無風老人の日記

価値観が多様化し、自分の価値判断を見失った人たちへ
正しい判断や行動をするための「ものの見方・考え方」を身につけよう。

対米隷属国日本

2007年09月28日 | Weblog
今日の言葉

◎簡単なことは難しく、難しいことは簡単に考えよう!

争いごとの発端・経緯・背景とかを読んでいると、どうすればこの主義・宗教・民族・体制等が複雑に絡まった争いごとが解決できるのだろうと悲嘆に暮れることがある。そんな時は「ものの見方・考え方」に戻って単純に考えるとスッキリと結論が見えてくる。

初めてこの日記を読まれる方は私の日記の最初に書いたテーマ1~6(8月10日~14日)は必ず目を通して下さい。

久しぶりに問題を出します。

質問2:あなたはA国の軍産コングロマリットの首領(ドン)とします。
あなたは今まで「赤の恐怖」(このままでは共産主義の侵略により世界は赤化されてしまう)から「冷戦」(敵対国)状態を作り、鉄のカーテンにより相手の軍事力が把握できない事をいいことに力の均衡理論・核の抑止力理論を振り回し、国の軍事予算を増額させて軍備を拡大して(=軍需産業で儲けて)来ました。*1
ところが、そのS連邦が崩壊してふたを開けたところ、あなたの国の軍事力が圧倒的に優位にあることが分かりました。当然あなたの国の国民から「そんなに軍事費に国民の税金は使う必要がないのでは」との意見が出て国の軍事予算は大幅に削減されてしまいました。

さて、ここで問題です。
あなたは、この危機を乗り切るためには下記のどのやり方が良いと思いますか?良い方策と思えるものに○をつけなさい。(複数回答可)

1.武器弾薬・ミサイル等の消費がない、従って生産する必要がないとして予算が削られるのだから、消費する状況をつくれば、軍備生産の予算が出る。どこかの国と戦争をする。*2

2.同じく「消費すれば」需要が出る理屈からN国等に核迎撃ミサイル・戦闘機等を売りつける。*3

3.同盟国に核ミサイルを配備する。*4

4.戦争費用を他国に出させる。特に隷属国からは戦費の1/4位出させる。*5

5.同じく自国の起こしたI戦争に対しN国よりタダで軍艦に給油させる。*6

6.冷戦終結により基地を移転するのに、その移転費用3兆円超をN国に出させる。*7

さて、解答が分からなかった人は、このあとの私の日記を見続けてください。
時々解答が出ています。




職場体験学習と防災訓練

2007年09月27日 | Weblog
今日の言葉

◎参加の国家的押付けは自由の絞殺(最終的には戦争)に通じる。

今日も政府広報機関NHKのニュースで「防災訓練」と子供たちの校外活動(体験学習)のニュースが流され、続いてテロ特措法が延長出来ないで大変だ(「懸念される」)との報道をしていた(その前は自民党総裁選一色でうんざりしていた)が、このところ学校教育の一環である校外授業(自然学習・職場体験学習)と地域の防災訓練の報道が毎日のように放映?されている。

先日、私が今、時給制で働いている工場に女子中学生(3年)が職場体験学習で2日間(国・地方は5日間を指導)、午前9時から午後3時まで「奉仕」に来ていた。
「おはよう」と声を掛けると返事は返ってきたが元気がない。おざなりである。それもそのはず、うちの工場では機械・器具を操作するのに熟練を要し、ラインの大型モーターが回転しクレーン・フォークリフトが走行しており、多少力のいる作業も入る仕事ばかりなので、生産に関わることはやらせられないし、体験させるとしたら、営繕がやっている工場周りの清掃くらいしかない。その掃除をやっている時に「おはよう」と声を掛けたための反応だったわけだ。自分の所属する体育部の部室の掃除とかグラウンドの整備とかをやっているのとはわけが違う。うちのような工場では「職場体験」学習は効果がない、むしろ昔の「社会見学」の方がよっぽどその女子中学生のためになる、生産現場を知る・社会を知ることになると思われる。
うちの工場では新人が入ると5日間は安全を中心にした教育が行なわれ、それから現場でOJTが開始される。それを2日間で職場体験しようと思っても無理なのである。従って無難な工場周りの掃除や現場の軽作業等させる訳だが、これはその女子中学生にとって「強制労働」にも等しく、私が最初に書いたように国が行なう「奉仕精神」強制教育である。自分たちが考えて積極的に参加する「奉仕」と国が行なうことになった教育の一環としての意に副わない「奉仕」とは全くの別物である。幼稚園やレストラン・コンビニ等の職場ならいざ知らず、工場での職場体験学習は強制労働であり「何でも言うことを聞く子供」つくり教育でしかない。

「職場体験学習」をネットで検索すると各学校毎位に一杯出ていて、感想文に「大変ためになった」といった優等生発言が載っている。

うちの工場に来た中学校の「目的」は下記のようになっており、ネットの目的と同じく高尚な謳い文句を掲げている。

職場体験学習の目的

(1)職場体験により、人間の働く姿をとらえ、社会生活や生き方についての考えを深め自分自身を見つめ直す機会とする。

(2)自分の将来にわたる生き方あり方についての考えを深める。

国が行なう義務教育の一環であるから生徒たちは従わざるを得ず、その模範解答は「今までの自分は甘かった(知らなかった)。大変ためになった。」である。

こうして、社会に出た「言うことを聞く」子供たちは、今度は「災害避難訓練」→「災害救助訓練」→「相互扶助訓練」=国防訓練→「非常時(軍事)訓練」を義務付けられ参加させられることになる。

ここで下記ブログを是非読んで下さい。

防空法制下の庶民生活http://www.asaho.com/jpn/sansei

このままでは「再現」されます。自民党の新憲法草案により憲法が改正されたら、完全復活です。

今、教育三法と国民保護法により、地域の自治体等に義務付けられている「計画を作り、訓練をする」奉仕と防災活動を新憲法により「国民は地域自治に参画」することが義務付けられ、「国民は地方自治体がやっている役務(防災訓練等の計画と訓練の実施)を平等に分任する(分担して任務に当る)」ことが義務付けられ、例え週に一度の訓練となっても参画しないわけにはいかなくなるのです。

今日は少ないけれど、又、書きかけを消してしまったので、ここまでとします。


あきれかえるマスコミの報道姿勢

2007年09月26日 | Weblog
老人のため、日記を毎日埋めるほど書く作業は早くないので、空いている日付に以前他のブログサイトに6月に書いた日記を載せて、継ぎ足しすることにした。

(6月の私の日記より)

最近のマスコミ報道、これは何なのだ!

最近続々と成立する法律の内容が国民に全然伝わってこない。教育基本法の改正内容しかり、国民投票法しかり、教育関連三法案しかりである。

「今日、憲法改正のための手続きを決めた国民投票法案が野党の反対する中(欠席する中)(混乱の中)可決されました」といったおざなりの表現で終わってしまう。

改正した内容や野党がどういった内容に反対しているのかのポイントも国民に伝わってこない。「野党は三つの戦術で阻止しようとしましたが、可決されました。その一つ『牛タン戦術』とは云々…」野党が阻止しようとして取った戦略とか、与野党の対立場面だけを報道し、肝心の法律の中身については全く報道しない。

このところのマスコミ報道は「ワイドショー」的で中身がない。
だから、国民投票法案が成立してもその中身を知らない国民が85.6%もいる結果となる。(前述)

世界報道の自由ランキング51番目の国となってしまった日本。

野党の言っていること(与党のやろうといていることへの反対理由)を報道するのは偏った報道であり、政府のやることに賛成し、キャンペーンを展開することが中立的立場の報道と考えているようだ。

何回もいうが、批判精神を忘れたら「マスコミ」は終わりだ。

マスコミによって洗脳された国民は、耳を塞がれ、目を塞がれてしまっていることに気がつかず、今、口も塞がれようとしているのにも抵抗しようとしない。

国民投票法については成立したときに海外有力紙がこぞって、

*「日本が軍事力強化に動く」

*「日本が平和主義的な憲法の改正への道を開く」→安部晋三は特に「日本は・・・戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」とした憲法第九条を改変することを望んでいる。」
*「日本の国会議員たちは、終戦時に採択された平和主義的な憲法の改正への道を開いた。」
*「『日本:翼に鉛を仕込んだ鳩』→日本はその軍事能力の通常化という新しい主義主張を通じて、国際舞台で態度を明確にする意思をはっきりと示した。日本は数年前から軍備競争を始めていた。これは、北朝鮮の原子力タービンや中期的な中国の国力上昇という、アジア太平洋地域での新しい戦略事象に対抗するためである。たとえば、日本は世界で上位4、5カ国に入る軍事予算(3兆4千億円以上)を使っている。これは、昨12月に、1945年以降で初めて防衛省が設立されたことからも裏付けられる。さらに悪いことに、最近、首相安倍晋三の…自民党が核武装の選択肢を検討することを提案しており、これは日出ずる国の絶対的タブーを破ることになった。」

アメリカ・フランス等の有力紙が日本の国会で国民投票法案が可決されたときにこれだけ記事にした。

それに対し、日本ではこの法律について85.6%の国民が「知らない」のである。(アンケート結果)

これでもあなたは目と耳を塞がれた状態と思わないのだろうか?

筑紫哲也の報道を左翼思想(だからダメ)と決め付け「もうマスコミに期待するのは無理ですね」との意見があったが、私は反対の意味でみんなに「もうマスコミの報道ニュースを見て洗脳されるのはやめよう。インターネットで本当のことを知ろう。」といいたい。…以上、昔の日記より

なぜ、昔の日記を取り出したかと言うと、今日のタイトルにしたようにマスコミの報道の仕方が昔の「正規の報道姿勢」と全く違ってしまったことを毎日、つくづく感じてしまうからだ。

新しい閣僚が決まり、「今国会の最大の争点は『テロ特措法』の延長問題です」と報道し新防衛大臣にそれを訊き「荒波に向かって全力を尽くす」といったコメントを流し、続いて「野党(小沢民主党)は、あくまでも反対の姿勢を固持し、解散総選挙にもっていく作戦のようです。与党はあらたな法案を作って中断をなるべく最小限に抑えたい意向です。」と報道。海外の「日本の国際貢献に期待」とか「日本の国際的信用がどうの」といった報道をして同法を延長しないと『国益』に関わるような言い回しをする。

昔であれば、このテロ特措法の適用範囲を超えてアメリカが国連の合意なしに始めたイラク戦争へ国民の税金を使った「給油(無料ガソリンスタンド)」活動をしていることを咎め、毎日のように政府を追求しているはずのマスメディアが『テロ特措法は国益にかなう』との権力者側についた報道の仕方をしている。

報道が全く国民の側に立っていないし、国民を無視している。 又、国民の目を山積している問題からそらせようとしている。自民党総裁選報道しかり、である。

テロ特措法延長問題が「最大の争点」だろうか?

*佐藤議員の「駆けつけて巻き込まれて戦争参加」「日本の法律で裁かれるのなら裁かれてやろう」との「法律を作る立場の人間が法律を無視する」発言は、マスメディアが絶対に放置(容認)してはいけないことで戦争への道に通じる。

*100兆円とも言われる消えた年金の問題で新たに出てきた盗み(99件は氷山の一角といわれている)犯罪の追求。

*政府・役所ぐるみと思われる「日本中大変なことになる」と言われた耐震偽造事件の徹底追求。→国民の命に係わる。

*政府の憲法違反行為。

*安倍氏の脱税疑惑。 

等々、マスメディアが追わなければならない(報道しなければならない)問題は一杯有るのに、国民全体には関係のない自民党総裁選(麻生と福田どちらがいいか)を全面報道して自民党の宣伝をしている。

こういった報道の仕方が国民に染み込んでしまっていて国民が「変だな?」と気が付かないとしたら、もう挙国一致・国体維持体制が進んでいて国民の耳には「大本営発表」しか聞こえてこない、ことになる。

「そんなに心配することは無いんじゃない?考えすぎだよ。」という人は、私のブログを読み返して下さい。特に憲法・教育基本法の改正ポイントについて。

もう下地(法律)は出来ているのです。あとは「憲法改正」だけ残っており、それで全体主義国家の完成です。

(日本国憲法 前文)

日本国民は、・われらとわれらの子孫のために、・政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないようにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。

そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものてあつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。

これは人類普遍の原理であり、この憲法はかかる原理に基くものである

◎われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。

また好きな短歌を再載します→「法作る人が権力握るなら、権力縛る法は消え行く」

裁判員制度は何のため…その2

2007年09月21日 | Weblog
今日の言葉

◎憎しみに激怒で立ち向かうなら 戦(たたか)いも争(あらそ)いも終わらない

許すことがすべての憤(いきどお)りと妬(ねた)みを終結し あなたを永遠の至福に導く
(仏教の教え)


今日は9月18日の日記「裁判員制度は何のため?」を完成させておく。但し年のせいで「うまく纏めた」はずの文章がもう頭から出てこなくなっている。消えた文章とはまったく別の文章である。

裁判員制度は何のため?http://blog.goo.ne.jp/r-mufu/d/20070918

上記の続きです。

今日報道の「光市母子殺害事件」の「犯罪被害者の裁判参加制度」による被害者の夫と母親の「死刑を求める心情陳述」と、最後の被告人が検察官にいった言葉、「(わたしを)ナメないでください。」によって、「反省の色がない、やはり死刑にしろ!」と思われた方も多いと思います。

これを、「裁判員制度」により、公判に参加させられた「法律に素人の裁判員」が加わって「感情的に」評決(法の裁き)をしたらと思うと怖くなります。

すでにこの事件では、橋下弁護士がテレビで下記発言、

・弁護士会の資格を奪うことは簡単
・一斉に弁護士会に対して懲戒請求をすればいいだけ
・懲戒請求は誰でも簡単に出来るので許せない弁護士がいればすればいい。

一般市民の方々が、この弁護団の弁護活動によって弁護士っていうものが信頼できなくなったと感じれば、懲戒請求をかけることは全く問題ありません。…橋下弁護士

この発言をきっかけに、ネット・サイト等で21人の弁護団の名前が公開され(表題は「光市母子殺害事件 鬼畜弁護士21人の名前が明らかに」)、「懲戒請求書のフォーマット(見本)・懲戒請求に必要な書類のテンプレート」がネット上で提供され、この事件を担当した弁護士団へその用紙を使った懲戒請求が数千通(3000~5000通)も出されるとともに、弁護士宅へカッターナイフの刃が届いたり殺人予告が届いたりするといった国民的ヒステリー現象となっています。

さて、もうあと2年もしないで実施される「裁判員制度」について。

9月18日の日記で書いたように、選挙人名簿からクジで選ばれた人(実感が沸く様に「あなた」と書きます)は、裁判所から呼び出され検察官・弁護人の審査?で「除外」されなかった場合、裁判員となります。あなたはよっぽどの理由がない限り辞退することは許されません。あなたは自分の仕事を投げ出して、公判に出席し、被告人が有罪か無罪かを判断します。あなたが有罪と考えた場合、あなたはその被告人にどれくらいの刑罰を科すか?を決めなければなりません。(多数決ですが…)裁判の内容は前にも書いたように・殺人・強盗致死傷・傷害致死・危険運転致死・現在建造物等放火・身の代金目的誘拐・保護責任者遺棄致死であり、いづれも被告人発言・犯罪被害者の心情陳述で「感情移入」されやすい事件の裁判です。

裁判にかかる時間については、「事件によって一概には言えません…多くは数日間で終わるのではないかと見込まれています。国民のみなさんの負担をできるだけ軽くするような運営に努めていきたいと思います。」(裁判員制度のパンフより)と言っていますが、ネットで調べると刑事訴訟事件の裁判審理日数平均は自白事件の場合=2.7ヶ月、否認事件の場合=8.9ヶ月となっており、あなたが出席しなければならない公判の平均回数は否認事件の場合7.0回となっています。(注:この7.0回は前に見たときは10回チョットになっていました。)
データの改竄?更新?はともかくとして、あなたは7日から10日は裁判(公判)で拘束されることになります。
私が以前やっていた仕事から考えると、この期間自分の仕事を放り出して裁判員に徹することは出来ない(会社がやっていけない=日当が貰えるもらえないの話ではない・生活できなくなる)と思うのですが、大会社の社員で休みが多くとれ有休で海外旅行にものんびりいける人(従って上記の期間仕事を休んでも支障ない人)も多いのでしょうね。ただ、国民全体で見れば5人に1人が年収200万円以下という格差社会にあって、生活のため土日祭日もなく働いている人達ばかりを廻りに見ている私にとっては、何のための誰のための裁判員制度?と言いたくなる。

ここで「裁判員制度」批判を一つしておきます。

上の審理期間(否認事件)平均が8.9ヶ月で、2年を越えた審理期間の平均が40ヶ月(3年3ヶ月)とのデータがあり、その間、司法(検察官・弁護士)が証拠や法に照らして有罪か無罪か検討を重ねて審理してきた案件を、素人が7日~10日の公判で感覚的に判断し(それまでの司法の努力を無視し)、評決する危うさについてです。

昔、よくテレビの西部劇で、町の人が集団で形だけの裁判をやり、その場ですぐ縛り首にするシーンを見ました。
(ララミー牧場の主人公ジェフが、馬泥棒とか銀行強盗とかに間違えられてリンチされそうになる、といったシーン)
光市事件を見て、この裁判員制度を合わせて考えると、司法裁判・法治国家の危機を感じてしまいます。

ところで、わたしは何のための裁判員制度か?といっているのは、下記の文章を見たあとの話です。

「裁判員制度」(法務省他作成のパンフレット)に次の様に主旨が書いてあります。

 国民のみなさんが裁判に参加することによって、法律の専門家でない人たちの感覚が、裁判に反映されることになります。
その結果裁判が身近になり、国民のみなさんの司法に対する理解と信頼が深まることが期待されています。
そして、国民のみなさんが、自分を取り巻く社会について考えることにつながり、より良い社会への第一歩となることが期待されています。
国民が裁判に参加する制度は、アメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、イタリアなど世界の国々で広く行なわれています。…以上、パンフより

皆さんはこれを読んで、なるほど、と思いましたか? 国民の為になる良い制度だな、と感心しましたか?

私は、次の様に感じました。

(一行目)国民のみなさんが裁判に参加することによって、法律の専門家でない人たちの感覚が、裁判に反映されることになります。→→→それは、いいことなのか?

(二行目)その結果裁判が身近になり、国民のみなさんの司法に対する理解と信頼が深まることが期待されています。→→→誰に「期待されている」のか? 裁判員制度で裁判が身近になるのか?それが国民にとって何が有難いのか?
国民が司法を現状以上に理解する必要があるのか?今以上に信頼が深まって何のメリットが国民にあるのか?他人を裁くことで司法に対する信頼が深まるのか?

(次の行)そして、国民のみなさんが、自分を取り巻く社会について考えることにつながり、より良い社会への第一歩となることが期待されています。→→→同じく、誰に「期待されている」のか? 国民が司法に介入し、裁判で人を裁くことが、何故「より良い社会への第一歩になる」のか?

(最後の行)国民が裁判に参加する制度は、アメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、イタリアなど世界の国々で広く行なわれています。→→→これについては長くなりますので下記に纏めて見ました。

先ず、言いたいことは、政府の政策にこの「他の多くの国がやっているからいいことだ。日本も取り入れなければ。」という「物まね」思考が多いということ。今の格差社会を作った「経済政策」「新自由主義」等々みんな、“日本国のアイデンティティ”など考えなしのアメリカの物真似であり、この考え方は「他の国も戦争をやっているのだから日本もやろう」「アメリカが強力な武力で脅かして、他国を従えようとしているのだから、日本も核を持って他国を威圧し服従させよう」といった考えと同じである。ついでになるが「昔はこれで上手くやっていたのだから、その昔の体制にもどそう」とする動きも「自分で考えることをしない物真似」思考である。

さて、話をもとに戻し、「他の多くの国々もこの裁判員制度をとっている」と言っている国名を見ると「キリスト教国家」であることに気が付かれることだろう。
従って、例に挙げた国の国民は生まれて洗礼を受け、クリスチャンネームを授かり、教会のミサにでて、キリストの教えの中で育って大人になっているために、裁判の証人になっても聖書に手を置いて「あなたは神の名において真実のみを証言する(嘘はつかない)と誓いますか?」に「誓います」と宣誓することで司法の権威「正義」が保たれて来たのです。キリスト教文明の国民は聖書に・神に誓ったからには嘘はつけないという気持ちがあるのです。
昔、日本の子供たちは親から「嘘をつくと閻魔様に舌を抜かれるよ」といわれ、それを怖がって(信じて)本当のことを親に告白したものですが、キリスト教国の国民はこの「嘘をつくと閻魔様に舌を抜かれる」といわれ怖がって嘘をつかないようにしていた昔の日本の子供たちと同じです。

裁判員(陪審員)についても同じです。
キリスト教国の人たちは、人を裁くことに対し自分の判断が神の意志に反したものではないか?と自問しながら評決するのです。昔、「陪審員」という映画を見ましたが、一つの事件に対し陪審員一人ひとりの家庭の事情・出来事等を絡ませながら、その一人ひとりが被告人に対しどういった評定をするか、を追った映画で陪審員の葛藤(自分の娘もこの事件と同じような目にあった、被告人が憎い、といった自分の感情だけで被告人を重罪にしていいのかといった葛藤)のなかで、(神の名のもとに)公正な評決をしようと努める姿がえがかれた映画であったと記憶している。

日本国民には、そういった精神はない。「閻魔様」も「地獄に落ちる」も過去のこと。従って、私は裁判員制度を日本の制度として取り入れることには反対である。(もう実施されるが…)

日本の司法・裁判所はその建物の威厳・威圧する雰囲気と「偽証罪」等の法律で辛うじて権威を保っている。
それを、「国民の司法参加」といい、国民の「身近な」存在にすることは、三権分立の一つの柱(司法)を無くそうとするに等しい。ちなみに、この裁判員制度では、一つの裁判を法律に玄人の裁判官3人と法律に素人の「裁判員」6人によって評決することになっており、意見が割れた場合は「多数決」となるため、感情移入された素人の意見の方が優勢となり、今までの「法に精通している」裁判官の権威は地に落ちるわけです。
そういえば最近、本屋に裁判官・裁判長等「司法」を皮肉ったり馬鹿にしたりしている本が多く見受けられるようになった。

これも独裁政治(全体主義社会)を作り出そうとする権力者(国家・政府・政党・行政・官僚)の策謀の一つである。

この制度、国民にとっては「迷惑千万」である。

(あとがき)この文章は、本当に前に書いた「登録前に消してしまった」文章とは全く違うものになってしまった。

刑法は国民の行動の自由を保障するもの

2007年09月20日 | Weblog
今日の言葉

◎刑法は、国家権力が強制的手段をもって取り締まる範囲を限定するもの。


上の言葉はヤメ蚊さんのブログより引用。

ヤメ蚊さんは、刑法で取り締まる範囲を明らかにすることにより、市民の行動の自由を保障している。と言っている。

刑法について述べる前に「所詮、インテリのキレイゴトに過ぎない」と某ブログに書いてあった、その「サルトル」の言っていることを載せておく。
確かに哲学書のため「即自」とか「対自」とか難しい言葉で語られているので、読解の時間がない人にとっては「インテリのキレイゴト」といって済ませてしまいたい気持ちになるのも分かる気がする。そこで私が下記のように優しく噛み砕いて説明しようと試みたのだが、サルトルのいわんとすることと違った解釈になってしまったかも知れない。以下、「悪の投影」について

◎否定的契機の投影(悪の投影)

人間は自己の内から否定的契機(*)を放出し他人に投影する。

*否定的契機とは、社会生活をする上で否定(抑制)する必要性を持った、あるいは持たされた人間の本質(本能・欲望)の部分だ。

この投影・カタルシスは現実には悪となって他に転嫁されることを意味する。

こうして人間は善人と悪人に分かれる。

この分化は社会的に形成される。そして「善良なる者」はみんなが「悪」と決め付けた者を認めようとしない。

「悪」を認めることは、自分が悪であることを認めることになるからだ。

悪人を理解できるのは悪人だけだ、ということになる。

「善良なる者」は、「悪」は「他」であって自分ではない、として安心する。

人は、もともと自分の中に固有にもっている非正常なもの=「悪しき感情・欲望」を他人のものとしてしまい、表に出てしまわないか(誘惑に負けはしまいか・社会の中で行動に出てはしまわないか)と不安に思う「悪しき感情・誘惑・行動」を、みんなの中で「アイツは犯罪者だ」といって他者を批難することにより、「自分は犯罪者ではない」と皆にアピールをし、自分は「善」であるとの「安心」を得る。

以上、昨日の竹内氏の著書で言っている「人はみんな多重人格者」の一部をサルトルの実存主義で説明した。
人はみんなハイド氏の一面(人格)も持っているのである。

国(権力者・政権政党)は、物理的な恐怖と共に、この人間心理を巧みに利用する。

その例が「アカ狩り」である。戦時中、国が共産主義者を「悪」と規定し、戦争に反対する者=共産主義者=アカ=悪人=犯罪者として、特高による「赤化分子」取締りが行なわれたが、その時の国民は内心に「戦争はイヤダな」と思っていても、それを表に出すと「おまえはアカ(悪)だ」と決め付けられるので、他者を「アカ(悪)」と批難することで自分は「アカ(悪)」ではないとみんなに思わせ、安心を得ることになる。

もっとも、隣組制度により、自分の所属する組から「戦争反対の赤化分子(犯罪者)」を出した場合、隣組全員同罪(連座制・連帯責任)であったための「不安」心理も働いていたが、一般の恐怖政治体制のもとでは、よくこの人間心理(集団心理)が使われ、ヒットラー・ナチスのように国民的ヒステリー状態を作り出す。

話はそれるが、隣組の「犯罪連座制」では、同じ隣組の中の「赤化分子」を役所に「おおそれながら」と連絡(密告)すれば、その人(家族)は「お咎めなし」となったのである。隣組はまさしく独裁政治の反対分子を摘発する「相互監視制度」であり、戦後、民主的考えをするGHQにより即廃止されたのも頷ける。

政府が目論む「向う三軒両隣」といったほのぼの人情イメージによる「隣組」の復活には充分目を光らせて注意していて下さい。

さて、前置きが長くなったが、本題に入る。

毎日毎日色んな出来事がおきて、書きたいことがどんどん溜まっていく感じだ。

今日、ニュースで、深夜携帯でメールをしていた高校生が途中で電池切れとなったため、充電器は持っていたのでどこかにコンセント差込口はないかと捜していて、とあるコンビニの外側にあるコンセント差込口を使って充電していたところをたまたま見廻っていた警察官によって「逮捕(書類送検)」された、という報道をしていた。
コンビニの被害額は電気代1円相当である。しかし、警察官への態度が悪かったのか、その少年は「犯罪者」となってしまったのである。

ここで、「津久井進の弁護士ノート」を思い出した。

「津久井進の弁護士ノート」9月4日
http://tukui.blog55.fc2.com/blog-date-20070904.html

(引用開始)
痛めつけられた政治屋たちが,息苦しく締め付けられた自分たちへの仕打ちを,今度は,私たち国民の日常生活へも,同じように押し付けてくる可能性は大である。

政治家への(政治倫理に基づく法の)締め付けと,国民への締め付けでは,全く意味も性質も異なるのである。
私たち国民も,そのことをよく理解しておかないといけない。

コンプライアンス(法に従う)の本当の意味を理解せずに,やみくもに形式的な「法令遵守」を振り回すのはとても危険だ。
この社会の雰囲気には,注意を要する。 
そのようなヒステリックな大衆エネルギーが,一市民である私たちに同じように向けられるとしたらどうだろうか。
とても怖いことである。 …引用終り

刑法について基本的な考え方が載っているのは「ヤメ蚊」さんのブログです。

「ヤメ蚊」さんのブログ8月28日
http://blog.goo.ne.jp/tokyodo-2005/d/20070828

日本の裁判所は、法に触れたらただちに逮捕を認め、有罪だと判決する。だから、例えば、昨年、大阪市内でディーゼル車を運転したことがあるというだけで、次のように、道路交通運送法違反で逮捕したりすることができる。

【大阪でホームレスを支援しているというだけの理由で一人の人が理由もなく逮捕されたのです。逮捕理由はディーゼル車を運転したということ。なんじゃ、そりゃ?確かに首都圏や関西など地方の政令指定都市では排ガス規制があって、数年前から、キャタコンという装置をつけたディーゼル貨物車輌以外は乗り入れが禁じられた。そのあと追い討ちをかけるように、たとえキャタコンが装着されていても、一定の年式よりも古い貨物車輌は車検を通さないというお触れが出た】( ※1、詳しくは※2)

 マスメディアは、いまのところ、報道していないようだ。だれでもが犯しうる行為を利用して逮捕すること~これまで単純に運転をしただけで同じ罪名で逮捕されたことはないらしい~を異常だと思わないのだろうか…。

 そもそも、多くのマスメディアや市民の間では、刑法に対する考え方が根本的に間違っていると思う。

刑法というのは、国家権力が身体的拘束を伴うような強制的手段をもって取り締まる範囲を限定するものだ。
取り締まる範囲を明らかにすることで、市民の行動の自由を保障しているわけだ


つまり、刑法で規定された犯罪類型に当たる行為をしなければ、逮捕されたり、起訴されたりすることはない…ということだ。

 そして、刑法で規定された行為を行ったからといって、それだけで、直ちに、国家が強制力を行使する必要はないし、そうすべきでもない。強制力を行使するに値するような違法性の大きい行為であって初めて、強制力は行使されるべきなのである。

 例えば、米国では、公務員が情報を漏洩しても、その情報が社会的に伝えられる意義がある場合、最高裁は、罪に問わなかったという。

 これが日本では、西山事件(外務省密約事件、※3)のように、形式的に秘密を漏らしたことをもって有罪となるのではないだろうか。あ、刑法に対する考え方を間違っているのは裁判所もだったねぇ…。

 これって、やっぱりおかしい。国家が市民の自由を保障するためにある刑法を利用して、国家が自分に敵対する者を弾圧する…。…引用終り

ヤメ蚊さんのブログで結論が出ているので今日はここまでにします。(又、「裁判員制度」を閉め忘れた。)

思い込みで判断しないための考え方

2007年09月19日 | Weblog
今日の言葉

◎「すべては仮説にはじまり、仮説に終わる」(竹内 薫)

上記はベストセラー『99.9%は仮説』竹内薫著・光文社新書のエピローグの表題である。

この本の主旨は副題にある。→「思い込みで判断しないための考え方」

世の中の「真理」「常識」「正しい答え」と思っている事象・事柄もみんな一つの仮説に過ぎない、としているこの本は「ものの見方・考え方」を身に付ける上で一読に値する。

少々、本の内容を紹介。

ガリレオがイタリアでは始めてとなる「望遠鏡」を自作し、24人の大学教授を集めて披露した時の事。
最初は地上の景色を覗いて驚嘆し口々に賞賛していた学者たちだったのですが、ガリレオが次に天上の「月」を覗かせた時、学者たちは全員口々に「こんなのはデタラメだ」と言いました。
教授たちの中に有名な天文学者ケプラーの弟子、ホーキーもいて次の様に語っています。
「それ(ガリレオの望遠鏡)は、下界においては見事に働くが、天上にあってはわれわれを欺く」(ガリレオが作った約33倍の倍率の望遠鏡は地上を見る分には問題なく作動するが、天に向けるとうまく働かない代物だ)

教養高い学者たちのこの反応は当時の「常識」(=天上界は神が棲む世界であり、完全な法則に支配された完璧な世界との常識)によるもので、地上からみた青白い神秘に満ちた神の棲む天上界の「月」がガリレオの望遠鏡で覗くとクレーターで凸凹だらけ(不完全)に見えたからです。「デタラメだ(間違っている)!!」
即ち、当時の世の中には「天上界(神の棲む世界=完全な世界)と地上界(人間の住む世界=不完全な世界)は別々の法則に支配されている」といった常識が蔓延っていたからです。

ここで本の内容と離れますが、今、フト思いついたことを書いておきます。
ピッタリとはいえませんが、それは「この教授達と今の『改憲して正式に軍隊を持ち戦争も辞せず』と考えている人達は似ているな。」と思ったのです。

前に載せたブログ「当時のアメリカに、GHQに押し付けられた憲法とはいえ、平和主義は素晴らしい考えだと思う。
それを守れという主張も正しい。戦争をやっちゃいかんというのもまったくその通り。
でも現実を見れば、国家の体をなしている以上、軍というものが存在しているわけで、国際紛争の最終解決手段として戦争という手段がある。護憲派は剣道大会に素手で参加するようなものだ。云々」で分かる通り、戦争するのが世の中の現実(=「常識」)と考え、ガリレオならぬ護憲派を「間違っている!」と決め付けているわけです。

横道に逸れましたが、本の内容を続けます。

竹内氏は「マイナスイオンは体にいい仮説」は正しいか?として次の様にいっています。

マイナスイオンは体にいいとして、ヘアドライヤー・空気清浄機等の様々な製品でマイナスイオン効果を謳っていますが、実はマイナスイオンが体にいいという仮説は専門家の間では白い仮説として認められていません。科学・医学専門誌にキチンとしたデータとともに発表された論文はないのです。実際海外ではマイナスイオンが体にいいと言う話はあまり耳にしません。更に「マイナスイオン」の実態も不明なのです。科学関係の人が集まる場で笑い話として出る話が、世間で根拠のない広まり方をしている(ブームになる)ことが怖いくらいです。

無風の注:昔からマスメディア・業者が集団心理を利用して報道・PRすることによりハヤリ(流行)を作り出す、と言われているが、この竹内氏が「怖いくらい」に感じる事象は毎日の報道に感じている。

また本の内容から離れますが、今回の自民党総裁選の報道の仕方を見ても「怖く」なります。
最近の報道が「行政の府」国会の一政治政党の党首を選ぶ報道一色で塗りつぶされ、候補者の略歴やら「人となり」を紹介、両氏の街頭演説を放映して「両氏の対決」を興味本位に解説している。
この報道の仕方ではそればかり見せられている国民は、「自民党の」どちらを選ぶか、どちらを応援するかの二者択一を迫られているかの感覚になる。しかしこの党首選びは、国民(有権者)の全員が関与する選挙ではなく、国会の自民党議員と国民の中の自民党員によって決められることである。
確かにいままで自民党党首が「行政の府」内閣の総理大臣になっているため国民が興味を持つのは当り前であるが、この報道の仕方により、自民党政権によって行なわれてきた「権力の集中長期化により起こっている腐敗」・悪政等様々な問題を隠蔽し恩赦を与える結果となっている。(安倍総理の突然の辞任・テロ特別対策法延長問題及びイラク戦争への違法給油問題・年金・佐藤議員発言・安倍氏の脱税問題・等々大きく取り上げなければならない問題から国民の目を背けさせている。)
岸内閣が反対世論の盛り上がりによって総辞職の危機にあった時、マスメディアを総動員した「皇太子ご成婚」の報道により、国民の目を逸らしたやり方(このご成婚報道一色にする情報操作により岸内閣は生き延びた)によく似ている。

下の記事は、おとなしい書き方であるが、参考までに載せておく。


発信箱

http://www.mainichi-msn.co.jp/eye/hassinbako/news/20070917ddm002070088000c.html

(引用)
発信箱:作戦に乗ってなるものか=与良正男

 私たちメディアはどうしても先に先にと関心が向かいがちになる。自民党総裁選が正式に始まる前から福田康夫元官房長官が圧勝だとか。さらには、では「福田内閣」になったらその顔ぶれはとか……。そうこうしているうちに安倍晋三首相の突然の辞任表明が随分と過去の話のようになっていく。

 それが自民党の作戦だということは忘れてはいけない。「次の首相」に世間の関心を引き付けることで、あの無責任な退陣劇を忘れてもらおうとしているのである。

 そもそも昨秋、党内が雪崩を打って安倍さん支持に傾いて、未熟な内閣を作ったのは誰だったのか。先の参院選で大敗し、国民がノーと言ったのは明らかだったのに、安倍さんの続投を許したのは誰だったのか。あるいは「11月1日に期限が来る。インド洋での自衛隊活動が中断しては国益を損なう」と大騒ぎしていたテロ対策特別措置法の延長問題はどこへ行ってしまったのか。新総裁が決まるまでは国会は開店休業。いつの間にか期限切れが前提になっている。…中略…7月末から今まで時間を浪費した揚げ句に勝手に首相が辞めて、勝手に代わるという自民党の都合だけの話と言い換えてもいい。

 早く政治を国民の手に取り戻そう。それには、首相交代後、一定の国会論戦を終え、速やかに衆院を解散して、有権者の審判を仰いでもらうしかない。私はしつこく解散・総選挙を求めていくつもりだ。(論説室)

毎日新聞 2007年9月17日 東京朝刊…以上引用終り

さて「99.9%は仮説」(竹内薫氏著)に戻ります。…引用開始

アイツはそういうやつなんだよ!

哲学の分野に「役割理論」という有名な理論があります。
たとえば、仲の良い親友がいるとします。すると、アイツはこういうやつなんだというように、われわれは無意識にその人間の人格をひとつに決めつける傾向がありますよね。
よく引合いに出されるのが,ジキル博士とハイド氏の例です。
ジキル博士はいわゆる二重人格で、薬を飲むことで性格がガラリと変わりますよね。
こういった多重人格ものをテレビや本で見聞きすると、普通の人はショックを受けるわけですよ。
ところが、役割理論では、多重人格というのはあたりまえの考え方なんです。
つまり、ある人間を一つの人格で説明することはできない、というのが役割理論の考え方なんです。
それなのに、みんなはそれができると思っているので、「あの人は××という人だよね」などと一つに決めつけてしますわけです。

人間みな多重人格

テレビでよく目撃する光景ですが、犯罪で捕まった人について、「どんな人でした?」とインタビューすると、必ずと言っていいほど,「そんな人にはみえなかった」とか「よく挨拶してくれて真面目でいい人だった」などといった返事がかえってきますよね。あるいは「まさか、わが子が…」みたいな話も良く聞かれるわけです。
これはまさに、この人間はこういう人なんだゾーというように、たたひとつの人格で他人のことをとらえている証拠です。固定化された先入観です。
でも、それはまったくちがうんですよ。
実際には、どんな人間でもたくさんの人格、つまり「役割」を演じているのです。だから「役割理論」と呼ぶんです。
「演じる」というと少し違和感があるかもしれませんが、誰でもがごく自然に、日常生活でいろんな人格を演じています。(略しますが、会社で肩書きに応じた役割を演じ、家に帰ると夫や父親の役割等意識せずに日常やっている、
と多重人格性を説明)
そう考えると、よく罪を犯した人が「魔がさした」といいますが、魔がさしたのではなくもともと悪い面をもっているんです。だからテレビで優等生的な発言をしている人がハレンチ罪で捕まるというのもごく当たり前のことなのです。その人はそういう人格も持っていた、というだけの話なんです。
つまり、役割理論では、この人はこういう場面ではこういうことをやる人、そういう場面ではそういうことをやる人、もしかしたらああいう場面ではああいうことをやるかもしれない人…といった複合的に捉えていくんです。

以上で引用を終わりますが、この哲学の「役割理論」では、私はサルトルの「人が誰でもが持っている否定的契機(悪)の投影」の話が一番理解しやすい、と思います。詳しくはサルトルの著書をお読み下さい。

非難されても仕方のないこと(「悪いこと」)をした人や国を「許せない」として、その結果を早急に出そう(徹底してやっつけよう)とするところに「社会的ヒステリー現象」が起こり戦争が起こります。権力者はマスメディア・宣伝会社を駆使して国民を煽動しようとします。

あなたがたは、是非、この竹内氏の「99.9%は仮説」を理解して「思い込み」(マスメディアによるスリコミ)によって判断をしないようにお願いします。

独裁政治を目論む者(政治家・政党)を打ち破る方法は、ただ一つある。
それは、国民のみんなが政治的に賢明になることである。
人に言われて、その通りに動くのではなく、自分の判断で、正しいものと、正しくないものとをかみ分けることができるようになることである。
民主主義は、「国民のための政治」であるが、何が「国民のための政治」であるかを自分で判断できないようでは民主国家の国民とはいわれない。」…以上、文部省昭和23年作成の教科書「民主主義」より(気に入った文なので何回も載せます)

◎政治は国民の生活のためにある。だから一般庶民の生活が苦しくなるような政治は悪なのである。
  ↑
何も難しく語らなくても、政治の良し悪しがわかることは数多い。…人のブログを再三載せています。


今日はこの辺で筆を置きます、ではなくてキーボード打ちを終えます。

PS.前日の日記で「続きます」と書いて、続いていないと思われた方へ。
実は、「続きます」で投稿した後、読んでみて中途半端だなと思い、もう一度編集モードで直接書き込んで完成させたのですが、投稿を押す前に間違って他をクリックしてしまい、考えながら1時間ほど掛けて完成させた部分が全てパーになってしまいました。「もう一度」という気力は年を取っているせいではなく、悔しさと後悔のなかで消えうせてしまいました。(実はこれで三回目)
今日書いたことを思い出しながら載せようと思ったのですが、他のことから書き始めたら、ここで思考パワーゼロとなりましたので、ゲームオーバー、また次の機会とします。

裁判員制度は何のため?

2007年09月18日 | Weblog
今日の言葉

◎「人間は自らをつくるところ以外の何ものでもない」(サルトル)

サルトルは、惰性や多忙に流れて組織の部品になり(政府のいいなりになり)、マスメディアの論調に判断をゆだねて自己を合理化し、自己(自分の考え)を主体的に選択する決断を回避する即自的な生き方を、「自己欺瞞」として批判している。…他人様のブログ盗用

さて、裁判員制度について云々する前にマスメディア操作による社会的ヒステリー現象の例をもう一つ挙げておく。(少々古いが「小泉劇場」について)

(他ブログより引用)
(自民党圧倒的多数で17もの法案が強行採決された。)
この事実上の独裁が許されるのは、2005年9月11日の小泉政権時代の「郵政選挙」で巨大与党が生まれたからだ。衆院選の小選挙区では、自民・公明が49%の得票率で76%の議席を獲得した。
前回総選挙(いわゆる郵政選挙)で与党が勝利したのは、自民党が「B層」の取り込みに成功したからだといわれている。
B層とは、ありていに言ってしまえば「なんとなく政府与党を支持する頭の悪い人たち」である。
私がそう言っているのではない。小泉内閣の郵政民営化政策の広報戦略を内閣府から(入札なしに約1億5000万円で)請け負った(竹中郵政担当大臣が懇意にしていた)「スリード」というPR会社による定義である。

ということは自民党自身が、自分たちを支持する人たちを頭が悪いといっていることになる。

このPR会社は、A層・B層・C層・・と有権者をカテゴリーわけし、

●B層(構造改革にどちらかといえば肯定的でIQが低い):主婦層、 子供、シルバー層を中心とする層。「具体的なことはわからないが、小泉総理のキャラクターを支持する層」=「小泉内閣支持基盤」。

と定義している。この層を狙って、メディアをつかって徹底的なキャンペーンをしたというわけだ。
(中略)
スリード社のPR戦略では、このうちA層とC層は確信的に郵政民営化に批判的でIQも高いため、頭の悪い「B層にフォーカスした、徹底したラーニングプロモーション」が必要であるとされています。

「徹底したラーニングプロモーション」とは、テレビやラジオ、フライヤーなどの「彼らが受容しやすい媒体(マスメディア)」を活用した徹底的なイメージ戦略のことですが、資料を読んだ限りではほとんど「洗脳」や「調教」に近い

スリード社が作成した資料は、ネット上でもアップされているので、ぜひ一度ご覧になってください。

小泉政権が自らの支持者をここまでバカにしていたこと(B層のBはバカのB?)は、もっと多くの人に知られてよいはずだと思います。

小泉政権はいったい何のために郵政民営化を進めようとしていたのでしょうか。2005年8月8日付の「ウォールストリート・ジャーナル」(米国)には、当時のマスコミ報道では表に出なかった興味深い記事が掲載されています。

 それは、「郵政民営化が実現すれば我々(注:アメリカ)は3兆ドルを手に入れられるので、選挙で与党を勝たせるために日本のマスメディアを買収しても惜しくない」というものでした。ここで言う3兆ドルというのは、郵政公社に預けられていた総資産(350兆円)に当たります。

(政治批判をしてマスメディアから干された森田実氏の意見)

[森田実政治日誌 2005/08/10]
「郵政民営化はウォール街のためか―米国から9.11総選挙の意味についてのメッセージ」

 http://www.pluto.dti.ne.jp/~mor97512/C02040.HTML

 郵政民営化が私たちのためではなく米国のために行われたとする見方は、邪推でも陰謀論でもありません。何といっても当の米国政府とウォール街がそれを露骨に公言しているのですから。

 けれども、そのことを知られてしまえば、与党は選挙で勝てなくなってしまう。そこで必要になったのが、有権者を B層化させるような選挙戦略―「郵政民営化是か非か」「官から民へ」といった私たちの思考を麻痺させるような単純なスローガンの連呼―でした。

B層というのは、現実を正確に反映したモデルというより、権力の側が私たちを一方的に分断し、名づけ、操作するために作り上げた概念だと思います。
 一つ例を挙げると、広告代理店の電通は、1960年代の終わりに「エクストリーミスト」を「過激派」と翻訳しただけで3億円をもらったと言われています。
 いわゆる新左翼集団をひとまとめにする「過激派」というレッテルは、その範疇外にいる人々が当局による「過激派」への人権侵害を容認する社会を作り出しました。

現在では「テロリスト」という言葉がその一つです。…引用終り

(もう一つ、下のブログから引用)


宇佐美保の世界へようこそ

http://members.jcom.home.ne.jp/u33/i%20think%20050925low%20iq%20koizumi.htm

自分のIQは低くないと思った方々が小泉自民党に投票

「この小泉氏の“おれの信念だ。おれは殺されてもいい”発言がマスコミから流されるや、小泉内閣支持率がうなぎ上りに上昇しました。
この支持率上昇の国民の気持ちを端的に表出しているのが、H氏(作家)の次のような記述です。

「小泉さんがまたまたやってくれた。 あの記者会見を見て、私も拍手喝采をしたひとりだ。
「こうこなくっちゃ! やっぱり小泉さんだワ」
「自分の思うことは命がけでやる。文句あっか、というあの強気は、小泉さんでなくては出来なかったろう。
これだけ全身全霊を込め、何かに向かっていく男の人を久しぶりに見た。今の若い人にとっても新鮮だったに違いない。芸能人のヤラセなんかと違う。本当に人が怒っている凄さに、多くの人は驚きと畏れを抱いたのではなかろうか。」

でも、この小泉氏の一言だけが小泉旋風の原因ではありません。
他には、マスコミのおべんちゃらが横溢していました。

そして、このプロモーション通りに、「B層」の支持を得て小泉氏は選挙で圧勝しました。
何故、この「B層:具体的なことはわからないが、小泉総理のキャラクターを支持する層、内閣閣僚を支持する層:IQが低い」と多くの国民をバカにした件を、マスコミは追求しなかったのでしょうか?
しかしどんなにこの件を暴こうが、多くの人達は、“自分だけは「B層」ではない!” と思って、こんなプランが裏で進行してようと、気にも留めないのかもしれません。…引用終り

この「IQの低いB層」を狙い撃ちしたPR会社とマスメディアの国民洗脳報道によって不利と思われた選挙を自民党圧勝にもっていったのですが、これは国民の「社会的ヒステリー現象」のいい例と言えます。

さて、こういった「マスメディア報道で洗脳されやすい」国民が、これから話す「裁判員制度」で裁判に参加したらどうなるか? 先日話した「光市母子殺害事件」と合わせて考えてみて下さい。

「裁判員制度」パンフより

裁判員制度とは,国民のみなさんに裁判員として刑事裁判に参加してもらい、被告人が有罪かどうか、有罪の場合どのような刑にするかを裁判官と一緒に決めてもらう「国民の司法参加」を実現する制度です。
(これは「裁判員の参加する刑事裁判に関する法律」[裁判員法]が公布されたことを受け)、平成21年5月までの間にスタートします。

※裁判員が参加する仕事

裁判を行なう(法廷で証人の話を聞いたり、証拠を調べたりします)
  ↓
評議・評決(裁判員と裁判官で話し合い、有罪・無罪や刑の内容を決めます)
  ↓
判決(裁判長が判決を言い渡します)

※裁判員が参加するのは、どのような事件ですか?(Q&A方式)

・殺人・強盗致死傷・傷害致死・危険運転致死・現在建造物等放火・身の代金目的誘拐・保護責任者遺棄致死

※裁判員はどのようにして選ばれるのですか?(Q&A方式)

1.裁判員候補者名簿作成

 選挙人名簿をもとに翌年の裁判員候補者となる人を毎年くじで選び、裁判所ごとに裁判員候補者名簿を作ります。
 
 名簿に載った人には連絡がいきます。

2.事件毎に名簿の中から、くじで裁判員が選ばれます。

 選ばれた人には、裁判所に来てもらう日時等をお知らせします。

3.裁判所で候補者の中から裁判員を選ぶための手続きが行なわれます。

 裁判員に「なれない理由のある」人や、辞退を「認められた」人は候補者から除外されます。

 また、検察官や弁護人は双方とも…除外されるべき人を指名することができ、指名された人は候補者から除外されます。

4.除外されなかった候補者から、裁判員が選ばれます。

※裁判員に選ばれたら、どのようなことをするのですか?

1.公判に出席する(公開)

 刑事事件の審理(公判)に出席。公判はできる限り連続して開かれる。証人等に質問することもできる。

2.評議・評決をする(非公開)

 被告人が有罪か無罪か、有罪だったらどんな刑にするべきかを議論し決定する。

 全員一致の結論が得られない場合は多数決。

※裁判員になることを辞退することはできますか?

 原則として辞退できない。(やむを得ない理由がある場合以外…重病・父母の葬式等)

※裁判員となるために仕事を休むことは出来ますか?
 また、仕事を休んだことで会社から解雇されるようなことはありませんか?

裁判員となるために必要な休みをとることは法律で認められていますし、裁判員として仕事を休んだことを理由として、会社が解雇などの不利益な取り扱いをすることは法律で禁止されています。

(注釈的に)従業員が裁判員として刑事裁判に参加しやすくするために、各企業において…労使の自主的な取組みが行なわれることが期待されます。

※裁判は時間がかかるのではないのですか?

 事件によって一概には言えません…多くは数日間で終わるのではないかと見込まれています。国民のみなさんの負担をできるだけ軽くするような運営に努めていきたいと思います。

(参考までに)裁判員に選ばれる確率=一年間で約285~570人に一人。日当出る。

以上、「最高裁・法務省・日弁連」発行の「裁判員制度」パンフより抜粋。


私の悪い頭では、「何故『国民の司法参加』が必要なのか? 裁判員制度は国民にとってどんなメリットがあるのか?」が全く分かりません。

逆に「光市事件」を見て、「犯罪被害者の裁判参加制度」と「裁判員制度」による私刑(リンチ)の様相を呈するといった危惧の方が大きいと感じます。

次回に続きます…







マスメディアの犯罪

2007年09月14日 | Weblog
今日の言葉

◎「説教はおじさんの義務であり、権利である」(「『おじさん』的思考」内田樹著・晶文社)

本題とは関係ないが、行動を起こさない老人がこのブログに自分の意見を載せている『言い訳』として気に入った言葉なので、今日の言葉とした。
昔の学生運動の基本にあった行動原理は、私が何回か引用したラスキの「(政治の)不正を行動に出さずに(反対せずに)、黙っているのは罪(共犯者)だ」にあった。それに対する『言い訳』と、最近のブログに見られる「思慮の足らない」人の弁「そんなに言うんだったら自分でやったら…」(例えば、今の政治政策批判をすると、『そんなに言うんだったら自分が政治家になればいいじゃないか』という類の意見)へ対抗するための言葉でもある。 

さて、本題に入るが、一昨日「社会(集団)ヒステリー現象」の例として「嫌煙権」を挙げた。
実は、この例(嫌煙権)を取り上げるのにはいささか迷いがあった。他にも「朝青龍」や後から取り上げる「光市母子殺害事件」等、そちらの方が、一般的に納得してもらえそう(=無難)だったのだが、あえて、皆が反発しそうな例を取り上げた。
嫌煙権を社会ヒステリー現象という私に対して「何言ってるのよ。タバコの害は吸ってる人より副流煙を吸い込んだ受動喫煙者の方が…云々」という声が多いのは、きっこさんへの沢山のバッシング・メールを見ても想像がつく。
タバコの害についてはネットを見ればいやというほど載っているし、喫煙者も自分を含め副流煙による他人への害についても良く分かっているはずである。ここで最初に言っておきたいのは、今のところ、喫煙は日本国の法律で全面的に禁じられてはいない。「分煙」「建物の管理者責任」等の規制はあるが基本的に法律(ルール)では「吸ってもいい」のである。喫煙者はきっこさんのように周りに気を使いながら吸っていて、『喫煙コーナー』であれば、そこは周りの人も自分がタバコの煙を吸い込む(能動喫煙・受動喫煙とも)のを承知で座る場所であるから安心して吸えるのである。その安心して喫煙できる場所に来ていきなり人に向かってパタパタ扇いだり、文句を言うのはマナー違反者であり「無礼者、何をするか!」である。 「打ちたい台が禁煙コーナーにない」「禁煙コーナーまで副流煙が来る」と言った文句は、その店の人に言う言葉であり喫煙コーナーで喫煙している人に言うのは筋違いである。それに対し「日常のチョットした不満」として日記に書いたきっこさんに「人の迷惑を考えない」「ニコチン中毒の」「人の中で刃物を振り回す」悪人といったメールが来ることが、「社会的ヒステリー現象」の典型なのである。

こういった社会的ヒステリー現象は、マスメディアによる国民への「スリコミ」によってもたらされる。

今日のNHKニュースで「スリコミ」のチョットした例があったので載せておく。

最初、何気なく聞いていて「ええツ」と思ったので、後からインターネットで見て「なるほど」とは思ったのだが…。

ネットのニュースの題名「給油活動中断の長期化懸念も」

政府は、海上自衛隊による給油活動の根拠となっているテロ対策特別法の期限がことし11月1日に切れるため、活動を継続するための新たな法案を国会に提出し、速やかに成立させたいとしています。しかし、自民党総裁選挙の投票が、今月23日になったのを受けて、政府は、新しい総理大臣による所信表明演説など、その後の国会日程を踏まえると、新法案の国会提出は、当初予定していた今月下旬より遅れて、来月上旬か中旬以降になるとみています。参議院で与野党が逆転するなか、民主党などは給油活動の継続に反対しているため、とりわけ参議院での新法案の審議が難航するとみられることから、テロ対策特別法が失効し、海上自衛隊は撤収を余儀なくされることが確実な情勢です。政府は、給油活動がいったん中断されても、できる限り早く新法案を成立させて、活動を再開したいとしていますが、今のところ成立時期については、確かな見通しは立っておらず中断期間がかなり長引くのではないかという懸念が政府内に出ています。

私は、何気なく聞いていたので、最後の(懸念が)「政府内に出ています」を聞き漏らしたから「ええっ」と思ったわけです。何気なく聞いた人は「テロ対策特別法が民主党の反対で延長できず失効してしまう、早く新法案を成立させなければならないが見通しが立っていないため中断期間がかなり長引く懸念が出ている。」といったスリコミがされ、テロ対策特別法の内容は(教育基本法や国民投票法の時もそうだがその内容は)全く語られず、その法の適用される範囲を超え(違反して)イラク戦争へ給油の85%が流れている等の問題は「完全無視」し政府の広報をしている。「政府内に出ています」は私を含め何気なく聞いている人は聞き流してしまう部分で、例えば民主党小沢代表が言うような「国民の税金を無駄遣いするのはもうやめたら?といった意見もあります」等の報道はせず、政府の「最初から延長ありき」が正しく、民主党の反対に会い「たいへんねエ」の視聴者感情を作り出す危険がある。(スリコミ)「自衛隊は撤収を余儀なくされる」発言は「政府」の言葉ではありません。マスメディアの言です。余儀なく=そうしたくはなかったのだが強いられてやむを得ず、の意。この表現はマスメディアが自衛隊活動の延長に賛成しているからの言い回しです。

公正な報道に思える人は、しばらくテレビを見るのをやめインターネットを検索することを勧めます。
この「政府は…」報道を一方側からの報道しかしていないな,と冷静に観れる人は社会的ヒステリー現象に巻き込まれない人です。

さて、マスメディアが作り上げた社会ヒステリー現象「光市母子殺害事件」について。

(前にも掲載したブログから)

「広がる弁護団への非難・中傷・嫌がらせ」

「光市母子殺害事件」弁護団への激しいバッシングが続いている。カッターナイフの刃が送られたり、殺害予告が届いたり‥‥。この「私刑(リンチ)」の雰囲気は、一体誰が作り上げたものなのか。

この裁判をめぐって、それは社会といっていいのか、それとも単に世間や大衆と言うべきなのか、いやそれともマスメディアだけなのか、その注目される部分がほかとは相当異なっている。それは「被告の元少年が何を法廷で話すか、どんな顔つきや態度なのか」という一般的な興味とは別に、「どんな弁護士たちなのか、その弁護団が何を主張するのか」という部分にゆがんだ形で向けられている。そして、そこから派生する弁護士たちへの非難・誹謗・中傷・嫌がらせ、そして相次ぐ脅迫まで、ネットだけの限定現象ではなく、マスメディアと市民が一体となった形で、この国に少しずつ広がり始めている。

 テレビのスタジオはもちろん、雑誌・ネット上からご近所の世間話の類まで、この事件のことに対してはみんな何かしらの意見を述べる。いわゆる「感想」を話したり、判決を「予想」したり、あたかも誰かの「代弁者」のように怒ったり、それらは「世論」の上に乗っかることが参加条件だ。繰り返されるマスメディア情報だけを材料に、裁判長や検事になったかのように話す。…法廷以外のあちこちで別の「裁判」が進行しているといった方がいいだろうか。いや、それらは決して「裁判」ではなくて「私刑(リンチ)」に近い。

次にこういった社会情勢の中での「犯罪被害者の裁判参加制度」と「裁判員制度」のリンチの危険性について書いていくが、疲れたので「また来週」。

私的なことと公的なことを混同する日本国民

2007年09月13日 | Weblog
◎とかく日本という国は,私的なことと公的なことの混同が起こりやすい。

表題は、「津久井進の弁護士ノート」からの盗用であるが、今回の安倍総理の辞任に関してNHKの報道をテレビでみた。 安倍総理誕生から突然の辞任までの軌跡を簡単にまとめたものだが、

「安倍首相は『美しい国、日本』づくり、戦後レジューム(体制)からの脱却、を掲げ、教育基本法を改正し、国民投票法を成立させ、教育関連三法等で『安倍カラー』を鮮明に打出してきたが、「年金問題」「閣僚の不祥事・不適切発言」で足をとられ、参院選に歴史的大敗をきし、続投したものの、首相が『国際公約』したテロ特措法の延長が民主党小沢代表の反対で果たせそうになくなったため辞任に追い込まれた。」

というもの。

その論調は教育基本法・国民投票法・教育関連三法等を成立させた事を「実績」と称えるもので、年金・政治とカネ・閣僚の不用意発言に足を引っ張られ参院選大敗→テロ特措法の延長困難→辞任の道へといった,「安倍首相は悪くないが…」を背景に意図した報道の仕方であった。それに「食事も喉に通らなかった」といった仕事に苦悩し健康を害していた、等の報道が続く。

この報道の仕方から、まちの声インタビューで「安倍さんがかわいそう」(足をひっぱられた。まじめにやっているのに)との声が多く聞かれ、首相が『国際公約』を果たそうとして小沢代表に党首会談を申し出て断られたから、との辞任理由と健康を害したイメージが重なり、国民に「小沢は悪人」の印象を与えてしまう。これが国民的ヒステリー現象である。今回はそこまではいかなかったようであるが、公私を混同する軽率な国民に今のマスメディアの報道の仕方が継続されると、いつでも「独裁者」をつくる国民的ヒステリー現象となって現れる可能性がある。
マスメディアの報道の仕方に猛省を求める。

懸念を表明しているブログから引用しておく。

「津久井進の弁護士ノート」http://tukui.blog55.fc2.com/
 
 問題は,安倍氏が辞めたことで,うやむやになってしまう問題が無いかどうか,十分に注意をしておくことだ。

 とかく日本という国は,私的なことと公的なことの混同が起こりやすい。
 責任者が,辞任したり,自殺したりすると,同情を寄せたり,あるいは,なんだか大事な問題もカタが付いたような気になってしまう傾向がある。
 私的な感情はあくまで私的なもの。 公的な問題は辞任したとしても,放置されたまま残っている。

 こういう場面では,なぜ安倍氏がこれほどまでに支持を失ったのか,もう一度,確認しておかないといけない。

  ◆国民の生活を軽視してきたこと
   (年金問題,格差社会の放置,弱者切り捨て 等々)

  ◆戦後レジーム脱却と称した憲法改悪
   (国民投票法,全体主義化,立憲主義軽視,教基法&教育改悪 等々)

  ◆政治に対する不信増大
   (政治資金問題,大臣らの失言,組閣の恣意性 等々)

 どうだろう?これらは,安倍氏が辞めたから直ちに解決が付く問題だろうか?
 仮に,新総裁が,小泉純一郎氏とか麻生太郎氏とかに決まって,なんとなく刷新ムードでうやむやになってしまった場合,これらの課題はどうなるのだろうか?

 とりあえず安倍氏の個人的な理由は横に置いといて,なぜ安倍氏を辞めさせなければならないのか,首相を下ろさなければならないか,という原点を忘れないように,国民自身こそが自問自答する必要があるように思う。
 これまで,政治家に「公私混同はダメ!」と強く申し立ててきたのだから,国民自身も「首相辞任に私的感情を混同しちゃダメ!」ということである。

必要なのは,安倍氏への個人的同情でも,安倍氏の人格攻撃でもない。
安倍氏のやってきた「良くないこと」「失政」の洗い出しと,再確認だ。
安倍氏のような人材が,再び,首相の座に就くような愚を繰り返さないように。…引用終り


安倍内閣前半の異常な時代を忘れてはいけない。
http://d.hatena.ne.jp/kechack/20070913/p1

 安倍総理が辞任した。いまとなれば政権末期の迷走ばかりが思い浮かぶが、最初の半年のマスコミや世論の体制翼賛姿勢は脅威であった。そんなこともう忘れている人も多いのか。

やらせのタウンミーティングで世論を捏造して成立させた改正教育基本法。こんな許せない暴挙にも多くの世論やマスコミは無批判で、現代の諸問題のすべてが教育に起因し教育を変えればよくなるという単純なロジックや、戦後民主主義教育は悪だから変えなければならないという意見に世論の支持が集まった。今でも教育基本法の改正を安倍内閣の成果として挙げる人が多い。

私に言わせれば、こんなのは悪行であり、成果でも何でもない。百歩譲って成果を認めたとしても、血税を注ぎ込み世論を捏造するような行為民主主義の死であり、この時点でこの内閣にレッドカードを出すべきものである。私には無批判な世論が脅威であった

次に脅威であったのは柳沢前厚労相の「産む機械」発言があった時である。当然この発言に批判が集中したのであるが、やがて柳沢大臣を批判する野党やマスコミが「揚げ足取り」「言葉狩り」と批判され、ブログ界では野党批判・マスコミ批判の方が優勢になってしまった。この時、私はブログ=体制迎合ツールという嫌悪感を抱かずにいられなかった。

私が雨が降ろうが槍が降ろうが政権を支持する空気が蔓延する風潮に嫌気を指している暇もなく、あっという間に空気が変わってしまった。今となっては嫌悪感を抱いていた過去は遠ざかり、この急激な空気の変化の不可思議の方が気になるが、この嫌悪感がいつでも再現する可能性があることは常に肝に銘じておきたい。…引用終り


安倍首相辞任とは関係ないが「軽率な国民の皆さん」に読んでおいて貰いたいブログを引用。(サイト先不明のため、全文引用)

メディアの虚実を見抜く眼力

 普通の人たちが世の中の動きを知る最も手短な方法は報道を通じてである。そしてメディアはその役割を担うものとされている。不偏不党がメディアの使命だ。特定の目的を持った組織が運営している広報用メディアは別として、一般のメディアが最初から最後まで嘘の報道をすることはありえない。メディアの報道は一般的に正しく報道していると見るしかない。
 ところが同時にメディアは嘘を報じる時がある。それは明らかな間違いの場合もあるが、誇張したり、物事の一面しか伝えなかったりする場合もある。そして巧妙に読者を誘導する情報操作的な場合など様々だ。単に販売数を増やす為の興味を煽る嘘報道もある。

これから書く事はこのケースである。こういう事が行われているという事を知っておいてもよい。そんな裏話である。

 ニューズウィーク日本版の9月19日号は「東京特派員の告白」という特集記事をその号の目玉記事として載せていた。ジャーナリストのコリン・ジョイスが、イギリスの高級日刊紙「デイリー・テレブラフ」の東京特派員を7年間務めた経験を赤裸々に語っている。

  自分の見たことを理解し伝えることに全力を尽くそう、真実だけを書き送り、悪を暴く事に徹しよう・・・そう決めて東京特派員を始めたジョイスは、本社編集者の命令に従って妥協させられる連続だったという。靖国参拝よりゲイシャ、日朝首脳会談よりロボットやチカン。高齢化社会も三宅島も「面白おかしく書け」と命じてくる。報道の質よりも娯楽性を優先する新聞の一部に自分はなり下がっていたと語る。送った記事が原型をとどめないほど編集者の手で改ざんされそうになったという。

  そのような歪んだ日本の報道が行われる背景の一つは国際社会における日本の地位低下も関係しているとジョイスは言う、「テレグラフで働いた7年間、合計5人の国際部長と仕事をしたが、全員が、日本の記事を書いた事も、日本を訪れた事もなかった・・・これは偶然ではない。東京支局はもう、特派員の出世コースとはみなされていない・・・」

  外国報道が日本を歪めて伝える事がある例を私は個人的に体験している。私が外務省で南アフリカ問題を担当していた課長の頃だ。ロイター通信の記者が私に語った「どんな記事でもいいから日本を批判する記事を送って来い。それが嘘の記事であっても」という命令が来ていると。

  当時日本は南アフリカとの貿易量が多くて国際批判を浴びていた。しかしそれは多分に日本が悪者に仕立て上げられた面があった。欧米諸国はある意味で日本にくらべはるかに南アフリカの白人政権と結びつきが深かった。その批判をそらす為にどこかをヤリ玉に挙げなければならない。それには日本たたきが一番だというわけだ。

  このジョイスの記事で一つだけ救われる思いがした箇所がある。それは、「テロと戦争がひしめく国際面において、もっぱら日本は平和で明るい話題を提供してくれる国であった」という箇所だ。

グローバリズムと言う名の米国化によって日本の社会は変容しつつある。それでもまだ日本は欧米先進国に比べて平和で穏やかな国だ。まさしくこれこそが世界に誇れる日本なのだ。我々はそんな日本を大切にしなければならない。…引用終り


社会ヒステリー現象

2007年09月12日 | Weblog
今日の言葉
 
 この社会の雰囲気には,注意を要する。
    ■不正かどうかを,形式的に簡単に決めつける
    ■悪いとなると,社会全体で一斉に袋叩き(バッシング)する
    ■それが一気に国民的ヒステリーに高まる


前日に続いて津久井弁護士のブログからも引用しようと思ったのだが、又、ほぼ全文となってしまいそうなので省略する。是非、サイトを開いて読んで見て下さい。
津久井弁護士は「朝青龍」のマスメディア報道を一例に危惧を表明しています。

政治関係ではないが、国民的ヒステリー現象の代表的なものに「嫌煙権」がある。
私は「嫌煙権」なる言葉が出てきた時(かなり前)から、社会的ヒステリー現象と捉えていたのだが、超有名ブログ「きっこの日記」の3月25日、28日、29日(「自分勝手な嫌煙権」シリーズ)を見て確信した。

発端は、きっこさんがいつもの様に自分の身の回りに起きた出来事を日記にしたためた事にある。きっこさん曰く「日常の中の小さな不満として、チョコっと書いただけのつもりだったんだけど」、それに対し異常ともいえる反応があり、28日・29日でその(反応してきた)メールとそれに対するきっこさんの意見が述べられている。

きっこさんの「日常の中の小さな不満」となった出来事を要約すると、

きっこさんがパチンコ屋の喫煙席コーナーでタバコを吸っていた時、隣の空いた席にあとからやってきたオバさんが座り、打ち始めたトタンに、台の説明の書いてある下敷きを取って、きっこさんを睨みつけてきっこさんの髪がなびくほど、パタパタとやり始め、「まったく、やっと座れたと思ったら、タバコをプカプカ吸うような人の隣りじゃ、安心して打ってらんないわ!」と、ワザときっこさんに聞こえるように大声(最初はブツブツ)で言った。
きっこさんが「タバコがイヤなら禁煙コーナーで打ったらいかがですか?」というと「禁煙コーナーに打ちたい台がないからしょうがないでしょ」との返事。きっこさんは、その時のタバコを吸い終わってからは、もうタバコは吸わないようにしていたが、きっこさんの隣に座った人がタバコを吸いだして、煙がそのオバサンのほうにいった。
そのオバサンまたもパタパタやりながら「まったく、ここの人たちは、みんなで私を肺ガンにしようとしてるのね!」

きっこさんはこの出来事を「自分勝手な嫌煙権」と題をつけ紹介し、私も身勝手な自己中オバサンもいるものだな、
と思い読んだのだが、三日後のきっこの日記をみてビックリ。きっこさんを非難するメールが多く届いたとの話。
社会的ヒステリー現象の表れだと確信した。

(同感意見から)
・はじめてメールをさせていただきますが、嫌煙権についてまったく同感なのでうれしくなりキーボードをたたいております。(愛煙家は)もう、いじめに近い状況に陥っています。喫煙に限らず、社会の中では議論が行き過ぎた矛盾(ヒステリー現象)がたくさんあります。バランス感のある思考を日記の中でどんどん書いてください。よろしくお願いします。

・私はタバコを吸わないのですが、禁止されていない場所で喫煙している人がいても文句を言う類のモノではないと思います。文句を言うなら、パチンコ屋の店員に「なんで禁煙コーナーに私の打ちたい台がないのよ!」とキレるべきです。最近の過剰なまでの、タバコに対するネガティブキャンペーンが、こんな勝手な嫌煙者を産み出したんですかねぇ?それとも、吸わない人が偉いとでも思ってるんでしょうか?とにかく、「こんな身勝手な人には腹が立つ。」事を言いたかっただけなのに、こんな長文になってしまいました。これからも「きっこの日記」を楽しみにしています。

上記は極めて常識的な意見ですが、つぎは問題の「多かった」といわれるバッシングのメールです。

・嫌煙の日記についてですが、喫煙者も自分勝手だと思います。なぜタバコを吸ってない人が受動喫煙させられなければいけないのでしょうか?私もパチンコ屋にはよく行きますが、パチンコ屋はパチンコをするところであり、喫煙所ではありません。もう少し他人に迷惑をかけているという自覚を持ってはいかがでしょうか?

・パチンコ屋など、どこでもそうですが、喫煙できる公共の場所とは、「基本的にタバコを吸ってもいいという許可はでているが、しかし人に迷惑をかけていいとは誰も言ってない」ということです。そして嫌煙家は煙が嫌だから、それは迷惑につながるのだと思います。肩身が狭い思いをしているのは同情します。ですが、タバコは吸った時点から迷惑がかかっているということは間違いないですよ(周りに人がいる場合ですが)吸ってない人は、ことタバコに関しては誰にも迷惑はかけてませんから(吸ってる人には迷惑かもしれませんが)ちなみについ最近までワタシもガッツリと愛煙家でした。だから人のこと文句は言えないのかもしれませんが、ヤメたら、タバコの煙が嫌で嫌で仕方がないのです。「禁煙スペースへ行け!」なんて言わずに、この気持ち汲み取ってもらえないでしょうか。お願いします。

・きっこさんは「タバコを吸っていい場所で、周りに気を使いながらタバコを吸ってるのに」と書かれていますが、タバコを吸っていい場所では、確かにタバコを吸う事は許されているのでしょうが、他人に迷惑をかけることまで許されているわけではないと思うのです。ここでは、タバコを吸っても他人に迷惑をかけるおそれがないという理由で、タバコを吸っていい場所になっているわけではないんですよ。タバコの煙は気体ですから、その場の状況や風向きしだいでいくらでも拡散し広がります。私は10m以上離れた場所にいる人のタバコの煙が原因で頭が痛くなったり、のどが変になったりした経験もあるんです。今回はたまたま隣のパチンコ台だっただけで、きっこさんの喫煙している煙が、禁煙コーナーのパチンコ台まで漂って迷惑かけている可能性もゼロではないんです。タバコを吸っていい場所の決め方がいいかげんである以上、喫煙コーナーだから無条件に吸っていい、迷惑かけてもいいというのはやっぱりおかしいのではないでしょうか。あとから隣りに座って打ち始めたオバサン、騒音とか悪臭を出す工場や施設が、近隣住民から迷惑だと訴えられると、「オレ達の方が先にいたんだ。後からやってきたお前達に文句を言う権利はない。」と居直るケースがよくありますが、これと同じことです。後から来たという理由で、迷惑をかけてもいいってことにはならないんです。今でも外出先で安心できるのは、全体から比べるとわずかなスペースの禁煙エリアにいる時だけなんですから。そこにいても、禁煙スペース以外のところから煙が流れてきて困ることはしょっちゅうです。きっこさんは喫煙者のなかでもいい方なんでしょうけど、禁煙でなければ(何も指定がなければ)いくらでも吸い放題だ。となりに赤ちゃんがいようが、喘息で苦しんでいる人がいようが関係ない。という喫煙者がいまだに結構いるんですよ。わずかな禁煙スペースができたために、それ以外のほとんどの禁煙でない場所では罪悪感なしにタバコを吸って迷惑をまきちらす勘違い喫煙者が増えてしまって本当に困っています。

(無風の余談:騒音とか云々のくだりで「俺たちの方が先にいたんだ。後からやってきたお前たちに文句を言う権利はない。」とありますが、今では、工場は、そう嘆くだけで法律で規制されているため対策を取らない訳にはいかず,『文句を言う権利はない』などと居直れる工場は存在しません。確かに私の昔いた工場も都心から段々と郊外へと5回ほど移っており、最初は雑木林の中、森の中という感じで人家は無いところへ移転してきたのにいつの間にか周囲が住宅地に開発され、そのつど、都心から遠くへ遠くへと移転を余儀なくされ、その時には「後から来たのになぁ」と恨めしく思ったこともありました。でも法律がありますから『居直れ』ませんよ。喫煙コーナーは法律で言えば「許可された場所」です。)

・はじめまして、いつも楽しくこのブログを拝見させていただいております。おそらく同じようなメールが多くの方から送られていると思いますが、少しだけ意見を聞いていただけたらと存じます。私は喘息を患っており、タバコどころか女性のつけている香水でも発作を起こすことがあります。さすがにパチンコには絶対に行かないし、そもそも喫煙者以外のものがパチンコに行くことは間違っていると思います。(パチンコに禁煙コーナーなるものがあるのをはじめて知りました)ただし喫煙可能だから回りの人に気を配らなくていいというのは時に誤りだと思います。私事ですが例えば旅行などで列車を利用する場合、いつもは必ず禁煙席の指定席を取るのですが、週末などで空きがなくどうしても喫煙車両に乗らなければならないことがあります。隣の方には無理を言って吸わないようにお願いしますが、それでも乗っている間は生きた心地がしません。どうして公共の場はすべて禁煙にならないのかと真剣に思っています。私は喫煙者に対して何の迷惑もかけませんし危害を加えることもありません。しかし喫煙者は常に私に不利益をもたらします。せっかくおいしい食事をいただこうと思ってきているのにカウンターで隣でタバコを吸われた時、どうして私が吸わないように謝らなければならないのでしょうか?もしきっこさんが食事の席で突然見知らぬ他人に首を絞められたとして、その人に「申し訳ありませんが息が苦しいのでやめていただけますか?」と笑って話しかけることが出来ますか?申し訳ありませんが弱者は「喫煙者」ではなく「非喫煙者」であることをご理解ください。もちろんきっこさんが非喫煙者に常に配慮されていることは文面からみてわかります。いいかげんなブログにはメールを出す気にもなれませんが、きっこさんだからこそわかってほしいと思いメールさせていただきました。これからも楽しいブログを期待しております。

・私は神戸で開業している医師です。貴女の日記を読んで少々意見を述べさせていただきます。他人の煙草の煙を吸うことを受動喫煙と言い、その害は明白であり3年前の健康増進法でも受動喫煙の禁止が法律で明文化されています。ですから、人前で煙草を吸うことは人混みで刃物を振り回していることに他なりませんのでご注意下さい。喫煙云々は、禁煙権や喫煙権の問題ではなくて自分のみでなく他人に危害を加えるという問題です。

・禁煙活動をやっている医師です。昨年度の「今日の治療指針2006」の「禁煙指導」の項などの著者です。日本呼吸器学会、喫煙問題に関する検討委員会委員。日本禁煙学会の監事もつとめさせて頂いています。3月25日の記事について、誤解があるようなので一言お伝えします。日本でも、健康増進法25条があり、労働安全衛生法の細則で事業所衛生基準規則の空気環境の項目というのがありまして、現在の日本での喫煙放置状況では、「分煙」では簡単にこの環境基準に違反する空気汚染となってしまいます。産業医大、大和浩教授や東大の中野ゆりさんらが新幹線などの車両の汚染状況を詳細に調べていますが、禁煙車であっても、喫煙車の隣の車両では、かなり汚染が酷いことが判っています。欧米では、居酒屋でも禁煙となっている国が増えていますが、居酒屋勤務者が一人でも汚染された空気の元で働くと言うことであれば、労働環境違反という観点からも、誰でもはいれる室内での完全禁煙が推進されています。タクシー運転手の職場環境を守るという観点でも、タクシー禁煙訴訟が起こされています。パチンコ店の労働者の健康を守る観点からもタバコは規制して欲しいと思います。FCTC(タバコ規制枠組み条約)という国際条約を日本は批准しましたが、国内でそれを遵守する体制は整っておらず、担当部署の財務省はそれに違反する答弁を繰り返しています。(国際条約ではタバコは厚生労働省の管轄下におかれるべきだということがうたわれていますが、それすら日本は従っていません)きっこのブログのファンですが、25日の日記だけは、ニコチンに心を蝕まれた中毒者の弁になってしまっているなあと残念に思いました。

以上のようなメールがワンサカ届いたそうです。
で、きっこさん曰く、

ニコチンに心を蝕まれてる中毒者で、人混みで刃物を振り回してるようなクレイジーなあたしとしては、何度も言ってるように、タバコを吸うことが許可されてるエリアで、周りに気を使いながらタバコを吸ってただけなのに、何でこんなに肩身の狭い思いをしなきゃいけないのか、やっぱり理解できない。
嫌煙者たちの言いたいことは、あたしは最初から理解してるつもりだから、どこに行っても気を使いまくってるし、たとえ灰皿の置いてあるお店であっても、周りの人たちに聞いてからタバコを吸うようにしてる。だから、ほとんどの場合は、タバコを吸いたくてもガマンすることになるし、どうしても吸いたい場合には、そこに灰皿があるのに、わざわざ外に出て、そのお店の裏の非常階段とか、近くの公園のベンチとかで吸ったりしてる。
で、続きなんだけど、まず最初に、あたしが何に対して疑問に思ったのかってことを繰り返しておく。あたしは、そこが喫煙を許可されてる場所でも、周りの人たちにタバコを吸っていいかどうか聞いて、1人でも「嫌だ」という人がいたら、絶対に吸わない。そんなあたしが、周りの人たちもみんなタバコを吸いながらパチンコを打ってた喫煙OKのエリアで、周りの人たちとおんなじようにタバコを吸いながらパチンコを打ってたら、あとからそこにやって来たオバサンから文句を言われたワケだ。そして、そのことについて「理解できない」ってことを日記に書いたら、たくさんの反論が届いたってワケだ。

私は、これらのメールを見て、社会ヒステリー現象もここまできたか!と驚いた。

喫煙の是非(副流煙・マナー)を云々する前に考えてもらいたいのは、きっこさんのこの『出来事』について「身勝手な独りよがりの正義を振り回すオバサン」が正しく、まさに正義の味方であるとする論調、きっこさんを大悪人とするメールがたくさん届くヒステリー現象は日本国にとって危険な兆候といえる。
私からすれば、喫煙場所でタバコを吸っているきっこさんを睨みつけ髪がなびくほどパタパタ仰ぐこのオバサンは礼儀をわきまえない「無礼者!」である。
きっこさんをニコチン中毒者、大悪人と非難する人は、例えば、この場合、「すみません、私、タバコの煙に弱いんですけど、この種の台が禁煙コーナーになくて…。ちょっとタバコ吸うの控えてもらえませんか?」等、事情を話せば、きっこさんは快諾しすぐタバコを吸うのを止めた、とは考えないのだろうか?
その後「この台、面白いんだよねぇ」とのコミュニケーションに繋がることも考えられる。喫煙車での話もそうだが、喫煙許可された場所(コーナー・車両)では、その位の『事情説明』(すみません…云々)はマナーといえるのでは無いだろうか?
『何で私が喫煙者(悪)にあやまらなければならないんだ』とする傲慢さは、社会ヒステリー現象の特徴です。

このオバサン側に立った心理は、「駆けつけて、あえて巻き込まれて戦争するつもりだった。仲間(同盟軍)が攻撃されているのに黙ってみている訳には行かないだろ? 日本の法律で裁かれるなら喜んで裁かれてやろう。」発言をした、法律を無視して独りよがりの正義を振り回す「法律を作る立場の国会議員」を『そうだそうだ。憲法が悪い』と味方する心理に通じる。国民に警告を発しないマスメディアの情報操作によって、国民的ヒステリー状態は作り出される。

国民的ヒステリー現象の元凶はマスメディア

2007年09月11日 | Weblog
◎マスメディアが発達した現在、本来対立した意見が争われるべき状況において、マスメディアによる宣伝・情報操作を媒介し、極端に一方の側に支持が偏った状態が生じる。

ある事件が起きる。それをきっかけに強力で支配的な『物語』がマスメディアの世界で創造される。それはますます増殖していき、拡張され、感情を強烈に刺激し、『物語』自身がひとり歩きしていく(世論)。メディアだけのせいではない、一般大衆、利害集団、マスメディア、政治家たちがいっしょくたになって複合的に相互作用しつつ、ヒステリーの度合いが増殖していく。
ヒステリー現象は、急激な変化や不安、不確実にゆれる時代に、イデオロギーも社会的バックグラウンドも異なる多様な人々を、『憤怒』を共有する共同体としてひとつに統合する。…テッサ・モーリス=スズキ(「世界」2月号)

津久井弁護士は、その段階を次の様に言っている。

    ■不正かどうかを,形式的に簡単に決めつける
    ■悪いとなると,社会全体で一斉に袋叩き(バッシング)する
    ■それが一気に国民的ヒステリーに高まる

最近の一例が「山口県光市母子殺人事件」の被告人弁護団に対するバッシングである。
この件に関しては、下記ブログを是非見て下さい。

きまぐれな日々
http://caprice.blog63.fc2.com/blog-entry-430.html

津久井進の弁護士ノート(9月4日)
http://tukui.blog55.fc2.com/blog-date-20070904.html

津久井進の弁護士ノート(9月8日)
http://tukui.blog55.fc2.com/blog-date-20070908.html

上記3ブログから引用…

「ヒ ス テ リ ー の 政 治 学」より

(著者は)民主主義の国にも、ときおりヒステリー現象が起きて、国論を一気に傾けてしまう危険性があること、現在のアメリカでのイラクをやっつけろの世論、日本での北朝鮮けしからんの世論が、共通してヒステリー現象であることを指摘し、それを克服するには、他者の声を聞くことが大事だと、結論している。

多様な価値観をお互いに認め合い、報道の自由を保障する民主主義の国でも、ときおりヒステリー現象が起き、政治がゆがめられ、それからの回復に長い時間がかかることを歴史は教えている。アメリカで1919年から20年にかけて起きた「赤い恐怖」(ソ連スターリンの独裁政権誕生→赤化理論)、1950年代のマッカーシズム(アカ狩り)などの例がある。

9・11テロとイラクとの関係はほとんどない。イラクがアメリカの脅威になるような大量破壊兵器を開発しているという確たる証拠もほとんどない。にもかかわらずアメリカの国民の大多数が、イラクを攻撃することに賛成してしまった。他国からは信じがたいほどの国論の統一ぶりであるが、これは、9・11テロがもたらしたヒステリー現象のゆえである。

同じようなことが、今の日本に拉致問題への反応として起きている。拉致問題は北朝鮮というとんでもない国によって起こされた許し難い事件である。しかし、問題が明るみに出て以降の日本のマスメディアと一般の人々の反応は政治的ヒステリー現象そのものといえる。
「拉致事件という事実の核は、国民的強迫観念となり、日本と北朝鮮の関係をめぐる他のきわめて重要な課題に関わる議論を雲散霧消させてしまった。」「その結果、日本が周辺地域の政治的未来を形作る、重要で有益な役割を果たす…機会がほとんど失われてしまった。」

「しかも、この騒ぎがどれだけ拉致被害者たちに役立っているかどうかは問い直される必要があるだろう」
政治的ヒステリー現象の一つの特徴は、非人間的で冷たい“他者”(悪)に、人間的に暖かい“われわれ”(善)、という単純化されたイメージが対置されることである。日本のメディアで毎日聞かされる拉致問題の報道は、その通りである。北の極悪非道ぶり、拉致被害者へのふるさとの人々の温かい歓迎ぶり。その報道の中で、拉致被害者たちの内心にある複雑な思いや困惑は完全に封殺されていることに誰も気がつかない。

政治的ヒステリーから抜け出すのは、なかなか難しい。それに異議を唱える人を謀反的とか、相手を利する裏切り者として切って捨ててしまうからである。相手側の主張はすべて偽りであり、したがって何も耳を傾ける必要がない、となってしまう。(無風注;今の「左翼(アカ)」思想だから全て偽りとする世情もヒステリー現象の現れ。)

著者は、ヒステリー状態から抜け出すには、『他者』の声に耳を傾けることが重要だと指摘する。ヒステリー状態は、いわば外の声の聞こえない「防音室」に入り込んでいるようなものである。その防音室の壁に穴を開けて、外の声に耳を傾けることでしか、ヒステリーから脱却できる道はない。

「国内のマイノリティの声を聞くこと、当事者でない国々の視点から見ること、『他者』の視点からは当面の論議が一体どのように見えるかを考察すること、そして『向こうの他者の側』のさまざまな声にさえも懐疑をもって批判的に注意深く耳を傾けること、によってのみ防音室から抜け出せる。」という。

具体的には「日本のアジアの隣人たちの多様な声がもっとはっきりと日本のマスメディアの中で聞かれるまでは、北朝鮮との関係正常化はきわめて困難な道を歩まざるを得ないと私は思う。」と結んでいる。…引用終り

「きまぐれな日々~言論が一方向に振れる時」から引用

山口県光市母子殺人事件をめぐってマスメディアが発達した現在、「言論が一方向に振れる時」というのがしばしば現れる。本来、対立した意見が争われるべき状況において、マスメディアによる宣伝を媒介して、極端に一方の側に支持が偏った状態が生じてしまうことだ。

「郵政総選挙」はその悪例の一つだった。人々は「郵政民営化」の内容もよく理解せず、「抵抗勢力」を相手に戦うコイズミに熱狂した。その「カイカク」が幻想であったことを悟るのに、コイズミが首相になった頃から数えて実に6年を要した。安倍晋三は90年代前半以降コイズミ政権成立までの10年を「失われた10年」と称しているが、これは誤りである。経済危機を新自由主義的手法で乗り切ろうとした1997年以降、小渕、森、コイズミ、安倍と政権が変わるたびに政治家の質がどうしようもなく劣化していった現在までの10年間こそが「失われた10年」であったことを国民は共通認識とすべきである。

時の為政者が宣伝を仕掛け、民衆の心をくすぐる甘言によって国民をダマした最悪の例が、ヒトラーのナチス・ドイツであって、コイズミのやり方はそのミニ版に過ぎず、最悪の事態に至る前に国民がその迷妄から醒めそうなのは、まだ油断はできないとはいえ喜ばしいことだと思う。 (参院選の結果)

私が、国民的ヒステリー現象の例の一つであると考えているのが、1999年に起きた山口県光市母子殺人事件をめぐる言論状況である。

この事件に絡んで、事件当時18歳になったばかりだった被告を何が何でも死刑にしようという風潮を、かねがね私はとてもうさんくさく思っていた。「はてブ」のコメントを見ると、賛否両論があるが、少なくともマスコミ報道やそれに影響された世論に見られるような「被告を何が何でも死刑にせよ」という主張への極端な偏りは見られなかった。こういうカウンター的言論を広めるのに、ブログという媒体は捨てたものではないと感じた次第だ。

さらにその後、雑誌「創」の2007年9・10月号に、やはりこの事件に関する一方的な言論へのカウンターとなる記事が掲載されていることを知った。本エントリではこれを紹介したいと思う。

ジャーナリスト・綿井健陽氏による「これでいいのか!? 光市母子殺害裁判報道」という記事がそれである。この記事は、下記のように書き出されている。

「光市母子殺害事件」弁護団への激しいバッシングが続いている。カッターナイフの刃が送られたり、殺害予告が届いたり‥‥。この「私刑(リンチ)」の雰囲気は、一体誰が作り上げたものなのか。

「広がる弁護団への非難・中傷・嫌がらせ」と題された最初の章の最後から、次の章「限度を超えたメディアの『暴走』」の最初の部分にかけてを以下に引用する。

この裁判をめぐって、それは社会といっていいのか、それとも単に世間や大衆と言うべきなのか、いやそれともマスメディアだけなのか、その注目される部分がほかとは相当異なっている。それは「被告の元少年が何を法廷で話すか、どんな顔つきや態度なのか」という一般的な興味とは別に、「どんな弁護士たちなのか、その弁護団が何を主張するのか」という部分にゆがんだ形で向けられている。そして、そこから派生する弁護士たちへの非難・誹謗・中傷・嫌がらせ、そして相次ぐ脅迫まで、いわゆるネット空間だけの限定現象ではなく、メディアと市民が一体となった形で、この国に少しずつ広がり始めている。

限度を超えたメディアの「暴走」

 これらの現象に関して永六輔氏は、本誌(注:「創」)編集長も出演しているCS放送「朝日ニュースター」(7月21日放送)の番組の中で、「僕がテレビの実験放送から始めたとき、アメリカからジャーナリストが来て『スタジオは裁判所じゃないですよ。スタジオを裁判所にしないように』と繰り返し言われたいまは裁判所になってるでしょ。『ニュースキャスターは裁判官ではありません』と言われたが、最近は裁判官に近いでしょ」 「昔は『村八分』というこれも差別がありましたよね。今はテレビ(マスメディア)のおかげで『国八分』になっている。日本中でという形になっているのが怖い」と指摘していた。

 テレビのスタジオはもちろん、雑誌・ネット上からご近所の世間話の類まで、この事件のことに対してはみんな何かしらの意見を述べる。いわゆる「感想」を話したり、判決を「予想」したり、あたかも誰かの「代弁者」のように怒ったり、それらは「世論」の上に乗っかることが参加条件だ。繰り返されるメディア情報だけを材料に、裁判長や検事になったかのように話す。決して被告の側やそれを弁護する側ではない。この裁判の法廷は広島高裁にある302号法廷一つしかないはずなのに、その法廷以外のあちこちで別の「裁判」が進行しているといった方がいいだろうか。いや、それらは決して「裁判」ではなくて「私刑(リンチ)」に近い。

昨年6月の最高裁判決の前日、安田好弘弁護士は都内で講演した。前回の最高裁での弁論を「欠席」した際(それまでは認められるはずの延期申請ができないという理由の「欠席」だった)、一日100件以上の電話が弁護士事務所に来たそうだが、その内容のほとんどは「弁護は不要だ」 「死刑にすべきだ」という内容だったという。これに対して彼は「電話の向こう側から『殺せ、殺せ』という大合唱が聞こえてくるようだ。『許せない』ではなくて、『殺せ』という精神的な共謀感なのか。世の中が殺せ、殺せという動きの中で、司法がちゃんと機能するのかが問われている。明日は裁判という名の『リンチ』が起こる」(筆者=綿井健陽氏=のメモより)と話していた。 (「創」 2007年9・10月号掲載 綿井健陽「これでいいのか!? 光市母子殺害裁判報道」より)

記事の筆者・綿井氏は、差し戻し控訴審が行われている広島高裁を通りかかる市民から何度も「もう判決は出たんですか?」と聞かれ、みんな「死刑か、それとも無期か」という部分にしか関心がないようだ、と感じたという。綿井氏は、2002年の北朝鮮による拉致被害が明らかになった頃のメディア状況を連想したと書く。確かにこの時のメディア放送も冷静を欠いたものだった。その状況で、国民の反北朝鮮感情を煽って人気を高めたのが安倍晋三官房副長官(当時)だったことはいうまでもない。

綿井氏は、この裁判の弁護士・安田好弘氏がことあるごとにテレビのテロップで「死刑反対運動のリーダー的存在」と紹介されており、テレビ報道が「裁判や被告人が死刑廃止運動に利用されている」という流れに誘導しようとしていると指摘している。そして、もし安田弁護士に対して「死刑廃止運動のリーダー的存在」という肩書きを裁判報道で用いるなら、被害者遺族の男性にも「犯罪被害者の権利を求めてきた運動の象徴的存在」という肩書きを使わなければ公平ではないだろう、と主張している。まことにもっともな論旨だ(但し、それは被害者遺族の男性の思いとは相当異なるだろうとも指摘している)。

さて、綿井氏は、この裁判に関する新聞メディアの報道は、テレビとは異なって節度を保っていることを指摘している。5月の差し戻し控訴審初公判翌日(5月25日)の紙面は、地元の中国新聞は被害者側に沿った記事を書いていたが、毎日新聞は一面トップで司法制度のあり方に言及して、「拙速は許されない」と逆の意見を述べ、読売新聞の広島版では「遺族、早期結審願う 弁護側は慎重な審理求める」と両論併記の形をとっていたそうだ。新聞によってスタンスは異なるものの、決して一方的な報道ではなかった。

それに対してテレビ報道は前述のように一方的なものだし、雑誌に関しても、差し戻し審開始の頃から、「週刊新潮」、「週刊ポスト」、「フライデー」などが一方的に被害者遺族男性(本村洋氏)側に立った報道を行い、その攻撃対象は被告の元少年から弁護団の方に移ってきていると綿井氏は書いている。ここで指摘されているように、「週刊ポスト」も、最初はそういう報道だったのが、先日になって自らの報道のカウンターになるような記事を掲載したというわけだ。このあたりに同誌の雑誌ジャーナリズムの良心を見る思いだ。

ネット言論はどうだったかというと、コイズミの「改革ファシズム」に反対の声をあげて一躍注目されたリベラル系の某有名ブログが、この件で被害者親族の男性に入れあげて、センセーショナルに厳罰を求めるネット言論を煽りに煽っていたことが思い出される。保守系のブログはもちろん厳罰主義を支持していたから、ネット言論では、保守系・リベラル系を問わず、かなり一方的に被害者親族の男性側に入れ込み、被告の元少年や弁護団を激しく非難する論調に偏っていたといえると思う。

綿井氏の記事に戻ると、記事は、弁護団が3日間の集中審理を終えて6月28日に会見した際の記者との質疑応答に触れ、安田弁護士が「被告は殺害行為をやっていない。最高裁が認定した殺害行為は誤りだ。これは死刑の回避の問題ではない。司法権の適正な行使の問題だ」と主張したことを紹介している。

以下、記事の結びの部分を引用、紹介する。

被告の供述を裏付ける重要な客観的証拠は確かに存在する。その一部は『光市裁判 なぜテレビは死刑を求めるのか』(インパクト出版会)に鑑定書が掲載されているが、「被害者の女性を両手で首を絞めた」 「赤ちゃんを床に叩きつけた」という部分の「両手」 「叩きつけた」という検察の主張を裏付ける証拠はない。これらの遺体の痕跡についての判断は今後の裁判で明らかにされるだろう。そして、新たな客観的証拠も今後の公判で弁護団から提示される予定だ。

「弁護団は死刑廃止運動にこの裁判を利用している」という批判ばかりが世間を覆っているが、この弁護団は上記のようなことを含め、事件現場での事実をこれまでできる限り一つ一つ丁寧に解明してきた。むしろ検察側(あえて強調しておくが遺族側ではない)の方が、この裁判を今後のこの国の死刑や量刑の基準として示そうとしている、もっと言えば司法全体がこの裁判を日本の社会へ向けて、ある種の「見せしめ」として政治利用しているとさえ私には思えてくる。

 広島地方の梅雨が明けた直後の7月24日、また3日間の集中審理が始まった。広島高裁の法廷の中では今後も審理が着々と進められる。だが、法廷の外で展開するこの裁判をめぐる「報道」と「反応」は、このままではさらにエスカレートする可能性が高い。NHKニュースはこの裁判を伝える際、「18歳の元少年に死刑が適用されるかどうかが争点です」とナレーションで説明する。しかし、この裁判は「死刑」を争う裁判ではなく、ひょっとするとマスメディアによってあおられる「私刑(リンチ)」が、我々が住んでいる社会にどんな結果をもたらすことになるかを世に示す裁判になるのかもしれない。本当にそれでいいのだろうか。
(7月25日広島にて) (「創」 2007年9・10月号掲載 綿井健陽「これでいいのか!? 光市母子殺害裁判報道」より)

ネット言論は、このようなテレビによる極端な意見への誘導を煽るものであるより、多様な視点を提供して、一方向への暴走に歯止めをかけるものでありたい。そのような実践を伴ってこその「反(カイカク)ファシズム」ではなかろうか。

なお、本エントリで紹介したのは、記事のほんの一部だ。読者の皆さまには、雑誌で記事全文に当たられることを是非おすすめする。…引用終り

ポイントを引用しようと思って、ほとんど全文載せてしまった。それほど、色々な面で重要な指摘がされている。

またまたマスメディア批判

2007年09月10日 | Weblog
◎木に縁(よ)りて魚を求むの愚

木に縁(よ)りて魚を求む=木に登って魚を捕ろうとするようなものだということで、間違った手段をとっては何かを得ようとしても得られないということ。方法を誤ると何も達成できないということ。

前に「『野党は牛タン戦術等3つの方法で対抗しましたが、与党の賛成多数で○○法は可決されました。牛タン戦術とは云々…そして第2の対抗策は…云々』といった報道で成立した○○法の内容については一切報道しない。 マスメディアの報道の仕方がおかしくなった。そのせいで、例えば国民投票法が可決されたときのアンケートで、その内容を知らないと答えた国民が85.6%もいた。」と書いたが、マスメディアが与野党の対決を興味本位に面白おかしく報道し、本当の問題点は何か?といった国民の立場にたった報道・評論が姿を消してしまった現状は、最近読んだ「実録 現代の独裁者」の独裁者の手口を思い起こさせる。

ナチス・ドイツもそうだが、共通する独裁政治への手口

(1)マスメディアの報道規制による言論統制および情報操作

(2)反対のデモ等、自分に反対する国民を国家権力で弾圧し逮捕・投獄する。→すぐに国民は沈黙する。

(3)反対党や対抗勢力(政治家)を「罪」に落としいれ、それにより国民を味方につけ、反対者を失脚させる。または投獄・処刑する。
 
(4)国民の生活苦等を解決する英雄のイメージをつくりあげるため、少しの”実績”を国民に実感させる。

等々、独裁・全体主義への道には共通のパターンが見られる。

これを、今の日本国に当て嵌めると…

(1)マスメディアの統制…今回のNHKトップ任命の政府人事(従来と異なる)
 ここからNHKが政府支援機関・政府広報機関となった。政治的なものを排除し「和の心」「ご近所」「相互扶助」「日本の美・伝統・職人芸」「環境」「福祉」といった国民を洗脳しようとしている政府の意図を踏まえた番組が増え、あとは食・健康・赤ちゃん・子供教育・語学・自然・動物等の無難な番組が並んでいる。また、前代未聞の総理大臣のマスコミ提訴。→『言論テロ』と国民を味方につけた新聞社の言論統制。国民にも「反戦平和や憲法改正反対を唱える人は左翼(アカ)」と思わせることに既に成功(?)している。
(無風注:昔のNHKの番組「ニュース解説」は、現在のブログの様に、『ああそうだったのか』といった目からウロコの解説が多かった。また「事件記者」も庶民の生活に密着した社会性(政治を含めた社会悪の批判)があった。)

(1)-2情報操作…総務省、文部科学省、厚生労働省、農林水産省、宮内庁などがインターネット百科事典『ウィキぺディア』を編集・削除していた。その多くは行政に関する項目で、行政に批判的な記述をカタッパシから削除したり、自分たちの都合のいいように書き換えたりしている。

(2)反対のデモ等を監視・威圧し『法律に則って』逮捕・拘留している。…国民の権利行使の萎縮的効果(前述)

(3)反対党や勢力を「罪」に落としいれ、国民を味方につける。…消えた年金問題で「基礎年金番号制度の導入を閣議で決定したのは、民主党の管直人じゃないか!」と菅直人氏の誹謗中傷ビラを自民党名で10万枚も作成。
又、「野党は反対するだけで対案も出さない。」といった『何でも反対する無責任政党』で自民党は「責任政党」とのアピールを連発し、国民を味方につける。

何となく、現在の世界の独裁者の手口に似ていませんか?

いまマスメディアに携わっている人たちに考えてもらいたい言葉を並べます。

◎「不正」の存在を前にして黙って見過ごす人は、実はその場にいない(当事者ではないが)「共犯者」にほかならない。(ラスキ)

◎本来のマスコミの基本姿勢は、権力者を厳しく監視し、常に真実を追求し報道することである。

◎国民にとって重要な問題に対し、国民に判断材料を提供することこそ、マスメディアの使命です。

◎マスメディアは政治報道のあるべき姿に立ち返り、国民の立場に立った報道・論評を貫くことが求められます

「マスメディアの使命」で検索していたら、下記のブログ(?)が載っていましたので引用しておきます。(出処は共産党のHP?)

 民主党と自民党が相次いで党大会を開きました。各新聞の報道では、とくに民主党について、「与党との違い示せるか」(「読売」十七日付)、「安倍vs小沢 決め技欠き」(「毎日」同)などのように、自民党との「対抗軸」を示せなかったというきびしい評価がほとんどです。
 東京で発行されている各新聞の社説(十七日付、「毎日」は十八日付)を見ても、「朝日」や「毎日」、「東京」は、「自民対民主 目をそらさずぶつかり合え」(「毎日」)、「民主党 逃げずに真っ向勝負を」(「東京」)などと、民主党に自民党との「対抗軸」を求める立場から、民主党について論じています。逆に、「読売」や「日経」、「産経」は、民主党に“対決”よりも同調を求める立場で、「『対決』だけでは信頼は得られない」(「読売」)、「民主党は政策で勝負せよ」(「日経」)、「野党共闘優先でよいのか」(「産経」)と主張しています。…マスメディアに求められるのは、まず正しい事実を伝え、国民・読者に選択肢を提供することです。自民か、民主かと、「二大政党」の枠からだけ見るのではなく、改憲にせよ、「構造改革」にせよ、国民にとっての重要問題で各党の態度はどうか、その違いはどこにあるのか、問題のほんとうの対決軸は何かなど、国民に判断材料を提供することこそ、マスメディアの使命です
近年、日本のマスメディアでは、自民か、民主かと、人為的に「二大政党」の対決をあおり立てる報道や論評が強まっています。心あるジャーナリストからは「日本ではたとえば憲法に関して、自民党と民主党という対立とは別の軸があるのに、そういう軸では語られない。戦わされるべき理念の違いを突き詰めて考えようという伝統が日本の政治報道に欠けているのではないでしょうか」(『論座』昨年十一月号)という反省が聞かれるようにもなっています。
マスメディアは、政治報道のあるべき姿に立ち返り、国民の立場に立った報道・論評を貫くことが求められます。…引用終わり

何回も言いますが、「不正」の存在を前にして黙っているマスメディアは日本国を独裁社会にもっていく共犯者です。

報道自主規制=「黙っている(国民に判断材料を示さない)マスコミ」の罪状の大きなものを挙げます。

・自衛隊の海外(イラク)派兵 ・教育基本法の改正 ・耐震偽造の徹底追及 ・憲法改正(案)・国民投票法 
・有事立法 ・教育三法 ・自衛隊の国民監視 ・自衛隊の辺野古派遣(調査名目) ・元陸上自衛隊イラク先遣隊長佐藤正久議員の「駆けつけてあえて巻き込まれて戦争をする」「日本の法律で裁かれるなら喜んで裁かれてやろう」発言 ・テロ特措法違反 ・平和デモの過剰警備抗議で逮捕 ・予防拘束(別件逮捕)等々、マスメディアが権力者を監視し、国民に警告しなければならない(判断材料を提供しなければならない)事例は山ほどあります。

今日は、本当は、マスメディアの情報操作による国民的ヒステリー現象について書こうと思って書き始めたのですが、気力が続かないので又,次の機会にします。

また、年を取ったせいで、考え・体系が纏まらず同じようなことを何回も言っている(くどくなっている)ので、どなたか体系的にまとめて頂けたらありがたい。

その意味では私のブログは転載・編集記載、大歓迎です。少しでも使えそうな部分があったら使って下さい。

「戦後レジュームからの脱却」批判

2007年09月07日 | Weblog
今日の言葉

◎蹟を以って人を観れば、即ち人を知るに足らず。蹟を以って古(いにしえ)を師とせば、即ち以って古(いにしえ)を願うに足らず。

出展は分からないし、私はこの文の出だしの文言「天地の先、我知らず…」の方が好きなのだが、その部分を紛失してしまった。

今日はこの言葉を踏まえて、政府が改革推進(美しい国へ)の思想的拠り所としていると見られる「国家の品格」(藤原正彦氏)について批判してみたい。

藤原氏の考えの基本に次の点がある。(インタビュー等より抜粋)

(1)「日本人はこれまでに、2回も過去を捨てさせられてしまっているんですよ。最初は明治維新。薩長が“封建制の圧政で庶民が抑圧されてきた”と大ウソを言って江戸時代までを否定した。
(2回目は)第二次大戦後です。今度はアメリカと日教組が、すべてが日米戦争につながったとして、戦前の日本を全否定した。」
(2)「たとえば江戸時代の日本は、260年もの間、世界最高の識字率を誇っていた。幕末、日本にやってきた欧米人が“一般の町人が本を立ち読みしている。こんな国はとても植民化できない”と驚いたぐらいだった。
(3)そうやって長い間をかけて培ってきた文化と伝統を、全部なかったことにしてしまったわけです
(4)(教育について)
「教育について日本人は昔から“読み書きそろばん”といって、読むことが最初に大切で、その次に書くこと、次に計算すること、この3つが人間にとって最も大切だとしてきた。これは本質中の本質。ところが、それも“ゆとり教育”だのと理屈をつけてなしにしてしまった。それどころか、最近では小学校や中学校で金融、株の教育をやろうと言っているでしょう。“読み書きそろばん”をまともに教えずに、金融だ経済だなどとやるのは本末転倒、甚だしい」
教育改革においてもっとも大切なことは、「不易」に充分の配慮をすることと考えます。これを怠り、その時々の流行に目を奪われていると、教育は時流に翻弄されることになります。人間の本質は時代とともにさほど変らないものですから、その結果、人間自身が時流に翻弄されることになります。
現在、国際化、情報化、グルーバル化・・・など様々な時流がありますが、少なくとも初等教育においては、その影響を極力排し、「不易」に徹すべきと考えます。
具体的には、時間数において大正時代の三分の一程度となった国語を飛躍的に充実し、国語を通して言語能力、論理的思考力、日本人としてのアイデンティティーなどをしっかり教えることが肝要と考えます。…抜粋終わり

私も(4)教育について、で藤原正彦氏の指摘されていることは正論だと思います。(近頃のTVのクイズ番組の国語関係の出演者の解答を聞いているととぼけてワザと言っているのではないか(やらせ)と思う「怪答」が多く、子供たちに訊くと「本当に答えを知らないんだよ」との返事。「学校で何を教えているのか!」と嘆かわしくなる)
又、(2)の江戸時代の文盲率の低さは私でなくても「日本に生まれて良かったと思っている90%以上の日本人」が知っている「日本の誇るべき点」(常識)である。それを藤原氏のように「敗戦により戦前の日本の伝統文化を全否定され、過去を捨て去られた結果、日本人に誇るべき過去がなくなってしまった。」と短絡的に結論付けるのは間違いである。

こうした「正しい見方」を基にして、間違った結論に導いているのが藤原氏の理論であるが、それを権力者は次の様に上手く利用することになる。

(1)と(3)をまとめて、権力者の主張と結びつけると、

「敗戦後、日本はアメリカと日教組によって戦前の日本を全否定され、『たゆまぬ努力によって築いてきた』伝統・文化を全部捨てさせられた(無かったものにしてしまった)」
          ↓
「日本人に誇るべき過去がなくなってしまった。」
          ↓
「愛国心を教育し、日本人としての誇りを持ち、伝統文化を重んじる『国家の形成者として必要な資質』を持った国民をつくる」

更に悪いことに、藤原氏は取り戻したい過去を江戸時代の文化・武士道精神にまで遡らせており、その結果、封建制度からの脱却=「万機公論に決すべし」や独裁政治・戦争を否定し「主権在民」をうたった現憲法も「戦後レジュームからの脱却」の対象にされ、権力者の改憲による独裁政治を目指すための強力な思想書となってしまった。
もっとも、これは藤原氏の考えと一致しているのかも知れないが…。

(藤原氏のこの『国家の品格』を批判しているブログを引用)

著者は階級制度を支持するようなことを主張していますが

そんなものは、とうの昔に否定されたものです。

他にも、絶対王政を説いたホッブズまで支持しています。

いったい、どんな社会を理想だというのでしょう?

国家の安定や、安全、発展のために、個人の自由を失った社会でしょうか?

著者は、自由の価値まで否定していますが…

著者が望む国家というのは、『国家の品格』のために、個人の幸福を犠牲にした国のようです。

著者は、論理というものの限界を指摘し、(ディベート社会の)欧米を批判する態度をとっています。

それによって、日本の良さを再認識させるような論調です。

特に武士道を道徳の規範として、世の中の秩序を回復しようとしているようです。

現在、強固にある、欧米の価値観を否定するために書いていますので

多少、いきすぎたことを主張している部分もありますが

そういうものだと思って読んでみると、なかなか鋭いことを言っているとも感じられます。…引用終わり

藤原氏は、「日本人が古くから持つ精神性――別の言い方をすると“情緒と形”を見直すことが重要になります。情緒は豊かな自然や文化がはぐくんだ感受性、形のほうがモラルですね。形=モラルとは、簡単に言ってしまえば武士道精神のことです。慈愛、誠実、正義、勇気、忍耐、惻隠(そくいん)、名誉と恥、卑怯を憎む心、公の精神。これが武士道精神であり、日本人の原形を成すメンタリティなんですね。ところが、さっき言ったように、戦後になってアメリカと日教組が、日本がもっていた素晴らしい武士道精神を戦争に結びついたとして捨てさせた。忠君愛国の部分が戦争に結びついたのは事実だが、ほかは関係ないんです。忠君愛国を除けば、ほとんどイギリスの紳士道(ジェントルマンシップ)と変わらない」といっていますが、愛国心教育をうたう権力者が「忠君愛国」も除かずに教育に取り入れようとするのは目に見えています。

確かに私の子供の頃から「民主主義」が一番良い制度か?という政治体制に関する議論はありました。聖人君主による首長制・コンピュータによる公正な政治(判断)等々、ただ色々な制度も官僚主義で見られるように「権力は集中したり、長期化すると腐敗する」というのが現実のようです。

従って私は現在のところ下記の言葉を正解としています。(もう何回目かな?)

◎「民主主義とは悪い制度だ。しかし、ほかのあらゆる制度のうちでは最もましである。」(W・チャーチル)

◎「専制国家があるかぎり、私は民主主義を批判する気にはならないだろう。」(ジャン・ロスタン)

偉大な小説家三島由紀夫が偉大な政治指導者ではなかったように、偉大な数学者が必ずしも偉大な政治思想家・社会学者とは限らないのである。

詳しくは、「国家の品格」批判1~4 http://www8.ocn.ne.jp/~washida/colum060406.html

上記ブログは「戦争廃絶はフィクション」「民主主義はキライ」等、私と「ものの見方・考え方」で根本的な違いはあるが、藤原正彦氏の「国家の品格」批判ではかなり鋭い見方をしているので、参考にされたい。

独裁政治から戦争に至る道

2007年09月06日 | Weblog
「今日の言葉」はもう何回目の掲載になるだろうか?60年近く前の文部省作成教科書を無風流にアレンジ。

◎「国民のすべてが独裁政治によってもたらされた塗炭の苦しみを骨身にしみて味わった(=太平洋戦争のこと)。独裁主義は、民主化されたはずの今後の日本にも、いつ、どこから忍びこんで来るかわからない。
独裁政治を利用しようとする者は、今度はまたやり方を変えて、もっとじょうずになるだろう。
今度は、だれもが反対できない美しい名まえを借りて、こうするのがみんなのためだと言って、人々をあやつろうとするだろう。弁舌でおだてたり騙したり、金力で締め付けたり誘惑したり、世の中をわざと混乱におとしいれ、その混乱に乗じてじょうずに宣伝したり、手を変え品を変えて、自分たちの野望をなんとか物にしようとする者が出て来ないとは限らない。」


毎日毎日、よくもこんなに「民主主義の終焉を告げる」出来事が起きるものだ、とあきれ返る。頭の中に書きたいことが溜まり過ぎて混乱してしまった。
本来であればこの日記は哲学的に「実存主義」の考え方から「ものの見方・考え方」を語って行きたいと意図して書き始めたのだが…。

本題に入る前に「戦争をしよう」としている人たちの記事を載せる。

北海道新聞 社説

駆けつけ警護*制服現場の危険な発想(8月25日)
 
元陸上自衛隊イラク先遣隊長の佐藤正久参院議員が派遣当時、憲法解釈で禁じられている「駆けつけ警護」を行うつもりだったことを明らかにした。

 「(陸自の警護に当たっていたオランダ軍が攻撃されれば)情報収集の名目で現場に駆けつけ、あえて巻き込まれる巻き込まれない限りは(武器使用が可能な)正当防衛、緊急避難の状況はつくり出せない(無風注:戦闘状態をつくれない=戦争することが出来ない)」

 佐藤氏は民放の報道番組でそう述べた。りつぜんとする発言だ。

 自衛隊は憲法によって海外での武力行使が禁じられている。政府は、海外で活動中の自衛隊が、攻撃を受けた他国軍のもとに赴いて応戦する駆けつけ警護は、武力行使につながるとして認めていない。

 国連平和維持活動(PKO)協力法やテロ対策特措法、イラク復興支援特措法でも、武器使用は「自己の管理下にある者」を守る正当防衛などの場合に限定している。

 法を逸脱する駆けつけ警護を自衛官が現場で勝手に検討するなど、シビリアンコントロール(文民統制)の原則からいって決して許されないことだ。

 佐藤氏に公開質問状を送った弁護士や学者らは、軍部の謀略によって鉄道が爆破され、日中戦争の発端となった柳条湖事件になぞらえて文民統制無視の姿勢を厳しく批判している。

 これは杞憂(きゆう)ではあるまい。

 佐藤氏は「普通に考えて手を差し伸べるべきだというときは行ったと思う。日本の法律で裁かれるのであれば喜んで裁かれてやろうと」とも述べた。

 独り善がりの正義を掲げ、法の処断を恐れずにそれを実行しようと高ぶる姿には、二・二六事件などを引き起こした旧日本軍の青年将校を思わせる危うさがある。

 佐藤氏は自衛隊を退職し、先の参院選で自民党から立候補して当選した。法を無視しても構わないというような考えを持っているのであれば、国会議員としての資質にも疑問が生じる。(無風注:新聞の社説なので穏やかな表現を使っているが、本当に言いたい言葉は「国会議員として失格である。辞めさせなければならない。」であろう。
法を無視しても構わないと「喜んで裁かれてやろう」発言した人が法治国家の立法の府国会の議員(=法律を作る人)でいられる日本はおかしいし、こんな慄然とする発言を他のマスコミが騒がず許しておく日本国もおかしい。)

 集団的自衛権の行使について議論している政府の有識者会議では、駆けつけ警護を認めるべきだとする意見が大勢を占めている。

 イラクで駆けつけ警護を行おうというのは、はたして佐藤氏個人の考えだったのか。政府や自衛隊の内部で了解があったのではないか。そんな疑念も膨らんでくる。

 佐藤氏の発言は、自衛隊の派遣先は非戦闘地域だというイラク特措法の前提をも揺るがしかねない。

 次の臨時国会ではテロ特措法の延長問題が大きな争点になる。

 現場の自衛官は何を考えているのか、佐藤氏のような考えがいまも現場にあるのか。この際、徹底的に追及しなければならない。文民統制を機能させるとはそういうことだ。…社説引用終わり。


さて、本題に戻り「世の中をわざと混乱に落としいれる」について。

(1)首相官邸ホームページより、教育再生策として、

  「このままでは日本はなくなる」等の危機感を国民に植えつける。(「ショック療法」と表現)

(2)政権党議員(中川昭一氏)の講演会での発言

  「20年後には日本は中国の何番目かの省になるだろう。」(無風注:もう日本はアメリカの51番目の州と言われているのに今更なにを言うか。)

(3)出版業界の協力

  「中国が世界をメチャメチャにする」「中国の『核』が世界を制す」「中国は日本を併合する」「中国は日本を奪いつくす」「『日中友好』は日本を滅ぼす」「中国、核ミサイルの標的」「日本の軍事力VS中国・北朝鮮」等々、ところ狭しと並べてある。

 長期政権政党(独裁政治)が失政から国民の目をそらせる最も良い方法は国民の「敵」を作り愛国心を植えつけることである。

◎『愛国心』は、ならず者(無法者=法を守らない者)の最後の逃げ場だ。 

・この「わざと混乱を作り国を独裁へ戦争へと導くやり方」を批判しているのは、反戦な家づくりhttp://sensouhantai.blog25.fc2.com/blog-date-20070901.html

以下、抜粋

こうしたい。
でも、そうできない。
なら、やっちまえ。


一番シンプルに戦争を考えると、こういうことだろう。
理屈はこどものケンカだが、やることは大量殺戮だ。

要するに、戦争なんて単純なのである。
これよこせ! と言って殺してぶんどるのが戦争なのだ。
にもかかわらず、日本でも、平気で戦争を賛美する連中が多くなった。


先日から2回ほど、本屋で足が痛くなるまで資料探しをした。

(それは下記の設定に答えてくれる本を探して…である)

ある日、日本から自衛隊が消えたらどうなるか?
さあ、改めて、日本は侵略されるのか。
もちろん、丸腰になる以上は、国連で永世中立国の宣言をするという前提だ。
そのうえで、いったい誰がどうやってどのような目的で攻めてくるのか。
軍隊が無いと侵略される、と宣う方々は、具体的に論証する義務がある。

その答えが書いてある書籍を求めて本屋を彷徨った。
正直言って、探せば結構あるのではないかと思っていた。
いくらなんでも、感情論だけで日本の防衛政策が決まっているというのでは、あまりに情けない。
形だけでも、具体的な「脅威」について書いた本が、10冊やそこらはあるだろうと思っていたのだ。

しかし、ない。

軍隊の装備などについて書いた本はある。
小川和久、江畑謙介などの、テレビでもよく見たような人たちの本は、この分類だ。
しかし、もし戦えばどうなる、というシミュレーションはできても、「本当に攻めてくるのかどうか」は、軍事評論家の分析ではわからない。

誰でもが言うように、戦争は政治の延長だからだ。
いくら軍事力を持っていても、政治的な理由なしに、戦争も侵略もおきない。
そして、もちろん、その政治決定の背後には、経済的な要求があることも言うまでもない。

その部分が、ほとんど抜け落ちているのだから、なかなか貴重な本ではあるが、やはり軍事オタクの書、と言わざるを得ない。


数的に一番多いのは、「脅威はある」という「前提」にたって、どうするこうする、と論じている書物だ。
これは、目次を見ただけで、本棚にバック。

日下公人の本には、ご丁寧にクラウゼビッツのかの台詞が引用されているのに、その政治的な戦争の必然性はすっ飛ばされている。

前提を検証できずに、危ない危ない、と叫ぶ者を、デマゴーグ(=群集心理を利用して大衆を扇動する政治家)という。

もう一つ、この類型の亜種として、日米安保論は山ほどあった。
これも基本的には、「脅威はある」という前提での議論であり、私の疑問には何も答えてくれそうにない。

軍事オタク型と、脅威デマゴーグ型の両方を兼ね備えたのが、石破茂だ。漫画も含めて沢山書いているが、やはり、中国や北朝鮮が攻めてくるのは当たり前という論法は変わらない。

惨憺たる有様だ。 今回は防衛白書を見るのを忘れたから、断言はしないが、どうも日本の防衛政策は、漠然たる不安に基づいて決められているようだ。

一応「脅威」を正面からテーマにした本は、2日間探した中では志方俊之の「日本はこのままでは生き残れない」くらいだった。

パラパラとめくってみると、「国家消滅の三段階」なるセンセーショナルな節がある。
しかし、書いてあることは、「日本国内で首相の靖国参拝に反対するような国論の二分がある」ということで、これはトインビーの言う国家消滅の第二段階だというのである。
つまり、国論が決して二分されない北朝鮮のような国以外は、国家消滅の第二段階ということだ。


経済・政治・軍事を網羅して、いかに日本は侵略・戦争の脅威に直面しているか、ちゃんと説明してくれる本はないのだろうか。
揶揄しているのではなく、本気で探しているのである。 …以上抜粋終わり

私も、国民みんなを、感覚的でなく、なるほど日本は危機(脅威)に直面しているのだ、と理解・納得させてくれる本を読んでみたい。
但し、冷戦が終結した現在、『ドミノ理論』等冷戦時の資本主義陣営の戦争正当化に使った古ぼけた理屈を持ち出すことはやめて欲しい。

最後に、民主主義の終焉を思わせる(独裁・戦争への道を容認している)、騙されても文句を言わない国民権力を監視する役割を放棄したマスコミの出来事が載っている、「反戦な家づくり」さんの9月4日ブログを引用。

国民を守るどころか、公然とウソをつく防衛省

テロ特措法でアフガン向けの給油活動と偽って、自衛隊はイラク戦争の戦艦に給油していた。

テロ特措法には、言うまでもなく

[平成13年9月11日に米国で発生したテロリストによる攻撃が国連安保理決議第1368号において国際の平和と安全に対する脅威と認められたことを踏まえ]、

と、書いてある。

しかし、イラクと9.11が無関係なのは、ブッシュ自身が認めた世界の常識だ。
これまでも、こうした偽装給油疑惑があがるたびに、アフガン以外には使っていないと、政府は弁明してきた。

しかし、これだけ証拠を挙げられたら、否定のしようがないだろう。
朝生のうるさい出演者たちも、何の反論もできなかった。

それにしても、新聞の無視抹殺もすさまじい

この偽装給油事件を、新聞各社は「許す」「賛成する」と言うことなのだろう。

やはり、自衛隊は、国民を守ることよりも国民をだますことを任務とする軍隊なのだ。

国を守るために自衛隊が必要だとか、改憲して自衛軍が必要とか、妄想している諸君。

いい加減に目を覚まそう。
もし仮に日本が侵略されることがあって、もし仮に強い自衛軍があっても、残念ながら、彼らが守るのは私たちではない。…引用終わり








長期政権による腐敗の構造

2007年09月05日 | Weblog
今日の言葉

◎「権力は集中したり、長期化すると腐敗する」

年をとったせいか、ボケた頭(自分で言っても差別?用語)を駆使して毎日書くのは大変な作業なので、今日は他のブログサイトに投稿した私の日記を転載する。
私はこの年になり年金を貰うまで職を転々としたが,そのときに聞いた話(一部私の体験談)を載せる。
今問題になっている「政治とカネ」の話は、いやになるほど聞いており、あまり書くのも気が進まない。
お前も「不正を目の前にして黙する」共犯者ではないか!と言われそうである。

※ほぼ60年間政権を独占してきた政権政党(権力)による政官民の癒着(腐敗)の構造。

昔々、私の聞いた話…その1

誰でも名前は知っている某建設会社が公共事業に携わっていて、そこに資材を納めていた業者がその建設会社の上司から呼付けられ、「部下が金銭トラブルを起こし困って私に相談を持ち込んできたのだが私としても何とかしてやりたい」と持ち出されて、「今納めている品物の納品書を実際の量より余分に発行してもらい、その金額を含めた請求をしてもらえないか。そして余分に支払った金額(400万円としよう)から200万円を私の個人口座に振り込んでもらえないか?」といわれたそうです。それが出来る個人会社であれば税務署を誤魔化した架空の経理処理で入金から200万円をその建設会社上司の個人口座に振り込み、自分の会社も通常の予定した利益プラス200万円を得ることが出来るわけです。その業者は「それは出来ません」と断ったのですが、その土建会社から2度と注文はもらえなかったそうです。公共事業ですからその建設会社に支払われるのはわれわれの税金です。

昔々、私の聞いた話…その2

公共事業で土建会社の工事の検査をするお役所に入りたての新人が上司にどこどこの現場を見て来いと言われ現場にいったところ、申請設計と違った施工(強度的に問題のある施工)をしていたので指摘した。するとその土建屋の親方は謝るどころか真っ赤になって怒り出し、「帰ってお前の上司に聞いてみろ!」と言われ、納得のいかないまま役所へ帰ると電話連絡が入っていたのだろう、その上司から「おれはお前に『見て来い』といったはずだ。指摘しろとは言っていないぞ!」とこれまたコテンパンに怒られたそうです。
その新人が指摘したのは長方形のブロックを強度の関係で長いほうを土手に差し込んでいかなければならない設計に対し,その現場では短いほうを土手に差してあったからで、それでいくと使用ブロック数は半分以下で済み、設計の見積り数量通り支払われますから、その土建会社は大もうけ(役所の上司にも見返りがあるのでしょう)なわけです。
これも結局われわれの税金です。その新人は早々にその役所を辞めたそうです。
この設計強度を無視したやり方は耐震強度偽装事件と良く似ていますね。

耐震強度偽装事件のとき「姉歯が関係した以外の建物も調べるべきだ」といったことに対し政権政党から「そんなことをしたら国中大変なことになる」といった言葉が出た背景が私のこの「実際にあった話」から浮かんで来ませんか?

「きっこの日記」7月11日(国による大犯罪の告発)
http://www3.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=338790&log=20070711 

昔々、私の聞いた話…その3

ある大手の化学メーカーの社長・重役がお役所を料亭で接待したときの事、年が倍以上違う若い役人がその席に遅れて入ってきて開口一番「今日はどこの接待だ?」、会社名や内容を社長が説明し,「そうか」で宴席が始まったのだが、常識ハズレの短時間で「帰る」といって席を立ち(別に怒ったわけではない)帰ろうとするので、足代(金一封)を包んでタクシーに乗ってもらい見送った。接待では車が見えなくなるまで見送るのが常識なので、そのようにしていたら見えなくなる前に車は止まり、その若い役人は一人で止まった場所のクラブに入っていった。
それから数日して、その化学メーカーのところに、立替タクシー代まで入ったそのクラブの請求書が届いた。
足代と称して渡した数万円(当時の高卒初任給の2か月分)はそのまま若い役人の懐に納まった形となった。

昔々、私の聞いた話…その4

あるお役所に営業にいった営業マンの話。相手と商談をしているときに、そのお役人、これ見よがしに時計を見せながら「この時計も古くなってね、調子が悪くなってきているんだ。私は今度買うんだったらローレックスがいいと思っているんだよ。あれはいいね。」その営業マンは仕事がもらえるかもらえないかの瀬戸際だったので、すぐにローレックスを買ってそのお役人にプレゼントした。「ありがとう。前からこれがほしかったんだよ。よく私の好みがわかったね。」と催促したのではないような言われ方をされたそうです。勿論、その営業マンが仕事をもらえたのは言うまでもありません。

※税金の使われ方(参考まで)

灰色のベンチから(6月7日)~天下り役人
http://futu-banzai.cocolog-nifty.com/blog/2007/06/post_e45f.html

昔、私が毎日通っている道路(片側2車線+路肩+歩道のメイン道路)で工事が数キロに渡って行なわれた。その年から国際マラソンの経路が変更になり、その道路の舗装のし直しだと理解できたのだが、1年も経たないうちにそのきれいに舗装された道路(同じ区間)の全面工事が始まり「ガスか上下水道か知らないが随分無駄なことをしているな。でも埋め込みだったら、何で数キロ全面掘り返しなのか?」と不思議に感じた。ところが、また1年も経たないうちに、その同じ道・同じ数キロに渡る区間を同じように全部掘り返して工事を行なっていた。不思議なことにこの3回とも何かを埋め込むとか地下のものを補修する、といった様子も見られず、単に掘り返して元の舗装に戻しているとしか見えなかったのだ。(工事目的の看板は確認できなかった)何かを埋め込むにしても、こう3年も続くと、役所のセクショナリズムによる税金の無駄使いを感じるし,悪く勘繰れば役所・業者ぐるみの談合で,全く同じ工事を今年はA社,次の年はB社,その次はC社と決めていたのではないか、とも思ってしまう。
お役所は分捕り合戦で確保した予算を倹約して余らせようと努力はしない。せっかく取れた予算を次の年に減らされてはかなわないので、「使ってしまえ」である。昔から,期変わり時期になると工事が多くなる、といわれている。(もっとも、これは「使ってしまえ」ではない、という人もいるが)

税金の使われ方には、延長国会やイラク戦争への拠出金、アメリカ国債購入(戻ってこない)等々,色々な問題があるが、書くのに疲れたので「またあとで」。…(「無風」注)昔から気力が続かなくなっていたのが分かる。