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アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

愚者と世界

2024-05-18 16:48:25 | ジェイド・タブレット外典

◎ジェイド・タブレット-外典-12-1

◎悟りへの22段のパス⇒タロット・カード-1

◎ニルヴァーナから迷いまで

 

世の中には、第七身体ニルヴァーナから第一身体肉体・物質レベルまでを網羅しているシンボル体系は意外に多くないものだ。七つの身体論、禅の十牛図などはその例だが、タロット・カードもその一種である。系譜としては、西洋錬金術あるいはユダヤ教神秘主義だが、その正統性は端倪すべからざるものがある。

タロット・カードは、西洋の悟りへの22段のパスであって、いわば禅の十牛図のようなものである。

さて、今日の運勢占いとして大アルカナ22種のうち1枚を引く人もいるだろうと思う。最近のタロットの絵柄はこなれてきて、伝統的なタロットのタロットである所以の特徴をも壊してしまった破格の図柄のものも多数出てくるようになった。その一方で、カモワン・タロットを丁寧に復刻したホドロフスキーのような伝統重視のタロットもある。

禅の十牛図は、十が確定ではなく、四牛図もあれば、六牛図もある。チベット密教には十五段の牧象図もあるからタロットが二十二人図であっても一向に構うまい。

悟りとは、第六身体アートマンと第七身体ニルヴァーナのこと。物事の順序には、迷い(マーヤ)を一番に置くタイプと、悟り(ニルヴァーナ)を一番に置く逆順のスタイルがある。

そこでまず、タロットの何がニルヴァーナであって、何がアートマンなのかということになる。0番愚者がニルヴァーナであって、21番世界がアートマン。旅の始めは迷いの1番魔術師。

 

それとあまり意識されていないかもしれないが、ホドロフスキーは、左右対称のシンメトリーは悪魔的であって、左右非対称が神的であることを発見したと述べている。彼は日本の御所とパリのノートルダム大聖堂でそのことを確認した(タロットの宇宙/国書刊行会P32)。これがタロット・カードが1ステップ1枚で直線として構成されている理由である。

 

※参考:大アルカナ22枚の順序(カモワン版)

0 愚者(道化師)

1 魔術師

2 女教皇(女司祭長)

3 女帝

4 皇帝

5 教皇(法王、司祭長)

6 恋人達(恋愛、恋人)

7 戦車(征服者)

8 正義(裁判の女神)

9 隠者

10 運命の輪(運命、運命の車)

11力(剛毅)

12 吊された男

13 死神

14 節制

15 悪魔

16 塔(神の家)

17 星

18 月

19 太陽

20 審判(永劫)

21 世界(宇宙)

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イグドラシル

2024-05-18 16:30:08 | ジェイド・タブレット外典

◎ジェイド・タブレット-外典-11-3

◎世界樹-1

◎エッダの宇宙樹

 

世界樹のシンボルは世界中に見られる。有と無という事で言えば、世界樹は有の世界であって、無の世界ニルヴァーナではない。ただし世界樹の説明の中に、その位置が世界の根源や世界の中心だと示したり、泉などニルヴァーナを暗喩するものが置かれている場合もある。

つまり世界樹はどちらかと言えば、人が神仏に大逆転することを主眼として置かれているのである。

 

さて北欧神話エッダの宇宙樹イグドラシルは巨大なトネリコで、あらゆる樹木の間で最大最良のもので、世界の軸であり支柱である。

その枝は、全世界をことごとく蓋い、天に達している。三本の根は神々の世界アースガルズと、氷の巨人の世界ヨトゥンヘイムと、死者の世界ニヴルヘイムの3つの世界に伸びている。

各世界の根元には泉があり、死者の世界ニヴルヘイムの泉は、フェルゲルミルと呼ばれる。この泉は、大地を潤すすべての大河の源泉であり、大地を人間の住める場所にしている。地母神は死の世界に発する。

さらにフェルゲルミルの泉には有翼の巨大な蛇ニーズホッグが棲み、根をかじっている。有翼の巨大な蛇ニーズホッグは、言うまでもなく、クンダリーニである。

巨人と言えば唐突だが、滅亡したアトランティス人を指して巨人と呼んでいるのではないかと考えている。オーディンは巨人の泉ミーミルの水を飲んで智慧を得た。

 

時代が下って8世紀、サクソン人は、この地方の宇宙樹信仰のシンボルであった大木の幹でできた宇宙の柱イルミンスルを崇拝していたが、772年神聖ローマ帝国カール大帝がこれを破壊することでサクソン人との開戦となった。

(イルミンスル所在地:ヴェストファーレン州、オーバーマルスベルク)

これにより、ドイツも、世界の死の部分、闇の部分を覆い隠すアポロン的西欧文明優勢の世界に組み込まれていくことになった。

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迷いから究極までの段階の数

2024-05-12 03:46:25 | ジェイド・タブレット外典

◎ジェイド・タブレット-外典-11-2

◎ケン・ウィルバーのアートマン・プロジェクト

 

ケン・ウィルバーは、アートマン・プロジェクト(P380-388)において、肉体レベル自意識から一円相に相当する究極までの段階を、究極のレベルを持つカバラの10球の生命の木やインドの6身体論と並置している。加えて、究極のレベルを持たないピアジェやエリクソンの意識の発展段階までも並置して見比べることができるようにしている。

つまり、最初はプレローマやウロボロスなる肉体意識ではじまり、ニルヴァーナなる窮極で終わるのだが、全体としての段階は、カバラのように10球の10段階でもよいし、七つの身体でも六つの身体でもよいと段階の区分へのこだわりを捨てさせている。

 

禅の十牛図の段階も十牛図あり、六牛図あり、四牛図があり、「牛かひ草」では、十二牛図なのだが、10段階にこだわっているわけではない。

 

意識の発達は、最初は個我の迷いに始まり、神仏ニルヴァーナの究極で終わりさえすればよいのであって、全体としての段階の数は、あらゆる見方の一つに過ぎない。

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クンダリーニとアートマンの合体

2024-05-11 16:37:16 | ジェイド・タブレット外典

◎ジェイド・タブレット-外典-11-1

◎そのものズバリに近いが証明は困難

 

クンダリーニがアートマンに変じてブラフマンと合体する件については、ダンテス・ダイジが、神の許しを給わった上で恐る恐る書いている(ニルヴァーナのプロセスとテクニック/ダンテス・ダイジ)。

クンダリーニとブラフマンの合体については、凡そ想像を絶したものであるために、有史以来リアルな表現は避けられ比喩が用いられるのが常だった。

 

クンダリーニについて、仏教哲学者の中村元が面白いことを書いている。

『また、クンダリニーは最高の性力(parasakti) と考えられ、「真の性交(maithuna) とは最高の性力がアートマンと合することである。他の合一はただ女人との肉欲的な結合にすぎない」(Kularnava tantra,V, tantra, V, 111ー112)と考えられた。

その結合は、ときにはシヴァ(Siva)とクンダリニーとの合一とも考えられた。』

(中村元選集第二十四巻ヨーガとサーンキャの思想P319から引用)

 

※性力:神秘的エネルギー、フォース。シャクティ・パットのシャクティ。微細身レベルであるとすれば、エーテル体レベルなのか、アストラル体レベルなのか、メンタル体レベルなのか、それを越えるレベルなのかという疑問は当然に出る。だが、ニルヴァーナのプロセスとテクニックでは最終的にそれを超えるものであると洞察されるのではないか。

 

中村元もクンダリーニがアートマンと合一することを究極と見る説があることを紹介しており、これが一つのインド伝統の見方であることを示し、おおまかにはダンテス・ダイジ説はこうした流れの中にあって独自説ではないと思われる。

 

クンダリーニがブラフマンと合一することが人間にとっての大悟覚醒であることを万人に証明するには、万人がクンダリーニがブラフマンと合一する体験を持たねばならない。

それは現代科学のように感覚刺激至上、微細身がないこととされている立場では、評価することはおろか証明する手段はないということである。証明される時期は、すべての人が神仏を知る時代を待たねばならないと思う。

クンダリーニ・ヨーギ本山博が微細身の存在を証明すべく物理実験を繰り返したが、やっている本人はどう思っていたのだろうかと思う。

そこで、このことをオシャレに冷暖自知すとか、自証するとかという表現にひっくり返したりするが、証明困難という実態には変わりはない。

 

それでも今日も冥想を。

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ソーマ・パイロットの言葉

2024-04-29 06:18:20 | ジェイド・タブレット外典

◎ジェイド・タブレット-外典-10-9

◎芸術と武道とスポーツと仕事での見神、見仏

 

ダンテス・ダイジの『ソーマ・パイロットの言葉』の調子の高さには、当時も驚かされたし、今読んでもみずみずしい感動を呼び起こされる。

これまで私はソーマに触れることはなかったが、20代の頃は、『ソーマ・パイロットの言葉』が何を言っているのかわからなかったが、今ならこう思う。

  1. ソーマ・ヨーガは薬効が切れたらもとの黙阿弥にもどる。

 

  1. 古代インド・アーリア時代に、ソーマ讃歌は起こったが、現代のイランに当たる地域もそれに含まれる。その地域で活躍した聖者としては、ゾロアスターがいるが、彼とソーマが無関係だったとは思えない。その謙譲を基本とする風。

 

  1. ソーマでは、見神、見仏は、おそらくは容易に起こる(だが稀である)。そして神人合一すらも起こり得る。だが悟後の修行である聖胎長養には言及されない。それは、おそらく薬効が切れたらもとの黙阿弥にもどるからではないだろうか。

 

  1. 様々な芸術は、窮極たる神仏の周りを周回し、傑作においてはワンタッチするのが基本線みたいなことを言われる。このワンタッチというのは、とりも直さず、見神、見仏、一瞥のことである。これが、ソーマのあり方に似ている部分がある。様々な芸術とは、絵画、彫刻、建築、工芸、デザイン、写真、作曲、声楽、器楽、指揮、ダンス、演劇からスポーツ、武道までを含む。仕事で悟る事上磨錬もその一種。一瞥したらもとに戻ることが結構あるのではないか。

 

ソーマ・パイロットの言葉』の前半。

 

『ソーマ・パイロットの言葉

 

精神変容をもたらす薬物は、そのドラッグ・トリップ自体が、すでに神ソーマ自身であり得ると同時に、最高の旅の仲間、水先案内人、パイロットである。

あらゆる個別的な生命形態は、そのどうしようもない束縛の中の有限性から自由になろうと永遠に願い続けている。しかし有限性という妄想は、実に陰険で楽しいトリックを個生命達に与えていて、あらゆる生命が本当は無限そのものであることを自覚しようとするのにブレーキをかけている。

有限性に慣れた人間は、有限な自己を唯一の本当の自分自身のようにいつのまにか見誤ってしまう。これが、無限な君を邪魔するブレーキであり無明である。

 

だから、君は死なねばならない。君は、君の見ている「現実」という名の妄想に別れを告げねばならないのだ。

何のために?それは君が最高に楽しくゆかいで愛と安心に満ち自由になるために、あるいは、それらすべてから解放されるためだ。

単純明快なことだ、あたりまえなことだ。

 

君が、君を脱して君自身になろうとする働きが、ソーマ・パイロットで、そのパイロットあるいはガイドには、旅している君だけに与えられる言葉がある。ソーマは、あらゆる姿をとって君に君の消滅を最終的に告げている。君が無限である最後通告を語り続けている。』

(メディテーション/トラベル・ガイド/ダンテス・ダイジから引用)

※この引用文は自殺を勧めるものではなく、自我の死すなわち禅でいう大死一番を言っているものです。

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持続するトランス、持続するエクスタシー(サマーディ)

2024-04-28 06:07:14 | ジェイド・タブレット外典

◎ジェイド・タブレット-外典-10-8

◎全体と個人の逆転

 

トランスは、様々な方法で引き起こすことができる。飲酒、催眠術、急速呼吸法、煙や香気の吸入、音楽、舞踏などで。加えて、洞窟生活や長期間の個室生活、ドラッグの吸引などもある。

 

トランスは、その性質は深浅高低あるものであって、いわゆる個人的無意識や集合的無意識に止まるのが大半であって、大悟覚醒に至る体験に結実するものは多くはないことを、様々な実験が示している。

 

ティモシー・リアリーが先鞭をつけたLSDやカルロス・カスタネダのシリーズで有名になったペヨーテあるいはメスカリンなどでは、究極に至ることが結構な確率で起こるらしいということが知られてきた。

 

だがそうしたピーク・エクスペリエンス(頂上体験、エクスタシー)は、ドラッグの効き目が切れれば、終わってしまう。これは、禅の究極体験を経た後に、その体験の影響が残るために聖胎長養を必要とすることとは対極をなす。

 

その記憶は残っているかもしれないが、いわゆる彼我の逆転、全体と個人の逆転は、ドラッグでは戻り、正統的な冥想修行では戻らないということなのだろう。

至道無難の指摘するとおり、見神見仏程度では、戻ることがあるのだろう。

 

ただしそれが、見神見仏体験だったのか、あるいは神人合一という体験とは言えない体験だったのかという違いは意識されるべきだろう。だからこそ、古代インドでは、ソーマ讃歌のようなものまであるように思う。

 

ラリっている人は、外面的には、ボーっとして何もしていないように見えるが、中でもエクスタシー(サマーディ、有相三昧、無相三昧)の持続しているケースは、ラーマクリシュナのように社会生活を営むという点では問題があるものの、見る目がある人にとっては貴重な研究材料だったり、風景であったりする。見る目の問題は大きいが、それは自分が悟っているのかどうかということでもある。

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究竟次第について

2024-04-12 03:32:09 | ジェイド・タブレット外典

◎ジェイド・タブレット-外典-10-7

◎利他、死の修行の非社会性

 

密教修行者にあっては、他の人間をよりよく生きさせたいという利他の気持ちが根底にあるものだ。

チベット密教修行での最後のホーム・ストレートは、生起次第と究竟次第。生起次第とは、観想により自分が本尊になること。究竟次第は、究極を究めること。

 

ダライ・ラマは、これについて以下の説明をしている。

〇生起次第:空性に心を向け、死の8段階のしるしを観想して『本尊ヨーガ』を修める。

〇究竟次第:空性に心を向け、風を中央脈管に導き入れて、より深いレベルの意識をあらわにし、『本尊ヨーガ』を修める。

 

この二次第によって、あなたは仏陀の境地――――完全なる利他の状態―――に至る残りのプロセスをすべて修めることになります。』

(『ダライ・ラマ 死と向き合う智慧』地湧社P215から引用)

※本尊ヨーガ:本尊の観想を中心とした修行

本尊とは、そのシンボルはいくつかに分かれているが、アートマン、第六身体のことである。

 

究竟次第については、公開していない本が多いのだが、「チベット密教 ちくま新書  ツルティム・ケサン著 筑摩書房 P151」では秘密集会聖者流の究竟次第を明かしている。

それによると

1.定寂身

2.定寂口

3.定寂心

4.幻身

5.光明

6.双入

の6段階。

 

5の光明は原初の光。よってここで心拍停止、呼吸停止が起きるのだろうと思う。

6の双入は、ちくま新書では、ほんとうの光明と清浄な幻身を両方同時に成就させることなどと書いてある。だが逆転の雰囲気はない。

 

だいたい密教系、クンダリーニ・ヨーガ系の秘伝は断片的にしか公開されていないのであって、その理由は公開されることの弊害、悪用の害が甚だしいためだろうと思う。ここもそういう風に読んでおきたい。ダライ・ラマが、ここの説明で、空性を強調するのは、現世利益に陥ることを戒めるためだと思う。

さはさりながら、死ぬことは怖い。パンチェン・ラマ一世の十七偈にも「死の恐怖を克服する勇気」を祈っているが、一方ダンテス・ダイジは「恐怖の恵み」とも言っている。

サッカー・ワールド・カップでもそうだが、アディショナル・タイムで負けていて、その恐怖の真ただ中にあっても、勇気と冷静さを。

死の修行とは、実に現代人の想像を絶したものであり、弱肉強食ながら私権と法治が優先する本質のこの民主主義社会では、大いに誤解され迫害されがちな素地を備えている。

それでも真摯なチャレンジャーは少数派だがいる。

 

※臨終時に脈管を押さえつけること(チベット死者の書)

 

臨終時に喉の左右の動脈の動悸を圧迫せよと書いてあるのは、おおえまさのり訳チベット死者の書。ところが、川崎信定訳チベット死者の書では、『死におもむく者をうつらうつらさせる働きのある左右の両脈管の動悸の連続を途切らすように、しっかりと押さえつけねばならない。』(原典訳チベット死者の書/川崎信定訳P14から引用)

とあり、押さえつけるべきは、どうも動脈ではない。スリーパーホールドではないが、頸動脈を押さえつけると脳が酸欠になるので、意識清明にはなるまい。よって脈管の動悸を押さえつけるというのが正しいと思われる。ところが、イダー、ピンガラーという脈管は、エーテル体レベルなので、普通の人はそのような技はできない。これは簡単に書いているが他人の脈管内のルン(風)を操作せよということなのだろうと思う。神秘生理学的対応が求められるのだ。

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チベット死者の書の特徴

2024-04-07 03:06:44 | ジェイド・タブレット外典

◎ジェイド・タブレット-外典-10-6

◎1.死のプロセスと成道と中有行きの分岐-2

◎呼吸停止、心拍停止、肉体離脱

 

ケン・ウィルバーは、チベット死者の書の人間が死に行くプロセスを意識の深化の段階の材料の一つとして使っているが、それだけのものではない。チベット死者の書の、同じクンダリーニ・ヨーガのテキストとしての違いは、死の世界を正面から捕らえて見せたところが違うのである。

つまり空海の十住心論にしても仏教十界説にしても漫然と読めば、単に仏になるためのカリキュラムの目次にしか見えないが、実はその各ステップの半分以上は死の世界の修行のことを語っているのである。ところが、意識が死の世界と縁遠い一般民衆にはまずそれとは気づかれることはない。

チベット死者の書は死者の臨終シーンから始まるので、それと思い当たるが、死の世界のことを詳述するのは、実は他のクンダリーニ・ヨーガのテキストでもよく見かけることなのである。たとえばアストラル・トリップなどは、死の世界そのものであり、そのトリップの途中では、死者によく出会うものである。

 

チベット死者の書では、呼吸が停止し、五感が機能しなくなり、肉体から離脱し、原初の光たる光明に出会う8段階を駆け上っていく。

その8段階とは、、(1)陽炎 (2)煙 (3)蛍 (4)燈明  (5)顕明 (6)増輝 (7)近得 (8)光明

となる。

『呼吸停止、心拍停止、肉体離脱』と並べれば、脱身による窮極突入へのプロセスと同じなのだが、この辺に何か重要なものが隠されている。

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死の世界を扱う技術

2024-04-06 03:00:00 | ジェイド・タブレット外典

◎ジェイド・タブレット-外典-10-5

◎1.死のプロセスと成道と中有行きの分岐-1

◎死には自我の死と肉体の死がある

 

クンダリーニ・ヨーガは、死の世界を扱う技術だというが、この厳しい生存競争を伴う現代社会においてそれは使える技術なのか。それは実益とは全く関係のない趣味の世界でのことではないのか。また、そうした死の技術の狙いは何なのか。

まず死の世界とは、肉体以外のエーテル体、アストラル体、メンタル体などの宇宙を言い、広義には、個人的無意識、集合的無意識、潜在意識なども含まれる。それは、夢の中で知らずにあくがれ歩く世界であり、また肉体より微細なボディの生息する異次元の世界をも総称して死の世界と呼ぶ。

ほとんどの人は死んだら終わりだと思っているが、人は死の世界に入ることにより、人生は実はそうした死の世界のごく一部分にすぎないことを知る。それでは、人生は実は死の世界の一部分であるとは、どんなイメージなのか。

要するに現代人が生の世界と考えているのは、肉体だけなのだが、七つの身体でいえば、第二身体(エーテル体)から第七身体までは、死の世界なのである。この死の世界にはすべての他人、すべての世界、すべての時代が含まれている。

人間は、その死の世界から生まれ、その死の世界へ帰って行くのである。そんなイメージである。つまり現代社会の人間や人生についての通念とは異なるイメージとなる。

よく心霊・オカルト譚では、霊界の現象が現界へと移写されるというが、それは最初に死の世界においてできあがった出来事やビジョンがやがて現実化することを言っている。これをしても死の世界は生の世界の母胎なのである。 

現代社会は肉体の死が人間のすべて終わりであることを前提に組み上げられている。肉体死によって、財産も名声も家族も人間関係もすべて終わりとなるとして、法律も社会習慣もできている。つまり誰もが内心は死の恐怖に怯え、緊張をかかえながら、社会生活を送っているのだ。

人間は、肉体死が個別人間の終わりではないことを発見することによって、そうした緊張から解放された、ある意味においては気張らない生き方を実現できる。これもクンダリーニ・ヨーガの効用の一つである。

しかしクンダリーニ・ヨーガの効用は、肉体死の絶対視という偏見を取り除いたリラックスしたナチュラルで素直なライフ・スタイルの呈示に留まるものではない。

というのは、死には2種あって自我の死と肉体の死があるからである。

チベット死者の書を見ると、自我の死は、全員にチャンスは与えられてはいるというものの、肉体死したとしても必ずしも自我の死も起こして「悟り」を開くわけではないことがわかる。肉体死する人がすべて悟りを開くわけではない。

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聖霊の話

2024-03-27 17:47:11 | ジェイド・タブレット外典

◎ジェイド・タブレット-外典-10-4

◎二位一体

 

キリスト教では、父なる神と子なるイエス・キリストがいて、さらに聖霊があって、三位一体の構成要素である。しかし三つの神々ではなく、唯一の神を主張すると同時に他の多くの神々を否定する。この「他の多くの神々」にあたる部分の大方が太母なのだが、これを否定していることで、三位一体と自称しているが実質は二位一体と評価されることがある(ケン・ウィルバーも二位一体と評す)。

 

そして聖霊といえば、キリスト教の専売特許のようだが、さにあらず。

 

まず、旧約聖書。

創世記7章では、神は土のちりで人を造り、命の息(聖霊)をその鼻に吹きいれられて、生きた者となった。また聖母マリアは聖霊によって身重になった。

 

そして新約聖書。

1.ヨハネによる福音書14章『父がわたしの名によってつかわされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、ことごとく思い起させるであろう。』

 

2.同3章『神がおつかわしになったかたは、神の言葉を語る。神は聖霊を限りなく賜うからである。』

 

3.同20章『イエスはまた彼らに言われた、「安かれ。父がわたしをおつかわしになったように、わたしもまたあなたがたをつかわす」。そう言って、彼らに息を吹きかけて仰せになった、「聖霊を受けよ。あなたがたがゆるす罪は、だれの罪でもゆるされ、あなたがたがゆるさずにおく罪は、そのまま残るであろう」。』

 

4.マタイによる福音書12章『人には、その犯すすべての罪も神を汚す言葉も、ゆるされる。しかし、聖霊を汚す言葉は、ゆるされることはない。また人の子に対して言い逆らう者は、ゆるされるであろう。しかし、聖霊に対して言い逆らう者は、この世でも、きたるべき世でも、ゆるされることはない。』

 

こうして並べてみると、聖霊とは神の属性である絶対善を有して活躍している様子。そして人間にとって、聖霊は人間の本質のようでもあり、高級神霊のサポートみたいでもある。

 

さて出口王仁三郎は水鏡で、『キリストは三位一体と説いて居るが、その三位一体は父と子と聖霊とを云ふて居る。聖霊なるものは決して独立したものでなく、天にも地にも人にも聖霊が主要部を占て居る、否聖霊其ものが天であり、地であり、父であり、母であり、子であり、人である。故に三位一体といつても其実は二位一体である。キリスト教には父と子はあつても母が無い。』と言っている。

 

出口王仁三郎は、聖霊が一位、子たる人間が二位で、二位一体と見ているのだろう。一般的な三位一体モデルというものがあるとすれば、無形無相の神(ニルヴァーナ)が父で、母は現象面のシンボル(アートマン)、そして人間の三位一体ということになるだろう。

 

こうして見てみると、聖霊は無形無相の反対物としての現象の総体の主要部のことを言っているようであり、無形無相の神の「有の側の働き」のことも言っているようでもあるから、「父と子はあっても母がない」という言い方になるのだろうか。

 

聖霊とは人間でいえば人間の精神を貫く神的な要素のこと。聖霊を人間が受けるとは見神に相当するのだろう。

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ダンテス・ダイジの人類史観から

2024-03-27 17:37:08 | ジェイド・タブレット外典

◎ジェイド・タブレット-外典-10-3

◎シリウスからエジプトへ

 

ダンテス・ダイジの老子狂言より。

『現代西洋文明の合理的理性から見た仮説としての人間観から人間進化を位置づけてみよう。

 

そうするとレムリア人種は、意欲人間、アトランテス人種は、感情人間、現代西洋人種は、知性人間ということになろう。現代西洋人種とは、地理上の西洋・東洋を意味するのではなく、紀元前3120年以後の人類全体のことである。』

 

ダンテス・ダイジの断簡を読んでいると、レムリアとは明示していないが、大聖者メルキゼデクの悲劇的最期が追憶の一節として登場し、またダンテス・ダイジが人馬合体の姿のケンタウロスであったことも出てくる。当時は、人間の肉体、あり方自体が現代人の想像もつかぬ有様だったのではないか。

その延長線上に、彼自身の故郷であるらしいアルファ・ケンタウリ(地球から最も近い恒星、距離4.3光年)の少女と、シリウスから銀色に輝く空飛ぶ円盤で地球に降り立った彼の姿が見え隠れする。シリウスは、犬星というやや傾(かぶ)いた、或いは照れたような表現で、漠然と言及されている。

レムリア人の客観的な手がかりはないが、その上で彼はレムリア人を意欲人と規定、アトランティス人を感情人、現代人を知性人と見る。知情意を完備した姿が人間の完成形なのだ。

 

紀元前3120年は、古代エジプトの第一王朝で上エジプトのナルメル王が下エジプトを征服しエジプトを統一した頃。勿論この年代は、地政学的な意義を語っているのではなく、中有的な時代、神の現存を確認しきれぬもやもやした5千年の始まりであって、最終的にその知性で物質文明、火力エネルギー主体の文明を極め、社会と人間において上面だけに神がいる5千年をもって知性人としての成熟を図る。

最終段階たる現代では、アトランティス末期同様に人類絶滅兵器を使用できるようになるが、人類が絶滅を回避できるかどうかは、神のみぞ知る。

この5千年は、闇を無視し光を珍重するアポロン的時代。あるいは、生のポジティブ面だけを強調し、死を隠す時代。死の極みは愛の極みに近いがゆえに、死の見えない時代は、愛なき時代でもある。

紀元前3120年において、現代の方向性を定めたと唱えるダンテス・ダイジは、それに先行して紀元前九千年頃エジプトに出現して、以降の足がかりを築いている。

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父なる神が息子における若返りという形で誕生する

2024-03-27 03:02:46 | ジェイド・タブレット外典

◎ジェイド・タブレット-外典-10-2

◎崇高な〈日の老いたる者〉が、子どもとして生まれてくる

 

キリスト教においては、三位一体という大枠の中で、父なる神が息子における若返りという形で誕生するというイメージがある。神の子イエスとは、父なる神の『日の老いたる息子』なのだ。

以下にC.G.ユングの説明を挙げる。

『同じように錬金術でも老いたる王には救済者としての息子がひとりある。ないしは老王自身が救済者としての息子になる(ラピスは始めにおいても終わりにおいてもラピスである!)。さらに、王がよりよきものに改まる必要性という点では、中世のある考え方を考慮に入れなくてはならない。それは旧約聖書の怒れる神の新約聖書の愛の神への変容にかかわる考え方で、神は一角獣のように処女〔マリア〕の膝のなかで 〔胎内で〕怒りを鎮められ変貌したというのである。この種の考えはすでにフランシ スコ会の聖人ヨハネス・フィダンツァ・ボナヴェントゥラ(一二七四歿) にも現われているように思われる。その際注意すべきは、教会の比喩言語は父なる神を老人の姿で思い浮かべることを好み、父なる神が息子における若返りという形で誕生するというイメージを好むという事実である。

ノラのパウリヌスはある讃歌のなかで教会を神の母〔聖母〕のアナロジーとして讃美しているが、そこにはこういう詩句が見える。

 

けれどもこの妻は、なんぴとも触れなかったその肉体においてはいつまでも妹のままだ。

彼女が抱擁するのは霊である。彼女の愛する人は神なのだから。

この母から老人が、いまだ可愛らしい子どもの姿で生まれ・・・・・・

 

ここにいわれているのは、たとえば受洗者―――「新たな子どもへと生まれ変わる者」 renatus in novam infantiam―――のことであるが、しかし教会と神の母のアナロジーはまさに、父なる神自身が髭をたくわえた老人として、息子なる神が新たに生まれる子どもとして崇拝されたという点に存するのである。

「老人」senex と 「子ども」puer のこのような鮮やかな対置はおそらく一再ならず古代エジプトの神学の神の更新という元型と接触したことであろう。エフラエム・シュルスのつぎの詩句に見られるようにこの対立の本質同一性が、はっきりと前面に現れている場合には特にそのことをうかがわせる。「崇高さに満ちた〈日の老いたる者〉が、子どもとして、子宮のなかにやどっていた」 Antiquus dierum cum sua celsitate habitavit, ut infans, in utero. 「おお処女よ、汝の小さな子は老人である。いな、〈日の老いたる者〉であり、あらゆる時に先立って存在していたのだ」 Puerulus tuus senex est, o virgo, ipse est Antiquus dierum et omnia praecessit tempora.』

(結合の神秘Ⅱ/C.G.ユング/人文書院P34-35から引用)

※ラピス:賢者の石

 

これは、チベット密教の母の光明が、より錬磨洗練されて子の光明に進化することを連想させるイメージである。チベット密教では母から子、キリスト教では父から子。

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オシリスとホルスの神話

2024-03-23 06:32:00 | ジェイド・タブレット外典

◎ジェイド・タブレット-外典-10-1

◎父なる神オシリスと神の子ホルス

 

古代エジプトの神々の話は、時代が数千年にわたり、かつ主神がラーからオシリスに移ったり、オシリス自体の性質も変遷していったりするので、学者さん以外には精密に読もうとする意欲がわき難いと思われる。ところがオシリスとホルスの神話は、キリスト教の三位一体説の原型となっているということなので、この混乱、爛熟を極める近代西欧文明のそもそもの原因を探るため、ここに上げておきたい。

 

『太陽神ラーは、みずから作り出した世界の直接統治から身をひき、その後は息子のシュウが支配権を引き継ぎ、次いで孫のゲブが跡を継いだ。その次に王位についたのが、ゲブと天空の女神ヌウトの間にできた4人の子供の1人、オシリスである。

オシリスが王になると、弟のセトは嫉妬の炎を燃やし、王位を奪うために陰謀を計画した。ある日セトは、オシリスを含め大勢を宴会に招き、その場でじつに豪華な棺を披露した。そのすばらしさは、一目見た者なら誰もが自分の葬式のためにぜひ所望したいと願うほどだった。セトは、この棺に体がいちばんぴったり納まる者に、これを進呈しようと約束した。そこでオシリスが中に入って横になると、まさしくぴったりと合うではないか。するとセトは棺の蓋をバタンと閉め、そのままナイル川へ投げこんだのである。

オシリスの妹にして妻であるイシスは、夫の遺体を捜しに出かけ、ついに杉林の谷(エジプト学では、これはレバノンの森のことではないかと推定されている)で1本の生きた木の幹に包みこまれているのを発見した。イシスは、魔術的力を使って死んだ夫を生き返らせて、エジプトへつれ帰った。するとセトは、今度は兄の体を細かく切りきざんでふたたび川に投げすてた。バラバラになった遺体は、川の流れに乗ってエジプトの各ノモスに散らばっていった。

これをイシスは、妹にしてセトの妻であるネフティスの助けを借りて1つ1つひろい集め、すべてそろうと、ふたたび魔術的力を使ってオシリスの精力をよみがえらせ、子供を身ごもった。この後、オシリスは冥界の支配者として地下に下り、残されたイシスは、正当な後継者たる息子ホルスを湿地にかくまった。子供時代のホルスは、毒ヘビとサソリの攻撃や、さまざまな病気にさらされていたが、ひたすらイシスの魔術的力のおかげで、身を守り病を癒すことができた。

ホルスは成年に達すると、ラーからゲブをへてオシリスに受け継がれた支配権は自分に帰するはずだとして、セトとの戦いを開始した。この戦いでは互いに姿を千変万化させたが、戦闘中には川の動物に変身することが多く、ある戦闘の真っ最中には、ホルスが銛(もり)打ちになって、カバに姿を変えたセトをしとめようとしたこともある。その場面は、プトレマイオス時代に建てられたエドフのホルス神殿の壁にきざまれている。戦闘は、講和の提案があったり、ラー神を始めとする神々に訴えたりするたびに、一時中断する。

ある中断期間の最中には、セトがホルスを誘惑するものの、後にイシスの魔術によって逆に公衆の面前で恥をかかされるという有名な事件が起きている。最終的に、神々の法廷から妥協案が提示される。ホルスは人々の住むエジプトの土地を支配することとし、一方セトには、砂漠と外国に対する支配権と、太陽の船に乗るラーを悪から守る役割を与えるという案だ。この和解によって停戦が実現したが、外国人となったセトは、末期王朝時代になるとエジプト人の目には悪魔のような姿で描かれるようになる。これは、この時期にエジプトが地理的に孤立した国ではなくなり、外国による占領という過酷な経験をくりかえし受けたためだろう。』(大英博物館図説古代エジプト史/A.J.スペンサー/原書房P86-87から引用)

 

  1. 太陽神ラーは、みずから作り出した世界の直接統治から身をひいたということで、ラーは、キリスト教で言えば聖霊。
  2. オシリスは父なる神。息子ホルスは父の死を踏まえているので神の老いたる子イエスに相当。
  3. 教祖にしか合致しない豪華な棺は、過去数千年の教祖を中心にした組織宗教隆盛を示す。オシリスという組織宗教が死んで、個人であるホルスの覚醒がある。

 

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ラビ・レーフの魔術

2024-03-08 03:41:45 | ジェイド・タブレット外典

◎ジェイド・タブレット-外典-06-22

◎無意識と死の側-5-超常現象・オカルト-2-超能力系-3-テレパシー、超感覚的知覚-1(プラハのユダヤ人マスター)

◎プラハのユダヤ人マスター

 

チェコのルドルフ2世は、魔術の都プラハから、ユダヤ人を追放する命令を出した。そこで魔術の有力ユダヤ人マスターであったレーフは、この追放令取り消しを求めて、ルドルフ2世の馬車に直訴を敢行した。

幸いにも王は、この直訴を受け入れ、レーフを城に招待し、レーフは魔術を実演して見せた。

 

『あるとき、ルドルフはレーフに、旧約聖書に出て来るユダヤの族長アブラハム、イサク、ヤコブとヤコブの息子たちを見せてくれるように頼んだ。レーフはためらったが、結局王の望みをかなえることを約束した。

 

ただし、族長たちの神聖な姿が現れたときに、決して誰も笑わないようにという条件を付けた。

広間に集まった王と廷臣たちは、薄闇の中に立つレーフの姿を見つめていた。すると霧の中に消えるようにレーフの姿が見えなくなり、暗闇の中からまずアブラハムの大きな姿が現れ、みんなの目の前を動いて消えた。続いてイサク、ヤコブ、ヤコブの息子たちが次々と姿を現した。

王と廷臣たちは、ユダヤ人の祖先を、神妙な面持ちで静かに見ていた。しかしヤコブの息子のうち、赤毛でそばかすだらけのナフタリが現れ、みんなに置いてきぼりにされたくないというように小走りに急ぐのを見ると、王は笑いをこらえることが出来なくなった。

王が笑い出すと、暗闇と幻影がすべて消えた。そして広間には驚愕と恐怖の叫びが上がった。

なんと天井が動き、次第に下がってきたのである。廷臣たちは真っ青になって、ドアの方へ逃げようとしたが、金縛りにあったように体が動かなかった。みんなは、天井を止めてくれと、レーフに叫んだ。レーフが出てきて、手を伸ばし、何かいうと、ようやく天井は止まった。』

(黄金のプラハ/石川達夫/平凡社P293から引用)

 

笑うと術が破れるのは、 抱朴子の『俗人に誹謗させてはならない』と似ている。アストラル・ビジョンかエーテル・ビジョンかわからないが、意識レベルを低下させて、人々に同一の幻影を見させるということなのだろう。

映画を見終わったときに映画から抜けない心理状態のひどいやつくらいの感じ。レーフはこの幻影を見せることに応ずるときにやや躊躇したというが、正統的な術者であれば、そうだろうと思う。

また現代でレーフと同じことをするのは危険極まりないことだと思う。本物かどうかだけが問われる時代だからである。このあらゆるマインド・コントロールで錯綜した時代に。

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OSHOバグワンの父親-2

2024-02-05 03:41:27 | ジェイド・タブレット外典

ジェイド・タブレット-外典-06-21

◎朝3時から6時まで毎日冥想

 

OSHOバグワンの父は、学問はなかったが、朝3時に彼を散歩に連れ出し、6時に戻って来るという習慣を続けた。彼は、早朝のその時間帯を、神が地上にあれほど近づく時間帯はそこしかないと表現している。

OSHOバグワンの父と言えば、今でもネット上の動画で見れるのかも知れないが、OSHOバグワンが父の遺体の頭頂に手を当てて、父の微細身が頭頂から抜けたかどうか確認しているシーンが有名だ。いわゆる正統的な脱身は、ブラフマランドラ頭頂から出る場合しかないからだ。

その父は、貧しかったが素朴で親切で気前が良かった。毎晩のように夕食に客を招き、貧しい人を金銭その他の面で積極的に援助した。見かねたOSHOバグワンが、金を節約するようにと言っても金は絶対になくならないというようなことを父は言い、聞く耳を持たなかった。

このことでは出口王仁三郎の祖父のことが思い起される。

その父は晩年の10年間、朝3時から6時まで冥想を続け、しばしば冥想は5、6時間に及ぶことがあったという。

(参照:反逆のブッダ/ヴァサント・ジョシ/メルクマール)

冥想を5、6時間できるというのは、結構坐れている人だが、そのぐらいの人にして頭頂から出れるということだろうか。

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