無風老人の日記

価値観が多様化し、自分の価値判断を見失った人たちへ
正しい判断や行動をするための「ものの見方・考え方」を身につけよう。

続・軍靴の響きが聞こえる

2008年11月14日 | Weblog
前回から直接続いているので、前の日記から続けて読んで下さい。


■立憲民主主義を守らないで、ぶち壊そうとしている人たち(続き)

橋下大阪府知事…続き

(引用開始)
「朝日新聞無くなった方が世のため」

大阪府の橋下徹知事は10月20日、山口県光市の母子殺害事件の弁護団への懲戒請求を呼び掛けたことを巡り訴訟で敗訴した際、朝日新聞が社説で弁護士資格の返上を求めたことに対し「朝日新聞は事実誤認があったら廃業するのか。(同新聞が)無くなったほうが世の中のためになる」などと批判した。
橋下知事は朝日新聞社説について全く愚かな言論機関。すぐさま廃業した方がいい。権力の悪口を言っていればいいと思っているのではないか」などとまくし立てた。
 知事は19日に兵庫県伊丹市で行われた陸上自衛隊中部方面隊の記念式典の祝辞でも「人の悪口ばかり言う朝日新聞のような大人が増えれば、日本はだめになる」などと発言していた。…引用終り

私のような一庶民が「朝日新聞は偏向新聞だ」「あんな新聞は無くなった方が世の為になる」と言う分については何の問題も無い。権力者側にいる公の人間が憲法の言論の自由・報道の自由を否定する言葉を吐くことは絶対に許されないことだ。(11月12日の立憲民主主義の基本思想参照)

■また余談になってしまうが、10月30日国連の自由権規約委員会が日本の人権状況に関する最終意見書を発表し「日本政府は表現の自由の制約を撤廃して、自由な意見表明や政治活動が行えるようにするべきだ」との意見を述べた。

(余談の引用開始)
日本の表現の自由は、自民党・与党の問題点があからさまにされないようにするために、露骨な制約を受けてきた。その制約は、自民党の化けの皮がはがれそうになるにつれ、激しくなった。
その一端が、ビラまきをしただけで逮捕されたり、麻生の家を見に行こうとしただけで逮捕されるような状況として現れている。
(以下、国連人権委員会の意見書の引用)
「当委員会は、日本国で表現の自由と選挙運動の自由が不合理に制約されていることを危惧する。
例えば、公職選挙法は、戸別訪問を禁止し公示前のビラの枚数や種類に制限を加えているが、問題である。
また、政治活動家や公務員が民家の郵便受けにビラをまいたことで、住居侵入や国家公務員法違反で逮捕され、起訴されたことも問題である。
日本政府は、表現の自由や選挙運動の自由に対する不合理な法的制約を撤廃し、また自由人権規約19条及び25条で保障されている政治活動やそのほかの活動を警察、検察、裁判所が不正に制限することのないようにしなければならない。」…引用終り

■またまた違った余談が頭に浮かんだので、浮かんだついでに書いておく。

上の国連の意見書に「日本のことをよく知りもしないで何を言うか」というブログがあった。
それで思い出したのが、ニューヨーク・タイムズ紙が麻生首相を「好戦的な民族主義者」と評したことを書いた私の日記に「好戦的なのはニューヨークタイムズの記者のほうだ!」とするコメントが付けられていたこと。

ニューヨークタイムズ紙は「アメリカの良心・良識」といわれている新聞で、コメントの人が何と言おうが、同紙の考えは(いい悪いは別にして)アメリカ国民全体の常識となっていくのである。
しかも、私の見解からすると、この社説を書いた同記者は「日本の将来は最大の貿易相手国である中国、韓国、急速に発展する他の近隣諸国との政治、経済関係の強化にかかっている」として「米国が最も必要としているのは責任ある戦略的パートナーとしての日本であって、アジアから怒りを買うような帝国主義を空想し、力を誇示するような日本政府ではない」とクギをさし「隣国を対等に扱い、民族主義を現実主義に入れ替える必要がある」といっているのだが、そのどこが好戦的なのか?と思ってしまう。

フランス各紙も麻生首相を、日本の政治・軍事的影響力の強化を狙う「ナショナリスト」との見方で一致している。

ナショナリストは前に書いたように「国家主義者」「民族主義者」「国粋主義者」と辞書に載っており、日本人の印象は柔らかい訳語の「民族主義者」であるが、海外ではニュアンスがちょっと違う。
海外のナショナリストのニュアンス例で一番分かりやすいのはナチス・ドイツのヒトラーである。
民族主義者とは、自らの民族を政治・経済・文化などの主体と考える者で、自民族が「価値観の至上」とする思想の持ち主のこと。「民族自決の主張をともなうこともあるが、一方で分離主義など、戦争・紛争の要因ともなる」のである。(前に書いた日記をコピーしてしまった)

日本国は、中国・北朝鮮・ロシアを敵国視し、韓国人差別を又持ち出し、アメリカ・フランスの有力紙が揃って麻生首相の外交政策を批判しているのに「何を言うか!」と反発し、国連の意見・勧告を無視している。

日本国が国際社会から孤立してしまう日は近づいて来ている。これは戦前の日本と同じ状況になって来た、ということだ。 いつか来た“戦争への道”をまた歩んでいる。…余談終わり

また、重要な田母神氏が次回になってしまった。
実は、今日、その田母神氏から書き始めたのだが「投稿」を押した途端、ブログに入る初期画面になって(パスワード入力画面が出て)一生懸命書いた日記が消えてしまった。(これで何回目だろう。GOOブログさんに改善を要望)
しばらく茫然自失状態、時間をおいて書き始めたら、こんな日記になってしまった。

私の日記は、何とか「戦争は必然」と考えている人に、誰だかが言っていた「今までに『正しい戦争』などというものがあったためしはない」ということを分かってもらいたくて同じ事を手を変え品を変えて書いている。

分かっている人には毎日同じ様なことを書いている、と思われるだろうが、今後とも、このペースで書いていきたい。

次回に続きます。







軍靴の響きが聞こえる

2008年11月13日 | Weblog
戦前のニオイがそこらじゅうから湧き上がっている。ファッショのニオイが…。

この日記は11月12日から続けて読んでください。

私は簡単に言えば(極論すれば)「右翼」とは「昔に戻そうとする勢力」のことだと思っている。

◎蹟を以って人を観れば、即ち人を知るに足らず。

蹟を以って古(いにしえ)を師とせば、即ち以って古(いにしえ)を願うに足らず。

もう一つ、

◎過去ばかり見ている人に、未来はない。

何故、上の2つを載せたかと言うと、最近、昔(半世紀以上前に)右翼が使った「反社共」「反日教組」「反日」が蘇ってきて幅を効かせているからである。

(麻生首相の所信表明演説~就任に当たって)
わたくし麻生太郎、この度、国権の最高機関による指名、かしこくも、御名御璽をいただき、第九二代内閣総理大臣に就任いたしました。…(=略したことを表わす)
申し上げます。日本は、強くあらねばなりません。… 日本は、明るくなければなりません。幕末、我が国を訪れた外国人という外国人が…日本人とは、決して豊かでないにもかかわらず、実によく笑い、微笑む国民だったことを知っています。この性質は…蘇らせなくてはなりません。(引用終り)

M:江戸時代の生活基盤(経済体制・政治体制)と今のそれ(新自由主義体制)とは、全く異なっているのです。一国の首相が「昔は良かった」と単純に昔を蘇らせよう、昔に戻そう、とするのは思慮が足りません。「明るい日本」を作りたい、それはいいことです。でもちょっと待って下さい。
「おにぎりが食べたい」と餓死する日本人が出たり、福祉を切り捨て医療費負担を増やし、消費税だ暫定税率だと重税で国民を苦しめ、75歳を過ぎた老人から金を取ろうとしたり年金を横領したり、格差社会を作っておいて、「貧しくても(将来に不安を感じ、生活が出来なくなっても)笑っている国民」にしよう、と言っているわけです。今に国が行なうことになった教育によって「欲しがりません、勝つまでは」「贅沢は敵だ」の精神を植えつけられます。

M:昔は良かった、と私が言う分には何の問題も有りません。一国の「権力のトップ」にいる人が発言するから問題なのです。

話はまとまりなくなりますが(前後しますが)、うまい汁を吸っている、つまり既得権益を握っている独裁者(独裁政党)や権力者(内閣)や官僚主義者(高級官僚・一部財界人)は、戦後導入された「憲法」「教育基本法」と、その立憲民主主義の考え方を実践する「日教組」「労働組合」「社会党・共産党といった野党」「新聞等のマスコミ」「デモ行進」「抗議集会」「反戦平和講演会」等を忌み嫌った。既得権益に安住している人々にとっては、これら国民主権といった民主的な考えを持った組織や行動は「目の上のタンコブ」的存在だったのである。

前置きはこのくらいにして、前回書いた「立憲民主主義」が壊滅状態となり、戦前の軍国主義・全体主義・独裁国家が復活しつつある日本の現状について書いていく。「■」で区切り。

前回書いた原理・原則からみると、如何に今の報道の仕方が“政府・マスメディアの情報操作・世論操作”であるかが分かります。

以下、前回の“立憲民主主義の基本”と比較しながら読んで下さい。

■立憲民主主義を守らないで、ぶち壊そうとしている人たち

麻生総理大臣

▼麻生首相は国連で「日本は今後ともテロとの戦いに積極的に参画していく」と演説し、その記者会見で違憲判断されている集団的自衛権の解釈を変えて集団的自衛権を行使できるようにする考えを表明した。
麻生首相は帰国後「集団的自衛権の解釈見直し」を指示したが、自民党憲法審議会の中山会長から「集団的自衛権の行使は憲法違反である」とされてきた経緯が報告されると「(憲法審議会を)早く動かして憲法改正を議論しろ」と指示した。

世論調査の結果を見ていると、多くの日本国民が騙されているようなので、念のために言っておくが「テロとの戦い」は9・11のアメリカ同時多発テロの時にブッシュ大統領が「これは戦争である」と言ったように、「テロとの戦い」と書いてあったら「戦争」と言葉を置き換えて読むようにすること。そして集団的自衛権は他国の戦争に一緒になって参加出来ること。(同盟国とか親交国とかで誤魔化されないように)

アメリカのイラク戦争を「テロとの戦い」とみている国は世界のどこにも無い。

だから、麻生首相の上記言動を言葉を変えて言うと、
「日本は戦争に積極的に参加していく。その為に軍隊を海外派兵出来る様に憲法解釈を見直したい」と国連(記者会見含む)で発言し、帰国して「海外派兵は憲法違反」と言われると「早く憲法を改正して戦争に参加できるようにしろ」と指示した。
ということである。

前回の“立憲民主主義”の精神を読み返して欲しい。

「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないように」として制定された憲法にもろに違反している。
「この憲法に定められていることは、人類普遍の原理であり、われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する」と政府(権力)に釘を刺しているにも拘わらず、である。

一国の総理自らが、憲法遵守擁護義務に違反している---憲法第99条:…国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負う。

中山(当時)国土交通相

▼9月25日 報道各社とのインタビューで「大分県教委の“ていたらく”なんて日教組(が原因)。日教組の子供なんて成績が悪くても先生になる。だから大分県の学力は低いんだよ」と日教組を批判。

▼9月27日 地元・宮崎での会合で「日教組は何とか解体しなきゃいかん。小泉さん流に言えば、日教組をぶっ壊せ」「日本の教育の『がん』である日教組をぶっ壊すために、私が火の玉になる

中山大臣の発言?別に問題ないじゃん?…こんな考えの愚民が増えることがファシズム国家の兆候として捉えられる。

私が「日教組を潰す」と発言する分には何の問題も無い。一庶民だから憲法で保障されている「表現の自由」だ。
権力を行使する側にいる国家公務員が憲法で謳っている「結社の自由」を否定する発言をすることが大問題なのである。憲法遵守擁護義務(同99条)違反である。

余談だが、今の日本の秩序の乱れ(公徳心の無さ等)は決して「日教組の自虐史観教育」によるものではない。(詳しくは前の私の日記から検索してください)
数年前のアンケートで(日教組の教育で育った)国民の90%以上が日本に生まれて良かったと考え、80%以上の人が自分は愛国心を持っているとしているのだ。
それなのに何故、誰の為に愛国心教育が必要なのか?

私は日教組の教育で育ったが、その教育を「ひどいな」と感じたことは一度も無い。50年前から政府の拘束(教育指導要領の法規化)の元に教育されたせいかも知れないが、別にレーニン主義・共産主義の洗脳教育をされたわけでもない。

日教組について私は批判も弁護もする気はないが、ただ、気になるのは、戦後「日本教職員組合」が「教え子を再び戦地に送るな!」をスローガンに結成された団体、ということであり、それを権力を行使する側の人間が憲法に違反(結社の自由に違反)して「ぶっ潰す」と言っていることである。

橋下大阪府知事

▼「くそ教育委員」などと暴言をはいている大阪府の橋下徹知事と府教育委員らが教育行政について一般参加者と意見を交わす「大阪の教育を考える府民討論会」が10月26日、堺市の府立大学で開かれた。

橋下徹知事の暴言(?)に対し訪れた教職員の一部からヤジが再三飛んで、興奮した知事が「こういう教員が現場で暴れている」「(日教組批判などで国土交通相を辞任した)中山成彬前大臣の発言はまさに正しい。これが教育現場の本質」と発言。

私が言う分には何の問題も無いが、橋下知事は権力者側である。公の人間が「日教組をぶっ潰す」(結社の自由を否定)を容認するのは憲法違反であり、大問題の発言であるのに、マスメディアは橋下発言支持である。

みのもんた氏:(橋下知事の“くそ教育委員”等の発言に対し)「自信のあらわれですね」「橋下さんのような知事が増えてほしいですよね」「大阪というところは、前の知事もそうだがユニークな人が選ばれますね」

とんでもない事である。権力者が問題は有るにしろ“平和を唱える団体”を潰せと発言していることを、容認するマスメディア。
次の田母神幕僚長の発言や論文と合わせて、国民は背筋が寒くならなければ嘘である。

(他のブログ引用)
日教組を好きか嫌いか、といった個人的感覚は問題ではありません。
問題なのは、国会議員が「労働法」にも「憲法」にも認められている組合をつぶす事を「政策」として発言するなど、許されない行為という事です。…引用終り

田母神発言・論文についての私の考えを主体に書こうと思ったのですが、その肝心のところを書くところで、老人の思考能力が萎えてしまった。

このまま、次回に続くので、次回投稿と一緒に読んで下さい。取り敢えず投稿!







批判する前に書いておきたい事

2008年11月12日 | Weblog
どんどん書きかけの日記(下書き)がたまっていく。

現在の日本国は立憲民主主義社会体制をとっていることは日本人誰しもが否定しないだろう。(この制度自体を否定するしないは別として…)

ところが、この立憲民主主義が政治家・官僚・財界・マスメディアの手によって葬り去られようとしている。
その現状を日本国民に判ってもらおうと思って書き出すと、老人の私の頭の回転では到底追いつかないほど、毎日毎日新しい“立憲民主主義を崩壊させる出来事”が起こってくる。

それほど“偽”“嘘”ばかりの現状社会になってしまっている。

以下、「■」で話を分けて、なるべく簡単にまとめてみたい。説明が足りないため「何で?」と思う人は私の前の日記を漁って答えを捜して下さい。

■先ず、立憲民主主義について(多数のブログから盗用)

※立憲主義(Constitutionalism)とは、権力の行使を憲法に基づかせよう、という考え方。
立憲主義は,憲法によって国家権力に歯止めをかけて人権を保障すること。
要するに、多数者によって民主的に選ばれた政府(権力の行使者)でも間違いを犯す事があるので、国会で作られた法律が間違っていないかどうか、国民の自由や人権を侵す危険がないか、は、憲法に照らし合わせて考えてやって行こう、というもの。

立憲主義は,歴史が積み上げてきた成果の到達点です。

   王様でも間違う
   英雄や大統領でも間違う
   民主的に選んだリーダーでも間違う

という過去の失敗例の反省から,生まれたのが立憲主義です。

※民主主義について(60年前の文部省作成教科書より)
民主主義とは一体何だろう。多くの人々は、民主主義というのは政治のやり方であって、自分たちを代表して政治を進める人を皆んなで選挙することだと答えるであろう。…しかし、民王主義を単なる政治のやり方だと思うのは、間違いである。

民主主義の根本は、もっと深いところにある。
それは、皆んなの心の中にある。
「全ての人間を個人として、尊厳な価値を持つものとして、取り扱おうとする心」、それが民主主義の根本精神である。
皆んなの努力でお互の幸福と繁栄とをもたらすようにするのが、政治の最高の目標である。
それが民主主義である。そうして、それ以外に民主主義はない。
従って、民主主義は、きわめて幅の広い奥行きの深いものであり、人生のあらゆる方面で実現されて行かなければならないものである。
民主主義は、家庭の中にもあるし、村や町にもある。それは、政治の原理であると同時に、経済の原理であり、教育の精神であり、社会の全般に行きわたって行くべき人間の共同生活の根本のあり方である。

(参考まで)…文部省教科書をアドリブで借用
専制政治には国王がある。権門政治には門閥(党・血縁・地縁・派閥)がある。金権政治には財閥がある。
そういう人々(支配者層)にとって一般の者は、ただ服従させておきさえすればよい動物にすぎない。あるいは上に立っている連中(支配者層)の生活を、華やかな、愉快なものにするための道具にすぎない。
独裁者たちは、かれらの貪欲な傲慢な動機を露骨に示さないで、それを「道徳・公徳心・公共心」だの「国家の名誉・国益・公益」だの「民族の繁栄・強い国家」だのという“よそ行きの着物”で飾るほうが、支配するのに一層都合が良いし、効果も上がる、と知った。
戦前は帝国の光栄を守る(今では美しい日本・強い日本・明るい日本)という様な美名のもとに、人々は服従し馬車うまのように働き、一命を投げ出して戦った。
しかし、それは一体何のためだったろう。彼らは、独裁者たちの野望に操られているとは知らないで、そうすることが義務だと考え、そうして死んでいったのである。
その戦争は最も悲惨な敗北に終り、国民の全てが独裁政治によってもたらされた塗炭の苦しみを骨身にしみて味わった。
これからの日本では、そういうことは二度と再び起こらないと思うかも知れない。
しかし、そう言って安心していることはできない。
独裁主義は民主化されたはずの今後の日本にも、いつ、どこから忍びこんで来るかわからないのである。
独裁政治を利用しようとする者は、今度はまたやり方を変えてもっと上手になるだろう。
今度は、だれもが反対できない「民主主義・国際貢献・国益」という一番美しい名前を借りて「こうするのが皆んなの為だ」と言って人々を操ろうとするだろう。弁舌でおだてたり・金力で誘惑したり(補助金等の飴とムチ)、世の中をわざと混乱に陥れ(今では“世界的経済危機”)、その混乱に乗じて上手に宣伝したり、手を変え品を変え、自分たちの野望をなんとか物にしようとする者が出て来ないとは限らない。
そういう野望を打ち破るにはどうしたらいいであろうか。
それを打ち破る方法は、ただ一つある。それは国民のみんなが政治的に賢明になることである。
人に言われてその通りに動くのではなく、自分の判断で、正しいものと正しくないものとをかみ分けることができるようになることである。
民主主義は「国民のための政治」であるが、何が「国民のための政治」であるかを自分で判断できないようでは民主国家の国民とはいわれない。(60年前の文部省作成教科書よりアドリブ転用終わり…何回も載せているが、今の日本にピッタリの表現とは思いませんか?)

(更に参考までに引用続行)
多数決原理に対する疑問

民主政治は「多数決主義」と「選良主義」との長所を取って、それを組み合わせたような具合になっている。
…しかし、それにしても、民主政治を運用して行く根本の仕方が多数決であることには変わりはない。
昔、地動説を正しいと信じたのは、ほんの少数の人々に過ぎなかった。
それと同じように政治上の判断の場合にも、少数の人々の進んだ意見の方が、大勢が信じて疑わないことよりも正しい場合が少なくない。
それなのに、なんでも多数の力で押し通し正しい少数の意見には耳もかさないというふうになれば、それは正に「多数党の横暴」である。
民主主義は、この弊害を何とかして防いで行かなければならない。
多数決という方法は、用い方によっては、多数党の横暴という弊を招くばかりでなく、民主主義そのものの根底を破壊するような結果に陥ることがある。
なぜならば、多数の力さえ獲得すればどんなことでもできるということになると、多数の勢いに乗じて一つの政治方針だけを絶対に正しいものにたてまつり上げ、いっさいの反対や批判を封じ去って、一挙に独裁政治体制を作り上げてしまうことができるからである。

多数決の方法に伴なうかような弊害を防ぐためには、何よりもまず「言論の自由」を重んじなければならない。(M:「集会の自由」「表現の自由」「結社の自由」等も同様である。)

「言論の自由」こそは、民主主義をあらゆる独裁主義の野望から守る盾であり、安全弁である。したがって、ある一つの政党がどんなに国会の多数を占めることになっても、反対の少数意見の発言を封ずるということは許されない。幾つかの政党が並び存して、互に批判し合い、議論をたたかわせ合うというところに、民主主義の進歩がある。それを、「挙国一致」とか「一国一党」とかいうようなことを言って(今で言えば、ねじれ国会・何でも反対党・政局より政策・責任政党云々)、反対党の言論を禁じてしまえば、政治の進歩もまた止まってしまうのである。
だから、民主主義は多数決を重んずるが、いかなる多数の力をもってしても、言論の自由を奪うということは絶対に許さるべきでない。何事も多数決によるのが民主主義ではあるが、どんな多数といえども、民主主義そのものを否定するような決定をする資格はない。(今で言う再可決・強行採決)…以上、教科書引用終り

相変わらず「参考」と言った横道に逸れた書き方になってしまったが、本筋に戻す。

※民主主義の基本原理=権力悪の思想=「権力は集中したり、長期化すると腐敗する」

アメリカの大統領選をみても分かるように、世界の民主主義国家は、上記「民主主義の基本原則」を理解し、任期制限があり政権交代も行なわれています。日本の現状の諸問題は、上記基本原則が正しかったことを証明しています。

※官僚制について

近代官僚制のもつ合理的機能については、マックス・ウェーバー(英語読みですが私にはこちらの方がシックリきます)によって解析されていますが、その後、近代官僚制の機能障害・逆機能についてロバート・K・マートンが、
近代官僚制のマイナス面についてはシリル・N・パーキンソンが、それぞれ次の様に指摘しています。

◎有名なマートンによる官僚制の逆機能についての指摘

1.規則万能…例「規則に無いから出来ない」

2.責任回避

3.秘密主義

4.画一的傾向…例「役所窓口の冷淡な対応」「公営バスの運転手の横柄な態度」

5.権威主義的傾向・自己保身

6.繁文縟礼(はんぶんじょくれい)…例、指示文書だけでも数十枚に渡り保管整理に時間を費やしてしまう

7.セクショナリズム…例「縦割り政治」「部署外だから関係ない(民間企業でも見られる)」

これらは、一般に官僚主義と呼ばれているものである。
例えば、先例がないからという理由で新しいことを回避しようとしたり、規則に示されていないから、上司に聞かなければわからないといったようなものから、書類を作り、保存すること自体が仕事と化してしまい、その書類が本当に必要であるかどうかは考慮されない(繁文縟礼)、自分たちの業務・専門以外のことやろうとせず、自分たちの領域に別の部署のものが関わってくるとそれを排除しようとする(セクショナリズム)、というような傾向を指し示している。

◎パーキンソンの法則

1.肥大化の法則

これは、実際にこなさなければならない仕事量に関係なく、官僚の数はどんどん増え続けていくというもので、官僚組織の肥大化の特質を示している。

2.凡俗の法則

もちろん官僚が増えれば、その分仕事が無ければならないが、それは「実際に必要ではない仕事」を創造することでまかなわれる。
つまり、無駄な仕事ばかりが増えていくということである。

◎いまでは官僚制の特徴について、下記のような指摘もされている。

官僚主義の形態

責任を絶対に取らないことが基本命題であるとされる。
また、既得権益は死守すべきものとされ、予算を100%消化してより高額の予算を獲得することが至上命題である。

上記の例として、私の日記で再三取り上げている、民間企業から官庁に入り経験したことを内部告発している若林氏の著をもう一度載せておく。(もう何回も見た人は「再掲終わり」まで飛ばして下さい)

筆者は、厚生労働省関係に勤め、その内3年間経理課で働いたが、その時の経験を「一言でいって、“湯水のような”公金浪費の毎日だった」と回顧している。 ◎公金=我々の税金

例1:「労働経済白書」を毎年刷るが、増刷の要不要に関わらず、毎年3月になると、予算消化の為、版が余っていて増刷不要でも増刷し、刷り上るとそのまま廃棄業者にお金を払って捨ててもらっている。

例2:経理課のパソコンと銀行のパソコンを繋ぐ事になった。
契約しているシステム管理のA法人に相談すると、4000万円位かかる、といわれた。
筆者は、いくらなんでも高過ぎると思い、別のシステム会社に相談すると、「市販の4万円弱のソフトを買うだけでいい」ということだった。
課長に言うと「でもA法人に頼まないわけにいかないでしょ?」と、4000万円で契約しようとした。
A法人は、元大蔵事務次官で当時衆議院議員だったA氏が理事長を務める財団法人で、財務省や各省の元事務次官たちが理事として天下っている。
筆者は、結局、A法人に市販のソフトの“インストール”を頼み、440万円を支払った。(M:私程度のパソコンの知識のある人だったら誰でも4万円弱のソフト代だけで導入できたはず)

例3:筆者はその部署に割り当てられていた年間予算60億円のうち、2億円を節約して国に返した。
褒められると思っていたら、逆に厚生労働省から「きつく叱られた」!!
「せっかく予算をとってやったのに、使い切らずに返すとは何事か!これでは来年の予算が削られてしまうではないか!」

例4:例3の翌年、経理課長は全職員にわざわざ“経理通達”を出した。
「今年は必ず、予算を使い切ってください。決められた予算通りでなくても、言い訳が出来るなら目的外使用でもかまいません」(M:名目をこじつけてでも予算[国民の税金]を使い果たせ!)
だから、年度末の3月になると、職員は予算消化に血眼になる。

例5:年度末には、庶務課員が「旅費が余っているから出張は無いか?」と聞いて回り、皆んなが“必要の無い出張”に出かける。
私(筆者)は、部長から「お母さんと旅行にでも行ってきなさい」といわれて現金10万円を渡され、本当に母と二人で九州旅行にいった。
「視察」と称して同僚とアメリカにいった年もあった。一人100万円を使って、観光・グルメ・ショッピングをした。

例6:何かと派手な、コネで入ったキャリア官僚の娘は、部長のお供で出張したとき、ナイヤガラの滝やヨセミテなど、アメリカ横断の国立公園めぐりをしている。

これは、私の職場だけのことではない。どこの省庁でも同じである。…再掲終わり

M:若林氏は各省庁の合計支出が毎月3兆円程度なのに期末の3月に、そのひと月だけで18兆円と跳ね上がる実績に対し、上記の指摘したムダ使いの他に、不急不要の官庁宿舎の建替え(高級マンション化)等の大きな無駄使いを指摘している。

(余談)…また余談を書きたくなってしまった。
“老朽化”を理由にした官公舎の建替え・改築等は、それが例え不急不要であっても、会計監査院の調査で“不要な支出”と指摘し難い大きなムダ使いだが、最近行なわれた会計監査院の監査では監査した全省庁で不正が見つかっている。
この裏金等の不正発覚が過去最高になった理由は、政権が交代した場合の事を考えて、会計監査院がその責任(怠慢)を問われることが無いように行動したことによる。
つまり、今まで権限があるにも拘わらず調査していなかった省庁との取引業者も調査した結果である。
裏金作りは取引業者が一枚絡んでおり、被調査省庁だけの帳簿監査では発見出来ない仕組みとなっている。
三笠フーズ事故米事件の報道番組で、内部告発で農水省関係者が1年で96回も立ち入り調査したにも拘わらず分からなかった事に関して、「三笠フーズの偽装帳簿に書いてある取引先に電話1本かければ分かることを何故やらなかったのか? それをしないで何故1週間前に事前連絡するという無駄な立ち入り調査を96回も行ったのか?」と追求していたが、正にその通りだと思う。我々中小企業のところには、税務署が「取引先の税務」に関し追跡調査で調べに来るケースが多くある。何故、省庁関係取引先でそれを行なっていなかったのか。…余談終わり

毎回、書こうとする事柄の前置きを書いていて、そこで終わってしまう。

次回からは、今日書いた原則(ものの見方・考え方のもと)を頭において、私の書いていることが上記のどれに相当するのか、を見比べながら読んで欲しい。

今日は、ここまで…またね。