■ 元電力中央研究所原子力部長 服部禎男氏の話しはショッキングだ ■
昨日紹介した、元電力中央研究所原子力部長 服部禎男氏の映像は、
とてもショッキングでした。
http://www.ustream.tv/recorded/17862990
2時間にも及ぶ映像を、会社で見れない方の為に、
勝手ながら、文章にしてみます。
あまりにも服部氏の話しがお上手なので、
「プロジェクトX」風にまとめてみました。
「放射線が体に良い」という発見の興奮が、
少しでも伝われば、うれしく思います。
■ 研究生が見つけた論文から全ては始まった ■
電力中央研究所に勤務していた服部貞夫氏は、
原子力災害の専門家養成の為に
アメリカのオークリー国立研究所に留学します。
そこで「放射能がいかに怖いか」という特訓を受けます。
その後、日本国内で政府の安全基準策定に携わり、
国内の原子力発電所の安全設計に係わります。
彼が原子力の仕事を初めて30年後のある日、
事件は起こります。
当時電力中央研究所の原子力部長をしていた服部氏の元に、
若い研究生の山岡がが一つの論文を持って来ます。
「部長、びっくりしちゃいけませんよ。
これは、トーマス・D・ラッキーという
アメリカの生命科学の大権威者の書いた論文ですよ。
ゆっくり、クリスマスと正月、名古屋のお家で、
辞書でも引いて読んで下さい。」
その論文には、こう書かれていました。
「放射線は当たると体に元気をもたらす。
DNAは刺激されて、良い仕事をしてくれるんだ。
それをベースにして自然放射線の100倍から1000倍、
毎日そのぐらい受けると体に良い効果をもたらす」
ラッキー論文は当時の常識を覆す内容の大論文でした。
■ アメリカに「俺を半生を貸せ」と抗議した服部氏 ■
服部氏はショックを受けます。
「自分の人生の前半はどうなってしまうんだ」と。
そして彼はアメリカの電力研究所の理事長フロイド・カラー宛てに、
ラッキー論文を同封して手紙を書きます。
「俺の人生をどうなったんだ・・」と。
フロイド・カラーは服部氏の手紙をワシントンのエネルギー省に持ち込みます。
「この服部を自分は良く知っている。
クソ真面目な人間なんだ、
相当、怒っているようだ・・・。
アメリカとしてどういうふうに対応するんだ・・」
エネルギー省は原子力の重鎮であるカラーを無視出来ず、
ラッキー論文を評価する会議を、
カリフォルニア大学のバークレー校の医学部に主催させます。
■ 「オークランド会議」に150人の専門家が駆け付けた ■
バークレーでは世界中の専門家に電話を掛け、20~30人の会議を企画しますが。
世界中から、この問題に興味を持った150名の専門家が集まってしまいました。
オークランドで開かれた「ラッキー論文の評価会議」は、
論文の正当性を議論する場であったはずなのに
集まった専門家達は、用意した自分の論文文章を我先に発表します。
「俺にしゃべらせろ、
トーマス・ラッキーは本物である。
この論文は科学的に優れた論文である・・」
多くの専門家達は密かにラッキー論文に興味を示していたのです。
■ トーマス・D・ラッキーとは ■
トーマス・D・ラッキーはNASAの研究者でした。
地上の300倍もの放射線を浴びる月ロケット計画において、
放射線の人体への害を調べる事を目的としていたラッキーは、
この研究ののめり込んで行きます。
自らアルゴンヌ国立研究所に籠って、小動物実験を繰り返し、
DNAレベルでの放射線の影響を研究し続けました。
1980年に彼の出版した本は、世界から無視されました。
そこで、ラッキーはヘルス・フジックスという学術誌に研究の成果を投稿します。
1982年の12月の事でした。
東大の図書館で若き研究生の山丘氏が、
この論文を発見したのは、それから2年後の1984年12月でした。
そして1985年の8月の「オークランド会議」で
ラッキー論文はようやく脚光を浴びる事になったのです。
■ 日本の放射線の権威を結集したプロジェクト ■
1986年1月に服部氏は、米国から連絡を受けます。
「火を付けお前だから、日本で研究しろ」
しかし広島・長崎を経験した日本で、
「放射線は健康に良い」などという研究を立ち上げる事は、
電力中央研究所が世間から、総攻撃される危険性をはらんでいました。
そこで服部氏は日本における放射線医療の権威を集めて
このプロジェクトを開始します。
ICRPの防護基準の元ともなった「青本」と呼ばれる
広島、長崎の調査資料を作った大阪大学の近藤宗平。
京都大学の医学部長で放射線生物研究センターを設立した菅原勉。
放射線審議会会長、東京大学 岡田重文ら、
総勢20名の放射線の権威が終結します。
■ 電子スピン共鳴法をいう世界最先端の測定技術を投入 ■
いよいよはマウスにX線を照射する実験がスタートします。
この時、研究チームに、思わぬ幸運が訪れます。
この研究の切っ掛けを作った研究生だった山岡氏は
岡山の名家の女性と結婚しました。
彼女の家は岡山大学の学長とも懇意にしおており、
その繋がら、森昭胤(あきたね)岡山大学教授がプロジェクトに参加します。
森教授は日本電子や島津製作所と共同で、
電子スピン共鳴法によって細胞内のタンパク質を
リアルタイムで計測する方法を編み出していました。
さらには、細胞膜や核膜の変化も計測可能でした。
これは世界最先端の技術でした。
森教授は実験に大いに興味を持ちます。
「面白い、150、250、500(mSv)当たりを
マウスに当ててみよう。」
■ DNAを総攻撃する活性酸素を除去する酵素が活性化した ■
X線(γ線・電磁波)の全身照射が開始されます。
私達の細胞やDNAは、活性酸素の攻撃にいつも晒されています。
活性酸素は強力な酸化作用で、DNAの結合をズタズタにします。
私達の細胞を活性酸素に対抗する為の酵素を生み出しました。
SOD(スーパー・オキサイズ・ディスムターゼ)と
DPX(グルタジオン・ペロ・オキシターゼ)という酵素です。
これらの酵素は活性酸素を水に変えてしまいます。
森氏はマウスにX線を照射し、
SODとDPXの血中濃度を測定します。
さらに、細胞膜や核膜の透過率を測定します。
驚くべき事に、X線を照射されたマウスでは、
膜の透過性は、65歳相当から7歳相当に変化しました。
SODやDPXの濃度も、7歳以下に相当する数値にハネ上がりました。
一回のX線照射に影響は、2カ月間継続しました。
菅原勉氏は大いに興奮します。
「服部さん、病院作ろうよヨー。
女性がわんさか来るヨー。
儲かるぞー。
全世界から来るぞー。」
酒の席で彼らは大いに盛り上がりました。
この後、この実験は全国14大学の共同研究に進展します。
多くの研究者が論文を発表し、世界はこの問題に興味を持ちます。
■ アメリカ原子力学会から講演依頼が来た ■
電力中央研究所の研究成果に興味を示した
アメリカ原子力学会の会長から、服部氏の所に講演依頼が来ます。
服部氏はワシントンのNIH(世界最大の医療機関)の近くのシェラトンホテルで
800人を前に講演する事になりました。
1994年の8月の事でした。
服部氏は事の経緯を近藤荘平氏や菅原勉氏に報告します。
「NIH? そりゃあんた、ど素人が医学のメッカだぞ。
800人集めるって?
分かった、京都大学医学部医長以下数名で行くよ。
一人でいっちゃ、えらい事になる。
大変だ、行ってやる。」
近藤荘平氏も同行を申し出ました。
■ 「放射線が健康に良い」なんて発表したら、生きて帰れない? ■
ところが、この事を服部氏が当時の電力中央研究所の理事長に報告すると、
鬼の様な剣幕で叱られます。
「バカヤロー!!
あなたの研究がどれくらいキワドイ研究か、
世界中に対して、50年前、『放射線は怖いぞと』と
ある、大きな意味を持って、放射線を徹底的に怖がらせる世界を作った。
そんな事、誰でも知っている事だ。
何が背景にあるか、そんな事、俺は説明したくも無い。
それに、あなた、チンピラのくせに楽しんで遊んでいる。
今、それだけでも嬉しいと思え。
それで、遂にワシントンから来いという電話。
その変わりに、京大医学部長、それ以下・・
皆な生きて帰って来ませんでした、死にました、と、
そうしたら電力中央研究所はどうやって責任を取るんだ。
この研究に集まって、皆指導してくれる、
それだけでも、感謝感激なんだよ。
そんな医学ド素人の電力中央研究所が、
それで、この後において、京大の医学部長に頼んだ?
それで殺された?
そういうのをいバカヤロウと言う。
お前一人で行け!!
どうしてもやると言ったのはお前だ。
一人で行け。
俺は人体実験、俺は楽しみにしてるぞ。
生きて帰って来るか、どうなるか。
行ってこい!! 」
この当時の電力中央研究所の理事長は、
東電の副社長、成田浩でした。
成田浩は陸軍中野学校の出身でした。
中国、重慶の奥地で一人で歩いて情報を送って行ったというツワモノでした。
東京電力を起こした松永安左エ門の跡継ぎと目されていた人物です。
(松永安左エ門は電力会社の独立性を廻って、
政治家達を相手に大立ち回りを演じた、怪物として知られています)
<第一部、終了>
どうでしょう、
放射線の有効利用に関して、
世界に先駆けて研究成果を上げたのは、
被曝国日本の、電力中央研究所だったのです。
その一方で、
成田浩をして、「そんな事言いたくもない」と言わしめた、
「放射線が危険でなければならない」理由とは何なのでしょうか?
続きは明日のこのブログで。