ヨコハマ メリー
字がとても綺麗でした。
この世に確かに生きながらも、普通の人々とはまったく
違ったこの世を生き込みました。
周りには奇異に見えても、彼女の世界では彼女が住人です。
彼女は、誰を演じていたのでしょうか?
最後に逢えた素顔は「ほとけさま」のようでした。
感謝感謝^^
「白塗りの厚化粧をしてドレスに身を包み、街角に出没して横浜の風景の一部となっていたホームレスの老嬢メリーさん。
1995年の初冬、人知れず姿を消した・・・」
ヨコハマ メリー
字がとても綺麗でした。
この世に確かに生きながらも、普通の人々とはまったく
違ったこの世を生き込みました。
周りには奇異に見えても、彼女の世界では彼女が住人です。
彼女は、誰を演じていたのでしょうか?
最後に逢えた素顔は「ほとけさま」のようでした。
感謝感謝^^
「白塗りの厚化粧をしてドレスに身を包み、街角に出没して横浜の風景の一部となっていたホームレスの老嬢メリーさん。
1995年の初冬、人知れず姿を消した・・・」
2017.11.11 ポッキーの日? チンアナゴの日?(笑)に山梨方面へ出かけました。またまた神社巡りでっせ~。
甲斐一宮浅間神社の山宮神社遥拝所に立ち寄った後、いよいよこの場所から東南約二キロの神山の麓に鎮座する山宮神社
(当社の摂社であり、本宮)へ向かいました。
ナビでセットして県道34号線から細い畑の中を縫うような坂道を上ると行き止まりに鳥居がありました。
鳥居の先には柵があって、一見入ってはいけないような状態でしたが、よく見ると「動物柵」で出入りの際にはしっかりと
柵を閉めるようとの看板がありました。イノシシの侵入を防ぐ鉄柵のようです。
柵の内側から甲府盆地方面。伐採をされる方が数名来られていました。
鳥居をくぐり、柵を開けて入ると右側に祠がありました。
更に山の中へと登っていきます。枯れ葉の音、木洩れ陽が良い感じです。が、クマでも出そうでちょっと怖かったですねー。
しばらく登ると神社がありましたよ。
所在地は、「一宮町一ノ宮」と飛び地となっているのは本体地にある甲斐の国(山梨県)一宮、(一宮)浅間神社の元宮である
からのようです。
拝殿
本殿
淺間神社摂社山宮神社は垂仁天皇8年(約2000年前)に御鎮座されたと伝わっており、国の重要文化財に指定されています。
現在の社殿は永禄元年(1558年)武田信玄によって再建されたものです。
清流山宮川の水源神山の麓にあり千古の老杉二本、神木として連立している。本殿は、春日造、檜皮葺にしてその結構すこぶる
壮麗である。毎月15日を恒例神祭日となす。3月15日山宮神幸祭を行ってきたが現在は、3月15日前の日曜日。
当社は、垂仁天皇の御代鎮祭された本宮であるが、貞観七年(865年)12月、三柱の内、木花開耶姫命を里宮に遷座されたもので
大山祇神と天孫瓊々杵命の二本柱を御祭神としている。 http://asamajinja.jp/setusya.htmlより。
この辺りはすぐ近くに釈迦堂遺跡群があって3万年前の旧石器時代から人々が現れていました。縄文時代の草創期を経て、2000年前
の弥生時代中期の稲作文化へと発展するわけですが、その頃創建されたわけですね。そもそもは山宮川の水源の、その名のとおり
「神山」への水と実りの信仰だったのでしょう。
本殿の脇に回り、ふと周りを見ると、おお~!スゴイ大杉だ・・・・。近くに来るまで気が付かなかったので圧倒されましたよ。
いや~、スゴイ迫力です。
摂社山宮神社の夫婦杉
樹高 37m 目通り幹囲 10.3m 推定樹齢 300年以上
この巨木の下部の圧力を受けたような曲がり方やうねり方はすごいですね。ものすごい生命力を感じました。
本殿
永禄元年(1558)に武田信玄によって再建された檜皮葺の建物(一間社隅木入春日造檜皮葺の室町時代の建築)で
武士の心意気を示すように兜の紋様を刻んだ蟇股で飾られています。(正面蟇股彫刻は複雑な花模様で図案的性質を保持し、
また側面の蟇股は全部同一な兜と紅葉を配した彫刻を入れたもの)
山宮神社の石鳥居前(東新居字桧山田)にはかつて三十六枚の御供田があった。山宮の清流を引いて耕作された棚田であり
「クナツタ」「ミズタ」ともよばれるような田が鳥居のかみにあり、早くから開かれていたものである。明治40年、水害の
際に鳥居の附近にあった古い社家の屋敷跡はすべて押し流され、現在は落葉林、松林などに変化している。
山宮において明治以前は厳しい物忌みが年三回行なわれ、神主、社家、社人などが参籠し、この期間は氏子も忌みごもり謹慎
していたと伝えられている。御供田から収穫した米二俵をもって祭の供物を作っていたと言われている。
一宮町教育委員会 http://www.geocities.jp/engisiki/kai/bun/kai150304-02.htmlより。
参拝後、参道とほぼ平行する山宮川沿いを下りました。
カツラ
砂糖を焦がしたような強烈な甘い香りが付近に漂っていました。
この山宮川沿いのカツラの葉はビックリするくらい大きかったです。そのため香りも強烈だったのでしょうね。
夫婦杉やこの大きな葉のカツラの木・・・・地のエネルギーを存分に感じる空気・空間でした。良い参拝でしたよ。
2017.11.11 ポッキーの日? チンアナゴの日?(笑)に山梨方面へ出かけました。またまた神社巡りでっせ~。
続きまして、以前にも参ったことのある「甲斐国一宮浅間神社」へ。
一宮浅間神社は七五三で賑わっていましたよ。今回はこの神社の南方の神山の麓に鎮座する、創祀の地の山宮神社へ
参拝する予定なので、こちらもお参りしたのでした。(山宮神社は次回投稿)
前回この神社については詳しく投稿しましたので補足程度に。
二の鳥居
鳥居と随神門の間で、なんか仮面ライダーのような方が待ち受けておられました(笑
七五三の子どもたちも大喜び^^
随神門の随神像
中央奥は一の鳥居
拝殿前の「子持石」
この神社のhpによると「初宮詣(お宮参り)に拝する。」となっています。陰陽石に見えるんですけどね。。。
山梨は、あちこちで「石崇拝」が見受けられますね。いずれ掘り下げようと思っています。
拝殿
「第一宮」の扁額 歴史を感じさせます。
「一宮浅間大明神」の扁額
名前が呼ばれて・・・これから七五三の御祈祷です。
ところで「七五三」についてちょこっと調べました。江戸時代からなんですねー。
七五三(しちごさん)
7歳、5歳、3歳の子どもの成長を祝う日本の年中行事であり、神社などで「七五三詣で」を行いご報告、感謝、祈願を行う
奉告祭。
由来
天和元年11月15日(1681年12月24日)に館林城主である徳川徳松(江戸幕府第5代将軍である徳川綱吉の長男)の健康を
祈って始まったとされる説が有力である。11月15日は、子供の成長を祝って神社・寺などに詣でる年中行事(神社庁による)。
現在では全国で盛んに行われているが、元来は関東圏における地方風俗であった。やがてこの儀は京都、大阪でも行われる
ようになり、だんだんと全国に広まっていった。by wikipedia
ね・うし・とら・う・たつ・み・うま・ひつじ・さる・とり・いぬ・い>>>おお~、云えた(笑
真貞社
伴直真貞公を御祭神に祀る境内末社。貞観6年富士山噴火の時の八代郡擬大領。社家の祖である。
伴真貞(ともの-まさだ)
平安時代前期の豪族。甲斐(山梨県)八代郡擬大領。貞観(じょうがん)7年(865)神がかりして「はやく神社をさだめ明神を
まつれ」との浅間明神の託宣をのべた。国司が卜筮(ぼくぜい)をしてもおなじ結果だったので祝(はふり)に任じられ,伴秋吉を
禰宜(ねぎ)として,神宮がたてられた。https://kotobank.jp/word/伴真貞-1095237より。
三代実録によれば、貞観六年五月二十五日、富士山の大噴火があり、これは、富士山を祀っていた駿河国浅間神社の神職の
怠慢であるとして、富士山北側にある甲斐国でも、浅間神を祀るべしと、貞観七年十二月九日、勅により甲斐国八代郡に
浅間明神の祠を建て官社とした。当時、八代郡では暴風や大雨などの天変地異が続き、伴直真貞の託宣により、甲斐国に
浅間明神を祀るべしとして、郡家の南に、伴直真貞を祝として祀ったが、まだ神意に叶わず、改めて立派な社殿を造営した。
また、山梨郡にも、八代郡と同様に浅間明神を祀ったともある。この三代実録の解釈に異説があり、式内・浅間神社の論社が
存在する。http://www.genbu.net/data/kai/kawaguti_title.htm?print=onより。
神明社
本殿脇と夫婦梅
亀の松
陰陽石と山宮神社遥拝所
この場所から東南約二キロ、神山の麓に鎮座する山宮神社は、当社の摂社であり、本宮でもあります。垂仁天皇の御代(二千年前)
に鎮座されました。
2017.11.11 ポッキーの日? チンアナゴの日?(笑)に山梨方面へ出かけました。またまた神社巡りでっせ~。
続きまして、「山梨岡神社」へ。
「雁坂みち」沿いの参道入り口。真っすぐに御室山へ伸びています。
笛吹川支流の平等川を渡ります。
拝殿と御室山
何故、鳥居がないのだろう・・・・・。帰宅後、たまたま、グーグルマップで航空写真を見たら・・・・・
ななななんと・・・御室山に鳥居が描かれていました!! びっくり!!!で、調べたら、下記のような過去があったのでした。
4月の春日居町温泉祭りの時期には御室山の斜面を利用した、大文字焼きならぬ、大鳥居焼きを見ることができる。
笈形焼き(おいがたやき)と言う。
勝沼町の大善寺の記録によると、昔、御室山の中腹にある長谷寺と大善寺の僧徒が問答のこじれから戦闘を始め、両山とも
伽藍が炎上した。その時大善寺の僧徒が長谷寺に協力した山梨岡神社の鳥居を持ち帰って焼き払たのが大善寺の鳥居焼きの
始まりで、長谷寺の僧徒が大善寺から笈(おい:山伏が背負い歩く箱状の入れ物)を持ち帰り、焼き払ったのが笈形焼きの
始まりと伝えられている。山梨岡神社には今でも鳥居が無い。 http://www.geocities.jp/bear7bear7/kasugai/oka/oka.htmより。
山梨岡神社の発祥は御室山を神体とする古い信仰に遡ると考えられているが、「御室山」の山名は大和国の「御諸山」
(三輪山のこと)に同じく、「神霊の籠もる山」を意味するものと推測されている。なお、文化11年(1814年)の『甲斐国志』
に、かつて御室山は国に異変のある際に、その前兆として鳴動したという記載がある。by wikipedia
「郡石」 ずいぶんと大きいんですよ。山梨郡・八代郡の境界石なのだそうです。
拝殿手前には大きなフジの木
藤棚だけでなく塔のように聳え立つ巨木ですは、樹勢も旺盛で花もすごいようですよ。
祭神:大山祇神、高龗神、別雷神
人皇十代崇神天皇の御代、国内に疫病の流行や災害が多発し、これを憂ひた天皇の勅命により背後の御室山中腹に創祀される。
後十三代成務天皇の御代に麓の山梨の群生林を切り開いて現在地に遷座され山梨岡神社と号す。この故事により「山梨」の
地名発祥の地と伝へられる。
延喜式内社甲斐国二十社の一つに数へられ、古くは山梨明神・山梨権現・日光権現とも称せられ武田家累代の祈願所として
篤く崇敬された。
江戸時代には雷除け魔除けの夔神信仰が流行し、当社より御三家・大奥を始め大名家から旗本衆に至るまで広く神影版画神札が
献上された。
現本殿は室町末期飛騨の匠の技と伝へられ、国の重要文化財に指定されてゐる。
また、古来より伝はる太々神楽は、武田信玄公出陣の際戦勝を祈願して奉納された神楽として伝へられてゐる。
摂社に日本武尊・弟橘姫命を祀る吾妻屋宮があり、毎年四月に昼夜三日間に渡り執行される例大祭は、両社御祭神を奉祀する
合同例祭で通称「あづまやさん」として古くから親しまれ、太々神楽の奉納を始め虫加持祈祷や神輿の盛大な渡御もあり、
この地域一帯の有数な祭典として神楽見物や参拝者等で大変な賑はひを見せてゐる。(山梨県神社庁より)
太鼓橋
「神楽殿」 渡り廊下もある立派な神楽殿ですね。
拝殿
「大杉」かなり大きいです。フジ同様に樹勢も旺盛です。
御室山の中腹には古墳も見られるようです。
境内裏手
本殿
山梨岡神社の本殿前には「夔(き)ノ神」と呼ばれる神像が祀られている。
慶応2年『夔神(きのかみ)来由記』に拠れば、神像の年代や来歴は不明であるが、記録資料の年代から宝永3年(1706年)以前
に想定される。
山梨岡神社は山の神や水・雨の神、雷の神など自然神を祀る神社であるが、夔神信仰が広まった背景には自然に対する民間信仰の
存在が指摘されている。山梨県では山の神に対する信仰が広く存在し、雨乞い習俗、雷信仰も見られる。また、山梨県で一般的な
道祖神信仰においても、道切り行事として大草鞋を飾る風習のあることからも、山の神としては一本脚の姿が一般的に観念され
やすいものであったと考えられている。
キ神信仰は江戸後期の社会不穏から生じた妖怪ブームにも乗じて広まったと考えられており、キ神の神札が大量に流通し、江戸城
大奥へも献上されている。
by wikipedia
いろいろな見どころのある神社でした。鳥居が無い神社は初めてですね。この神社から北側は奥秩父山塊へと続き、南は笛吹川、
すぐ近くに石和温泉と、風水のことは良く分かりませんが、とても空気(気)の流れが良さそうに思えました。境内の木々の樹勢
も旺盛で、生命力が漲っているような神社でした。
2017.11.11 ポッキーの日? チンアナゴの日?(笑)に山梨方面へ出かけました。またまた神社巡りでっせ~。
続きまして、これまた偶然に通りかかった「甲斐奈神社」。知ってはいたのですが、この日は参拝予定に入っていなかった
のですが、目の前を通りかかってスルーするわけにはいきません。
「甲斐奈」を社名とする神社は、山梨県内に三社があるそうです。現在三社ある甲斐奈神社は、いずれも『延喜式神名帳』
に「甲斐国山梨郡 甲斐奈神社」と記載される式内社の論社。
所在地が「山梨県笛吹市春日居町国府(こう)」で甲斐国の初期国府の所在地と考えられているそうです(諸説あり)。
案内板には〝奈良時代に甲斐国府のあった場所〟と書いてあります。笛吹市一宮町橋立の甲斐奈神社も国府推定地の1つ付近に
鎮座しています。
境内前の丸い道祖神
道祖神は様々な役割を持った神であり、決まった形はないようです。材質は石で作られたものが多いが、石で作られたもので
あっても自然石や加工されたもの、玉石など形状は様々だそうですよ。
「球体の石」からのアプローチでは、なぜ山梨県に球体の石を祀る信仰があるのか・・・丸石信仰・・・山梨県内で700以上?
球体の道祖神は山梨以外ほとんど見られない・・・カイ(甲斐)はタイ語で「タマゴ」=球体?
円い象形からは円満である事が連想・・・甲州において男性器は棒形の彫像、女性器は円石に象徴・・・
丸石神は神(タマ)の依り代として、もしくは神(タマ)そのものとして祀られた自然崇拝・・・
いや~、なかなかいろいろな説がありますねー。面白いなあ。。。こんなサイトも見つけました。>>「丸石神」
そうとう奥が深そうです。
祭神:彦火火出見尊 大己貴命
創建は神亀3年(726)聖武天皇の御代に国司の田邊史広足が峡之神社と名付け、その後甲斐奈神社と改称された。
甲斐国は7世紀には成立。「甲斐奈」は「甲斐の」の意味とも取れることから、甲斐国の総社と推測されている。by wikipedia
江戸時代には「守ノ宮(しゅのみや)」・「守宮大明神」という別名があった。これに関して「四の宮」または「国守の宮(= 総社)」
の変化とする説があるが、定かではない。by wikipedia
本殿
近寄ったら警告音がビービー鳴って焦りました^^;
境内入り口脇の稲荷社
とても居心地の良い神社でした。橋立、甲府の甲斐奈神社、二宮・美和神社も近いうちにお参りに行きましょう。
2017.11.17 高円寺JIROKICHI にて
入り口近くからのショット。なかなか面白いショットが撮れました。by iphone
結成当時から応援している「瀬川洋&トラベリン・オーシャン・ブルーバーズ」が20周年記念ライブを原宿・クロコダイルで
行います♪
「Travelin' Ocean Bluebirds 結成20周年記念Live!」
この子は一昨年くらいに友人から譲ってもらったDELL Studio XPS 8000。
Windows7 64ビット版、Core i7 860、8GBメモリ、GeForce GTS240 1024MB。
2009.12購入の製品ですが、当時としては最高峰モデルで今でも高いスペックです。
Windows10無償アップグレードして使っていましたが、写真の通り、外見はずいぶん色褪せちゃいました。更にビデオカードの
冷却ファンが、ものすごい音を立てるようになり、分解掃除したら、なぜか全く動かなくなってしまいました。
あれこれといじって、結局ハードディスクはクラッシュしていることが分かり交換(2TB 6080円)。ビデオカードも
「玄人志向 ビデオカードGEFORCE GT 710搭載 ロープロファイル 空冷FAN GF-GT710-E1GB/LP」に交換(3082円)。
マザーボードのボタン電池も交換。放電などいろいろと行って生き返りました。オペレーションシステムを再インストールして
win7で復活しました。その後、しばらくwin7のままにしてましたが、一度Windows10無償アップグレードすると、マシンは
「デジタル認証」されている事が分かり、windows10となって甦りました。
マイクロソフトのサポートページを見ると下記のように書かれています。
デジタル ライセンス
Windows 7 または Windows 8.1 の正規品を実行している対象デバイスから無償で Windows 10 にアップグレード。
https://support.microsoft.com/ja-jp/help/12440/windows-10-activation
ん????という事は、中古で購入したwin7のデスクトップ(6500円)とノートパソコン(7350円)も無償でwin10に
できるのか?
という事でやってみましたよ。
結果は、両マシンともにwin10にできましたー^^ 両マシンともCore2Duo メモリー4Gですがサクサク動いています。
で、もう一台、我が家にはWindows Vistaがあります。
ハードディスク:2TB (2TBx1) 3.5インチ SATA HDD(7200回転)
OS:Windows 8 (日本語版)
光学ドライブ:DVDスーパーマルチドライブ
CPU:第3世代インテルR Core i5-3330S プロセッサー
購入額73229円(モニター・HDD割引後)
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2017.11.11 ポッキーの日? チンアナゴの日?(笑)に山梨方面へ出かけました。またまた神社巡りでっせ~。
たまたま通りかかった熊野神社を詣でました。
上部は切られてしまっていますが、かなり大きなケヤキの巨木です。
境内社
円柱の石材が祀られていました。どうやら円柱(円筒)の道祖神のようです。円柱の道祖神があると初めて知りましたよ。
神社の社地は南北矩形で二分の一は平地、他は二米位の高台をなし、そこに社殿が建てられてゐる。西北の隅に欅の巨樹が
あり、創建の古さを偲ばせてゐる。この台地は昔石塚であったので、都塚の地名となったとも伝へられてゐる。境内にまつ
られてゐる道祖神は御神徳が高かったとの逸話がのこってゐる。
http://www.yamanashi-jinjacho.or.jp/intro/search/detail/3050 より。
また、
http://sgkohun.world.coocan.jp/archive/index.php/huehuki_miyako/
こちらさまの記述によると、「笛吹市都塚古墳」となっていて、「熊野神社の土台が古墳と思われ、石室材と思われる石が
多数見られる」とありました。
2017.11.11 ポッキーの日? チンアナゴの日?(笑)に山梨方面へ出かけました。またまた神社巡りでっせ~。
神社投稿の前に風景を。。。。
神社へ向かう途中、甲州街道のちょっと裏手に入ると、こんな干し柿の風景が見れましたよ。
笛吹市
甲府盆地の東寄りに位置する。2006年度のモモ収穫量は22,900トン、ぶどう収穫量は14,400トンであり、いずれも
自治体別では全国1位だった。このことから、2005年(平成17年)10月12日には「桃・ぶどう日本一の郷」を、
2013年(平成25年)4月には「日本一桃源郷」を宣言している。by wikipedia
というわけで、桃の花の咲く頃はホントに綺麗ですよ。
2010.4撮影
葡萄は殆ど終わっていましたが未だ売られていました。昨年は10月末には完売だったようですが、今年は週末の悪天候
続きで売れ残ってしまっているようでした。
キジバトくん 眠そうですねー。
ムラサキシジミ
何か小さな青く光るものがヒラヒラと・・・・・この子でした。いや~綺麗でしたわ~。
南アルプスは薄ら雪化粧していましたよ。
道の駅「甲斐大和」で「天目そば」を頂きました。思いのほか美味しくてビックリ。実は甲州市は
「そば切り発祥の地」と言われているそうです。山梨県の大和村にある天目山栖雲寺というお寺が
その発祥の地と言われているそうですが、甲州説のほかに信州説もあるようです。
2017.11 割とご近所の「井草八幡宮」へふらりと参拝に行きました。
杉並区の神社で青梅街道沿い、早稲田通り突き当りに鎮座しています。
大灯籠
昭和42年、別表神社に列せられたのを記念にして造られました。高さは約9メートルで、屋根は銅板葺きで八畳分の広さが
あります。
井草八幡宮は、南に善福寺川の清流を望み、今なお「武蔵野」の面影残る秀麗の地に鎮座し古地名を冠して遅野井八幡宮
とも称せられました。
善福寺川の源泉である善福寺池が豊富な湧水であったことから、この付近にはかなり古くから人々が生活していたと考えられ、
境内地及びその周辺地域からも縄文時代の住居跡や土器等が発見されています。
当宮は創建当時、春日社をお祀りしていましたが、源頼朝公が奥州藤原泰衡征伐の際に戦勝祈願をして立ち寄ったと伝わっており、
それ以来八幡宮を奉斎するようになりました。
源頼朝公が報賽のため手植えしたと言われる松が当宮社殿前に雌雄二本植えられておりましたが、雌松(赤松)は明治初年に枯れ、
都の天然記念物であった雄松(黒松)は昭和四十七年に強風で大枝が折れ、翌年には残念ながら枯れてしまいました。
源氏が八幡神を氏神として尊崇したことから武神の性格が強く、室町時代には石神井城の豊島氏征伐のため、扇ケ谷上杉家の執事
太田道灌が戦勝祈願をしたとも伝えられています。
江戸時代には、三代将軍徳川家光による六石余の朱印領 (将軍の朱印状によって領有を認められた土地)の給付、また寺社奉行
井上正利に社殿造営をさせるなど、篤く崇敬されていました。
また、旧上井草・旧下井草は、正保二年(一六四五)以降、奥高家である今川氏の領地となり、とりわけ今川氏堯によって寛文四
年(一六六四)に本殿の改築等なされ、寄進された一間四方の本殿は杉並区最古の木造建築物となり、現在も本殿として覆殿に
納められています。
明治以降も氏子崇敬者によって社殿の改修、境内の整備が行われ、都内でも有数の広さ(約一万坪)を誇り、現在は神社本庁
別表神社に指定されています。http://www.igusahachimangu.jp より。
参道を振り返ります。広いです。
楼門 鉄筋コンクリート造りで昭和46年に作られ、随神が一対納められています。左右両側は各町会の神輿庫。
頼朝公お手植えの松
奥州征伐の際に立ち寄り戦勝祈願し、報賽として2本の松を植えたと伝えられています。現在の松は2代目で、以前の松は
1本は明治初年に、もう1本は昭和48年に枯れてしまいました。衝立として回廊内に保管されています。
本殿
建築様式は権現造り。昭和49年築のコンクリート造りの殿内には寛文4年(1664)に今川氏堯が改築した
一間四方の朱塗の本殿があります。杉並区最古の木造建築物です。
こんなに大きかったかなあ。とても広々していました。
招神殿
文化10年(1813)に造られた元拝殿。現在は祖霊舎として戦争で亡くなった方を中心にお祀りしています。
石灯籠
文政元年(1818)に「丸を講」という富士講の方々が奉納されました。四方には各町名や奉納された方の名前が記されて
います。
大灯籠の近くには小さな富士塚があったようですよ。この辺りでも富士講は盛んだったんでしょうね。夕方の暗くなりかけ
でしたが、良い気をもらいました^^
2017.11.4 三連休の中日、天気も良さそうなんで、どっか低山ハイクするかーって事で神奈川県相模原市の
石老山に登ってきました。
飯縄大権現をお参りした後、更に登ります。
う~ん、どっち側が見えているのか良く分かりません。たぶん相模原市内方面化と・・・。このコンモリしている山は??
津久井湖城山???
尾根付近に出ると巨石・奇石群は終わり明るい雰囲気に包まれます。
融合平見晴台 相模湖方面が良く見えていましたよ。更に登って・・・
石老山山頂 思ったよりも見晴らしは良く無かったですが、
富士山を拝めましたよ^^ 富士山左は丹沢ですねー。未だ昼飯には早かったので大明神展望台へ。
なかなか急こう配の礫岩の下りです。
花は、ノギクも少なく、枯れかけのリンドウくらいでしたね。そんな中・・・
コウヤボウキがあちこちで咲いていました。地味ですけどよく見るとユニークな形状の花ですよね。
コウヤボウキ(高野箒)
・キク科コウヤボウキ属の落葉小低木。
・関東から九州までの山林の日当たりのよいところ、乾燥した林内によく見られる。
・高さは 60 - 100 cm で根本からたくさんの枝を出し、集団を作る。
・花は秋の遅く(9 - 10 月)に、1年目の茎に一輪ずつ咲く。
・頭状花は筒状花のみ十数個からなり、白い房状、長さ1.5cmほどで、花弁は細長くてよじれる。
・高野山で茎を束ねて箒の材料としたのでこの名がある。
・玉箒(たまぼうき、古くは「たまははき」)と呼ばれて古くから箒の材料とされ、正月の飾りなどにもされた。by wikipedia
マユミの実を小さくしたような・・・・ニシキギでいいのかな???
大明神山 大明神の祠がありました。
大明神展望台(標高558.9m)
相模湖方面は良く見えていましたが、他方面は木々の背が高くてあまり見えませんでした。残念。。。
相模湖対岸の景信山方面を超望遠で見ると・・・
のぼり旗やお茶屋さん、登山客まで見えていましたよ。
展望台より少し下がった谷あいで昼食。
昼食後、どんどん下ります。大き目の礫岩の下りです。
登りのときのような巨大な岩塊はありませんが、それでも大きな礫岩がゴロゴロしていました。
こちら側からの登り口には、ヌシのようなインパクトのある巨木が佇んでいました。
相模湖休養村キャンプ場に下りましたよ。あちこちにコテージが点在していました。
帰りは「さがみ湖リゾートプレジャーフォレスト」の前を通って駐車場へ。秋の山里の風景も良いものです。
駐車場手前の大きな民家で野菜を買って帰りました^^
標高からしてもっとラクかと思いましたが、下りはけっこう大きな礫岩がゴロゴロしていましたねー。
良い運動のショートトリップでございました^^
2017.11.4 三連休の中日、天気も良さそうなんで、どっか低山ハイクするかーって事で神奈川県相模原市の
石老山に登ってきました。
鐘楼(鐘つき堂)で鐘を突いた後、顕鏡寺の寺山門の脇の「飯縄宮」の鳥居をくぐって更に上へ。
蓮華岩
巨石・奇石がまだまだ続きます。
木々が寄り添っているのか、巨石が生育を妨げているのか・・・
スゴイです。どんどん巨石が大きくなっていきます。その間を縫うように登ります。
擁護岩・・・ 石老山で一番の巨岩(19 x 22m)。
神社を抱えて守っている様に見えるので、この名前が付いたと言われています。
飯縄大権現
後述する「白狐に乗った剣と索を持つ烏天狗形」ですねー。
飯縄権現(いづなごんげん、いいづなごんげん)
・信濃国上水内郡(現 長野県)の飯縄山(飯綱山)に対する山岳信仰が発祥と考えられる神仏習合の神である。
・多くの場合、白狐に乗った剣と索を持つ烏天狗形で表され、五体、あるいは白狐には蛇が巻きつくことがある。
一般に戦勝の神として信仰され、足利義満、管領細川氏(特に細川政元)、上杉謙信、武田信玄など中世の武将たちの間で
盛んに信仰された。特に、上杉謙信の兜の前立が飯縄権現像であるのは有名。
・その一方で、飯縄権現が授ける「飯縄法」は「愛宕勝軍神祇秘法」や「ダキニ天法」などとならび中世から近世にかけて
は「邪法」とされ、天狗や狐などを使役する外法とされつつ俗信へと浸透していった。
・しかし、こうした俗信の域から離れ、現在でも信州の飯縄神社や東京都の高尾山薬王院、千葉県の鹿野山神野寺、千葉県
いすみ市の飯縄寺、日光山輪王寺など、特に関東以北の各地で熱心に信仰されており、薬王院は江戸時代には徳川家に
よって庇護されていた。別称を飯綱権現、飯縄明神ともいう。
・飯縄山を中心とする修験は「飯縄修験」と呼ばれ、代々その長を務めるのは千日太夫と呼ばれる行者であった。千日太夫は
近世には武田信玄によって安曇郡から移された仁科氏が務め、飯縄神領百石を支配していた。飯縄山における飯縄信仰は、
この千日太夫を中心に後世形作られていったものと思われる。
・飯縄権現がいつ頃から信仰としての形を整えたのか現段階で詳らかにすることはできないが、現存最古銘の飯縄神像は
永福寺の神像であり、応永十三(1406)年の銘がある。また、岡山県立博物館寄託の飯縄権現図は絹本著色で室町期の作と
推定されており、日光山輪王寺伝来の「伊須那曼荼羅図」には南北朝~室町期の貞禅の名が見える。加えて、高尾山薬王院
有喜寺における飯縄権現は、中興の祖俊源が永和年間(1375~79)に入山した折に感得されたといい、俊源が既に飯縄
権現に関する情報を得ていたことを伺わせる。中世初期にはかなり体系的な飯縄信仰像が形成されていたと考えられよう。
・一口に飯縄信仰と言っても、憑霊信仰や天狗信仰、武将や修験者、忍者の間での信仰、狐信仰など非常に多岐にわたって
おり、複雑な様相を呈している。室町頃には一面、魔法、外法といった捉えられ方が既になされていたようである。
・真言 オン チラチラヤ ソワカ
「チラチラヤ」は飯縄智羅天狗の「智羅」から来ている。また、今昔物語集に智羅永寿という天狗が登場している。
by wikipedia
いや~、すごい空間でした。つづく~
2017.11.4 三連休の中日、天気も良さそうなんで、どっか低山ハイクするかーって事で神奈川県相模原市の
石老山に登ってきました。石老山入口~石老山表参道~相模湖病院駐車場脇に停めてGO!!
良い感じの石畳です。が、直ぐに巨大な岩がゴロゴロしている間を縫うように登っていきます。なかなか面白い山ですわ。
第3紀地層の礫岩(礫が続成作用により固結してできた岩石)が全山に分布して、巨大な奇岩、怪石に富んでいるところから
石老山の名がつけられたものと考えられています。
岩の奥から水が沁みだしています。
大きな岩が倒れてきそうなので、木々の枝で支えています(笑
礫岩の登山道に沿って水が流れています。この水音が何とも心地よかったですね。流れに沿って登るので気分的にも
浄化されながら登るイメージです。清められるといいますか・・・。
力試岩・・・昔、力持ちが力試しをしたと言い伝えられており、大きい岩が男岩、直立した岩が女岩と呼ばれている。
大きな奇岩には案内板があります。「屏風岩」のような名前が付けられていましたよ。
鐘楼(鐘つき堂)と「蛇木杉」
樹齢400年以上と言われ、樹の太さは約6.3メートルあり、石老山の中で最大の杉です。杉の根2本が地上に露出していて、
その姿は蛇が横たわっているように見えるため「蛇木杉」と名付けられました。また、この2本の根を雄龍、雌龍(写真外の右側)
と言い、この龍がすぐ上にある鐘楼に登らんとする姿は神秘的です。http://www.sagamiko.info/aruku/post_11/ より。
歴史の蓄積、古寺ならではの景観ですね。
東海自然歩道は、「明治の森高尾国定公園」と、大阪の「明治の森箕面国定公園」を結ぶ、緑豊かな自然と貴重な歴史を 伝える
文化財を訪ね、心身の健康と安らぎを与える総延長1,697.2 km の長距離自然歩道です。コースは、直に自然に触れ、
埋もれがちの貴重な文化財に出会うことを条件に選定され、関係都道府県は1都2府8県に及び、 東京都・大阪府・京都府・
神奈川県・山梨県・静岡県・愛知県・岐阜県・三重県・滋賀県・奈良県の各都府県を国定公園で つなぐ形になり、名勝地をはじめ
として古戦場、旧街道、伝説の地など歴史を忍ばせるものが随所に見られるます。全コースを歩くと 40日から50日程かかると
言われています。http://www.tokai-walk.jp/about.html より。
ここは東海自然歩道の一部なんですね。そういえば、学生の頃、一つ上の先輩が夏休みにこの東海自然歩道を制覇しましたねー。
トイレットペーパーと歯ブラシをカバンに詰めて(笑)
顕鏡寺の寺山門
寺山門内は広々しています。トイレも借りられます。
護摩堂
顕鏡寺
古義真言宗の寺がありますが、この寺は平安朝の初期、高家の宮人が恋のかくれやであったものを、のちに宮人は発心して寺を
建立したと伝えられています。
真言宗高野山派。本尊は、木造金箔座像の福一満虚空蔵尊。津久井三十三観音霊場第14番札所の十一面観音があり、境内には
蛇木杉や大イチョウなど古木が多くあります。また、寺域には奇岩怪石が多く、岩窟には虚空蔵菩薩が安置されています。
http://www.sagamiko.info/aruku/post_11/ より。
「ホオジロ」が鳴いていました。
寺山門の左側、石段を登った処に岩窟があります。道志法師、源海法師が住居とした岩窟であり、これを道志岩窟と言います。
この岩窟の中に福一満虚空蔵尊が安置されており、顕鏡寺の寺宝とされています。最近では「パワースポット」として紹介して
いる方もいらっしゃるようです。 http://www.sagamiko.info/aruku/post_11/
岩窟内
脇からはこんな感じ。ブロックがちょっと残念な景観ですが、すごい岩窟ですね。
突きたくなって一度突きましたよ。遠慮して突いたんだけど、いや~スゴイ音で驚きました。鐘の音の長さも凄くて、
鳴っている間、手を合わせていましたが、とても長~い時間でした。良い時を過ごしましたよ。つづく~
2017.10末、埼玉県ときがわ町の瀬戸雷電神社に詣でました。
以前、近くを通ったのですが、場所が分からず断念したのですが、今回は見つけることができました。
都幾川へ合流する支流の脇から入ります。
ちょうど拝殿上から陽が差し込んでいました。綺麗ですねー。
境内は力強さを感じるような空気・空間でした。「雷電」からのイメージかな?
拝殿前 わずかに土俵の跡が分かりますね。貼られていた記事によると土俵で獅子舞も奉納されていたようです。
参道から小川に下りられる階段上には紙垂が張られていました。ここで禊が行われていたのでしょうか?
http://ckk12850.exblog.jp/15990556/
こちら様のブログによると、拝殿左側から登山道があり、山頂(雷電山)には奥の院の祠があるようです。
雷電神社(らいでんじんじゃ)は、関東地方を中心に日本全国に点在する神社。一様に雷除けの神とされるが、祭神や由緒は
必ずしも一定ではない。by wikipedia
https://blogs.yahoo.co.jp/tokigawano1obasan/25714913.html
こちら様のブログには、2008.10の雷電神社ささら獅子舞の様子が投稿されています。