◎三途の川の評価
(2009-06-13)
釈迦の言葉。
『人々は多いが彼岸に達する人々は少ない。他の(多くの)人々はこなたの岸に沿ってさまよっているだけである。
真理が正しく説かれたときに、真理を見通す人々は、まったく死の領域を超えて彼岸に至るであろう。』
(感興のことば (第29章)/中村元訳/岩波文庫から引用)
彼岸とは、日本人にとっては三途の川を渡った向こう側だと認識されている。でもおそらくそれは死の世界そのものであり、ここで釈迦が指し示している「まったく死の領域を超えた彼岸」ではない。
三途の川を渡っても、別の母胎を見つけて入り込んでしまえば、もう一度迷いの人生を繰り返すだけで、まったく死の領域を超えることなどできやしない。
生きながら死をも超えてしまうことこそが、釈迦の狙いであって、生前に善根を積んで、三途の川を渡った先の極楽で安楽なアストラル生活を送ることが釈迦の狙いなどではないように思う。
だから三途の川の正体を見切ることが、そうした迷蒙に陥らないキーとなる。
三途の川をじっくり点検して進むのがクンダリーニ・ヨーガで、三途の川を新幹線並の急速なスピードで駆け抜けるのが只管打坐というイメージがある。

釈迦の言葉。
『人々は多いが彼岸に達する人々は少ない。他の(多くの)人々はこなたの岸に沿ってさまよっているだけである。
真理が正しく説かれたときに、真理を見通す人々は、まったく死の領域を超えて彼岸に至るであろう。』
(感興のことば (第29章)/中村元訳/岩波文庫から引用)
彼岸とは、日本人にとっては三途の川を渡った向こう側だと認識されている。でもおそらくそれは死の世界そのものであり、ここで釈迦が指し示している「まったく死の領域を超えた彼岸」ではない。
三途の川を渡っても、別の母胎を見つけて入り込んでしまえば、もう一度迷いの人生を繰り返すだけで、まったく死の領域を超えることなどできやしない。
生きながら死をも超えてしまうことこそが、釈迦の狙いであって、生前に善根を積んで、三途の川を渡った先の極楽で安楽なアストラル生活を送ることが釈迦の狙いなどではないように思う。
だから三途の川の正体を見切ることが、そうした迷蒙に陥らないキーとなる。
三途の川をじっくり点検して進むのがクンダリーニ・ヨーガで、三途の川を新幹線並の急速なスピードで駆け抜けるのが只管打坐というイメージがある。
