~風に吹かれて~ by ポー(paw)

-人の中に 人の創り出した物の中に 動植物の中に 地球や宇宙の中に 魂の琴線にふれ 愛を感じながら 生き込みたい-

九州3(佐賀・武雄神社/樹齢3000年大楠)

2017-09-29 06:26:36 | ・旅・山

2017.9.8~11 親友と二人でオヤジ軍団九州旅行(佐賀~長崎~大分~福岡)へ行きました。

9.9 波佐見を出発して、佐賀・武雄神社へ参拝に行きました。向かいの武雄市図書館にクルマを停めて参りましたよ。

「心字池」

心字池にかかる橋を渡ると「二ノ鳥居」
寛文12年(西暦1672年)に藤原頼続によって肥前鳥居と神明鳥居の折衷型の鳥居が建立。

階段を上がると右手に「夫婦檜(むすびの樹)」

当社の御祭神である仲哀天皇・神功皇后の御神威によって、2本の檜が根元で結ばれ、樹の中ほどで再び枝が合着したと
云われている。仲睦まじく立っているその姿から根元は夫婦和合を、繋がった枝は様々な縁を繋ぐ縁結びの象徴として
信仰を集めている。男女の縁に限らず、人との縁、仕事との縁、お金との縁など、人それぞれに願いは様々である。
また、雌木の中ほどに見られる宿木は、応神天皇を懐胎しながらも、三韓征伐で勇ましく戦った神功皇后の、安産、子授けの
御神徳の現れであるとされている。http://takeo-jinjya.jp/keidai/keidai1/ より。

拝殿方向へ。まるで城壁のような高い石垣が圧倒します。神社でこんな石垣は見たことないですねー。

石垣の間の階段を上ります。

肥前鳥居(三ノ鳥居)《市指定重要文化財》

元和3年(西暦1617年)武雄領主21代の鍋島茂綱が建立。この鳥居は、この地方独特のもので下部が太く、柱は
三本継で形成されており、笠木と島木が一体となり木鼻は流線型になっている。

いや~とても重量のある鳥居でした。

拝殿

現在地に遷宮後はじめて改築されたのは慶長17年(西暦1612年)となっている。その後、昭和39年の火災により昭和45年
銅葺屋根の鉄筋コンクリートの社殿が再建された。社殿は、流造の本殿に唐破風付き入母屋造りの拝殿となっており、色は
当社の使いとされる白鷺に肖り白を基調としている。

というわけで、「白」を基調とした綺麗な拝殿・本殿でしたよ。

拝殿と社務所

 

本殿も拝殿同様に白が基調で美しかったです。

由緒
『武雄神社本紀』によると、神功皇后が三韓征伐の帰途、武雄に兵船を止め、それが御船山に化したとあります。これに
より同行していた住吉神と武内宿禰が御船山の南嶽(船の艫)に鎮座し創祀されました。
而して天平7年(735年)初代宮司 伴行頼に『吾は武内大臣である。艫には住吉神がおられ、艫嶽に祀られていても
畏れ多く落着かないので、幸い軸嶽に自分を祀るならば、末永くこの地に幸福が訪れるであろう。』との神託がありました。
行頼は太宰府を通じて朝廷に奏請し、武内宿禰を主神に、仲哀天皇、神功皇后、応神天皇、武雄心命を合祀し北麓に奉遷し
武雄宮が創建されたと記されています。

平安時代での旧社格は、九州地区の統治組織「大宰府」の府社とされ、祭礼に国使が参向するなど、杵島郡の鎮守として郡民
の崇敬をうけていたばかりではなく、肥前に於ける名社として深く重んぜられていました。また、それらを裏付ける218通
にもおよぶ古文書(こもんじょ)が現存しており、九州における神社文書の代表的な遺品とされています。

元永年中(1118~20年頃)武雄二代領主 後藤資茂が、朝夕秀麗な御船山の麓に鎮座する武雄神社を望み、築城の適地
と思い、朝廷に奏請して当社を舳嶽東麓(現在地)に遷しました。

文治元年(1185年)の壇ノ浦の戦いでは、源頼朝が当社に密使を使わせ平家追討祈願をしました。平家を滅ぼした頼朝
は、勝利を武雄神社の神徳によるものと感じ、後鳥羽天皇の勅使と名代の御家人を赴かせ『御教書』を送り深謝しました。
この参詣を歓迎して、武雄四代領主の後藤宗明が流鏑馬を奉納し、以来、氏子のてによって『武雄の流鏑馬』は、八百年以上
ものあいだ連綿と継承されています。 また、これを機に武雄神社と源氏との関係は極めて密接となり、神社として将軍家の
祈祷に当たる関東御祈祷所の使命と、社家として御家人の使命を有し、二重の立場に於いて活動することになりました。

鎌倉中期の元寇では、未曾有の国難に際し、伏見天皇より異国降伏の祈祷の『綸旨』を賜る光栄に浴するなど、国家的な存在
でありました。本紀によれば、文永の役の十月二十日の夜、武雄神社の神殿から鏑矢が元軍船目掛けて飛び、元軍は逃げて
いったとしてあり、また、弘安の役では上宮から紫の幡が元軍船の方に飛び去って、大風を起こしたとあります。この霊験
により『九州五社ノ内』と称され、九州の宗社として隆々と栄えた時代もありました。

現在では武雄の氏神社として、また樹齢三千年のご神木を祀る神社として、氏子はもとより全国各地から広く信仰を集めて
おります。http://takeo-jinjya.jp/shrine/ より。

境内奥

塩釜神社
俗に「塩釜さん」と云われ、国土鎮護、商売繫昌、航海安全、安産、延命などの神として一般の信仰が厚い。
武雄に祀られたのは、第28代 武雄領主 鍋島茂義公の時で、公は西洋文化の吸収に力を入れたが、その為に、ややも
すると当時、夷狄としての謗りを憂慮して、国土平定鎮護の塩釜社を天保8年(西暦1837年)6月、宮城県塩釜市の
総本社に勧請し奉斎したのであろうと云う説がある。

城山稲荷神社
城山は御船山の別名であり、安政5年(西暦1858年)9月に勧請し奉斎したとなっている。
倉稲魂神・猿田彦命・大宮女命の三神に摂社の田中大神・四大神の二神を加え稲荷五社大明神と称し、殖産興業の守護神
として祀られている。 http://takeo-jinjya.jp/keidai/keidai1/#1 より。

武雄神社「御船山の山麓」にある神社です。

「御神木」の鳥居をくぐり、「武雄の大楠」へ向かいます。

良い感じの小道です。

更に進むと竹林。この感じも良いですねー。

大楠が見えてきました。

御神木・武雄の大楠

根元まわりは26m、高さ27m。根元の空洞の広さは12畳ほどもあります。推定樹齢3000年、全国第7位(2016年8月現在)
の日本指折りの巨樹です。武雄市には3本の大楠があり、最も大きいのが川古の大楠で「川古の大楠公園」内にあります。

すごい空洞です。12畳の広さがあるそうです。

超望遠で空洞内を撮ってみました。中には祠が置かれお供え物もたくさん。

いや~、すごい巨木でした。もう少し間近で相対したかったですが仕方ないですね。
巨樹の周りの空気・空間も素晴らしかったです。スケールが大きかったですねー。以前、屋久島のウィルソン株の中に入り
ましたが、10畳位の広さだったようです。つづく~


九州2(長崎県・波佐見町/陶郷 中尾山)

2017-09-27 11:47:12 | ・旅・山

2017.9.8~11 親友と二人でオヤジ軍団九州旅行(佐賀~長崎~大分~福岡)へ行きました。

途中、佐賀・武雄神社へ寄ろうと思っていましたが、吉野ヶ里歴史公園で結構時間を費やしてしまったので、翌日に参拝する
事にして、真っすぐ従兄の住む長崎・波佐見町へ向かいました。「超能力(マジック?)喫茶店あんでるせん」が近くて、
思わず、むむむ・・・寄るか?とも思ったけど、時間的余裕も無いし、かなり先まで予約されているらしいので諦めました。

吉野ヶ里歴史公園から長崎自動車道を西へ。待ち合わせ場所(ナビ設定)の「波佐見町中尾郷・中尾山交流館」を目指しま
した。

ここ波佐見は波佐見焼の陶芸の町なんです。山里の地図も陶磁器でしたよ。

波佐見町(はさみちょう)
・長崎県のほぼ中央、東彼杵郡の北部に位置する町。
・東西10.5km、南北7.0km、周囲33.0kmで総面積56.00km2。
・長崎県内でも海に面していない唯一の町でもある。
・人口は、14,891人、戸数は4,957戸(平成27年度現在)。
・400年の伝統をもつ全国屈指の[やきものの町]として栄えてきた。
・全国の一般家庭で使われている日用食器の約13%は波佐見町で生産されている。
・町内には陶磁器に関する約400の事業所があり、町内の約2,000人が窯業関係の仕事にたずさわっている。by wikipedia

波佐見町中尾郷・中尾山交流館

交流館は中尾郷の高台にありました。中尾郷が見渡せて眺めが良いです。ここは、中尾山の18の窯元の作品が一堂に集まり、
展示販売されているギャラリー。可愛いものから芸術的なものまで沢山の作品が陳列されていました。中尾山に来たら、まず
交流館でお気に入りを見つけてから窯元めぐりをするのがおすすめのようです。

「陶磁器」とは「陶器」と「磁器」の総称。中尾山の「やきもの」も陶器と磁器が有ります。陶器、磁器とも材料は粘土です。

陶器の場合はもともと「土」として存在するもので、有機物を含み有色(茶色~褐色)の粘土となります。

磁器の場合は「石」(陶石)を砕いたものや、有機物をあまり含まない粘土からできています。その為ほぼ白色に近くなり
ます。  

中尾山には白岳山(しらたけさん)という山があり、過去には陶石の採掘がされていましたので、遠くからでも白い岩肌が
良く見えました。  今では緑に覆われて白い岩肌は少し見える程度です。

その後、従兄に町の窯元さんを案内してもらいました。 

素焼き用の電気釜

型から作ったり・・・

轆轤(ろくろ)で作ったり・・・

波佐見焼

波佐見焼の誕生は今からおよそ400年も前にさかのぼります。慶長3年(1598)、文禄・慶長の役に参加した
 大村藩主・大村喜前は朝鮮の陶工・李祐慶兄弟たちを連れ帰りました。その翌年彼らが波佐見町村木の畑ノ原、古皿屋、
 山似田に階段状連房式登窯を築き、やきものづくりを始め、ここに波佐見焼は産声をあげたと伝えられています。

・はじめは施釉陶器をつくっていましたがその後、磁器の原料が発見されてからは急速に染付と青磁を中心とする磁器生産
 移行します。後に大村藩の特産品に数えられ、江戸後期には日本一の磁器生産量を誇るまでになりました。

・当時の波佐見焼を代表するのが「コンプラ瓶」と「くらわんか碗」です。
 コンプラ瓶は醤油や酒用ボトルとして、長崎出島からオランダ・インドネシアなどに向けて盛んに輸出されていました。
 瓶にはオランダ語で「日本の酒」、「日本の醤油」と記されています。
 くらわんか碗は少し粗い白磁に呉須(藍色)で簡単な模様を描いた器で、大量生産によって、それまで庶民の手に届かな
 かった磁器碗を手頃な価格にし、多くの庶民の人気を得ます。日本の器・食文化の発展に大きな影響を与えたと言えるで
 しょう。
日用食器の全国シェアー12%をもつ波佐見焼ですが、その中にはグッドデザイン賞を受けている製品もあり、産地を
 あげて質の高い製品づくりを目指しています。波佐見焼の特徴は、透けるような白磁の美しさと呉須 で絵付された染付の
 繊細で深い味わいにあります。http://www.town.hasami.lg.jp/main/shoukai/yakimono.html より。

中尾川の谷筋(一番奥が交流館)に古くからの窯元が並び、波佐見の磁器を焼いているわけですが、中尾川沿いや橋にも
陶磁器があしらわれていました。いや~オシャレですねー。風情があります。まるで異国の地のようでした。 

波佐見焼ができるまで http://www.cotogoto.jp/html/page164.html こちらのページで詳しく解説されています。

波佐見焼は伝統的に分業制で、型屋、生地屋、窯元、陶土屋、釉薬屋、産地問屋……。
効率よく低コストで大量の商品をつくるため、それぞれの工程を専門の工房が担当します。
つまり町全体が、一つの大きな工場のようなものなのです。

復元された中尾上登窯(中尾上登窯跡 国指定史跡 世界第2位の巨大登窯)

白岳山麓にあって白岳窯とも称しました。窯の長さは160メートルにも達し窯室は33室で磁器の研究も進み盛んに焼かれた
ものと考えられます。遺物は青磁・3本足付香焚・青磁山水・染付茶碗・蛇の目重ね茶碗などがあります。

中尾皿山は慶長年代永田山へ足を踏み入れた李祐慶がこの地を開いたとも言われ、元和元年(1615)中尾庄右衛門に磁器の
作り方を指導し、中尾皿山の発展につながったと言われます。

250世帯400名の限界集落になりつつある中尾郷。17(18?)軒の窯元が中尾川の谷あいに集中しています。
昨年春に日本遺産の風景として、周辺の町とともに登録されました。

中尾郷の夕景
快適な中尾郷の高台の従兄宅へ泊まらせて頂きました。ありがとうございました^^

中尾郷の朝景

中尾郷には、「レンガ造りの煙突」があちこちに見られます。今は使用されていません。以前は石炭釜でその為の煙突だった
わけですが、現在は景観資産として残されています。旧上広窯煙突、旧筒峯製陶所煙突、旧中安製陶所煙突、光玉陶苑煙突
光春窯煙突、平井製陶所煙突・・・・どの煙突も昭和30年前後に建てられ昭和45年まで使用されました。高さは10~15m。
トラスネ煙突は古く、大正14年10月に完成。波佐見町内では2番目の石炭窯。戦後、窯本体は解体されてガス窯に代わり
ました。レンガ造りで、高さは17メートル程度。

2017.9.9お世話になった従兄宅を出発。すぐ近くの山神社(陶山三神社)を参りました。

クルマを停めていたので参道側の山下からではなく境内脇から失礼しました。 

奉納相撲の土俵のようですね。調べたところ11月の中尾山陶山三神社まつりでは土俵に上がってエイサーで盛り上がる
写真もありました^^
山神社は焼き物の神を祭って、江戸時代前期の1661(寛文元)年に建立されたと伝えられています。毎年11月中旬には、
割れた茶わんの供養祭が開かれています。

拝殿 朝陽が良い感じです。

村の高台にある山神社(陶山三神社)は、陶祖御三体として陶工鮮人の李佑慶、隸佑・喜佑の三兄弟を祀ったとの一説も
あります。天井には、工房の職人さんたちが描いた絵が飾られている(2016年改修)。

番外編~

9.8、波佐見散策後に従兄に連れて行って頂いたお隣の佐賀県嬉野温泉の「公衆浴場シーボルトの湯」

大正ロマンを感じさせるゴシック風建築物「シーボルトの湯」は、木造2階建て、約750平方メートル。
嬉野温泉公園の対岸に、嬉野温泉の歴史が甦るオレンジ色のとんがり屋根が目印のレトロな建物でした^^

入浴後に、波佐見町の「鬼木の棚田」にも連れて行ってもらいました。

鬼木地区は、日本棚田百選に選ばれています。
鬼木は虚空蔵火山の裾で馬蹄形に開けたところですが、その斜面には石垣で畔を築き、棚田が段々に重なっています。2017.9.23が鬼木の棚田まつり。沢山のユニークな案山子も飾られるそうです。稲穂も黄色くなっているのでしょうね~。
つづく~


九州1(佐賀県・吉野ヶ里遺跡)

2017-09-25 16:30:42 | ・旅・山

2017.9.8~11 親友とヤローと二人でオヤジ軍団九州旅行(佐賀~長崎~大分~福岡)へ行きました。台風に当たる

かなあと思いつつも、勝負!!半年前から計画を立ててました。

スカイマーク今得で往復21580円。レンタカー早割30で4日間15900円。一泊は従兄弟宅泊。
別府温泉宿泊素泊6630円。博多ビジネスホテル朝付3980円。とトコトン格安設定で行きましたよ(笑

9.8 05:00出発。浜松町経由モノレールで 06:30頃、羽田空港第一旅客ターミナルへ。
スカイマーク・機械でチャックイン。予約支払いのクレジットカードを入れると、航空券が発行される。
機内持ち込みできる大きさの小さなスーツケースでしたが、ガラガラするのが面倒くさいので預ける。
羽田 発 07:40 → 福岡 着 09:35 10:00福岡空港よりレンタカー借り入れ(オリックスレンタカー・
キューブ)

今年はかなりの天候不順ですが、前日まであまり良くありませんでしたが、この日から三日間くらいは
お天気。最終日はちょっと降られるかもという感じで、実にラッキーな日程となりました。

福岡空港に着くと、いや~陽射しが強烈。 東京都ちと違う。 二週間くらい季節が戻った感じでした。
もう暑くなくていいんですけど・・・でも雨よりいいですねー。従兄弟にNEXCO西日本 九州支社
の「九州よかよかドライブパス2017)」ETC高速6500円九州乗り放題を教えてもらってスマホで
直ぐに申し込み^^ 一路、吉野ヶ里遺跡へ。

 
吉野ヶ里遺跡公園~ 金曜日とあって、ほとんどお客さん居ません。土日は賑わうのかなあ???

吉野ヶ里遺跡

佐賀県神埼郡吉野ヶ里町と神埼市にまたがる吉野ヶ里丘陵にある遺跡。国の特別史跡に指定されている。およそ
50ヘクタールにわたって残る弥生時代の大規模な環濠集落(環壕集落)跡で知られる。1986年(昭和61年)からの
発掘調査によって発見された。現在は国営吉野ヶ里歴史公園として一部を国が管理する公園となっている。by wikipedia

鳥居の入り口から環濠集落(周囲に堀をめぐらせた集落(ムラ)のこと。水稲農耕とともに大陸からもたらされた新しい
集落の境界施設と考えられている)へ入ります。いや~、え~天気で暑いっす。

壕の内外には木柵、土塁、逆茂木(さかもぎ)といった敵の侵入を防ぐ柵が施されていた。

展示室へ~

展示室で特に気になったのがこの写真。

そして、吉野ヶ里遺跡のこの「鳥の乗る入り口」。

直感的に、これはもしかして「鳥居」の原型???と思い、展示室のお姉さんに尋ねてみたら、そういう説もあると。
というわけで調べてみました。

「鳥居」について

・鳥居を立てる風習は、神社の建物がつくられるようになる前から存在した。
・古来日本では、屋根のない門という意味で「於上不葺御門(うえふかずのみかど)」ともいった。
・中国の「華表」の訳を鳥居とするので、過去には漢文で「華表」と記したこともあったという。
・鳥居の起源については諸説あり、考古学的起源についてはっきりしたことは分かっていない。
・単に木と木を縄で結んだものが鳥居の起こりであると考えられる。
・いずれにせよ、8世紀頃に現在の形が確立している。
そのほか主要な説として、
・天照大御神を天岩戸から誘い出すために鳴かせた「常世の長鳴鳥」(鶏)に因み、神前に鶏の止まり木を置いたことが
 起源であるとする説

・日本の冠木門に起源を求める説
・インド仏教にみられるトーラナや中国の華表や鳥竿、牌楼、朝鮮半島の紅箭門、イスラエルの移動型神殿、雲南省とビルマ
 との国境地帯に住むアカ族の「村の門(ロコーン)」など海外に起源を求める説などがある。

アカ族の「パトォー・ピー(精霊の門)」という村の入口の門では、上に木彫りらしき鳥が置かれることや、鳥を模した
 造形物を飾る風習もあることが実地を調査した研究者から報告されていることから、日本の神社でよく見られる「鳥居」
 の原型は、アカ族らが長江流域から南下、避難してくる前、長江流域に住んでいた時代(百越人であった時代)の「鳥居」
 ではないのか、という説。アカ族の村の門には鳥の木形が置かれるが、同様の鳥の木形は日本での稲作文化の始まりとされ
 る弥生時代の遺蹟である池上・曽根遺跡や纒向遺跡でも見つかっており、また他にも多くの遺蹟でも同様である。

・また、ユダヤ教と関連があるとする説もある(日ユ同祖論)。by wikipedia 

どうやら、いろいろある説の一つのようですね。
鳥竿は、アジアの稲作地特有の風習で、優良な稲作地を探すときの目安として朝、鳥が多く集まるところに設置されたのが
始まりとも云われているようですし、「鳥」の霊的な解釈においては次のようなものがあります。

・太古の昔から、霊魂が鳥の形をとるということは、インド・ヨーロッパ諸国では広く一般に信じられていた。ラテン語の
 avesは「鳥類」を意味すると同時に、「祖先の霊」、あるいは死者の魂、または天使、をも意味した。

・ローマの皇帝たちは自分の火葬用の積みまきの上にワシを放って、自分の霊魂を天界に運んでもらい、それで神格を得た。
・エジプトの王たちもヘル〔ホルス〕 Horusの聖鳥タカを葬儀のときに空高く放って、それに乗せ、あるいはその中に入れて、
 自分の霊を天界に運んだ。
・キリスト教の聖人たちも、列聖式のときに白いハトを放って、それで霊魂を天界に運んだ。

・人間が幻視の状態にあるとき、あるいは、忘我の状態にあるとき、鳥になった錯覚に陥るのは、死と再生の第一歩に踏み
 入った象徴として広く見られる現象である。南太平洋、インドネシア、中央アジア、シベリアなどの呪術師たちや予言者
 たちは、自分は鳥に変身できると言った。
・ヨーガの行者たちは、夢幻の境に入って空を飛ぶことができるのは、ヨーガを修行していちばん最初に体得する呪カである、
 と言った。「自分が鳥になること、あるいは鳥に乗って運ばれるということは、生きながらにして空へ、また空のかなたへ
 恍惚として飛んで行けることである」。ケルトの妖精たちは鳥に変身することができた。そのために彼らは天使のように
 翼ある身として描かれたし、また魔女たちはそのために「魔女の集会」へ飛んで行けたのであった。
・マヤ人やアステカの聖職者たちはすばらしい羽の衣を着ていたが、霊魂を容易に天界へ運ぶ、という機能を持ったもの
 あったと思われる。
鳥は地界と天界の間を自由に行き来するために、いたるところで、霊魂を天界へ運ぶものと考えられたと同時に、天使の
 使者であり、予知を与えてくれるものであり、神秘の秘密を持っているものと思われた。
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/antiGM/birds.html より。

こうして掘り下げてみると、「鳥」は豊穣を願う稲作時代の指針的な役割から、地上界の人々を天界へと導く役割まで果た
していて、それはもう「神の遣い」であったと云えるでしょう。「その神の遣いの鳥」を象徴として村へ入る門を作れば、
おのずと村が神に守られると考えるのも当たり前でしょう。祈りや願いが強くなれば、祭祀場所にその門(鳥居)を起き、
結界を張り、神の降りる場所とすれば、そこは「神社」となります。鳥~鳥居~神社が結びつきました^^

半地下で入口低いです。

大人(たいじん)の家、大人の妻の家
魏志倭人伝によると弥生時代から身分があったようで、 上から「大人(たいじん)」、一般的な身分である「下戸(げこ)」
最も下位の階層である「生口(せいこう)」と分類されていたようです。

弥生時代の社会、夫婦の形に関しては、割愛しますよ~。

大人の妻の家の内部

大人の家の内部

物見やぐら
登りましたよ。良い風が吹き抜けていました。気持ち良かった~。

壕の内外の木柵、土塁がスゴイですね。実に大きな集落です。

吉野ヶ里遺跡は、佐賀県神埼郡の旧神埼町・旧三田川町・旧東脊振村の3つの町村にまたがった我が国最大の遺跡で、
弥生時代における「クニ」の中心的な集落の全貌を知ることができます。弥生時代は約700年間も続いた長い時代です。
吉野ヶ里遺跡では、この長い弥生時代の全ての時期の遺構・遺物が発見されていますが、
吉野ヶ里歴史公園では
「弥生時代後期後半(紀元3世紀頃)」を復元整備対象時期として復元整備を行っています。

上着を着て籠を背負って弥生人になり切りましたよ(笑

手前のイノシシ親子が可愛いですね~。

飾り物や・・・

なんと繭玉も見られますね。

なんと彼岸花が咲いていました。関東より一週間くらい早いかなあ。太陽はギラギラでしたけどねー。

吉野ヶ里の「クニ」の倉庫群があり市が開かれていたところ

奥のこんもりしている緑の丘が北墳丘墓

お墓です。こんなお棺に入れて埋葬していたんですねー。何だかタイムカプセルみたいです。

甕棺(かめかん)墓列
吉野ヶ里遺跡より発掘された約3000基の甕棺墓のうち、 約1000基が古代の森より発掘されました。 古代の森では、
全長300メートル、約500基の墓列が 復元されています。

北墳丘墓

吉野ヶ里集落の歴代の王が埋葬されている特別なお墓と考えられています。外観が復元され、墳丘墓の内部では14基の本物の
甕棺や出土品レプリカの展示、北墳丘墓の解説展示を行っています。

墳丘墓とは土あるいは石を積み重ねて丘のような形(墳丘)とした墓です。吉野ヶ里遺跡の環壕集落北部に位置する北墳丘墓
は弥生時代中期前半~中頃(2200年~2100年前)にかけてつくられ、南北約40m、東西約27mの長方形に近い形態で、
その高さは4.5m以上あったと考えられています。

発掘調査中に遺構面まで掘り下げられましたが、その後に遺構の保存のため一旦埋め戻されました。遺構面の保護処理方策、
管理方法等の実験等、検討が重ねられ、発掘当時の状況を公開する施設として設備が進められ、H20年2月に再び公開され
ました。

いや~、ここは凄かったです。吉野ヶ里歴史公園にも公園のhpにもサラリと紹介していますが、もっとアピールしても良い
のではないでしょうか?

甕棺の埋葬手順・・・日本では佐賀や福岡を中心とする北部九州で多く発見されている特徴的な方法です。

遺跡を見ながら、この北墳丘墓に来ると・・・ホントに弥生時代にタイムトリップしたかのようでしたよ。

北内郭 ~まつりごとの場所~祭殿

当時のまつりごとに大きく関わる人がいたとされる巨大な祭殿など9棟の建物が復元されています。残念ながら外観は工事中
でしたが、内部は見学できたので入ってきましたよ。

主祭殿2階

吉野ヶ里のクニ全体の重要な祀りが開かれており、吉野ヶ里の王やリーダーたち、さらには周辺のムラの長が集まっています。

吉野ヶ里集落だけでなく、吉野ヶ里を中心とするクニ全体にとって最も重要な場所であったと考えられています。田植えや
稲刈りの日取りを決めたり、季節ごとのお祭りの日を決めたり、また大きな「市」を開く日取りを決めるなど、吉野ヶ里を
中心とするクニ全体の重要な物事についての儀礼的な話し合いと祖先への祀りが行われていた場所と考えられています。
公園hpより。

主祭殿3階

祖先の霊のお告げを聞く祈りを行っています。この結果は従者によって2階で会議を行っている王やリーダーたちに伝え
られます。また当時は、重要な物事が話し合いでは決まらない時には最高司祭者(祖先・神の声を聞くことができる特殊
な能力を持った人)に祖先の声を聞いてもらい、その声に従って決定していったと考えられています。公園hpより。


というわけで、とても弥生時代の生活が学べて有意義でした。利用料は420円。公園内のレストランで遅い昼食を食べて、
長崎・波佐見町へ向かいました。


旅行メモ

福岡空港 陽射しが強烈 東京都ちと違う 二週間くらい季節が戻った感じ レンタカーあっさり対応 ETCキャンペーン
吉野ヶ里遺跡 暑い 鳥居の原型 アンデルセンパス 波佐見 暑い 見学 芸術的工房もあり 嬉し川温泉 シーボルト 棚田 カカシ

夕陽 右翼と左翼 戦争 飲み過ぎ バンダナ 武雄神社 武雄図書館 日の丸 相撲 国粋 ご神木 日出町ひじ 天気の神様 食物の
神様に守られた おいちゃん宅 体調悪化 食べ始めたら治ってきた お茶 地獄巡り ピッピッ 外国人  ワニ 熱帯魚 矢野合流
野上本館 外国人 路面電車敷石 繁華街 飲み屋 サバ一本6000円 アイス 湯布院 姫神社 崖 おデブちゃん ヒシ魔除け 熊野
天台宗 ふたご寺 アンケート うどん 宇佐神宮 西陽 高速若い女性横断 飛ばし屋 博多飲み屋正解! 若旦那 ネーチャン 
5000えんお任せ ヒラメ煮付け ウニオニギリ 醤油甘い マメちゃん ラーメン アイス三個 櫛田神社 とり天 唐揚げ モツ煮
博多ラーメン 屋台 太宰府天満宮 外国人 脇の山から神社 梅ヶ枝餅 九州大学 桜井神社 伊勢 パワースポット 海を見ながら
海鮮定食 サイドブレーキ 空港まで雨 カミナリ釧路よぎる ステーキハウス ビール ワイン カサ預ける 中華料理


軍刀利神社&大桂

2017-09-24 12:37:54 | ・神社・お寺

2017.9.2 神奈川県相模原市の石楯尾神社へ詣でましたが、その後、軍刀利神社へ参りました。

いつも通り、大桂は龍穴の上にドッカリと腰を据えていましたよ。

参道階段下の手水舎にはタマアジサイが添えられていました。

ホトトギス ここで見たのは初めてかも。

う~ん・・・葉っぱなんだよなあ。。。。

富士山は見えなかったけど山々が良い感じです。

なんか目立ってました(笑

この角度のショットは初めて^^

若干、黄葉になっていました。砂糖を焦がしたような甘い香りも少し漂っていましたよ。

すこ~し赤く色付き始めている葉も。相変わらずの強い生命力を感じましたよ。
誰にも会わず、大桂前の奥宮で瞑想も行ってきました。京都・神戸から帰宅後、一週間ほど、かなりの気の低下が感じられ
ました(鞍馬・貴船からアッパー系の??に憑かれていたみたい)が、ぐんだりさん参拝を境に元に戻りましたー^^


石楯尾神社(相模原市名倉)

2017-09-23 09:35:07 | ・神社・お寺

2017.9.2 神奈川県相模原市の石楯尾神社へ詣でました。

2015.10.3には、石楯尾神社(相模原市緑区佐野川)へ参拝に行きました。

上野原インターからすぐ近くです。山梨県との県境になりますね。
神奈川県側の「相模川」は山梨県に入ると「桂川」となり、この桂川のほとりに鎮座しています。
手書きのなかなかインパクトのある看板です。 

参道入り口

クサギ(臭木)の花
葉を触ると、一種異様な臭いがするのがこの名の由来。なんか可哀想な名前だなあ。葉の臭いは分かりませんでした。

境内へ向かう階段

楼門

楼門をくぐると、大きな松がおそらく相模川方向へと斜めに向かっています。水龍のよう。

旧来は、相模川の対岸にあった「エボシ岩」を崇拝していたそうですが、

拝殿

手水舎

満月の朝の霊開き

宮司さんが御祈祷されるようです。

拝殿内

末社

本殿

本殿脇の末社

絵馬・・・とても素朴な空気が流れていて撮りました。

御神木の夫婦杉

いや~元気で立派でしたよ。

個性的な空気の流れる境内でした。名倉の権現様、岩楯尾大神に見守られているようです。霊開きの祭祀で浄化されている
ように感じました。参拝して良かったです^^


石楯尾神社(いわたておのじんじゃ)

神奈川県相模原市緑区名倉に鎮座する神社である。「名倉の権現さま」とも呼ばれる。

当社は延喜式記載の鎮座地である「高座郡」より外側(旧愛甲郡)に位置するが、当時は郡の範囲が北西部の相模川沿い
まで伸びていたとする説もある。また、創建当初はいまの場所より僅かに西方の、甲斐国との国境(現在の山梨県との県境)
により近い位置に鎮座していたと伝えられる。

旧来「エボシ岩」が礼拝対象であった。この岩と伝わるものが明治に入るまで当社の東方近辺にあったが、中央本線の
鉄道建設工事の折に撤去されてしまった。また、この岩から見て当社は尾っぽの方(相模国の端であり、地形的には丘陵の
端でもある)に位置するので、「石楯尾(いわたてお)」と呼ばれるようになったともいわれる。

応神天皇の御幸所で御造営があったとも伝えられ、天安元年(857年)、従五位下の神とし官社に預った事が文徳実録に
記載されている国史所載社である。延喜式では式内小社に列した延喜式内社であるが三増合戦の禍を受け、永禄12年
(1569年)社殿全部が火災にあい、古記録まで焼失した。

現在の社殿は享保9年(1724年)に建築されたものである。

神社明細帳は元亀元年(1570年)に消失したとされ由緒がわからなくなっていたが、1942年(昭和17年)に神社明細帳の
訂正が許可され、正式に式内社として国家から認められた。また戦後には、古文書によっても証明されたとされる。

桂川南岸に鎮座していることから、式内社調査報告では地形的に当社が式内社である可能性が高いとしている。また、
文化5年(1808年)と翌年に神祇官から献上された幣帛が今に残っており、実際の証明物としても論社の中で最古のもので
ある。by wikipedia


神戸(生田神社・湊川神社)

2017-09-23 06:19:43 | ・神社・お寺

2017.8.26~27 京都・神戸へ行きました。

京都から神戸へ。夜になっても神社巡りか?(笑)

東急ハンズ三宮店前で待ち合わせの間に、すぐ近くの生田神社へ。残念ながら楼門は閉まっていて中には
入れず。。。

楼門 いや~立派ですねー。今度は日中に参りましょう。というわけで今回は掘り下げません(笑

う~ん・・・「メトロこうべ」の字体が良い感じだなあ。

神戸市中央区橘通の路地裏 なんか懐かしい風景^^

こちらは湊川神社

泊まった「カサベライン神戸」の近くだったので翌朝、詣でましたよ。

湊川神社

湊川神社は、兵庫県神戸市中央区多聞通三丁目にある楠木正成を祭る神社。
地元では親しみを込めて「楠公(なんこう)さん」と呼ばれている。

楠木正成は、延元元年(1336年)5月25日、湊川の地で足利尊氏と戦い殉節した(湊川の戦い)。
元禄5年(1692年)になり徳川光圀が「嗚呼忠臣楠子之墓」の石碑を建立した。以来、水戸学者らによって楠木正成は
理想の勤皇家として崇敬された。幕末には維新志士らによって祭祀されるようになり、彼らの熱烈な崇敬心は国家による
楠社創建を求めるに至った。1867年(慶応3年)に尾張藩主徳川慶勝により楠社創立の建白がなされ、明治元年(1868年)、
それを受けて明治天皇は大楠公の忠義を後世に伝えるため、神社を創建するよう命じ、明治2年(1869年)、墓所・殉節地を
含む7,232坪(現在約7,680坪)を境内地と定め、明治5年(1872年)5月24日、湊川神社が創建された。by wikipedia


京都5(賀茂御祖神社(下賀茂神社))

2017-09-22 06:43:20 | ・神社・お寺


2017.8.26~27 京都・神戸へ行きました。

貴船から出町柳駅へ着いて、このまま神戸へ行っても良かったのですが、なんか未だ元気の「気」が漲っている。というわけ
で、地図を見たら下鴨神社が割と近いので参ってきました。鴨川デルタというのもなんか良い空気が流れていそうで・・・。

高野川に架かる橋

高野川から上流方面

鴨川デルタは風致地区になっていました。

鴨川 上流方面

その後、鴨川沿いに歩いたために下鴨神社の正面参道を超えてしまいました^^; 帰りは参道を南下して駅まで行きました。
御蔭道を通って下鴨神社の正面へ。

表参道

ここには鳥居がありませんでした。

式年遷宮の立札が見えますが、平安時代中期以降、21年毎に御神体を除く全ての建物を新しくする式年遷宮を行っていたが、
本殿2棟が国宝に指定されたため、現在は一部を修復するのみのようです。

う~む・・・存在感のある巨樹だ・・・。

糺の森(ただすのもり)(賀茂川と高野川の合流地点に発達した原生林(下鴨神社の境内に広がる原生林))
の祭祀遺構。調査の結果、発掘された水路、溝内にはおおよそ平安時代、鎌倉時代、近代(明治時代以後)の3時代にわたる
堆積物が累層していたようです。

南口鳥居

手水舎

神話に基づく舟形の磐座石で、御神水を注いでいる樋は、糺の森の主と呼ばれた樹齢600年のケヤキだそうです。
覆屋は、崇神天皇7年、糺の森神地に瑞籬(みずがき)の造替を賜った記録をもとに再現した透塀。 この御手洗は、
「糺」(ただす)の語源という説のある「直澄」(ただす)と名付けられています。

盆踊りの準備^^

楼門

楼門をくぐると正面に「舞殿」

舞殿脇より楼門方向。結婚式されていました。

中門

中門内の東本殿。奥が西本殿。手前に干支ごとの祠が並んでいました。本殿内は撮影禁止。
さすがに人が多く、人を避けて撮るのが得意なpawでもムリ(笑)ぼかしを入れましたよ。

私も中に入り説明を聞いてきました。本殿の左側になりますね。

西参道鳥居

西参道

いや~、重厚というか深い歴史を感じさせる空気・空間でした。15~16時の一時間くらいしか居なかったので、
なんだかフワっとした感覚で現実味がなかったというか・・・そもそも歴史が古すぎて蓄積もスゴイから、相当時間をかけて
参らないと実感がえられないのかもしれませんね。こちらも人の少ない時間帯を狙うとしたら早朝だろうなあ。

 

賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)
京都市左京区にある神社。通称は下鴨神社(しもがもじんじゃ)。
式内社(名神大社)、山城国一宮、二十二社(上七社)の一社。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。
ユネスコの世界遺産に「古都京都の文化財」の1つとして登録されている。

賀茂別雷神社(上賀茂神社)とともに賀茂氏(速須佐之男命の11世の孫の大鴨積命を祖とする出雲国の古代の氏族とされる)
の氏神を祀る神社であり、両社は賀茂神社(賀茂社)と総称される。両社で催す賀茂祭(通称 葵祭)で有名。
本殿には、右に賀茂別雷命(上賀茂神社祭神)のの玉依姫命、左に玉依姫命のの賀茂建角身命を祀るため
「賀茂御祖神社」と呼ばれる。

京都の社寺では最も古い部類に入る。(それ以前の古い時代からまつられていたと思われる糺の森周辺の発掘調査で縄文
時代の土器や弥生時代の住居跡がたくさん発掘されている)社伝では、神武天皇の御代に御蔭山に祭神が降臨したという。
また、崇神天皇7年に神社の瑞垣の修造の記録があるため、この頃の創建とする説がある。一説には、天平の頃に上賀茂神社
から分置されたともされる。by wikipedia

表参道を戻ります。両側がマンション・・・・^^;

ここが参道出発点の鳥居です。

いや~、良く動き回りました。その後、出町柳駅から京阪本線の七条駅で降り、トボトボ歩いて京都駅へ。八条西口の
コインロッカーで荷物を出して神戸へと向かったのでした。JRの快速で1時間くらいだったですね。電車が遅れていて、
乗った時は満員状態でしたが、たまたま私の立っていた脇の席の方が次の駅(高槻??)で降りたのでラッキーでしたー。


京都4(貴船神社 本宮・結社(中宮)・奥宮)

2017-09-21 09:03:16 | ・神社・お寺

2017.8.26~27 京都・神戸へ行きました。

さて、天界から地上界へといきなり突き落とされたわけですが(笑)、取りあえず目の前の「貴船神社」へ。

参道入り口

本宮参道

石庭

拝殿

たいへんな賑わいでしたよ。参拝もスゴイ列^^;

全国に約450社ある貴船神社の総本社。地域名の貴船「きぶね」とは違い、水神であることから濁らず「きふね」といいます。

御神木の桂(樹齢:およそ400年、高さ:30メートル)

根元からいくつもの枝が天に向かって伸び、上の方で八方に広がっている。まるで御神氣が龍の如く大地から勢いよく
立ち昇っている姿に似て、貴船神社の御神徳を象徴し、まさに御神木と仰がれる由縁である。
貴船は古くは「氣生嶺」または「氣生根」とも書かれていた。大地のエネルギー「氣」が生ずる山、「氣」の生ずる根源の地
という意味である。
神道では、体内の氣が衰えることを「けがれ(氣枯れ)」といい、古来、当宮に参拝する人は皆御神氣に触れ、氣力の充実する
ことから運気発祥(開運)の篤い信仰がある。

貴船神社の特徴として非常に興味深いのは、本宮・奥宮・中宮(結社)のすべての境内に御神木として巨大なカツラがそびえて
いることである。奥宮の本殿北側には、京都市指定の天然記念物となっているカツラもある。http://kifunejinja.jp/ より。

大好きな桂がたくさんあって嬉しいですねー^^

拝殿脇と本殿

本殿・拝殿は2007年に改築されたばかりだそうですよ。

貴船神社本宮を出て、更に奥宮方面へ。

相生の大杉(樹齢1,000年の名木)

同じ根から生えた2本の杉の大木がぴったりと寄り添っている。「相生」は「相老」に通じ、その寄り添う姿が仲睦まじい
老夫婦の姿にたとえられ、夫婦円満の象徴として親しまれている。

貴船は、京都の奥座敷と呼ばれ、川床料理などで有名な料理旅館が並んでいるわけですが、とにかく道が狭くて人も多く、
すれ違うのもタイヘンな所でした。

中宮・結社は後にして、奥宮へ。

左は「つつみが岩」(高さ:4.5メートル、重さ:43トン)

貴船特有の貴船石。

古代の火山灰堆積の模様を表す水成岩で、紫色に輝き、色調・形状ともに秀でた名石。
大昔、貴船・鞍馬は海底火山であったことがたくさんの化石から証明されている。枕状溶岩もそれを証明するひとつで、
海底火山の活動によって流れ出した溶岩が海水で冷やされ固まり、これがいくつも重なって枕状になる。庭石の名石で
知られる貴船石も溶岩で、この「つつみが岩」もよく見ると枕状が確認できる。http://kifunejinja.jp/ より。

神門

奥社の本殿の下は巨大な龍穴があり、大工が誤ってノミを落としたら、強風が吹きノミを空中に吹き上げたという話がある
そうです。

奥宮・本殿

拝殿

こちらも神楽殿のような作りですね。

奥宮は本宮の上流側700メートルの場所にあり、以前はここが本宮であった。闇龗神(くらおかみのかみ)を祭神とするが、
高龗神と同じ神であるとされている。by wikipedia

船形石

奥宮本殿の西側にあり、船の形をした石組み。 貴船神社創建伝説によると、約1,600年前(第18代反正天皇の御代)初代
神武天皇の皇母・玉依姫命が大阪湾に御出現になり、水の源を求めて黄色い船に乗り、淀川・鴨川をさかのぼり、その
源流である貴船川の上流・現在の奥宮の地に至り、水神を祀り「黄船の宮」と称された。その黄色い船は人目に触れぬ
よう石で包まれたという。http://kifunejinja.jp/ より。

道理の杉

大正13年、貞明皇后御参拝の折に賞賛された御神木。「連理」とは、別々の木が重なって一つになるという意味で、夫婦、
男女の仲睦まじいことをいう。この御神木は杉と楓が和合したのもので、非常に珍しい。http://kifunejinja.jp/ より。

奥宮・・・・いや~素晴らしい空気・空間でした。緑も綺麗でしたね。風水の龍穴との事。確かに何やら強力な気が
満ちるように感じましたね。

奥宮に後ろ髪を引かれながら、結社(中宮)へ。

天の磐船

貴船の山奥で見つけられた見事な船形の自然石。平成8年(1996)3月に貴船神社に奉納され、結社の御祭神、磐長姫命の
御料船として結社境内に納められた。http://kifunejinja.jp/ より。

結社(中宮)本殿

磐長姫命を祭神とし、縁結びの神として信仰される。

緑色?????

調べたところ・・・・

磐長姫命が縁結びの神とされることになった理由として次のような伝承がある。天孫瓊瓊杵尊が磐長姫命の妹の木花開耶姫と
結婚しようとしたとき、姉妹の父の大山祇命は、磐長姫命も共に奉った。しかし、瓊瓊杵尊は木花開耶姫とだけ結婚したので、
磐長姫命はそれを恥じ、「縁結びの神として良縁を授けん」と言って当地に鎮まったという。
以前は、境内の細長い草の葉を結び合わせて縁結びを願っていたが、現在は植物保護のため本宮で授与される「結び文」に
願文を書いて指定場所に結ぶことになっている。by wikipedia

こちらにも立派な桂の御神木がありました。

川床料理のお店がたくさん並んでいました。懐石料理・・なかなか高いです。流しそうめんは2.5時間待ち^^;いや~
ともかくスゴイ人です。外国人も多いです。しかし、確かに緑が綺麗ですし、紅葉の頃も素晴らしそうですねー。朝早くの
散策が良さそうです。う~ん・・。・反対周りで貴船から入れば良かったかな。それなら10時過ぎに来れましたからねえ。
貴船神社本宮辺りから川下へ下り、最初のバス停から貴船口駅へ。
バスもずいぶん並んでいてギリギリ乗れました。道路が狭いのでバスも小さかったですよ。その後、貴船口駅から叡山
電鉄鞍馬線で出町柳駅へ。

出町柳駅
こんなレトロっぽい電車も^^ こちらは比叡山へ向かうようですね。
三個目のオニギリを食べて(しっかり食べると動くのがイヤになっちゃうので、鞍馬駅で一個、瞑想場で一個と刻み昼食
で動き回っていたのでした)、さ~て何処へ?? つづく~ 


京都3(鞍馬山・本殿~奥の院~魔王殿)

2017-09-20 07:03:33 | ・神社・お寺

2017.8.26~27 京都・神戸へ行きました。

由岐神社から鞍馬寺へと更に登っていきます。

この辺り一帯を双福苑と呼び、天に聳える杉を「玉杉大黒天」と尊崇し、傍らには、福徳の神である「玉杉大黒天」
「玉杉恵比寿尊」の祠があります。

鞍馬寺・本殿金堂

宇宙の大霊、尊天のお働きを象徴する千手観音菩薩・毘沙門天王・護法魔王尊(脇侍、役行者・遮那王尊)を奉安する中心道場。
御本尊は秘仏で、60年に一度、丙寅の年に開扉されます。本殿の地下は、宝殿で信徒の清浄髪が厳かに祀られています。

狛犬ならぬ「阿吽」の虎は、本尊毘沙門天のお使いである神獣。毘沙門天の出現が、寅の月、寅の日、寅の刻とされていること
によります。五十音が「あ」から始まり、「ん」で終わることから「阿吽」は、宇宙の全てを包含すると言われています。

本殿金堂前の金剛床は、宇宙のエネルギーである尊天の波動が果てしなく広がる星曼荼羅を模し、内奥に宇宙の力を蔵する人間が
宇宙そのものである尊天と一体化する修行の場となっています。http://www.kuramadera.or.jp より。

鞍馬寺(本殿金堂)の真正面にある金剛床の『六芒星』。いわゆるパワースポットで、この中心に立つと、“宇宙生命のエネルギー”
を受け取ることができるとされています。老若男女、この中心に立ち、山の方に向いて両手を上げてパワーを受け取るように
願われていました。
先に投稿した鞍馬寺が「早良親王の怨霊から都を守るための結界(風水)の一部」(貴船神社奥宮~鞍馬寺の本尊である魔王が
祀られている奥の院~鞍馬寺と、早良親王の怨霊をお祭りする崇導神社は一直線に並んでいる)であるならば、少し複雑な思い
でありましたが、「すべての人々が導かれますように」と願ってきました。

本殿金堂より

光明心殿 護法魔王尊を奉安。 

更に「奥の院参道」へ。

霊宝殿(鞍馬山博物館)へも寄ってきました。1階は、自然科学博物苑展示室。2階は、寺宝展観室と與謝野寛・晶子の記念室。
3階は、仏像奉安室。鞍馬寺では、霊宝殿(鞍馬山博物館)だけでなく、鞍馬山全体を自然ミュージアムと、捉えています。 

だんだん「木の根」がすごいことになってきました。

根が地表面でアラベスク模様を描くのは、この辺り一帯の砂岩が、灼熱のマグマの貫入によって硬化したために根が地下に
伸びることが出来なかったため。 牛若(鞍馬天狗)も「木の根道」で兵法修行をしたと伝えられています。
「下に這う鞍馬の山の木の根見よ 耐えたるものはかくのごときぞ」 與謝野寛(鉄幹)

鞍馬山の地層は、約2億5、6千年前(古代ペルム紀)の輝緑凝灰岩や石灰岩やプレートの上の噴出物やサンゴ礁がその前身で、
そこに約7千万年前(白亜紀)にマグマが貫入して、庭石として珍重される鞍馬石や本鞍馬などの火成岩が生まれました。

鞍馬山の岩盤が固く、地下に根を張れない木の根が地表を這う木の根道や、人手が加わっていない自然林が安定した形になる
極相林などの独特の景観が見られます。

また、このような複雑な地質に裏日本の気候と表日本の気候が入り混じって千種近くの植物が茂っています。
http://www.kuramadera.or.jp/ より。

大杉権現社この辺りは、大杉苑瞑想道場と呼ばれ、護法魔王尊のエネルギーの高い場所として知られています。


来る前に、この瞑想場の情報は入手していましたので、ここで軽い昼食をとり一休み。ツクツクボウシの轟音の中で
少し瞑想してきました。なぜか、一休みの間、誰も来ることがなく十分に満喫できましたよ。

大杉権現社からは下りになります。静かな下りを歩いていくと、しばらくして奥の院参道に合流。だいぶ人が多くなっていて
驚きました。

不動堂
ここには、伝教大師、最澄が天台宗立教の悲願に燃え、一刀三礼を尽くし刻んだ不動明王が奉安されています。

魔王殿
太古、護法魔王尊が降臨した磐坐・磐境として崇拝さ れてきました。

「木太刀もて岩を斬りたる遮那王の やという声に似る歌無きか」與謝野寛(鉄幹)
「太刀跡の岩 義経が裂きたるや 杜鵑の声が紋を残すや」與謝野晶子
 
サナト・クマーラ
ヒンドゥー教の神話・説話に登場する賢人にして、ブラフマーの精神から生まれた四人のクマーラ(チャトゥルサナ)の一人。
近代神智学では、1850万年前に金星から、地球のロゴス(地球の創造主、神)の、物質界における代理人としてやってきた
霊的指導者マハトマであるとされる。
 
日本語では「サナト・クマラ」「サナート・クマラ」とも表記され、ニューエイジの文脈やファンタジーにおいて護法魔王尊と
同一視されることが多い。京都鞍馬山の鞍馬寺はもともと毘沙門天を祀っていたが、現在は毘沙門天・千手観世音・護法魔王尊の
三尊が一つになった尊天をまつる、新宗教・鞍馬弘教の総本山となっている。
鞍馬はクマラの転化とされる。立教後の説明では、護法魔王尊が650万年前に金星からやってきたとされるなど、近代神智学の
教義の影響がみられる。by wikipedia

魔王殿からは、貴船まで階段状の下りが続いていました。倒れている大木が少し異様な光景。

鞍馬山の古名を暗部山とする説がそうです。暗い場所を意味する「暗部(闇部)(読み、くらぶ)」の読みが鞍馬に転じたと
する説。鬱蒼とした山の中・・・京から見れば「暗い山」だったのかもしれませんね。

鞍馬山の静寂から、長い下り階段を何も考えずに降りていき小さな橋を渡ると・・・・いきなり、都会の喧騒のような場所に
降り立ちました。まるで、天界から地上界に落とされたような(笑  いや~ほぼ情報を入れて無かったので度肝を抜かれ
ましたよ(笑

ちょうどお昼時に貴船に参上!!! 

川床料理10000円くらい? 流しそうめん~2時間半待ちだそうで・・・・・^^;;

つづく~


京都2(鞍馬山・由岐神社)

2017-09-19 06:26:34 | ・神社・お寺

2017.8.26~27 京都・神戸へ行きました。

つづきです。鞍馬山の九十九折参道を更に登ると由岐神社が見えてきました。

由岐神社の祭神の「靫明神」は、天慶三年(940)天慶の乱が起きたので朱雀天皇の勅により、鞍馬寺に遷宮し、北方鎮護を
仰せつかった鎮守社です。
鞍馬の火祭は、そのときに里人がかがり火を持って神霊を迎えたことによるものだと伝承。

いや~、重厚な神門・・・と思ったら、こちらは「拝殿」のようです。

拝殿・・・神門、随身門のようですが両側が神楽殿のようでもあります。
本殿と拝殿は、豊臣秀頼により再建。特にこの拝殿は、割拝殿形式の桃山建築で、国の重要文化財に指定されています。

拝殿 境内側から。

 

拝殿と本殿をつなぐ石段の脇の御神木の「大杉」

この境内で圧倒的な存在感を魅せています。京都市指定天然記念物で樹齢800年。高さは53メートル。

本殿

由岐神社(ゆきじんじゃ)は、京都市左京区鞍馬本町にある神社である。鞍馬寺の鎮守社である。
通称靫明神(ゆきみょうじん)。大己貴命と少彦名命を主祭神として「由岐大明神」と総称し、八所大明神を相殿に祀る。

祭神は元は宮中に祀られていたが、都で大地震・天慶の乱が起き、当時の天皇である朱雀天皇の勅により、天慶3年(940年)、
鞍馬の地に遷宮をし、北方鎮護を仰せつかった。
例祭の鞍馬の火祭は、そのときに里人がかがり火を持って神霊を迎えたことによるものである。
「靫明神」という社名は、天皇の病や国難時に神前に靫(ゆき)を献じて平穏を祈ったことによる。洛中(京都)の五条天神社
は、国難時にその責任を取って「流罪に処す」として国の役人が神社の扉に靫を架けて閉じるということが行われていたが、
『徒然草』によれば由岐神社でも同様のことが行われていたという。由岐神社と五條天神社は祭神が同じである。
by wikipedia

靫(ゆき、ゆぎ)・・・・矢を入れ、背に負った細長い箱形の道具。


京都1(鞍馬山・九十九折参道)

2017-09-18 12:52:49 | ・神社・お寺

2017.8.26~27 京都・神戸へ行きました。

0620 広島行きのぞみ 自由席はガラガラ。0838八条西口コインロッカーへ。
0910JR奈良 東福寺へ。アジア人、欧米人・・・外国人だらけだ。日本人が居ない(・_・;まるで海外に来たみたい。
運動系小学生のグループは日本の子。東福寺で京阪本線に乗り換え。外国人はほとんど居ない。旅行者もパラパラ。
清水…祇園…などオサレな名前の駅が多い。地元っぽい方は、なんとなく品が良さそうに見えるのは気のせいか?(笑)
出口柳駅から叡山鉄道で鞍馬へ。
ほぼ日本人の観光客かな。二両編成。なんか世田谷線みたいだな。うわー晴れてきた。
暑くなりそーだー。

鞍馬駅

鞍馬駅から鞍馬山を歩き、貴船神社方面へ降り、貴船口駅から戻るコースにしました。今思うと、早い時間帯に貴船神社へ
行き、鞍馬山を登る逆のコースの方が良かったですね。逆コースだと、ちょっと山道がキツイですが、貴船の喧騒を避けられます。

そもそも、なんで鞍馬山へ行くことになったのか?天狗に逢いたかったからです。なんちゃって(笑
今から18年前にレイキを学んだ事があるのですが、このレイキの創始者の臼井 甕男が啓示を受け取ったのが鞍馬山でした。
また、牛若丸が鞍馬山の由岐神社の上手にあった東光坊で昼間は仏道修行、夜は僧正ガ谷で天狗に兵法を授けられたという伝説が、
あったり、更に歴史を遡れば、早良親王の怨霊から都を守るための結界(風水)の一つであると云われているそうです
(貴船神社奥宮~鞍馬寺の本尊である魔王が祀られている奥の院~鞍馬寺と、早良親王の怨霊をお祭りする崇導神社は一直線に
並んでいる)。

臼井 甕男(うすい みかお、1865年8月15日 - 1926年3月9日)
現在レイキとして世界中に広まっている手当て療法を中心とした民間療法の一種「臼井靈氣療法」(臼井霊気療法)の創始者である。
職業は、公務員、会社員、実業家、新聞記者、政治家後藤新平の秘書などさまざまに経験する。
その体験から「人生の目的とは何か」という大命題の探求から、禅の道に入り、真の悟りともいえる安心立命の境地を目指し修行
するも、どうしても悟りを得られず、悩みぬいた末に禅の師に相談したところ、「それなら一度死んでごらん」と答えられ、
「自分の人生も、もはやこれまで」という覚悟を決め、1922年春に京都の鞍馬山にこもって断食を始める。修行のための断食と
言うよりは、死を覚悟してのものだったらしい。
断食に入り3週間目の真夜中ごろ、脳の中心部あたりに落雷をうけたような激烈な衝撃を感じ、そのまま意識不明の状態に陥る。
数時間後、ふと気がつくと夜が明け始めた頃で、心身爽快な気分に満ちて目覚め、その衝撃のときに感じたエネルギーが心身を
貫き、体内との共鳴、一体感を達成し、求めていた悟りの境地を完成したことを知る。

悟りが得られたことに喜び勇んで山を降りる途中、石につまづき足の指の爪がはがれ、思わず手を当てたところ痛みが去り、
血が止まり即座に治癒してしまったという。そして、山のふもとまで降りてくると、小さな食堂があり、主人が止めるのも聞かず
腹いっぱい食べた。主人の孫娘が顔が腫れるほどのひどい虫歯で、頬に手を当てるとたちどころに痛みが引いた。さらに、家族
にも試したところ即効的な効果があり、「広く世の中の人にこの力の恩恵を与えたい」との思いから、工夫研究の結果、この
能力を他人に伝授し、心身改善に活用する方法を見出す。これが臼井霊気療法という手当て療法の始まりとされる。
1922年4月に指導法などを定めた上で臼井霊気療法学会を設立する。
現在世界中に広まっているレイキは、臼井が養成した21または20人の師範(レイキを他人に伝授できる資格者)の一人
林忠次郎がハワイ在住の日系人高田ハワヨに伝授したものが広まったもの。by wikipedia

そんなわけで、一度、鞍馬山へ行ってみたかったわけです。ただ、早良親王の怨霊から都を守るため・・・というのが、
ちと怖いなあとは思いましたが、とりあえずやってきた次第です。



鞍馬駅のすぐ近く。川の流れがいい感じ。涼しいでしたよ。ちょっとここで休憩。

門前の風景です。

鞍馬街道より 左側は、歓喜院・修養道場。

仁王門(山門)

明治44年の再建。左側の扉は、 寿永の頃(1182~4)のもの。 両側に立つ仁王尊像は運慶の嫡男、 湛慶作と伝承。浄域への結界。

『鞍馬蓋寺縁起』によれば、奈良時代末期の宝亀元年(770) 奈良・唐招提寺の鑑真和上(688~763年)の高弟・
鑑禎上人は、正月4日寅の夜の夢告と白馬の導きで鞍馬山に登山、鬼女に襲われたところを毘沙門天に助けられ、毘沙門天を
祀る草庵を結びました。桓武天皇が長岡京から平安京に遷都してから2年後の延暦15年  (796) 
造東寺長官、藤原伊勢人が観世音を奉安する一宇の建立を念願し、夢告と白馬の援けを得て登った鞍馬山には、鑑禎上人の草庵が
あって毘沙門天が安置されていました。そこで、「毘沙門天も観世音も根本は一体のものである」という夢告が再びあったので、
伽藍をととのえ、毘沙門天を奉安、 後に千手観音を造像して併せ祀りました。

千二百余年前、鞍馬寺を開創した鑑禎上人は律宗に属し、藤原伊勢人は、鎮護国家の毘沙門天と慈悲の観音を一体として併せて
祀りました。中興の祖、峯延上人は真言宗の十禅師とも言われています。後に天台宗の影響が強まり、天台法華・天台密教・
天台浄土が取り入れられました。

鞍馬山には、神代以前からの古神道や陰陽道、修験道等の山岳宗教の要素も含まれています。宗派に捉われない懐の深さは
鞍馬寺の宗教伝統となっています。 昭和22年、初代管長信樂香雲は、このような多様な信仰の歴史を統一して鞍馬弘教と
名付け、昭和24年、鞍馬寺は鞍馬弘教の総本山となりました。http://www.kuramadera.or.jp より。
 

童形六体地蔵尊

ケーブル普明殿(山門駅)
ケーブルに乗ると由岐神社に寄れないとの事なので歩いて登ります。

九十九折参道

ケーブルを使わず、ケーブル山門駅の横の九十九折の参道を登ります。この道は、平安時代、清少納言が
「遠きて近きもの、くらまのつづらをりといふ道」 と綴ったことで有名です。

放生池 近くに大きな桂の木がありましたよ。

吉鞍稲荷社

魔王の滝

鬼一法眼社

『義経記』で義経は、兵法の大家、鬼一法眼から兵法書 『六韜』 を盗み、学んだとされています。


放生池~吉鞍稲荷社~魔王の滝~鬼一法眼社は、九十九折参道の現代色付け風ではありましたが、実に良い空気が流れて
いましたよ。静かで人も少なくてホントに良かったです^^ つづく~

旅メモ
阿波踊りの前夜祭の名残り。
北口ロータリー手前で席を確保しているグループあり。間違えて特急券を入れてはねられる(笑)
538 各駅東京行き あっ、土曜日なので各駅なんだ。東京駅着。新幹線改札。入ってう●こ。616の博多行きは出て行きました。
620 広島行きのぞみ 12車両辺りから3号車まで急ぎ足で歩く。自由席はガラガラ。3号車で各列一人ずつとグループ。
3人掛けの南窓側ゲット。汗だく。汗取りシートは気持ちいい。新横浜手前、陽射しが眩しい。ブラインドを下げる。
独りで行動するのは、身の回りのアレコレ確認などヴィパッサナーに良いな。
豆ちゃんのブログ読んでたら少し眠くなってきたが、なんか冷房寒い。薄い長袖持ってきて正解だなー。曇ってきたなー。
まもなく名古屋。

0801名古屋。曇り。28度。隣に母娘が乗ってきた。直ぐにお弁当広げて食べ始めた。良い匂い(笑)名古屋路面が濡れてる。
雨降ったようだね。彦根、古い屋根の民家が多い。稲穂はだいぶ黄色くなってきてる。赤飯のオニギリ一個食べた。

奥石神社 近江八幡良さそう。
0838八条西口コインロッカー6110
0910JR奈良 東福寺へ。
アジア人、欧米人、外国人たらけだ。日本人が居ない(・_・;まるで海外に来たみたい。運動系小学生のグループは日本の子。
奈良線。ここは日本人だけ。東福寺で京阪本線に乗り換え。旅行者もパラパラ。清水…祇園…などオサレね名前の駅。地元っぽい
方は、なんとなく品が良さそうに見えるのは気のせいか?(笑)三条 出口柳 叡山電車で鞍馬へ。

ほぼ日本人の観光客かな。二両編成。なんか世田谷線みたいだな。うわー晴れてきた。暑くなりそーだー。参道、風が変わる
1351貴船口駅乗車
1610七条 


2017.8.11~14乗鞍高原12(梓水神社)

2017-09-16 06:56:30 | ・神社・お寺

2017.8.11~14乗鞍高原へ行きました。

番所大滝の後、旅の恒例の神社参拝へ^^

神社手前に沼のような池がありました。kouchaが植物探索するから車を停めるようにと・・。

池の乗鞍側に祠が・・・。

ジュンサイの花

御池
梓水神社の境内であり、この御池はその神の鎮座する池。

なんと、この池も梓水神社と関係が深かったのでした。

ミヤマママコナ

さて、梓水神社です。境内への入り方を間違えて反対から入ってしまったので写真羅列では逆転させます。

道路側から参道を入り鳥居をくぐって登ります。(階段の上より)

拝殿

素晴らしい掘りの拝殿です。梓水神の鎮座する乗鞍岳の山宮として古代に建立。現在の建物は江戸時代のものです。

龍が巻き付いています。

ライチョウでしょうか?

こちらは猛禽類のようですが、周りはハイマツですね。

拝殿脇の左側ですが、滝ですね。

本殿

拝殿脇の右側

梓水神社は、梓水神の鎮座する乗鞍岳の山宮として建立された。「日本三代実録」には、平安時代867年に従五位下という
位を朝廷から預かっており、実に約1150年の歴史がある神社。

梓水神社は、古くから山岳信仰のよりどころとして大切にされてきました。”梓(あずさ)”とは、カバノキ科の「ミズメ」
という木で、”梓弓”という弓を作って朝廷に献上していたことから、この名が付きました。

階段を上った奥にある本殿は明治8年に建て替えられ、手前の拝殿は昭和18年に新築されました。拝殿の紅梁や脇障子には、
見事な彫刻が施されています。https://norikura.gr.jp/product/azusamizu-jinja/ より。

末社

こちらの末社?良く分かりません。でも凄く立派です。他の末社同様に乗鞍岳方向を拝むように建てられています。

梓水神社に関しては、http://springbk.exblog.jp/14594178/
こちらさまのブログにより詳しく書かれていますが、この末社に関しては触れられておられません。

境内奥には鳥居があって乗鞍が望めました。

地理院地図によると、この梓水神社の立地は乗鞍の溶岩流のほぼ先端に位置します。
確か、富士山の山宮浅間神社も流れ出た溶岩流の末端部に位置していましたね。

素晴らしい境内の空気・空間でした。また季節を代えて訪れたいですね。

下記は、乗鞍自然保護センターでの乗鞍信仰についてです。

旅の最後を締めくくるには最高でございました。感謝感謝^^


2017.8.11~14乗鞍高原11(番所大滝)

2017-09-15 16:04:11 | ・旅・山

2017.8.11~14乗鞍高原へ行きました。

さて最終日です。この日は朝食中に宿泊施設の窓越しにカモシカが現れましたよ。

最後に、乗鞍滝巡りの三つ目の「番所大滝(ばんどころおおたき)」へ寄りました。

ホツツジ 可愛いですねー。

滝へ下りる道沿いで板状節理が良く見られました。

タマアジサイ

番所大滝

標高1,248m、小大野川に架かる幅15m 落差40mの大滝。

いや~、なかなか迫力ありましたよ!

滝の左側をアップしてみました。まるで修行僧が滝に打たれているかのようです。

番所溶岩は暑さ60mに達しているようです。

美しい!

立派な滝でした^^ 


2017.8.11~14乗鞍高原10(剣ヶ峰/乗鞍本宮奥宮)

2017-09-14 08:48:36 | ・神社・お寺

2017.8.11~14乗鞍高原へ行きました。

畳平から登り、不消ヶ池~剣ヶ峰の風景です。


不消ヶ池

いや~雪渓の色合いが美しかったですねー。

と、ここを過ぎるといきなり雲が湧き出てきました。

と思ったら、あっという間に天候回復。さすが山の天気の変わり様はスゴイですね。

肩の小屋口上方の大雪渓と剣ヶ峰

強烈は陽射しで水蒸気が上がります。スキー、スノボをしている方も居ましたよ。

イワヒバリ

不動明王(大日如来の化身)さんにご挨拶して大日岳・剣ヶ峰へ。

反対側は、摩利支天岳の山頂の乗鞍コロナ観測所

さて、剣ヶ峰山頂へ続くガレ場を登ります。

剣ヶ峰山頂

権現池 すごい色合いです。

山頂手前

お盆休みで天気も良い日でしたのでファミリーから団体さんまで沢山の人達が登っていました。

長野県側・朝日神社(信州側・朝日権現神社)

乗鞍本宮と背中合わせに建っていました。

岐阜県側・乗鞍本宮(飛騨側・乗鞍大権現)

こちらは宮司さんも居られましたよ。山頂は大混雑でした。

ついに剣ヶ峰山頂登頂(3026m)です。人生初の3000m越えでした。一度3000m以上の空間に身を置いてみたかった
のでした。想像以上に混んでいました(笑)

残念ながら山頂は雲が取り巻いていて展望はNGでした。

下山時の権現池

雲が切れると、こんな色合いに。深い青がホントに美しかったです。

 屏風岳

登山道のガレ石の色合いが様々です。
地理院の地図によると、約70~15万年前に噴火した火山の岩石(安山岩・玄武岩類)。

 

下りてきましたー。ちょっと天気が残念でしたが、綺麗な御来光も拝めましたしね。

乗鞍スカイライン

宿泊した乗鞍国民休暇村や牛留池の休憩所も見えていました。

??????

下山時の不消ヶ池では、このユキムシのような虫が粉雪のように飛び交っていました。首回りや顔や頭にくっ付いて
タイヘンでしたよ。

イワギキョウ

クワガタソウの仲間

イワヒバリ あちこち撮り易いところに出没しますね。

クロクモソウ

最後にお花畑を一周しましたよ。朝は白山が見えていましたが、こんな感じ。

ミヤマクロユリの咲き終わりが沢山ありました。すごい群生でした。これだけのクロユリが咲いていたら綺麗だったで
しょうね~。 


2017.8.11~16乗鞍高原9(乗鞍本宮中ノ社)

2017-09-14 08:47:07 | ・神社・お寺

2017.8.11~14乗鞍高原へ行きました。

畳平の「乗鞍宮」に参ってから剣ヶ峰へ向かいました。
それんしても、スゴイ青空です。紫外線強烈です。

乗鞍本宮

主祭神
・天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)
・五十猛大神(いそたけるのおおかみ)
・於加美大神(おかみのおおかみ)
・大山津見大神(おおやまつみのおおかみ)

住所
岐阜県高山市丹生川町岩井谷字乗鞍岳1224番地

由緒由来
乗鞍岳は、中部山岳の飛越国境に聳え、主峰を剣ケ峰と称し、海抜3026Mで本宮が鎮座され古来霊山で、
乗鞍大権現の神体山と仰ぎ、山麓四方の信仰が厚く、別名を鞍ケ嶺.愛宝山.とも言い、貞観の昔紫雲三度
棚引云々と日本書記にも見らる、位山とは正に是れならん。養和元年、木曽義仲の臣、飛騨国を観察のため
屡登山した、其の際社殿を創建し黄金の神像を奉安せしと云い伝う鞍ケ嶺神社があった、神名をもって山名.
湖名となし、権現ケ池、大丹生ケ池、亀ケ池.鶴ケ池には霊水を湛え、雨乞.祈晴に霊驗があると称される、
これらの水は、丹生川及び阿多野川の本流となり、北流して神通川、南流して飛騨川となる。またその流域
には里宮として、式内槻本神社.御崎神社等の古社を初め、分社伊太祁曾神社を祀る事数十社にも及んでいる。

近時御岳教の隆盛に伴い、一時乗鞍信仰が衰頽したしかし尾張地方には信者があり、毎年団体参拝を昔ながら
に続けている、昭和3年、前記鞍ケ嶺神社は、山麓の沢上伊太祁曾神社に合併して「乗鞍神社」と改称した、
同4年9月9日頂上15坪を神社境内地として、大蔵省より無償譲与を受けた。もとは神職・信者村民等挙って
神霊を奉じて登山し、参篭して、毎年8月8日に乗鞍祭を執行するのが慣例であった。

昭和22年各関係者の尽力により、登山道「乗鞍スカイライン」が完成し、畳平の駐車場を終点に、海抜
2、740Mの雲上への自動車運行により、年間数百万人の登山者を数えるに至った。宗教法人法の施行に
伴い昭和24年新しく乗鞍本宮として設立、社殿を再建し、同28年駐車場付近に遥拝所を創建「中ノ社」
となし、同49年現状の如くに再建する。岐阜県神社庁hpより。