衆院解散

2014年11月21日 | 健康・病気

安倍首相のいっていることを聞いていると腹が立ってくる。
国のことなどまったく考えないで、自分のことだけで解散している。
国民(有権者)は、この“解散”をいいチャンスだと気持ちをかえて、素晴しい選挙結果にすればいい。
といって、受け皿があるのかな?

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ライブの練習

2014年11月20日 | 健康・病気



昨日、埼玉に来た。
今週の土曜日に北軽井沢のパンカーラで「フォークソング祭り」がある。
私はそれに出て歌をうたうのに、これまでその練習をあまりしてこなかった。
仕事がちょっときつかった。
「フォークソング祭り」はもうあさってのことです。
あせっています。
歌も満足にうたえないのに、ギターも思うように指が動かない。
それなのにハーモニカも吹くつもりです。
どれも人前でやるという水準じゃない。
といって、いまさら出ないとはいえない。
やるしかない。
明日、必死で練習をします。

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グリーフケア

2014年11月19日 | 健康・病気

今夜の「NEWS WEB」(NHK総合11:30~12:50)の「深知り」は、「グリーフケア」のことだった。
私は、初めて聞く言葉だった。
グリーフ=深い悲しみをケアするということのようです。
日本グリーフケア協会の代表者が出て話していた。

大切な人を亡くしたときに感じるものは、

     「疎外感」
「思慕」       「うつ的不調」
     「頑張ろう」

というフリップが出た。

大切な人を亡くしたときというのは、どうしようもないですね。
その人にかける言葉など私には考えつきません。
私にできることといったら、
酒の飲める人だったら黙っていっしょに飲む、ぐらいでしょうかね。

私が“グリーフ”という状態になったのは、23歳のときに龍彦を失ったときです。
九想話に何度も書いて繰り返しになってしまいますが、あらためて龍彦のことを簡単に書いてみます。
高校を出て1年たった3月に就職した化学薬品会社で、彼と私は出会ったのです。
私は高校を出て手工ギター工房に弟子入りしたが3ヶ月で辞めて茨城に戻った。
田舎の金物屋で働いていたが、もう一度やり直そうと決意して上京した。
予備校に入り大学に行こうと考えたのです。
龍彦は山口の高校を出て大阪の会社に就職した。
そこでボクシングジムに通った。
プロボクサーになるなら東京だ、ということで大阪の会社を辞めて上京した。
彼と私は同じ求人広告を見たようです。
そして同じ会社に入社した。
私のする仕事は、血液染色液の製造と梱包だった。
その会社で製造していた血液染色液はよく売れた。
10リットルのフラスコに1週間に1度ぐらいは作っていた。
それを100mlの瓶に小分けしてラベルを貼りキャップシールをつけ梱包した。
龍彦は、運転免許を持っていて試薬の配達の仕事が主だった。
会社は本郷三丁目にあり、そのまわりには医療機器の会社が多かった。
大学の医学部もお得意さんだった。
よく龍彦の運転する車の助手席に乗り、試薬の配達を手伝ったものです。
塩酸や硫酸が入った大きな瓶を大学病院などに配達した。
会社は午後4時半に終わり、龍彦はボクシングジムへ、私は駿河台の予備校まで歩いて行った。
9月の頃、私は予備校に行かなくなった。
受験勉強についていけなくなったのです。
勉強してないからあたりまえです。
そのあたりになると私はタバコを吸うようになり、酒も毎晩飲んでいた。
三畳のアパートにはテレビがないのでいつもギターを弾くか、リコーダーを吹くか、本を読んでいた。
(その頃、私はまだケーナを吹いていなかった)
龍彦はプロテストに合格して四回戦ボーイとしてデビューすることになった。
ところがそのデビュー戦の1週間前に龍彦が私に話があるという。
駒込の居酒屋で酒を飲んだ。
龍彦がいう。
「おれはもう、人を殴るのも、人に殴られるのもイヤになった。怖くなったからボクシングをやめたい」
私はなんて話したんだろう。
それから私と龍彦は毎晩私のアパートに来て酒を飲んだ。
私のアパートは駒込にあった。
龍彦は友だちと王子のアパートで暮らしていた。
酒を飲むといっても私と龍彦の給料は安かった。
飯を食っていくのがやっとだった。
なので居酒屋になどめったに行けなかった。
いつもあの頃あった二級酒を買って私のアパートに行って飲んでいた。
つまみはサバ缶や乾き物だった。
テレビがないので2人でやることといったら、ギターを弾くか、リコーダーを吹くか、読書しかない。
それで龍彦にギター、リコーダーを教え、彼は読書もするようになった。
そのうち龍彦は会社を辞めた。
大阪に行くという。
私はさみしくなった。
ところが半年も過ぎた頃、ひょっこり龍彦は私のアパートに来た。
東京で暮らすといって仕事を探した。
私の近くに住むようになった。
驚いたことにあいつのギターがうまくなっていた。
龍彦は、フォーク歌手になるんだといいはじめた。
そのとき私と龍彦が大好きだったのは井上陽水だった。
龍彦は、陽水の曲を完全にコピーしてギターを弾いていた。
あいつの声は陽水のようにきれいな声ではなくハスキーだった。
それはそれで味がありよかった。
龍彦は会社の慰安旅行の宴会では、クールファイブが好きで前川清の真似をしてよくうたっていた。
演歌しかうたわなかった人間が、そのときには陽水や拓郎の曲をうたっていた。
しょっちゅう龍彦と会う暮らしをしていたら、また龍彦は大阪に行ってしまった。
21歳のときだったか、私は正月休みに龍彦の住むところに行った。
そのとき、龍彦は神戸の新聞配達所に住み込みで働いていた。
大阪に行ったが、流れ流れて神戸に辿り着いたようだった。
私が行くと彼は歓迎してくれた。
神戸の街で大酒を飲んだ。
甲子園球場の近くだった。
何を考えているのか龍彦は新聞配達所を辞めた。
私を彼の田舎に連れて行くという。
そして私たちは、山口の彼の生まれたところに行った。
岩国駅で岩日線に乗り換えて山の中へ行った。
錦川の上流のほうだった。
私は龍彦の家に2泊した。
それから2人で東京まで行った。
再び龍彦は東京で仕事をするようになった。
このあたりのことをあまりきちんと覚えていない。
東京で暮らしていたときに龍彦は突然いった。
「陶芸をやりたいから萩に行く」
そして萩に行った。
その年の夏、私は龍彦に会いに萩に行った。
ところがあいつは、同じ窯元の女と出奔していた。
九州のほうを一回りして、福岡の九想窯にも行ったらしい。
その女を連れて駒込の私のアパートに来て1週間ほどいた。
彼女と結婚するという。
私は、その結婚に反対した。
悪い女性ではないが、龍彦はやりたいことをやってない。
陶芸で一人前になったら結婚すればいい、まだ結婚はするな、と私はいった。
龍彦は私のいうことをきいてくれて結婚はしばらくしないことになった。
彼女は実家に戻り、龍彦は備前に行った。
それから3ヶ月ほどしたら彼の弟から連絡があった。
備前で倒れたと…。
私は、備前の龍彦が働いていた窯元に行った。
龍彦が使っていたロクロを見させてもらった。
そのまわりに彼が作陶した茶碗がいくつかあった。
あいつが入院している病院に行った。
彼は意識不明の状態で、喉に人口呼吸器を刺されていた。
脳髄炎という病気で手術していた。
そして12月8日に龍彦は死んだ。
私は、龍彦の結婚に反対したことを後悔した。
葬式に参列するために山口の彼の実家に再び行った。
葬式から東京に帰ってきた1年間ほど、私はどのように生きていたのか覚えていない。
「疎外感」「思慕」「うつ的不調」がゴジャゴジャに心の中で蠢いていた。
「頑張ろう」なんていう気持ちにはまったくなれなかった。
ただただ空しさだけだった。

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高倉健が亡くなった

2014年11月18日 | 健康・病気

高倉健さん死去 83歳、10日に悪性リンパ腫で(スポーツ報知) - goo ニュース

9月28日の九想話で高倉健主演の映画「あなたへ」を観たことを書いた。
素敵な俳優でした。
高倉健さんのご冥福をお祈りします。

 

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かばん屋の相続

2014年11月18日 | 健康・病気

池井戸潤の短編集「かばん屋の相続」(文春文庫)を読了した。

十年目のクリスマス
セールストーク
手形の行方
芥のごとく
妻の元カレ
かばん屋の相続

面白かった。
全部、銀行員が主人公です。
池井戸潤は、銀行員をやっていたということもあって、銀行業務の描写が細かい。
私が知らないことがバンバン書いてある。
それにしても銀行員は辛いな、と思った。
中小企業の社長も従業員も辛い。
零細はもっとだ~。
みんなツライ。
人間、生きていくのはたいへんだ!!

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デジタルデトックス

2014年11月17日 | 健康・病気

デジタルデトックスというのは、ネット依存から抜け出すために、
ソーシャルメディアやインターネット、メールなどを一時的にやめることだそうです。
今夜の「NEWS WEB」の「気になる」でとりあげていた。
私もそれなりのネット依存人間です。
インターネットが生活になければ困る。
でも、24時間必要とはしていない。
スマートフォンを持っている人は、起きている間はスマホを見てないと不安らしい。
友人といても、恋人と抱き合っていてもスマートフォンが気になる。
私は、経済的な理由でスマートフォンを持っていない。
お金に余裕があれば持ちたいとは思っています。
しかし、もし経済的に余裕があっても私はスマホを持たないほうがいいようです。

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クラス会のこと

2014年11月16日 | 健康・病気

今日の夕方、私が家に帰って疲れてコタツで眠っていたらクラス会の幹事をやった友人から電話が来た。
そして、クラス会の様子を話してくれた。
楽しかったそうだ。
いろいろ話してくれたが、ここには書きません。
個人情報ですからね。
九想自身のことはある程度書いてしまいますが、私以外のことは書きません。
私が、知人友人のことをなんでも書いていたら、友人たちは私に何も話してくれなくなります。
クラス会が終わってから2次会としてカラオケに行ったそうだ。
16人の参加者のうち半分ぐらいしか行かなかったらしい。
あまりうたう人もいなく盛り上がりにかけたそうだ。
「おれたちは年をとりすぎてしまった」と友人はいっていた。
私は、クラス会に行きたかったな。
こんどは私たちが65歳になったときにやるそうだ。
そんときにはぜひ出席したいです。

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ツチノコ

2014年11月16日 | 健康・病気

「幻解!超常ファイル『幻のツチノコを追え!Part-2 日本人とツチノコ』」
というNHKの番組(午後10:30~午後10:50) を昨夜観た。

日本人は先祖代々、ツチノコが好きなようです。
ある時は美しい女神、ある時は恐ろしい妖怪、ある時は未確認動物と、
神話の時代から現代まで、ツチノコはイメージを変えながら、
日本人に影響を与えてきたようです。
ツチノコは、これが変化したものだというナレーションがあって横槌がテレビに写った。
藁を打つときに使われるものだといっていた。
そうか「ツチノコ」の「ツチ」は、「槌」のことだったのか。
私の実家にあったものと同じ形をしていた。
このときナレーションでは「横槌」といっていた。

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クラス会はどうだったのかな?

2014年11月15日 | 健康・病気

今日、茨城のわがふるさとの近くでクラス会が行われたと思う。
幹事をした友人から確認が取れないので、定かではない。
2度メールを送ったが返事がない。
1度電話があったが、仕事が忙しくて私は出られなかった。
なのでクラス会がどんなふうに行われたのか知りません。
おれが仕事をしているときに昔のクラスメートたちが酒を飲んでいた。
不愉快だ~。

私の高校3年のときは6クラスあって、私のクラスは1組だった。
選択で別れていて、1組が音楽、2・3組が美術、4・5組が書道、6組が進学クラスだった。
1組には吹奏楽部の5人がいて、1人は4組にいた。
私の心の隅に教師になりたい憧れがあった。
できたら5組に入りたかったが、家の経済状態を考えたら高校を出たら就職するしかないと考えた。
美術を選択したいとも迷っていた。
私は、中学のとき美術はいつも通信簿は「5」でした。
絵を描くことが楽しかった。
21歳のときにデザイン学校に行ったのはそういうわけです。
でも、吹奏楽部の仲間がいたので1組にした。
1組は楽しかった。
記憶に残っているのは、音楽の時間のことです。
教科書の100ページに「愛の讃歌」があった。
秋の頃にそれをうたった。
それから音楽の授業でちょっと間があくと、
「先生、100ページうたうべ」というやつがいて、よくうたった。
何10回うたったことだろう!!
クラスの昼休みや自習のときに、私たちはよくうたった。
私がギターを吹奏楽部の部室から持ってきて、教室には模造紙に歌詞を書いたものがあった。
それを見て、私のギターを伴奏にしてフォークソングをうたったのです。
ささやかな高校時代の思い出です。

あ…、今日はどんなクラス会だったのだろう?
私は、幹事をやった友人に手紙を送っていた。
現在の私の仕事や生活を書いたものです。
それをクラス会に出席した仲間に回覧してもらうように友人に頼んだ。
この「九想話」のことも書きました。
読んでくれる人はいるかな?

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映画「蜩ノ記」

2014年11月15日 | 健康・病気

丁寧につくられた映画でした。
気持ちよく最後まで観られました。
ただ、話が話なので辛かった。

戸田秋谷(役所広司)は、藩主の側室との不義密通および小姓を斬り捨てたということで、
10年後の切腹とそれまでの間に藩の歴史を書くよう命じられる。
それから7年後、刃傷沙汰を起こしてしまった檀野庄三郎(岡田准一)は、幽閉中の秋谷の監視役を命じられる。
監視の内容は、藩の裏側を知る秋谷が7年前の事件を家譜にどう書くか報告し、
秋谷が逃亡しようとしたら妻子ともども斬れというものだった。
これ以降の詳しい内容は書くことを遠慮します。
これから映画を観る人のために…。

戸田秋谷という人が魅力的ですね。
ただ、どうしてだろう。
小説を読んだときには彼の生き方を納得していたのに、映画ではがまんができなかった。
最後に藩に逆らって大立ち回りをして死ぬなんてことを心の隅っこで考えてしまった。
原作を読んで結末は知っていたのにです。
むかし、「切腹」という小林正樹監督、仲代達矢主演の映画を観た。
ストーリは↑をクリックするとあります。
映画の最後に仲代達矢が大立ち回りをして死ぬ。
あんなのがよかったな、となんかそんなことを思ってしまった。

役所広司がいいですね。
岡田准一も素晴しかった。
他の役者もよかった。

2012年4月1日に小説「蜩ノ記」の感想を九想話に書いています。
私は、とても武士のような生き方はできそうにもないが、武士というものに憧れます。

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