懐かしのタオル

2001年09月20日 | 暮らし

9月になって、
息子たちが旅行や合宿で出かけたので、
うちのタオルの在庫が少なくなった。
台風などの雨のせいで洗濯物が乾かないせいもあった。
あるとき、タオルを入れておく引き出しに
1枚もないときがあった。
会社にはタオルを持っていかないと、
汗を拭くのに困る。
それで思い出した。
3年前に山梨に単身赴任していたときに、
使っていたタオルが、
小さなダンボールにあったはずだと。
それを探し、引き出しに入れた。
引き出しからタオルを出すたびに、
「おっ、これは山梨で使っていたタオルだ」
と分かるとうれしくなる。
西武ライオンズのタオルや**株式会社のや
緑色がうすくなったタオルたちだ。
今想うと山梨での一人暮らしが恋しい。
会社から単身赴任をいわれたときは、
なんでおれがと恨んだが、あの1年間はよかった。
よくはなかったのですが、
過ぎ去ってしまえば輝いている。
6畳ほどのフローリングの部屋に
ユニットバスと小さな台所。
所沢に帰りたい、と思いながら
暮らしていたっけ。
パソコンを立ち上げて、
酒を飲みながら単身赴任の愚痴を、
パソコン通信に書いていた。
あれが「九想話」の原型でしたね。

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さよならロウルデス

2001年09月19日 | 会社・仕事関係

今朝、ロウルデスに会った。
うちの会社は、
タイムカードを押す機械があるのが2階にある。
私が階段を登っていくと、
ロウルデスが降りてきた。
「ベエノス・ディアス(おはよう)」
「ベエノス・ディアス」
「ロウルデス、今月で終わりなんだって?」
「ハイ」
「さみしくなっちゃうな。次ぎは決まってるの?」
「マダ、ワカリマセン」
ロウルデスは、ペルーの女性です。
4月までの職場でとても助かった働き手だった。

私が4月までいた第3工場では、
わが社の納入先の車メーカーで
一番売れていた車の
ウィンドウガラスの後工程の仕事をしていた。
後工程の作業とは、
ガラスのまわりに成形した樹脂のバリを取り、
成形状態とガラスのキズの検査をして、
出荷できる状態までにするところです。
忙しいときは、1日1,200台分ぐらい出荷していた。
1,200台ということは、
車のウィンドウグラスには右と左があるので、
2,400枚ということになる。
ほんとうに忙しかった。
日曜日も休まないで仕事をしたときがあった。
ところが、こんどその車種のモデルチェンジがあり、
その新しいタイプには、
親会社であるガラスメーカーのガラスではなく、
他社のガラスが載ることになってしまった。
それで、わが社の仕事もなくなってしまったのです。

絶頂期のときには、ペルー人、ブラジル人など7、8人。
その他に日本人が6、7人いた。
現在、外国の人はロウルデスだけです。
彼女も9月いっぱいで終わりです。
これまでも九想話に何度も彼女たちのこと書きましたが、
ほんとうにいい付き合いをしてもらった。
思い返すと涙が出てきそうです。
雨のことを、「ジュビィア」とスペイン語でいう、
なんて教わったこともありました。
なんときれいな言葉なんだろう。

この8月、9月でかなりの派遣社員がクビになった。
今、一緒に仕事をしている若い派遣社員も今月いっぱいです。
彼なんて、私の2倍は仕事が出来る。
いえ、私がサボっているのではないのです(ネンノタメ)。
彼は、今の仕事を2年ほどしている。
私はまだ、半年です。
それにあのきつい肉体労働では、
若い人のほうが、仕事はできる。
(なんで49歳の私に、あの仕事をさせるのだ)
というのが、私の正直な気持ちです。
そもそも私は、パソコンが出来るということで
今の会社に入社したのです。
肉体労働をするために入ったのではない。
(こういうこと書くの、虚しいなァ)

私が入社した3年前には、
派遣社員を含めて90人はいた会社が、
現在、40名ほどになってしまった。
派遣社員がいなくなった後には、
歳をとった正社員が肩をたたかれるんだろうな。

 

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イヤな上司

2001年09月18日 | 会社・仕事関係

以前の会社にいたとき、T部長という上司がいた。
私がいたのは資材課という部署で、
製品を造るための部品を調達するところだった。
その頃、私の会社は
ハンドラーという自動機を製造していた。
LSIやICなどの半導体を検査機まで搬送し、
検査機で判別されたものを、
良品と不良品に分けてトレイやチューブに
収納する機械です。
3千万円ぐらいのもので、
インテルに150台ほど納めた。
今から10年ぐらい前のことで、
あのときが華だったな。

T部長は、上に対して口がうまく、
下には、なんの心配りもなかった。
部品を購入する業者も、それまでの付き合いというより、
自分を立ててくれる会社を引き立てた。
だからそれまで、
私が営業マンときちんと取引していたのに、
突然資材課に来たT部長のせいで、
業者を変えさせられたということが何社かあった。
電磁弁やシリンダー、センサーや温調器など
納期のかかるものがある。
それを私と営業マンの信頼関係で、
口約束で在庫して置いてもらうものがある。
そんなこと分からずに、T部長が勝手に変えてしまう。
「○○はおれが昔世話した会社だから、価格も安い」
といって変えてしまう。
価格が安いといいながら、
それまで付き合ってた会社の仕入れ値をみな教え、
それより下げろというのだから、
安くなるに決まっている。
どんな会社でも、新しく入り込むためには
思い切ったプライスを出すんです。
それでT部長は、社長などに、
「私が10%コストダウンをしました」
なんていっている。
それからの私は大変です。
それまで納期のかかる部品を業者に持っていてもらったのに、
新しく取引した会社にはない。
T部長は「なんで入らないんだ」と怒鳴る。
製品の納期は決まっているから、
それらの部品が入らないと、まにあわない。
製造部に対して、顔が立たない。
私は、むかしの会社の営業マンに電話をし、
わけを話しそれだけ入れてもらう。

T部長は、頭痛持ちでいつもしかめっ面をして、
煙草を吸っていた。
(あの頃は職場でも煙草が吸えた。懐かしい)
部下と会話するということが苦手で、
仕事以外で話すことといったら、
自分の“優秀”な娘のことだけだった。
私の息子と同じ歳なので、
私だって、“賢い”息子たちのこと話したいのに、
いつも娘のことを話して、
私の息子の話は聞いてくれない。
なにしろすべてにおいて自分勝手だった。

私はそんなT部長を呪っていた。
(交通事故に遭って死んでしまえ)
(重い病気にかかって会社にこられなくなれ)
などどいつもこころで念じていた。
どこかシャレのつもりで願っていた。

ところが9年前のある夏、
それが叶ってしまった。
T部長が熊本事業所に出張に行って帰ってきてから、
病院に入院した。
風邪のウィルスが脊髄を伝わり、脳に侵入してしまった。
資材部の同僚と見舞いに行ったときは、廃人のようでした。
かろうじて私のことは判別できたが、
他の者のことは分からなかった。
もうこの人は終わりだ、と思った。
こんな状態で生きていても、
家族が困るだけだ、と考えてしまった。
私は、さすがに気が咎めた。
私があんなふうに念じていたからか、と思ってしまった。

それからの私は大変でした。
課長だった私に、部長の仕事が全部きたのです。
私はその春買ったノートパソコンを会社に持っていき、
部長が手で計算していた業者別集計や、
製品別コストの集計をやった。
上に報告する文書もパソコンで書いた。
あのときはつくづくパソコンを買ってよかった、と思った。
半年ほどしてT部長の病気は、奇跡的に恢復した。
会社にも出てこられるようになった。
面白いことに病気後のT部長は、
“いい人”になっていた。
人当たりのいい、部下にも気配りのある人になっていた。
そしてなんと、そのT部長が、
パソコンをバカにしていた彼が、パソコンを買った。
私としては、よくあんな仕事を
手計算でやっていたな、という思いだった。
それから部長は、
私が数式を入れたファイルを使って、仕事をしていた。

今日会社から帰ってきて、女房とこんな会話をした。
「今の職場にイヤな奴がいるんだよ。
 なんかいつもおれに話すとき、バカにしたように話すんだ」
「むかしのT部長のときのように
 『病気になれ』って念じてればァ。
 でも、ひさしくん甘いからダメだね。
 T部長のときも、あんなに憎んでいたのに、
 いざ、病気になったら、
 可哀想だ、なんてやさしくなっちゃうんだもの。
 だからひさしくんはダメなのよ。
 私だったら、ゼッタイそんなふうには思わない。
 病気になってからだって、死んじまえー、って祈るよ」

女というものは怖いですね。
いや、うちの女房だけか。

 

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「インターネット的」読了

2001年09月17日 | Weblog

「インターネット的」糸井重里著 PHP新書
やっと読み終わりました。
私の読書はいいかげんで、
いつも何冊か平行して読んでいる。
その中でも、図書館から借りてきた本を優先的に読む。
そして、どうしても小説から読む傾向があります。
ですから自分で買った本は、後回しになってしまう。

この本で好きな言葉があった。
<正直は最大の戦略である>
<情報はたくさん出した人のところに集まる>

糸井重里は、この本のプロローグで、
 インターネット自体よりも、
 それがもたらす“インターネット的であること”に、
 可能性を感じています。
と書いている。
私も同感です。

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67歳の誕生日

2001年09月16日 | 友人

以前、九想話(3/25.4/12)に書いたガンジーさんが、
9月17日で、67歳の誕生日を迎える。
私は今も毎日、「ほぼ日刊イトイ新聞」の
ガンジーさんが書いている文章を読んでいる。
ガンジーさんは、
「ほぼ日刊イトイ新聞」に1年以上も毎日書いている。
その内容がすばらしい。
私もああいうふうに書きたいと考えるのですが、
教養が少なくて書けません。
これからさき、1日でも長く、
ガンジーさんの文章が読めることを、
祈っている九想です。




















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ユースホステル

2001年09月15日 | テレビ

私はいったいいくつのユースホステルに
泊まったのだろう。
一番最初は、
中学のときのブラスバンド部の合宿で、
筑波のユースホステルに泊まった。
そのあとは、
東北から始まったひとり旅に利用した。
私の場合、旅の予定をまったく決めないで行くので、
ユースホステルの予約はしなかった。
東京のデパートで会員になり、
行った先々で電話をして泊まった。
人気のあるところは予約が一杯で、
断られたことも何度かあった。

最初の頃はしなかったが、
ユースホステルに慣れてくると、
酒やウィスキーをリュックの中にしのばせて泊まった。
それを消灯になってから、
その部屋の人たちと飲むのです。
これはルール違反だった。
でも、それで話が弾んだ。
そこで知り合った人と次の日は、
一緒に旅をするということもあった。
これが、ひとり旅をする喜びでした。

9/9の朝日新聞日曜版に、
「踊る島 最後のユースホステル」という記事があった。
日本ユースホステル協会によると、
「YHの会員数は1972年の63万人をピークに減少。
 2000年には13万人にまで落ち込んだ。
 施設数も74年の587から332にまで減っている。」
ということです。
今の若者は豊かだから、ユースホステルなんかには
泊まらないんでしょうね。
それに、あの夜のミーティングなんてのが苦手かな。
私は大好きだった。
あの記事は、
礼文島のユースホステルのことが書いてあったが、
私は、お隣の利尻島のユースホステルに泊まったことがある。

むかしは、傷ついた若者がたくさん、
日本中を旅していたな。
私もその1人でした。

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2001年09月14日 | 友人

今夜の楽家は、
各国のジャーナリストや軍事評論家が、
おしのびで飲んでいた。
いつも音無しでプロ野球がついてるテレビも
NHKが音有りでついていた。
10時からは
ニュースステーションにチャンネルが変わり、
久しぶりの久米宏を観ると、
旧友のごとく懐かしんでいた。

マスターの本職は、
どうも反米ジャーナリストのようだ。
私と意見がよくあった。
その他のジャーナリストや軍事評論家も
アルコールで饒舌になり
テロリストを非難しつつも、
アメリカのこれからの行動を心配していた。

楽家がテロリストの、
いや、アメリカの標的にならないように祈る。

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ひとり旅 四国

2001年09月13日 | 旅行

21歳の夏休みには、四国を旅した。
神戸からフェリーに乗り、小豆島に渡った。
そこまでは考えていたが、
そのあとの予定は何も決めてなかった。
フェリーできれいな京都の女の子と話せた。
京都弁っていいな、と思った。

小豆島で、ひとり旅をしていた男と気が合った。
高校を中退して旅をしているといっていた。
その男と一緒に観光していて、
2人連れの女の子に声をかけた。
大阪から来たOLだった。
女の子たちは、ユースホステルに泊まるといった。
夕方、彼女たちと別れてから、
おれたちはそのユースホステルに電話した。
「男2人泊まれるか」と。
夕食のとき、すまして食堂に坐っていると、
彼女たちが気づいて、
「あら、あなたたちもここだったの」
と驚いていた。
8時からのミーティングは楽しかった。
いろいろなゲームをし、歌をうたった。
東北のユースホステルでもそうだったが、
おれはケーナを吹き、ギターを弾き、
なぜかその場の中心にいてしまう。

翌日は、4人で高松までフェリーで行き、
壇ノ浦とか栗林公園に行った。
そしてとうぜん別れ間際に、
彼女たちの泊まるユースホステルをさりげなくきいた。
「さよなら」といってからすぐに、
そこに電話をする。
夕方、「また会いましたね」と
何気ない顔して再会した。
高松はその夜お祭りだった。
4人で見に行った。
たくさんの山車が出てきれいだった。

男とは次の日別れた。
悲しいけれど、女の子たちとも離ればなれになった。
私は、同じ職場にいた友人の実家に行って
泊まったと記憶している。
東京で働いていたとき、「四国に行ったら行くよ」
といっていた。
しかし、2日後女の子たちが高知のユースホステルに
泊まることをしっかりきいていた。
とうぜんおれは、そこに泊まった。
高知もお祭りだった。
高知では桂浜に行って、坂本龍馬の像を見た。

徳島では、阿波踊りを踊った。
そのとき泊まったユースホステルの連だった。
女の子たちは、阿波踊りが旅の目的だったらしく、
浴衣を持ってきていた。
おれは、にわか覚えのかけ声をかける。
とうぜん、酒は入っている。
ユースホステルでは飲めないから、
どこで飲んだのだろう?
「笹山通れば」とおれが叫ぶと、
「笹ばかり」と他のみんなが答える。
「石山通れば」とおれ。
「石ばかり」とみんな。
「猪、豆くって、ホォーイホイホイ」
「エライヤッチャ、エライヤッチャ、
 ヨイヨイヨイヨイ」
これを何度も何度も繰り返した。
楽しかったなァ。

女の子2人の旅は、徳島までで終わりだった。
大阪で会うことを約束して別れた。

そのあとおれは、足摺岬に行った。
その頃、ウィークエンドの「岬めぐり」
(作詞山上路夫 作曲山本厚太郎)
という歌が流行っていた。
足摺岬に向かうバスの中で、
おれは、何回も何回も口ずさんでいた。
♪みさきーめぐりのーバスはーはしる~
 ぼくはーどうして~いきてーいこう~
その年の始め、おれは大失恋をしていた。

それから松山や道後温泉にも行った。
ぼっちゃん電車(だったかな)
のあるところにも行った。
そこは正岡子規や夏目漱石の記念館(?)
だったのかな。忘れました。

帰りには大阪に一泊して、
約束通り、あの女の子たちと会い、飲みました。
楽しい、愉快なひとり(?)旅でした。

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暗い1日

2001年09月12日 | 健康・病気

今日は、防衛医大病院の予約日で行ってきた。
「尿はきれいだ」と医師はいった。
ほんとうに、あのときの血尿はなんだったのだろう。
まあ、今異常ないことがうれしい。
「次は11月に来てくれ」と医師がいった。
私としては、今日で終わりかな、と思っていた。
そんなに慎重にするということは、
血尿が一度出たということは、
大変なことなのかな、と思った。
4月の頃、私は毎日睡眠時間が2、3時間だった。
今は、4、5時間は寝ている。
もっと寝なくてはいけない、とは思っているが、
九想話を毎日書いていると、そうもいかない。
そうはいっても、11時に家に帰ってきてから、
午後6時まで寝ていた。
ほんとうに家にいると私はよく寝ている。
人間、睡眠は大切ですね。

家に帰ってテレビをつけると、
どの局でも「アメリカ同時多発テロ」の番組だった。
それを寝っころがって見ていたのだが、
気持ちがどんどん落ち込んでいく。
人間が哀しい。

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アメリカで同時テロ

2001年09月11日 | テレビ

今夜はいつものように女房がいないので、
楽家に行った。
中学教師のKさんがいた。
マスターの髭は、
先週は鼻の下だけのちょび髭になっていたのに、
今日はまったくなかった。
やはり、かなり初孫を意識しているのだろう。
そうそう、お孫さんの名前は「小夏」とつけられた。
なかなかいい名前です。
やがて福祉関係のところに勤めていたTさんが来た。
(話をきくと彼は、
 最近トップとケンカしてやめたという)
手錠大好き社会科教師の犯罪のことや、
障害者との素敵な付き合いなどの話題を肴に
楽しいひとときを過ごした。

9時過ぎ、おれはお勘定をして楽家を出た。
もっといたかったが、
家でやらなくてはならないこともある。
真面目な話、小説を書きたいのです。
ところが家に帰って焼酎を用意し、
テーブルの前に坐りテレビをつけると、
プロジェクトXが始まっていた。
「白サギ舞え、空前の解体工事」
姫路城の修理を行う一大計画の話だ。

終わるころ、うとうとしてたら、
NHKのアナウンサーがえらく興奮して話している。
ニューヨークの世界貿易センタービルに、
旅客機がぶつかった、と騒いでいる。
あの2つのビルにそれぞれ飛行機が飛び込んだ。
そのうち、そのビルたちが崩壊した。
ワシントンの米国防総省にも旅客機が飛び込んだ。
なんなんだ。
おれは、小説も九想話も書くことが出来ず、
さっき(1時半頃)までテレビを観ていた。
12時過ぎまで帰ってこない女房に、
「アメリカで大変なことがあったというのに、
 どこにいるんだ」
というメールなんか打つはずはない。
もっと普通のメールは出した。
5分後に女房は帰ってきた。
テレビを観て、あいつは大騒ぎだ。
そのうちKが帰ってきた。
台所でコンタクトレンズの洗浄をしているKに、
換気扇の下で煙草を吸いながらおれはいった。
「おれたちが、ぼーっと暮らしているときに、
 ずーっと前から、緻密な計画を練って、
 実行するやつがいるんだよな。
 やったことは許せないことだけど…」

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