父のこと

2008年02月09日 | 健康・病気
今夜は私の父のことを書こうと思う。
ところが私はあまり父のことを知らない。
高校生まで一緒に暮らしていた父のことは、
それなりに知っているが、
父が生まれてからのことが分からない。
母と結婚してからのことなどを知らない。

今、手元に「荻原家の家系概要」という小冊子がある。
これは父の弟である私の叔父が作ったものだ。
この小冊子のことはまた別に九想話に書きたいと思う。
これによると父は、
1909年(明治42年)3月20日生まれとなっている。
(私は、父が2月生まれと思っていたが、間違っていた)
小冊子に、戸籍謄本のコピーが添付してあるので間違いない。
父は、男が4人、女が8人の12人きょうだいの長男だ。
このうち男2人と女1人が亡くなっている。
父がもし生きていたなら、3月で99歳なんだなと思った。
私は父が42歳のときに生まれたのか、
なんて今ごろしみじみ考えている。
ちなみに私は、6人きょうだいの末っ子です。

戸籍を見ていたら、祖父と祖母の婚姻届けが明治43年になっている。
父は、祖父母の結婚する1年前に生まれている。
これはどういうことなのかな。

私は、父の若い頃のことを何も知らない。
1つだけ聞いているのは、
父が20代の頃、東京の浅草で
タクシーの運転手をしていたということです。
よく吉原あたりで女性を乗せていたと、
子どものときに父から聞いたことがある。
あるときタクシーで事故を起こし田舎に帰ってきたという。
それから茨城で百姓をしてきた。

父は、歌や落語、浪曲、漫才などの芸能が好きだった。
相撲も好きだったな。
私が幼い頃、ラジオからは、いつもそれらが流れていた。
(私の家にテレビがやってきたのは小学4年のときだった)
私が、音楽や落語が好きなのは、この父に似ているからですね。

地域(部○といっていたが、この言葉は使いづらい)で、
父は太鼓を叩いていた。
ギョン(祇園だと思う)では、
てんのん様(御神輿)の後ろで太鼓を叩いて、
地域の所定の場所を巡り回っていた。
旧盆の盆踊りではスターだった。
やぐらの上でいつも唄をうたっていた。
うたうのは、八木節と日光和楽音頭でした。
それに合わせて地域の人々は、「石投げ踊り」や「和楽踊り」を踊った。

このぐらいしか、父のことは知らない。
あとは田や畑や山で仕事をしている父の姿ぐらいしか知らない。
家族で旅行などはしたことはない。

地域で何かの集まり事があったりすると酒を飲んで家に帰ってきた。
飲んで帰ってくると、いつも母をいじめていた。
酒飲みは父ゆずりですが、私は女房をいじめません。
逆に、女房にいじめられている(オオキナ声デハ イエマセンガ)。

父は本などはまったく読まない人でした。
家に本はほとんどなかったな。
私は、そのせいか20歳まで読書の習慣はなかった。

あと、子どものときによく殴られた。
何か私が、父に気にくわないことをするとゲンコツで殴られた。
あれは痛かった。
でも、小学校の5、6年になってからは怒られたことはない。
ほとんど口をきいたこともなかった。
高校3年のブラスバンドの定期演奏会のとき、父が来ていた。
客席の父の姿を印象的に覚えている。

私が初めて双子の息子たちを田舎に連れて行ったとき、
父はうれしそうだった。

父は花が好きだった。
晩年、菊を沢山育てていた。
近所の人に褒められることをよろこんでいた。

父について私が書けることはこれぐらいです。
生きているときに、もっといろんな話を訊いておけばよかった。
コメント (2)
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