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アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

冥想非体験(性愛冥想)を読んでみる-20

2025-05-06 06:26:42 | 性愛冥想
◎身体レヴェル・心理レヴェル・潜在意識レヴェルには、あなたを不幸にする嘘が含まれている


冥想非体験(性愛冥想)の続き
『例えば、以上の事実からして、男性型の性愛が権力欲、支配欲的な方向をもちやすく、女性型の性愛が
感性的,脱我的方向を持ちやすいという特徴も説明しうる。
だからこそ、宇宙意識の広大な脱我法悦の神秘修行者は、男性の方が圧倒的多数を占め得るのであり、女性は、ある意味で局部的とも言える性愛的脱我の中に満足しきることができる。


純粋な宗教神秘主義的な志向性は、男性の非陶酔 的性格とそれから、必然的に派生する強烈なロマンチシズムを、
原動力としている。


女性の正統宗教修行者は、どうしても「神がかり」やシャーマニズム的な形式をとりやすく、それには秘められ たセクシャルな匂いを感じることができる。
私は性的オルガズムのトランス状態の最中に突然「神がかり」になった女性を知っている。私は古神道の眼目である鎮魂帰神の法を大本教の聖師故出口王仁三郎師の霊によって、習得したが、その立場から見ても、その女性の性交時の「神がかり」は高低深浅の審神は
抜きにして鎮魂性トランスの「神がかり」と何ら変わるものではなかった。


生理、心理、 潜在識・心霊識 の四つのレヴェルという分類は、それゆえ単に便宜上のものにすぎず、それらのレヴェルが、それぞれに他の三つのレヴェルを包含しているのである。


心理レヴェルでの性愛は、主にその性愛者同志の自覚的人格性とか、知的傾向とかにかかわる相性であり、もちろんこれとて他の三つのレヴェルでの性愛者同志の因縁関係と離れて独立して存在しているのではない。
もし、他の三つのレヴェルでの独自な相性因縁抜きに心理レヴェルだけでの相性が成立したとしても、
それは一過的なものにすぎず、とても因縁相性という男性原理、女性原理の親和力の問題に入ることはできない。


ある男性・女性原理の出会いが、心理レヴェルにおける知的相互理解や心理的いたわり合いにもっぱらその性愛の
喜びの主題を分かち合うにしても(事実、 占星学的に言えば、風のサインの星座 、とりわけ天王星の影響を強く受けている性愛者には、この心理的コミュニケーションによる性的喜びの比重が大きい)―それは潜在・心霊レヴェルの深みの中にその根を秘めている。


身体レヴェル・心理レヴェル・潜在識レヴェル・心霊レヴェルという便宜上の分類は、今一つ、その分類の性質を
付け加えるとすると、それは、単に並行的、あるいは、平面的な分類ではなく、身体→心理→潜在識→心霊識と深まるにつれて、より深いものが それより上部の性愛関係の内容を包括的に規定しているということである。
例えば潜在意識 レヴェルでの男、女性原理の相性因縁 は、それより上部にある身体、心理レヴェルにおける性愛交流の内実を、知る知らぬを問わず、形作り影響を与えている。


あなたは現代の深層心理学の解釈が、一つの男性原理 と女性 原理とを、どんなにか不合理な仕方で結び合わせるかを知っているだろう。
あなたの好ましいと感じ、無意識の内に引き寄せられる一人の異性原理が、あなたの意識下のコンプレックスや トラウマによって成立しているというわけである。


しかし、深層心理学で言う潜在意識は、なおかつ、本当のあなた自身ではない。それは過去から蓄積された潜在傾向に
すぎないのであり、それはカルマ、宿業といってもよいものの一部であるにすぎない。


あなたの引かれる異性原理の性質や性愛の形式の大概はあなたの潜在識内 の蓄積された傾向によって、縛られている。
あなたが同性愛者であるとか性倒錯であるとか、いつも似たパターンの恋愛経験をくり返すとか、色情狂だとか
いうことは、あなたの本来の性向である場合もあるかもしれないが、そのほとんどは、あなたの潜在識の中にしつこく密着した外傷体験の記憶による宿業的な悪循環なのであり、本来のあなたはその宿業的な恋愛悲喜劇を越えたところで十全に性愛冥想を生きるものとしてあるのだ。


つまり、身体レヴェル・心理レヴェル・潜在意識レヴェルには
まだ、あなたを不幸にする嘘が含まれているのである。
もし、あなたが、女の下着にしか性欲を感ずることのできぬあなた自身を本当にみじめなものと思うのなら、
あなたは今すぐにあなたの潜在意識の中の嘘を見破らねばならない。
心霊レヴェルでの、あなたには嘘はあり得ない。


心霊的自己が本来のあなたであり、それは、個別性としての人間の最終的・原型的な本性であり、失楽園以前のアダムとイヴの姿である。
セックスの予言者 W・ライヒが述べるように、心霊的本性を自覚したあなたには、世界中のすべての女の穴をものにしたいという気持ちも、強姦や輪姦へのうづくような好奇心もありはしない。


心霊的自己に開眼したあなたは、常にあなた本来のあなた自身であり続け、他者達 の茶番劇などどうでもよいことなのだ。
心霊的本性なるあなたの性愛には、他者との比較など存在していないから、当然、妬も憎悪 も不安もあなたには無縁である。男性原理と女性原理の原型的因縁は、この心霊的自覚者としてのあなたに与えられた概念である。


私は一人の死刑囚にならねばならない。
なぜなら、極微の宇宙から極大の宇宙まで、何もかも私一人にかかっているからだ。


無限定の至福に帰入するのは、他の誰でもない、私自身だ。


私は実在としての愛の流れの中で、実在としての異性原理との
愛を戯れ、冥想し、実在としての愛そのものに帰る。
あらゆる個別性を越えて「愛」そのものに帰る時、
それはもう神秘性愛ではなく神秘愛としか呼べなくなる。


私達が 霊的本性としてある時、私達の 異性原理が
たとえ宇宙の彼方に生きているとしても必ず出会うだろう。
これは、私の妄想や希望思考ではない。
『求めよ、さらば与えられん』というイエス・キリストの言葉は決してキレイ事ではなく、泥沼の地獄を通りこしたキリスト・イエスと私の宇宙での絶対的な現実原則なのである。
神はいやでも応でも、個生命をニルヴァーナの絶対暗黒にして、
絶対光明に、あらゆる機会を通して、導き込もうとしているからだ。


幼児者の性愛冥想


性愛冥想という時、二つの面からの内容を考えることができる。
一つはすでにニルヴァーナ上の本来自己の立場に生きて、その霊的個性が性愛を三昧する純粋冥想自体としての、
性愛であり、ここには性欲は存在していない。
とりたててセックスという特殊な領域もあり得ない。
いわゆる「楽空無別」のところである。


快楽と絶対無、ニルヴァーナとしての「空」とに分けへだてはなく、
ここには当然フロイドの快感原則と現実原則の相克だとか、バタイユ流の死にまで高まるエロティシズムとかいう概念の存在する余地はない。
密教教典の理趣経の言う性愛の歓びが
そのまま悟りの姿であるというのも、この立場を表現している。


三島由紀夫の乾いた表現で、ニルヴァーナに立脚した性愛冥想の展開をのべれば、「金閣寺」の一節を引用すれば
いいだろう。
「私は禅僧にも肉体があるのがふしぎでならなかった。
老師が女遊びをし尽くしたのは、肉体を捨離して、肉を軽蔑するためだったと思われる。それなのにその軽蔑された肉が思うさま栄養を吸って、つやつやして老師の精神を包んでいるのはふしぎに思われる。よく馴らされた家畜のように温順な、謙譲な肉。
和尚の精神にとっては、まさに妾 のようなその肉・・・・。」


しかし、性愛冥想の三昧において、「肉を軽蔑 する」などという言葉は、よけいなものにすぎない。
禅僧には肉体などないから、彼の肉体は「思うさま栄養を吸ってつやつやして」いるのだ。「肉体を捨離 」するために女遊びをし尽くすというのも、性愛冥想自体の自受法楽の境地には無関係なことであるが、これは性愛要想についての他の一面である求道的方向からの性愛冥想行には、大いに問題となることである。


ここで文学的理屈抜きの高らかな性愛をうたった一休禅師の詩をあげておこう。
一休禅師は彼の法系である大燈国師の忌日の行事に訪れるが、そこの馬鹿坊主の読経慰霊の堂には参列せずに、どこか寺内の場所で、つれて来た女性とセックスして楽しむ。
そしてその楽しみの中で中国禅僧の慈明の故事を彼女とともにちゃかして笑うのである。
慈明の故事というのは、昔日、中国の慈明は過烈な禅修業に精励するが、どうしても肉欲煩悩の激しさを打殺することができないため、ある晩生禅中に
自身のペニスに剣を突きさしたという史話である。
この慈明の故事を女性と戯れながら笑う一休禅師の心境はどのようなものだったろうか。


「大燈忌宿忌以前美人に対す


宿忌の開山諷経
経呪耳に逆らう 衆僧 の声
雲雨風流、事終えて後
夢閨の私語、慈明を笑う」


この一休宗純の詩には原始仏典ダンマ・パダの中の「天上の快楽においても悦びを得ず、愛尽を悦ぶものは
正等覚者の弟子である。」という言葉の及びもつかぬ
一休宇宙の消息がある。


さて性愛冥想の二つの方向のもう一つは、求道的方向である。


前述の三島由紀夫の「金閣寺」の中の言葉である
「肉を捨離するための 女遊び」というのも、山岡鉄舟の「色道修業」も、また神智学における男女がその霊的成長を実現していくというのも、仙道房中術のてい器( 術としてのセックスの相手としてふさわしい女性)の選択 や接してもらさずということや、シャクティズムの長期間のセックスのための様々な神秘的シンボルの儀式も、
性愛冥想の求道的側面を持っている。
いずれも性愛即宇宙の大自在 へ至ろうとする様々な試みである。


いずれにせよこの性愛冥想の具体的内容に関しては、後出の実践篇の所でより詳細に述べるつもりである。』
(冥想非体験(性愛冥想)/ダンテス・ダ
イジから引用)


『純粋な宗教神秘主義的な志向性は、男性の非陶酔的性格とそれから、必然的に派生する強烈なロマンチシズムを、
原動力としている。』
この分析は新鮮である。


『私は古神道の眼目である鎮魂帰神の法を大本教の聖師故出口王仁三郎師の霊によって、習得した』
古神道の伝授も肉体によらず、霊によるものがあり得る。


『深層心理学で言う潜在意識は、なおかつ、本当のあなた自身ではない。それは過去から蓄積された潜在傾向に
すぎないのであり、それはカルマ、宿業といってもよいものの一部であるにすぎない。』
個人的潜在意識、集合的潜在意識を越えて本当のあなた自身がある。
さらに本来のあなたが次のように別であることを示す。
『あなたが同性愛者であるとか性倒錯であるとか、いつも似たパターンの恋愛経験をくり返すとか、色情狂だとか
いうことは、あなたの本来の性向である場合もあるかもしれないが、そのほとんどは、あなたの潜在識の中にしつこく密着した外傷体験の記憶による宿業的な悪循環なのであり、本来のあなたはその宿業的な恋愛悲喜劇を越えたところで十全に性愛冥想を生きるものとしてあるのだ。』


『つまり、身体レヴェル・心理レヴェル・潜在意識レヴェルには
まだ、あなたを不幸にする嘘が含まれているのである。
もし、あなたが、女の下着にしか性欲を感ずることのできぬあなた自身を本当にみじめなものと思うのなら、
あなたは今すぐにあなたの潜在意識の中の嘘を見破らねばならない。
心霊レヴェルでの、あなたには嘘はあり得ない。』
心霊レヴェルとは、第五身体コーザル体レベルを指すのだろう。
この辺を細かく丁寧に説明しているのは、ダンテス・ダイジの周辺は10代20代が多く、主な関心事や相談の主題は恋愛相談だったことが影響しているように思う。そこをクリアしないと虚無、不条理との直面に進んでいかないという面は、心理的にあったのかもしれない。
“今すぐにあなたの潜在意識の中の嘘を見破らねばならない。”とは、今すぐ大悟せよと言っている。


『私は一人の死刑囚にならねばならない。
なぜなら、極微の宇宙から極大の宇宙まで、何もかも私一人にかかっているからだ。


無限定の至福に帰入するのは、他の誰でもない、私自身だ。


私は実在としての愛の流れの中で、実在としての異性原理との
愛を戯れ、冥想し、実在としての愛そのものに帰る。
あらゆる個別性を越えて「愛」そのものに帰る時、
それはもう神秘性愛ではなく神秘愛としか呼べなくなる。』
この文の直前で個の極みである心霊レベル、コーザル体を説き、続いてこの文で神なる我を説く。そこには、不連続な連続性があり、これを逆転、倒立と言う(タロットカードの吊るされた男、木に逆さ吊りのオーディン、変身物語など)。


『私達が 霊的本性としてある時、私達の 異性原理が
たとえ宇宙の彼方に生きているとしても必ず出会うだろう。』
必ず出会うが別れもある。


『神はいやでも応でも、個生命をニルヴァーナの絶対暗黒にして、
絶対光明に、あらゆる機会を通して、導き込もうとしているからだ。』
これは神の視点。


※楽空無別:密教における非常に重要な概念の一つで、特に後期密教(タントラ仏教)において中心的な教えとして説かれます。文字通りには「楽(喜び、至福)」と「空(くう、本質的な空性)」が「無別(むべつ、区別がない、一体である)」であることを意味します。


慈明の故事は、私はふとももに刺したという話で読んだ。


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