあわせたより以上のなにかだ。それは全体を見ることによってはじめてわかるのだ」

*マスメディアの異常な報道に惑わされないように!

どんどん、話が色んな方向に飛んでいったが、自分が「常識」だと思っている事柄を一旦置いて、別の視点を持つよう心掛けましょう。

■ローマ時代の『娼婦』は、今の宝塚スターのように尊敬と憧れの対象でした。
 それが私有財産制になり、男性支配の世の中で、自分の財産を自分の子孫に相続させたい、との欲望から、「一夫一婦制」「一夫多妻制」が出来上がり、世間の「常識」になっていったのです。(「風俗の歴史」より)

■「おじいさん、“あの世”ってとこは、いいところなんですかねエ?」
 「そりゃあ、いいところに決まってるじゃないか!」
 「どうして?」
 「あの世から帰って来た奴は一人もいないぞ!」(綾小路きみまろ)

少し、頭を柔らかくしたところで、最初に挙げた「反戦な家づくり」より引用。


■現代人を呪縛する3つのキーワード・「エコ」「消費者」「心の豊かさ」

現実にインド洋やイラクで、自衛隊が戦争に従事する世の中になってしまった今、なんでこうなってしまったのか、改めて考えてみた。
一番簡単な答えは、反対するものがいなくなった、あるいは極端に弱体化した、ということだろう。

戦争やりたい連中は、1945年にポツダム宣言を受諾したその瞬間から、ず~と一貫して戦争したくてウズウズしていたのだから、昨日今日始まった話ではない。
60年来の念願かなって大喜び、というところだ。

その念願を、いままで叶えさせなかったのは、当初の数年間はアメリカのせいかもしれないが、少なくとも1950年以降はアメリカのおかげではない。
日本の再軍備をガンガン進めてきたのは、他ならぬアメリカであって今日のアフガン・イラク参戦にまで直結している。

■■
では、60年間、日本を辛くも戦争参加させなかったものは何かといえば、やはり「反戦」(戦争を憎む心)であったと言える。
日本人の価値観の、深い深いところに「戦争をおこした奴らへの憎しみ」(戦争を憎む心)があった。
しかし、一方で戦争体験者が少なくなり、他方で労働運動の解体が進んだ1980年代、「戦争が憎い」という日本人の価値観に大きな変化が強制される。

「反戦」という心の中の芯、を静かに葬り去る価値観として、「エコ」「消費者」「心の豊かさ」が登場した。

注意したいのは「反戦」の反対は「戦争」ではないこと。

「反戦」(戦争を憎む心)の反対は「一億総懺悔」(皆が悪いのであって“戦争”が悪いのではない)だ。

つまり「みんな等しく悪いのよ」と、人の良い庶民の心根を利用して「戦争をおこした奴らへの憎しみ」をはぐらかし免罪することが、「反戦」の反対語なのである。
(無風注:「消えた年金誰のせい」という番組で“みのもんた”が「国民が悪い」といっていたが、それと同じである。)

その意味で、「エコ」「消費者」「心の豊かさ」、というキーワードは、四半世紀を経て再び登場した「一億総懺悔」(国民みんなが悪い)であったのだけれども、その当時は、そんなことには誰も気がつかなかった。

むしろ、クリーンで新鮮な価値観として積極的に評価されてきた

■■(エコロジーについて)

1970年代の公害問題の影響もあり「エコロジー」という専門用語は、あっという間に流行り言葉になった。
もちろん、クリーンで明るいイメージとともに。
(以下、「」付きの「エコロジー」は、専門用語としての意味ではなく、流行り言葉としての意味)

しかし、公害問題と「エコロジー」には、根本的に違う面がある。

公害問題には、公害を出した企業に対するたたかいがあった。責任追及があった。やめろ、という声があった。
しかし、「エコロジー」は、「みんなそろって地球に優しく」、である。

かく言う私も、高校生の時にコンラート・ローレンツや吉良竜夫の本など読んで、生態学の勉強をしたいと本気で思っていたことがある。
しかし、エコロジーが生態学という意味であることすら忘れられてしまうような、猫も杓子も「えころじ~」な流行が始まり、妙な違和感を覚えていた。

今にして思えば、敵が誰だか分からないようにして「人間みんな悪いのよ」とワケも分からず反省させる、かく乱作戦であった。
そして、言うまでもなく、これがそのままCO2温暖化脅威論につながっている。

もう20年以上も、周到に「エコ」という原罪論を刷り込まれてきた現代の人間は、「私たちの出しているCO2が悪い」と言われると、パブロフの犬のように「燃費の良い車に買いかえよう」と言い出す。

しかし、そもそも、(発生源の)車なんて売るな、とは誰も言わないし、車がなくてすむような経済にするべきだ、とも誰も言わない。 (中略)

■■(「消費者」について)

「エコ」とともに、あたりまえの言葉になってしまったのが「消費者」である。
主婦連や生協などを主軸にしながら、1960年代の高度成長と軌を一にして運動が高まってきた。

60年代から70年代には「消費者」と言えば「生産者である企業と対決する」と言う意味が含まれていた。
しかし、80年代に入り「消費者」は「マーケティングの対象」になってしまった。
「お客様は神様です」という,三波春夫の芸道を語る名文句が,なにやら商売のコツのように語られ始めたのも,この時代ではなかったか。

ちなみに,三波春夫の言う「お客様は神様です」は,神様こそがお客様だという,神に捧げる芸能の本来の姿に近いものだったようだ。自分の芸を引き出してくれる客の力を神に見立てているとも言える。
この辺の気持ちは,私も客商売なので,少し分かるような気がする。

ともあれ,生産者と闘っていた消費者は,生産者たるメーカーのお客様としての「消費者」に,180度姿を変えた。

「消費者」本位,という大義名分に乗っかって,あれも買え,これも買え,とモノばかり買わされ,家の中はモノでいっぱい。

モノがあふれるから,家も建てようというトンでもない経済循環を生みだしながら,生かさぬよう殺さぬよう「消費者」は消費をさせられていく。

当たり前だが,消費は手段であって目的ではない。あくまでも,生活するための一つの手段に過ぎない。
自給自足できていれば,消費はしなくても生活はできる。
だから,私は自分のことを「消費者」とは言わない。あくまでも「生活者」なのである。

しかし,今の世の中,消費が目的化している。エルメスのバッグは,使うためというよりも,所有するため,つまり買うために買っているひとがほとんどだろう。

そこまで高級ブランドでなくても,まだ使えるものをドンドン捨てて,カッコイイものを買い求める。

ただ捨てるのでは「エコ」に反するから,新しい商品はしっかり「エコ」な顔をしていたりするし,捨てるのではなくてリサイクルだとか言って安心する

実は,古くても我慢して使い続けることが,いちばん省資源だということを誰も言わない。

そうやって消費し続けたあげくの果てが,耐震偽装マンションだ。
もちろん,あんなのは氷山の一角。
消費者を喜ばせる表の顔の裏側で,どんな商品をつかまされているのか,牙を抜かれた「消費者」は見ぬくことも抗議することもできなくなってしまった。

■■ (「心の豊かさ」について)

とは言え,これだけモノを買わせられ続け,いらんモノに埋もれて暮らしていると,さすがに虚しくなってくる。

そこを巧みについたのが,「心の豊かさ」だ。

そもそも,いらんモノをたくさん買わされたからといって,物質的に豊かになったと言えるのだろうか。
年金を削り,医療費を削り,生活保護を削り,国民を餓死させるような国が,物質的に豊かになったと言えるのか。

一家で食っていこうと思ったら,過労死覚悟でなくては立ちゆかないこの世の中が,本当に物質的に豊かなんだろうか。

そうした疑問を封じ込める魔法の呪文が,「心の豊かさ」である。

1981年に第二臨調が発足し,国鉄や電電公社などの民営化=組合つぶしに手をつけ始めた。その第二臨調の土光敏夫のメザシが有名になった。

メザシに負けた国労と言ったら怒られるだろうが,労働者の権利を主張する組合に対し,「清貧」を演出する土光のほうが勝ったのである。

もちろんNHKに放映された土光家のメザシ定食はヤラセだったらしいが,そんなものに国民が挙げてダマされたのは,「消費者」として生きさせられている虚しさを,どんぴしゃりと突かれてしまったからだ。

■■
80年代を通じて,呪文は日本中に蔓延した。
「エコ」「消費者本位」「心の豊かさ」と言えば,だれもが信じる正義の味方。

この呪文に共通しているのは,けっしてけっして責任をハッキリさせないこと
敵を見せない。敵という概念を捨てて,みんな悪いんだという詭弁で騙す

(1)エコに反することは,本当は誰が一番しているのか。

(2)都合の良いものを消費させるために労働者を生かしている(飼っている)のは誰なのか。

(3)生きるために本当に必要なモノは全然豊かではないのは,誰のせいなのか。

こうした,生活者としての根本的な疑問と責任追及の矛先をはぐらかし,万が一楯突くものには,絶対正義の顔ではね返す。

かくして,ゲンダイの呪縛されたる日本人が出来上がった

かつて,日本人の腹の中にすわっていた戦争を起こしたものへの憎しみは,次世代へと受け継がれるかわりに,CO2への憎しみにすり替わってしまった。

今,自国の軍が戦争に参戦しているのに,わずか1万人単位の反戦集会を組織する主体すら存在しない。

特効薬があればいいけれど,なかなか見つからない。
気が付いた一人が,みずから呪縛の縄を斬り捨てるところから,新しい物語は始まるのかもしれない。…以上引用終り


■最後に60年前の文部省の教科書「民主主義」より、

 ◎独裁政治(愚民化政策)の野望を打ち破る方法は、ただ一つある。それは、国民のみんなが政治的に賢明になることである。

人に言われて(無風注:政府や報道情報に踊らされて)、その通りに動くのではなく、自分の判断で、正しいものと、正しくないものとをかみ分けることができるようになることである。

民主主義は「国民のための政治」であるが、何が「国民のための政治」であるかを自分で判断できないようでは民主国家の国民とはいわれない。




最近の嘘ことば

2007年11月22日 | Weblog
最近は、書きたいことが溜まり過ぎて、考えが纏まらないうちに書き始めるので、タイトルとかみ合わなかったり、昨日のように「政府の弁護も…」といいながら結局、今の日本社会の批判=政治批判・政府批判になってしまっている。
今日も、考えが纏まっていないのでとりとめがつかなくなりそうである。


最近の「嘘」を考えて列記してみる。(アトランダム)

「改革」「国民のため」「国民の利益」「国益」「国際貢献」「テロ」「話し合い」「○○が悪い」「社会保障のための…」「少子化」「お金が足りない」「痛みを分け合って…」「相互扶助の精神」「災害避難訓練・災害救助訓練」「反対するしか能のない野党」「対案の出ない野党」「政権担当能力の無い野党」「今の日本の繁栄は与党自民党政権によるもの(政権政党の実績)」「今まで日本の平和が維持できたのは日米安全保障条約(=軍事同盟)によるもの」「日本の平和はアメリカの経済援助・核の傘によるもの」「アメリカ軍が日本から撤退したら(世界有数の軍事力を誇る自衛隊では)日本は守れない」「このままでは日本はどうなるのか?」「日本は無くなる」「愛国心教育が必要」「日教組による教育の荒廃」等々。まだまだいくらでもありそうだが取り敢えずここまでにしておく。

さて、日本の腐敗構造のミニ版、大阪市を見てみよう。

先日行なわれた大阪市長選挙の記事とブログ

反戦な家づくり http://sensouhantai.blog25.fc2.com/blog-entry-459.html

(少し引用開始)
大阪市長選挙の投票率は、歴史的にどん底だ。
95年は28%だった。そんな選挙が有効なのか? と思いたくなるような投票率だ。
今回は、わずか43.6%で、20年ぶりに4割を超えた「高」投票率なのだそうだ。
投票に行かない大阪市民も大概だけれども、考えてみれば、投票する人がいなければ行かないのも仕方がない。

なにせ、大阪市は56年間も(共産党以外)オール与党で助役を市長にスライドさせてきた。 もちろん、職員組合もオール与党の内だった。
ところが、2年前の選挙で関市長は、労働組合に財政悪化の全責任を押しつけて、関係を断絶。
それが、今回の関落選、平松市長誕生となったわけだ。

考えなくても分かるけれども、56年間もオール与党で固めていたら、腐敗しない方が不思議だ。
倒産寸前と言われる市財政も、そのありとあらゆる腐敗から生まれていることは間違いない。 その意味では、組合にも責任の一端はあるだろうが、全責任を押しつけられて、まるでCO2のように悪者に仕立てられる謂われはない。

関市政の内実を、ちゃんと検討してモノを言うのではなく、一部の人間が「組合が」「同和対策が」「地下鉄が」と言うのを鵜呑みにして、何でもそれが悪いと思いこむのは、まさにCO2温暖化脅威論と同じ構図だ。

関市長が財界べったりであったことは、紛れもない事実であり、そちらにはどれだけお金が流れたのかも明らかにされていない。
地下鉄だって、掘るだけ掘って、阪○かどこかにお安く売却しようという魂胆だろう。

「市政改革後退の恐れ」経済界は動揺 2007年11月18日朝日新聞 より引用

民主党などが推薦した平松邦夫氏が大阪市長選で初当選した18日、関西の経済界に動揺が走った。経済界は、自公が推薦し、市営地下鉄の民営化など改革推進を掲げた関淳一氏の3選を支持してきた。民営化に慎重な姿勢を見せてきた平松氏に対しては「市政改革が後退する恐れがある。産業振興にどう取り組むかも不透明」(財界関係者)との受け止めもあり、今後、経済界と市政との関係が微妙に変化する可能性もある

 結果を受けて経済3団体が同日夜、談話を発表した。関西経済連合会の下妻博会長は「市政改革は道半ば。改革を加速させてほしい」と注文。関西経済同友会の小嶋淳司代表幹事は地下鉄民営化にふれ、「現体制で改善の成果が思わしくない場合、迷うことなく民営化を含む大胆な施策を実行してほしい」と要望した。

 大阪商工会議所の野村明雄会頭は「公共サービスの民間開放などに徹底して取り組み、地域経済の活性化を」と訴えた。

 ある財界関係者は「経済界と関氏との関係が良かっただけに、関係を再構築する必要がある。だが平松氏のスタンスも、まだ分からない」と漏らす。別の関係者は「関氏の改革の実績が市民に伝わらなかった」と分析。改革が停滞すれば今後、経済界と市政との間に溝ができると危ぶむ

 関経連の下妻会長が「関氏は信頼できる」と語ってきたように、市政改革や梅田・北ヤード開発で経済界と市は、いわば共同歩調をとってきた。地下鉄問題では同友会が「サービスが向上し、財政にも寄与。関西交通網の整備が活性化につながる」と関氏の民営化論を支持してきた。

 平松氏は「地下鉄経営は改善の余地があり、現地点では(民営化に)賛成できない。私鉄各社とも連携を深めたい」と慎重な構え。現職だった関氏に比べ、地域活性化でも具体策を示すことはできていない。 …以上、権力に○玉を握られているマスメディアの記事。ジャーナリズムの原点を忘れて、権力者が使っている嘘理論をそのまま用いている。このブログのタイトルではないが「平松さん(=新市長)、赤字なんか気にするな」と応援したくなる。

(同ブログの続き引用)
実際の大阪市の財政は、平成17~8年のものが市のホームページに出ている。
概略は、以下の通り

借金総額 5兆5千億円

税収等1兆1千億
交付税等 5千億
特別会計 2兆5千億  → 収入計 4兆1千億
市債(借金) 1兆  → 歳入計 5兆1千億

つまり、自前の収入が 3兆6千億
国や府などからの交付が  5千億
借金が  1兆
そして、借金の残高が、歳入とほぼ同じ 5兆5千億

という構成だ。

えらいこっちゃと言われている割に、たいしたことはない。
国に比べれば、健全財政と言いたいくらいだ。

ちなみに平成19年の国の予算は、
自前の収入   57兆円
借金      25兆円
借金残高    547兆円

注意するべきは、国にしろ自治体にしろ、赤字は「利用」されているということ

「収入の範囲内でしかサービスできません」という論理は、特にコイズミ以降当たり前に思われているけれども、全然あたりまえではない

「生存権の範囲内で全員が生きていくことは必ずできる」
「それができないのは、軍事予算や巨額開発に湯水のように金を使っているから」
というのが あたりまえの話。

こういう、ちょっと調べればすぐに見えるモノを見ようともせずに詭弁に引っかかるのがCO2温暖化説に洗脳された現代人の怖いところだ。

平松新市長は、こうした妄言に踊らされず、事実をしっかりと調査して、市政を担っていかれることを望みたい。…以上、引用終り。

■しかし、天下の公器マスコミが、しかも朝日新聞が56年も続いた馴れ合いの市政に対し“市政”=政治と“経済界”=財界が「うまくいっていたのに」とか、その経済界の意見「地下鉄の民営化といった“改革”が後退する恐れがある」を取り上げ、経済界の希望する地下鉄の民営化によって“地域活性化”が図れるのに、新市長は地下鉄民営化に消極的であるにも拘らず、「地域活性化でも具体策を示すことはできていない」と“批判”して締めくくっている。…政府の「反対するだけで…」と似ていると思いませんか?

私は間違ったことをやろうとした場合(間違った方向に行こうとしていた場合)、まずそれを止める(阻止する)のが、他の方策を考える前に「第一にすべきこと」ではないか、と思う。

例えば、政府が「共謀罪」という法律を成立させようとしている場合、それを反対する人や党に対し、反対するだけで「対案」を出さない、といっている政府の「嘘」と同じである。

*地下鉄民営化による地域活性化・公共サービスの民間開放によるサービス向上(=住民・市民・国民のためになる)との嘘。

 同ブログでも書いてある通り、「地下鉄だって、(市民の税金・国民の税金を大量に使って)掘るだけ掘って「阪○」かどこかにお安く売却しようという魂胆だろう。」が正解であり、決して市民・住民のためではない。
政財界の癒着の構造である。
地下鉄民営化で一番喜ぶのは経済界であり、安く払い下げられると期待していた一部財界人に「動揺が走った」のは当然だ。まさに「経済界と市長の関係が良好だったのに…」である。

郵政民営化でも同じである。国鉄は大赤字で民営化して正解だったが、郵政事業は350兆円資産の優良事業であり、「国民サービス」を謳って、殺されてもやらなければならない“改革”ではなかったのである。有識ブロガーの指摘通り、アメリカの「改善要望書」に基づいたアメリカのための「改革」だったのに、国民はコロッと騙されて、衆議院の2/3超えの議席数を与党に与えた。
 
国鉄は必死だった、だが郵便局の「官僚主義」は儲けているせいか、そのままだ。昨日郵便局へ行ったが、変ったものと言えば、窓口の配置と、言葉遣いが丁寧になった位で、顧客満足を考えた対応はとられていない。相変わらず“異常に”待たされる。顧客対応策がとれていない。窓口担当者が全て一人で処理している感がする。待たされているせいか、なかでのんびりと仕事をしている大勢の局員達を見ていると苛立たしさを覚える。
言葉だけで愛想を振りまくよりも「局全体での顧客対応」イメージを作ることが大切だ。

年金でもそうだ。同ブログで「『赤字』は国に利用されている」ので、それを理由に増税を言い出したときには“気をつけなさい”と言っている通り、赤字だから増税して財源確保しなければ、と政府が言う時は、良く考える必要があります。
例えば、政府は今、少子化で年金が『赤字』となるので、社会保障の為=国民のため=みんなの為といって消費税を3倍にしようとしていますが、国民は「じゃ、仕方ないか。」と思わずによく考えることが必要です。

少子化は今に始まったことではない。もうずっと昔に分かっていて、政府・労働厚生省・社保庁は何の対策もとらず、事務所費やグリーンピア事業等に年金を流用し続け、累計で6兆7878億円も使っているのである。それで国民に払う年金が足りませんから(赤字だから)増税で…、を、「はい分かりました」と納得する国民は「馬鹿」としか言いようがないと思うのだが。
我々国民は何の為に血と汗と涙を流して働き、公務員にその税金を給与として与えているのか?

*「改革には痛みが伴うが、それを分け合ってほしい」も嘘。
痛みを国民に押し付けっぱなしで、自分達(国・政)が痛みを受け持ったものが見えてこない。「改革」という言葉で国民を騙すことが出来たので、この言葉が頻繁に支配者側で使われるようになった。「テロ」「国際貢献」も同じである。

長くなるので一言ずつコメント
*「国際貢献」→国民の生活(生存権)も守れないで(「おにぎりが食べたい」と書いて餓死する国民を出している政治、国民の自殺者が年間3万2千人を超える政治、をしていて)、何が国際貢献だ!

*「テロ」→「テロの脅威」をいい、敵国を作り出し、軍隊でアメリカの傭兵として海外に派兵し、実際にテロの脅威を作り出そうとしているとしか思えない政府。
アメリカ軍とその基地を日本から撤退させたとして、(さらに、自衛隊をなくしてしまったときに)、日本でテロが起こる可能性を考えて見て下さい。どこが、何の為にそんな無意味なことするの?と思いませんか。そう思わない人は、もう完全に政府・マスメディアのプロパガンダによって洗脳されてしまっているのです。

福田首相が「新テロ特措法は国民の為の、国民が得をする法律だから、なんとしても通さなければ」といっているが、アメリカから日本国で調達するより2~3倍の価格で油を買って、無償でアメリカ等の艦船に国民の税金を使い220億円も給油することのどこが「国民が得をする」ことなのか。

外国の記事を載せておく。

「日本政府と与党が、テロ対策特別措置法の時効満了を利用し、恒久的な立法を通じて自衛隊の武力を合法的に迅速に機動させ、海外侵略のための軍事的足がかりを準備して…いる」

新聞は「日本が米海軍に対するインド洋での燃料普及活動を通じて自衛隊の海外進出を合法化し、侵略武力の長距離機動化戦略実現のため…に、テロ特別措置法を立法した。今はこの目的が基本的に達成されたとして、今度は、任意の見解で任意の地域へ自衛隊を海外派兵することができるようにするために新たに恒久的なテロ特別措置法を立法しようとしている」と伝えた。 …以上、引用終り。

これが載っていたサイトには沢山のコメントが寄せられている。敵国K国の記事なので「何を言ってやがる!」といったものが圧倒的に多い。それこそ「K国など、核攻撃でぺんぺん草も生えないようにしてやる」(前首相)といった感じの発言ばかりである。

ただ、謙虚に受け止めて欲しいのは、今まで憲法で「戦争しない、平和な国」と見られていた日本が、「旧テロ特措法」「新テロ特措法」や恒久的な立法によって、今では外国からテロや戦争の対象国と考えられるようになってしまったことである。

上記記事に対する投稿コメントを見ていると、独裁国家をつくるための嘘、「我々はテロの脅威(敵の攻撃の脅威)に晒されている」が、現実に変っていくのを感じる。日本国の中に「中国」「北朝鮮」「朝鮮」「ロシア」といった日本の近隣諸国に敵愾心を燃やす国民が増えている。
これに教育基本法改正で国が国民を教育することになったため、「国による愛国心教育」が行なわれていくわけだが、その行き着く先は…。
歴史を学んだ者には一目瞭然である。

政府の嘘、それを宣伝するマスコミを挙げていったら切りが無いので、一旦、筆をおく。


 






官僚主義について

2007年11月21日 | Weblog
昨日の続きと思ったが、昨日の内閣⇔官公庁の関係で少し政府の弁護もしておきたい。今の社会が抱えている一番大きな問題は、資本主義・共産主義・社会主義といった社会体制ではない。
資本主義は、その欠点を補うために社会主義的なものを取り入れ、社会・共産主義も資本主義的なものを取り入れてきている。
では、資本主義国で、又、社会主義国で何が一体問題になっているのか?それはタイトルに書いたように「官僚主義」である。

(ウィキペディアより引用)

*官僚制(かんりょうせい)

 比較的規模の大きい社会集団や組織における管理・支配のシステムである。
 一般に官僚制という場合は、「近代官僚制」のことを指す。

 1 官僚制の特徴

官僚制の「官僚」という言葉のイメージから、国家および行政機構に特徴的なシステムと思われがちだが、政党などの政治団体の他、企業、労働組合、福祉団体、NGO(非政府組織)などの民間団体にも見られるヒエラルキー(位階、階層)構造を持ったシステムである。

基本的な特徴としては、以下の点が挙げられる。

(1)形式的で恒常的な規則に基づいて運営される。
(2)上意下達の指揮命令系統を持つ。
(3)一定の資格・資質を持った者を採用し、組織への貢献度に応じて地位、報償が与えられる。
(4)職務が専門的に分化され、各セクションが協力して組織を運営していく分業の形態をとる。

組織を構成する人間の関係は、能率を重視する非人格的(非人間的ではない)な結びつきによって成り立っているとされる。
つまり、血縁によるつながりや感情的な結びつきなどではなく、合理的な規則に基づいて体系的に配分された役割にしたがって人間の関係が形成されているということである。

なお近代官僚制は、以下のような特質を備えていることがヴェーバーによって指摘されている。

(1)権限の原則
(2)階層の原則
(3)専門性の原則
(4)文書主義

ヴェーバーは、近代官僚制のもつ合理的機能を強調し、特に機能障害については論じておらず、官僚制は優れた機械のような技術的卓越性があると主張した。
ただし、官僚制支配の浸透によって個人の自由が抑圧される可能性や、官僚組織の巨大化によって統制が困難になっていくといった、近代官僚制のマイナス面について予見している点は見落としてはならない。

近代官僚制のマイナス面(マートンが指摘した官僚制の逆機能)

(1)規則万能(例「法律・規則に無いから出来ない」)
(2)責任回避
(3)秘密主義
(4)画一的傾向(例「役所窓口の冷淡な対応」「公営バスの運転手の横柄な態度」)
(5)権威主義的傾向・自己保身
(6)繁文縟礼(はんぶんじょくれい)(例、指示文書だけでも数十枚に渡り保管整理に時間を費やしてしまう)
(7)セクショナリズム(例「縦割り政治」(同じ道路を何度も掘り返し、電気配管工事・上下水道工事・ガス管工事が別々に行なわれる等)「部署外だから関係ない(民間企業でも見られる)」)

これらは、一般に官僚主義と呼ばれているものである。例えば、先例がないからという理由で新しいことを回避しようとしたり、規則に示されていないから、上司に聞かなければわからない、といったようなものから、書類を作り、保存すること自体が仕事と化してしまい、その書類が本当に必要であるかどうかは考慮されない(繁文縟礼)、自分たちの業務・専門以外のことはやろうとせず、自分たちの領域に別の部署のものが関わってくるとそれを排除しようとする(セクショナリズム)、というような傾向を指し示している。

満州事変に端を発する太平洋戦争までの軍部の暴走や、戦後の行政の腐敗も、官僚制の逆機能の特徴を備えている。

パーキンソンの法則

マートン以外にも、イギリスの歴史学者・政治学者であるシリル・ノースコート・パーキンソンによる指摘もよく知られている。
パーキンソンによる官僚組織の非合理性についての指摘は「パーキンソンの法則」と呼ばれている。

これは、実際にこなさなければならない仕事量に関係なく、官僚の数はどんどん増え続けていくというもので、官僚組織の肥大化の特質を示している(成長の法則)。
もちろん官僚が増えれば、その分仕事がなければならないが、それは実際に必要ではない仕事を創造することでまかなわれる。
つまり、無駄な仕事ばかりが増えていくということである(凡俗の法則)。

官僚制組織には、非合理的な面も多く見受けられるが、それは人間自体が非合理的な存在であるというところに由来するものということができる。

しかし、組織管理の体系として、官僚制に勝るものがないというのも現状である。

(以上、ウィキペディアより引用)

余談になるが、このウィキペディアを信用しない人は多い、お役所による改竄が勝手に行なわれ、誹謗中傷文が掲載されることもあるからであるが、その辺りを気をつけて読めば、ナカナカ為になることも書いてあるな、と小生は思っている。

もうひとつ、このウィキペディアをパロっていると思われるサイトから…。

◎官僚主義(かんりょうしゅぎ)とは、面倒なことを可能な限り先送りするための合法的手段の体系もしくはその実践である。
役人根性の上位概念であり、その起源は古く大和朝廷の成立に遡ることができるといわれる。

組織と組織で働く人に優しいシステムであり、社会の発展と複雑化に伴い官庁のみならず多くの企業・組織で導入されるにいたっているが、不当に貶められることもしばしばである。

ともあれ、組織内部においては便益が最大となる優れたシステムであり、組織外部からとやかく言われる覚えはない。

[編集] 官僚主義の形態

責任を絶対に取らないことが基本命題であるとされる。
また、既得権益は死守すべきものとされ、予算を100%消化してより高額の予算を獲得することが至上命題である。…以上引用終り

(又、ウィキペディアより引用)

・官僚主義(かんりょうしゅぎ)

組織で働く職員が、個別のケースに対して独自の裁量と責任で行動するのではなく、規則や前例、建前論を根拠に、画一的、形式的な対応をすること。

被害を受ける側からは、しばしば傲慢で独善的に見える。

主に官公庁で見られるためにこう呼ばれるが、組織の規模が大きいところではどこでも見られる。
「官公庁と利用者」という図式だけではなく、「企業と消費者」「上司と部下」「使用者と被雇用者」など、様々な場面で現れる。

誰に対しても一律で「平等」な対応ができる反面、ことなかれ主義的で血の通わない対応になりやすい。

これは、官僚主義が法や規制によって個人的な裁量を出来る限り制限することで専横や情実を排する一方でその背後に、規則・前例・建前論を根拠にすることで責任の所在をあいまいにし、独自の判断で行動して責任を追及されることを避けたい、という保身のための思考があるためで、結果的に、官僚主義は「~~だからできない」という後ろ向きの結論を導きがちである。

このため、官僚主義は、官民を問わず組織を硬直化させ、効率の低下を招くが、一掃することは難しい。

・事なかれ主義

紛争を回避し、平穏無事であることをなにより優先する態度。そのためトラブルは隠蔽に努める。
公務員や大企業などの組織所属の人間に多く見られる。ひどいのになると、告発者に向かって「なかったことにしてやる」と恩を着せる者もいる。

・権威主義(官僚主義の特徴の一つ)

権威(人を服従、強制させる力)に価値をおき、それに対して自己卑下や盲目的服従をする態度のこと。また逆に人にそれを要求する態度のこと。心理学的には、権威や伝統、社会的に価値のあるとされているものを無批判に承認し、これに服従、依存し、融通が利かないパーソナリティを指す。
権威主義的性格の強い人間は金、地位、名誉を求め、それらに弱い傾向にある。


以上、官僚主義について書き出してみたが、お役所に行ったことのある人は納得されることと思う。
最後に、もう一つ、官僚主義について挙げておく。

(引用開始)
「内なる官僚体質」と決別を…新潮社「フォーサイト」1997年1月号掲載

実は日本の官僚の病は、相当部分、民の側も共有している。官民を問わず、日本的な組織の編成原理には共通する部分が多いからだ。官僚制度を批判するその矢を、同時に自分の方にも向けなければ、無責任な言いっ放しになってしまいかねない。
 そこで、自らの「官僚体質」を本音でチェックするためのリストを作ってみた。企業に勤めている人間を念頭に置いているが、以下の二十問について、あてはまると思うものに○をつける。あなたはいくつだろうか――。

〈カルチャー〉
(1)仕事の内容、報酬が同じでも肩書にはこだわる
(2)報告書のスタイルの細かな違いが気になる
(3)電子メールだけで連絡するのは失礼と思う
(4)上司が残業しているとき、一人では帰りにくい
(5)廊下などですれ違った際、若手の方から会釈がないとムッとする
(6)オフィスでのファッションは地味が一番と思う
(7)社宅に住むことに抵抗はない
(8)本音の議論や根回しは就業時間が終わった後の「アフター5」にする
(9)取引先などから一方的に接待されても、特に相手に便宜を図らなければ問題はないと思う
(10)ゴルフや会食で「送り迎えの車」を出されるのに抵抗はない

〈制度〉
(11)昇格、昇給では入社年次のベースを大きく崩すべきではない
(12)入社時の成績はその後も昇格などにある程度反映させてよい
(13)昇格にともなって、個室や秘書、車など給与以外の付帯給付(フリンジベネフィット)が増えるべきだ
(14)上司が部下を査定すべきで、その逆は論外
(15)信賞必罰が行きすぎるとモラールは低下すると思う
(16)社員の退職後の就職斡旋はある程度企業の責任だ
(17)「他社がやる」あるいは「やりそう」というのは、新規事業進出決定の理由になる
(18)「前例がない」は拒否の理由になる
(19)外国人はたとえ日本語が堪能でも同僚にはしたくない
(20)異性や中途入社者が上司になるのは抵抗がある

 チェックの結果はこんな感じになる。
◇民間人(○が一個―五個) まだ官僚の病には毒されていません。いくつか○が付くのは日本人の証拠。
◇官僚化初期(○が六個―九個) 体質の官僚化が始まっています。官僚批判をする時は自分の胸に手を当てて。
◇半官・半民(十個―十四個) 感覚が相当に官僚化しています。企業の管理職なら変化への障害物になっています。
◇民僚(十五個以上) 民間企業に勤めていても、本質は官僚そのもの。マスコミの官僚批判にも違和感があるでしょう。
◇エイリアン(ゼロ個) あなたの感覚はほとんどシリコンバレー。でも、日本の同僚からは「異邦人」扱いでは。

民間企業にも官僚の声が……

 筆者自身は○が五つ。ぎりぎり民間人にとどまっているようだが、友人たちにやらせたところ「半官・半民」が結構出現した。
 日本人の中に官僚体質の人間が多いのは、官僚組織に代表されるシステムが比較的最近まで日本でうまく機能してきたためだ。
 第一に人材の採用、登用では、学歴重視と年次主義が最も効率的だった。情実や縁故なしに幅広く人材を求めるには、一流校を出て入省(社・行)の際の成績が優れているというのが最も客観的な基準だった。そして、入った年次を基準に横並びで昇進する制度は安定感と仲間意識を持たせる上で役だった。
 民間企業ではこうした制度は崩れてきてはいる。ただ、出身大学のブランドには依然こだわりが残っているし、昇進制度では年次主義に代わる基準をまだ確立できないでいる。
 第二に報酬面では、勤労現場での平等主義と退職後の「天下り」による生涯所得の補充がうまくバランスを取っていた。課長の時は比較的薄給にして個人差を付けずに競争心を高め、「先憂後楽」の形で後でその分を補填していた。民間でも関連会社の役員に出てサラリーマン生活を全うするケースが多い。
 官庁の場合は、「次官が出ればその同期は全員退職」との不文律も加わって、組織の老齢化を防ぐ効果もあった。
 第三に意思決定面でも、高度成長期においては横並び主義も競争促進の効果があった。先例主義も欧米というモデルがあるうちは有効だった。
 しかし、こうした官僚制をベースにおいた日本的なやり方が機能した時代は終わっている。
 いまや人材に求められる最大の資質は創造力であって、試験の成績ではない。今のシステムは受験エリートを選択するだけに、逆に必要な人材が漏れ落ちる危険が高い。黙々と働けば老後に報われるという報酬制度も、今のままでは野心的で能力のある若手をつなぎとめておくことは不可能だ。
 世界で最もダイナミックに動きつつある米国社会では、「ビューロクラット(官僚)」という言葉には悪い、否定的な響きがある。「何もしない」「形式主義」「リスクを取らない」──というイメージだ。
 米国で伝統ある巨大企業の「社内文化革命」に成功したゼネラル・エレクトリック(GE)のジャック・ウェルチ会長は、社内組織の官僚化を緑の芝生に生えるタンポポにたとえたことがある。米国ではタンポポは芝生の美観を損なう雑草だが、土深くに根を広げ、抜いたと思ってもまた生えてくるしつこさを、官僚主義になぞらえたのだ。
 日本の官僚主義は文化、伝統に根ざした部分もある。米国以上にその根は深く張っている。一人一人が自らの内なる官僚体質をチェックしていかないと、民間企業にも官僚の病が伝染しかねない。…引用終り。


■政財官民の癒着が、この「官僚」をのさばらせる原因となっている。
 「官僚」の悪を暴くことは自分を裁くことになる、といった「政・官が同じ穴のムジナ」であることから「官」に弱みを握られているのである。
今の、政治家・官僚・民間企業の癒着で問題になっている「山田洋行・防衛省」は、この典型的な例である。



自分がダメにした社会を国民のせいにする政府

2007年11月20日 | Weblog
最近、私の日記のタイトルと中身がかみ合っていない。
タイトルを書いて、今日はこのことについて書こうと思って入力画面と向かい合うのだが、頭にあれもこれもと書きたいことの断片が浮かび、脱線ばかり起こし纏まりがなくなっている。今日もそうなりそうである。

さて、私が「アレッ!変だな?」と思ったことの一つに、年金問題が表面化した時に、内閣閣僚(今では舛添厚生労働大臣)が、諸悪の根源「社会保険庁」と強烈にバッシングを行い、社保庁のリストラ(解体)を図ったことである。

私は国の行政組織図を改めて見てみた。やはり、下記の様になっていた。

内閣(TOP=内閣総理大臣)
 ↓
厚生労働省(TOP=厚生労働大臣)
 ↓
社会保険庁(TOP=長官)

これが行政機構の指示命令系統図である。
確かに100件以上にのぼる年金横領といった犯罪は許しがたい社保庁の実態ではあるが、内閣による社保庁バッシングは上部組織の「監督・管理責任」から目をそらす「トカゲの尻尾切り」である。

吉兆の「消費期限」不当表示等の問題を「従業員が勝手にやった」と言い張っていた、経営者と同じで「スケープゴート」を作ろうとした。
年金問題に関しては、「上手くいった」例となった。

その証拠に「野党も一緒に考えて皆んなで何とかしなくては。野党は噛み付いてばかりで、何も案を出さない。」といった「行政府の落ち度」を立法府の野党にまで押し付け、行政の非を咎めるだけの野党はダメだ、とマスメディアを利用して国民を洗脳することに成功している。

今問題になっている「防衛省」の癒着にしても、「氷山の一角」であり、福田首相が言った「そのような会合に出ることは政治家としてよくあることで…」で分かる通り、賞味期限をとうに過ぎ腐敗しまくっている長期政権政党(日本はわが党のシマ=縄張りと言っているヤクザ政党)による政財官民の癒着が長く続いたことで、日本政治のトップの総理大臣からして「よくあること。だからもうその話は聞かない」で済まそうとする。

きっこさんではないが「ほほ~、癒着してる企業の人間と密会して接待を受け、ワイロの『お礼としてその企業に便宜を図る』ことって、自民党の政治家の感覚だと『政治家としてよくあること』なんですか?」と言いたくなる。

公僕は民間人とは違う。民間企業であれば、企業の設立目的が利潤追求(儲けること)であるから顧客接待は当然のように合法的に行なわれているが、国民の税金を預かり国民の福利のために公平に分配する義務のある政治家は、営利目的の民間企業と区別されなければならない。

銀行ではどこでも配置転換を頻繁に行なっている。又、そうやって銀行の全ての業務を覚えることが銀行員の出世の道でもあるのだが、何故この人事異動を頻繁に行なうかと言えば、金銭を取り扱う銀行で長期間同じ部署で働かせているとそれこそ社保庁のような横領や取引先との癒着が起き易いと考えているからで、それを防ぐために「交代」が頻繁に行なわれている。

融資係などは特に移動が激しい。(同じ『融資係』でも他の支店に移動等、お金を取り扱う業務で一箇所定着は皆無)
私の銀行との付き合いは、まだ「バブル」期であり、銀行が「お金を借りてくれませんか」と日参してきた時代であるが、数年で何人も担当者が替わっていた。数ヶ月で替わっていった人もいた。

何故、銀行のこういった常識が、政治の世界で適用されないのか?

ちなみに二大政党制をとっているアメリカでは、4年に1度の大統領選挙で、1900年以来を見ると(27回の選挙となるが)、共和党から15人・民主党から12人の大統領が出ており、毎回拮抗した選挙戦を繰り広げている。従って基本的には国民のためにならない政治をしたらすぐ政権の座から滑り落ちる(政権交代させられる)形態にある。逆に言えば政権担当者は「国民の為の政治」を常に心掛けなくてはならないのである。

人間でも、企業でも「新陳代謝」が必要であり、政治の世界もしかりである。

やはり、今の日本を良くしよう(自分の暮らしを良くしよう)と思うならば、まず「政権交代」をする事が必要条件であり、必須条件である。

本当に、タイトルの入り口で終わってしまった。
最初に書こうと思ったことはこれからなのだが、年寄りは自分の体を労わらなくては…。
と言い訳しつつ、次回に続きます。


国民の財産や命をアメリカに差し出すための売国奴政府…その2

2007年11月19日 | Weblog
今日の投稿記事が1万字を越えてしまったので、昨日と今日に分けて投稿。
昨日の日記から続けて見て下さい。

(…続き)
 CNNの会長だったウォルター・アイザックソンは番組で、戦争や政権に批判的な報道をウェブサイトで見つけると不満をぶつけてくる「愛国警察」(日本で言う「一人一殺」といった右翼?)や「おたくの報道は反アメリカだぞ」と電話してくる大企業幹部がいた、と証言している。このころ、CNNは「リベラル過ぎる」と定評が立っていた。

「9・11以降、愛国の雰囲気がまん延し、政権はそれを利用した。何か違うことを報道すると、誤報したかのような印象を持たされた」。
同氏(CNN会長)は「アフガン戦争での市民の犠牲に焦点を当て過ぎる報道は、誤解を招く」との内部メモを当時、CNNの記者たちに回している。

 9・11直後、CBSの看板キャスターだったダン・ラザーは「事件はわたしの心を動かした。大統領閣下。あなたの命令に従います。もし国のために地獄へ行けと言うなら行きます」と泣き崩れた。
ジャーナリストが愛国心に圧倒された様子が伝わる。

ラザーはのちに振り返って「ジャーナリストとして国を愛するとは、最善のジャーナリズム活動をすることだ」と語る。

だが、米ジャーナリズム界は胸を張れるような報道をしていなかった。

 M S N B Cでイラク戦争批判を続けた揚げ句に降板となったフィル・ドナヒューは「戦争の困難さを伝えれば、他局に視聴率で負ける」という趣旨の内部メモが社内で回されていたと告げられた。

愛国報道ブームの中で「孤立への恐れ」が編集局にまん延していたという。

*情報源の精査を怠る

 政権が戦争を始めようとするとき、ジャーナリストたちは先述した筆者の例にも似て「いつ、どうやって」に集中してしまう。
その情報、つまり特ダネを得るには政権中枢に食い込むしかない。

 当時の米政権は、戦争の意義を売るプロパガンダマシーンをフル稼働させていた。
大統領、副大統領、ライス国家安全保障問題担当補佐官、カード首席補佐官、ローブ次席補佐官らがそのメンバーだ。

政権中枢にすれば、自分たちの考えを批判する記者は厄介者となりネタを提供する対象から外される

 政権の「売り」を買い続けたのが、後に問題となるタイムズ紙のミラー記者だ。
イラクの脅威に触れた記事は迫力があるし、政権情報ゆえに「信頼性もある」と受け取られがちだった。
よって新聞の一面、テレビならトップニュースとして扱われる。
記者にすれば、自分の記事が高く評価されることはうれしいし、会社から与えられる報酬も増える。

逆に戦争ムードに水を差す記事は、中面に追いやられる。

 イラク戦争では最前線の米軍部隊への同行取材が大掛かりに行われた。政権、軍側が記者に便宜を計る時に、記者側は追及が甘くなりがちだ。
政権にすれば、記者の抱き込みに成功したことになる。
亡命者情報も盛んに売られた。ミラーはバンコクまで飛んでクルド人亡命者からイラク国内にあるフセイン政権直轄のテロリスト訓練所についての記事を書くなど、6本の特ダネを亡命者情報で書いた。

CBSは、亡命者から生物兵器冷凍保管庫をフセイン大統領が自宅に隠しているとの「スクープ」を報じたが、1年後にはこのニュースを取り消している。

 こうした亡命者たちのインタビューをメディアに準備したのが亡命者グループのリーダーだったイラク国民会議(INC)議長のアフマド・チャラビだ。

WMD計画、チェコ・プラハでのイラク政府工作員とアルカイダ幹部との接触など、「おいしいネタ」をメディアに吹聴して回った。

ミラーの長年の友人でもあったチャラビが政権と事前に念入りに協議して、マスメディア工作をしたのかどうかは定かでない。

 当初からイラク戦争の「大義」に疑問を投げかける報道をしたナイトリッダー・ニューズ・グループのワシントン支局長、ゾョン・ウォルコットは「記者が亡命者から情報を聞いて、政権にウラ取りをしても、政権高官も同じ情報をチャラビ議長から得ていて『俺たちも聞いている。書いても大丈大だ』となる。だが、実は一つの情報源、しかも確認できない情報源からのニュースだった」とこの番組で語っている。

*メディアの反省は不十分

 政府の政策をマスメディアに「-売る」のは何もイラク戦争に始まったことではない。

第2次大戦、朝鮮、ベナムそして湾岸戦争と、歴代政権は戦争を売ってきた。

真実のねじ曲げも多い。

湾岸戦争時、クウェートから脱出してきたという少女が議会証言でフセイン政権によるクウェートでの蛮行を語ったが、実は彼女はクウェートの駐米大使の娘で、現場を見たわけでもなかった

ペルシャ湾の原油にまみれた黒い水鳥の映像のいかがわしさも今や語り草だ。

 さかのぼれば、ウィルソン大統領が第1次大戦の際に強制した思想統一、戦争宣伝は太平洋戦争中の日本をほうふつさせる厳しさだ

最近では、冷戦中も米国が日本を対象に、秘密裏に映画、ラジオ、テレビ番組、出版物、講演会に資金援助し、親米世論育成を図ってていたことが明らかになっている

安全保障問題の調査報道で有名なポスト紙のウォルター・ピンカス記者はPBS]のインタビューで「この政権は歴代政権のそうした『売る』術を蓄積し、特にたけていた」と分析する。

 イラク報道では、中東の現場を知らないホワイトハウス担当記者やワシントンの評論家たちが大きな役割を果たした。

PBSの番組では、中東駐在やWMD査察取材経験の長い記者によるワシントン情報への異議が顧みられなかったことにも触れている。

 米メディアが利益を優先するあまり、地味な国際報道を軽視する傾向は90年代から強まっていた。

群派員を派遣して取材を積み承ねての報道よりも、評論家をスタジオに呼んできてパンチの効いたコメントをしてもらう方が安上がりで視聴率も上がる。

ポスト紙、ウオールストリート・ジャーナル紙などでコラムニストが政権情報や亡命者情報を基に断定調の論評を載せた。

コラムニストは記者ほどの挙証、根拠を求められない分、歯切れよく書ける。

 イラク戦争では、政権や亡命者が言っていたように「米軍は解放者として花を持って迎えられる」こともなく、戦争の大義も消え、メディア側の反省が始まった。

タイムズ紙のミラー記者の辞職、さらには旧アブグレイブ刑務所の虐待報道や対テロ捜査での礼状なし盗聴問題のスクープ等の調査報道など、政権監視の目は数倍も厳しくなった

 3800人の米兵がイラクで死に、教え切れないイラク人が犠牲になり、そして過半数の世論がイラク開戦は間違った決断だったと答える現実に「政権が言うことを伝えただけだ」という(メディア側の)言い訳は通じなくなっている。

だが、それでも開戦に至るまで、メディアがいかに無批判だったかについて、当事者による十分な反省はされていない。

ちょうどブッシュ政権が、当事者ゆえに開戦の決断がいかに間違いだったかを認められないのと同じなのたろうか。

 ナイトリッダーのウォルコットは「多くの米国人がイラクで闘っている。我々ジャーナリストの仕事は彼らを助け、支えることだ。だが、開戦に至る報道は兵士を支える意味を持っただろうか」と述べ、「愛国心」を意識するジャーナリストの心境が本当にアメリカを愛する気持ちを持っていたのかどうか、国を挙げて戦争へ突き進む流れの中で、異議を唱え孤立することへの恐れからくる思考停止だったのではないかと疑問を投げかけた。

 ナイトリッダーの記事はニューヨークやワシントンではなく地方の新聞に掲載される。
イラクには主に地方の若者が兵士として出向いている。
ウォルコットはPBSのインタビューで「だからこそ、イラク戦争を唱える政権の言い分は正しいのか、戦争が始まれば兵士の身に何が起こるのかを、伝える義務があると思った」と語る。

戦場に身内を送らないですむエリート層が読むタイムズやポストは、一般の米国民と乖離し、戦争を報道する姿勢に責任感が感じられなかったという視点だ。

 冒頭で紹介した筆者の経験に戻れば、米国や中東、あるいは戦争報道のプロであれば、この戦争が泥沼化しブッシュ政権の大きな失政になると見通し、記事の形で十分示さなかったことを残念に感じる。

「いつ、どう戦争が始まるのか」に集中したのは本当にプロの仕事だったのか。それを肝に銘じて、この長い対テロ戦争に向き合って伝えていきたい。…以上、引用終り

やめ蚊さんは、この著者の許可をとって転載したが、わたしは無許可。

少し引用して止めようと思ったが、皆重要な情報なので殆ど掲載してしまった。

日本のマスメディアも「国辱的システム」を何とかしないと、昔の誤った道を繰り返すことになる。民主主義の国アメリカのジャーナリズム精神(反省)を見て、強く感じた。
日本の「権力に媚びるマスメディア」では、こういった反省の声も聞こえてこないまま、どんどん悪い方へ転げ落ちていく。是非、一読してください。

国民の財産や命をアメリカに差し出すための売国奴機関=日本政府

2007年11月18日 | Weblog
毎日毎日、書きたいことが一杯出てきて考えが纏まらない。そこでアトランダムに最近のブログの「その通り!」と思ったものを挙げておく。

今日のタイトルの言葉は「きっこの日記」に出ていた言葉を借用しアレンジした。
副題は「政府の嘘・マスメディアの嘘」であり、副副題は「真の政治・真のマスメディアとは」である。

■「何でも反対するしか能のない野党」…反対ばかりして“対案”の出ない、政権担当能力のない野党。

 例えば政府の出した憲法改正案に野党が「反対」する。それを「対案も出さないで」と上記のように「能のない野党」にされたのでは、「憲法は改正して欲しくない=改正案反対、廃案に」と思っている国民には、たまったものではない。最近、国民の中にも、この「反対ばかり」といって野党を批判し、反対を封じ込めようとする権力者側の発言が目立つ。(マスメディアの影響)
「給油活動」もしかり、である。もう血税を投入した米国の戦争への加担の給油活動(現在220億円程)は止めろ!と思っている国民は置き去りにされた理屈である。


■ “ねじれ国会”国民の為の法律が一つも通らない、として「話し合って歩み寄りを」「大連立を」と主張する政府自民党。

津久井弁護士のブログを見ても分かるように、与党も野党も「国民のためになる法律」なら“ねじれ国会”でも通っているのである。今のままでは「国民の為の法律」が何も通らないと国民に思わせる政府とマスメディア。

国民の為になる法律は通っている、その例。
「津久井進の弁護士ノート」11月6日 http://tukui.blog55.fc2.com/blog-date-20071106.html

「津久井進の弁護士ノート」11月9日 http://tukui.blog55.fc2.com/blog-date-20071109.html


■無断転用禁止のため、下記ブログを見て下さい。

きっこのブログ」11月18日~新しい文明の夜明けhttp://kikko.cocolog-nifty.com/kikko/2007/11/post_afde.html

(少し引用御免!)
*福田首相
 福田首相は、よくもまあ他人事みたいな顔をしてトボケてられるもんだ。最近だと、何よりも唖然としたのが、守屋武昌の証人喚問で名前の出た、財務大臣の額賀福志郎(ぬかがふくしろう)に対する呆れ果てたフォローだ。

「そのような会合に出ることは政治家としてよくあることで、私はこれ以上は聞く必要はないと思う」

ほほ~、癒着してる企業の人間と密会して、ワイロのお礼としてその企業に便宜を図ることって自民党の政治家の感覚だと、「政治家としてよくあること」なんですか?

*額賀福志郎財務大臣

現、財務大臣額賀福志郎氏の略歴

・小渕政権の時に、防衛庁の度重なる不祥事の責任をとって防衛庁長官を辞任
・そのあとの経済財政大臣の時には、KSDから1500万円ものヤミ献金を受け取ってたことがバレて、大臣を辞任させられてる。
・そして、そのあとの小泉政権の時に、ホトボリがさめたと思って、またまた防衛庁長官に返り咲く。
・ここから「山田洋行」との癒着が始まった。

小泉首相は、在日アメリカ軍の問題に関して、ブッシュから命令された通りのことを当時の防衛庁長官だった額賀福志郎に丸投げした。

そして、好きなだけ防衛費を使える立場になった額賀福志郎に、取り入ろうと近づいて来たのが、防衛商社「山田洋行」の宮崎元伸だった。

その仲介をしたのが、もちろん、防衛省の元事務次官、守屋武昌だったってワケだ。

そして、悪徳企業とベッタリ癒着した額賀福志郎は、沖縄の辺野古のアメリカ軍の滑走路について、以前から守屋武昌が提唱して来た「埋め立て案」をゴリ押しするようになったってワケだ。

辺野古の滑走路は、当初はアメリカ軍の基地内に作る話だった。それなら、陸地に作るワケで、建設費も格安で済むし、ジュゴンやサンゴにも影響はない。

だけど、少しでもお金が掛かるようにしないと、この計画の利権に絡んでる悪徳企業や悪徳政治家、悪徳官僚どもがオイシイ思いができないから、わざわざ、ジュゴンの住むかけがえのない海を埋め立てて滑走路を作ることにしたのだ。

グァムのアメリカ兵の住宅も、アメリカの業者に任せれば600億円で出来るってのに、わざわざニポンの企業がグァムまで出かけてって作るってことで、その予算は5倍の3000億円にもハネ上がった。

これだって、悪徳企業や悪徳政治家、悪徳官僚どもがオイシイ思いをするために、こんなデタラメなことをしてるだけで、バカを見るのは、この3000億円を払ってるあたしたち国民だけだ。

アメリカの業者に任せれば、2000億円以上もの節約になるワケで、これだけで、時効で消えちゃった年金ぶんが補填できるのに‥‥。


*自民党幹事長、伊吹文明(いぶきぶんめい)

安倍内閣の時には文部科学大臣だったけど、安倍に自殺させられた「ナントカ還元水」の松岡利勝と同時期に、この伊吹文明の事務所費問題もオオヤケになった。

現幹事長伊吹文明がやってたのも、松岡利勝とまったくおんなじで、家賃や光熱費の掛からない議員会館に事務所を置いてたのに、多額の事務所費を計上してたのだ。

だけど、この問題が発覚した当時は、「女性は子供を産む機械」だの、松岡利勝の「ナントカ還元水」だの、次から次に飛び出すトンデモ発言と、その大臣どもを擁護しまくる安倍首相に批判の目が向いちゃって、松岡利勝とまったくおんなじ不正をしてた伊吹文明は、逃げ切ることができたのだ。

そして、追い詰められた松岡利勝が自殺した翌日に、記者からマイクを向けられた伊吹幹事長は、ニヤリと笑ってこう言ったのだ。

「死人に口なし、だね」

何十年も前から、地盤である京都の○○団との癒着がウワサされ続けてる悪党だから、人が1人死んだことなんて何でもないのかもしんないけど、自分とおんなじ内閣の大臣が、自分とおんなじ不正を追及されて自殺したってのに、それに対してのコメントが「死人に口なし」とは、とてもマトモな感覚とは思えない。

伊吹幹事長は、バブル崩壊時に、京都の錦市場のアーケード街の建て替えに関して、自分の息の掛かった地元の○○団を利用して、店子たちに相場の何倍もの金額を要求して、その差額ぶんを自分のポケットに入れてたって言うウワサもあるんだけど、同僚が自殺した翌日に「死人に口なし」なんて言われちゃうと、こうしたウワサも真実味を帯びてくるよね。

伊吹幹事長は人間の血が通ってないのか、とにかく、人を人と思わないような発言が多い。

たとえば、これも、安倍内閣時代の文部科学大臣の時の発言(2007年2月25日、長崎県で行なわれた講演会で「人権」を「バター」に例えて…。

「バターは栄養がある大切な食べ物だが、食べ過ぎればメタボリック症候群になる。人権もバターと同じで、与え過ぎると日本社会は『人権メタボリック症候群』になってしまう」

これは、生活保護を受けられずに餓死した人・自殺した人たちに対する話の流れの中で出て来たセリフだ。
つまり、伊吹幹事長は、病気で働くことができない人たちに生活保護を認めることが、「人権の与え過ぎ」だと言ったのだ。

流石、自殺した同僚に「死人に口なし」だなんて言って、ニヤリと笑えるような神経の人間は、あたしの理解を超えた感覚で生きてるみたいだ。

そして、このズレた感覚の伊吹幹事長は、11月17日、大阪市の市長選の応援演説で、民主党などが推薦してる対抗馬の元アナウンサー、平松邦夫氏を揶揄するために、こんなことを言った。

「行政経験のないテレビキャスターが市長になれるなら、みのもんたさんは首相、ビートたけしさんは自民党幹事長になれる」

ふ~ん、そうなの? 行政経験のないテレビキャスターが市長に立候補するのが、そんなに非常識なことなの?

そう言えば、夏の参院選で、行政経験のないテレビキャスターの丸川珠代が立候補して、恥も外聞もなく当選しちゃったけど、彼女って、どこの党から立候補したんだっけ?
そして、丸川珠代の場合は、行政経験がなかっただけじゃなくて、ニポンに住民票もなかったし、選挙に行ったこともなかったんだよね、たしか?
あたしは、こっちのほうが遥かに非常識だと思うけど、やっぱ、脳みその回路が独自の進化を遂げて来た伊吹幹事長は、普通の人とは感覚が逆なんだね。…引用終り

(無風注)「ごめんなさい!」・少しだけと思い、又、きっこさんの絶妙の言い回しも、転用禁止を意識し表現を大人しくして書こうと思ったのが、こんなに長く転用してしまいました。

ヤメ蚊さんのブログ「ナショナリズムと愛国報道]
http://blog.goo.ne.jp/tokyodo-2005/d/20071117 より

(引用開始) 
杉田弘毅記者がイラク戦争を伝えた米国メディアの実態を振り返り、今後の日本のメディアのあり方に警鐘を鳴らす小論文が新聞研究11月号に掲載された。

*イラク戦争の開戦から4年半が経過した。開戦の大儀とされた大量破壊兵器(WMD=核・化学・生物兵器)の存在、アルカイダとサタム・フセイン政権の接点のいずれも崩れた。

「破滅的な失敗」とブッシュ大統領の開戦決断は非難されてもいる。だが大統領を非難するなら、もう一つ非難されるべき人々がいる。

それは愛国心と報道を峻別せず、政権の戦争「宣伝」を鵜呑みにした当時の米メディアだ。

*開戦の「なぜ」より 「いつ」
筆者は湾岸危機・湾岸戦争(1990-91年)を特派員として取材し、中東をかじった記者として「フセイン政権を崩壊させれば、イラクはスンニ派、シーア派、クルド人の3派の内戦が始まり、中東全体が泥沼化する」との“常識”を知っていた。 (だからイラクとの全面戦争は無いと思っていた)

9・11後のアフガニスタン戦争が一段落したのちの2001年11月末、ワシントンでブッシュ政権の安全保障政策をよく知る元政府高官から次の攻撃対象はイラクだと聞いた時も「まさか」と思った。「結構早く始まると思うよ」とあっさりと言うこの元高官の顔を見ながら、「9・11で世界は確かに変わったのだな。

中東の常識は通用しないかも知れない」と思った。

(それからは)戦争の可能性を示唆するニュースを大きく扱い、戦争取材に向けた準備をするのが仕事となった。(無風注:この先、筆者が社内の会議等で話したことが出ている。略そうと思ったが、当時のマスメディア内の状況が良く出ているので載せておく。日本のマスメディアにも当てはまるのではないか。)

実務的な検討の中で「イラク戦争が始まれば、中東は液状化する」という中東特派員OBの警告も聞かれたが、米国担当テスク(私)とすれば「いつ、どういう形で開戦するのか」に関心は絞られた。

それを分かりやすく説明し、外さないことがプロとして期待されているのだと思ったからだ。

私は「2002年のクリスマス以降、いつでもあり得ますよ」と繰り返したのを覚えている。

世界の超大国であるアメリカがやると決めているのだから、その動きを伝えるのが我々の仕事。

実際、開戦となれば、フセイン政権の命運、イラク人、米兵の生命だけでなく、日本も含めた世界に甚大な影響を与える。

正しい戦争か誤った戦争かは、後世の歴史家が決めるだろ、といった心境だった。

恐らく米国はこの戦争に勝ち、フセイン政権は崩壊する、という予測もあった。

中東を取材していると、フセイン大統領の非道を正し、中東に新しい民主秩序をもたらすには、戦争というショック療法しかないのかもしれない、とも思えてきた。

*疑問をさしはさまないマスメディア

ことし4月、米公共放送PBSが放映したイラク開戦に至るメディア報道をまとめた「バインク・ザ・ウォー(戦争を買う)」を見て、当時の自らの状況を鮮やかに思い出した。(無風注:この先を読んでもらうと、独立行政委員会のない日本のNHKと大きく違う報道の仕方だと言うのが分かります。)

PBSの番組はニューヨーク・タイムズ(以下、タイムズ紙)、ワシントン・ポスト(ポスト紙)ネットワークTVといった米主要メディアがいかに批判精神をなくし、結果的に開戦ムードを煽る結果をもたらしたかを検証している。

イラク開戦報道におけるマスメディアの失敗の背景には、

(1)9・11後の世界情勢を見る目の曇り、
(2)政権密着で特ダネを得ようとする意識、
(3)そうした意識を巧みに使った政権、
(4)そして地道な取材よりパンチの効いたニュースを好む報道機関の性癖がある。

PBSの番組は「WMD(大量破壊兵器)の存在」と「アルカイダ-イラク・コネクション」という二つの大義をブッシュ大統領ら政権高官が繰り返し唱え、メディアがそれを伝え、世論が受け入れていった流れを明らかにしている

もっとも鮮明なのは2002年10月7日の「我々はきのこ雲を見せられるまで待ってはいられない」という大統領の演説だ。

当時イラクの核兵器保有計画の存在は、米情報機関や国連査察官らが「極めて疑わしい」と結論づけていたにもかかわらず、タイムズ紙などの主要メディアが政権高官の情報を基に現実的な脅威として報道した。

「リベラルとされるタイムズまでもが開戦もやむを得ないと思わせる論調なのだから、イラク戦争は正しいのだろう」と国民は思ってしまう。

ポスト紙記者は核疑惑に疑問を抱き、調査報道報道の末に否定的な記事を執筆するが、それは18面という目立たない扱いだった。

 このほか同番組(PBS)は

▽ワシントンで起きた大規模反戦デモをポスト紙は目立たない扱いにした

▽同紙は02年8月から03年3月の開戦まで、一面で140本の政権側情報に基づくイラク情勢の記事を掲載したが、他の情報源の記事は数えるほどだった。また同紙は開戦までの6か月で27本の開戦に好意的な社説を掲載した

▽フロリダのある新聞はアフガン戦争による市民の犠牲者の写真を一面に掲載しないようスタッフに指示した。
一面に載せた同紙に脅迫メールが殺到したとの理由だった。

▽国連査察の結果、400のWMP疑惑施設はすべてシロと判定されたが、これを伝えたAP通信の記事は主要紙に無視された。

                               
-などを伝えた。


 CNNの会長だったウォルター・アイザックソンは番組で、戦争や政権に批判的な報道をウェブサイトで見つけると不満をぶつけてくる「愛国警察」(日本で言う右翼?)や「おたくの報道は反アメリカだぞ」と電話してくる大企業幹部がいた、と証言している。このころ、CNNは「リベラル過ぎる」と定評が立っていた。

「9・11以降、愛国の雰囲気が蔓延し、政権はそれを利用した。何か違うことを報道すると、誤報したかのような印象を持たされた」。
同氏(CNN会長)は「アフガン戦争での市民の犠牲に焦点を当て過ぎる報道は、誤解を招く」との内部メモを当時、CNNの記者たちに回している。

 9・11直後、CBSの看板キャスターだったダン・ラザーは「事件はわたしの心を動かした。大統領閣下。あなたの命令に従います。もし国のために地獄へ行けと言うなら行きます」と泣き崩れた。
ジャーナリストが愛国心に圧倒された様子が伝わる。

ラザーはのちに振り返って「ジャーナリストとして国を愛するとは、最善のジャーナリズム活動をすることだ」と語る。

だが、米ジャーナリズム界は胸を張れるような報道をしていなかった。

 M S N B Cでイラク戦争批判を続けた揚げ句に降板となったフィル・ドナヒューは「戦争の困難さを伝えれば、他局に視聴率で負ける」という趣旨の内部メモが社内で回されていたと告げられた。

愛国報道ブームの中で「孤立への恐れ」が編集局に蔓延していたという。



戦争国家へ…その2

2007年11月16日 | Weblog
今日、「ヤメ蚊」さんのブログを見たら、昨日の私の日記と同じ産経の記事を取り上げていた。やはり老人の私よりハッキリと私の考えを書いてくれているので載せておく。


情報流通促進計画 by ヤメ記者弁護士(ヤメ蚊)
http://blog.goo.ne.jp/tokyodo-2005/

(引用開始)
■政府はなぜ、誇りを持つことを強制するのか?~恥ずかしいのは今の日本人?それとも虐殺した日本人?

「我が国と郷土の伝統文化や自然を誇りに思う人間」、これが、改悪「教育基本法」を踏まえてまとめた「長崎県教育振興基本計画素案」に基本目標として、盛り込まれているという。改悪「教育基本法」では、地方公共団体に教育振興のための基本計画策定の努力をするよう規定されており、長崎県も作成せざるを得なかった。

 改悪「教育基本法」では、教育目標として「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する態度を養う」と書かれているだけで、誇りに思うという表現はなかったが、長崎県が盛り込んだ以上、政府の狙いもそこにあるということを推測させる。

 こんな計画ではとんでもない教育になってしまうと不安を募らせていたら、その不安を極大化させる記事が産経新聞に掲載されていた。「やばいぞ 日本」という企画記事だ(11月14日付)。

 この記事には、中国の南京大虐殺記念館を修学旅行で訪ねた日本人高校生らが、「同じ日本人として、絶対に許されるものではなく、とても恥ずかしく思いました」、「私は彼らと同じ日本人であることが恥ずかしかった」という感想文を残したことについて、【このように見学した生徒の大半は、日本人であることを「恥ずかしく思う」と記した】としたうえで、【祖国への自信や誇りを持たせないようにする教育がいまだにまかり通っている現実がある】とまとめている。

 おいおい、記念館を訪問した高校生は、「今の日本や日本人」について恥ずかしいと言っているのではなく、「当時の日本人が行ったこと」が恥ずかしいと言っているだけだ。

 それなのに、【このように見学した生徒の大半は、日本人であることを「恥ずかしく思う」と記した】とまとめた記者は、日本語が解読できないのだろうか?

 生徒の大半は、今の日本を誇りに思っているか、と聞かれれば、YESと答えるはずである。

 また、むしろ、戦争の際の悲惨な行為に真剣に向き合ったうえで、平和を維持する方がよほど誇りを持つことにつながるはずなのに、【祖国への自信や誇りを持たせないようにする教育がいまだにまかり通っている現実がある】と評価するのも、まったく理解できない。

 …結局、戦争で日本人が行った行為を学ぶことを防ぐために、誇り、誇りだと騒いでいる…その図式がこの記事のおかげで非常にはっきりしたように思えたので、紹介しました。

 本当に「やばいぞ、産経」…以上、引用終り

■無風老人の追加

*例え、どの国の戦争行為であろうと、「戦争をすることは間違っている」と教える「平和教育」を否定し、臭い物には蓋をし国家への忠誠心を強制する先には、日本が起こした戦争(大東亜戦争)の「大東亜共栄圏」を肯定する戦争肯定論がある。

*戦争行為は「恥ずかしい」行為である、との正常な認識・感情を否定するこの産経の記事は、平和教育を反国家的教育として捉えており、今の政府の方針を見事に言い表している。

*また、この産経の記事は、昔、「日教組を敵視」「反共」」「反日・抗日国の敵国視」「皇国・尊皇」を唱えていた右翼の考え方そのものでもある。

*前に日本のマスメディアは国民にとって国辱的システムをとっている、というヤメ蚊さんのブログを紹介したが、政府を監視し国民に警告を発するべきマスメディアが、しかも日本のメジャーな新聞がこんな報道をしていると外国のジャーナリストが知ったら、と思うと…。

「やばいぞ、産経」というより「恥ずかしいぞ、産経」である。



戦争国家へ

2007年11月15日 | Weblog
先ず「愛国心」について言及している世界の著名人の言葉です。(以前に「愛国心について良く書かれている文言は見つからなかった」として挙げたものを再掲載しました)


(1)「愛郷心や愛国心は、村民であり国民である者のたれもがもっている自然の感情である。その感情は揮発油のように可燃性の高いもので、平素は眠っている。それに対してことさら火をつけようと扇動するひとびとは国を危うくする」(司馬遼太郎著書より)
   
(2)「人類から愛国心をたたき出してしまわない限り、あなた方は決して平穏な世界を持たないだろう」(バーナード・ショウ)
---筑紫哲也の報道のように彼は「愛国心こそが戦争を引き起こす最大の要因である」と説いている。(勿論,日本の左翼思想の影響でも日教組の影響でもない。念のため)

(3)「いつの時代でも悪人どもは自分たちのけがらわしい行為に、宗教と道徳と祖国愛とに奉仕するのだという仮面をかぶせようと努力してきたのである」(ハイネ)
       
(4)国を亡ぼすのは「無智」と「愚かさ」とである。日本を尊崇するのは結構だが「悪しく敬はば国亡ぶべし」である。 (北一輝)

(5)実は私は「愛国心」という言葉があまり好きではない。……略……背中のゾッとするような感じをおぼえる。この言葉には官製のにおいがする。また、言葉としての由緒や「やさしさ」がない。どことなく押しつけがましい。反感を買うのも「もっともだ」と思われるものが、その底に揺曳(ようえい)している。(三島由紀夫)
       
(6)愛国心で国が救えるというのは幻想でしょう。自民党が卑劣だと思うのは、自分たちがだらしなかった責任を憲法と教育基本法のせいにしていることです。(新右翼団体「一水会」顧問 鈴木邦男氏)

(7)「愛国心はならず者(無法者=法律を守らない者)の最後の逃げ場だ」( サミュエル・ジョンソン)


■何故、愛国心に関する言葉を挙げたかというと、11月14日の産経ニュース(NET)のコラム欄を見て、日本もここまで来てしまったか、と震えが来てしまったからである。

それは、「やばいぞ日本」といった特集の第4部のコラムで、政府が愛国心教育を打出した、その考え方をそのまま広報しているもので、ジャーナリズムはどこにいってしまったのか、といった内容のものだった。

「憲法」と同様、政府(権力者)を縛っていた法律「教育基本法」が改正され、国が国民を教育していくことになりました。

もう一度、おさらいです。

■改正教育基本法

 旧、教育基本法「第一〇条(教育行政)教育は、(政府・国の)不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきものである

 新、教育基本法「第一六条(教育行政)教育は、この法律及び他の法律の定めるところにより行われるべきもの…2国は…教育に関する施策を総合的に策定し、実施しなければならない。→(注)「国が教育を実施できる」が正式な意味=国が教育を支配することになった新設条項

旧法は、「憲法」の理念を追求していくための教育の在り方を示したものであり、従ってここで言う「不当な支配に服することなく」は憲法の「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないようにする…」を受けており、「政府(国・権力者)の不当な支配に服することなく」という意味で、戦前の教育や北朝鮮の教育のように政府(国・権力者)が教育に介入し国民を洗脳教育しようとする行為を排除する意味の文言だったのです。
ところが今度の改正では、「国が国の考えで教育を実施する」と「改正」されました。

■愛国心教育が必要な理由

(1)今の教育現場の荒廃は、左翼の自虐史観に基づく日教組の間違った教育によるもの、マスコミも偏った報道をしてきた。

(2)その教育・報道により自分の国・伝統に誇りを持てない子供が育ち、結果、公徳心を無くし、お年寄りを労わるといった道徳心をなくし、個人主義に走り過ぎて、人の迷惑も顧みず傍若無人に振舞ったりしている。

(3)従って、憲法・教育基本法を改正し「愛国心」を盛り込み伝統と歴史に誇りを持てる「公共心」をもった子供をつくる。

■全体主義国家への手法=敵を作り、国民に恐怖心を植え付け・敵愾心を煽る。

 もう一度、本屋さんに並んでいた書物を挙げる。

「中国が世界をメチャクチャにする」「中国の『核』が世界を制す」「中国は日本を併合する」「中国は日本を奪いつくす」「『日中友好』は日本を滅ぼす」「中国、核ミサイルの標的」「軍事力 日本VS中国・北朝鮮」等々

さて、ここまで「おさらい」をしたところで、産経ニュースの「やばいぞ日本」を見てみると…。

■「日本人、恥ずかしい…」

 旧日本軍の“残虐行為”をアピールする中国の南京大虐殺記念館の一隅に、多数の千羽鶴が飾られているコーナーがある。日本から修学旅行で訪れた高校生らが贈ったものだ。

 見学した高校生はどう感じたのだろうか。鹿児島の県立高校生は、同館を訪れた感想文をこうつづった。

 「日本人が中国人にどれだけひどいことをしたのかがよく分かりました。どのパネルも悲惨なものばかりで目を覆いたくなりました。特に山積の死体の写真や日本兵が首を切ろうとする直前の写真が印象に残りました。同じ日本人として、絶対に許されるものではなく、とても恥ずかしく思いました」

 別の生徒はこう書いた。

 「あまりにも無惨(むざん)な写真を1枚1枚見ていくごとに、涙があふれでていた。私と同じ日本人が、中国人に対して人間のすることじゃないことをしていたなんて。私は彼らと同じ日本人であることが恥ずかしかった。それに、あんなひどいことをした私たち日本人に対して、優しく接してくれる中国人の偉大さに驚いた

 このように見学した生徒の大半は、日本人であることを「恥ずかしく思う」と記した。

 円高で海外旅行が身近になった1990年代以降、修学旅行先に中国や韓国を選ぶ学校が急増した。文部科学省によると昨年度に中韓を訪れた中学は28校(2149人)、高校は324校(4万309人)に上る。

中には南京大虐殺記念館や盧溝橋抗日戦争記念館などの反日プロパガンダ施設をコースに含む学校も
文科省が以前、高校8校を抽出してコースを調べたところ、うち2校が反日施設を見学していた

 1999年には、卒業式の国旗国歌問題で校長が自殺した広島県立世羅高校でも、生徒が韓国の独立運動記念公園で謝罪文を朗読したことが分かった。←(無風注:犯罪が判明した、といった書き方)

 鹿児島県でも、毎年10校近くの県立高校が南京大虐殺記念館を訪れていたが、2002年、県議会は修学旅行先から同館を除くよう求める次のような陳情を全国で初めて採択した。

 「政治的宣伝の場に生徒を誘導し、反国家的教育をすることがあってはならない」

 「反戦平和や償いなどの大義名分で、生徒の精神を自国への懐疑と侮蔑(ぶべつ)、強烈な自己不信へと追いやってはならない(無風注:教育してはならない)」

 「反日的企図で生徒の洗脳に好都合な施設を選定することは、特定の傾斜を持った歴史観を強要することであり、道義上も許されない

 ところが採択後も、一部の県立高校は「生徒自身が選択した」として同館を訪れた。
その理由について、生徒を以前引率した経験があるという別の高校関係者は、こう打ち明ける。

 「一部の教員が『南京で平和教育ができるから』と強く主張し、コースに入れられた。教員全員が賛同していたわけではない。だが、平和教育のためといわれれば、反対しにくい」

 祖国への自信や誇りを持たせないようにする教育いまだにまかり通っている現実がある。
                   ◇
 ■育まれない国旗国歌への敬意

 文部科学省は2003年度から、公立小中高校の卒業・入学式での国歌斉唱率と国旗掲揚率の調査を中止した。
「国旗も国歌もほぼ100%。学校での国旗国歌の指導は定着した」(文科省幹部)と判断したからという。

 大分県の国歌斉唱率も1999年度から毎年100%と報告されている。

 だが、大分県の教育関係者らの集まりである民間教育臨調が県内の小中学校の約2割、95校を対象に昨年実施した保護者アンケート調査によると、児童生徒が国歌をきちんと歌った学校は26%にすぎない

半数近くの学校は会場に国歌のテープが流れるだけで、児童生徒は誰も斉唱しなかったというのだ。

教員はさらにひどい。「大部分が斉唱」したのは8%だけだ。

逆に「校長ら管理職以外は誰も斉唱しない」ケースが66%だ。校長すら斉唱しない学校も複数あった。

何故、こんな事態になっているのだろうか

日教組などが進める「平和教育」の影響が大きい

 大分県教組大分支部の平和教育小委員会は2002年、小1から中3まで各学年で国旗国歌をどう教えるかを示した「日の丸・君が代学習系統表」を作成、現場の教員に配布した。そこには次のような指導目的が掲げられていた。

 小1▽「ああうつくしい」と歌われている「ひのまる」を悲しい思いで見ている人たちがいることを知る

 小2▽「君が代」が「国歌」として使われるようになったが、この歌で悲しい思いをする人もいることを知る

 小5▽戦時中、戦争を推し進める手段の一つとして、小学校でも「日の丸」教育が行われ、日本中で戦意を高揚させていたことを知る

 小6▽99年8月、(国旗及び国歌に関する法律が)「数の力」によって成立し、法制化された経緯を知り、問題点を考える

 中1▽「日の丸」「君が代」が思想統制のために使われたことを知る

 中3▽国民主権と天皇制の矛盾、現在の国旗・国歌のあり方について考える

 この系統表について大分県教組大分支部は「作成したのは事実だが、現在は配布しておらず、現場でも使われていないと思う。詳しいことは分からない」と言葉を濁す。…無風注:言葉を濁す=やましい時、嘘をついているときに使う表現

 学習指導要領は「我が国の国旗と国歌の意義を理解させ、これを尊重する態度を育てるとともに、諸外国の国旗と国歌も同様に尊重する態度を育てるよう配慮する(小学6年)」と規定している。

 昨年12月、改正された教育基本法も「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する」とうたっている。

 文科省は、大分県教組の系統表に対し、「学習指導要領に反する内容だ」(教育課程課)としながらも、実態調査などに乗り出すつもりはないという。

自国や他国の国旗・国歌に敬意を示すことができない児童生徒がこうして誕生していくのである。(川瀬弘至)
                   ◇
【用語解説】南京大虐殺記念館
 1937(昭和12)年、旧日本軍の南京攻略で捕虜や市民に多くの犠牲者が出たことを受け、1985年に開館した。入り口付近の石壁に犠牲者数が30万人とする数字が刻まれ、館内には残虐な絵画などが展示されている(60周年記念行事、ロイター)。「30万人虐殺」説は、日本側の実証的な研究によって否定されている。

(以上、産経のコラムより)

■コラムで問題視しているところを色を変えて、と思ったが、ほとんど色付きになってしまうので途中で止めた。

ならず者(法を守らない者)の政府が言う、理屈(戦後の日教組による間違った教育・愛国心が育たない左翼思想の自虐史観教育)をそのまま取り入れて、法を守れ、愛国心を持て、と主張している。

国民はこういった記事を読んで、段々と洗脳されていく。

反戦平和や償いなどの大義名分で、生徒の精神を自国への懐疑と侮蔑(ぶべつ)、強烈な自己不信へと追いやってはならない」=「反戦平和」は教えてはいけない。

私も子供の頃に「南京大虐殺」や「盧溝橋事件」は聞かされたが、それでも、私の精神は「自国への懐疑と侮蔑(ぶべつ)、強烈な自己不信へと追いやられ」てはいない。それどころか、愛国心も持っている。日本国がどうしたら良くなるかと考え、この日記を書いているのも「愛国心」のなせる業である。

前にも書いたように、この日教組の左翼思想・自虐史観で育った日本人の90%以上の国民が「日本に生まれて良かった」と考え、80%以上の人が「愛国心を持っている」と答えているのである。

この川瀬弘至氏のコラムのように、日教組の「平和教育」のせいで、反国家的教育が行なわれており、国家・国旗を敬わない愛国心をもたない児童が誕生している、として国民を洗脳していく内に、「平和教育はいけない」「戦争の悲惨な部分を教えてはいけない」「戦争は悪いことだ、と教えてはいけない」となってしまう。

■私が某大学の応援団にいた時、球場で2年生団員が上の方から木のベンチを跨いで下に降りて来た、その途中に上からは見えないのだが、ベンチの下に木箱に入った団旗(校旗)が置いてあり、その団員は結果として知らずに「神聖なる団旗」を跨いでしまった。コラムの川瀬氏ではないが、「えらいことをしてくれたものだ」である。その2年生は顔の形が変るほど上級生皆んなから殴られた。
勿論、実際の応援時に旗をかざして持っている団員が地面等にその先を少しでも触れさせたら、上の団員と同じような「制裁」が加えられるのである。

これが軍隊方式であり、「国旗」への敬意を強要していくうちに日本も段々戦争国家になっていくのだなあ、と感じさせられたコラムである。

この応援団での経験では、幾つか紹介したいことがあるが、又の機会とする。






デマゴーグに騙されないように

2007年11月14日 | Weblog
◎デマゴーグ=群集心理を利用して大衆を扇動する政治家

◎ヒトラー=「天才的なデマゴーグ」と言われた。

◎デマ=語源《ドイツ語》 Demagogie 
      意味:1.扇動的(謀略的)な悪宣伝 
          2.自分の利益のためにながす(でたらめの)うわさ話や悪口
                (ニューカレッジ・ディクショナリより)

ヤメ蚊さんの常駐コメントより再度…。

全体主義・独裁国家を作るのは「簡単です。どこの国でも有効です。」と言ったナチス・ドイツのヒトラー側近ヘルマン・ゲーリングの証言を今の日本に変えて表現すると…。

「一般の国民に対しては日本はテロの脅威に晒されているといい、国家に逆らう者(戦争に反対する平和主義者)には愛国心が足りない、と言えばいいのです。」ゲーリング


権力者がその政権を維持するための有効手段は、下記。

(1)外に敵を作り、国民の目をそちらに向け、自分の統治(悪政・失政等)から国民の目をそらす。

(2)内に差別集団(エタ・ヒニン・アカ)を作り、虐げられた国民の不満(不満の捌け口)をそちらに転嫁するよう仕向ける。

 ナチスドイツ(=優秀なゲルマン民族)の「ユダヤ人」や日本(=八紘一宇)の「朝鮮人」もその一例である。

(注)八紘一宇とは、日本によるアジアへの侵略のための、「アジアは地域最高の先進国である日本が家長として率いる。よって諸国は日本を中心とした秩序に従うべし」というような皇国思想的なプロパガンダとしてアジア・太平洋戦争の正当化に使われた思想であるとされた。(ウィキペディアより)


■最近のデマゴーグ

 ◎日本は20年後には中国の何番目かの省になる。(=日本は無くなる)

 ◎テロリストが平気で日本をウロウロしている。(=日本はテロの脅威に晒されている)


■さて、ここでもう一度「大逆転」のアーロン・ルッソ監督のインタビューを思い出して欲しい。(癌に侵され死を前にしてのインタビュービデオ・今年8月死去)

ルッソ監督インタビュー http://vision.ameba.jp/watch.do?movie=600415

この内容をかいつまんで紹介する。


アロン・ルッソ監督インタビュー
 友人ニック・ロックフェラーと語った会話の内容について。

(注)ニック・ロックフェラー=アメリカを代表する財閥ロックフェラーファミリィの一員、弁護士。

ルッソ監督:彼(ロックフェラー)は、9・11の11ヶ月前に「これからある出来事が起こる」と言った。それがどんな出来事かは言わなかったが、「その出来事ゆえに我々(アメリカ)はアフガニスタンを侵略してカスピ海から石油のパイプラインを引くし、イラクを侵略して油田を確保し、中東に米軍基地を構築し、あの辺りをニュー・ワールド・オーダー(新世界秩序)に取り組む」「それからベネズエラのチャベスをやっつけるんだ。」と言った。

彼(ロックフェラー)は、「米兵がアフガニスタンやパキスタンの洞窟を探しまわる」ことや「『対テロ戦争』が始まるけれども、本当は敵なんかいないし、それら全部が巨大なでっち上げだ」と話していました。

インタビュアー:彼(ロックフェラー)が「でっち上げだ」って言ってたんですね?

ルッソ監督:そうです。確かにそういいました。対テロ戦争になるって笑いながら…。

でも、一体誰と闘っているというんでしょう?
9・11が起こって、そのあと何も起きていない。
我々(アメリカ)のセキュリティ(危機管理)が素晴らしいから、9・11を実行したような連中が、もう同様のことを出来ない、とでも思っているんですか?
冗談じゃない、そんな考えは馬鹿げてますよ。
9・11は我々自身(アメリカ)の政府職員や財界の人間たちがアメリカ市民に恐怖を植え付け、彼ら(一部の権力者・支配者層=エリート)に従属させ、彼ら(エリート)がやりたい放題できるようにするためにやったことなんです。
あれは、そういうことだったんです。
で、この戦争を---終わりなき『対テロ戦争』を作り上げたんです。
それが最初の嘘だった。

お次はイラク攻撃だ。
「サダム・フセインをやっつけるんだ。」「大量破壊兵器だ。」って、…それが次の嘘だった。

インタビュアー:ニック・ロックフェラー氏が9・11の11ヶ月前に「ある大事件が起きて、その結果、永遠に続く『対テロ戦争』になる」と言ったんですね?

ルッソ監督:そうです。永遠に続く…。敵が存在しない戦争が…。
だから勝者も特定できない。ええ、誰が勝ったか、なんて言えないんです。
だって、倒す敵がいないんだもの!
だから戦争は延々と続き、その間、彼ら(支配者層・エリート)はやりたい放題だ。
アメリカ市民は恐怖で縮み上がって…。

ルッソ監督:いいですか、この対テロ戦争というのは詐欺です。茶番なんです。
これを声に出して言うのは、容易なことではない。なぜって、皆んな怖気づくんです。言うと奴ら(支配層)に「キチガイ」扱いされる。

でも、真実は暴露されなければいけません。

だから私はこのインタビューに応じているのです。

紛れもない真実は、『対テロ戦争』は詐欺で茶番だ、ということです。

9・11に何が本当に起きたのかを、誰が犯人かを理解するまでは、9・11の根っこを、9・11の真実を把握しなければ、この『対テロ戦争』を理解することは出来ません。

9・11が起こった時、それをロックフェラーが言っていたことだとは思いつかなかった。
でも、アフガニスタンを攻撃するとか、イラクへと展開していくにつれて、これが何だったのか分かったのです。…以上引用終り。

ルッソ監督はインタビューのなかで、他にも友人ロックフェラーと話した内容を話しており、あなたも一度世界の支配者層の考えを見聞しておくと、今後の考え方の参考になるだろう。必見のビデオである。

そして、日本はこのエリート『世界の支配者層』からみると総理大臣以下の全日本国民が、被支配者層=奴隷であるか、抹消されるべき人類の側に入っているのである。

それを「集団的自衛権」とか言って「9・11で日米安保を結んでいる友達(友好国)があんな目にあっているのに、(又、いままで日本を援助し守ってくれていた恩も忘れ)何もしないでいていいのか!」「憲法を改正して友人アメリカと一緒にテロを撲滅しよう=国際貢献しよう」と言っている人の気が知れない。

アメリカは軍事に経済に日本をうまく利用出来るだけ利用し、日本が財政破綻等で利用できなくなったら切り捨てる(中国等に乗り換える)ことは、色々なブログを見れば歴然としており、有識者が今の政治・外交姿勢を「売国行為」と言っているのが理解できる。

9・11陰謀説が色々紹介されている。BBC放送の実況中継で世界貿易ビル7号館が未だその姿を映している時に(崩壊する23分も前に)、その7号館ビルが「崩壊しました」と報道していた事実。大統領は9・11の2日前にそれが起こることを知っていた事実、等々。

そして、こういったブログの反論に「日本のマスメディアが少しも取り上げていないではないか」=だからデタラメだ。間違った意見だ。と言うブロガーが多い。
そういう人たちは、私のマスメディアを批判しているページを開いて読んでもらいたい。

少しテーマとズレるが、天木直人のブログhttp://www.amakiblog.com/archives/2007/11/14/に「日本の外交」について出ていたので引用しておく。

(引用開始)
鬱病や過労死になる前に目覚めて欲しい

 11月14日の日経新聞「こころのサプリメント」という心理カウンセルの欄に、臨床心理士が興味ある臨床患者の話を書いている。
 建設関連の企業につとめる30歳代のAさんは、過重労働による疲労と仕事の業績が上がらないことへの自信喪失からうつ病を発症し、会社を休職中である。病院での治療に加え、カウンセリングに訪れている。その時の状況を書いているのだ。
 「部下をまとめられない」と落ちこむAさんは、大手企業B社からの過酷な要求に押しつぶされる毎日であった。とはいえ、B社は超大口の取引先。「理不尽な要求も黙って聞くしかなかった」と話すAさん。部下たちはそんな彼を見て次第にやる気をなくし、Aさんの指示を無視するようになってしまったという。
 カウンセラーの求めに応じ、Aさんは取引先や部下に対する鬱積した感情をポツリポツリと話し始める。やがて「リーダーとしての自分の役目は、取引先の言いなりになることではなく、交渉して部下が働きやすい環境をつくることだった」、「自分と言う人間が悪かったのではない。取引先と交渉しない自分の仕事の進め方が悪かった」と気付いたAさん。すべて話し終える頃には、それまでの落ち込んだ表情は消え、晴れやかな顔になっていたという。
 このエピソードを引用した後、その臨床心理士は次のように締めくくっている。

 「・・・相手の言いなりになる事を続けていると、自分を卑下するような発想になりがちだ。相手に気を使い・・・相手に合わせてばかりいると、潜在的な能力や可能性が発揮できず、何をしてもやりがいや充実感が得られなくなってしまう。
  これは仕事だけではなく、夫婦関係や人間関係でもあてはまる。他者との関係にストレスを感じる時は、相手の言いなりになるばかりで、交渉を避けていないか。もう一度振り返ってみよう・・・」

  私がこの記事を引用したのは他でもない。米国の不当な要求を呑まされ続けている外務官僚たちとこの患者がダブって見えたからだ。

  もっとも官僚はこの患者のように簡単には鬱病にはならない。自分を偽って平然としていられる図太さがあり、出世のためにはあらゆる事を耐え忍ぶ強烈な出世欲を持っているからだ。
  しかしその彼らも、矛盾に悩んでいる。知らないところで徐々に自己崩壊している。その姿を私はまじかに見てきた。仕事の質がどんどんと低下していき、国民の幸せのために正しい外交をしているという充実感はなく、国民に嘘をついてまで日米外交の重要性を唱えるという後ろ向きの仕事に奔走することになってしまっている。アリバイづくり、言い訳づくりの外交に追い込まれてしまっている。
  
相手の要求をはねつける事は容易なことではない。その相手が強大であればあるほど断る事は難しい。しかし人生において一番大切な事は自立した自分を取り戻す事だ。勇気を持って正論を口に出すことだ。それは一時的には大変な勇気がいる事かもしれない。しかし勇気を振り絞って口に出してみれば、その後には無限の自由と心の開放が広がっているのだ。
 
外務官僚たちよ。自らを解き放て。自己に忠実な外交を目指せ。

さもなければ日本外交は本当に行き詰まる事になる。自らを鬱病に追い込む事になる。…引用終り

私も、昔、ある会社で営業をやっていた時、大口・大手取引先の部下を怒鳴り、叱りとばす恐い上司を相手に交渉をしたり、横暴ともいえる要求を突きつけられたりしたが、常に、下記の言葉が「正解」だった。

◎「案ずるより、産むが易し」

























政権交代が諸問題解決のカギ

2007年11月09日 | Weblog
昨日、日本国には政権交代が必要と書いた。

私の意見を代弁してくれているブログを載せておく。

日本がアブナイ http://mewrun7.exblog.jp/6751556/

(少し引用)
 私は、民主党や小沢氏の支持者ではないものの、日本が真の民主主義国家になるためにも、マジで「政権交代」を望んでいる者&その政治環境を作るためにも、民主党の成熟&頑張りを応援している者としては、やはり小沢氏のようなスーパー政治家は不可欠な存在だと思うし。

 ましてや、自民党ができてから50年以上、日本は自由な選挙権を与えられながら、選挙によって自民党以外の政党に政権交代をさせたことが一度もない国なのである。

残念&チョット悔しい気持ちはあるものの、まず日本で政権交代が可能な政党を作るためには、元・自民党などで政権与党の経験がある人が中核にいることが必要なのだろうと思うし。

日本がアブナイ http://mewrun7.exblog.jp/d2007-11-09

今、日本の政治は、と~っても重大な時期を迎えている。

 何か見た目は、ま~ったりしている感じもあるけど。実際は、政治も、軍事も、経済も社会も、よからぬ計画がどんどん進められている。 

 決っして大げさではなく、(曽)祖父母、父母たちの代から、私たち一般国民が戦後60年かけて築き上げて来た「平和で平穏な日本&国民の生活」が守れるかどうかの瀬戸際にさしかかっているのだ。

もちろん、人それぞれ、色々な考え方があるとは思うけれど・・・。
もし私と同じように、「平和で平穏な国や生活」を守りたいと思う方がいらしたら、どうか力を貸して頂きたい。

私は右も左も何の思想も持っていない。<強いて言えば、中道リベラル&ハト(平和志向)派> 特に支持政党もないし、何の政治運動も行なっていない。絶対護憲派でもない。

 ただ、私は今、私たちの国や生活を脅かしつつある、とても大きな力&アブナイ流れを感じている。<後述するように、今回の小沢問題でも、その力が大きな影響を及ぼしていたと思われる。>(ナベツネ・中曽根・森)

 そして、その大きな力に対抗できるのは、国民の力、民主主義の力しかないのである

<彼ら(政財界の権力者)にとっては、一般国民が政治(自分たちのやろうとしていること)に関心を持たず、自分たちの支持者以外はできるだけ選挙にも参加せず、自分たちの思うように政治やアレコレの計画を進められるような状況になるのが、一番嬉しい&有難いのである。>

 だから、どうか、小沢氏の件で呆れずorめげずに、政治への関心、選挙などへの参加意欲を保ち続けて頂きたいのだ。
 何故なら、彼らが最も恐れているのは、自分たちの意のままにはならない私たち一般国民だからである。

 日本では、戦後62年の大部分を、自民党&その前身が政権与党の座を握り続けて来た。
 彼らを、おカネも含め様々な面で支えて来たのは、アメリカであり、大企業を束ねる財界であり、官僚や様々な団体や識者たちであった。
それは、今も変わらない。

 彼らの結びつきはあまりにも長く、強く、それは彼らの権力や利益に大きな影響を及ぼす。だから、彼らは、自民党以外の政党が、政権与党の座につくのはすご~く困るし、絶対にイヤなのだ。

 アメリカべったりの中曽根政権や小泉政権は、米国や財界の要請に応じて、日本に新自由主義経済を持ち込んで、日本の経済&社会のシステムを破壊してしまった。それが、今の経済格差につながっている。
<大企業は過去最高利益を挙げているんだけどね。
外資もどんどん侵入して、日本企業がどんどん乗っ取られつつあるけど。

 しかも、今、特に超保守派の政治家や識者、団体&大企業は、米国とつるんで、日本の国のあり方を根本的に変えようとしている。国民の預かり知れないところで、2010年までに憲法を変えることを計画して、日本の軍事化を進めようと。また、教育をはじめ、社会全体の仕組みを変えようとしている。

<これも軍需産業をはじめ、大企業が利益を得る仕組みができている。
だから、経団連はこの計画を支持。(ちなみに、今回の連立政権への動きも歓迎していた。そもそも「さる人」(ナベツネ)だって、超保守+財界人だしね。)・・・そして、米軍再編も絡んで、日本は米軍の一部隊みたいな役割をすることが予定されているのである。そうなったらイラク攻撃みたいな戦闘にも、参加することになるかも知れない。 

 こうして、折角、着々と色々な計画が進められているところで、もし自民党が政権与党の座から落ちたら、目も当てられない。

 だから、彼らは何とかして、民主党&小沢氏の躍進を阻み、自民党が与党の座をキープできるように、これからも、あの手この手を使って来ることだろう。<民主党&小沢氏を取り込むのもよし、潰すのもよし>

 特に、参院で与野党逆転をしてからは、彼らの危機意識は強まり、かなり本気で、民主党による政権交代への道を妨害すべく、躍起になっているように見える。

(中略)…今回の福田・小沢会談&連立話にも、外部からの大きな力が働いたことは否めない。

 ただ、ともかく、彼らにとって、小沢氏は目の上の大きなタンコブであり、また最も恐れる政治家であることは間違いない。

 何故なら、小沢氏は、自民党結党以来52年間のうちで、たった10ヶ月超ながら、自民党以外の政権<細川政権>を作ることに成功した人物だからだ。

<このあと、自民党は細川首相を謎のいきなり辞任に追いやり(考えたら、アベる、オザワるの前にホソカワるがあったわね。
結党以来の天敵・社会党と組むという掟破り?の荒業で政権を取り戻したが、それ以降、単独政権はとれず、他の政党と連立せざるを得ないため、思い通りの政権運営ができずにいる。

 しかも、03年に小沢氏が民主党に合流してから、民主党の議席数は衆院も参院も飛躍的に増えていたのも、自民党にとっては、面白くないことだっただろう。

<03年の衆院選は60人増で177人まで達し、04年の参院選は23人増の50人で、自民党の当選者数を上回り、07年の参院選では37人増の60人で、ついに参院第一党に。>

・・・こう見ると、かえすがえす、05年の小泉郵政解散選挙での大敗は、悔やんでも悔やみ切れないのだけど。
 ともかく、彼らにとっては「小沢氏のいる民主党」は、大きな脅威であり、参院で与野党が逆転したことで、さらにその脅威は増していたのだ。

 しかも、小沢氏は個人的にも、米国追随の安保防衛政策、国際貢献策を批判し、頑固にテロ特措法に反対する方針を取り続けている。

これでは、米国や財界、その他の超保守勢力などが放っておくわけはない。

おそらく、小沢氏のもとには、私たちの目には見えぬところで、有形無形の圧力や脅しやお誘いがあったのではないだろうか?

その一つが、福田・小沢会談&連立ばなしだったのではないかと思う。

小沢氏を批判することは、簡単なことだ。
もし小沢氏がいなくても、民主党に政権交代を実現する十分な力があるなら、私は「とっとと辞めてくれても構わない」と思ったことであろう。
でも、そうなった時に喜ぶのは、誰でもない。自民党&米国、そして彼らを取り巻く連中だ。

私は、決してアンチ自民党ではないが。今の自民党に政権を任せ続けているわけには行かない。<ちなみに、私は反米でもない。でも、反ブッシュ政権である。>

 前半にも書いたように、今の自民党は、米国&取り巻き連中と日本や私たちの平和で平穏な生活を壊そうとしているからである。

このまま放置しておけば、どんどん計画は進められて行く。

この流れを止めるには、ともかく国民の力で、一度、政権を交代をさせるしかないのだ。

「そんな勝手な計画は許さないよ!」と、選挙で、私たちの強い意思を突きつけるしか手がないのである。

 だから、どうか小沢氏の件は、チョット棚に上げて、「じゃあ、自分たちが主権者として、小沢氏をうまく利用してやろう」ぐらいの気持ちで、次の衆院選で民主党&野党が躍進できるように・・・。

 現状では、一気に政権交代を達成するのは、議席数の面から見ても難しいかも知れないのだけど。<かえすがえす小泉総選挙が~。>

 せめて自民党が「このまま、米国べったりで計画を進行させるのは、マズイ」とビビるぐらいの結果を出せるように、力を貸して頂きたいのである。…引用終り

当ブログの意見から「憲法改正してもいいよ」との意見を省いている。
憲法で「自衛隊」を認めてもいいではないか。との意見で尤もなのであるが、私が今まで書いてきたように自民党(権力者)の憲法改正の意図を知ると、とても憲法改正賛成とは言えない。自衛隊は最高裁も共産党はじめ野党も合憲と認めている現在、改正する必要は無い、と言うのが私の意見である。

話は、逸れたが、この人のブログが私の昨日書いた日記で言いたかったことです。








小沢氏の民主党代表辞意撤回…その2

2007年11月08日 | Weblog
「三丁目の夕日」や「続・三丁目の夕日」によって、いま「昭和」が懐かしく特集されている。

その昭和のニュースを見ていて感じたことだが、やはり日本国が、日本の政治が、間違った方向に行こうとしているのを引き止めることが出来るのは「国民の力」しかない、デモ行進等で見せる国民の「多数の力」である。

岸内閣が目論んだ「警職法」は、30万人規模の国民のデモにより、撤回に追い込まれた。

又、日米安保条約(軍事同盟)は50万人規模のデモ行進が相次いで起こり、結局自動継続の形にはなったが、この安保反対の大規模デモにより、アメリカも「日本国民が大反対している状況」から判断せざるを得ない形となり、日本も軍隊を持て核を持てとは言えなくなった。日本政府も「国民感情が…」で逃げることが出来た。

今のように、国内では「声なき声」ばかりとなって権力者のやりたい放題であり、国外(特に対米)では、「日本国民は何にも言ってない(反対していない)ではないか」と日本政府に無理難題を吹っかけ、やれ無償給油や思いやり予算や湾岸戦争への供出金(対応が遅い、誠意が無い、もっとカネを出せ)等々、まるでヤクザのような日本への要求(カネの巻上げや家来・先兵としての軍事協力)をつきつけているが、日本国民の戦争反対等の平和運動等が盛り上がっていたら、政府の対米隷従もここまでには至らなかったのではないか?と思う。「昭和のニュース」を見て、そのことを強く感じた。

さて、小沢氏の代表継投について、私がそうだなと思ったブログを載せておく。

天木直人のブログ http://www.amakiblog.com/archives/2007/11/07/

(途中から引用開始)
 小沢騒動の本当の問題は何かということだ。それは決して民主党の政権交代が遠のいた事ではない。小沢一郎の政治生命がなくなった事ではない。やがて始まる小沢騒動第二幕の事ではない。ましてやスキャンダルで鳴りを潜めていた横峯良夫が、このドサクサにまぎれてマスコミに登場し、「小沢先生が党首続投をするのは当然だ」といわんばかりに鼻息を荒くしている滑稽さでは決してない。そんな事は所詮は政治に関わっている政治家とそれに群がる関係者の私利私欲まみれの騒ぎに過ぎないのだ。
  何が深刻な問題なのか。それは今度の騒動の結果、わが国の対米従属が一気に固定化してしまうということだ。その事によってわが国の安全はもとより経済も我々の生活も崩壊させられていくという事だ。
  私が護憲や平和を叫ぶ時、日々の生活に追われている若者たちから、「俺たちはその日の生活が奪われている」のだとか、「平和など糞くらえだ、エリートのたわ言だ」、などと言う声が寄せられる。そのような連中に対して私は言う事にしている。米国という国を甘く見るなと。貧困層が急速に拡大し、国民間の経済格差が拡大した最大の原因は、この国の指導者たちが、国民を犠牲にして戦争国家米国の要求に屈したからなのだ。対米自立外交を取り戻す事は、日本の平和を守るためばかりでなく、我々の暮らしの豊かさを取り戻すために、不可欠であるということなのだ。米国からの不当な要求をはねつける為の憲法9条であり、平和外交なのである。
  小沢騒動の結果、テロ特措法延長の是非をめぐる国会での論争が急速に閉じられ、対米従属外交が自民・民主の政策協調で固定化されていく。米国の防衛産業を巻き込んだ防衛疑惑に蓋がされる。
「小沢騒動は米国の陰謀とか圧力によってもたらされたものである」といった話はここでは論じない。しかし少なくとも結果的にはそうなる雲行きなのだ。小沢騒動が、「大連立には反対だが政策協議は行うべきだ」という、訳のわからない論理によって、終わるとすれば、新テロ特措法は自民・民主の政策協力によって成立する事になる。「国連決議さえあれば自衛隊を海外に派遣する事は合憲だ」という小沢一郎の粗雑な議論を逆手にとって、自民党が自衛隊海外派遣の恒久化を小沢民主党の賛成の下に成立させようとしている。私が一番懸念していた事だ。
  今度の小沢騒動で興味深いのは、民主党内の旧社会党議員の影が薄かったことである。小沢の大連立騒動の問題は、実は二つある。一つは勿論政権交代を望む民意を裏切って自民党と連立しようとした事である。これについては民主党内の若手右派やその後ろにいる仙石などが息巻いた。しかしもう一つの問題は小沢が福田と自衛隊派遣恒久法をつくることで手を結んだ事にある。そしてこの事こそ民主党護憲派や護憲野党の福島社民党、日米軍事同盟に反対する共産党などが、本気で怒らなければならない事であった。しかし不思議な事に、彼らもまた「大連立は民意の裏切りである」という批判は大声でしてみても、集団的自衛権を容認する小沢一郎の国際貢献至上主義に、本気になって反対する気配はない。ここにこの国の政治における平和勢力の不在を見る。
  事実上軍隊である自衛隊はいかなる名目でも海外へ派遣してはならない。その必要性もない。戦争当事国のほかに世界のどの国が日本の自衛隊を海外に派遣してくれと望んでいる国があるというのか。国際責任を果たさないと世界から批判されるなどというたわ言は、対米従属を絶対視する政府や外務官僚の自作自演でしかないのだ。この事を正面から発言する政党こそ今の日本に必要なのである。…引用終り

もう一つ。

反戦な家づくり http://sensouhantai.blog25.fc2.com/

(引用開始)
小沢一郎を責めるのは簡単だが・・・

党内はもとより、有権者への不信感を、わざわざ自作自演で作り上げてしまった小沢一郎。

ロックフェラーやCIAの影響などを言う意見、ネベツネにはめられたと言う意見、壊し屋小沢の体質だというもの、党内求心力のための大芝居だというもの、本気で大連立をするつもりだったというもの、実にいろんな意見が飛び交っている。

■■
他の野党勢力は
共産党 「参院選を「反自公」を掲げてたたかった民主党が、自民党と手をくもうというのは、国民の民意を裏切るものであり、有権者との関係でも小沢氏がとった行動は党首として失格だと思う。」(志位委員長)
社民党 「この間の小沢氏の動きは理解に苦しむ。野党らしく(自公政権に)切り込んでいくべきだ。(小沢氏の今後の対応を)見極めるが、しっかりしないと(野党共闘は)難しい」(福島瑞穂党首)
などと言っている。

しかし、考えてみれば、小沢一郎という人間に、この国と我々の将来を賭けなくてはならないような、今のこの状況を作ってきた主体的な責任は、共産党にも社民党にもある。
どんなに勢力を減らしても、決して自らを振り返ることのない共産党。
自民党と組むという裏切りの大先輩、社民党。

もちろん、一個人としての私にも責任はある。
だから、一つの反省として、一点だけ確認しておきたいと思う。

■■
アフガン給油に反対し続けた小沢に対する、アメリカの圧力は凄まじいものがあっただろう。とっくに田中角栄の二の舞になっていてもおかしくはない。

たぶん、アメリカ民主党はアフガンから撤退するだろうという読みで、小沢も給油反対作戦に出て、見事にはずしてしまったというのが真相だろうと想像してはいるが、少なくとも、この数ヶ月間アメリカの圧力を一手に引き受けていたのは小沢一郎だ。

志位和夫でも福島瑞穂でもない。

大事なことは、読み違いだろうが何だろうが、とにかく侵略への荷担に反対して小沢がアメリカの圧力を受けているのだから、社民党も共産党も、反戦を言うものは、とりあえず小沢を支えるべきだった、ということ。

他人事のように、外野席からISAF参加を批判するのは簡単だ。しかし、国連中心主義の是非よりも先に、今現在の堤防が小沢一郎しかなくなってしまった、という事態を直視すべきだった。

むしろ、野党共闘の盟主としてトコトン持ち上げて、嫌でも給油反対の看板を下ろせなくするべきであったし、すこしでも圧力を分担するべく協力をするべきであった。

文句を言う国民自身も、侵略荷担の給油活動にこぞって反対していれば、小沢はここまで孤立することはなかったはずだ。

■■
私は、決して民主党の支持者ではないし、まして小沢一郎のシンパではさらさらない。
そうではない私が、このように言う意味。

これからも、いろんな局面があるだろう。そのとき、小沢一郎だからとか、志位和夫だからとか、そんな理由でものを判断してはいけない、ということが言いたい。

その局面で、誰が矢面に立っているのか。よくよく見極めて、そのときの態度を決めないと、絶対的な力を振るうものたちに一泡吹かせることなど、夢のまた夢になってしまう。…引用終り



■「権力は集中するか、長期化すると腐敗する」

従って、戦後の一党による長期政権がもたらした「政財官民」の癒着を剥がすために真っ先に国民がやらなければならないことは、「政権交代」である。

民主主義のどの国も取っている「政権の座」の任期制限。

日本では、残念ながら政党が、資本主義と社会・共産主義の対立の形となったため、政権交代=社会体制が変ること(資本主義から社会・共産主義へ)を意味し、その関係から民主主義諸国のような同じ主義の二大政党による政権交代が起こらなかった。

その結果、日本全体に「癒着による不正・腐敗」が蔓延し、「政財官民」のあらゆるところで「氷山の一角」的な不正が問題化している。

この「どこから手をつけていいかわからない」現状を打破するための最初の一石が「政権交代」である。

今までの「癒着」を上から(新しい権力者)の手によって一つ一つ剥いでいかなければならない。「癒着」を断ち切れるのは、いままでその中にいなかった(悪く言えば恩恵を受けていない・甘い汁を吸えていない)新しい権力者である。

天木氏のブログや他のブログでも見られるように、私も「民主党」や「小沢代表」を支持している訳ではない。

ただ、権力者の手によって自分に有利なように変えられた選挙制度(小選挙区制)のために、他の少数政党を支持したのでは自民党に圧倒的勝利を与えることになる。
従って、民主党では駄目だと思っている憲法擁護派の私も、取り敢えずは「政権交代」が行なわれることが、何にもまして先決と考えている。

私の主張:「政権交代」が全ての問題に優先する日本国の課題である。

それ以外の手段では、いま毎日のようにマスメディアに取り上げられている色々な問題を解決できない、と思っている。

くれぐれも、今度の選挙で「参院選の大敗で自民党も懲りただろう、今度は温厚そうな福田さんがかわいそうだから自民に入れてやろう。」などと思わないように。
「かわいそう」になるのは自分なのですから。

もう一度、昨日のパロ盗用を載せておく。

◎「長期独裁腐敗政権があるかぎり、私は民主党や野党を批判する気にはならないだろう。」(村野瀬玲奈さんのパロを盗用)

(パロのもとはこれ)
◎「専制国家があるかぎり、私は民主主義を批判する気にはならないだろう。」
(ジャン・ロスタン)



小沢氏の民主党代表辞意撤回について

2007年11月07日 | Weblog
今日の言葉

◎文藝や哲学を知らずして、政治や経済を語るなかれ!!!

今からでは何とでも言えるのだが、私は、小沢代表が辞意表明した時点で、この撤回があるだろうとの予感があった。それはそのニュースが突拍子も無い、寝耳に水の報道だからと言うわけでもなく、民主党を一枚岩にし、報道の仕方にも一石を投じ釘を刺す意味で非常に有効な手段だと感じたからで、権謀術数の政治の世界で小沢氏は政治・マスコミ等周囲の情勢をよく知っている政治家だな、と思った。

相変わらず、マスコミの報道の程度の低さに呆れ返る。

今日も鳩山氏の「雨降って地固まる、ですよ」、との発言を批判し「腹水盆にかえらず、ではないか」、とガタガタいっている。全く、何とかして民主党を悪者にしようという、権力に媚びる姿勢がありありと出ている。

このブログを参考されたし(最初に載せた「今日の言葉」を主張しブログを書かれている「山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記』」より)。

山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記』http://d.hatena.ne.jp/dokuhebiniki/

山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記』~読売と小沢の全面戦争か?

上記ブログより読売新聞記事引用

(引用開始)
★読売新聞より.。

★党首会談で「小沢副総理」一度は合意、17閣僚の配分も

小沢辞任

 福田首相(自民党総裁)と民主党の小沢代表の党首会談で、民主党が連立政権に参加した場合、小沢氏が副総理格の無任所相に就任することで合意していたことが4日、明らかになった。

 両党首は連立政権の17閣僚の配分を自民党10、民主党6、公明党1とすることでも合意、「大連立」を前提に話し合いが行われていた。

 関係者によると、2日の党首会談では、民主党に割り当てる閣僚ポストとして小沢氏の副総理、国土交通相、厚生労働相、農相が挙がったという。副総理は内閣法に法的な位置づけはなく、あらかじめ首相臨時代理に指名された閣僚を指してきた。政府は、首相臨時代理を組閣時に5人指名しているが、臨時代理順位の1位を無任所相の小沢氏とする方針だったと見られる。

 このほか、自民、民主両党間に設置する政策協議機関のメンバーに民間人も参加することが話し合われた。

(2007年11月5日3時0分 読売新聞)

もう一つ。

■「民主党内、絶対まとめる」大連立は小沢氏が持ちかけ

11月4日11時4分配信 読売新聞

 2日の福田首相と小沢民主党代表の会談で、議題になった自民、民主両党による連立政権構想は、実は小沢氏の方が先に持ちかけていたことが3日、複数の関係者の話で明らかになった。

 「大連立」構築に向け、小沢氏がカギと位置づけたのは、自衛隊の海外派遣をめぐる「原理原則」だった。

 関係者によると、小沢氏は当初から、首相側に連立政権の考えを持っていることを内々伝えていたという。

 2日午後3時から行われた会談で、首相は新テロ対策特別措置法案への協力を要請。これに対し、小沢氏は「自衛隊派遣には原理原則が必要だ」と主張した。

 さらに、自衛隊の海外派遣のあり方を定める一般法(恒久法)について、「『派遣は国連決議に基づくものだけに限る』と決めて欲しい」と求めた。内容の検討は、「内閣法制局に頼らない方がいい」などとも注文した。…記事引用終り

これを読んで、小沢辞任表明会見の小沢氏のマスコミに対する批判をもう一度聞いて下さい。

小沢氏の辞任表明会見でのマスコミ批判内容

 中傷報道に厳重に抗議する意味において、考えを申し上げる。福田総理との党首会談に関する報道について、報道機関としての報道、論評、批判の域を大きく逸脱しており、強い憤りをもって厳重に抗議したい。特に11月3、4両日の報道は、まったく事実に反するものが目立つ。

 私の方から党首会談を呼びかけたとか、私が自民、民主両党の連立を持ちかけたとか、今回の連立構想について、小沢首謀説なるものが社会の公器を自称する新聞、テレビで公然と報道されている。いずれもまったくの事実無根。党首会談、および会談に至るまでの経緯、内容について、私自身も、そして私の秘書も、どの報道機関からも取材を受けたことはなく、取材の申し入れもない。

 それにもかかわらず事実無根の報道がはんらんしていることは、朝日新聞、日経新聞を除き、ほとんどの報道機関が、自民党の情報を垂れ流し、自らその世論操作の一翼を担っているとしか考えられない。それによって、私を政治的に抹殺し、民主党のイメージを決定的にダウンさせることを意図した明白な中傷であり、強い憤りを感じる。

 このようなマスメディアのあり方は、明らかに報道機関の役割を逸脱しており、民主主義の危機であると思う。報道機関が政府与党の宣伝機関と化したときの恐ろしさは、亡国の戦争に突き進んだ昭和前半の歴史を見れば明らかだ。

 また、自己の権力維持のため、報道機関に対し、私や民主党に対する中傷の情報を流し続けている人たちは、良心に恥じるところがないか、自分自身に問うてもらいたい。

 報道機関には、冷静で公正な報道に戻られるよう切望する。 …以上、引用終り

http://d.hatena.ne.jp/dokuhebiniki/20071105#p1
日本がアブナイhttp://mewrun7.exblog.jp/

雑談日記(徒然なるままに、。)http://soba.txt-nifty.com/zatudan/2007/11/post_6bbe.html

この『雑談日記』から引用。

(引用開始)
与党には甘く、野党にはやたら厳しい日本のマスゴミ。

「今のままでは衆院選を勝てない」発言を何度も言うノータリン荒川強啓。(笑)

 欧米では政権党には厳しくがジャーナリストとしては普通のことのようだ。そうでなければチェック機能も果たせずジャーナリストとしての甲斐がないということなのだろう。

 ところが日本では逆で、与党には甘く、野党にはやたら厳しいのが日本のマスゴミである。

 さっき、TBSラジオ荒川強啓のデイキャッチを聞いていたら、4日の小沢氏会見での「今のままなら民主党は衆院選に勝てない」発言をしつこく繰り返し繰り返し取り上げていた。「こんな発言をするようでは党首としては相応しくないのでは」とか、。

 そんなの小沢氏でなくても別に珍しいことでもないだろう。叱咤激励や引き締める意味で自民党だろうがどこの政党だろうがやっていることだ。

 時に「かなりの手ごたえがありそうだ」と励まし、時には「今のままでは苦戦しそうだ」と引き締めるなんてのは当たり前のことだろう。

 それよりも何よりも、「敵を知り」、それ以上に「己を知らなければ」戦いに勝てる訳もなかろう。現実をありのままに認識できず、おいしい現状認識しかできないようならそれこそリーダー失格なんじゃないの。そんなリーダーが最近までいたな。安倍というのが、。(笑)…以上引用終り


民主党及び小沢代表は、この一件で、多くのブログで取り上げているような「ガタガタ」の状態にはならない。
むしろ「辞める」ということで、小沢なき後の政党の現実を批判派に認識させ、結果として小沢批判していた内部の雑音を消すことになると思う。

また、今回の小沢氏のマスコミ批判で、権力に弱いマスメディアも民主党が政権をとった場合も想定において発言・行動する必要が生じてきた。

(最後にもう一度、小沢氏の言葉)
このようなマスメディアのあり方は、明らかに報道機関の役割を逸脱しており、民主主義の危機であると思う。報道機関が政府与党の宣伝機関と化したときの恐ろしさは、亡国の戦争に突き進んだ昭和前半の歴史を見れば明らかだ。

◎「専制国家があるかぎり、私は民主主義を批判する気にはならないだろう。」
(ジャン・ロスタン)

◎「長期独裁腐敗政権があるかぎり、私は民主党や野党を批判する気にはならないだろう。」(村野瀬玲奈さんのパロを盗用)

権力は怖い…その2

2007年11月01日 | Weblog
昨日の高知白バイ事故の続きです。

■警察・検察の問題(続き)

報道されているように、ブレーキ痕については、数々の疑問点が挙げられています。

・一旦停止して車道へ出ていき右折しようとしているバスが急ブレーキをかけて1m~1.2mもブレーキ痕がつくか?…検証では付かなかった。

・バスはタイヤの真ん中に4本の縦溝が付いているので、それがブレーキ痕に出るが、証拠写真のブレーキ痕には、それが見られない。…交通事故鑑定人

・同じく、舗道が削られた様子が無い、描かれたようだ。…交通事故鑑定人

・写真の影の位置から、後から撮ったほうが濃くなっている。薄くなることはあっても濃くなることは有り得ない。

・事故直後の写真でバスは衝突後3mほど白バイを引き摺っていって停まった(事故現場の位置)との対向車線を走っていた白バイ隊員の証言であるが、衝突したと言っている、その写真のバスの3m手前はキレイであり、衝突による破片はバスの横と前にしか飛び散っていない。

運転手さんは事故が起きて16分後に逮捕(まだ事故を起こした白バイ隊員の方はなくなっていない、実況検分もおこなわれていないのに逮捕)、手錠を掛けられ、1時間以上経った後に警察車両の中から実況検分・事情聴取させられて(異常です!)、その8ヶ月後にブレーキ痕の写真を見せられた。
そのときのことを運転手さんは、「頭が真っ白になった。何か非常に巨大なものが背後にあるのを感じた。権力には勝てないのか、と思った。停止している状態でブレーキ痕が付くはずがないのに…」

愛媛県警 仙波敏郎氏の講演から

「皆さん、『明日はわが身』ですよ。何の罪を犯して無くても、何の交通違反をしていなくても、われわれ(=警察)がその気になれば逮捕できるんです。有罪に出来るんです。」
仙波氏は更に続けて、

「こんな警察じゃダメです。
みなさんの力で警察を厳しく監視して、いい方向にいけよ、戻れよ、と…。
これは皆さんの力しかないんです。」

ここで私の意見に戻りますが、私がこの事件で「色々書きたい」と言ったのは、(1)マスメディアの報道のあり方、(2)警察権力の暴走行為(冤罪つくり・捏造)、(3)裁判(裁判官)のあり方、の3つでした。…漸く考えが纏まりました。

私は、この警察権力の怖さ(冤罪が簡単につくられてしまうことへの怖さ)については、何回か経験しています。

・この運転手さんの話

「事故のあらましですが、昨年、2006年3月3日午後2時34分に、春野町の変則3車線の国道上の交差点内で起きた事故です。
私は、中学3年生のお別れ遠足のため、スクールバスを運転し、事故現場の北側にありますレストランで昼食のために、駐車場に待機していました。
そして、2時33分に乗車し、乗員は生徒22名、引率の先生が3名でした。
駐車場から国道上を横切り右折するために、右方を十分に安全を確認してからゆっくりと発進し、中央分離帯付近で一旦停車し、左方を確認中に起きた事故です。

この事故で、白バイ隊員の方は、残念ながら、約1時間後に胸部大動脈破裂で亡くなられました。
私は、隊員の方を、救急隊員と一緒に救急車に乗せ、よろしくお願いしますと見送りました。
そして、実況見分のために現場に待機していました。
管轄署のパトカーがやってきまして、3時04分業務上過失致傷で逮捕します、と言われ、パトカーに乗せられ署に連行されました。

その後、約1時間15分位で現場に連れて行かれましたが、現場は、バスも白バイも撤去されていました。
それから、実地検証のため、覆面パトカーの中から、窓を20センチ位あけられ、指先で停止位置を指示させられました。

私はそのまま逮捕され、十分な実況見分もできないまま、3日間拘留させられました。
翌3月4日の取調べでは、詳しい事故の話はあまりなく、亡くなられた白バイ隊員の家族構成や詳しい経歴などを説明され、私は心情的な面から責めたてられて、本当に追い詰められました
最後に、遺族に対しての気持ちを一晩考えるようにと言われました。
その内容しだいで、明日釈放してやると言われました。

あなたは「何でやってもいないのに、自白調書に署名するのか、罪を認めるのか」と思われるかも知れませんが、警察の取調べを受けた人は理解出来ると思います。

今では人権擁護でないのでしょうが、昔、容疑者が「白状しろ」と肉体的拷問を受けた時、こんな苦痛から早く開放されたい、私がやりましたということによって死刑になった方がましだ、「楽になれる」と考えるのと同じです。

*上の運転手さんのように「精神的に追い詰める」→「警察の言ったとおりにすれば楽になれる」という心境にするのが「冤罪つくり」のコツなのです。

私が経験したことを一つ二つ挙げておきます。

乗用車3台でみんなで旅行したときのこと、あいにく帰りは大雨となり、観光を中止して高速道で帰る途中のこと、私の運転している車に異常が生じ、ハンドルが自分の意のままに動かない、ハンドルが取られるような症状が出たのです。時々しか症状が出ない為、ハンドルをしっかり持って注意深く運転すれば大丈夫だと思い、待ち合わせのパーキングエリアまで運転して皆で食事をしました。運転が自分の思い通りにならない恐怖はスリップを経験した人なら分かると思いますが、その気持ちでした。ただ決してスリップをしたときの感触ではありません、全く違ったものです。
パーキングエリアで降りたときにパンクかなと思いタイヤを確認しましたが、新車でしたのでタイヤの溝も空気圧も全く問題はありませんでした。
皆と食事しながら「あの車おかしいよ、怖いよ。」とその症状を話し「帰ったらすぐ診て(点検して)貰わないと…」といった話をしました。食事が終わって出発するときにNさんが、車替わろうか、と言ってくれたので、それまでNさんが運転していた車を私が、私がおかしいよといった車をNさんが運転することになり、Nさんが先に出発しました。あとから私が出発したのですが、Nさんの車は、それから15分位たったときにハンドルが効かなくなりガードレールに接触し、直線の長い下り坂で、強い雨だったため、後から来た車が次々に玉突き状態となりました。私の車も怖かった前の車から変わったせいもあり、「運転手は皆の命を預かっているんだからスピード出さないでゆっくりいくからね」と会話しながら運転していたのですが、路面を流れる豪雨と長い下り坂と4人とその荷物・お土産が乗っていた為に玉突き事故の5台目になってしまいました。(前のトラックが両車線を塞いだ形になったため停まるしかなかったのですが)
幸いこの事故で「人身」は皆無でしたが、その事故取調べ・調書作成の時に、私は今書いた経緯を警察に話し、Nさん運転の車がおかしかった、といったところ、私だけ別室に呼ばれ「取調べ」を受ける結果となりました。

警察は「Nさんが雨の日にスピードを出し過ぎたためハンドル操作を誤ってガードレールに接触、そこに後続の車が次々に…」という筋書きでこの事故を済ませたかったようです。雨のためどの車もブレーキ痕は付きませんでしたので、玉突きした車の運転手に「ちょっとスピードを出して(制限速度をオーバーして)いました。」と言わせて引き取らせたのですが、私の発言に警察官が皆色めきたった感じがしました。

「そんなことを言っているとNさんに迷惑がかかるぞ」
「考えを変えるまで帰さないぞ」
「毎日呼び出しをかけるぞ」
「問題化すると(記事に書かれる、等)会社や会社の人にも迷惑が掛かるぞ」
「その車を調べて何も無かったら、その莫大な費用は自分もちだぞ」

 等々、まあ「考えを改めさせる=アキラメさせる」為の、ありとあらゆる手法が取られました。

私は「でも事実は事実だ」と私が事故車を1時間半ほど運転して感じたことを話しました。エンジンの異常音、回転数の異常、等々
警察官は部屋を出て何人かで話し合っていましたが、私の「言葉は柔らかいがでも発言を撤回しそうもない」との態度を見て、あきらめたのか、「帰っていい」といいました。
前の全員で調書を取られた部屋に皆んな心配そうな顔をして待っていてくれ「大丈夫だったか?長かったから心配した」と声を掛けてくれました。

Nさんも車がおかしかった、金がかかっても調査してもらう、と主張。
結局、車の分解検査等にも立ち会いましたが、分解してブレーキ・シューとか見せられても、素人には異常か異常でないかは判断出来ませんし、もともとブレーキ・シュー辺りの異常とは考えていません。
結局、車のディーラーが何故か平謝りに頭を下げてきて、その検査費も他車の修理費も皆んなディーラー持ちで、別の車(新車)が提供されて、一件落着した。

また、交通違反はNさんは減点2(理由は忘れた)と軽微なもので、私は何もなしといったものでした。

私は今でもメーカーが初めての前輪駆動車として出した車でもあり、「欠陥車」だったと信じている。そして私が「車がおかしかった」と何気なく言ったときの警察官の反応(色めきたった感じがしたことと、それからの私に対する異常なまでの反応)から、その車が「表沙汰になっていない欠陥車」だと言うことを県警も知っていたのではないか、と思う。

いづれにしても、この出来事で警察が冤罪を作り出すのは簡単なのだ、と思った。

もう一つの例は、Bさんが被告人となり、警察が、その人格・人柄・普段の行動を私に聴取に来たときのことです。その調書は私の話の内容を聞いて警察官が書き、最後にその書いたものを見せて私がそれにサインする形が取られます。
これは、どの調書もそうなのでしょうが、これでは警察側の思い通りの筋書きの調書が出来てしまう、参考人の意見ニュアンスは伝わらない、と感じた。話していて「私が書きましょうか」といったが「それは駄目です」と断られ、出来上がった調書を見せられ、「良ければ、最後のところにサインしてください」と鉛筆で書いた下書きを見せられた。400字詰め原稿用紙1枚分であったが、5~6箇所も私の話したニュアンスと違う箇所があり、その内2箇所位指摘して書き直させたのですが、私が「ここはこういうニュアンスで言ったのです」と説明すると、その部分を消しゴムで消して書き直し、黙ってこれでいいかといった態度で私に見せるのですが、私の説明したニュアンスには全くなっていないで、最初書いたものとほとんど変っていない。私はしつこくもう一度書き直してくれと要求し書き直させたが、それでも私の言おうとしたこととは程遠い。まあ、この文でもBさんに不利にならないか、とサインしてしまった。
今、思うと警察官に馬鹿だなそうじゃないだろ、と何回も書き直させることは出来ない、という心理をついた作戦ではなかったか。
つまり警察官としては、指摘されて同じように書き直しても、そうじゃない書き直せと警察官に向かって3回以上言える人はいないと踏んでいるのではないか。(私は2回であきらめた)

私は調書に(要求に従ってボールペンで)サインをするときに「鉛筆書きですが」と下書き調書を咎めたら「あとで清書しますから」との返事。
「ほんとですか、ほんとうにこの下書きどおり清書するんでしょうね」とは権力にむかって聞けませんでした。

今考えると、鉛筆で金額を書いた小切手にボールペンでサインして渡すようなものだった。いくらでもあとで書き換えられる。

いづれにせよ、この一件から、サインするだけの調書・自白調書を私は全く信じないようになった。

警察の筋書きに外れた意見は全く書かれない。
例えば、極端な例だが私が「あいつは馬鹿だが、かわいいところがあって憎めない奴だ。突拍子もないこともやるが、そんな(その事件のような)悪いことをやる奴じゃない」と言ったとします。調書では「Bさんは頭がおかしくて何をしでかすか分からない奴だ」と私が言った、ということになってしまいます。
さすがにここまで違うとサインする前に何回でも書き直させますが、どちらにも取れるような、うまい言葉・表現を使ってサインさせようとしてきます。
Bさんの不利になるようなデータを集めているわけですから、それに「そぐわない」発言はオミットされるわけです。

わたしがタイトルにした、権力は「怖い」が分かって頂けたでしょうか?

今、ブログで盛んに「取調べを完全ガラス張りに」と主張されていますが、私も同感です。

最後に、きっこさんが経験した日記を紹介しておきます。

「きっこの日記~言葉の暴力」http://www3.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=338790&log=20070221

もう一つ最後に、裁判員制度であなたがクジで選ばれたときに、よっぽどのことが無い限り辞退できないのですが、やりたくない人にいい手があります。クジに選ばれた人から弁護士・検察の双方が取捨出来る(クジに当った人がふるいにかけられる)ことを利用して「あなたは警察が信用できると思いますか」(必ずこの質問はあるそうです)と質問されたときに「全く信用できません」と言えばいいのです。検察官によってすぐ、ふるい落とされます。めでたし、めでたし。
でも、そういった人が裁判員になれない、この制度は問題ですね。