~風に吹かれて~ by ポー(paw)

-人の中に 人の創り出した物の中に 動植物の中に 地球や宇宙の中に 魂の琴線にふれ 愛を感じながら 生き込みたい-

広島・尾道

2016-09-30 10:43:54 | ・旅・山

2016.9.21~24 社用絡みで広島方面へ行ってきました。5名乗車アルファードで往復1800km(笑

倉敷から、一路、尾道へ。

何処へ行っていいのか良く解らないままに、千光寺公園へ。

 

千光寺(せんこうじ)

広島県尾道市東土堂町の千光寺公園内にある真言宗系の単立寺院。山号は大宝山(たいほうざん)。

本尊は千手観音。

中国三十三観音第十番札所、山陽花の寺二十四か寺第二十番札所である。

寺伝によれば大同元年(806年)に創建され、源満仲(多田満仲)によって再興。

戦国時代には備後国御調郡木梨村木梨城主の杉原元恒がこの地に出城を築いている。

境内からは尾道の市街地と瀬戸内海の尾道水道、向島等が一望でき、ここから取られた写真がよく観光案内などに使用されている。

by wikipedia

ここからロープウェイに乗って山上へ。 

   

雨は降っていませんでしたが、まーこんな天気でした。瀬戸内海の尾道の島々が一望できます。

 

往復のチケットを買いましたが、下りは歩いて降りました。 

      

三十三観音堂

西国観音霊場のご本尊三十三体がまつられており、このお堂にお参りすると霊場をお参りしたと同じ功徳があると伝えらえています。

正面の数珠は幸せを念じながら回すと、その音により煩悩を打ち消して観音さまのお慈悲が頂けるのです。(パンレットより)

 

数珠を回しながらお参りしました。回すと、数珠がコツンコツンと良い音を立て、手に何とも言えない良い振動が伝わりましたよ。  

天寧寺〔曹洞宗〕

開山は普明国師と言われています。境内山手には貞治6年(1367)に足利義詮が建立した国重文の塔婆(海雲塔)があり、

この塔越しに見る風景は尾道を代表する風景としてたびたび登場します。なお現在は三重塔ですが、建築当時は五重塔であったと

伝えられています。

絵になりますね^^

 

尾道のアーケード商店街

祝日の国旗がたくさん。こんな風景は東京では在り得ないですね。

尾道ラーメン 朱華園(しゅうかえん)

14時過ぎでしたが、それでも行列^^; 並びましたよ。でも15分位で入れましたよ。見た目よりもあっさり感。美味しかったです。

その後、西隣の三原市へ。みはらし温泉、センターホテル三原、焼き肉・・・・・・。の後、居酒屋へ。

居酒屋なごみ 2号店

広島カープ優勝で盛り上がったんでしょうねー。 

23日朝~ホテル前より。三原港方面 


倉敷美観地区

2016-09-29 08:21:58 | ・旅・山

2016.9.21~24 社用絡みで広島方面へ行ってきました。5名乗車アルファードで往復1800km(笑

9/21・20時東京出発、第二東名経由で9/22・01時半ごろ、彦根IC先の多賀SA着。多賀SA・レストイン多賀で入浴&仮眠

入浴+休憩で850円。休憩室は、個々に仕切りがあって、上から見えると??^^;と思うけど、寝てしまえばプライベート感覚は

あります。耳栓&アイマスクで(笑)3時間バッチリ眠れました^^

10時頃、倉敷美観地区に着きました。

残念ながら結構な雨模様・・・^^;

 

倉敷川畔伝統的建造物群保存地区

江戸時代初期の寛永19年(1642年)、江戸幕府の天領に定められた際に倉敷代官所が当地区に設けられ、以来備中国南部の

物資の集散地として発展した歴史を持つ。倉敷川の畔から鶴形山南側の街道一帯に白壁なまこ壁の屋敷や蔵が並び、天領時代の

町並みをよく残している。1969年に倉敷市の条例に基づき美観地区に定められ、1979年(昭和54年)に県内2件目の

重要伝統的建造物群保存地区として選定された。

また、1930年(昭和5年)に建てられた日本最初の西洋美術館大原美術館や1888年(明治21年)に代官所跡地に建てられた

旧倉敷紡績工場の建物を改修・再利用した観光施設倉敷アイビースクエア等も当地区を代表する建築物である。by wikipedia

良い町並みです。

雨模様で人も少なく良い風情でした。濡れた街もシットリしていて良いです。でも、如何せん雨が結構降っていて、

デニム生地や小物のお土産屋さんもたくさんありましたが、倉敷アイビースクエアに駐車して、高砂橋~大原美術館辺りまで

ブラブラしただけで尾道方面へ向かいました。 

近くにワンコがたくさん居ましたよ(笑

入浴+休憩で850円^^

朝から豚骨醤油味の津山ラーメン(笑 ラーメン三昧の旅になったのでした。


小楢山4(乙女高原の植物)

2016-09-26 13:27:01 | ・植物

2016.9.17 小楢山へ行ってきました。

その後、乙女高原へ。シカ柵に見られる植物が貼ってありました。

シシウドの実

アキノキリンソウ

イタドリ?

乙女高原

山梨県にあり、秩父山地の南西部にある高原。標高は1,700m。シラカバ、ダケカンバ、ミズナラ、ブナなどが植生する

亜高山帯にあり、高茎草原となっている。初夏にはレンゲツツジやアヤメなどの花が咲く。

冬季は、1951年1月20日に開設され2000年3月に閉鎖された山梨県営の乙女高原スキー場となっていた。スキー場閉鎖後は、

春夏秋に見られる草原としての姿を維持しようという運動が行われている。by wikipedia

しっかりとシカ柵で保護されていました。http://fruits.jp/~otomefc/rekisi.html

マツムシソウ

ノコギリソウ

葉っぱがギザギザでノコギリみたいだから?

ワレモコウ

これでお花なんですねー。

タムラソウ

アザミそっくり。でも葉っぱが違いますね。小楢山でも見かけました。

タチフウロ?

う~ん???キクの仲間(笑

とても良い高原でしたよ。とても大事に大切にされていました。

ヤマハギ?

帰りの道路で。ヤマハギがスゴイ元気に枝垂れていました。fin


小楢山2(植物風景)

2016-09-24 22:00:34 | ・植物

2016.9.17 小楢山へ行ってきました。

焼山峠~小楢山の植物たちです。

鳥は、ホシガラス、ゴジュウカラ、ヤマガラ、シジュウカラなどを目撃しました。

ゲンノショウコ

シロヨメナ??

ツリフネソウ

ウスユキソウ

たくさん咲いていました。

アキノキリンソウ

こちらもたくさん咲いていました。

う~ん・・ノコンギク??

ヤマラッキョ

う~ん・・・分かりません。。。 シモツケソウ?


山梨・小楢山1(トレッキング風景)

2016-09-21 12:45:54 | ・旅・山

2016.9.17 小楢山へ行ってきました。

勝沼インター~塩山駅前~恵林寺脇~牧丘ネイチャークラブ(笑)脇~林道川上牧丘線~焼山峠(標高1527m)9:30頃着。

焼山峠の子授地蔵

江戸中期の頃、焼山峠の麓でごん鉢など生活用具を作る木地師がいた。この夫婦が仕事をしていると峠付近で子供の泣く声が
聞こえたのでそこへ行って見ると子供の様な石地蔵らしきものがあった。夫婦は子供がいなかったので不思議に思い、石地蔵を
人目につかぬようこっそりと自宅に持ち帰り、何日もお水や果物をささげ、朝な夕なにお参りをしていた。
すると、不思議なことにその夫婦に子供が授かり、お礼に石地蔵を一体添えてお返ししたのが、子授け地蔵様のいわれとなり、
口伝えに広がったもので、現在も新しいお地蔵様が数多く見られ、最近でも恩恵にあずかった県内外のご夫婦が多いといわれている。
http://www.city.yamanashi.yamanashi.jp/sight/attract/history/others/kosaduke.html

ちょうど、お参りに来られていたご夫婦にお話を聞きました。ここの子授地蔵様のおかげで、一人息子さんを授かったそうです。

では小楢山へ(出逢った植物他は後ほど投稿)

 

登ったり

下ったり

登りは勾配のキツイ新道を登りました。

登り切ると、妙な形の石が・・・

横から・・・薄い!

正面から・・丸い!

「的石」

日本武尊が「幕岩」からこの石を標的に弓を射たのが名前の由来と云われています。

丸くて、薄くて・・・存在感ありますね。

11:30 小楢山山頂(1713m)です。ずっと森の中を歩き、一気に目の前が開けます。

鎌倉時代から室町時代にかけての高僧・夢窓国師の修行の地といわれています。

良い展望ですねー。甲府盆地を下に、正面にちらりと見えているのが富士山のアタマです。

ここで昼食。雨模様も覚悟していましたが富士山も拝めて良かったです。

昼食後、更に「幕岩」へ。

びえっ・・・まさかの鎖場^^;

鎖場上

いや~、ピースサインしてますが、なかなか恐かったですわ。

ここから降ります。さすがに後ろ向きでないと降りられません。

ちょっと登山初心者の中老年にはキツかったです。幕岩上でも降りるのが気になって落ち着かず(笑

13:30 下から見上げる幕岩

何だか人の顔のようです。ホホホホホ・・「どうだ、怖かっただろう」みたいな?(笑

久しぶりに「アドレナリン」の噴出を体感しました(笑)噴出後は、シャッキとするなあ。バンジーしてみるかな(ウソ)

帰りは、幕岩から小楢峠、一杯水、旧道を通って下山しました。

小楢峠付近にあった石群。かなり大きな石が割れています。割れた真ん中の石が残って「的石」になったのでしょうね。

それにしても、なぜこんなに同じような割れ石があるんでしょうね。

「花崗岩・・・マグマが地下でゆっくり固まってできたもの。石英・黒雲母・長石などが主成分。花崗岩は、墓石・建物の

外壁等によく使われる。3方向に直交する割れ目ができる性質を持つこの花崗岩は、その性質を利用し、機械のなかった

昔から切り出すことができた。」

ふ~む・・・地上に現れた花崗岩が、風化で丸くなって、割れ目のできる性質で、こんなになったという事ですかね。

的石も幕岩も。。。

15:20 子授地蔵まで降りてきました。

斜光を受けて、とても表情のあるお地蔵さん

その後、乙女高原まで行って、鼓川温泉に寄って帰りました。 


尾崎神社(川越)/牛沼神明神社(所沢)

2016-09-20 08:30:54 | ・神社・お寺

2016.9 前から気になっていた尾崎神社へ行ってみました。

大きな樹木も多く、参道も長く、良い空気・空間でしたよ。

尾崎神社

日本武尊東征の折、台地はずれの見晴らしのよい所ゆえ尾崎の宮と称えて二神を祀ったと伝えている。

元正天皇の霊亀二年(七一六年)に武蔵の国に高麗郡の設置により帰化人の持つ高い大陸文化が高麗から川越・江戸と

伝わっていった古代の高麗街道沿いに鎮座せる当社は、鎌倉・室町・江戸の各時代より厚い信仰を集めている。

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2016.9 こちらも気になっていた神社で、参拝してきました。

こちらも緑に囲まれた最奥に境内が広がり、良い空気・空間でした。

牛沼神明神社(所沢)

江戸時代末期に親村の所沢神明社から分社して創建、明治41年に字稲荷山の下原稲荷神社を合祀。


東伏見稲荷神社

2016-09-19 07:39:24 | ・神社・お寺

2016.9 いつも近くを通るのですが寄ったことが無かったので参拝してきました。

拝殿右側にはお塚参道

東伏見稲荷神社
東京都西東京市に鎮座する神社である。
京都の伏見稲荷大社の分霊を勧請して創建された。
なお、東伏見という地名はこの神社が出来てからついた地名で、それにあわせて西武新宿線の駅名も
上保谷から東伏見に変更された。

伏見稲荷大社の祭神の中から、宇迦御魂大神、佐田彦大神、大宮能売大神の3柱を勧請し、この3座を
「東伏見稲荷大神」と総称している。

関東地方の稲荷神を信仰する信者たちの希望により、昭和4年(1929年)に稲荷神の総本社である伏見稲荷大社から
分霊を勧請して創建された。
勧請の新しさからか、規模は大きいが近代社格制度下で社格が与えられることはなかった(旧無格社)。
朱色の社殿が境内の緑に映えて美しく、新東京百景の一つに選ばれている。by wikipedia


椿山荘

2016-09-14 17:41:42 | ・ショートトリップ

椿山荘

・武蔵野台地の東縁部にあたる関口台地に位置し神田川に面したこの地は、南北朝時代から椿が自生する景勝地だったため
「つばきやま」と呼ばれていた。江戸時代は久留里藩黒田氏の下屋敷だった。

・山縣有朋は西南戦争の功により年金740円を与えられ、1878年(明治11年)に購入、自分の屋敷として「椿山荘」と命名した。

・1918年(大正7年)には大阪を本拠とする藤田財閥の二代目当主藤田平太郎男爵がこれを譲り受け、東京での別邸とした。

・1948年(昭和23年)に藤田興業の所有地となり、その後1万余の樹木が移植される。

・1952年(昭和27年)より結婚式場として営業を開始した。

・1992年(平成4年)に、敷地内にフォーシーズンズホテル椿山荘東京が開業した。

・2006年(平成18年)5月には藤田観光の本社が敷地内に移転している。

庭園は一般公開されており、椿や桜など植物、史跡等を鑑賞できる。庭園の頂上に建つ三重塔は、広島県賀茂郡入野(現東広島市)の
竹林寺にあったものを藤田平太郎が1925年(大正14年)に譲り受け、椿山荘に移築したもので、繰形の特徴などから室町時代末期の
ものと推定されており、国の登録有形文化財に登録されている。by wikipedia


富士宮・浅間神社巡り4(村山浅間神社)

2016-09-04 10:07:14 | ・神社・お寺

2016.8.27 「富士山本宮浅間大社」「富知神社」「山宮浅間神社」と参拝し、その後、「村山浅間神社」へ。

こちらにも富士山世界文化遺産観光ガイドボランティアの方がおられましたが、時間があまりなくて遠慮しました。

「村山浅間神社」参道

 

「村山浅間神社」拝殿

村山浅間神社は、明治の初めまで京都の聖護院を本寺とする修験道の拠点で、「富士山興法寺」と称し、富士修験の中心地であった。

当時の村山の集落は、興法寺の別当である村山三坊の法印を中心に、三坊に属する山伏や門前百姓んどからなる修験集落で、

東西の入口には見付(木戸)が設けられ、集落への出入りが制限されていたという。

明治には、神仏分離令を受けて興法寺は廃され、大日堂と浅間神社は分離された。(パンフより)

拝殿右側には、高嶺総鎮守社「氏神社」

元村山地区の氏神様のようです。時間がなくて行けなかったのですが何か気になる・・・。次回は参拝したいと思います。

境内には銀杏の巨樹が。

推定樹齢300年以上との事ですが、もっと高齢のような気がします。

気根の発達が著しいのが特徴で、総数約70。最大のものは直径30cm、長さ2mに達すると。

この気根を乳房に見立て、母乳の出を願う慣習が各地にあるそうで、この銀杏もそうだったのでしょうね。

境内には他にも巨樹がたくさん。

樹齢1000年の大杉

中心部に長さ8mに及ぶ空洞があるらしく、下部の大枝は支柱で支えられていますが、威風堂々!

赤い祠が印象的です。

浅間神社左側の「富士山興法寺大日堂」

701年「役ノ小角」が勅命により富士山中水精ケ岳より、浅間神社を現在地に奉還された時に建立し、富士山仏化の拠点としたのが

始まりで、久安年中に至り、高僧「末代上人」が村山修験を確立し、大日如来を祭り、登頂活動の拠点とした。京都聖護院の直系寺で

あった。こちら様のブログで大日如来像が見られます。 http://ameblo.jp/yuki8low/entry-11801498449.html

水垢離場

山伏修行(修験者)や富士登拝の道者が垢離をとって身を浄めた所。境内の中段に、間口約6.5m・奥行き約4mの長方形、

深さ約0.6mに掘り込み、底に石を敷きつめ、周囲は石積みとなっている。水の落ち口には山伏修行のときの主尊とされる

不動明王の石像が安置されている。 

護摩壇

大日堂東側にあり、正面奥に不動明王石像が祀られている。 一辺5.3mの四囲の石組の中に、丸い石組の護摩壇がある。

護摩壇の前には、「于時安政四年九月」の年号と造立者銘が刻まれた石があり、安政四年(1857)に龍宝院などの村山下修験によって

造立されたと推定される。 古絵図から、かつて大棟梁権現社の拝殿にあたる部分と推定される。

というわけで 神仏分離前を垣間見せる神社でした。富士山には神様も仏様も居られるのですね。

富士参詣曼陀羅 垂迹画
[年代] 江戸時代
[作者] 不詳
[所蔵] 富士山本宮浅間大社蔵
[解説] 富士参詣曼陀羅 垂迹画:神仏習合

此の図は、一番下には駿河湾・田子の浦・清見寺がみえる。中間には浅間本宮・中宮社・涌玉池・大日堂が描かれている。

山頂の三峯に座る本地仏は向かって右より菩薩・阿弥陀如来・薬師如来の三尊である。

おわり~


富士宮・浅間神社巡り3(山宮浅間神社)

2016-09-02 12:44:36 | ・神社・お寺

2016.8.27 「富士山本宮浅間大社」「富知神社」の続きです。

その後、富士山本宮浅間大社の北東6km先に鎮座する「山宮浅間神社」へ向かいました。

神社に着くと、世界遺産ボランティアの方がおられて案内・説明していただきましたよ。

山宮浅間神社

富士山本宮浅間大社の創建以前に富士信仰の大神が最初に奉斎された場所で、大神が現在の浅間大社に遷されたのち

「山宮」として関わった神社。

日本武尊が景行天皇3年(西暦74年)に、富士の神の神霊を山足の地から山宮に祀ったのが創始と伝えられています。

参道

社務所(籠屋)

山宮浅間神社で祭儀を執り行った大宮司以下の神職や社僧が一夜参籠した所。 現在の籠屋(社務所)は昭和8年に建てられたもので、

それ以前の籠屋の実態は不明。祭儀の際に仮屋が建てられた可能性もあるとの事。

社務所(籠屋)をくぐり更に奥へ。

遥拝所へは50段の石段を上りますが、ここは約2000年前に噴火して流れ出た「青沢溶岩流」と呼ばれる溶岩の末端部。

遥拝所の周辺約45m四方が石塁により方形に区切られていて、青沢溶岩流の溶岩塊上に溶岩礫を積み上げて構築されています。

石塁下から祭祀に用いられたと思われる土師器が出土しているため、それらが用いられた12世紀~15世紀、もしくは後の時代に

築造されたものと推定される。

この石は、「鉾立石」

籠屋(社務所)をくぐり遥拝所へ続く参道に、「山宮御神幸」で神の宿った鉾(諸刃の剣状の刃物に長い柄を付けたもの)

休めるための石が置かれている。 石は火山弾であり、籠屋をくぐってすぐの位置に1つ、石段の手前に1つの計2つが置かれている。

人が休憩するときにも、鉾を石の上に置いて休んだそうです。

参道の階段の上の「遥拝所」

「山宮浅間神社」には拝殿も本殿もありません。「富士宮の昔話と伝説」によると、何度本殿を建てようとしても、そのたびに大風が

吹いて倒されたり被害を受けたりしました。その後、山宮浅間神社に本殿を造ろうとすると嵐の神の祟りがあるので、本殿を造っては

いけないと云われるようになったそうです。

この日は富士山が拝めませんでしたが、この開けた森の奥にちょうど富士山が見えるようです。

富士山が拝めれば良かったんですけどね。

でも、とても原始的であり神聖な空気が充満していて、良い時間を過ごせました。感謝感謝^^