~風に吹かれて~ by ポー(paw)

-人の中に 人の創り出した物の中に 動植物の中に 地球や宇宙の中に 魂の琴線にふれ 愛を感じながら 生き込みたい-

高来(たかく)神社(神奈川県大磯町)

2018-02-28 18:52:57 | ・神社・お寺

2018.2 大磯町方面へ神社参拝に行きました。春霞、暖かな一日でした。

まずは高来神社。

一の鳥居 奥は「高麗山」

二の鳥居 お隣は立派な天台宗のお寺・高麗寺慶覚院

高麗山はこの地図では一番右です。低山が連なる東のヘリですね。

参道 予想よりも結構な人が居て驚きました。大磯ガイド協会??のグループもあちこち歩いていましたよ。

灯柱「永代電燈料基金350円 大磯漁業組合」

高麗寺として繁栄したが明治元年神仏分離令で高麗神社となり、その後高来神社に改称したそうです。
一説には千二百もの横穴式古墳があるようです。

境内社 杉本稲荷大明神

雪だるまのような御神体 道祖神かなあ。調べましたが良く分かりません。

力石 無造作に置かれてました^^

手水舎 奥には「靖国之塔」「忠魂碑」
奥には「シイニッケイの木」樹幹の心材が枯死腐朽し空洞化しているスタジイの古樹の凹部に,ヤブニッケイが密着生息。
樹齢はスタジイが推定400年、ヤブニッケイは100~150年。

手水舎

拝殿(旧観音堂)

高来神社

・祭神:神皇産霊尊、天津彦穂邇々伎尊、応神天皇、神功皇后
・神奈川県中郡大磯町高麗(こま)に鎮座する神社。高麗神社とも呼ばれる。旧社格は郷社。
・社名は一説に朝鮮半島にあった高句麗からの渡来人に由来するといわれる。
・中世の戦乱等により書物が焼失したため起源は明らかでないが、神武天皇の時代の創建とする記録があるという。
・かつては高麗山の山頂に上宮があって高麗権現社といい、右の峰に白山権現を、左の峰に毘沙門天を勧請して
 「高麗三社権現」と称した。
・古来武門の信仰が篤く、鎌倉期に将軍源頼朝が正室北条政子の安産祈願をして、戦国時代には後北条氏がわずかな領地を
 寄進したという文献があるという。by wikipedia

拝殿の社額

スゴイです。年輪が龍のようですね。

拝殿脇 もの凄い数の寄付札です。

平嘉久社・・・あまり聞いたことのない社。ググってみましたが、考察はいろいろとあるものの良く分かりませんでした。

拝殿裏から高麗山に登りました。

標高167.3m山頂 木々の間から相模湾が望めました。

大磯は、朝鮮半島からの渡来人の関東平野における朝廷指定の上陸地点である。大磯から関東各地に別れていったが、
その主力は、大磯から多摩川の狛江、そして入間川の高麗郡にいたる流れである。大磯はその流れの拠点になった。
http://www.kuniomi.gr.jp/togen/iwai/ooiso.html より。

山頂の祠 上宮 高来神社奥宮 この石組は、祠の前にはかつて鳥居があったのか?それとも例大祭で利用するのかな?
春季例大祭山神輿還御では、山神輿は約3時間かけて登るそうですよ。

左奥にはかなり古い祠がありました。

 

拝殿脇の神輿殿

豊受姫大神

神明宮と龍神宮 この脇を入ると・・・

高麗山霊水(御供水)(龍神祠と神明祠?) 御水を祠にかけてきましたよ。

こちらに来られる方はあまり居ませんでしたね。あちこちに境内社がありますし、見どころ満載の神社なのに境内図が
無いんですよねー。残念です。社務所も閉まっていて、御朱印もらえずに残念そうなツーリングのオヤジさんたちも
居られました。
低山ハイクの方も居られましたね。

場所的にも台地のヘリですし、古墳も多いようですし、境内や山の空気・空間もとても良かったです。


ジョウビタキ♂

2018-02-27 15:55:34 | ・鳥・生物

2008.2 神奈川県大磯町方面へ神社参拝に行きました。その途中でジョウビタキのオスに出会いました。

比較的都内近郊でも見られますが、オスをちゃんと撮れたのは初めてかも。冬鳥ですのでまもなく北へ帰っていくかなー。

こちらは大ケヤキのヤドリギ

ヤドリギの実が見られました。レンジャクがこの実を好きなんですよねー。ここにも渡り途中に立ち寄るかなあ。
この実、すごくネバネバしています。レンジャクがこれを食すと糸を引いたような糞をして、あちこちに種をばらまき
ます。そうやって木々の高いところで発芽していくんですねー。自然はスゴイ^^


奈良橋八幡神社(東京都東大和市)

2018-02-27 15:46:33 | ・神社・お寺

2018.2 東大和市奈良橋にある八幡神社に参拝しました。

神社の入り口を通り過ぎ、東大和狭山緑地の駐車場に車を入れました。

神社入り口

階段を登りきると一の鳥居

一の鳥居手前に「御嶽神社」「大六大社」の祠がありました。大六大社ってあまり聞いたことがないなあと思って調べましたよ。

大六大社

第六天神社(だいろくてんじんしゃ)は、関東地方(旧武蔵国)を中心としてその周辺に存在する神社。なお、神社によっては
第六天を「大六天」と表記する場合もある。
元々は神仏習合の時代に第六天魔王(他化自在天)を祀る神社として創建されたものであるが、明治の神仏分離の際、多くの
第六天神社がその社名から神世七代における第六代のオモダル・アヤカシコネ(面足命・惶根命)に祭神を変更した。
第六天神社が所在する分布にも大きな特徴があり、東日本において関東の旧武蔵国を中心に旧相模国、旧伊豆国などに存在するが、
西日本では皆無となっている。これは戦国時代の覇者である織田信長が篤く信奉していたとされることから、天下統一の跡を
継いだ豊臣秀吉が第六天の神威を恐れ、拠点としていた西日本の第六天神社を尽く廃社したためという。by wikipedia

一の鳥居をくぐると真っすぐに参道が伸びています。左は社務所。

参道脇には大きな大和八幡幼稚園。いや~子どもたちが賑やかでしたよ~。こんな空気・空間の神社も賑やかで
良いですね。

二の鳥居手前には「武内神社」と「神明社」がありました。

宇佐神宮大鳥居の近くに鎮座する黒男神社のご祭神も、「武内宿禰」でしたね。

二の鳥居

拝殿

神社は子どもたちの遊び場にもなっていましたよ^^

祭神 誉田別之命

当社は創立年暦不詳、太古より鎮守と公称しきて、何神と言うことはわからない。
宮がこわれようとする頃、いつの戦か、武士がにげて来て、此の森に露営しようと、四方を見ると、くらい中より宮のある
のがわかり、宮の中にねむると、その人に告げるに神の夢に「吾は八幡の神なり」当社によく宿ってくれた、宮が破損
しようとしているので村人に建替ることを知らせて欲しいと言った。夢さめて翌朝地領に行き、其の理由を告げる。
天正三年(一五七五)十一月、領主石川太郎右衛門氏の寄付により、社殿が再興され、其の後百十四年を経て、元禄二年
(一六八九)九月旧領主石川太郎右衛門並岸隼人の尽力に依り拝殿が建てられ、其の後昭和七年に本殿幣殿拝殿が改築された。
(北多摩神道青年会掲示板より)

本殿

本殿の裏に回ると・・・

「浅間神社」もありました。

倒れたご神木の根が屋根付で大切に保存されていました。

たくさんの子どもたちと親御さんの中を縫って参拝しました。拝殿の前では子どもたちが走り回り、まるで自分だけが、
違うパラレルワールドの中にいるかのようでした。それでもとても暖かい空気・空間を感じました。後に調べると、
この一帯には縄文時代中期の八幡谷戸遺跡があったようです。南に開けたよても良い場所で太古の昔から人が住みついて
いたようです。


高木神社(東京都東大和市)

2018-02-24 05:01:33 | ・神社・お寺

2018.2 狭山神社参拝の後、すぐ近くの「高木神社」へ詣でました。

道路拡張などで動かされたらしき境内入口の「馬頭観音、供養碑、庚申塔の碑」

境内入口正面

鳥居

境内の獅子舞像 なかなか個性的な像ですねー。

高木の獅子舞いは江戸時代より、毎年九月十九日の高木神社の祭礼に奉納されました。昔、悪疫が流行したとき、その退散
を祈願して踊られたのが始まりと伝えられています。獅子舞の行列は、高木神社隣、昔の明楽寺跡の社務所で支度をととの
え、村役の先導にて練り歩き、神社前庭に進んだのです。杉の大木の繁る境内で、笛の音や、歌に合わせ演ずる獅子舞は
勇壮なものでした。東大和市hpより

拝殿

祭神:伊弉諾尊、伊弉冉尊

高木神社の創建年代等は不詳ながら、江戸期には尉殿権現社と称していたといい、明治13年高木神社と改称したといいます。
https://tesshow.jp/tama/eyamatommurayama/shrine_takagi_takagi.html より。

「山神」さんの石碑 

どうして「山神」の石碑なのでしょう。そして屋根まで付けられて大切にされているのでしょう?
ググってみましたが良く分かりませんでしたが、「山神」については、

「通称ヤマノカミ、女性神で、一年に十二人の子を産み、マタギとか山仕事をする人に信仰されていた」との事。
http://www.town.wakuya.miyagi.jp/sangyo/kanko/mesho/rensai/h2806yamanokami.htmlより

境内社の塩竃神社も安産の神さまですから、安産祈願にはとても良さそうですね^^

本殿と境内社

本殿脇の境内社の塩竈神社

塩竈神社 拝殿

かつては、個人宅の屋敷神として祀られていましたが、明治10年に現在の場所に移され、今の塩釜神社となったそうです。

隣接する公園。地域の憩いの場所という感じですね~。公園にはこんな看板が・・・

明治十七年、町村制度の大改正が行なわれ、それまでの數ヶ村を一区域とする行政区画が定められ、官選の戸長がこれを
管轄し旧高木、清水、狭山、奈良橋、蔵敷、芋窪の六ヶ村を管轄する事務をとった。

旧六ヶ村をまとめて一区域とすることにより、ほぼ現在の東大和市域が形づくられたと言ってよい。今は当時の建物も
大部分は失われたが、東大和市の原形をつくりあげた最初の役所跡として、歴史的に重要な遺跡である。
(東大和市教育委員会掲示より)

神社東側の明楽寺跡地とお地蔵さん群

高木神社は、南側斜面の開けた一体に鎮座しておりました。ここも柔らかな空気・空間に包まれた場所でしたよ。 


狭山神社(東京都東大和市)

2018-02-21 12:39:48 | ・神社・お寺

2018.2 東大和市に鎮座する「狭山神社」へ詣でました。

狭山といえば、埼玉県狭山市や狭山湖が浮かびますが、東京の東大和市にも狭山という地名があったのでしたー。
とはいえ、狭山湖、多摩湖に近いんですけどね。

わずかにこんもりした丘上に鎮座しています。正面からもわずかに見上げるような空間の境内です。

正面の鳥居

両狛犬の外側の囲われている古い燈籠には「神明社」と掘られていました。

拝殿

拝殿の彫刻は立派ですね。

境内から南方向 陽光が穏やかで柔らかさを感じる空気・空間でした。

境内社 グーグル地図では「稲荷社」行事の看板を観ると「愛宕社」

何も書いてないので分かりませんが、古い燈籠や看板から判別して「神明社」でしょうか。

祭神:伊弉諾尊(いざなぎのみこと)・伊弉冉尊(いざなみのみこと)

創建年代は不詳。古くは「天狗大明神」と称していたそうです。わずかに小高い丘に鎮座するこの神社は、
(地場のエネルギーを感じる)地域に溶け込むというよりも、少し距離を置いて「見守っている」ように
感じました。何となく「天狗社」と呼ばれていたのも解るような・・・。
二拍の音がビックリするほど良く響く神社でしたよ。


大原稲荷神社(東京都世田谷区)

2018-02-19 18:32:48 | ・神社・お寺

2018.2 世田谷区代田橋にある「大原稲荷神社」へ詣でました。京王線の代田橋駅のすぐ近くです。線路沿いなので、
京王線がひっきりなしに走っていましたよ。 

う~む・・・・簡易的な鳥居です。「大原稲荷神社」の看板の奥の石モザイク壁のお宅が社務所でした!

ググってみると、天明2年(1782)伏見稲荷大社より勧請し、羽倉稲荷と称したが訛って”はぐさ稲荷”と呼ばれるように
なったとの記載がある(明治年間に旧大原町・代田町の一部の鎮守社。1932(昭和7)年には代田村から大原が独立し村社)
ので、この消されている二文字は「羽倉」だったのかもしれませんね。

ホントに線路の脇です。

境内正面と鳥居

拝殿

拝殿脇の境内社の「大鳥神社」

線路わきの狐の石像群。「寛政3年」(1791年)の石柱も見られます。ご近所のお稲荷さんが合祀されたのかな。

代田橋駅前のおもちゃ屋さん ミニカーがたくさん並んでいましたよ。

いや~、代田橋の駅、初めて降りましたが、こんなに路地が多く入り組んでいるとは知りませんでした。
私的には何とも懐かしい空気・空間を感じましたよ。社務所のお宅は、住まわれていて、境内には鉢植えがあちこちに
置かれていてお庭のような境内でした^^ このようなアットホームな神社はあまり詣でたことがありませんね。


大泉諏訪神社(東京都練馬区)

2018-02-16 10:48:11 | ・神社・お寺

2018.2 こちらもいつも前を通っている神社です。道路は境内に沿っていますが、参道入り口は少し奥まっていました。

思ったよりも境内が大きくてビックリ!

参道入り口の西側には境内社の稲荷神社の一の鳥居

こちらが稲荷神社の鳥居の東側の諏訪神社の一の鳥居

広い境内です。

拝殿 境内の松の木が独特な空間を作り出しています。境内に松の木がある神社は、あまり無いような・・・。

本社の創建は詳らかではありませんが、江戸時代の「新編武蔵風土記稿」には、小榑村の鎮守三十番神と記されています。
もと本照寺の直ぐ北側にありましたが、明治末頃現在地に移りました。明治の神仏分離の際に、信州諏訪神社から
祭神建御名方命を勧請して社名も諏訪神社と改めました。現在でも古い土地の人々は「番神さま」と呼び親しんでいます。
社殿には三十体の神像が安置されています。また、境内には稲荷神社があり、宇迦御魂命が祀られています。
この社は神仏分離のとき村内に散在する無格の稲荷神社を合祀したものです。拝殿には二十枚余りの絵馬が奉納されていますが、
中でも「狐の大根取り入れの」絵馬は、稲荷様の眷属である狐を擬人化した独特な画柄です。数多くの樹木は昔の面影をよく
残しています。(看板より)

大雪のなごりが・・・。

拝殿 立派な拝殿です。

手水舎

本殿

社務所の屋根をネコちゃんが歩いていました^^ 

稲荷神社 二の鳥居

境内社の御嶽神社

近くの堤稲荷神社にも御嶽神社がありました。江戸時代から木曽御嶽信仰は、この辺りでも盛んだったのでしょうね。

こちらの神社もとても綺麗に整備されていました。秋季例祭時には、露店や神楽殿での芸能大会が境内を賑わすようですよ。
とても心が広くなるような空気・空間でした。


堤(四面塔)稲荷神社(東京都練馬区)

2018-02-16 10:46:54 | ・神社・お寺

2018.2 いつも前を通っていたのですが、やっと参拝できました。

境内正面

一の鳥居

拝殿

本殿 「西大泉の稲荷神社本殿」として練馬区有形文化財 立派な本殿です。

同じ境内の西側にある「御嶽神社」の鳥居

御嶽神社

とても綺麗にお手入れされている神社でした。氏子さんのこの神社に対する思いが見えるようでした^^


2018.2.12手賀沼付近のタゲリ

2018-02-14 18:13:18 | ・鳥・生物

2018.2.12 久しぶりにkouchaと鳥を観に行きました。

kouchaが「タゲリ」が見たいという事で手賀沼付近へ探しに行きました。

さて、ググって入手した情報によれば、

「2月ごろ手賀沼で見られている。手賀川の辺り。冬の水田地で群れで見られることがある。警戒感が強い。」

う~ん、雲を掴むような感じで、どうやって探したら良いものか・・・・kouchaと知恵を絞りましたよ。

まずは手賀沼の西へ。手賀沼の南側を東へ。この沼、沼に近い側は歩行者、自転車道になっていてクルマが
近寄れません。で、「車道から田んぼを探しながら、直角へ沼へ行っては引き返しを繰り返す作戦」しかし、
ぜんぜん鳥の姿が見えません。歩行者・自転車道で鳥屋さんが居たので聞いてみましたがタゲリはなかなか
見られ無さそう。。。。手賀沼中央の橋の辺りで見かけたように云われたので、そちらへ向かってみる。

ハザードを点けながら止まっては動きを繰り返す。助手席のkouchaが目を皿のようにしてタゲリを探す。
クルマを走らせながら双眼鏡で探していたらkouchaは酔って気持ち悪くなりました(笑)

「道の駅しょうなん」でトイレを借りて更に東へ。ようやく田んぼで群れを成すムクドリを発見。更に、
ツグミ、ハクセキレイ、タヒバリ、カラス、スズメなどボチボチと・・・。田んぼに入る耕運機の周りには
たくさんのムクドリが・・。掘り返した田んぼから出てくる幼虫などを狙っているようですね。タゲリも
居るかなあと思ったけど警戒感が強いとなるとムリだろうな。

手賀沼が終わって、手賀川へ。手賀川の南側沿いにクルマが入れて、更に南側の車道へ田んぼが伸びている。
これなら、アミダのようにクルマで行ったり戻ったりしながら田んぼを観察できるぞお。よ~し、行くぞと
思ったら、

何と、その走らせようとした畦道の眼の前に、お目当てのタゲリ
が出現!!!

koucha、前!前!その後、数分、沈黙の中、シャッターを切る。

いや~、こんなことがあるんですね~。鳥の神さまが降りてきてくれました。しかも一羽だけ。昨年の
シノリガモの時もそうでした。

情報を入手する。その場所へ行く。そして何より大切なのは「本気になって探す」こと。
これで観れる確率は
高くなる。しかし、相手は鳥。ちょうど、そこにいる時間に居合わせ
なければ逢えない。我々のように
ちょこっと探しに行って逢えることはホントに奇跡に近い。

「ウミウシの神さま」にも何度もお世話になっているけど、「鳥の神さま」も間違いなく近くに居てくれている
と思った瞬間でした。感謝感謝^^

動画も撮りましたよ。首のラインからオスのようですね。ま~歩き方の優雅なこと^^

2018.2.12手賀沼付近のタゲリ

 

タゲリ(田鳧、田計里、学名:Vanellus vanellus)by wikipedia

・日本には冬季に越冬のため本州に飛来(冬鳥)。
・背面は光沢のある暗緑色、腹面は白い羽毛で覆われる。頭部には黒い冠羽が発達する。頸部には黒い首輪状の斑紋が
 入る。雌雄ほぼ同色。
・河川、湿地、干潟、水田等に生息する。冬季は小規模な群れを形成し生活する。見通しのよい開けた場所におり、警戒心が
 強い。食性は動物食で、昆虫類、節足動物、ミミズ等を食べる。
・絶滅危惧II類=東京都、神奈川県、三重県 要保護生物=千葉県(環境省の絶滅危惧II類相当)準絶滅危惧=埼玉県、
 静岡県、大阪府、鳥取県、高知県、福岡県

タゲリが観られたので、そそくさと帰宅したのでしたー。いや~エキサイトしましたわ~。


伊勢山皇大神宮(神奈川県横浜市)

2018-02-10 08:00:17 | ・神社・お寺

2018.2

もうちょっと早く出て明るいうちに参拝予定でしたが、暗くなっちゃいました。提灯の灯りがあるかと思ったら、
真っ暗~~^^; iphone撮影の為、画質も悪いです。。。。。

一の鳥居 いや~大きいです。

二の鳥居

拝殿

照四海(しょうしかい):高さ約6mの常夜灯、現在のものは二代目。「四海を照らす」というその名の通り、横浜港の守り
神を象徴している。1882年(明治15年)完成の初代は燈明台(初期の灯台)の姿をしており、その灯りが船から目印に
されたという。by wikipedia 

キッコーマンの奉納品

注連縄柱 厳かな良い雰囲気です。

拝殿 古式ゆかしい空気・空間が作られていました。

拝殿奥の本殿。さすがに暗くて良く分かりません。

境内 奥はランドマークタワー

大神神社(境内社)

杵築宮(境内社)とクスノキ 暗いです。。。。

ずいぶん前に近くまで来たことがあったのですが、今回初めての参拝でした。明治3年創建ですから比較的新しい神社ですが、
開国後の横浜の歴史が学べて良かったです。丘の上の立地ですが、野毛町辺りも埋め立て地のようなので、当時はこの神社の
辺りから港が良く見えたことでしょうね。ちょうど「ヨコハマメリー」を読んでいて、横浜どっぷりといった感じです。
神社の境内は「横浜」のイメージとは少し違った、厳かな切りっとした空気・空間でした。

伊勢山皇大神宮(いせやまこうたいじんぐう)

・横浜市西区の神社。 
・「天照大御神」を祭神とし、「桜の花が社紋」である。
・横浜では「皇大神宮(こうたいじんぐう)」と称されることも多い。
・旧社格は官幣国幣社等外別格、後に県社。
・「神奈川県宗社」、また「横浜ならびに横浜港の総鎮守」とされ、「関東のお伊勢さま」「汽笛の聞こえるお伊勢さま
 としても知られている。

創建 1870年(明治3年)、一寒村であった横浜が開港場となり、貿易の街として急速に発展した。神奈川県は
 キリスト教を始めとする外来文化に接する横浜の精神的支柱とするために神社信仰の確立が必要と考えた。 そのため、
 元々戸部村海岸伊勢の森の山上にあった神明社を同年4月に現在地の野毛山に遷座した。

・1874年(明治7年)神奈川県知事が太政官と神祇官に建白書を提出。建白書は当社を伊勢神宮の遥拝所とし、県内の総社
 たる規模に整備することを願い出るものであり、翌月許可される。開港場である長崎・神戸にも同様の神宮遥拝所が作られ
 ることとなった。その後、伊勢の神宮に倣い、「皇大神宮」と称された。

・伊勢山の丘 神宮の鎮座する伊勢山の丘は、もともとは野毛山と呼ばれていたが、遷座の際に伊勢山と改められた。野毛町は
 野毛浦と呼ばれる入り江であった。これらの地域の埋め立てが進んだのは、幕末の開港以来である。

・神宮の境内の一部には伊勢山貝塚と呼ばれる遺跡が存在し、縄文後期の土器が出土している。

・横浜の開港直後の1859年(安政6年)には、この丘に神奈川奉行所が設置された。開港場と外国人居留地が一望できた
 こと、また港を挟んで反対側にある山手の丘に居留民保護の名目で駐留する、イギリス・フランス両国の軍隊を監視
 できたことが、この丘が選ばれた理由であった。

・遷座祭 1870年(明治3年)4月15日(旧暦)に執り行われた遷座祭にあたっては、神奈川県より前後を挟んだ5日間に
 渡り、市を挙げて盛大な祭礼を行なうように布告が出された。この盛大な祭礼の総費用は、外務省の半年分の費用に匹敵
 すると伝わる。

・「はまっこ」という自覚や意気込みが見られるが、この感覚の起源の一つには、伊勢山皇大神宮の遷座祭がある。

 ・明治天皇は、海軍の視察や根岸競馬場の天覧競馬(根岸競馬場は外国領事や公使の社交場であり、鹿鳴館と並ぶ明治政府
 の外交政策の拠点だった)などの理由により、頻繁に横浜へ行幸をしていた。そのため、1875年(明治8年)に行幸の
 際の御座所となるべく、伊勢山皇大神宮に隣接して二階建ての洋館である横浜御用邸・伊勢山離宮が建設される。

・伊勢山離宮は迎賓館としても使用され、明治政府にとって初めての国賓として来日したハワイ王国のカラカウア国王や、
 帰路に和歌山県串本町沖で乗艦が難破し命を落としたオスマントルコの親善特使パシャ提督ここに招かれている。

・社殿・境内 本殿:伊勢の神宮に倣った神明造。関東大震災で倒壊し、1928年(昭和3年)再建された。2018年(平成30年)
 に創建150年の記念事業の一環として、伊勢神宮から正宮(皇大神宮)の旧社殿を譲られ、新たな本殿として移築される。 

・境内社 杵築宮(きづきのみや):豊受姫大神、月讀命、須佐男命、大国主命、住吉三神を祀る。 
 子之大神(ねのおおかみ):野毛町の氏神で、大国主命、姥姫を祀る。元々は野毛の町内にあったが、戦禍により社殿を
 焼失し、
現在、杵築宮に合祀されている。 
 大神神社磐座(おおみわじんじゃいわくら):大物主大神を祀る。1996年(平成8年)鎮座。社殿が成立する以前の、
 古代の
祭祀場が再現されている。 
・水神宮(すいじんぐう):水神を祀る。 
・旧大鳥居台座:表参道に置かれた明治期の大鳥居の台座。1876年(明治9年)に横浜市の地図作成が行なわれた際に水準点
 として刻まれた印が残る。 by wikipedia


皆既月食(怪奇月食?笑)2018.1&2014.10&2011.12&2000.7

2018-02-06 08:59:44 | ・写真

2018.1.31 皆既月食

ブログをひっくり返してみたら、皆既月食は結構撮っていました。

今回の皆既月食は、「スーパーブルーブラッドムーン」

月が地球に接近した際に見える月は「スーパームーン」。
1カ月に2回、満月になる現象は「ブルームーン」。さらに
皆既月食で、月の表面が赤っぽく見えることから、現象が「ブラッドムーン」と呼ばれる。
NASAによると、今回は3つが同時に起きるので「スーパー・ブルー・ブラッドムーン」になるということのようです。

今回は、ずいぶん空の高い位置で起こりましたねー。首が痛くなりました(笑)ほぼ真上だったので、何だかそんなに
大きくは感じませんでしたね。
今回は(も?)うまく撮れなかったなあ。

「太古の昔、人々は満月の夜、明るい月明かりのもと、月夜の晩を楽しんでいました。
すると、徐々にその明るいお月様が欠けだした。風の無い静かな夜に・・・。やがて月明かりは隠されて赤黒いくすんだ
お月さんとなってしまいました。やがてまた明るくなり始めたお月様に、ほっと胸を撫でおろしたことでしょう。」

これは、怖かっただろうなあ。。。。。。と毎回同じことを思います^^ 日食もそれはそれは怖い現象ですが、
また違った感覚の怖さがあるなあ。

こちらは日食の写真 2012.5の金環日食>>>>>詳しくはこちら 金環日食 2012 in tokyo !!!!!

では皆既月食2018.1.31の写真を。。。

月の周りに★が幾つか見られました。

あかん・・・ブレブレ^^;

↓↓↓↓↓↓過去投稿分 2000年の写真は、なんと200万画素!

/////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////

2014.10.8 皆既月食

19:19~19:54 時系列に並べました。杉並区高円寺より撮影

雲も出ていましたが、それもまたちょっとした演出で^^

それにしても太古の人たちは驚いたでしょうね。
人工光の無い世界の中で、満月の明るい光が、突如として
欠け始め、やがて、赤黒い月がボワっと空に浮かぶ。

皆既日食ほどの恐ろしさは無かったでしょうが、
それでも、不吉な、怖いひと時であったでしょうね。

お月さんの右上に飛行機?が写っています^^

/////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////

2011.12.10 皆既月食

この後、何故かカメラのレンズが作動しなくなってしまった。

ここからカメラが直った。(お月様は、すでに地球の影の中)

月が地球の影に隠れると、これだけの星たちが写った。

杉並区より

2000年の時ほどの恐怖はありませんでした(笑) 二度目ですからね^^

でも、赤い月の間、空気がシ~~~~~~~ンとしていて、何もかも、ありとあらゆるものたちが、息を潜めているか

のようでしたね。ただ、じっと待っているような・・・・・。 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

皆既月食中の月は、赤黒い色で観察されることが多いのですが、
この色は皆既月食ごとに微妙に変化すると言われています。


オレンジ色であったり、明るい赤であったり、暗い赤であったり、
こげ茶っぽく見えたりと、様々。
まあ、全体的には赤系です。
青っぽく見えることはありません。

太陽の光が月に向かうとき、光は地球の大気で屈折します。
このとき、波長の短い青い光は散乱してしまい、
最終的に、波長の長い「赤い光」が月に届くためです。

さて、今夜の皆既月食は、
日本全国で、月食の始まりから終わりまでの全過程が見られる最高条件の皆既月食です。

月の欠け始め
=21時45分
皆既月食の見られる時間帯
=23時06分~23時58分

月の高度は、70度から80度と高く、ほとんど真上に見えます。

皆既月食のさらに詳しい時刻は次のとおりです。
日本全国、同じ時刻です。
部分食の始まり10日21時45.4分
皆既食の始まり10日23時05.7分
皆既食の終わり10日23時58.0分
部分食の終わり11日01時18.3分  http://tenki.jp/ より

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

2000.7.16 皆既月食




風の無い、送り火揺れる夜、厳粛かつ壮大な宇宙のショータイムが始まった。
東の空に現れた卵の黄身のような満月。離れた軌道上にいるせいか、コジン
マリ見える。しかし、テラスからはほとんど雲もなく、東から南にかけてロケー
ションもよくほぼベストなお月見状況。20:57東南の空に動いたプラチナの満月
が左斜め下側から欠け始めた。やはり、遠い軌道上のせいか、ゆっくりとまど
ろっこしい位ゆっくりとショーは進んでいく。’まあ、まあ、そう急ぐなよ’とたしな
められているかのように。うすいスジ雲の流れにじゃまされて見え隠れすると
いうスパイスの効いた演出効果を伴い、22:02地球の陰に入り込んだ。こうなる
とさすがにデジカメのモニターに光を捕らえることができず、勘でシャッターを
切って中心部へと追い込んで撮影した。


予想通り、全く姿が見えなくなるのではなく、柔らかな、静かな、なんともいいよ
うのない人の気持ちを不安定にさせるような妖艶としたほのかに赤暗い光を放
っている。周りに人工的な光のない場所でこのショーが見られたらさぞかしすば
らしいものであったろう。しかし、太古の人々が雲もないのに欠け始め、やがて
赤暗い光を放つ月に遭遇したのならば、これはもう、不吉な前兆以外の何もの
でもなかったに違いない。


ショーの最中、金沢の友人からTELがあった。ダイバー仲間と浜辺でこのショー
を楽しんでいるという。自然の贈り物、この壮大なショーに、月に乾杯しようって
彼は言っていたが、僕にとっては太古の人々のように不安な気分の時間が流れ
ていた。地球の陰の中で揺れ動いていた赤暗い光の月が、23:49再び左側から
プラチナの月明かりを見せ始めた。僕は、ほっとして胸を撫で下ろした。
シャワーを浴びてテラスにでると、もうそこには何事もなかったかのように高く
小さな満月が僕を見下ろしていた・・・・・・。


NIKON COOLPIX800(200万画素) テラスに半固定撮影


駒木諏訪神社(千葉県流山市)

2018-02-05 17:21:29 | ・神社・お寺

2018.1.28

千葉県柏市の「国立がん研究センター東病院」で肺がんの陽子線治療をしている知人のお見舞いの帰りに、流山の
駒木諏訪神社へ参拝に行きました。

参道入り口

一の鳥居 立派な狛犬ですね。

通称「駒木のお諏訪さま」と地元では呼ばれているそうです。入り口には大きな奉献馬の像も。

二の鳥居 一週間前に降った雪が未だ残っています。

予想以上に長く立派な参道でした。

凍っています。。。。

隋神門

隋神門のさらに内側の「神門」

神門の前の「諏訪之宮」・・・オシャレ門柱灯?ですね。神社とは思えませんね。

「おすわさま」という名で親しまれている諏訪神社

・社伝によると大同二年(807年)天武天皇の皇子であります高市皇子(たけちのみこ)の後裔が大和(奈良県)より
 関東に下向、この駒木を永住の地と定めて守護神として信州諏訪大社から額面を遷し祀(まつ)たのが創建とされて
 います。
・祭神は、「健御名方富命(たけみなかたとみのみこと)」で別に古事記や旧事記には「健御名方神」とも記されて
 おります。
 
・この神社の境内は約一万坪にして、うっそうと大樹が繁う千二百年の歴史を今に伝えております。

(境内の掲示より)

拝殿

拝殿には、たくさんの方がご祈祷に来られていました。立派な拝殿です。

御神水としてお水取りが可能です。古くより境内の杉の大木にある洞から湧く清水が信仰されており、江戸時代や戦前の
史料などにも、当社の清水の話が記されている事が多いそうです。この御神水は現在も大変良質な水だそうですよ。

拝殿前にある一対の狛犬は美術家・北村西望作。迫力のある個性的な狛犬ですね。

「源義家献馬」像 こちらも北村西望作(長崎の平和記念像の作者)。

平安時代末期の武将・源義家(八幡太郎)(1039年-1106年)が後三年の役で奥州に向かう際に立ち寄り、付近で軍馬の
調達をした。戦勝後の帰路、諏訪神社に立ち寄って献馬をしたという伝承がある。諏訪神社付近一帯は馬の産地であり、
のちに江戸幕府が軍馬牧場の小金牧として指定したが、その先史を伝えるとされる(諏訪神社の境内には「神馬の像」
および「馬を連れた源義家像」の2体の青銅像が置かれている。by wikipedia

この春初めてのサンシュユも^^

手水舎

日曜日の15時頃だったのですが、ホントにたくさんの方々は詣でていましたよ。

奥に本殿がちらりと望めました。

絵馬もすごい数です。流山を舞台にしたアニメの聖地でもあるようですよ。

収穫祭のときの奉納ですかね。

社殿の右手にはたくさんの境内社が整備されていました。

境内社の姫宮神社、雷神社、天神社、国魂神社は、諏訪神社の近くにあったようです。
他に稲荷神社、恵比寿神社、招魂之社、大鳥神社。

境内には、たくさんの像や石碑がありました。

地域に密着し、とても溶け込んでいる空気・空間でした。溶け込むというよりも、この神社を中心に周りが形成されている
くらいに感じましたよ。地形的には分水嶺にあたる台地上との事。縄文後期から人々は暮らしていたようです。今となっては
グーグルマップ航空写真を見ても良く分かりませんが。。。。ふらりと訪ねましたが、良い神社でしたよ^^

現利根川水系(利根川東遷事業前は鬼怒川水系)と現江戸川水系(同事業前は太日川・渡良瀬川水系)の分水嶺にあたる
台地上にある。境内には「諏訪神社遺跡」が存在しており、縄文時代後期から人が居住していたことがわかっている。
by wikipedia


桶川稲荷神社(埼玉県桶川市)

2018-02-02 15:05:42 | ・神社・お寺

2018.1 桶川の稲荷神社へ参拝に行きました。

桶川市

古くは江戸時代の五街道の一つ中山道の宿場町・桶川宿として発展し、江戸時代に周辺部で栽培されていた紅花
「桶川臙脂」としてその名を知られ、最上地方に次いで2番目の収穫高を誇っていた。現在でも中山道には蔵作りの
建物など宿場町の面影を残している。農業用地を残す一方で、近年は住宅地化も進行している。by wikipedia

神社へ向かう途中、旧道17号の中山道を走りましたが、確かに古い建物があちこちに残っていました。桶川市観光協会
でも、「中山道宿場町ベニ花の郷・桶川」と頑張っているみたいですよ。歩き回るのも楽しそうです^^

境内入口 着物屋さんの前です。

鳥居 境内・正面

境内に入る前に境内に沿って左側へ。大きなケヤキの腹央に・・・・

神社がありました。

欅のつぶやき・・・
「腹央を裂かれ この地に幾星霜 自然の法に生かされており  人誰も己が腹底見せずとも 吾はかくさじかく開きおり」
名言ですなあ。。。

「欅稲荷神社」お参りさせて頂きました。

日本一小さな神社??をお参りして、境内へ。

由緒
中山道桶川宿の街道筋から、東側に少し入った閑静な住宅街の一角に当社は鎮座する。社伝によると、嘉禄年間(一二二五
-二七)の創建で、桶皮郷(現在の桶川市と上尾市にまたがる地域に比定される)の惣鎮守として奉斎し、神体として宝剣を
祀った。下って元禄七年(一六九四)に代官南条金右衛門が幕府に乞うて社地三反五畝が除地として許された。その後、
享保二年(一七一七)に神祇管領吉田家から正一位に叙されたという。
別当は、倉田村明星院の末寺であった南蔵院で、『中山道分間延絵図』を見ると、当社から南西に六〇〇メートルほど離れ
た、桶川宿の東(現在の東一・二丁目辺り)に位置し、その開山長祐は慶長十五年(一六一〇)の寂である。
 明治初年の神仏分離を経て、当社は明治六年に村社となった。

境内 神楽殿、境内社

拝殿

桶川宿周辺で紅花を扱っていた商人たちが、安政4年(1857)に南蔵院不動堂へ 寄進されたとされる2基の石燈籠が拝殿前に
今も残る(明治2年(1869)に現在地へ移設したもの)。

境内には、こんな大きな力石がありましたよ。いや~、こんな大きな石(610kg)を持ち上げるなんて・・・・

「大盤石」

・稲荷神社の力石は、長さ1.25m、幅0.76m、厚さ0.4m、重さ610kgの雫のような形の楕円形。
・力比べに使った力石としては日本一重いと言われています。
・表面には「大般石」の文字と、嘉永5年(1852)2月、岩槻の三ノ宮卯之助がこれを持ち上げたことともに
 当時の桶川宿の有力商人であった石主1名と世話人12名の名が刻まれています。
・三ノ宮卯之助(1807~1854)は旧岩槻藩三野宮村(現越谷市)出身で、江戸へ出て勧進相撲をつとめ、江戸一番の力持ち
 と評判の力士でした。三ノ宮卯之助の名がのこる力石は、埼玉県内の他、千葉やかながわ、遠くは長野や兵庫でも確認。

 

ロウバイが満開でした。良い香りでしたよ。

ふらりと立ち寄って参拝させて頂きましたが、地場に根付いた、良い空気の流れている神社でした^^