金刀比羅宮 賢木門
あちこちに神社が点在していて、よく分かりません。
まだ上ります。
事知神社
金刀比羅宮 着きました~
御本宮は、石段785段目、海抜251メートルに鎮座します。御本宮の御祭神は、大物主神と崇徳天皇です。古来から農業・殖産・医薬・海上守護の神として仰がれています。
御本宮の社殿の創建については分かっていません。長保3年(1001)、一條天皇が藤原實秋に勅し社殿を改築したことまでは分かっています。その後、元亀4年(1573)の改築、天正年間(1573-1592)の長曽我部元親による再営を経て、万治2年(1659)の讃岐国高松藩主 松平頼重による改築に至り、明治11年(1878)の改築で現在の社殿となりました。
金刀比羅宮御本宮展望台 眺めがいいですね~
石段を785段登った本堂の脇からの眺望はなかなかです。特徴的な形をした山は
飯野山と言い別名讃岐富士(標高421.9m)と言われています。なんか惹かれる山だなあ。
右は神饌殿
神楽殿
なが~い渡り廊下ですわ。
金刀比羅宮 とにかく広くてたくさんの境内社が鎮座しています。
大山祇神社
高橋由一館では、「日本洋画の開拓者」と称される高橋由一の作品27点を常設展示しています。第19代宮司 琴陵宥常(1840-1892)が高橋由一の画塾を支援するために購入したものです。
琴平町の象頭山中腹に鎮座する単立神社である。明治初年の神仏分離以前は金毘羅大権現と称し[1]、通称は「讃岐の金毘羅さん(さぬきのこんぴらさん)」[2]で知られる。明治初年以降に神社になってからの当宮の通称は「金比羅さん」である。
真言宗象頭山松尾寺の堂宇の一つとして神仏習合の金毘羅大権現を祀り、その別当として寺中の金光院が奉斎した。
明治初年に神仏分離・廃仏毀釈が実施されて、金毘羅権現の奉斎は廃止とし大物主を主祭神とする神社となり、神社本庁包括に属する別表神社、宗教法人金刀比羅本教の総本部となった[3]。全国に約600ある金刀比羅神社、琴平神社あるいは金比羅神社の総本宮である[4]。
金刀比羅宮の由緒についてはいくつかの説があり、大物主命が象頭山に行宮を営んだ跡を祭った琴平神社から始まり、中世以降に本地垂迹説により仏教の金毘羅と習合して金毘羅大権現と称したとするものである[5]。大宝元年十月の晴れ渡った青空から一竿の旗が舞い降りて象頭山に立ったため、この地に宮を建て旗宮と称したとある。別の説として、大宝年間に修験道の役小角(神変大菩薩)が象頭山に登った際に天竺毘比羅霊鷲山に住する護法善神金毘羅(クンビーラ)の神験に遭ったのが開山の縁起との伝承から、これが金毘羅大権現になったとする[6]。また別の説として、『生駒記讃陽綱目』の金刀比羅宮の條によれば、延喜式神名帳に名が見える讃岐国官社24社の1とされ讃岐国多度郡[7]の雲気神社[8][9]が金刀比羅宮という記述がある。
江戸時代初期には、金光院院主の宥光が参拝の土産物として○に金の印を入れたうちわを作ることを思いつき、大和国から技術者を招いたといわれる。そして、長宗我部退却後は生駒藩や松平藩から保護され寄進を受け繁栄していった。
江戸時代中期に入ると全国の庶民の間へと信仰は広がった。各地で金毘羅講が組織されて「金毘羅参り」が盛んに行われるようになり、伊勢神宮へのお陰参りに次ぐ庶民の憧れだったといわれる[19]。その様子は、浮世絵の東海道五十三次の一つである「沼津」や、滑稽本の東海道中膝栗毛に描かれている。奉納も多く行われ、奉納された石碑を収めるために本来直線だった参道を曲げたほどであった[20]。
金刀比羅宮 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』最終更新 2022年9月5日 (月) 06:11
ってなわけで、やっぱり、なかなかの商売上手な歴史があったんですねー。旅行するようになったのは「伊勢詣で」、「富士詣で」だけでなく「金比羅詣で」もだったのですね。金刀比羅宮の麓に温泉を掘ったり、なかなか商売上手な気質が受け継がれているんじゃないかな。
この参拝ガイド、すごく見易いです。
少し雨が降っていました。体調が今一だったので奥社までは行きませんでした。
さて、10時ごろ車に戻り出発。瀬戸内海・父母ヶ浜へ。この浜は、印象的な景観が広がる海水浴場で、広大な潮だまりに夕日が美しく反射することで有名で、撮影スポットとしても注目を集めています。
残念ながら、この日は、あまり面白くない景色でしたが、それでも瀬戸内海の穏やかな海を見ることができました。調べたら、瀬戸内海も潮の満ち引きが結構あるんですねえ。太平洋側と違って穏やかな海だから、さほど潮の満ち引きは無いのかと思っていました。
その後、11時ごろ父母ヶ浜を出発して、12時ごろ別子銅山へ。マイントピア別子で昼食。途中に吊り橋を渡って出入りする民家がありました。国道からわずかに山間に入るだけですごい自然豊か感がありましたね。
鉱山観光の予定でしたが、帰りの松山空港まで時間はたっぷりあったものの、天気も雨が降り出していて、ちょっと不安がよぎり、松山自動車道で松山市街へ。市内の伊豫豆比古命神社(いよずひこのみことじんじゃ)別名:椿神社へ。
正面鳥居
楼門
勝軍八幡神社
境内 とても綺麗で清潔な空間でした。
拝殿
伊豫豆比古命神社(いよずひこのみことじんじゃ)は、愛媛県松山市居相町にある神社。式内社、旧社格は県社。神紋は十六弁八重表菊。地元では椿神社、お椿さんとも呼ばれている。
往古、神社の周は海で、津(海の意味)の脇の神社「つわき神社」が時が経るにおいて「つばき神社」に変化したという、また、神社の周りに藪椿を主に各椿が自生していることからも、そのように呼ばれるようになった[1]。
社伝では、孝霊天皇の御代に鎮座したとされ、昭和37年(1962年)には御鎮座2250年祭が、平成24年(2012年)には御鎮座2300年祭が行われた。
延喜式神名帳所載の伊豫豆比古命神社(小社)に比定されるが、名神大社の伊豫神社に当てる説もある。ただし、伊豫神社に比定される有力な論社は伊予郡松前町の伊予神社である。
15時半ごろ無事にクルマを返し(同時期に借りた他の方が事故ったらしい)、松山空港へ。早すぎる(笑) まあ、ギリギリよりは良いか。
頼まれていたお土産を調達して、空港内の「かどや」さんで飲食してゆったり過ごせました。
帰りもトラブルなく無事に帰宅しました。ちゃんちゃん^^
2022年5月30日(月) ANA 59885 松山(19:30) - 東京(羽田)(21:00)
いや~、濃密な旅行でございました。予定していた四万十に行けなかったのは残念でした。美味しい讃岐うどんも食べられなかったなー。まあ、無事に帰って来られたのでめでたしめでたしということで^^(終)