12月8日
私の尊敬するパーカッション矢野さんが、自宅マンションで亡くなられていたとのこと。
又聞きなので、詳しいことは何もわかりません。
憶測で書きたくありません。
悲しくて残念で、どうしようもないこの気持ちのやり場がなくて、、、
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Speak Lowのセッションで、初めて矢野さんのステージをみたとき、いきなり引き込まれてしまいました。
誰だこの人は… ナニモノなんだ、、、
私だけじゃありません。
彼のステージを見たことのある人は、もぉ、必ず、彼の音と表情に引き込まれない人はいないはず。
なんて楽しそうに叩くんだろう…
なんでこんなに音楽のうねりが作れるんだろう…
そして、カウンターでコーヒーを飲みながらお話をする矢野さんも、気さくで優しくて、
このお人柄がそのまま音に現われているのです。
矢野さんは、「東京キューバンボーイズ」という、プロのフルバンド出身の方です。
私は 子供の頃、両親がダンス教師だったので、ダンス音楽を聴いて育ち、キューバンボーイズのこともよく知っていました。
それに、東京時代、フラミンゴDs.が、キューバ音楽フリークだったので、私もいろいろ教えてもらったり、キューバのバンドのコンサートに連れてってもらったりして、
一般の人よりちょっとだけ知ってるよ…ってなカンジだったので、そんなところを糸口に、いつかきっと、この大御所矢野さんとお話ができたらいいなあ…と思っていたのでした。
ところが、意外にもその日は早くやってきました。
そして、「こんどゼヒ一緒にやりましょう」と、声をかけて下さったのでした。
嬉しかったなあ…
私はホントのホントに結構シャイなのです。
自分から「一緒にやっていただけませんか」とお願いするのにはものすごく勇気がいるのです。
矢野さんから「ぜひご一緒しましょう」なんて言っていただけなければ、きっと5年ぐらいは、畏れ多くてお願いできなかっただろうなあ…
2度目のライヴのときも、「よろしかったら、お手伝いいただけないでしょうか」ってことで、お願いしたのですが、快諾してくださり、
しかもお忙しくてリハにはなかなか参加できないのだけれども、こんなことをおっしゃるのです。
「TAKAMIさん、僕は、譜面を見て、一度曲の感じを聞けばだいじょうぶ。だいたいどんな楽器を使って、どんなリズムを入れるか、任せてくれればいいよ。
TAKAMIさんの演奏に迷惑をかけるようなことは決してしないので、心配しないで。」
…なんという頼もしい、、、、
電話口で、私はじわっと涙ぐんでしまいました。
ですが、その、気さくで優しい矢野さんが、リハのときには、突然鋭い目になるのを私は見逃していません。
リハ一発に、ものすごい集中力を注ぐのだと思います。
ジャズのセッションと違って、私の曲は、キメが多いです。
それをハズさないように、リハ一発で把握して、しかも、1回聞いただけで自分がどのように最高に効果的に絡むかを判断なさっているのだと思います。
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…以上は、矢野さんに私のバンド WIND AND SOUND のライヴをお手伝いいただいたときの日記です。
その後、彼は諸事情で、高松の音楽の世界から少し隔たることとなり、あまりお会いすることがなくなりました。
最後にお目にかかったのは、私の生徒さんの発表会のとき。
矢野さんに、生徒さんの演奏のフォローをお願いしました。
矢野さんは、ホームコンサートのような発表会の中で、以前と変わらずにこにこ笑いながら生徒のアンサンブルのバックをして下さいました。
そして、これからもゼヒ…といってお別れしたきり、、、
矢野さんは、最後までミュージシャンとして、この世を生きて、終えて旅立ったのだと思います。
旅立つ瞬間に、いったいどんなことを思っていらしたのか、誰にもわからない。
そして、矢野さんはどこへ行ったのか?
実父
鈴木さん
モメントス マスター
今、どこで何してるの…って、わからないし、考えても仕方がない。
だから、この思いは、今生きている自分と、かかわりのある人たちへ向けて、なるべく悔いのないように、日々を過ごしていきたいと思います。
「我が人生に悔いなし」なんて私には言えない。
悔いだらけ
矢野さん、ごめんね。もっと一緒に演奏したかった。声かけたら、絶対応じてくださったよね。
でも、もう今、どこにいるかわからない矢野さんのことを悔やんでも、矢野さんの追悼ライヴやっても、それは私たちの「気休め」。
今生きている人たちとのかかわりを、大切にしていくね。
矢野さん、ほんとうに、たくさんの素晴らしい音楽をありがとう。さようなら。