~風に吹かれて~ by ポー(paw)

-人の中に 人の創り出した物の中に 動植物の中に 地球や宇宙の中に 魂の琴線にふれ 愛を感じながら 生き込みたい-

志茂熊野神社(東京都北区志茂)

2018-04-30 09:50:42 | ・神社・お寺

2018.4.22 久しぶりのサンデーamショートトリップ^^ その三。ブラブラと十条冨士から柏木神社、続いて熊野神社へ。

以前の熊野神社本殿

墨田川沿いに鎮座しています。熊野神社の白い拝殿が美しかったです。

たびたび洪水に見舞われ悲惨な思いをされた地なのですね。お伊勢参りの絵額も奉納され、祈祷も熱心に行われていたのでは
ないでしょうか。

境内には、椥(なぎ)の木や境内社の梛野原稲荷神社がありますが、

熊野神社及び熊野三山系の神社では神木とされ、一般的には雄雌一対が参道に植えられている。また、その名が凪に通じると
して特に船乗りに信仰されて葉を災難よけにお守り袋や鏡の裏などに入れる俗習がある。また葉脈が縦方向のみにあるため、
縦方向に引っ張っても容易に切れないことから、葉や実が夫婦円満や縁結びのお守りとしても使われている。神社の中には代用木
としてモチノキが植えている場合もある。」by wikipedia

との事です。椥の木は関東南部が北限のようです。荒川の船乗りの安全祈願も盛んに行われたのでしょうね。この日は天気も
良くて風も無く穏やかな日で、とてもたびたび洪水に見舞われていた地とは思えませんでした。静かで穏やかな風が境内を包んで
いました。


柏木神社(東京都北区)

2018-04-30 09:29:41 | ・神社・お寺

2018.4.22 久しぶりのサンデーamショートトリップ^^ その二。ブラブラと十条冨士から近くの神社へ。

日曜日の朝、パチンコ屋は列をなしていました。ちょうど入場時間。この商店街も昭和っぽかったなあ。
sony看板の電気屋さん?CD店? 山もり演歌歌手のポスター貼られてましたー。演歌大好き店主さんなのかな♪

柏木神社の由緒
柏木神社は、元享年間(西暦1321年)に神谷三丁目の荒川に面した地に、伊邪那美命を御祭神とする神谷町の総鎮守神の社殿
として建立された。

安産の神として崇められると共に、荒川を上り下りする舟の水路の安全を祈るの神様としても有名であった。
その昔は社域は広大で、神楽殿もあり、多くの樹木の聳える荘厳な森に囲まれていたが大東亜戦争が激化するに伴い、境内は
軍需工場に接収され、昭和十八年十二月現在地に遷宮された。

昭和五十四年八月神谷町内外の氏子有志の奉賛により、現在の社殿が建立され、今日に至っている。
昭和五十六年九月 吉日 柏木神社

歩いていると良く分かりませんが、近くに墨田川・荒川があります。荒川の水路往来祈願が行われていたわけですね。
この日は天気も良くとても暑い日でした。夏日だったかな。汗かきかきのウォーキング&参拝でしたよ。


十条富士神社(十条冨士塚)(東京都北区)

2018-04-30 09:14:27 | ・神社・お寺

2018.4.22 久しぶりのサンデーamショートトリップ^^

風の吹くまま、気の向くまま・・・・赤羽行のバスが来たので飛び乗りました。バス中で、神社を探して・・・十条辺りで
降りました。浅間神社があるようで・・・

お~「富士見」の文字が^^

富士見銀座でっせ~。アーケード商店街、なかなか長いです。

ここにも「富士」の文字が。

お~、こんなお祭りが・・・この日の午後からでした。今年は復活第二回目のようでしたよ。

「昔、十條には「雨乞い儀礼」というお祭りがありました。冨士神社境内で麦わらの「大蛇」を作り、遠くは榛名山からの
ご神水をかけたこの大蛇を担ぎ、村中を練り歩くというものでした。」

北区教育委員会によれば、この伊藤伊兵衛(食行身禄)の名前を代々ついで、富士講を支えてきた人物が十条の富士神社などの
再興をした伊藤元講ということのようです。この富士塚には十条富士神社の鳥居や頂上の石祠など16基は明治14年(1881)に
造立されています。この年は、冨士講中興の祖といわれた食行身禄、本名伊藤伊兵衛の150回忌に当りました。というわけで、
代々手を加えられているので豊かに保存されていると思われます。この富士塚、古墳と推定される塚上のようです。割と近く
には墨田川・荒川が流れている立地です。立派な富士塚でしたよ^^


小網神社(中央区日本橋小網町)

2018-04-30 08:09:02 | ・神社・お寺

2018.4 年に一度の健診後に近くの神社を参拝しました。その二(笑)

小網神社・・・・ビル群に囲まれた地に、おお~!と思わず声を上げそうな立派な神社が鎮座していました。

平日午前中の早い時間帯でしたが御朱印・参拝の方も数名おられましたよ。五角形の神楽殿も粋ですね~。

奉納灯・・・下側に奉納社の名入れ・・・なるほどなるほど、とても目に付くのでした^^

下町風情満載の境内でした^^ 立地上こじんまりとはしていますが明るい気を感じる居心地の良い神社でした。

由緒などはこちらに詳しく・・・・http://www.koamijinja.or.jp/history.html

「文正元年(西暦1466年)、庵の周辺で悪疫が流行し、人々は困り果てていました。そんななか、網師の翁が海上で網に
かかった稲穂を持って庵を訪れ、数日間をこの庵で過ごしました。ある夜、庵の開基・恵心僧都が当時の庵主の夢枕にたち、
網師の翁を稲荷大神と崇めれば、村の悪疫は消滅することを告げます。 夜が明け、網師翁の姿は庵にはありませんでしたが、
庵主は恵心僧都の託宣を村人たちに告げ、翁を小網稲荷大明神と称え、神社を創建して日夜祈願をつづけました。すると間も
なく村の悪疫は鎮まり、村人たちは歓喜したといわれています。」

というわけで、この神社はお稲荷さんですが、お狐さんが居ませんでした。「網師の翁を稲荷大神と崇める」がルーツだから
でしょうかね?網師の網から「小網神社」になったのかなと思ったのですが、地名由来を見ると、

「江戸時代に将軍の御前で網を引いた漁師が御肴御用を命ぜられ、白魚献上の特権を得た故事により、この漁師たちの一丁目の
町角に漁網を一張干しておく風習から生じた町名と推定される」(by wikipedia) とありました。

いずれにしても漁師の「網」の文字が取られているようですね^^


出世稲荷神社(中央区日本橋堀留町)

2018-04-25 18:06:10 | ・神社・お寺

2018.4 年に一度の健診後に近くの神社を参拝しました。

えっ、どこどこ??

わお、洗濯機の奥だ^^;

・御祭神:五穀豊穣の神様である倉稲魂命

・創建:江戸時代の初め、元和3年(1617年)

・北条家の浪人で、吉原遊郭を作った庄司甚右衛門の仮屋敷がこの場所にあり、その屋敷神として京都の伏見稲荷より
 ご祭神を勧請して祀ったのが始まり。

・江戸時代の歌舞伎役者である初代市川團十郎が、日参して祈願し名を上げたことから、出世稲荷神社と称されるように
 なった。

現在の吉原とここ堀留町はずいぶん遠いんだけどなあと思って調べたら、

・江戸幕府開設間もない1617年、日本橋葺屋町(現在の日本橋人形町)に遊廓が許可され、幕府公認の吉原遊廓が誕生し
 たとの事。しかし、明暦の大火(1657年)で日本橋の吉原遊廓も焼失。幕府開設の頃とは比較にならないほど周囲の
 市街化が進んでいたことから、浅草田圃に移転を命じられた。以前の日本橋の方を元吉原、浅草の方は正式には新吉原
 (略して吉原)と呼ぶ。by wikipedia

との事でしたよ。はじめは人形町に遊郭があったんですねー。知りませんでした。それにしてもすごい所にある神社

でした^^


宮沢諏訪神社(東京都昭島市)

2018-04-24 15:43:33 | ・神社・お寺

2018.4

雨が降りだしていました。おトイレをお借りしました。 

八重桜かな?満開越えでした。銅鳥居、雨に濡れてより重厚な感じです。

すごい石垣です。

この鈴の音・・・・鳴らした後にドンとまるで気を地面に落とし込めるような音で驚きました。

手水舎ならぬ「手水場」 なんと、「東京の名湧水57選」の湧き水。このような神社は初めてです。

境内には湧き水が流れていました。わりと交通量の多い交差点脇の神社ですが境内は湧き水で潤い、とても清々しい
空気・空間でした。


十二所神社(東京都武蔵村山市)

2018-04-24 15:16:31 | ・神社・お寺

2018.4

十二所神社(東京都武蔵村山市) 狭山丘陵の南側に鎮座。

当神社は和銅年間(今から1300年前)に創設されたと伝承されて居ります。 当時、神社が鎮座する三ツ木町は朝廷への
貢物を調製する村であって貢村と呼ばれて居りました。東京都神社庁hpより。


境内に漂う臭いがちょっと気になりました。北側に丘陵、南側は開けていて昔は眺めの良い場所だったでしょうね。緑は
深く、迫力のある狛犬んでしたよ。

境内入り口の「神社ラーメン」定休日でしたー。ネコちゃんが留守番していましたよ。


氷川神社(東京都杉並区高円寺南)

2018-04-24 14:55:33 | ・神社・お寺

2018.4.15 ご近所の氷川神社へ。

あまりにも最近、神社参拝が多いので、神社カテゴリーは今回より簡素化して投稿します。

境内社の気象神社

祭神:八意思兼命
元は、馬橋4丁目(現在の高円寺北4丁目)にあった大日本帝国陸軍の陸軍気象部の構内に、1944年(昭和19年)4月10日
に造営されたものである。この神社前で勤務前に気象観測員が気象予報の的中を祈願したという。by wikipedia

気象研究所の跡地は現在、馬橋公園となっています。気象予報士の合格祈願で有名のようですよ。

参拝中に空からポタポタと何やら落ちてきています。何かと思ったらイチョウの雄花でした。
境内、辺り一面、イチョウの雄花絨毯状態でした。ビックリです。黄葉時の枯葉の量も多いでしょうしタイヘンですねー。
それにしてもあまりにスゴイ量でビックリでした。


92歳のおばあちゃん

2018-04-20 17:43:04 | ・風に吹かれて

近所の92歳のお祖母さんとお話ししました。

とりとめなく書きます。

・昭和元年生まれですか?と聞いたら、「あら!嬉しいわ。大正生まれよ。」

・大学で関西から東京へ出てきたそうで、もうほとんど東京の人ですが、
 最近、寝言で大阪弁が出るそうです。

・子どもさん、二人いて九州で暮らしている息子さんは病気がち。
 埼玉の娘さんのお孫さんが11月に結婚!列席を目標に!そしてひ孫のお顔も
 拝めたら・・・。

・でも同窓会、どんどん人数が減ってきて数年前に二人きりに。そしてその方も
 他界されて、とうとう最後の独りになってしまって・・・さびしいです。

・お祖母さん、教師をされていて教え子がどんどん他界していくのもさびしいと。

・習字をしていた者を求む!お役に立つのならと手を挙げたら、
 召集令状(赤紙)書きだった・・・辛かった。私もウルウルしてしまいました。

・同級生の御主人、今でも運転されていて、ご一緒に箱根辺りの温泉へ行かれる
 そうです。お祖母さんはもう世界中あちこち行ったのだからもう行かなくても
 いいと思っているようですが、頑固なお祖父さんが連れて行くそうですよ。

・お祖母さんのお顔を見ながら話をしていたら、まるで異次元の世界に連れて
 行かれそうになった。たまにこういう事があるんだよなあ。
 魂の琴線に触れる時はホントに高揚するよ。うれしい。


軍刀利神社の大桂(山梨県上野原市)

2018-04-18 16:30:20 | ・神社・お寺

2018.4 愛しの大桂に逢いに行ってきました。とても風の強い日でした。

新しくiphone7になったので動画を撮ってみました。

軍刀利神社 二の鳥居 参道階段入口と手水舎

軍刀利神社・本殿 iphone7を差し込んで撮らせてもらいました。

本殿 脇より。

いつもの奥ノ院です。

若葉がたくさん^^

奥ノ院

奥ノ院 こちらもiphone7差し込んで撮らせて頂きました。

今回もたっぷりパワーを頂いてきました。

タチツボスミレがたくさん咲いていましたよ。

キケマンと奥ノ院の鳥居 ムラサキケマンも咲いていました。

モミジイチゴ こちらも沢山咲いていました。

マムシグサ こんな風に出てくくるんですねー。

オープン3年目の自家製うどん店。美味しかったですよ。


北町浅間神社(東京都練馬区)

2018-04-17 07:13:03 | ・神社・お寺

2018.3月末、練馬区にある北町浅間神社に詣でました。

東武練馬駅の南側を通るきたまち商店街(旧川越街道)沿いにありました。浅間神社のお隣はラーメン屋さん「富士亭」^^

正面の鳥居

左は富士塚 右は浅間神社

浅間神社拝殿

浅間神社の右奥には「白狐稲荷神社」 

富士塚入り口

立派は富士塚です。

富士塚山頂

富士塚山頂より

北町浅間神社は、明治前後の創建。江戸~明治の頃は賑わっていたのでしょうね。今でも神社入り口前には、きたまち商店街
があります。

板橋区徳丸鎮座・徳丸北野神社
板橋区四葉鎮座・四葉稲荷神社
練馬区北町鎮座・大松氷川神社
練馬区北町鎮座・北町浅間神社 は、徳丸北野神社の兼務社となるようです。

由緒 本社の創建は明らかでない。当社の「神社明細帳」によると、「明治時代より此地に築かれたと由来伝へられ、将軍(5代綱吉)
当時、町をあげての祭礼もありたりという。富士浅間神社の霊山、こと更に敬神厚し。宿場の街として賑わいたりしも、氏子数は
参拾数軒余で、南部四、五十軒あり。明治前に第一回の築造、明治初年に第二回の築造、街内の発展に伴ひ、昭和三年十月第三回の
築造に、立派なものに成功せり」とある。川越街道の宿場町として賑わった土地柄、江戸時代から祭礼は行われていたであろうし、
さらに富士大山道の道筋であることからも、当社が庶民信仰の中心になったと考えられる。 当社、下練馬の富士塚は、練馬区の
有形文化財に指定されている大変立派な塚で、7月1日の御山開き・2月3日の節分祭は盛大に執り行われる。
https://tokumarutenjin-kitanojinja.jimdo.com/ より。

平日の人の少な目な時間帯でしたが、下町っぽい何となく賑やかな空気・空間を感じる神社でした。富士塚もこじんまりしていました
が、石碑も多く整備され高さもそこそこありましたよ。


鷲宮神社(埼玉県久喜市)

2018-04-11 14:36:52 | ・神社・お寺

2018.3 埼玉北東部の神社を訪れました。「調神社」「久伊豆神社」参拝後、鷲宮神社へ向かいました。

武蔵国鷲宮神社 社号標 大正時代まで一の鳥居が建っていたそうです。

二の鳥居(現在は一の鳥居)

参道南側には大きな駐車場があります。

調神社でウサギ、久伊豆神社でカメ、ここではネコちゃん^^ お酉さまでもあるからニワトリさんも居ましたよ。

・社伝によれば、出雲族の草創に係わる関東最古の大社とされ、かつては「鷲宮大明神」、「浮島大明神」、「大酉元祖」
 とも称された。

・神代の昔、天穂日命と御子神の武夷鳥命が東国を経営するために武蔵国に到着し、お供の昌彦・昌武の父子と出雲族27人
 の部族、そして地元の部族と共に当地の鎮守として大己貴命を祀ったのに始まると伝える。これが、現在の別宮である
 神崎神社であった。

・その後、日本武尊の東国平定の際に戦勝祈願を行い、別宮を建てて天穂日命と武夷鳥命を祀ったという。この別宮が
 現在の本殿である鷲宮神社とされる。ただし、これらのことは『延喜式神名帳』や『国史』に記載がない。

・歴史別名を土師の宮(はにしのみや)とも言われ、一説には崇神天皇の時代に河内国から東国へ移住した土師氏が
 下総国浅草から利根川を上って当地に移住した際に先祖を祀ったのが起源ではないかと言われている。そして、
 「はにしのみや」がいつしか訛って、現在の「わしのみや」になったとされる。

・鷲宮神社は「関東最古の大社」を名乗っているものの、歴史資料に現れるのは『吾妻鏡』の建長3年(1251年)の
 記載が最初であり、この主張は根拠を欠いている。ただし、発掘調査によって縄文時代の遺跡が見つかっており、
 古くから住民がいたことはわかっている。by wikipedia

関東における大鳥信仰の総本社格とされる事もあり「お酉様の本社」とも云われる。
近年はアニメ『らき☆すた』の舞台としても有名で、アニメでの聖地巡礼の先駆け的な神社としても知られる。

参道 桜並木・・・開花していましたが満開時はもっと綺麗だったでしょうね。

金灯籠

文政12年(1829)に氏子などによって建立された青銅製。
基礎(きそ)の上段から下段にかけては、寄附者の村名と氏名、金額が刻まれていますが、現在の久喜市とその周辺市町域の
ほか、小川町や飯能市など、74か村377名の氏子と世話人40名が確認でき、鷲宮神社への信仰が広範な地域にわたっていた
ことがわかります。

基礎の下段には、雌雄の鶏が交互に並び、愛らしく美しいその姿から、当時の江戸の職人の技の高さが推し量れます。この鶏
の装飾ですが、鷲宮神社が「お酉様(とりさま)の本社」と伝えられることにちなんだものとの説もあります。(久喜市hpより)

近くには「鷲宮掘内遺跡」の石碑も建てられていて、縄文時代から人々の定住があった古い地であったようですよ。

光天之池と呼ばれる神池。

神池の向かいには「久伊豆神社」

参道途中の神輿庫、八坂神社、八坂神輿殿。

関東のお酉様の本社であることから境内に鳥小屋もありました。

拝殿

拝殿

●主祭神三柱

・鷲宮神社本殿:天穂日命(アメノホヒノミコト)武夷鳥命(タケヒナトリノミコト)

・神崎神社本殿大己貴命(オホナムヂノミコト)

●合祀祭神九柱
・建御名方神(タケミナカタノカミ)
・伊邪那美神(イザナミノカミ)
・大山祇神(オホヤマヅミノカミ)
・宇迦之御魂神(ウガノミタマノカミ)
・大山咋神(オホヤマグヒノカミ)
・天照皇大神(アマテラスオホミカミ)
・迦具土神(カグヅチノカミ)
・素戔嗚尊(スサノオノミコト)
・菅原道真(スガワラノミチザネ)

本殿

本殿

本殿はこのように二つあります。

拝殿の真裏にあるのが「鷲宮神社本殿」で、西側にあるのが「神崎神社本殿」。

社務所と神楽殿

・鷲宮神社で奉演される「鷲宮催馬楽神楽」(正式名称:土師一流催馬楽神楽)は、関東神楽の源流とされている。

・この神楽の始行年代は明らかではないが、鎌倉時代の史書である『吾妻鑑』に、建長3年(1251年)4月に鷲宮神社で
 神楽が行われたことが書かれている。しかし、これが現在の鷲宮催馬楽神楽と同一のものかは明らかにされていない。

・この神楽は、一社相伝の社伝神楽で、神楽を奉仕する家柄は代々世襲し、神社より知行として田畑三反歩が与えられていた。
 しかし、昭和に入ってから、神楽を行う神楽師が減少し始め、神楽は消える危機に瀕してしまったが、1955年
 (神楽の笛の音がNHKラジオの全国放送で流れたのを機に、「鷲宮神社神楽復興会」が組織され、神楽が伝承され、
 消滅の危機を何とか乗り越えた。by wikipedia

 

拝殿向かい神楽殿の右手の「姫宮神社」

「八幡神社」

「鹿島神社」

境内にはたくさんの境内社がありました。ところで拝殿は一つですが、鷲宮神社本殿・神崎神社本殿と二つの本殿が
あります。訪れた時には知らなかったので、どうして本殿が二つあるのだろう?どうしてそれぞれの本殿に拝殿が無いの
だろう?神崎神社へはどう参拝すればよいのだろう?
拝殿側からだと拝殿真裏に鷲宮神社本殿があるため対照的でなく、何となく違和感を感じたのでした。

「当初 祭祀時には両宮を奉っていたらしいが 時代の変遷と政治的な流れで 鷲宮神社本殿と拝殿を繋げて 神崎神社を
別宮とした」との記述のブログも見つけましたが、よく分かりませんでした。


久伊豆神社・総鎮守(埼玉県越谷市)

2018-04-10 07:17:56 | ・神社・お寺

2018.3 埼玉北東部の神社を訪れました。「調神社」参拝後、久伊豆神社へ向かいました。

ナビ通りに行ったら、神社の裏側の駐車場へ。あちこちの神社へ参るとき、なんだかいつも裏側に行っちゃうんですよねー。

駐車場から神社表参道へ向かう途中、枝垂れ桜が綺麗でしたよ。

二の鳥居

一の鳥居は、元荒川に面していて扁額には「正一位久伊豆大明神」と記されてたようです。ちょっと時間が無くて
一の鳥居から入れずに残念。。。。。。

参道にあった「雷神講」の石碑 どのような講だったのでしょうか?調べてみましたが分かりませんでした。

境内入り口 塀と大きな松の木が印象的です。

三の鳥居と拝殿

埼玉県加須市に鎮座する玉敷神社がかつて「久伊豆明神」と称しており、総本社とされている。祭神は大己貴命。埼玉県の
元荒川流域を中心に分布し、平安時代末期の武士団である武蔵七党の野与党・私市党の勢力範囲とほぼ一致している。なお、
西側の荒川流域には氷川神社東側の中川流域には鷲宮神社利根川・江戸川流域には香取神社が多数分布している。by wikipedia

三ノ宮卯之助(1807~1854)の力石がありましたよ。(以前に桶川稲荷神社で610kgの大きな力石を見ています。)
旧岩槻藩三野宮村(現越谷市)出身で、江戸へ出て勧進相撲をつとめ、江戸一番の力持ち

と評判の力士でした。三ノ宮卯之助の名がのこる力石は、埼玉県内の他、千葉やかながわ、遠くは長野や兵庫でも確認。

三の鳥居をくぐると左側は池と立派な藤棚。右側に立派な屋根の手水舎。参拝者も多かったです。藤の咲くころは相当に
綺麗そうです。

拝殿

当神社例祭に際して行われる神輿の渡御還御は、昔から雨がつきものだといわれてきました。そこで、せめて出発と到着の
ときだけでも屋根の下で、との考えから昭和39年(1964)に建造されたのがこの拝殿です。神社hpより。

・久伊豆神社(ひさいずじんじゃ)は、埼玉県越谷市越ヶ谷にある神社である。越谷の総鎮守とされている。旧社格は郷社。

・宮内庁越谷鴨場と共に市の「環境保全地域」に指定されている。当社のほか、越谷市内に7社の「久伊豆神社」が鎮座している。

・創建は鎌倉時代とされている。神紋は立葵である。これは、近くに徳川将軍家が鷹狩などを行う越ヶ谷御殿があったことから、
 葵紋の使用が特別に許可されたものとされている。

・境内には、国学者・平田篤胤の仮寓跡とされる松声庵がある。

境内の藤は県指定の天然記念物となっている。

・久伊豆神社は、埼玉県の元荒川流域を中心に分布する神社である。祭神は大己貴命(大国主)である。by wikipedia

御霊水(ごれいすい)
手水舎の先、右手にあります。もとは境内の湧水でしたが、関東大震災の後地下の水位が下がり、自噴しなくなったため、
現在は地下約250~300メートルの深層から汲み上げています。神社hpより。

拝殿脇から本殿へ

本殿

立派な拝殿・本殿です。

拝殿の奥にある建物。大国主命・言代主命など五柱の神々を祀りしています。寛政元年(1789)に建造された三間社流造りの
本殿は、随所に精巧な彫刻が施された荘厳な佇まいの建物です。神社hpより。

本殿裏より

絵馬掛(えまかけ)
古来より、お願い事や感謝のしるしとして、神社に馬を奉納する風習がありました。これが転じて絵に描いた馬に代わった
ものが絵馬でございます。のちには馬以外の絵も描くようになり、当社においては平田篤胤大人奉納の大絵馬がございます。
本殿の裏手には、その複製と皆さまの絵馬掛けがございます。神社hpより。

境内の池

調神社のウサギの次にカメさん。たくさん居ましたよ。

本殿の裏手には第二次世界大戦中、パラオ共和国コロール島に建立され日本人入植者などの信仰を集めた「南洋神社」をしのぶ
「旧官幣大社南洋神社鎮座跡地遥拝殿」が建立されている。 久伊豆神社の本宗である伊勢神宮の南洋における分社であったことと、
土屋義彦埼玉県知事(1992年 - 2003年在任)が遺骨収集団団長としてパラオを訪問していて交流が深かったことから建立が
決まった。2004年4月11日の竣工奉祝祭にはパラオのトミー・レメンゲサウ大統領も出席した。 また、久伊豆神社先代宮司の
小林茂は、サイパン島の八幡神社を彩帆八幡神社として再建した。1980年(昭和55年)9月には現地で再建鎮座奉祝祭が行われた。
神社hpより。

池を見下ろす「御合神社」あまり聞いたことのない神社だったので調べてみましたが良く分かりませんでした。

祖霊社

木遣り歌碑(きやりかひ)
木遣りは、労働歌の一つ。御神木などの建築用木材を運ぶ際に唄われました。越谷の木遣りは文献などによると江戸開府以後
当地に伝えられたとされ、上棟祝儀等に歌われていましたが、主に久伊豆神社祭礼の練歌、山車の曳歌として伝えられてきました。
この記念碑は、木遣りを継承、保存する「越谷市木遣保存会」により建てられたものです。神社hpより。

いや~、ここも良い空気・空間の神社でした。


調(つき)神社(埼玉県さいたま市浦和区)

2018-04-09 06:48:00 | ・神社・お寺

2018.3 埼玉北東部の神社を訪れました。まずは「調神社」へ。「調」と書いて「つき」。読めませんよねー。

神社の駐車場に車を停めて境内周りへ。こんな大きな欅がありました。

「日蓮上人駒つなぎの欅」

日蓮が佐渡へ流される途中、難産の婦人のためこのケヤキに馬を繋ぎ、祈ったところ男子を無事出産したので、
安産の守護神として今に信仰されている。

ん?ちょっと境内入り口にしては鳥居が小さいかな?と更に境内沿いを北に向かうと・・・

ありました。ありました。ここが境内入り口ですね。しかし鳥居が無い・・・。

鳥居がない。>>「境内へ伊勢神宮への貢物を運び入れる時に邪魔になり鳥居を建てないことにした。」との事ですよ。
う~む・・・なかなか合理的ではあるけれど。。。。

「狛ウサギ」

延喜式内社です。

「狛うさぎ」

別称は「調宮(つきのみや)」。社名の「ツキ」により月待信仰が古くからあり、狛犬ではなく「狛ウサギ」がある神社
として知られていますよ。

宮司像

手水舎 ん?普通は龍の口から水が出ている事が多いですよね。亀の口から水が出ている神社もありましたが・・・。

お~、やはりウサギさんでしたよ^^ 丸っこくて可愛いですね^^

狛ウサギ 古いウサギさんのようですね。

境内社の調宮天神社と金毘羅神社

境内・周辺には巨木が多いです。大きな桜の木も咲き始めていました。

神楽殿

拝殿

<御祭神>

 天照大御神(あまてらすおおみかみ)
 豊宇気毘賣神(とようけひめのかみ)
 素盞嗚尊(すさのおのみこと)

<御由緒>
・「調宮縁起」によると、今からおよそ2,000年前の第10代崇神天皇の勅命により創建。伊勢神宮へ納める
 貢(調)物(みつぎもの)の初穂を納めた倉庫群の中に造営されたため、貢物搬出入の妨げになる鳥居が
 ないと伝えられています。
・確かな文献では、平安時代中期の延喜5年(905)に醍醐天皇が編纂を命じた法典である「延喜式神名帳」に、
 武藏國四十四座のうちの一社と記載されています。
・また、調(つき)の名が、月と同じ読みであるところから、月の動物と云われた兎が神の使いとされ、
 中世の月待信仰(月のもつ神秘に畏敬をなし、月の出を待って祈る信仰)の広がりと結びつき、江戸時代
 には月読社とも呼ばれていたようです。今も兎の石像や社殿に飾られた兎の彫物、兎の絵馬など所々に兎が
 配されています。

<社殿の沿革>
・南北朝時代の延元2年(1337)に、足利尊氏が一色範行に命じて荒廃した社殿を復興したと伝えられています。
 その後戦国時代末期の天正18年(1590)小田原兵乱で、再び焼失しましたが、徳川家康の関東入部後から
 江戸時代初期にかけて次第に再建されたようです。現在の社殿は、安政6年(1859)竣工で、総欅の権現造りです。
 一代前の本殿も、境内末社の稲荷社本殿として現存しており、こちらも総欅で一間社流造りという建築様式です。

<社頭風致>
・神域は約1万2千平方メートル、鬱蒼と生い茂った樹齢数百年のイチョウやケヤキ、ムクなどが見事な鎮守の杜を
 形成しており、江戸末期の建築にかかる権現造の社殿が、悠久の時を超えて静かに建っています。
http://www.stib.jp/info/data/tsuki.html より

旧調神社(稲荷社)

一代前の本殿
境内末社の稲荷社本殿として現存
しており、こちらも総欅で一間社流造りという建築様式です。美しいです!

境内の池

県内屈指の古社である調神社(つきじんじゃ)は、地元では親しみを込めて「つきのみやさん」と呼ばれていますが、そんな
調神社には七不思議の伝説があり、古くから人々に語られています。


1. 鳥居がない。(境内へ伊勢神宮への貢物を運び入れる時に邪魔になり鳥居を建てないことにした。)
2. 松の木がない。(一説に弟神須佐之男命(すさのおのみこと)が大宮へ出かけ、なかなか戻って来ないので姉神の月読命
 (つくよみのみこと)が「もうまつのはいやじゃ」といったのがその理由とのこと。)
3. 御手洗の池の魚は片目になる。
4. 狛犬のかわりにウサギ像が置かれている。(「つき」を「月」と考え、ウサギを神の使姫とする習慣からである。)
5. 日蓮上人駒つなぎのケヤキ。(日蓮が佐渡へ流される途中、難産の婦人のためこのケヤキに馬を繋ぎ、祈ったところ男子を
 無事出産したので、安産の守護神として今に信仰されている。)
6. ハエがいない。(調神社の祭神が嫌うためとのこと。)
7. 蚊がいない。(ハエと同じ理由。)


「つき神社」だけに、昔から「ツキを呼ぶ神社」として、大変ご利益があると言われています。境内のあちこちに置かれている
かわいいうさぎさんを探してみてください。http://www.stib.jp/mame/mame_10tsuki.html より。


というわけで、なかなか盛りだくさんの神社でした。お隣の調公園でも桜が咲き始めていて、神社・公園に多くの方が
来られていました。神社の駐車場では参拝客かどうかチェックされましたよ。

いや~こんな神社もあるのですねー。ホントに神社は多彩です。飽きませんね~。境内の空気・空間は、悠久の時の流れを
感じさせ、とても自然体でした。土地に溶け込んでいる良い空間でしたよ。あちこちにウサギさんがあるのもほっこりしました。


四津山神社(埼玉県小川町高見)

2018-04-08 06:58:19 | ・神社・お寺

2018.3 またまた埼玉の神社を訪れました。出雲乃伊波比神社、小被神社へ詣でた後、四津山神社へ向かいました。

参道入り口

一の鳥居

神社は山の上にありそうです。

「四津山神社再建記念碑」から抜粋

・秀峰四ツ山山頂に鎮座する四津山神社は、火遇突智命を始め十七神を祭神とし、御神体は勝軍地蔵なり。古来より火防の神
 としてその信仰厚く信者は関八州に及ぶ。

・四ツ山はかつて鎌倉街道上道を押さうる軍事上の要所にして、戦国の世には城築かれ、長享二年(1488)の高見原合戦を始め
 数度にわたり戦場となる。

・天正十八年(1590)豊臣秀吉関東平定の際近隣諸城とともに、城としての役割を終え徳川家康の関東入国によりて泰平の世となる。

・宝暦九年(1759)山麓の古刹真言宗高見山明王寺第七世住職権大僧都法印祐慶師の代に古来より境内に祀られし寺の氏神
 愛宕神社を三月二十四日山頂に遷座す。以来重誉師を始め時の住職は御神体を奉じて登頂し神事を執行せられたといえり。

・明治の世となりて、三十九年(1906)神社寺院仏堂合併跡地譲与に関する勅令により、翌四十年四月三十日山麓高見の村社邊取神社
 及び能増の村社八幡神社を始め小社十一社を合祀し、山容地名に因み四津山神社と改称す。

灯籠を抜け・・・

階段を上ると・・・

不動明王と大黒天
不動明王は享和三癸亥年(1803)三月二十四日の造立。

さらに階段を上ります。

登り切ると拝殿が見えてきました。

良い眺めです!

東武東上本線小川町駅の約3.5km北方、比企丘陵最北部の丘陵部・四津山(標高197m、比高100m)に築かれた山城である。
山頂部全体を城郭化しており、南北約174m・東西54mに広がる。北から三ノ郭・ニノ郭・本丸が並ぶ。本丸は山稜最高部であり、
現在は四津山神社が建っている。北側が搦手口、南側が大手口とみられる。by wikipedia

カンヒザクラでしょうか。綺麗です。

拝殿

・四ツ山城跡は、周囲から一際高くそそり立つ山頂に立地し、北は荒川流域一帯、南は市野川流域を一望できる要害の地に
 築かれています。

・市野川筋にはいわゆる鎌倉街道上道が走り、戦国時代には鉢形城(寄居町)と松山城(吉見町)の間にあって、交通路を
 押さえる重要な役割を果たしていたと考えられます。

・城跡は細長い尾根を巧みに利用し、四津山神社の建つ本廓と北に連なる三つの主要な廓によって構成され、それぞれ土塁
 と堀切によって画されています。

・文明十二年(1480)の太田道灌書状写に「高見」「高見在陣衆」とあることから、このころに城が整備された可能性があり
 ます。長享二年(1488)に山内・扇谷両上杉氏の対立により激戦が繰り広げられた高見山合戦は、この麓の高見・今市付近
 で行われたと考えられています。

・また、江戸時代に編纂された「新編武蔵風土記稿」は、長享元年に没した増田四郎重富の居城と伝えています。「関八州
 古戦録」によると、天正十八年(1590)の豊臣秀吉による関東平定の際に鉢形城主北条氏邦の家人が籠ったものの、戦わず
 して鉢形城へ逃げたといいます。 看板より

雪が残っていますね。

登ってきた階段上より。

いや~低山ですが四方眺めが良くてビックリしました。お城になるわけですね。ちょっとしたハイキングになりましたよ^^