2017.9.8~11 親友と二人でオヤジ軍団九州旅行(佐賀~長崎~大分~福岡)へ行きました。
9.9 波佐見を出発して、佐賀・武雄神社へ参拝に行きました。向かいの武雄市図書館にクルマを停めて参りましたよ。
「心字池」
心字池にかかる橋を渡ると「二ノ鳥居」
寛文12年(西暦1672年)に藤原頼続によって肥前鳥居と神明鳥居の折衷型の鳥居が建立。
階段を上がると右手に「夫婦檜(むすびの樹)」
当社の御祭神である仲哀天皇・神功皇后の御神威によって、2本の檜が根元で結ばれ、樹の中ほどで再び枝が合着したと
云われている。仲睦まじく立っているその姿から根元は夫婦和合を、繋がった枝は様々な縁を繋ぐ縁結びの象徴として
信仰を集めている。男女の縁に限らず、人との縁、仕事との縁、お金との縁など、人それぞれに願いは様々である。
また、雌木の中ほどに見られる宿木は、応神天皇を懐胎しながらも、三韓征伐で勇ましく戦った神功皇后の、安産、子授けの
御神徳の現れであるとされている。http://takeo-jinjya.jp/keidai/keidai1/ より。
拝殿方向へ。まるで城壁のような高い石垣が圧倒します。神社でこんな石垣は見たことないですねー。
石垣の間の階段を上ります。
肥前鳥居(三ノ鳥居)《市指定重要文化財》
元和3年(西暦1617年)武雄領主21代の鍋島茂綱が建立。この鳥居は、この地方独特のもので下部が太く、柱は
三本継で形成されており、笠木と島木が一体となり木鼻は流線型になっている。
いや~とても重量のある鳥居でした。
拝殿
現在地に遷宮後はじめて改築されたのは慶長17年(西暦1612年)となっている。その後、昭和39年の火災により昭和45年
銅葺屋根の鉄筋コンクリートの社殿が再建された。社殿は、流造の本殿に唐破風付き入母屋造りの拝殿となっており、色は
当社の使いとされる白鷺に肖り白を基調としている。
というわけで、「白」を基調とした綺麗な拝殿・本殿でしたよ。
拝殿と社務所
本殿も拝殿同様に白が基調で美しかったです。
由緒
『武雄神社本紀』によると、神功皇后が三韓征伐の帰途、武雄に兵船を止め、それが御船山に化したとあります。これに
より同行していた住吉神と武内宿禰が御船山の南嶽(船の艫)に鎮座し創祀されました。
而して天平7年(735年)初代宮司 伴行頼に『吾は武内大臣である。艫には住吉神がおられ、艫嶽に祀られていても
畏れ多く落着かないので、幸い軸嶽に自分を祀るならば、末永くこの地に幸福が訪れるであろう。』との神託がありました。
行頼は太宰府を通じて朝廷に奏請し、武内宿禰を主神に、仲哀天皇、神功皇后、応神天皇、武雄心命を合祀し北麓に奉遷し
武雄宮が創建されたと記されています。
平安時代での旧社格は、九州地区の統治組織「大宰府」の府社とされ、祭礼に国使が参向するなど、杵島郡の鎮守として郡民
の崇敬をうけていたばかりではなく、肥前に於ける名社として深く重んぜられていました。また、それらを裏付ける218通
にもおよぶ古文書(こもんじょ)が現存しており、九州における神社文書の代表的な遺品とされています。
元永年中(1118~20年頃)武雄二代領主 後藤資茂が、朝夕秀麗な御船山の麓に鎮座する武雄神社を望み、築城の適地
と思い、朝廷に奏請して当社を舳嶽東麓(現在地)に遷しました。
文治元年(1185年)の壇ノ浦の戦いでは、源頼朝が当社に密使を使わせ平家追討祈願をしました。平家を滅ぼした頼朝
は、勝利を武雄神社の神徳によるものと感じ、後鳥羽天皇の勅使と名代の御家人を赴かせ『御教書』を送り深謝しました。
この参詣を歓迎して、武雄四代領主の後藤宗明が流鏑馬を奉納し、以来、氏子のてによって『武雄の流鏑馬』は、八百年以上
ものあいだ連綿と継承されています。 また、これを機に武雄神社と源氏との関係は極めて密接となり、神社として将軍家の
祈祷に当たる関東御祈祷所の使命と、社家として御家人の使命を有し、二重の立場に於いて活動することになりました。
鎌倉中期の元寇では、未曾有の国難に際し、伏見天皇より異国降伏の祈祷の『綸旨』を賜る光栄に浴するなど、国家的な存在
でありました。本紀によれば、文永の役の十月二十日の夜、武雄神社の神殿から鏑矢が元軍船目掛けて飛び、元軍は逃げて
いったとしてあり、また、弘安の役では上宮から紫の幡が元軍船の方に飛び去って、大風を起こしたとあります。この霊験
により『九州五社ノ内』と称され、九州の宗社として隆々と栄えた時代もありました。
現在では武雄の氏神社として、また樹齢三千年のご神木を祀る神社として、氏子はもとより全国各地から広く信仰を集めて
おります。http://takeo-jinjya.jp/shrine/ より。
境内奥
塩釜神社
俗に「塩釜さん」と云われ、国土鎮護、商売繫昌、航海安全、安産、延命などの神として一般の信仰が厚い。
武雄に祀られたのは、第28代 武雄領主 鍋島茂義公の時で、公は西洋文化の吸収に力を入れたが、その為に、ややも
すると当時、夷狄としての謗りを憂慮して、国土平定鎮護の塩釜社を天保8年(西暦1837年)6月、宮城県塩釜市の
総本社に勧請し奉斎したのであろうと云う説がある。
城山稲荷神社
城山は御船山の別名であり、安政5年(西暦1858年)9月に勧請し奉斎したとなっている。
倉稲魂神・猿田彦命・大宮女命の三神に摂社の田中大神・四大神の二神を加え稲荷五社大明神と称し、殖産興業の守護神
として祀られている。 http://takeo-jinjya.jp/keidai/keidai1/#1 より。
武雄神社「御船山の山麓」にある神社です。
「御神木」の鳥居をくぐり、「武雄の大楠」へ向かいます。
良い感じの小道です。
更に進むと竹林。この感じも良いですねー。
大楠が見えてきました。
御神木・武雄の大楠
根元まわりは26m、高さ27m。根元の空洞の広さは12畳ほどもあります。推定樹齢3000年、全国第7位(2016年8月現在)
の日本指折りの巨樹です。武雄市には3本の大楠があり、最も大きいのが川古の大楠で「川古の大楠公園」内にあります。
すごい空洞です。12畳の広さがあるそうです。
超望遠で空洞内を撮ってみました。中には祠が置かれお供え物もたくさん。
いや~、すごい巨木でした。もう少し間近で相対したかったですが仕方ないですね。
巨樹の周りの空気・空間も素晴らしかったです。スケールが大きかったですねー。以前、屋久島のウィルソン株の中に入り
ましたが、10畳位の広さだったようです。つづく~