
初っ端から三島由紀夫の座右の書であり、特攻隊員の愛読書であった山本常朝(つねとも)の「葉隠」が登場。日本人の死生観とか「滅びの美学」が、見事にこの書と合致してしてしまったものと思われます。「武士道云うは死ぬ事と見付けたり」だけが取り上げられ独り歩きしてますが、そもそも太平の江戸で武士の倫理観が欠如してきたことを憂い書かれたもの。しかも田代陣基が山本の話を聞き書き残したものです。当の山本自身は、出家し坊主となり生き恥を曝すという最後であったようです。
その葉隠は、西行法師の山家集の「葉隠れに散りとどまれる花のみぞ忍びし人に逢ふ心地する」からとったものとする説が有力です。散り残った花(桜)に、廃れてしまった武士道精神を重ね合わせたんでしょうか? 本書でも解説してる通り、17~19世紀の武士は刀や弓矢を実戦で使ったことがなく、俸禄を受け取る役人として城下町に住み、より官僚的になってました。いわばサラリーマンですよ。侍という字も、「侍(はべ)る」、仕えるという意味から、有力な武士の家来のことで決して身分が高いわけではありません。
13~14世紀に話を戻しますと、馬の体高は130~140cmと低く、女性も戦闘に参加していたというから驚きです。時代劇では刀での派手なアクションが目につきますが、実際には甲冑と馬は高くつくので馬を失うような接近戦はほとんどなく、積極的に戦いに参加する者は少数でした。武器は全長2mにもなる大弓で、先端の鏃には鉄や鋼を使用。弓矢の運び手である「手明(てあき)」も存在しました。負傷者の2/3~3/4は弓矢によるもの。散兵の一種である野伏(のぶし)は、険しい丘の中腹や人家の屋根に身を隠し、敵に矢を雨あられと射掛け、近寄る騎馬武者たちの不意をついた、という記述はベトナム戦争におけるベトコンの戦いを彷彿とさせます。もっとも1万キロに及ぶ地下壕の存在があってのことですが。また、その弓矢には遠くに飛ぶように矢羽根が使われてますが、鳥なら何でもいいというわけではなく、フクロウやニワトリ、アオサギは使わないというこだわりがありました。
15世紀になると槍が主流になり、刀はほとんど使われなくなってます。16世紀の足軽の武器も当然槍で、騎馬兵に対し効果的でした。信長は槍の長さを8.8mにまで伸ばしてます。17世紀は鉄砲と大砲の時代到来ですが、これが築城にも影響を及ぼしてます。