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アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

言霊をちょくちょく使うことはできないこと

2023-01-01 03:38:34 | 冥想いろいろ

◎言霊を一遍使ったならば二度とは使えない

言霊は一回きり。必要に応じて適宜発動するなどはあり得ない。
以下は出口王仁三郎の説明。

『若し今直ちに○○が戦争をしたならば、○○は滅茶々々にされて了ふ事は分かり切つて居る。今でさへも此の通り、まして二、三年先になつたならば、到底勝つ事は望めない。物質的に勝つと云ふ事は出来ないのであります。

今の中ならば何とかなるだらうと云つても無謀な軍は出来ませぬ。若しさうやつて旨く行けば宜いけれ共、若し○○が独逸のやうに敗けたならば、再び起つ事は出来ぬ。独逸以上の惨害を蒙るのである。故に戦ひも考物である。

是は何うしても人事を尽す上に於て某国との戦争を免れ或は軽くして○○が勝つと云ふやうに、大難を小難にまつり代へて貰ふと云ふ事を考へなければならぬ。さうして手を尽していけない時には、所謂言向和はすと云ふ天照大御神の御神勅に依つて、言霊の妙用を発揮するより外はありませぬ。

武士の言葉に二言なしといふ如く、若し言霊を一遍使つたならば、二度とは使ヘない。私も雨や風を必要に応じて降らせたり止めさせたり、又役員信者も之を行つて、実際に経験して居りますが、本当の事は一言一遍言つたならば、再び言ふことは出来ませぬ。無茶苦茶な事は出来ない。鶴の一声とか、武士の言葉に二言無しといふ事があるのに、まして神様の御道に二言のあるべき筈がない。唯一回である。

それであるから非常に難しい。大なる修養を要するのであります。鼬が最後屁をしたやうなものである。最後屁を放つた鼬はモハヤ生命はなくなる。又蜂が人を刺すに一遍刺したならば其蜂の命が無くなる。

それと同じ事で言霊といふものは、其の運用が軽々しく出来るものでない。魂を磨きに磨いて愈々と云ふ時に使ふ。国家の危急存亡の場合、又背に腹は代ヘられぬといふ時に使ふのであります。

 亀山上皇が元冦来襲の時に、身を以て国難を救はうと神祗に誓はれた。是も上皇の言霊の力であります。斯の如く大なる力を有つて居るのが言霊である。その代り之を屡々運用する事は出来ぬのである。』
(出口王仁三郎全集第2巻第18章弥勒の世から引用)

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降霊、チャネリングの不安定性

2022-12-29 06:35:37 | 冥想いろいろ
◎神がかりは禁止


SNS、動画サイトを含め、降霊、チャネリングのサイトは少なくない。降霊、チャネリングとは神がかりのことである。

出口王仁三郎は、大正10年から神がかりを禁止。
『○神がかりは禁止

神様は大正十年から神界の大本営で、一切の神がかりを禁止されているから、その後の神がかりは聞きはつったのをいうのであるから、そんなものは言ってやっても判らぬから、相手にせずホッておいたほうがよい。
(昭和十八年二月四日) 』
(新月の光 下巻/木庭次守P46から引用)

聞きはつるとは、聞いた言葉に加え不明な部分は想像で補うことをいうのであろう。古神道の降霊、チャネリングは、帰神。三島由紀夫の小説英霊の声は、帰神(憑依)を題材にしたもの。

神とコンタクトする代表的な三手法の一である帰神(憑依)は、価値観多様化の中で弊害が多すぎるため禁止されたのだ。膝ジャンプをやっている場合ではないのだ。帰神(憑依)は、トランスに伴って非肉体の第三者を意識下に混在させる手法とも説明できる。

それに代わって最近多いのは、自分の集合的無意識(例えば地方的無意識、国家的無意識)をのぞき込み、それを予言として語るもの。集合的無意識をのぞき込む手法は、タロット、パワーストーン、香、ホロスコープ、星図、方位、易など占い万般。

だが、集合的無意識と言えば、誰が見ても同一の集合的無意識の層を見ているかと言えば決してそんなことはなく、見る人によって多種多様である。
それこそ個人的無意識に毛の生えたようなものから本当に地球人類ののっぴきならない未来を見たものまで様々である。

個人的無意識は、体内ガスや消化中の食物、身体のこりの影響を受ける他、外部のスマホ、TVの情報の影響から、教育、社会通念などあらゆるものの影響を受けている。そうしたものの深部に、天国的な集合的無意識があり、地獄的な集合的無意識があり、また現実を直接に変転させる集合的無意識がある。

いわゆる当たる予言は、現実を直接に変転させる集合的無意識を見た場合のみである。だがそれすらそれを予言した瞬間に、現実の方がその予言の影響を受けてしまって、ちょこっと変わってしまう。

スピリチュアル・ブームは安定したネット・コンテンツであり続けているが、事程左様に本物は少ない。コンテンツの真贋を見る目は、自分自身が真理に触れるという体験とは言えない体験を経るしかないように思う。

朝早く起き出でわざにいそしめば 神の力はおのずから添ふ(出口王仁三郎)
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昔呪詛調伏、今マインド・コントロール

2022-12-12 07:06:04 | 冥想いろいろ
◎承久の乱からカルトまで

後鳥羽上皇は、最勝四天王院などに依って鎌倉方を呪詛調伏したという。呪詛調伏が、深層意識に働きかけて、とある事象を現実化させようというメカニズムであると見れば、マインド・コントロールも人を誤った現実感に誘導して、とある事象を現実化させるという点では同じメカニズムと見れないこともない。護摩を焚くとか焚かないというのは大きな問題ではない。

ところで呪詛調伏と言えば、ブラックマジックであり、邪法なオカルトに直ちに分類されるが、一方マインド・コントロールと言えば、テレビでありスマホであり、情報操作やサブリミナル情報や不断のCM動画の強制挿入が日常的に行われる最前線であって、一見後ろ暗いところがあまりないかのように見える。

ところがその背後には、金と欲得が動機として控えており、鎌倉時代の呪詛調伏の原動力と何ら変わることはない。

むしろ連続的な視聴覚情報の強制により、自分で考える時間を奪って洗脳効果をより高めている点では、鎌倉時代の比ではない。

現代人は知的だが、冥想によりその洞察を深めねば、あらゆるマインド・コントロールによって自滅する可能性があるように思う。ますます精神的な話をしても理解してくれない人が増えていく。要するに自分がどのように情報操作されていて、どのようなマインド・コントロールを受けているかについて無自覚な人がどんどん増えているのだろう。そうした自覚を持たない大勢の人が、今のトレンドについてSNSでつぶやいているのだ。
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神は人を何処へ導くのか 鈴木秀子

2022-12-10 07:02:32 | 冥想いろいろ
◎見ている自分と超能力

鈴木秀子氏は、聖心女子大の先生だが、大階段を落ちる際に幽体離脱し、天国に入り、生還した。これを本人は、臨死体験と呼んでいる。

臨死体験直後は、明らかに見ている自分が残っており、白っぽい金色の輝きにみちた一面光の世界に入って、至福を感じた。

数日後、病室の窓に立った時、大宇宙との一体感を得て、その至福の状態は三日間続いた。が世界は自分であるという逆転の実感はなかったので、まだ見ている自分が残っていたのだろう。ここで、見神ということになるだろう。

彼女には予知能力や癒し能力があって、当初はその能力を積極的に使って、病気治しや、何日に株を買えば値段が上がるかなどを当てていたのだが、そのことが本当に彼ら彼女らのためになるかどうか疑問に思い、やがて超能力を野放図に用いることは控えるようになっていく。

カトリックでは、超能力を積極的に評価したり使用したりする伝統があるので、こうしたことは避けられなかったのだろう。

一般に超能力、霊能力にこだわったままだと自動的に冥想修行の進境は止まる。
だが、カトリックでは、神人合一を目指すわけではないので、見神者であればそれで充分と評価されるところがあるのだろう。

そして「神は人を何処へ導くのか/鈴木秀子/三笠書房」は、2000年4月の本なので、その後彼女に何か起こったかどうかはわからない。彼女の他の著作は読んでいないし、また書いてあることがすべてであるとは限らない。
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時間は心理である

2022-11-30 07:35:04 | 冥想いろいろ
◎只管打坐の道

時間は心理であると見ているのはクリシュナムルティ。電波時計だから正確だなどと言っているレベルの話でなく、過去も未来もなく現在だけがあるのが時間であるとするところが立脚点。

『真の危険が身に迫ったときは、時間的余裕などありえない。直ちに身を守る行動をおこすのがふつうであろう。ところが、われわれは多くの問題をかかえていてもその危険が目前に迫っていることがわからないために、その問題を克服する手段として時間を利用しようとするのだ。だが、時間はわれわれが自分自身を変えるのをまったく助けようとしない。時間は、ただわれわれを欺いているだけである。時間は過去・現在・未来の三つに分割される一つの動きである。 そして、時間を分割するかぎり、人間は常に争いと不一致に苦しまなければならない。』
(自己変革の方法/クリシュナムーティ/霞ヶ関書房P151から引用)

真の危険が身に迫った時こそ人が本当に意識的であって覚醒している、と言うのは、OSHOバグワンだが、クリシュナムルティが、こうした意識の隙間を出してくるのは偶然ではあるまい。
真に醒めれば、過去もなく未来もなく現在だけがある。

さらに
『時間とは何か。それは時計が刻む時間ではなく、年代的な時間でもなく、心理的な時間である。それはまた、観念と行動の中間に介在するものである。観念は明らかに自己を守るためのものであり、自己を安定させるためのものである。 行動は常に敏速である。それは、過去のものではなく、未来のものでもない。行動は常に現在に基づくものでなければならない。だが、行動はあまりにも危険で、あまりにも不確かであり、それゆえわれわれは確実な安全を保証してくれる観念にしたがうのである。』
(上掲書P153-154から引用)

この段階では、過去現在未来を区分してみている。この文に続いて、行動は観念によるが、行動と観念は必ずしも一致せず、そこに間隙が発生する。その間隙を人は観察と欲望で埋めるのだが、その間隙が時間であるとしている。

『こんどは、大部分の人にとって何よりも大きな問題である死の問題をとり上げることにしよう。あなたは死について知っている。死は毎日、あなたのそばを歩いている。死をまったく問題としないですむくらいに完全にそれと対決することができるだろうか。そのような対決をするには、死に対するあらゆる信念、あらゆる希望、 あらゆる恐怖を捨てなければならない。そうしなければ、一つの結論やイメージや予め抱いた不安をもって死と対決することになる。つまり、時間をもって死と対決することになるのである。
時間は、観察するものと観察されるものとのあいだに介在する隔たりである。つまり、観察者であるあなたは、死と対決することを恐れているのである。それが何を意味するか、あなたは知っていない。あなたは死に関するあらゆる種類の希望と学説を知っている。あなたは生まれ変りや死者の復活、もしくは魂、霊、さまざまの名でよばれる時間を超越した霊的実体を信じている。だが、魂がほんとうに存在するかどうか、あなたは自分でそれを発見したのだろうか。あるいはただそうした考えをあなたは他人から受けいれただけなのか。思考を超えた永遠に持続するものがあるだろうか。もし、それを思考が考えついたとしても、それは思考の分野の中 にあるものであり、思考の分野には何ら永久的なものは存しないのであるから、それもまた永久的なものではない。何一つ永久的なものがないということを発見することは心の自由にとって何よりも重要なことである。その事実を発見したとき、はじめて大きな喜びを生じるのである。』
(上掲書P156-157から引用)

時間は、観察するものと観察されるものとのあいだに介在する隔たりであって、観察するものであるあなたは、観察されるものである死と分離している。この分離に時間が発生している。

この引用文は、観察するものと観察されるものが合体すればどうなるかをあからさまに描写せず、いきなり自明のものとして記述している。観察するものと観察されるものが合体すれば。時間はなくなり、現在しかなくなる。よって時間は心理なのだと見ていることが暗にわかる。

観察するものと観察されるものが合体するのは、いわゆる大悟覚醒なのだが、仮にそう書けば、どうすればそうなれるのかという、技術だの方法だの目的だのという『観念論』に落ちていくので、クリシュナムルティは注意深くそれを避けている。只管打坐の道とはそういうものだと思う。
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