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アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

OSHOのヴィパッサナー-3

2022-11-10 10:37:00 | 【エーテル体】【ザ・ジャンプ・アウト-06】neo

◎入息出息を鼻の先で見守る

 

OSHOのヴィパッサナーの三通りある方法の第三番目。

 

『そして第三の方法は、息があなたの鼻孔から入ってゆくとき、その入口で息に気づいていることだ。鼻の先端で感じるのだ。腹の対極で、鼻で、息を感じなさい。入っていく息は、鼻孔に一定の冷たさを感じさせる。それから、息が出てゆく・・・・・息が入る、息が出てゆく。これでもよい。

 

これは女性よりも男性にとって容易だ。女性はどちらかという腹を意識している。ほとんどの男性は腹まで呼吸することすらない。彼らは胸を上下させる。というのも、間違った体操が世界中に広まっているからだ。たしかに胸が熱く、腹がへこんでいれば、肉体はより美しく見える。男性は胸でしか呼吸しないため、胸はさらに大きくなり、腹は引き締まる。そのほうが彼をスポーツマンらしくみせる。

 

日本を除いた世界中のどこでも、すべての運動選手とその指導者たちは胸式呼吸に力点を置くため、胸を広げて腹を引き締めようとする。彼らの理想は、胸が大きく腹の小さなライオンだ。ライオンのようであれ---というのが体操選手や肉体に働きかけている人々の規範となった。日本は「広い胸、引き締まった腹」に注意を払わない唯一の例外だ。

 

腹を引き締めるには特殊な訓練がいる。だがそれは自然ではない。

日本は自然な道を選んだ。だから日本の仏陀の像を見れば驚くだろう。それこそ仏像がインドのか、日本のかを即座に識別できる方法だ。インドのゴータマ・ブッダ像は、まさに運動選手のような肉体をしている。胸はとても広く、腹は小さく引き締まっている。だが日本の仏陀はまったく別だ。彼の胸はほとんど沈黙している。なぜなら、彼は腹から呼吸しているからだ。だから腹のほうが大きい。みかけはそれほど良くない。というのも、世界に広まっているこの考え方は非常に古いものだからだ。だが複式呼吸のほうがより自然でくつろいでいる。

 

夜眠っているときには、胸でなく腹で呼吸している。だから夜とはそれほどにもくつろいだ体験なのだ。眠りの後、朝には、とても新鮮で若々しく感じる。というのも一晩中、自然に呼吸していたからだ・・・・あなたは日本にいたのだ!

 

これが二つのポイントだ。腹式呼吸、息の出入りへの注意が体操選手のような見かけを破壊すると恐れるなら・・・・・・・人々は体操選手のような見かけのほうに関心があるのかもしれない。それなら彼らにとっては、息の入る鼻孔のあたりで見守る方が容易だ。見守りなさい。そして息が出る時にも見守りなさい。』

(新瞑想法入門/OSHO/市民出版社P159-163から引用)

 

 

第三の方法は鼻孔のあたりで入息を見守って、また鼻孔のあたりで出息を見守りなさいというものだが、この文章の大半は、第二の方法である腹式呼吸の説明に費やされている。逆に第三の呼吸を見守る方法についてはほとんど説明がない。これで第三の方法のコツも効果もわからないままになっている。第三の方法こそ釈迦の覚醒メソッドのはずだが、ここでもその秘密が明かされることはなかった。

 

第二の方法の説明だが、呼吸において「女性はどちらかという腹を意識している」とは、女性は生まれながらに腹ができている、つまりスワジスターナ・チャクラが使えていることを意識しているのだと思う。オバサン・パワーとはスワジスターナ・チャクラの働きなり。

 

第一の方法は、醒めていること、意識化。第二の方法は腹式呼吸。第三の方法は鼻孔で呼吸を見守る。OSHOは三種同時にやってもよいというが、同時にやることに殊更にこだわることはないのではないか。

 

第一の方法は、最後には眠っている間も醒めているという、ヨーガで一つの到達点とされる境地を意識した奥深いものである。

第二の方法の腹式呼吸も、最後にスワジスターナ・チャクラの開顕となれば、大安心という一つの到達点がある。

第三の呼吸を見守るのも「呼吸による覚醒」という、そのものズバリのメソッドではある。

 

どの方法も窮極へのメソッドだが、このように説明が途中でそれまくるのが、OSHOバグワンの特徴なのだが、「禅」、「禅」と語るわりに、その教えがわかりにくいのは、話題が飛びまくることが、必要以上にいろいろな誤解を生んでいるせいもあるのだと思う。人はどちらでもとれる話を自分の都合のよい方に解釈しがちなものだ。

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OSHOのヴィパッサナー-2

2022-11-10 10:33:13 | 【エーテル体】【ザ・ジャンプ・アウト-06】neo

◎出入する腹への気づき

 

OSHOのヴィパッサナーの三通りある方法の第二番目。

 

『第二の方法は呼吸だ。呼吸に気づくようになることだ。息が内に入ると腹がふくれ、息が外に出るともとに戻る。第二の方法はこの腹に気づくことだ。

 

腹の出入りの動き・・・・・上がり下がりする腹への気づき。腹は生命の源泉にとても近い。なぜなら、子供は母親の生命とへそでつながっているからだ。へその後ろにこそ生命の源泉がある。

 

だから腹がふくれるときには、まさしく生命のエネルギー、生命の泉が息とともに上下している。この方法もむずかしいものではない。おそらく単一の技法であるがゆえに、むしろ容易であるかもしれない。

 

最初の方法では、まず肉体に気づかなければならない。それから精神作用に気づき、感情や気分に気づかなければならない。そこには三段階ある。第二のアプローチでは方法はひとつだ-----。出入する腹への気づき。だが結果は同じだ。腹に気づくようになれば、精神作用は静まり、ハートは静まり、気分は消え失せる。』

(新瞑想法入門/OSHO/市民出版社P159-163から引用)

 

OSHOは、それぞれのボディでそれぞれの呼吸と言う。肉体では酸素と二酸化炭素を呼吸し、エーテル体では、気・プラーナを呼吸する。アストラル体では、感情を呼吸する。メンタル体では想念を呼吸する。

 

ここではそういう観点ではなく、スワジスターナ・チャクラ=丹田呼吸の前段となる、出入りする腹に気づくことで、気分や想念までも調整され始めることを言う。ストレス解消、ヒーリング効果があるということ。

 

つまり呼吸自体はそれぞれのレベルで同時並行に起きるが、丹田へ意識を向けるというのがこのポイントになるだろうか。

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OSHOのヴィパッサナー-1

2022-11-10 10:31:07 | 【エーテル体】【ザ・ジャンプ・アウト-06】neo

◎想念と行動の意識化

 

OSHOバグワンの「シヴァの、宇宙への帰一の方法」としての呼吸テクニックでは、ボディごとの呼吸を分離して取り扱ってはいない。呼吸は呼吸一本であり、エーテル体の呼吸だけが、独立して説明されてはいない。あるボディにおける独立した呼吸についての説明は、意味がないとでも言いたげな説明であった。

更にOSHOバグワンのヴィパッサナーについての説明。

 

『ヴィパッサナ

 

ヴィパッサナは、他のどれよりも多くの人々を光明に導いてきた瞑想だ。それはこの瞑想がまさに本質的なものだからだ。他の瞑想も同じ本質を備えてはいる。だが非本質的なものもまた付随し、異なった形態になっている。しかしヴィパッサナは本質そのものだ。そこからは何一つ落とせず、また改良の余地もない。

ヴィパッサナはとても単純だから、幼い子供でもできる。実際最年少の子供のほうがあなたより上手にできるだろう。

 

ヴィハッサナは、三通りの方法ですることができる。自分に最も適したものを選べばよい。

最初の方法は--自分の行為、肉体、思考、感情に対して気づいていることだ。歩くときには、気づきをもって歩きなさい。手を動かすときには、自分が手を動かしているのを充分に意識しながら、気づきをもって動かしなさい。ややもすると機械的に、意識せずに動かすこともあり得る。たとえば朝の散歩をしているとしよう。あなたは両足に気づくことなく歩き続けることもできる。

 

自分の体の動きに油断なく醒めていなさい。食べているあいだは、食べるのに必要な動きに油断なく醒めていなさい。シャワーを浴びているときには、その冷たさに油断なく醒めていなさい。降り注ぐ水とその大きな喜びに、ひたすら油断なく醒めているのだ。それらを無意識状態のまま起こらせておくべきではない。

 

マインドについても同じだ。どんな思考がマインドのスクリーンを通過しようと、「見守る者」でありなさい。どんな感情がハートのスクリーンを通過しようと、「観照者」のままでありなさい。自己同一化してはならない。何が良く、何が悪いと判断してはならない。それは瞑想ではないからだ』

(新瞑想法入門/OSHO/市民出版社から引用)

 

ここでは、クンダリーニ・ヨーガの基本である。見守る、聞き守るから入り、意識的であれと指図する。そしてその対照と合体することを禁じる。つまり見ている自分を残しなさいということである。観照には見ている自分が必要なのだ。

 

行動や想念の不断の意識化の努力は、平素の労働や就学時にはまずできないだろう。つまり「しまった。今無意識だった。」などと、毎度意識化に向かうことを繰り返す・・・そんなことばかりしていたら、ボヤボヤしているんじゃないと注意されるのがオチだからである。職場や学校でのしっかりした管理者であるほど、そうした意識が仕事や勉強に向いていない人を見分けられるものである。だから本業とは別に瞑想の時間を持たねばならないというのが現実的な動きになると思う。

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平田篤胤の養父篤穏の養生法

2022-11-08 09:59:04 | 【エーテル体】【ザ・ジャンプ・アウト-06】neo

◎エーテル体のイメトレ

 

冬らしい気候になってくると、風邪を引く人が多い。江戸時代の禅者白隠は、70歳となって、冬であっても足袋を履かず身体はぽかぽかと暖かいと語るほど健康を維持できた。

 

白隠は生来多病であったが、青年期に京都の白幽子に軟酥の看法を教えられて、それを行ずるようになってからは、病患を去って気力充実して修行に邁進することができた。気力充実するためには体力の裏付けがないと何事もなかなか進むものではない。

 

軟酥の法とは白いバターの固まりのようなものがあると想像して、それが、頭頂から手、足の先まで潤し、しみわたると看ることによって身体の健康、バランスを取り戻そうとする方法である。

 

この国学者平田篤胤の養父篤穏の養生法も、肉体そのものでなく、軟酥の看法のようにイメージでもってエーテル体全体に気を巡らすことにより、健康を維持しようとするもの。

 

『①まず仰向きに寝る

②次いで両足を揃えてかかとを押し出すように強く踏み伸ばせ。

③そして全身の気を臍のあたりから、その下丹田、そして腰、脚、足の裏にまで充たす。

④次には指を折って、呼吸を百まで数えるがよい。

⑤呼吸を百数え終わったならば、踏みしめた力を緩めよ。

⑥これを一晩に四、五回続けるのだ。

 

「これを行なえば、元気が全身に充満して、腹中にあるしこりなども消える。どのような良薬も、この術に優るものはないのだ」と養父は服をはだけてその腹を出した。見れば腹力は充実して張って固いことコツコツと音がするようであったとして,この法の効能を篤胤は強調している。』

(古武術と身体/大宮司朗/原書房から引用)

 

篤穏は84歳の長寿であったという。篤穏の方法には、保息があるところが特徴。効果の遅速についての言及はない。これは、彭祖の長命法をイメージさせるところがある。

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エーテル体の色

2022-10-22 12:14:30 | 【エーテル体】【ザ・ジャンプ・アウト-06】neo

◎エーテル体-3

◎肉体の回りの青みがかった光

 

スワミ・ヨーゲシヴァラナンダによれば、エーテル体の色は、白みがかった青。エーテル体は、半物質であり、彼によれば、地水火風空の五大のうち善性優位の風エレメントで形成されるものがエーテル体であるとする。(魂の科学/スワミ・ヨーゲシヴァラナンダ/たま出版P186-187)

 

エーテル体の色と大きさに関連するOSHOバグワンの記述には以下がある。

 

○肉体の回りの青みがかった光

 

OSHOバグワンによると、エーテル体は、肉体の回りの青みがかった光として見えるという。

 

エーテル体は、全体として肉体型でもなく、球体でもなく、神経をそのまま取り出したような傘の骨型であるという。

エーテル体は半物質であり、死によって崩壊する。

 

『この青みがかった形態、この青みがかった光こそが、エーテル体の存在だ。あなたには幾つもの体がある。

 

この技法はエーテル体に関わっている。エーテル体を通じて、あなたは最高のエクスタシーに入ることができる。体は七つある。どの体も〈神〉の中に入るのに使える。どの体も扉となる。

 

この技法はエーテル体を使う。エーテル体はもっとも認識しやすい。ほかの体はもっと深くにあるので、認識するのも難しくなる。

 

エーテル体は肉体のすぐ近くにある。エーテル体は二番目の体だ。肉体を取り巻いている。肉体を貫き、肉体を取り巻いている。ぼんやりした光、青い光が、ゆるやかな衣のように取り巻いている。』

(生の神秘/OSHOバグワン/市民出版社P276から引用)

 

短文だが、重要なポイントが複数含まれている。

 

七つのボディのどれでも神の中に入るのに使える。エーテル体であっても。これは意外である。どうやってそれをやるのだろう。気功系のテクニックだろうか。

 

エーテル体が青い光。青い光といえばオルゴン・エネルギー。

 

『この電気的な力も、エーテル体を通じて現れる。エーテル体は電気的な体だ。

 

あなたがエネルギーに充ち溢れているときには、エーテル体の範囲も大きい。でも悲しんだり、落ち込んでいるときには、体のまわりにエーテル体はない。体の中に後退している。

 

だから悲しんでいる人間、落ち込んでいる人間の近くにいると、自分もまた悲しくなる。悲しみの極にいる人間が部屋に入ると、自分も何らかの異状を感じる。なぜなら、悲しんでいる人間のエーテル体が、たちまちこちらにも影響を及ぼすからだ。その人間は搾取者となる。その人間のエーテル的エネルギーが落ち込んでいるため、他人を栄養とするようになる。』

(上掲書P278から引用)

 

OSHOバグワンの説明では、このようなエーテル体の電気的性質を踏まえて、何もしないままに自分の回りの青い光を見ているままにいれば、その青い光は増大し広がっていく。

 

こうしてエーテル体は生体エネルギーの蓄電池となるが、そのエネルギーを幹から枝そして花に向かわせる方法については説明をはぐらかしている。

 

ここでグルのサポートが必要になる。エーテル体のエネルギー横溢から先には、人前では明かせない秘密があるのだろう。

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グルジェフのエーテル体

2022-10-22 10:43:29 | 【エーテル体】【ザ・ジャンプ・アウト-06】neo

◎遠隔治療の原理

 

遠隔治療と呼ばれるものがある。効くか効かぬかは、施術者によるが、その原理的なものについて、グルジェフが言及している。

 

まずグルジェフは、最後の晩餐でイエスが弟子たちにパンとぶどう酒に混ぜて与えたものは本当にイエスの血であったと主張する。

 

あらゆる生命体は、その周辺にエーテル体(大気)を持っている。そのエーテル体の大きさは、生命体により異なる。人によりエーテル体の匂いは相違するので、犬などはその匂いをかぎ分けることができる。

 

人体で産出される成分の一部は、消化、呼吸など他の物質を変換させるために使われるが、残りの部分はその人のエーテル体になっていく。つまり失われるということ。

 

知者は、純良な物質を自分の中に蓄積することを知っているが、純良な物質が大量に蓄積されると、人間の中に第二のより軽い体(アストラル体のことか?)が形成されるという。しかしふつうの人のエーテル体においては、蓄積されず、絶えず消費され、内面の動きにより補充される。

 

人のエーテル体は、必ずしも球状ではなく、絶えずその形を変え、緊張した時や、脅威や危険にさらされたときは、緊張した方向に伸びる。そうすると反対側は薄くなる。

 

エーテル体は、一定の空間でその人に引きつけられているが、一定の限界を超えるとエーテル体を構成する細かい粒子の群れが引き離され、戻って来ない。人が動くときに、エーテル体が一方向に甚だしく引っ張られると、その人のエーテル体の粒子が引き離されて背後に残り、跡が残る。この跡はかなり長い間残ることがある。

 

こうした跡を、神域、聖域、墓所などで、聖者のバイブレーションとして感じることができるわけだ。

 

エーテル体の粒子は、衣服、下着、その他その人の持ち物に定着するので、その人のバイブレーションとして残る。

 

催眠術や、遠隔現象は、この原理を応用したものである。遠隔現象を起こす能力を持っている人は、この跡をその人自身のエーテル体半物質で埋めることができる。

相手の持ち物があれば、その持ち物で相手との(無線的)接続を行い、その持ち物の周りにワックスや粘土で肖像を作り、そうしてできたイメージに作用するという方法でその人自身に作用する。

(出典:グルジェフ/弟子たちに語る 第四部/メルクマール社)

 

グルジェフは最後の晩餐に与えた食物には、イエスのエーテル体が含まれていたので、血そのものを与えたのと同じであると説明している。

 

OSHOが弟子に与えた形見の品が、弟子の家の片隅に置かれているが、その弟子が一向に修行しないところを、OSHO自ら幻視しているシーンが書かれているところがある。

 

聖者の形見の品は、このようにエーテル体を媒介として、そのバイブレーションを長く残しているものだろうから、その場所が、聖域同然になってしまう。

だから仏舎利、聖遺物、聖骸布など、聖者の遺品に類するものに対する丁重な扱いは、故のないことではなかったのである。

 

また遠隔作用がエーテル体レベルだけかという点についても、議論はある。

 

また超能力者は内臓を痛めがちというのも忘れてはならない視点である。

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オルガスムの法則

2022-10-08 16:44:34 | 【エーテル体】【ザ・ジャンプ・アウト-06】neo

◎エーテル体レベルでの現象

 

ライヒの説くオルガスムの法則とは、緊張→荷電→放出→弛緩。特に性器の構造から説明すると、

 

『1.器官が流動的で充満する。つまり機械的な緊張による勃起が起こる。

 

2.これが強度な興奮に発展する。わたしは、この興奮を電気的性格をもったもの。つまり荷電と仮定する。

 

3.オルガスムにおいて荷電および性的興奮は、筋肉の収縮によって放出される。これを電気的放出と名付ける。

 

4.それに続いて、からだの流動体のながれが逆になり、性器の弛緩が起こる。これを機械的弛緩と名付ける。

 

この四拍子、つまり機械的緊張→荷電→電気の放出→機械的弛緩のことを私は「オルガスムの法則」と名づけたのである。』

(オルガスムの機能/ライヒ/太平出版社p371から引用)

 

性愛のオルガスムに至るプロセスの中で、クライマックスに達し、リラックスに至る一連の流れが、肉体的興奮と電気的荷電の双方において、並行して発生していることをライヒは直観した。

 

ライヒは、皮膚電位の差などから、二人の肉体表面の電位差からイオンが発生して、その電気的荷電は、性器と腹部に最初に起こり、段々性器に集中していき、蓄積され、オルガスム時に電気的荷電が放出される。つまりオルガスムは、電気的放出であるとしている。

 

ライヒは、電位差などの理論を引いて、その妥当性を懸命に説明しようとしている。周知のとおり、エーテル体と電気は密接な関係があるから、ライヒの仮説は、結果として科学になり得なかったのであるが、大きな発展性を持つ着眼だったように思う。

 

というのは、生体エネルギーであるオルゴンが、生体エネルギーの源泉であり、その展開の代表的パターンがオルガスムであるという心証を持っていたからである。単に、セックスの時に二人の間に電気が発生するだけのものではなく、個生命のエーテル体レベルでのエネルギー交換・エネルギー運動ではないかと見ていたところである。

 

おそらくは、同一の着眼点から、房中術があり、タントラの性愛術が成立しているのだと思う。

 

また心理面での原則として、快楽が拡張に相応し、不安が収縮に相応することも指摘しているが、これまた科学的な証明は簡単ではない。

 

※イオン:原子あるいは分子が、電子を授受することによって電荷を持ったものをいう。電離層などのプラズマ、電解質の水溶液、イオン結晶などのイオン結合性を持つ物質内などに存在する。

(ウィキペディアから引用)

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