◎知性ゆえに誰もかれも死の安らぎを願っている
ダンテス・ダイジの老子狂言の続き。
『現代西洋商工業都市文明の私達人類は、知性を中心として人間性の統合を果たさなければならない。ウサンクサイ、まやかしのオカルティズムや、単純な自然回帰という退行的願望や、センチメンタルな意味での愛情や友情やカウンター・カルチャーに逃げ込むことなぞできはしないのだ。
だからこう言える。二〇世紀末の現代人は、その知性ゆえに誰もかれも死の安らぎを願っているのだと。これは決して異論ではない。花が花としての限界に来たとき、実が出てこざるをえない。それは、花にとっての絶体絶命の闇である以外になく、実にとっては新しい未知なる光明への第一歩なのだ。
もっとも、知性・理性・自我の虚無ゆえに肉体的な意味で死んだとしても、そこに本当の安らぎなぞありはしない。それは、肉体的に死んでみたら納得できることだろう。』
(ダンテス・ダイジの老子狂言から引用)
知性の時代は自己実現の臍のマニピュラ・チャクラの時代であって、自我の死を経ないと愛のアナハタ・チャクラに進むことができない。これは、神秘生理学的な視点だが、わかったようで何もわかっていない説明である。
『知性ゆえに誰もかれも死の安らぎを願っている』とは、死なくして本当の愛を知ることはできないということ。本当の愛とは、大慈大悲。本当に悲しいこと、悲しみの極みが愛の極み。
死によって本当の愛を知ると説くが、彼は死に方そのものを問題にしている。知性の限界を試すとして、知性・理性・自我の虚無ゆえに自殺しても本当の愛には届かない。
ここで言っているのは、単なる病死、自殺、天変地異・核戦争などでの大量死などの肉体の死ではなく、自我の死のことである。
そのことを確認したければ、実際に死んでみたらよいと、彼はダメを押している。クンダリーニ・ヨーガは死の技術と言われるが、肉体死の技術ではなく、自我の死の技術なのだろう。
まことにこの辺は、世間的には、大いに誤解や批判を生む言説となり得るが、イエスだって、釈迦だって、「自分勝手な自我」の死を説いていることに変わりはない。ダンテス・ダイジの説明の仕方が、あまりにもストレートなだけである。
チベット死者の書では、耳元で死に方を囁くのだが、その根本となっている原理を率直に説明しているだけなのだ。我々は、二〇世紀末を越え、二一世紀の現代人として、進歩して見せねばならぬ。
今こそ、絶体絶命の闇。それを越えて行くのだ。