昨夜、仕事を終えて高速バスで女房がやってきた。
中軽井沢午後9時50分着、ほぼ定刻通りにバスは着いた。
今日の午前中、いつものように部屋を掃除させられた。
おれとしては汚いと思わないのに女房はクリーナーのモーターの音けたたましく掃除をする。
おれはいやいや、コタツを解体し、小物をどける。
しかし、終わってみればこざっぱりとする。
軽井沢町役場
曇り空の下、散歩に出かける。
町の交通事故災害保険というものの手紙が来ていたので、それに入ろうと町役場に行く。
500円で入れるのです。
役場を出て、湯川にかかる橋を渡る。 ここを左に曲がるとわが家へ行きます。
中軽井沢は昔、沓掛宿だったのです
「居酒屋キッチンパパ」いつか行きたいと思っています
郵便局 仮設「中軽井沢駅」
完成後の中軽井沢駅です
中軽井沢の踏切 女房の好きな、春まで休みの農産物直売所
農協 銀亭(しろがねてい)
銀亭というパン屋に初めて行った。
この前は数えきれないくらい通っているのに。
天然酵母のパンを食べたいと女房がいい、行くことになった。
ラスクとこのパンはなんというのだろう?
もう一つ花豆パンというのを買ったのだが、おれが食べてしまって写っていません。スミマセン
おいしいパンでした。
夜は、カレー鍋にした。
2人でうまいうまいと食べた。
ある程度食べてからご飯をいれ雑炊にした。
しみじみおいしいなと思った。
完食、満足です。
外食はなるべくしないで、安く買ってきた食材をうまく料理して食べる、それが女房の生き方です。
> 「俳句は作るもんではなく浮かぶものだ」と言ったのは久保田万太郎です。
> でもそれは万太郎のような才人だから言えること。
> 私はかれこれ3万句以上作ってきましたが、句が浮かんだことはありません。
> 毎日うなりながら作っています(笑)
と旗坊さんからコメントがありました。
そう指摘されて私はどのように俳句を作っているのだろう、と考えた。
旗坊さんへのコメントに“句が浮かばない”などと安易に書いてしまったが、
私の場合、“浮かんだ”句を“加工する”という感じですかね。
雪しろや竹笛の音川の音
という句は最初、
雪しろや竹笛の音川音に消され
という句のようなものが“浮かび”五七五に形を整えようとして、
雪しろや竹笛の音川に消え
というように変化し、音の響きを良くしようとして、あの句に落ち着きました。
私は、まず素材になる“句のようなもの”が浮かばないと、その先に進めません。
ですから私の場合、正しく表現すると、
「このごろ、句が浮かびません。」
というのは、
「このごろ、句に加工する素材が浮かばない。」
ということになりますでしょうか。
文章は粗雑に書いてはいけないなと反省しました。
先月のわいわい雑俳塾の題は、「野焼く」「蕗の薹(ふきのとう)」<“白”しばり>でした。
私は、俳句に加工する素材の句がまったく浮かんでこなくて投句を断念しました。
「野焼く」「蕗の薹(ふきのとう)」という季語に、私のそのときの感性が反応しなかった。
そんな自分の言葉に対するセンサーの鈍さに愕然として自己嫌悪になりました。
あの句会に投句できなかったことが情けなかった。
俳句をやめようかと落ち込みました。