人力でGO

経済の最新情勢から、世界の裏側、そして大人の為のアニメ紹介まで、体当たりで挑むエンタテーメント・ブログ。

『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』・・・アニメ版は原作実写版への冒涜では

2017-09-01 10:10:00 | アニメ
 

■ 劇場版アニメでリメイクされた岩井俊二の名作『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』 ■



『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』実写盤より


『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』アニメ版より


1995年の岩井俊二監督の名作映画『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』が、劇場アニメーションとしてリメイクされました。監督は『化物語』や『魔法少女まどか☆マギカ』の新房昭之。

これ、ポスターを見た時から、「観たいけど、観たくない」映画でした。私達の世代にとては岩井俊二の映画が「神映画」過ぎるので、そのイメージを損ないそうで観るのが怖いのです。

そんな逡巡をしている折、息子から「見たよ」「やばい銚子いきたい」「普通に面白かったよ」とのショートメールが入りました。丁度仕事が早く終わって映画館の近くを歩いていたので、早速劇場に飛び込みました。

観終わった後の私の息子への返信は・・・「観た、ダメなやつだった。」

・・・・息子よ、せっかくの楽しい気分を壊してしまって申し訳無い。ここで詫びるから許して。


■ ナズナが天使からビッチになってた・・・・ ■

アニメ版に不満の点は多々あれど、最大の問題はナズナが天使からビッチになっていた事。

岩井俊二の映画のナズナ役は、当時14歳(TVドラマ公開時)の奥菜恵。


『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』実写盤より

丁度、子供から少女に羽化したての様な「この世のものとは思えない透明な美少女」を撮らせたら岩井俊二の右に出る監督な居ないと思いますが、彼の起用してきた女優達の中でも、この作品の奥菜恵の存在は「マジで天使」。

この子供から、少し大人の世界へつま先だけチョンと突っ込んだ歳頃の女の子が、ちょっと背伸びして、舌足らずに・・

「私、不幸の血筋なの」
「家出じゃないよ、駆け落ちって言うの」
「私が養ってあげる。歳ごまかして・・・16歳に見えるでしょう?」

なんて言うものだから、当時既に大人になっていた私達の世代はハートをぶち抜かれた訳ですよ!!


『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』アニメ版より


ところが、アニメ版では「戦場ヶ原ひたぎ」さんと同じ顔をした中学生が・・

「私にもビッチの血が流れているの・・・」

て、頭悪そうな白ワンピで誘惑して来るのだから、「サノバビッチ!!」って中指立てちゃうんですよ、50歳代のオジサンとしては・・・。(ちなみにサノバビッチっていうのは「son of a bitch」・・・直訳すれば「娼婦の息子」ですが、日本語的には「お前の母さん出べそ」的な悪態)


■ 岩井俊二の映画は、昔から「実写版の美少女アニメ」 ■


私、以前から岩井俊二の映画って、「実写で撮った美少女アニメ」あと思っていたんです。登場する少女達に現実感が無いと言うか、重さが無いというか・・・。これ悪い意味じゃなくて、とにかく「人間としての生っぽさ」が徹底的に排除されている。だから、そのままアニメのフォーマットにストンと嵌ってもおかしくは無い。

今回の『打ち上げ花火~』のアニメ版は、オリジナルに準じた部分のセリフは実写版をほぼ同じです。多分、実写版を知らない世代からすれば全く違和感が無かったはず。

ナズナの顔にトンボが止まるシーン(オリジナルは首にアリ)では、「取って!」ってオリジナルもアニメ版も言いますが、どちらも違和感が無い。

しかし、このセリフ、実は普通の実写の映画監督ならば絶対に使わない。「エ、ヤダ!!取って、取って!!」って慌てるのが普通の少女の反応。その意味において、岩井俊二の脚本も演出もそもそも「生身の人間」をあまり意識していな様に感じられます。ドラマの作劇では無く、プロモーションビデオの作劇に近い。(MTB以降、世界的にプロモーションビデオの監督達が実写映画で駄作を乱造しましたが・・)

この「生身の人間臭さが無い」というのが非常に「アニメ的」に感じされるのかも知れません。

しかし、一方で、アニメは「輪郭が太い」或いは「エッジの効いた」表現方法なので、仮に岩井俊二作品のセリフでも、そのまま使うと絵に負けると言うか、リズム感が乏しくなる場面が有ります。




『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』アニメ版より


『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』実写盤より

家出をしたナズナが母親に連れ戻されるシーンですが、アニメ盤は実写版のセリフをほぼなぞっています。(セリフ回しも、広瀬すずは、オリジナルの奥菜恵を完全にコピーしています)

「やだ、放して、放して・・・助けて!典道くん!!」という所ですが、この部分、広瀬すずが上手いとか下手だとかを別にしても、アニメのセリフとしては絵の強さに負けています。

実はこのシーン、作画もロトスコープの様に実写をトレースしたと思われます。ここだけ動きがやけにリアルなのです。他のシーンはシャフト独自の決め絵の連続なので、もの凄く違和感があります。

■ キャラクターの同一性の確保は意外に難しい ■

実はアニメ版の最大の問題点は、ナズナのキャラクターに同一性が欠如している点です。

観客から見たナズナの性格は時間を追う毎に次の様に変化して見えます。

1) 謎めいた美少女
2) 親に反抗する普通の少女
3) 典道を誘惑するビッチ
4) 電車の中で急に歌い出す能天気な女
5) 夜の海に入ってでスプラッシュごっごをする理解不能な女

「典道の妄想の産物だからそれでも構わない」という意見もネットでは散見されますが、アニメ―ションは実写と違い、キャラクターの実存を視聴者に確信させなければ根本的に作品が成り立ちません。

この実存にリアリティーは必要ありません。『古墳少女のコフィーちゃん』だって、立派にキャラクターとしての実存は確立しています。要は、「そういう存在が居るとして、どういう言葉を発して、どういう行動をして、どういう反応をするか」という点にブレが無ければ、アニメのキャラクタは単なる〇でも□でもアニメの世界の中での実存を獲得するのです。

昨今流行りの「テンプレキャラ」は、手間暇掛けて実存を確立するのでは無く、過去の似たようなキャラクターをテンプレとして憑依させる事で、実存を一瞬で確率する省エネテクニックです。「~ですぅー」とか「~でござる」なんて変な語尾も、会話でのキャラクターのブレを防止する装置だとも言えます。

一方、アニメ版のナズナは「ブレ」まくります。上記した客観的に見た性格だけで無く、作画もブレます。シャフトらしい絵であったり、実写のトレースであったり、ちょっと作画が残念で顔つきが違ったり。そして、演出もブレまくります・・・・シリアスだったり、ファンタジーだったり、シャフトだったり・・・。

悪い事に、広瀬すずの声がまたシーンによってブレるから、もう同じナズナを見ている気がしません。だからナズナに全く感情移入が出来ない。

ここら辺、脚本の責任も大きいと思います。実写映画と、シャフト的なアニメをくっつけちゃいました的なセリフの統一感の無さ、そして、小学生だからこそ成り立つセリフを中学生に語らせる無神経さ・・・。はっきり言って下手です。

■ 頭の悪さを誤魔化す「ループ」 ■

この作品を観た少なからずの方が「分かりにくかった」という感想を述べています。

確かに「ループもの」や「タイムリープもの」は分かりにくい場合が多い。しかし、それらを上手に使った作品は、「ループ」を物語の核心に貢献させる事に成功しています。

「ループもの」の成功例の一つが『時を駆ける少女』(アニメ版)ですが、タイムリープを手に入れた主人公は、とにかく身勝手でツマラナイ事にタイムリープの能力を使います。

そもそも、タイムリープの発想自体が「今の待った、やり直し、やり直し」ってな感じの幼稚で身勝手な願望の現れなのですから、これで全然構わないのですが、『時を~』においては、タイムリープを失った少年にとってはその能力は重要な意味を持ちます。

序盤で、タイムリープの使用目的の非対称性を際立たせておきながら、最期に残ったタイムリープを何の為に使うかという大きな選択を主人公達に迫る。ここにトキカケのタイムリープの使い方の真骨頂がある。

同様に『魔法少女 まどか☆マギカ』のタイムリープは、悲劇でしか終わらない現実をどうにか打破しようとする切実が願いが込められています。視聴者が「もういいから止めようよ・・・」と心の中で思ってしまう程の苦しみと徒労感がそこには満ちています。だから最後のまどかの「全ての世界の魔法少女を救う」という選択が意味を持ちます。

一見、アニメ版『打ち上げ花火~』のタイムリープも、典道の「現状を打破したい」という切実な願いの具現化の様に見えますが・・・選択の先の確固たる目的が典道には在りません。ただ、ナズナを両親の手から救うという刹那的な行動、或いは単なる逃避の繰り返しなので、視聴者が彼の行動や選択に共感する事が出来ない。

・・・あ、追ってきた。今度は逃げた・・・・。そうボンヤリ思いながら漫然とスクリーンを眺めるしか無いのです。

「ループもの」というだけで「何か謎が隠されているに違いない」と何度も劇場に足を運んでいる人達も居る様ですが、謎どころか、物語のテーマが無いのですから、そこには何も見つける事が出来ないと思います。

・・・これ「頭の悪いループもの」の典型。やはり脚本が悪い・・・。

■ 「小さな世界」を理解していた子供達と、大きな世界を持ち込んでしまった大人の事情 ■

原作の実写版は小学生達の物語という事もあって、子供達だけの「小さな世界」で物語は閉じています。だから、全く無駄が無い。

ナズナも典道との逃避行が成功するはずが無いと小学生ながらに理解しているので、駅まで行って電車に乗る事はありません。典道に告白して、彼の心を確認出来たのですから、彼女としては転校前の思い出作りにはしっかり成功しています。ここら辺、小学生の女の子はシタタカです。

これが、もし電車に乗っていってしまったら、トロッコを漕いで行ってしまった『小さな恋のメロディー』のマーク・レスターとトレイシー・ハイドみたいですが、あの映画を観た小学生の私は「この後、どうやって彼らは生活するのだろう?」と非常に心配になりました。

ろころで、アニメ版ですが、「中学生の小さな逃避行」というだけなら、それなりに面白い話になたと思います。電車の中での二人の会話や細かなディテールを積み上げて、何駅か先で親か警察に保護されるまでの二人の心の機微を描いたら良作になった。

ところが、「劇場版アニメだから子供も飽きない様にタイムリープみないなエンタテーメント要素を入れよう」という大人の事情が、この作品を悲惨な物にしてしまいました。

本来、「小さな世界」で完結するからこそ感動が得られる作品に、「変てこな世界物」という外側のフレームをくっ付けてしまった。もうこうなると、何が現実で、何が典道の妄想なのかも分からないし、ナズナが典道を好きなのか、安曇を好きだったのか、それとも単なる尻軽ビッチなのかも分からなくなってしまいます。

これも脚本の問題です。ヒドイ。

■ 花火は何処に行ったの? ■

もうここまえ言ったら最後まで言っちゃいましょう。

この映画、『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』という隠れテーマがあったはずですが、これ、何処に行っちゃったの???

オリジナル実写版は、ナズナと典道の小さな逃避行ど並行して、男子4人の打ち上げ花火を横から見る為の灯台まで小さな冒険旅行が、ストーリーに強い継続性を持たせています。

そして、最期に打ち上げ花火を、下から見る典道と、横から見る男子四人で完結する完璧な内容。

しかし、アニメ版では、中盤で既に灯台から打ち上げ花火を見てしまった・・・・。もうここでテーマが中途半端に回収されてしまうので、花火を見るという行為の重要性が無くなってしまします。当然、縦糸を失った物語は、ヘニャヘニャしたナズナと典道の逃避行だけを追う事になり、物語としての構造すらも失ってしまいます。

そして、最後に「実現したかも知れない未来の破片」をばら撒いて、映画自体も大自爆してしまいます。

・・・・脚本が酷すぎます。

■ そもそも新房監督の選択がアリエナイ ■

シャフト教、新房狂の反撃が怖かったので、脚本ばかり批判して来ましたが・・・実は最大の戦犯は新房監督では無いかと。

何が悪いかと言えば、彼に普通のラブロマンスを作らせようとしても無理。基本的に、「ああ、面白いな、可愛いな、いい話だな」と思って観ていたら3話目で首チョンパの人だから・・・。

総監督にはなっていますが、彼はこの作品、本当に気乗りしなかったのでは無いかと思います。だって、思いっきり新房色出したら岩井俊二作品をズタボロにしてしまいますから。ナズナがコンパスで攻撃して来たら観客怒るでしょう・・・。(ビッチ白ワンピで誘惑はして来ましたが。)

こういう作品は『凪の明日から』を制作したP.A WORKSが適していると思う。脚本も岡田摩里だたたら、もう少し捻りがあって、そこはかとなく観客の心にトラウマを植え付ける事だって出来た。
メンタルがグジョグジョのナズナに典道が引っ張り回されるという展開だって、それなりに納得できる作品に仕上げられたハズ。

絵作りだって、シャフトのアザトイ描写より、田舎を知り尽くしたP.Aの方が聖地巡礼も成功したでしょう。

という訳で最大の戦犯はシャフトにこの仕事を発注した人では無いかと・・・川村元気さんですか?


■ 駄作はどうして出来るのか検証する恰好の教材 ■

アニメ版を観て「凄い」とか「謎がいっぱいだからもう一回観に行こう」と思われた方に、是非、岩井俊二のオリジナル実写版を観る事をお勧めします。

オリジナルを観れば、アニメ版が、何を間違い、何を失ってしまったのかが良く分かります。


私は本来、「ツマラナイ」作品は評論を避けています。どんな作品でも、一所懸命にそれを作った人達が居るからです。

しかし、今作は批判されて然るべきかと思います。

「新房監督なら客を呼べるだろう」
「絵がキレイなら観客は感動するだろう」
「ナズナは戦場ヶ原さんに似せておけばオタクは喜ぶだろう」
「流行りのループものの要素を入れた方が謎っぽく見えるだろう」
「銚子だから銚子電鉄と風力発電を出しとけば観光客が集まるだろう」

こんな制作会議がされていたのなら、それは原作実写版への冒涜意外の何物でもありません。
だいたい、スタッフが岩井俊二の作品をどう解釈しているのか・・・

気になって仕方が無いので、実写版の聖地を訪ねて飯岡へ聖地巡礼に行って来ました。
その様子は又明日。