無風老人の日記

価値観が多様化し、自分の価値判断を見失った人たちへ
正しい判断や行動をするための「ものの見方・考え方」を身につけよう。

基本にもどれ!…その2

2012年05月23日 | Weblog
ここを読まれる方は、前回の日記から続けて読んで下さい。


今日は、ものの見方・考え方の根っ子の部分を把握しておかないと、あなたも私もこの世でこの社会で生きて行けなくなる、というお話。

頭の中を真っ新にして読んでほしい。

あなたも私も今ここにこうして存在しているという理由を説明出来ない。
何故、今現在であって武士道精神の江戸時代といった過去ではないのか?何故ドラえもんの時代(22世紀)といった未来ではないのか?
なぜ、アメリカやチベットではなく日本に生まれたのか?
なぜ、お金持ちの家ではなく貧乏な家に生まれたのか?

あなたは、これらの疑問に答えることが出来ない。

そう、あなたは「あの日とうちゃんが酒さえ飲んで帰って来なかったら…」といった感じで理不尽(笑)にも、この世に産み落とされてしまったのだ。

ようこそ不条理の世界へ!

ひとは上の様な“なぜ?”を考えても詮無きことだから、もう考えまいとする。

ところが人間は“考える葦”だから、上の様な“なぜ?”は「もう考えまい」と考えてしまう。
もう考えまいと考える、と考える、と考える…。エンドレスだ。
ひとは考えるべく呪われている。

※ひとは“死”…“無知”を癒すことが出来なかったので、自分を“幸せ”にするために、それらをあえて考えないように工夫した。(パスカル)

こういった基本的な事をおさえておかないと「いろんな考え方があってもいい」とする煙幕に騙されてテレビ・大新聞・週刊誌の手により洗脳されてしまうのです。

(息子)「生んでくれ、と頼んだ覚えは無い!」
(親) 「お前が生まれるんだったら、こっちも考えたさ」
    又は
(親) 「お前のようなのが生まれてくると分かってたら、頼まれても産みはしなかった」

といった不毛の(笑)言い争いが生じることになるのだが、この部分を考えていくと「夜も眠れなくなる」(春日三球・照代さん)ので、ここは省いて、その先の基本的なものの見方・考え方を話して行くことにする。

それは、人は一人では生きられない、ということ。

人は生まれてからズット親に、世間にお世話になって生きてこれたし、今後も社会との絡みで生きていかなければならない。

もっと具体的に言えば、私達誰もが衣食住を自分一人でまかなって生きているのではないのだから、お互いに社会で役割を分担し共同生活をしていくルールを作って安全・安心な社会生活を営もうとしているのだ。

「人生は妥協である」などと偉そうに言わなくても、人は自分の欲求・欲望のかなりの部分を抑制し躾けられて大人として社会の中で生きている現実がある。
人々は誰でももっている生存本能からお互いに社会で生き延びていくためのルールを作り共同生活(社会生活)を営んでいる。
「社会のルールの中で生活をしている」の一番分かりやすい例が交換貨幣(お金)だろう。皆さん納得されると思う。

こういった具体的なものでなくても社会生活の中には暗黙の自然律(ルール)がある。
そこで前にも書いた私の親から何回も言われた言葉が登場する。

※ひとからされたら嫌だと思う事をひとにするな。

これが、社会生活の基本である。

ここから、

※「わが身をつねってひとの痛さを知れ」(北条氏直)

※「人の身になって考えろ」

※「人の振り見て我が振り直せ」

※「弱いものイジメをするな」

といった躾(教育)がなされる。


もう一度言う、社会で生きていくための必須必要条件は、

※ひとからされたら嫌だと思う事をひとにするな。

である。

ひとは誰にでも生存本能があり、生きたい!と思い安全に暮らしていける社会生活を願う。

だから「他人(ひと)からされたら嫌」な事の最たるものである「殺される」ことを防ぐために、どの社会でもひとを殺す事を真っ先に禁じてきた。
「なんじ殺すなかれ」(モーゼの十戒)や仏教の「生きとし生けるもの全てに対する無益な殺生の禁止」等々…、また中国大漢帝国の始祖、劉邦は秦の始皇帝時代の複雑な法律=人民を雁字搦めにしている法律を3つに簡素化して人民の喝采を浴びたがその最初の1つが「人を殺した者は死刑」(劉邦の三法)であった。

これは、ひとが社会で生きていくための基本、即ち自然律であり法律にする以前の不文律である。

ここから考えないと、「何故、人を殺したらいけないの?」と考える子供やそれを「むずかしい事を考える子供」と捉える大人が発生、そして今の日本の子供達や大人達の様に分けが分からなくなり大マスコミの洗脳により間違った考えにとりつかれることになる。これは恐ろしいことなのだが、今のマスコミによって傍観者として観客席に座らされている日本国民はそのことに気が付いていない。
テレビ・大新聞は「あなた自身に拘わる重大事ですよ」といった本来のジャナリストとしての使命を担った報道の仕方をしない。

「ひとを殺してもいい社会」を理解してもらうために俗っぽい卑近な例を挙げる。(この例も「ひと殺しOKの社会では有り得ないのだが…、今の社会に住む子供や大人でも分かるような例とした。)
あなたは一生懸命働いて巨万の富を築き愛する女房・子供と幸せに暮らしていたのですが、武装集団に襲われ妻子を殺され自分も殺され、当然全財産も奪われてしまいました。
自分も死んでしまったのだから後のことは如何でもいいことなのだろうが、人を殺していい社会では、その後人々から「あいつら(あなたを殺した奴ら)、うまくやったな」と思われ、殺されたあなたは「危機管理がなってない」「あんなに溜め込みやがって! いい気味だ、ざまあみろ!」と罵られるのだ。

この例は「人殺しOK」の社会では有り得ない話だ。あなたはその前に自分の親に自分のおやつを欲しがる兄姉に、雇ったガードマンに殺されてしまうだろう。
お金を持っているあなたは、外にも出られない、誰も信用出来ない…。5歳の男の子が3歳の自分の妹を妹の持っているお菓子が欲しいので、殺して取り上げる事が当たり前の社会、あなたはこんな社会に住みたいと思っているのか? もっともあなたは「人を殺してもいい」社会で生きようと思う思考能力がつく年齢までも生き残れないだろう。

こんな基本的な当たり前の「ものの見方」を書かなければならない今の日本国(国民の風潮)は「悲しい」の一言だ。

こんな日本の風潮を作り出したのも今、日本で行われている「国が行う教育」の成果であり、マスコミのプロパガンダの成果である。


今日は、教育について話していく。

少々学術的になるが「教育心理学」の学者の間でも教育については2つの正反対の見解がある。

親の厳格主義(強制的な教育)を主張する学者達(ピアソンやリス)は子供が社会に順応して行く過程として躾(強制教育)を注視し「もし子供たちが余りに自由に許されていると彼らは欲求・欲望の赴くままに行動してしまうだろう」と言っている。

逆に自由放任主義教育を説く学者達(クリスティやトンプソン)は研究の結果として、幼児期の過度の抑制・親の強制により幼児にretardation(退行・遅行)が見られた、と言っている。

グリーンエーカーのような精神分析学者たちは「親の抑制(強制)によって起こる子供のフラストレーションは子供の知能を阻害する」と論じている。

どちらも正しいのだと私は思う。

この後にでてきた学者は、折衷案として(笑)厳格主義の拘束的親にも二種類あるのだ、と指摘する。

一方は、子供の行動に明らかな制限を加えているが、同時に社会適応に好ましい行動に従事するように子供を元気づける厳格主義の親。

他方、完全に「何が何でも親の言うことを聞け!」と強制する親。
この妥協“二種類”学者も、こういった拘束的親の子供は何らかの新しい行動につくことを恐れるようになる、と言っている。


-----以上、昔の講義受講メモから引用

確かに子供達が大人になって社会生活を営んでいく為には親の干渉(教育・しつけ)が必要だ。
「あれ買って、これ買って」「あれが欲しい、これが欲しい」「あれがしたい、これがしたい」と言う子供に「ダメ!」と一回も言わない親は皆無だろう。
子供の生まれながらの本能(性欲・食欲etc.)を親は抑制しながら子育てをしているのだ。

企業の指導者向けのハウツーものでも、部下を指導し育てる一番良い方法は「叱る70%、ほめる30%」の割合だといっている。

しかし、現在の親はどうだろう?

父母その子を養いて教えざるは、これその子を愛せざるなり(古文真宝)

「我が子を育てるだけで教育しない(躾をしない)のは、その子を本当に愛しているとは言えない」の意で、同書は更に“厳しく躾けるべきだ”と続いている。

前にも書いたが、ラジオの子供相談室の先生が年末の総括で「子供相談をしてくる親に問題があるケースが多い」として「今の親は子供を“皮製高級ブランドのバッグ”と同じ様に可愛がっている。少しでも雨にあてたらイケナイ、汚れたらイケナイ、と…。(過保護)」と言っていた。この可愛がり方は逆に赤ちゃんが泣き止まない、自分の思い通りにならない=可愛くない、といった幼児虐待にも通じる感情だ。

最近の教育者も大変だ。子供の間違った行ないを見るに見かねて頭をゴツンとやれば父兄(PTA)が怒鳴り込んできて「親でも手を挙げたことが無いのに」とその教師は“暴力教師”のレッテルを貼られ教壇から追われてしまう。だからといって担任教師が親に「あなたのお子さんはイジメをしていて問題がありますよ。よく叱って下さい。」とでも言えば、うちの子に限って理由も無くイジメをするはずがない、いじめられる側にも問題があるはずなのになどと考え、PTA等で「今度の担任の先生はハズレだ」(良い先生にあたらなかった)と言いふらす。 
先生も受難の時代だ。


教育についての話の結論から言っておく。

次期総理候補の最有力者(マスコミ記事より)・橋下大阪市長が「教育は2万%強制だ」といっている。
今まで書いてきたようにこの橋下氏の考えは完全に間違っている。
このような考え方を持つ人間を権力のトップに祀り上げようとしている国民はバカ!としか言いようがない。マスコミの巧みな誘導があったにせよ、本来国民はこの橋下氏のやっていることにゾッと背筋の寒くなる感覚をもたなければならないのだ。


話を元に戻そう。(もう何回も書いているが皆に理解してもらうためには、やはりここから話さないと)

太平洋戦争が終わり、「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起きることのないように」(日本国憲法前文)と憲法がつくられ、「その実現の為には教育の力にまつべきである」として、戦前の政府が行なってきた軍国主義・皇国史観教育と袂を分かつために「教育は(政府・国家による)不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきものである。」とうたった教育基本法がつくられた。

「国が国民を教育する」と改正されて国民教練法となった教育基本法は、元来、戦前の軍国主義教育(忠君愛国)といった国の教育支配に釘を刺す為に制定されたものだ。

そして、戦前教育を行った竹本源治先生はその反省のもと、次の句を碑に刻んだ。


【戦死せる教え児よ】 

逝いて還らぬ教え児よ 私の手は血まみれだ! 

君を縊ったその綱の 端を私も持っていた 

しかも人の子の師の名において 

嗚呼!「お互いにだまされていた」の言訳が なんでできよう 

慙愧 悔恨懺悔を重ねても それがなんの償いになろう 

逝った君はもう還らない 

今ぞ私は汚濁の手をすすぎ 

涙をはらって君の墓標に誓う 

「繰り返さぬぞ絶対に!」




戦後教育は「教え子を再び戦場に送るな!」を合言葉に始まり、それをスローガンに悪名高き「日教組」が誕生した。

最近、50年たったら公文書を公開する規定のある民主主義国アメリカによって、ノーベル平和賞を受賞した日本の偉大な総理大臣・佐藤栄作氏が「私は、日本も核を持ち自前の軍隊を持つべきだと考えている。今は国民に核アレルギー・軍隊アレルギーがあり無理だが、私は教育によって可能だ(国民の考えを変えられる)と考えている」と発言した公文書が公開された。(あまりに一瞬の報道に一字一句詳しくは記憶していないが…)

確かに佐藤栄作氏の言う様に私も、国民をある一定の考えにしようとしたら「教育」が“遠いようで一番の近道”である、と考えている。

話を進めよう。

この佐藤栄作氏の考えを基に1961年(昭和36年)に国(文部省今の文科省)は「学習指導要領」に法的拘束力を持たせ、先生方を縛ることに成功した。(最初は公立高校から)

それから50年が経った。教育成果とも言えるブログを幾つか載せておく。

※当時のアメリカに(GHQに)押し付けられた憲法とはいえ、平和主義は素晴らしい考えだと思う。
それを守れという主張も正しい。
戦争をやっちゃいかんというのもまったくその通り。
でも現実を見れば、国家の体をなしている以上、軍というものが存在しているわけで、国際紛争の最終解決手段として戦争という手段がある。
日本は剣道の大会に竹刀も防具もつけずに出るようなものだ。

※隣国がなんと言おうと最低の核武装は必要と思います。
…中国や韓国その他の大東亜戦争の被害国といわれる国々も、あの戦争があったから独立が出来たわけで、そういう歴史的背景を(それらの国々は)考えず、中国の覇権主義に先導されて(それらの国々が)未だに「大東亜戦争の本質」を検証できない事が、一番の問題でしょうね。(日本もそうだが…)
日本人の多くは未だに…御目出度いぐらいの平和ボケ、非核三原則崇拝…一体いつまで…日本人と日本国は自虐的な平和思考を持ち続けていくのでしょうか?

(ある大学生のブログ)
「戦争はいけないと思うけど、学べば学ぶほど…」として下記ブログ
※誰もが戦争って反対と思うけど…(中略)…一応最初に断わっておくけど俺も勿論ながら戦争には反対なわけで…(でも)世界情勢って、そう単純なもんでない…(中略)…世の中がうまく回るには、この現状を維持していくために結構四苦八苦しなくちゃいけない。その手段の一つが、戦争。

(戦争反対を叫んでいる人たちの意見として)
「戦争は罪のない人たちを虐殺する、非人道的で許されることのできない行為だ!」

うん、そんなの皆わかってんじゃん。
でも戦争しないと世界はもっと混乱するんだよ、実は。
誰だって戦争なんてしたくないよ。
でも彼ら(9・11後のアメリカの事)も仕方なくやってるんだよ。
しかたなくね。
ある意味、先陣きって悪役を買ってでてるっていうようにも考えられない?(大学で9・11のことについて講義を受けた後の意見)
(中略)
日本だって戦争してなかったら生き残れなかった。…中略…
もう一回いうけど俺は絶対戦争反対。誰かもう有無を言わせないほどの戦争反対理論を生み出してくれ~。

こんなこと考えるにいたったのも、授業で9・11のことに関するものがあったからなんだけど、こうなると大学の授業も結構捨てたもんじゃないのかもね。

※戦争はいやだけど、日本がなくなってしまうのも…

以上、国の教育とマスコミの国民マインドコントロールの成果を連記した。


つぎに今の「二度と子供たちを戦場に送るな」として始まった戦後教育が現在どうなっているか、増田都子先生の例をとって話して行きたい。

免職処分になった増田都子が教師不適格とされた理由。

扶桑社『つくる会』の教科書及び東京都議会議員・古賀俊昭氏の「太平洋戦争は侵略戦争ではなく、自衛の戦争、アジア解放の戦争」という主張を『歴史偽造』と「判断能力のない中学児童に対し強い影響力・支配力を有する教師(増田先生)」が教えることは、客観的に見れば「あの戦争は侵略戦争であった」という特定の歴史観のみが正しく、それと異なる「あの戦争は自衛の戦争、アジア解放の戦争」という歴史認識は間違いであるとしてA都議及びB社教科書を一方的に非難するものであって『誹謗』と評価できる。


教育委員会のこの理由により増田先生は教師不適格者として「教職員研修センター」(トイレにまでついてこられ、何時何分に入って何時何分に出たといったことまでチェック記録され、思想の矯正が行われる、正に強制収容所)で「ころび」を強要されたが増田先生が信念を押し通したため、「反省の色がない」として免職処分となった。

あの(?)小泉首相でさえも日本国代表として国内外に「我が国はかって植民地支配と侵略によって多くの国々、とりわけアジア諸国に対し多くの損害と苦痛を与えた。こうした歴史の事実を謙虚に受け止め、改めて痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明する」と言っているのだ。どこが「特定の歴史観」なのか? 全世界中のどの国が「あの戦争は日本がアジア解放のために起こした戦争だ」と認めているのか?

つまり、今の教育現場では「戦争はいけないこと」だと平和を説く先生は「教師不適格」のレッテルを貼られ教壇から追放されているのだ。

増田先生のように生徒に戦争の悲惨さを見せて「戦争は絶対にしてはいけない、という考えが強まりました」という生徒の意見が出るような教育をしてはいけない、ということだ。
生徒に「国旗掲揚時は最敬礼」「国歌は起立して大きな声を出して歌うこと」と教える先生でなければ教師としてやっていけない。


大阪の府・市での橋下氏による「君が代起立条例」等々の教員・職員・組合員に対する権力による思想弾圧。恐ろしい世の中になってきた。

途中ではあるが、息が切れてきた。

きょうはここまで、またね。