深い群青の「ガリラヤ湖」
「求道者ドキュメント」のカテゴリーを読み返したら、結構私、いろいろキリスト教について書いてるじゃ~~ん。
でも、洗礼を受けることとなった過程については書いてなかったよ。
なんでこのズボラでチャランポランなTAKAMIがクリスチャンになったのか…
しかも、いきなりどぼ~~ん!とお風呂のようなところに入れられるのが洗礼。(教派にもよる)
私もある友人から突然クリスチャンになったと言われたときものすごくびっくりして、経緯を詳しく語ってもらったこともあったので、この際だから語らせていただきます。
先日の勢いです。
オリーヴ山から見た神殿跡
私は物心ついた頃から「世界は神さまによって創られた」と信じていたのでありました。
洗礼を受けるに至ったのは、その「神さま」というのは、キリスト教でいうところの神さまだと思ったからなのですが、まあもう少し詳しく語ります。
家は仏教だったけど、「仏様」というのがよくわからないので、子供の頃から、お祈りは、私が信じている世界を創造した神さまにしていました。
お祈りはほんとうによくしていました。
フツーの日常でも私によくないことが襲いかかりそうなときもです。
たとえば、吐きそうなとき。
私は子どもの頃、よく吐いていました。
「吐きませんように」
コレ、めっちゃ子供の私にはシビアだったよ。
お祈りしても吐く時は、神さまがそのほうがいいんだよと言ってくれたんだ…と、、、そんな心も養われたような気がする、、、
中学生のある日、たまたま、イエス・キリストの生涯についての映画をTVで観ました。
私はその頃、宗教にとても興味があり、、この映画にめっちゃ感動してイエス様が大好きになり、カトリックの桜町教会に行ってイエス様の絵葉書や、お祈りの本などなど買って、デスクにイエス様の絵葉書を飾りました。
礼拝に行く勇気はなかったけど、桜町教会のイタリア人のシスターとお友達になり、ある時期、文通もしていまました。
教会学校用のテキストも貰って、聖書を読みながら問題を解いたりもしていました。
オリーヴ山のオリーヴ
中学生のある日私は両親に「洗礼を受けてクリスチャンになりたい」と言いました。
しかし母に、「それはもっとじっくり考えてからにしたほうがいい。」と言われました。
何故なら、クリスチャンになったことによって、人生でいろいろ悩んだり、壁にぶち当ることがあるかもしれないからと、母は頭ごなしではなく、丁寧に言ってくれたので、
こんなに真剣に言う母に従おうと思ったのでした。
それはきっと「結婚」に関することなのだと、中学生の私にもわかりました。
異邦人伝道の基点「皮なめしシモンの家」
でっ。
月日は流れ…
私は、息子に「神さま」のことを伝えたかったのです。
私はどの宗教の信者にもならなかったけれど「神さま」を信じて過ごしてきました。
このことを息子に伝えたかったのです。
学校の「道徳教育」ではなく、私が、神さまを信じてきたことを伝えたいし、
息子にも「神さま」を心の根幹に持ってほしいと願いました。
それには、教会学校に通わせることが良いであろう…と思いました。
私が信じている「神さま」とはキリスト教における「神さま」なのだと思えたのです。
ゲッセネマの園からカヤバ官邸へと続く石段
クリスチャンでない私が、何故息子を教会学校に…??
初代夫が教会学校に通っていたという話を、結婚披露宴の時に、新郎側の、お父さまの仕事関係の方からのスピーチで聞きました。
初代夫は、小学生の時、雨の日も風の日も、自転車で教会に通ったのだとか。
へぇ~~~そんなこと全然知らなかったよ。
初代夫とそんな話をしたことも全くありませんでした。
だけど、この人はそんな素地があるから、こんないい人なんだ…と、私は素直に感じたのでした。
さらに教会というところは、出入り自由で、教会学校に通っても「洗礼」を受けなくてはいけない…などというところではないのだとも。
なので、安心して息子を託せる…と思いました。
息子は毎週楽しみに教会に通うようになりました。
私と息子が所属している教会は偶然にも初代夫が通っていたところで、披露宴でスピーチをして下さった方は今でもそこの教会員なのです。
ナザレのハートのクローバー
私といえば、息子の月謝を払うようなつもりで、礼拝にも時々参加し、献金していました。
私が音楽活動をしていることを話すと、牧師先生は、私を教会のいろんなイベントに用いて下さるようになり、賛美(神を讃えて歌う)の根幹に深くかかわることになっていきました。
そして、どの歌も、歌えば神さまと繋がり、水道の蛇口を開けるように流れ出てくる…と感じました。
自分が生きている今と、イエス・キリストの時代が折り紙を折って角と角が重なるように一瞬にして重なる。
こんなミラクルな経験を音楽を通して幾度もしました。
私が大学時代に歌った宗教音楽はなんだったのだろう…全く「聖書」という文言はなかったな。
それでも洗礼を受けたいとは思いませんでした。
私は、今でもこれでじゅうぶんイエス・キリストを信じているし、このままでいいと思っていました。
でも、教会員の方たちも、牧師先生も、私と息子が受洗することを待ち望んでいて、それを拒む理由はなにもありませんでした。
このような経緯で、私は音楽からキリスト教と繋がりました。
エルサレムの奇跡の夕暮れ
前回も書いたように、洗礼を受ければクリスチャンになる…のではないのです。
私は、いったいいつからクリスチャンだったのだろうか…
中学の頃、イエス・キリストの映画を観て、イエス様が大好きになったあの時から、私は救われていたのだ…と思います。
キリスト教でいう「救われる」とは「福音の3要素」を信じることです。
一度救われたら、それを失うことは絶対にありません。
洗礼を受けるに至るまで、実に40年という年月がかかりましたが、
その間、神さまはずっと私のことを見守って辛抱強く待ってくださったのだ…と思います。
とうちゃん(神さまね)、ホントにありがとう…です。
洗礼を受けるということは、クリスチャンになるための儀式ではなく、福音を信じたので、これからは神さまの法則に従って歩みます(なるべく)とまあ、そんな感じ。
…とまあ、時々こんな感じで、キリスト教関連の記事も書きたいと思います。
お付き合いくださいね。