~風に吹かれて~ by ポー(paw)

-人の中に 人の創り出した物の中に 動植物の中に 地球や宇宙の中に 魂の琴線にふれ 愛を感じながら 生き込みたい-

四国旅行7 香川県・愛媛県(金刀比羅宮2・父母ヶ浜・椿神社))

2023-07-03 18:56:39 | ・2022.5 四国旅行記

 

Content image

 

Content image

金刀比羅宮 賢木門

Content image

 

Content image

あちこちに神社が点在していて、よく分かりません。

Content image

 

Content image

 

Content image

 

Content image

まだ上ります。

Content image

事知神社

Content image

金刀比羅宮 着きました~

Content image

御本宮は、石段785段目、海抜251メートルに鎮座します。御本宮の御祭神は、大物主神と崇徳天皇です。古来から農業・殖産・医薬・海上守護の神として仰がれています。

御本宮の社殿の創建については分かっていません。長保3年(1001)、一條天皇が藤原實秋に勅し社殿を改築したことまでは分かっています。その後、元亀4年(1573)の改築、天正年間(1573-1592)の長曽我部元親による再営を経て、万治2年(1659)の讃岐国高松藩主 松平頼重による改築に至り、明治11年(1878)の改築で現在の社殿となりました。

Content image

金刀比羅宮御本宮展望台 眺めがいいですね~

Content image

石段を785段登った本堂の脇からの眺望はなかなかです。特徴的な形をした山は
飯野山と言い別名讃岐富士(標高421.9m)と言われています。なんか惹かれる山だなあ。

Content image

右は神饌殿 

Content image

 

Content image

神楽殿

Content image

なが~い渡り廊下ですわ。

Content image

 

Content image

 

Content image

 

Content image

 

Content image

 

Content image

 

Content image

 

Content image

 

Content image

金刀比羅宮 とにかく広くてたくさんの境内社が鎮座しています。

Content image

 

Content image

大山祇神社

Content image

高橋由一館では、「日本洋画の開拓者」と称される高橋由一の作品27点を常設展示しています。第19代宮司 琴陵宥常(1840-1892)が高橋由一の画塾を支援するために購入したものです。

 

金刀比羅宮(ことひらぐう)は、香川県仲多度郡

琴平町象頭山中腹に鎮座する単立神社である。明治初年の神仏分離以前は金毘羅大権現と称し[1]、通称は「讃岐の金毘羅さん(さぬきのこんぴらさん)」[2]で知られる。明治初年以降に神社になってからの当宮の通称は「金比羅さん」である。

真言宗象頭山松尾寺の堂宇の一つとして神仏習合金毘羅大権現を祀り、その別当として寺中の金光院が奉斎した。

明治初年に神仏分離廃仏毀釈が実施されて、金毘羅権現の奉斎は廃止とし大物主を主祭神とする神社となり、神社本庁包括に属する別表神社宗教法人金刀比羅本教の総本部となった[3]全国に約600ある金刀比羅神社、琴平神社あるいは金比羅神社の総本宮である[4]

金刀比羅宮の由緒についてはいくつかの説があり、大物主命が象頭山に行宮を営んだ跡を祭った琴平神社から始まり、中世以降に本地垂迹説により仏教金毘羅と習合して金毘羅大権現と称したとするものである[5]大宝元年十月の晴れ渡った青空から一竿の旗が舞い降りて象頭山に立ったため、この地に宮を建て旗宮と称したとある。別の説として、大宝年間に修験道役小角(神変大菩薩)が象頭山に登った際に天竺毘比羅霊鷲山に住する護法善神金毘羅(クンビーラ)の神験に遭ったのが開山の縁起との伝承から、これが金毘羅大権現になったとする[6]。また別の説として、『生駒記讃陽綱目』の金刀比羅宮の條によれば、延喜式神名帳に名が見える讃岐国官社24社の1とされ讃岐国多度郡[7]の雲気神社[8][9]が金刀比羅宮という記述がある。

江戸時代初期には、金光院院主の宥光が参拝の土産物として○に金の印を入れたうちわを作ることを思いつき、大和国から技術者を招いたといわれる。そして、長宗我部退却後は生駒藩や松平藩から保護され寄進を受け繁栄していった。

江戸時代中期に入ると全国の庶民の間へと信仰は広がった。各地で金毘羅講が組織されて「金毘羅参り」が盛んに行われるようになり、伊勢神宮へのお陰参りに次ぐ庶民の憧れだったといわれる[19]その様子は、浮世絵東海道五十三次の一つである「沼津」や、滑稽本東海道中膝栗毛に描かれている。奉納も多く行われ、奉納された石碑を収めるために本来直線だった参道を曲げたほどであった[20]

金刀比羅宮 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』最終更新 2022年9月5日 (月) 06:11

ってなわけで、やっぱり、なかなかの商売上手な歴史があったんですねー。旅行するようになったのは「伊勢詣で」、「富士詣で」だけでなく「金比羅詣で」もだったのですね。金刀比羅宮の麓に温泉を掘ったり、なかなか商売上手な気質が受け継がれているんじゃないかな。

この参拝ガイド、すごく見易いです。

少し雨が降っていました。体調が今一だったので奥社までは行きませんでした。

 

さて、10時ごろ車に戻り出発。瀬戸内海・父母ヶ浜へ。この浜は、印象的な景観が広がる海水浴場で、広大な潮だまりに夕日が美しく反射することで有名で、撮影スポットとしても注目を集めています。

 

Content image

 

Content image

 

Content image

 

Content image

残念ながら、この日は、あまり面白くない景色でしたが、それでも瀬戸内海の穏やかな海を見ることができました。調べたら、瀬戸内海も潮の満ち引きが結構あるんですねえ。太平洋側と違って穏やかな海だから、さほど潮の満ち引きは無いのかと思っていました。

その後、11時ごろ父母ヶ浜を出発して、12時ごろ別子銅山へ。マイントピア別子で昼食。途中に吊り橋を渡って出入りする民家がありました。国道からわずかに山間に入るだけですごい自然豊か感がありましたね。

Content image

 

Content image

鉱山観光の予定でしたが、帰りの松山空港まで時間はたっぷりあったものの、天気も雨が降り出していて、ちょっと不安がよぎり、松山自動車道で松山市街へ。市内の伊豫豆比古命神社(いよずひこのみことじんじゃ)別名:椿神社へ。

Content image

正面鳥居

Content image

楼門

Content image

勝軍八幡神社

Content image

境内 とても綺麗で清潔な空間でした。

Content image

拝殿

Content image

 

伊豫豆比古命神社(いよずひこのみことじんじゃ)は、愛媛県松山市居相町にある神社。式内社旧社格は県社。神紋は十六弁八重表菊。地元では椿神社、お椿さんとも呼ばれている。

往古、神社の周は海で、津(海の意味)の脇の神社「つわき神社」が時が経るにおいて「つばき神社」に変化したという、また、神社の周りに藪椿を主に各椿が自生していることからも、そのように呼ばれるようになった[1]

社伝では、孝霊天皇の御代に鎮座したとされ、昭和37年(1962年)には御鎮座2250年祭が、平成24年(2012年)には御鎮座2300年祭が行われた。

延喜式神名帳所載の伊豫豆比古命神社(小社)に比定されるが、名神大社の伊豫神社に当てる説もある。ただし、伊豫神社に比定される有力な論社は伊予郡松前町伊予神社である。

江戸時代には松山藩主・久松氏の篤い崇敬を受けた。現在では縁起開運の神として、崇敬者は全国に広がるという。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』最終更新 2021年3月14日 (日) 15:05 

15時半ごろ無事にクルマを返し(同時期に借りた他の方が事故ったらしい)、松山空港へ。早すぎる(笑) まあ、ギリギリよりは良いか。

Content image

 

Content image

 

Content image

頼まれていたお土産を調達して、空港内の「かどや」さんで飲食してゆったり過ごせました。

Content image

 

Content image

帰りもトラブルなく無事に帰宅しました。ちゃんちゃん^^

2022年5月30日(月) ANA 59885 松山(19:30) - 東京(羽田)(21:00)

いや~、濃密な旅行でございました。予定していた四万十に行けなかったのは残念でした。美味しい讃岐うどんも食べられなかったなー。まあ、無事に帰って来られたのでめでたしめでたしということで^^(終)


四国旅行6 香川県・(金刀比羅宮1)

2023-07-03 18:49:58 | ・2022.5 四国旅行記

いよいよ3泊4日の四国巡り旅行の最終日です。

Content image

〇〇中学校様と書いてあるから、どこかの中学校の修学旅行の宿泊もあったようです。が、別棟だったのか、会うことはありませんでしたね。

8:15ホテル出発。ホテルにそのまま車を停めさせてもらって、いざ「こんぴらさん」へ。温泉の成り立ちやこの「金刀比羅宮」のhpを観ても分かる通り、なかなか村おこし的なというか、こんぴらさん参りの頃からリレーションされている商売感が満載です。

金刀比羅宮は、香川県 琴平町の象頭山に鎮座する神社です。

御本宮の御祭神は、大物主神と崇徳天皇です。古来から農業・殖産・医薬・海上守護の神として信仰されています。境内では、神様に奉仕する神職・巫女が一年を通して様々な祭典・神事を行っています。

御本宮の金幣、「幸福の黄色いお守り」、例大祭の「お頭人様」、書院(重要文化財)の円山応挙の障壁画、蹴鞠(県無形民俗文化財)、門前町から御本宮までの785段の石段、「こんぴら狗」などが有名です。

石段1,368段目の山中には、金刀比羅本教の教祖である厳魂彦命をお祭りする厳魂神社(奥社)が鎮座します。

Content image

宿泊した「ことひら温泉琴参閣」

Content image

 

Content image

朝早いので誰も歩いていませんが、まあ、賑やかな看板群です。

Content image

雲がよい感じ^^

Content image
Content image

冨士旅館・たこ寿司 面白い寿司屋さんなのかなと思ったら、うどん屋さんだったようですわ。

Content image
Content image
Content image

こんぴらさん表参道

Content image

敷島館という温泉宿泊施設。良さげだなあ。

Content image

少し雨模様になってきて路面が濡れています。

Content image

とらや旅館 お~この旅館も良いなあ。

Content image

参道階段を上ります。

Content image

 

Content image

 

Content image

月曜の朝早くなので人が居ませんねえ。。

Content image

 

Content image

鳥居が現れました。

Content image

参道階段が続きます。上りますよ~。

Content image

五人百姓」と書かれていますね。
五人百姓」という言葉の意味は、古くから金刀比羅宮に奉仕してきた家筋の軒の飴屋(べっこう飴)さんだけが境内で商売できることから。

Content image

大門(金刀比羅宮の総門)です。水戸光圀の兄である讃岐国高松藩主 松平頼重から寄進されました。

Content image

だいぶ上がってきました。

Content image

大門をくぐります。

Content image

桜馬場

大門から150メートル程続く石畳の道は、桜馬場と呼ばれます。春、爛漫に咲いた桜が道の両側から枝を交えるお花見の名所です。

Content image
Content image

「しあわせさん こんぴらさん」

Content image

 

Content image
Content image

金刀比羅宮 神馬舎

Content image

金刀比羅宮 四脚門(国重文)

Content image

金比羅宮 表書院

Content image

まだまだ上りますよ。

Content image

手の上に載っているのは鳥のヤマガラ。私がこの近くを撮影しているときにスマホを構えたらヤマガラが乗ってきましたよ。驚きました。この方、餌付けされてるんですね。ヤマガラは唯一、芸のできる鳥。ヤマガラについては下記に投稿したことがあります。

Content image
Content image

火雷社 火雷社のご祭神は、鎮火・消防の神さま、疫病を防ぎ止める神さまです。

Content image

 

Content image
Content image

金刀比羅宮 旭社(国重文) 元はお寺の本堂だったそうです。確かにお寺っぽいですね。

御本宮は、石段785段目、海抜251メートルに鎮座します。御本宮の御祭神は、大物主神と崇徳天皇です。古来から農業・殖産・医薬・海上守護の神として仰がれています。

御本宮の社殿の創建については分かっていません。長保3年(1001)、一條天皇が藤原實秋に勅し社殿を改築したことまでは分かっています。その後、元亀4年(1573)の改築、天正年間(1573-1592)の長曽我部元親による再営を経て、万治2年(1659)の讃岐国高松藩主 松平頼重による改築に至り、明治11年(1878)の改築で現在の社殿となりました。

 

Content image

 

Content image

金刀比羅宮 賢木門

Content image

 

Content image

あちこちに神社が点在していて、よく分かりません。

Content image

 

Content image

 

Content image

 

Content image

まだ上ります。

Content image

事知神社

Content image

金刀比羅宮 着きました~

Content image

御本宮は、石段785段目、海抜251メートルに鎮座します。御本宮の御祭神は、大物主神と崇徳天皇です。古来から農業・殖産・医薬・海上守護の神として仰がれています。

御本宮の社殿の創建については分かっていません。長保3年(1001)、一條天皇が藤原實秋に勅し社殿を改築したことまでは分かっています。その後、元亀4年(1573)の改築、天正年間(1573-1592)の長曽我部元親による再営を経て、万治2年(1659)の讃岐国高松藩主 松平頼重による改築に至り、明治11年(1878)の改築で現在の社殿となりました。

つづく~


四国旅行5 高知県・徳島県・香川県(杉の大杉・大歩危・祖谷のかずら橋)

2023-07-03 18:40:15 | ・2022.5 四国旅行記

さて、土佐神社で参拝後、北上します。12時ごろ、杉の大杉へ。たまたま通りかかったのですが、日本一の大杉ということなので寄ってみるかってなノリで。。。

Content image
Content image

八坂神社・鳥居

Content image

大杉は右の巨樹ですね。

Content image

白山神社

Content image

 

Content image

 

Content image

 

Content image

 

Content image

 

Content image

確かにデカい!

Content image

大きいですわ。

Content image

 

Content image

 

Content image

 

Content image

いや~、これがなかなか本当にすごい大杉で驚きました。屋久杉とは雰囲気が違いますが、圧倒的なパワーを感じましたね。

日本一の大杉として名高い「杉の大スギ」は、神話の時代に須佐之男命(すさのおのみこと)が植えられたと伝えられる推定樹齢3000年の巨木です。かつて美空ひばりさんがこの大杉に「日本一の歌手になれますように・・・」と願をかけ、実際日本一の歌手になった逸話は有名で、「出世杉」の異名もあります。

さて、その後、北東方向へ。徳島県内へ入り、「道の駅・大歩危(おおぼけ)」で昼食。

Content image

大歩危峡観光遊覧船の発着場所なんですが、肉うどん・・・残念だったな。。。

Content image

 

Content image

大歩危(おおぼけ)は、吉野川中流域に位置する渓谷(先行谷)。吉野川西岸の徳島県三好市山城町西宇地区の歩危茶屋付近から高知県長岡郡大豊町大久保地区の一部までと、その対岸となる徳島県三好市西祖谷山村の一部を指す総称でもある。峡谷そのものを指す場合は大歩危峡(おおぼけきょう)と呼ばれることが多い。

一般には「大股で歩くと危険」が「大歩危」の地名由来とされているが、本来「歩危(ほき、ほけ)」は山腹や渓流に臨んだ断崖を意味する古語である[2]

大歩危 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』最終更新 2022年9月9日 (金) 09:29

この渓谷は、百年以上の歴史がある大歩危峡遊覧船で知られているみたいだけど、そんなにインパクトは無かったかな。その後、更に近くの「祖谷のかずら橋」へ。

Content image
Content image

これですね。吊り橋は。

Content image

 

Content image

 

Content image
Content image

 

Content image

いや~、これがけっこう怖いんですよ。揺れる揺れる(笑)って笑っていられないくらい。

Content image

無事に渡り切りました。

「そや」と読むのかと思ったら「いや」なんですよ。

祖谷(いや)のかずら橋(国指定重要有形民俗文化財)

冬場の厳寒な山野で採取した自生の「シラクチカズラ」を編み連ねて創られるかずら橋は、当時の人々には大切な生活路として祖谷川各所に架けられていたそうですが、今では西祖谷山村の「祖谷のかずら橋」 と東祖谷の「奥祖谷二重かずら橋」を残すのみとなっています。
かずら橋の由来は、祖谷に巡行された弘法大師が困っている村人の為に作ったという説や、追っ手から逃れる平家の落人が楽に切り落とせるようシラクチカズラで作ったという説等諸説が残っています。

長さ45m・幅2m・水面上14m。 (国指定重要有形民俗文化財)
住所:三好市西祖谷山村善徳162-2 料金:大人:550円 小人:350円 時間:日の出~日没、年中無休

Content image
Content image
Content image
Content image

琵琶の滝

昔、平家落人が京の都をしのび、この滝で琵琶をかなで、つれづれを慰めあっていたことから名付けられたと言い伝えられている高さ約40mの滝。

Content image

14;40 その後、直接、今夜のお宿、金毘羅温泉に向かいました。「こんぴらさん」って有名だから昔から温泉が湧いているのかと思ったら、掘削を行い温泉を掘り当て、1997年以降に温泉地としての整備が開始されたそうですよ。で、毎年1月に「こんぴら温泉まつり」と銘打った催しを行っているとのこと。

Content image

大きなホテルでしたよ。迷いそうでした。

Content image

 

16:00 いや~でっかいホテルだわ。どこかから修学旅行も来ていたし。某サイトで綺麗で安ったから予約していたんだけど・・・。会社の団体旅行を思い出しちゃいました。もう少しアットホームな旅館っぽい方が堅苦しくなくていいな。。でも綺麗なホテルでした。

コロナ禍でしたから、でっかい宴会場に点々とテーブルが並んでましたよ。この日もお疲れで早めの就寝。さて明日はいよいよ最終日です。お料理は美味しかったと記憶してます。


四国旅行4 高知県(土佐神社)

2023-07-03 18:29:18 | ・2022.5 四国旅行記

沈下橋を見学後、高知市内へ戻る途中に土佐二宮の神社、小村神社があったので参拝しました。

Content image
Content image

拝殿

Content image

本殿

Content image
Content image

本殿裏のご神木 樹齢千年。

小村神社(おむらじんじゃ)は、高知県高岡郡日高村下分にある神社国史見在社土佐国二宮で、旧社格県社

祭神は次の1柱[1]

国常立命(くにとこたちのみこと)

国宝金銅荘環頭大刀神体とし、『南路志』にも「神体剣」と見える[2]中世における本地仏大日如来であった[3]。社伝では用明天皇2年(587年)の創建とするが、詳細は不明[3]。祭神の設定は後世のものとして、神体の金銅荘環頭大刀が原始の信仰対象であったとする説もある[6]。以上のように諸説があり創建は不詳であるが、立地的には仁淀川水系を押さえた古代の有力豪族が祭祀した神社になる[7]

小村神社 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』最終更新 2022年9月15日 (木) 06:30

 

その後、高知市内へ戻り、9時半ごろ、土佐神社を参拝。

Content image

 

Content image

土佐神社 楼門(神光門) 1631年建立(国重文)かつての善楽寺の仁王門。門の奥には300m続く参道。

Content image
Content image
Content image

拝殿 1570年再建(国重文)

Content image

拝殿の前方の拝の出。すごい空間です。

Content image
Content image
Content image

 

 

Content image

奥は幣殿 その奥に本殿

Content image

 

Content image

 

Content image

 

Content image

 

Content image

摂社の3社の鳥居

Content image

右側・・・本殿 1570年(国重文)

左側・・・摂社の3社 (左から)事代主神社・西御前社・大国主神社。

Content image

大杉

Content image

 

Content image

礫石(つぶていし) - 境内東北方にある畳2畳程の自然石。土左大神が鎮座地を定めるにあたり投げた石と伝える[3]。古くはこの礫石を磐座として祭祀が行われたとする説がある[10]土佐神社 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』最終更新 2022年9月15日 (木) 06:23 

Content image
Content image

境内社・厳島神社

Content image

鼓楼 

1649年建立 (国重文) 神仏習合時代、 土佐神社は、四国八十八ヶ所・第30番札所の善楽寺と神仏習合の形態をとっていました。

Content image

境内風景

Content image

境内風景

Content image

脇の駐車場から入ってしまったのですが、楼門(神光門)の前には300m続く参道がありました。

土佐神社(とさじんじゃ)は、高知県高知市一宮(いっく)しなねにある神社式内社(大社)土佐国一宮旧社格国幣中社で、現在は神社本庁別表神社

高知市北東部、南国市へと通じる逢坂越えの西麓に鎮座する[1]。『日本書紀』や『土佐国風土記』(逸文)の記述で知られるように古代から祀られた古社で、中世・近世には土佐国の総鎮守として崇敬された高知県を代表する神社である。

代々の領主は土佐神社に対して崇敬が篤く、現在の主要社殿は戦国大名長宗我部元親による造営、楼門(神光門)・鼓楼は土佐藩第2代藩主の山内忠義による造営で、いずれも国の重要文化財に指定されている。また祭事としては土佐三大祭[注 1]の1つとして知られる例祭志那禰祭(しなねまつり)」が古代から続き、神宝としては鰐口能面銅鏡等を伝世している。

現在の社名「土佐神社」は明治の改称によるもので、それ以前の史料では次のように表記される[2]

土左大神 - 『日本書紀[原 1][原 2]、『土佐国風土記』逸文[原 3]

土左高賀茂大社 - 『土佐国風土記』逸文[原 4]

都佐坐神社 - 『延喜式神名帳[原 5]

都佐坐神 - 『日本三代実録[原 6]

高賀茂神 - 『長寛勘文

中世近世には一般に「高賀茂大明神」と称されており、一部には「一宮大明神」とする史料も見られる[2]。この「一宮」は土佐神社が土佐国の一宮であったことに由来するもので、土佐神社周辺の地名に現在も使用されるが、土佐では「いっく」と読まれる。

明治4年(1871年)、国幣中社に列するに際し社名を「土佐神社」と改称した[2]地元では「しなねさま(志那禰様)」とも称されている。

祭神は次の2柱[3]

味鋤高彦根神(あじすきたかひこねのかみ)

神名を『古事記』では「阿遅鉏高日子根神」、『日本書紀』では「味耜高彦根神」とする。特に『古事記』では大国主命多紀理毘賣命の間の子とし、別称を「迦毛大御神(かものおおみかみ)」とする[2]都佐国造の祖神とされる[4]

一言主神(ひとことぬしのかみ)

神名を『古事記』では「葛城之一言主大神」、『日本書紀』では「一事主神」とする。両書でいずれも雄略天皇段に登場する神で、特に『古事記』では悪事・善事も一言で言い放つ託宣の神とするが、系譜は不詳。

この一言主神は大和葛城地方(現・奈良県御所市周辺)において巫覡を事とした集団に関わる神といわれ、事代主命と同神とする説もある[1]。なお『先代旧事本紀』では、素戔烏尊の子とする[2]

中世における祭神の本地仏阿弥陀如来[5]。後述のように、古くから祭神として味鋤高彦根説・一言主説が存在するが、現在は上記のように両説を採り祭神2柱としている。

土佐神社の祭神は、古くは『日本書紀天武天皇4年(675年)条[原 1]朱鳥元年(686年)条[原 2]「土左大神」として、地方神としては珍しく「大神」の称号を付して記載された[1][6]

歴史的には在地豪族の都佐国造が土左大神の原始祭祀を行なったが、賀茂氏進出に伴いその祭祀権は賀茂氏に移ったとされる[1]

一宮周辺含め都佐国造の領域(高知県中部・東部)では、古墳時代後期(6世紀-7世紀代)の多くの古墳の分布が知られる。

なお、土佐神社境内の東北辺に祀られている「礫石(つぶていし)」に関して、古くはこれを磐座として祭祀が行われたとする説がある[10]。そのほか、土佐神社付近にも古墳2基(一宮古墳群)があったことが知られる[14]
 

土佐神社 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』最終更新 2022年9月15日 (木) 06:23 

う~む・・・かなり古い神社です。

ここの祭神の一柱の一言主神の茨城の神社、一言主神神社へはかつて参ったことがあります。

 


四国旅行3 高知県(桂浜・高知市内・沈下橋)

2023-07-03 18:26:28 | ・2022.5 四国旅行記
Content image

内子町観光後、高知・桂浜を目指して走ります。国道379号線から国道380号線へ。13;30 途中、中黒岩「道の駅みかわ」で軽く昼食後、ひたすら走り続けて仁淀川へ出ました。しばらく走ると待望の高知県に入りました。高知県へ入るには初めてなんですよ。これで一都一道二府四十三県制覇!(笑)

Content image

さらにひたすら走ります。高知県内に入ると、国道33号線へ。途中グーグルナビ先生に翻弄(笑)されながら、仁淀川河口から太平洋に面した海沿いの道路を東へ。遂に15時半ごろ「桂浜」に到着。いや~八幡浜やら四万十経由などとんでもない、もし、そっちのルートを選らんでいたらの車中泊だったな(笑)。この日の走行距離は179キロ。大した観光地にも寄らないから300キロくらい走れるだろうと思ったのが甘かった。北海道のようにはいきませんな。内子町で土産屋の店主に聞いて判断して正解でしたわ。

「桂浜公園駐車場」に駐車して、桂浜を散策しました。

Content image

坂本龍馬像・正面
思いっきり逆行です(笑)。ダイヤモンド坂本龍馬像(笑)。

Content image

坂本龍馬像・背面

昭和3年5月27日午後2時,除幕式を行い姿を現した龍馬像。和服姿に懐手,ブーツ姿の龍馬は,はるか太平洋の彼方を見つめています。像の高さは5.3m,台座を含めた総高は13.5m。

Content image

浜へ降りてみます。

Content image
Content image

お~、桂浜!!って感じですね。絵になります。

Content image
Content image
Content image

桂浜(かつらはま)は、高知県高知市浦戸に位置し太平洋に臨む海岸土佐民謡よさこい節」にも詠われ、そして太平洋を望んで立つ坂本龍馬の銅像がある浜辺は、高知を代表する名所の一つとして知られる。四国八十八景26番。

龍王岬(下龍頭岬)には竜王宮があり鳥居が立っている。桂浜の近くには、1591年天正19年)長宗我部元親が北側の丘陵部に浦戸城を築き、一時この地が岡豊城に代わって土佐の中心地になった時期もあった。しかし、初代土佐藩主として土佐入りした山内一豊がこの地では手狭であると感じ、1603年慶長8年)高知城を築いて移ったため浦戸城は廃城となった。現在は、坂本龍馬記念館桂浜水族館・大町桂月記念碑などの文学碑等がある。坂本龍馬像は高知県の青年有志の募金活動により1928年5月に完成したものである[4]

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』最終更新 2022年6月19日 (日) 00:14

Content image

岬へ続く橋を渡ります。

Content image

海津見神社(竜王宮)
ご祭神;大綿津見神
江戸時代には勝浦浜村が独立していたが、いつの頃よりカツウラがカツラと転化し、月の名所であることから、月に生えると言われる桂の字が当てられ、桂浜となりました。

Content image

神社の更に上に展望台があります。

Content image

須崎方面

Content image

三羽の蝶がひらひらと舞っていたのが印象的でした。良い眺めです。

Content image

南方面

龍王宮(海津見神社) 龍王岬展望台

桂浜の南端、竜王岬(下竜頭岬)の岩場突端に鎮座する小さな社。大海津見神(おおわたつみのかみ)を祀り、漁師の妻が、夫の航海安全と大漁祈願する社です。その昔、夫が漁に出ると、妻たちは誘い合い、竜王宮の前で酒を酌み交わしたといわれています。

https://ameblo.jp/sakurazaka128/image-12290317696-13981195748.html様参照

その後、高知駅近くのビジネスホテルへ17時到着。

Content image

今夜のお宿・ホテルファースト

ホテルに着いて早々にホテル裏手に神社が鎮座していたので参拝。

Content image

鳥居の正面に神馬

Content image
Content image

高知八幡宮・拝殿 丸いのは土俵でしょうね。

Content image

包丁塚

Content image
Content image

恵美須神社

Content image

なんか憎めない可愛い寅さんですね。

Content image

 

Content image

隣接する神明宮

Content image

隣接する子守神社

高知八幡宮 歴史は鎌倉時代まで遡ります。明治の世になるまで、実は高知城(大高坂山)に在りました。高知八幡宮が明治四年八月十二日に高知城内大高坂山から現在の鎮座地(旧 山田町 現 はりまや町三丁目)へ遷座されてより、皇紀二千六百八十一年、令和三年、西暦二千二十一年を以て百五十年の佳節となります。

さ~て、ホテルで飲食割引の地図をくれたので、それを頼りに晩御飯を食べに中心街方面へ。土曜日でしたがコロナの影響で人も少なかったですね。

Content image

 

Content image

単品であれこれ頼むより御前を頼んだ方が安上がりだろうということで土佐御前を^^

Content image

なんて貝だったかな。。。美味しかった^^

Content image

瀧嵐 日本酒 あっさりしていて美味しかったですよ。

Content image

予想通り、それ以上に美味しかったですわ。カツオのたたきは塩とみょうがと生にんにくで頂きます。部屋にはカラオケが置いてあって、かつては宴会場だったのでしょうね。

Content image

割烹旅館おおりや 

リーズナブルだったし、コロナ前ならこの辺りの繁華街も相当賑わっていたんだろうなあ。土曜日でしたが人もまばらでしたね。20時ごろ宿に戻って早めに就寝。

Content image
Content image

ホテルの北を流れる江ノ口川

さて、翌日は8時にホテルを出発。四万十(厳密には四万十市と四万十町がある)に行きたかったのは綺麗な水の流れが見たかったのと、もう一つ、「沈下橋」も見たかったからでした。で、調べたら高知市内から西に流れる仁淀川にあるじゃないですか!これは行かなければ・・・ということで、まずは西方向へ。

ん?なんかやってる???ちょっとクルマを停めて歩いてみました。

Content image
Content image
Content image
Content image
Content image
Content image

日曜市

日曜日だったので朝市が出ていましたね。車を停めて少し歩いてみましたが、まあ、いろんなものを売っていました。すごく長い距離で驚きましたわ。調べたら結構歴史もあるんですね。

元禄3年(1690年)以来,300年以上の歴史を持つ土佐の日曜市。年始(1月1・2日)とよさこい祭り期間(8月10~12日)を除く毎週日曜日開催されています。午前6時頃から午後3時頃まで,高知のお城下追手筋において,全長約1kmにわたり,約300店が軒を並べています。新鮮な野菜や果物はもちろん,金物,打ち刃物,植木なども売られており,市民と県外からの観光客などもあわせると1日に約17000人が訪れる生活市です。

Content image

高知城が見えています(先を急ぐので高知城はパス)。

Content image
Content image

土佐電交通・路面電車ですよ。路面電車って響きがいいですよね~。

9時ごろ、旧加田キャンプ場を通り「名越屋沈下橋」へ。ちょうど高知仁淀ブルーライドというサイクリング大会が行われていたので係りの方にいろいろと伺いました。台風の時期などに年に数回沈下するようです。景色が一変するんでしょうね。そんな風景も見てみたいなあ。

Content image

おー!確かに沈下橋だ。

Content image

 

Content image

 

Content image

水の流れが透き通っていましたよ。

Content image
Content image

「名越屋沈下橋」
現在も住民の生活道として利用されており、仁淀川にある最下流の全長191mの沈下橋。

ところで沈下橋とは・・・高知県だけかと思ったらあちこちに・・。そういえば埼玉県坂戸市で観たことがあったのを思い出しました。

沈下橋(ちんかばし、ちんかきょう)は、河川を渡るの一種である。堤外地に設けられる橋で洪水時には橋面が水面下になる橋をいう[1]1999年高知県による調査によれば全国の一級河川及び支流には合計410か所の沈下橋があり、都道府県別に見ると、高知県(69か所)大分県(68か所)、徳島県(56か所)、宮崎県(42か所)の順で多い[10]。一級水系以外も含めると、大分県では、合計212か所の沈下橋が確認されている(2007年8月6日現在)[11]出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』最終更新 2022年9月3日 (土) 21:53