の続きです。一年ぶりなので続きというのもなんですが、まあ続きです。
さてアルゲリッチは私の最も好きなピアニストの一人です。余計な話ですがone of the most+複数形って変な感じがしませんか? でも英語の影響を受けて、情けないことに日本語でも使うようになってしまいました。どことなく便利な表現ではありますが。
何の話だったかな、そうそう、昔アルゲリッチのチャイコ1番とラフマニノフ3番を待ちに待っていたことがありました(古い話ですね)。チャイコ1番は1957年録音のホロヴィッツがこれ以上はないだろうという凄まじい演奏なので、アルゲリッチならどうかなと期待したわけです。で、彼女の弾くチャイコ1番のCDが出たとき、正直ガッカリしました。なんだか彼女の機嫌の悪いときで、「何回テイクさせるの!?もういいわよそれで! 売りたいなら売ればっ」と切り上げてしまったのでは?(←全くの空想)
ところがその後出たアルゲリッチのラフマニノフ3番!これはもうホロヴィッツ1957年録音のチャイコ1番と同じですね。これ以外にラフマニノフの3番は要らない!
と言いたいところだけど、ふと、キーシンがラフマニノフの3番をやったらどうか? と、昔聴いてそのメカニックの凄さに驚いたリサイタル(前回記載)を思い出したのです。(やっとキーシンですね)
実はキーシンの弾くラフマニノフの3番、とっくにCD出ていたんですね。1993年の小沢+ボストン響のライブ録音で、もうその年に出ていたようです。遅ればせながらそのCDの情報を得たとき、例によって頭より先に体が勝手に動いたのではないかと思うほどいつの間にか購入していました。これはホロヴィッツやアルゲリッチを凌ぐもの凄い演奏か? ワクワクしながら針を降ろし、ではなかった、CDプレーヤーに突っ込みました。(最近の機器は風情がないですね) そしたら・・・
これは・・・えぇ!?
冒頭、オケの静かな前奏が始まった・・・などという感覚ではない。音というより、柔らかな精神の波動が漆黒の宇宙から降りて来て、辺りを包み込んだ。やがて一筋のやわらかな光が差し始めた。これはもちろんピアノのユニゾンの主題。それは悲しげにして慈愛に満ちた語りかけ。語るのは観音菩薩かはたまた聖母マリアか。やがて流れは幾筋に分かれ、重なり、渦巻き、急流になったかと思えばたゆたう大河に。網膜に映る実際の室内の景色など脳には届いていなかった。目に浮かぶのは・・・楽器を弾く奏者達ではなく・・・大気に包まれた山、河、海。
これからの音楽ディスクは、カラヤンじゃないが演奏映像付きじゃなくちゃ、などとという浅い持論を吹き飛ばすに十分な体験。これは「ラフマニノフのP協3」と思ったらいけない。ラフマニノフのP協3を聴くということは、ピアノ協奏曲の最たるモノを楽しむことなのだから。そうではなく、このCDの演奏は、ラフマニノフのP協3を借りてこの世へ通じるドアとし、神様が話をしているかのような感じなのです。
そのつもりで聴けばいかにキーシンのテクニックが凄いかがわかるのですが、テクニックを聴こうなどという努力はすぐにかき消されてしまいます。この演奏は、キーシンはもちろん小澤・ボストン響も含めて、奇跡としかいいようがありません。聴衆の拍手の白熱感でもそれがよくわかります。この演奏会に居合わせた人たちのなんとうらやましいことよ。
そう、前に行ったリサイタルではそのすさまじいテクニックに目を見張らされたけれど、それでキーシンのとりこになったわけではない、と書きました。とりこになったのはこのCD聴いてからだったのです。それからキーシンのCDを買うようになりました。
さてアルゲリッチは私の最も好きなピアニストの一人です。余計な話ですがone of the most+複数形って変な感じがしませんか? でも英語の影響を受けて、情けないことに日本語でも使うようになってしまいました。どことなく便利な表現ではありますが。
何の話だったかな、そうそう、昔アルゲリッチのチャイコ1番とラフマニノフ3番を待ちに待っていたことがありました(古い話ですね)。チャイコ1番は1957年録音のホロヴィッツがこれ以上はないだろうという凄まじい演奏なので、アルゲリッチならどうかなと期待したわけです。で、彼女の弾くチャイコ1番のCDが出たとき、正直ガッカリしました。なんだか彼女の機嫌の悪いときで、「何回テイクさせるの!?もういいわよそれで! 売りたいなら売ればっ」と切り上げてしまったのでは?(←全くの空想)
ところがその後出たアルゲリッチのラフマニノフ3番!これはもうホロヴィッツ1957年録音のチャイコ1番と同じですね。これ以外にラフマニノフの3番は要らない!
と言いたいところだけど、ふと、キーシンがラフマニノフの3番をやったらどうか? と、昔聴いてそのメカニックの凄さに驚いたリサイタル(前回記載)を思い出したのです。(やっとキーシンですね)
実はキーシンの弾くラフマニノフの3番、とっくにCD出ていたんですね。1993年の小沢+ボストン響のライブ録音で、もうその年に出ていたようです。遅ればせながらそのCDの情報を得たとき、例によって頭より先に体が勝手に動いたのではないかと思うほどいつの間にか購入していました。これはホロヴィッツやアルゲリッチを凌ぐもの凄い演奏か? ワクワクしながら針を降ろし、ではなかった、CDプレーヤーに突っ込みました。(最近の機器は風情がないですね) そしたら・・・
これは・・・えぇ!?
冒頭、オケの静かな前奏が始まった・・・などという感覚ではない。音というより、柔らかな精神の波動が漆黒の宇宙から降りて来て、辺りを包み込んだ。やがて一筋のやわらかな光が差し始めた。これはもちろんピアノのユニゾンの主題。それは悲しげにして慈愛に満ちた語りかけ。語るのは観音菩薩かはたまた聖母マリアか。やがて流れは幾筋に分かれ、重なり、渦巻き、急流になったかと思えばたゆたう大河に。網膜に映る実際の室内の景色など脳には届いていなかった。目に浮かぶのは・・・楽器を弾く奏者達ではなく・・・大気に包まれた山、河、海。
これからの音楽ディスクは、カラヤンじゃないが演奏映像付きじゃなくちゃ、などとという浅い持論を吹き飛ばすに十分な体験。これは「ラフマニノフのP協3」と思ったらいけない。ラフマニノフのP協3を聴くということは、ピアノ協奏曲の最たるモノを楽しむことなのだから。そうではなく、このCDの演奏は、ラフマニノフのP協3を借りてこの世へ通じるドアとし、神様が話をしているかのような感じなのです。
そのつもりで聴けばいかにキーシンのテクニックが凄いかがわかるのですが、テクニックを聴こうなどという努力はすぐにかき消されてしまいます。この演奏は、キーシンはもちろん小澤・ボストン響も含めて、奇跡としかいいようがありません。聴衆の拍手の白熱感でもそれがよくわかります。この演奏会に居合わせた人たちのなんとうらやましいことよ。
そう、前に行ったリサイタルではそのすさまじいテクニックに目を見張らされたけれど、それでキーシンのとりこになったわけではない、と書きました。とりこになったのはこのCD聴いてからだったのです。それからキーシンのCDを買うようになりました。
これまで色々なラフ3を聞いていますが、音の美しさの点において抜きん出ている演奏です。
演奏の最後にはロシアの広大な大地が目に浮かんできました。
素晴らしすぎます!。