~風に吹かれて~ by ポー(paw)

-人の中に 人の創り出した物の中に 動植物の中に 地球や宇宙の中に 魂の琴線にふれ 愛を感じながら 生き込みたい-

子の神氷川神社(埼玉県新座市膝折)

2018-05-25 03:39:13 | ・神社・お寺

2018.5 ときどき前を通る神社へ参拝へ。鳥居の中(境内)がどうなっているか分からなくて気になっていたんですわ。
陸上自衛隊朝霞駐屯地の丘陵の西で黒目川の間に鎮座しています。

 

『風土記稿』によれば、膝折の地名は小栗小次郎助重が賊に追われて馬で当地まで逃れて来たところ鬼鹿毛というその馬が
膝を折って死んだことに由来する。また昔高麗の城の落人五人が原野であった当地を開墾したという。

一方『埼玉県地名誌』では「鳥取県三朝町の中津地方で二月初午をスネオリといって、この日は山の神の木数え日で山に
入れば脛を折る」との伝説に基づき、地名の由来を推測している。

当地は既に室町期から宿駅として栄え、『廻国雑記』を著した聖護院道興は文明十八年(一四八六)に膝折の里に入り、
ここで休憩した際に、この地に市が立てられて商人が集まっていたと記している。

武蔵野台地の水の乏しい中、ここは低地にあり水に恵まれたことが、早くから宿場を形成する要因となったものであろう。

当社はこの膝折の里の南方の「子の神」と呼ばれる山上に鎮まる。創建についての伝承は語られていないが、古くから山の
神として祀られていた子の神が坐す山上に、中世、一の宮として名高い氷川神社が村の鎮守として勧請されたことが推測
される。

別当は真言宗持明院で、当社の北方八〇〇メートルほどの所(膝折一丁目・塩野製作所の辺り)がその跡地で、明治八年に
廃寺となった。

『明細帳』によると、明治四十三年に宇宿の愛宕社・字上ノ原の稲荷社・字下ノ原の稲荷社の無格社三社を村社である当社
に合祀した。(境内掲示より)


若宮八幡神社(埼玉県東松山市)

2018-05-18 14:50:44 | ・神社・お寺

2018.5 東松山の若宮八幡神社を参拝。

この神社は古墳の上に鎮座していましたよ。

八幡神社由緒略記
御祭神   誉田別尊(応神天皇)
倉稲魂命   武御名方命
菅原道真   別雷命
素盞鳴命   軻遇突智命
御由緒
当所石橋の八幡神社は誉田別尊(応神天皇)を主祭神と齋きまつり明治40年3月23日宇附川稲荷神社、城山五社大神,
上宿愛宕神社を合祀せる古社なり。

昔大神は深く内外の政治に大御心を用いられ文学を奨励し殖産興業を盛んにし数多の池溝を開き潅漑の便を計り又大船を
作り交通の道をも開かれ当時国内は勿論韓国との交通甚だ頻繁となし海外の文化を導入し謙譲忍耐、和表、協同の徳を
もって国家を安泰し国民を安んじ給えり、
されば大神は厄除開運の御神徳と共に文教及び産業の守護神として万人齋し、尊崇する中に当社は私達祖先により慶長元年
(1596)村内守護のため此の地の古墳上に社殿をを造営し相模国鎌倉の鶴岡八幡宮より神霊を文祀し代々祭祀怠らず
厚き神護の下営々として村づくりにいそしみ来たれり。

爾来星霜移り社殿の老朽甚だしく再建の議澎湃として起り昭和48年12月16日竣工淨闇の裡に壮麗清浄の新殿に神霊を
奉安し盛大に奉祝今日に及ぶ而して今や神威益々赫々の光を発し氏子崇敬者を鎮守し給え御神徳の洪大なるを偲ばしむ。

文化財 史跡 若宮八幡古墳一基
埼分指第179号 昭和39年3月 指定
主なる祭事
祭旦祭   1月1日
祈年祭   4月15日
例大祭  10月15日

う~ん・・・ちょっと残念な繭額

良いお顔です^^

若宮八幡古墳(下唐子3号墳)の上に建てられています。

ヤグルマギクが綺麗でした。もう終わりかけですけど。。。埼玉の道端でよく見かけます。繁殖力が強いですね。
一年草ですが、こぼれ種でもよく増えるみたい。


小野照﨑神社(東京都台東区下谷)

2018-05-17 17:22:53 | ・神社・お寺

2018.5 飲みの後、道に迷いフラフラ歩いていたら、グーグル地図にある名前の神社があって独りで盛り上がってた

のですが、残念ながら、その神社は現地には存在していませんでした。残念。。。。更に歩いていたら、あちこちに
神社旗が・・・。

平成30年5月13日

「大祭」 5月18・19・20日(金・土・日)

今年も一年に一度の入谷の町を挙げての最も大きなお祭り「大祭」の季節がやってまいりました。

五月の清々しい空の下、18日に各町神酒所のお祓いと御神輿への御霊入れの神事があり、19日は神社では大祭式が執り
行われる中、各町会内では神輿が各町内を練り歩き、初夏の入谷に活気のある舁ぎ声が響き渡ります。

最終日の20日には、地域17の町会、約十基の町神輿が一列に並び神社まで渡御をする「連合渡御」が行われ、祭りの
活気はピークを迎えます。


神社にて期間中は、一年の皆さま方の安寧を祈念する「大祭特別祈祷」も受け付けております。
ご家族ご一統様、お揃いでのご参拝を心よりお待ち申し上げます。


5月18日(金) 宵宮
5月19日(土) 大祭式
5月20日(日) 連合渡御  http://onoteru.or.jp/ より。

さすが、下町!!ポスターやhpからすでに熱気を感じます。で、小野照﨑神社へ。

さすがにちょ~っと暗くて境内の中はよく解りませんでしたが、夜でもひっきりなしに参拝者が来られていました。

小野照崎神社
由緒 小野篁を主祭神とし、相殿に菅原道真を祀る。
852年(仁寿2年)この地の住民が上野照崎の地に小野篁を奉斎したのが起源と伝わる。
寛永年間(1624年-1643年)、寛永寺の建立のため幕府より移転を命じられ、現社地に遷座した。
江戸末期、回向院より菅原道真自刻と伝わる像を迎えて相殿に祀り、「江戸二十五天神」の一つに数えられた。
樋口一葉の「たけくらべ」に「小野照さま」の名で出ている。
境内末社:富士浅間神社(下谷坂本富士)、御嶽神社、三峰神社、琴平神社、庚申塚( 日本三大庚申の一つ)、
稲荷神社、織姫神社

by wikipedia

ありゃ~、富士塚があったんですね~。暗くてよく分からなかったのでした。改めて昼間に参拝に行ってみたいと思います。

小野篁(おののたかむら)
・延暦21年(802年) - 仁寿2年12月22日(853年2月3日)

・平安時代前期の役人であり学者であり歌人である人物。
・貴族たちが保身のため言質を取られないように生きる中で、清廉反骨、直情なその姿勢は『野狂』と呼ばれる。
・人間でありながら、閻魔大王の裁判の手伝いをしていたという話がある。「朝には朝に務め、夕べには冥府に仕える」
 つまり、朝(昼間)は朝廷に勤め、夜は冥界で閻魔大王の副官をしていると恐れられていた。
・篁が地獄の冥官であるという話は自然に世間に広まり、皆、篁を恐れたという。
・小野篁は、亡くなった母に会うために冥土に通い始めたといわれる。 
https://matome.naver.jp/odai/2136909827563985801より

852年に奉ったという事は、未だ小野篁は生きていたという事??小野篁の事は全く知らなかったので良い勉強に
なりました。小野篁は霊能者だったという事なのでしょうがなかなか興味深いです。ちょっと調べてみようかな。


駒形諏訪神社(東京都台東区駒形)

2018-05-16 17:05:58 | ・神社・お寺

2018.5

ふらりと歩いていたら近くに神社があったので詣でました。

東京スカイツリーと、う○こと、カラス(笑

駒形諏訪神社

承久の乱(1221年)の後、信濃国諏訪郡小日村の神主が、諏訪大社(上社)の御分霊を当地に勧請したと伝えられている。
また、天正年間には神主が数代に亘って奉仕したと伝えられ、その後、浅草寺の修善院が別当として奉仕して来たという。
東京都神社庁hpより。

ビルの狭間に鎮座していました。なんか境内が小さくて・・・ちょっと寂しかったなあ。

バンダイ本社ビル前

夜の西浅草周辺の風景

いつか仏像を彫ってみたいんですよね。

おまけ。スイカズラ^^


第六天神社(杉並区高井戸西)

2018-05-16 16:52:04 | ・神社・お寺

2018.5.5 先日購入した「百龍めぐり」に近くの杉並区の神社が載っていたので詣でました。

首都高速4号線・中央自動車道・高井戸IC近くです。

旗立てに掘られた龍 いや~迫力あります。

狛犬の台にも彫り物がされています。

手前(一対目)の狛犬が1917年(大正6年)造、奥(二対目)の狛犬が1771年(明和8年)造となっており、特に後者に
ついては焼失した旧社殿よりも前に造られた貴重なもので、杉並区の指定文化財にもなっている。by wikipedia

いや~すごい装飾彫刻です。

江戸深川の彫工・後藤勇次郎経慶の作だそうですよ。

龍の眼が凄いですね。

本殿も彫物で覆われているようです。通常は拝観できないようで残念ですね。

本殿裏の境内末社

拝殿の写真を撮っていたら、宮司さん?がいらっしゃって、すごい彫り物でしょうと^^

いや~、こんなに近くに、こんなにすごい装飾彫刻の神社があるとは・・・。力強さを感じる空気・空間でしたよ。
龍がいるからかなあ。青空が和らげてはいましたけれど^^

 

・創建年代は明らかではないが鎌倉時代の頃と言われており、1559年(永禄2年)の小田原衆所領役帳において「高井堂」
 との記載がされている。
・古くから当地(旧上高井戸村)の鎮守社であったと伝えられている。
・当社は明治時代以前には「第六天神」と呼ばれていた。
・天保年間(1830年〜1843年)には本殿や拝殿が焼失。
・1856年(安政3年)に現在の本殿を再建しており、1872年(明治5年)11月には近代社格制度における村社に列している。
・1881年(明治14年)には拝殿も再建。
中央自動車道の新設にともない社殿を後方に曳家することとなり、1972年(昭和47年)6月には鉄筋コンクリート造による
 本殿の覆殿および幣殿が新築。by wikipedia

第六天に関しては以前に調べています。>>奈良橋八幡神社

大六大社

第六天神社(だいろくてんじんしゃ)は、関東地方(旧武蔵国)を中心としてその周辺に存在する神社。なお、神社によっては
第六天を「大六天」と表記する場合もある。
元々は神仏習合の時代に第六天魔王(他化自在天)を祀る神社として創建されたものであるが、明治の神仏分離の際、多くの
第六天神社がその社名から神世七代における第六代のオモダル・アヤカシコネ(面足命・惶根命)に祭神を変更した。
第六天神社が所在する分布にも大きな特徴があり、東日本において関東の旧武蔵国を中心に旧相模国、旧伊豆国などに存在するが、
西日本では皆無となっている。これは戦国時代の覇者である織田信長が篤く信奉していたとされることから、天下統一の跡を
継いだ豊臣秀吉が第六天の神威を恐れ、拠点としていた西日本の第六天神社を尽く廃社したためという。by wikipedia


八王子神社周辺ハイク(花鳥蝶)

2018-05-15 17:01:31 | ・ショートトリップ

2018.5.6 GW最終日、低山ハイクを兼ねて八王子神社へ詣でました。

八王子神社は八王子城址の城山山頂付近に鎮座しています。旧道を上り富士見台まで登り新道を下りました。
ハイク編です。花やら蝶やら鳥さんを。。。

神社までは写真はありませんが、シャガがたくさん咲いていました。駐車場に着くと大砲をセットした鳥屋さんが・・・。
サンコウチョウが入っているらしい。鳴き声は聞こえるがなかなか姿を現さないようです。

フタリシズカ(センリョウ科チャラン属)

奥は「三人静」(笑  ヒトリシズカと花がずいぶん違いますが共通点も多いようでどちらもチャラン属のようですよ。

ヒカゲチョウの仲間ですね。お目目がいっぱい。登山道では良く見かけますね。

カキドオシ

ウツギ

 

9合目、400m位だったかな?眺め良いです^^

う~ん・・・分からない・・・マダラ蝶の仲間でしょうか?

どうも「アカボシゴマダラ・春型」のような・・・。

となると、要注意外来生物・・突如出現したことなどから蝶マニアによる人為的な放蝶(ゲリラ放虫)の可能性が高いと
いわれている。by wikipedia  ひょえ~~~!!

桐(キリ)の花

富士見台から観る富士山^^ そんなに期待してなかったんだけど観えるとやっぱり嬉しいですね^^

下りの途中で登山道に現れたキビタキ♂ 枝かぶりでなかなかピントが合わず。。。

開けた場所から山肌に黄色い花が・・・。望遠撮影。ジャケツイバラでしたー。上部の偶然撮れてる白い花は
朴ノ木の花。遠いからなんか小さくみえますね~。

相変わらず時間をかけています(笑)低山ハイクでしたが結構歩きましたよ。良い足慣らしでございました^^


八王子神社(東京都八王子市)

2018-05-13 18:28:07 | ・神社・お寺

2018.5.6 GW最終日、低山ハイクを兼ねて八王子神社へ詣でました。
八王子神社は八王子城址の城山山頂付近に鎮座しています。旧道を上り富士見台まで登り新道を下りました。

八王子神社 拝殿は無くこの覆殿の中に本殿がありました。

覆殿の中の本殿 

八王子神社
スサノオの八柱の御子神を祀る神社である。
八王子宮、八柱神社(やはしらじんじゃ)などとも言い、日本全国にある。
・元々は、神仏習合下の両部神道に由来するものである。
・913年(延喜13年)に華厳菩薩妙行が、東京都八王子市の深沢山(現在の城山)山頂で修行中に牛頭天王と八人の王子が現れた。
 その因縁で916年(延喜16年)深沢山に八王子権現を祀ったと言われている。
・仏教の守護神である牛頭天王には頗梨采女との間に8人の子(八王子)がいるとされており、これを祀ったのが八王子神社である。
 八王子は八方位の暦神に比定され、八将神ともいう。
・明治の神仏分離の際、これが牛頭天王と習合していたスサノオと天照大神との誓約(うけい)で化生した五男三女神に変えられた。
 by wikipedia

神社前の乳状下垂が特徴的なイチョウ

神社前の大きなスギやカエデ

天狗さん

城山山頂・八王子城本丸跡

八王子城
・16世紀の武蔵国(現代の東京都八王子市元八王子町)に存在していた日本の城である。
・八王子城は北条氏の本城である小田原城の支城であり、関東の西に位置する軍事上の拠点であった。標高445 m(比高約240 m)の
 深沢山(現在の城山)に築城された中世山城である。
・北条氏康の三男・氏照が1571年(元亀2年)頃より築城し、1587年(天正15年)頃に本拠とした。by wikipedia

八王子城跡下には無料駐車場もあり立派なガイダンス施設もありとても整備されていましたよ。


荒崎公園周辺

2018-05-11 12:36:32 | ・ショートトリップ

2018.5.4 GWの最中、一年ぶりにウミウシ探索隊出動したのですが風が強くて強くて・・・潮溜まりもNG状態。
それにしてもスゴイ渋滞でしたわ。横浜新道から横横方面大渋滞で今井ICで下道。日野ICから横横へ。
更に衣笠IC出口渋滞2KM、三浦縦貫道134号合流まで繋がって・・・^^;横須賀ICで降り裏道を駆使し畑を抜けて
荒崎までワープ。三浦には15年近く通っているけど、これだけ渋滞したのは初めてでしたわ。近隣のソレイユの丘も
駐車場1時間待ちだったとか・・・恐ろしい・・・。

荒崎公園駐車場入り口脇の私営駐車場に入れようとしたらココも満車。
この写真は、丘上に案内され駐車場に利用された畑の隅から撮ったショット。いつもの駐車場のおばあちゃん、居なかった
けど、元気だそうで・・良かったです^^

ソレイユの丘の観覧車。こんなのが出来てたんですねー。 

久しぶりに公園の先端辺りを歩きました。

こんなポイントがあったんだ・・・知らなんだ・・・。いつも磯ばかり見てるから(笑

富士山 よく見えていましたが、強風でスゴイ波です。

強風の中、たくさんの方々がBBQやってました。トンビもBBQ狙ってましたよ。

いつも観察していたウミウシ探索の潮溜まり。こんな中でもkouchaはオトメウミウシ、イソウミウシ、ダイダイウミウシ、
アメフラシ類を見つけていました。アメフラシはすごい数でラーメンのような卵塊もたくさん。しかし、強風がひどく、
ほどほどで切り上げました。

モンキアゲハ

トベラ 良い香りがしていました。

ヤセウツボ

岩場の上でkouchaが発見。以前、所沢郊外のシロツメクサ群生地で見たことがあります。
「マメ科やキク科などの植物に寄生し、とくにシロツメクサなどが群生しているところでみられる」との事なので
マメ科やキク科の植物が近くにあったのかな。外来種^^;

なんと磯場にギンカクラゲ。カツオノエボシも居ましたよ。という事はアオミノウミウシも探せば・・・??

カジイチゴ 花

カジイチゴの実 頂きました。美味しかった~^^

あらさき亭前の花壇 なんていう花でしょう?豪華です^^

というわけで一年ぶりの長井・荒崎周辺でした。目新しい地物を出すようなお店が増えていました。逆に古くからの大衆
食堂が無くなっていたり、目印にしていたカラフルなお宅が更地になっていたり・・・一年で随分変わっていました。
でも、やっぱり海はいいですね~。このところ山ばっかりだったので。。。また来よう^^ 


比々多神社(神奈川県伊勢原市)

2018-05-07 18:18:50 | ・神社・お寺

2018.4.28 神奈川の神社を巡りました。依知神社、八菅神社参拝後、比々多神社へ。

比々多神社(ひびたじんじゃ)

・神奈川県伊勢原市三ノ宮に鎮座する神社。
・『延喜式神名帳』記載の比比多神社(相模国の延喜式内社十三社の内の一社)とされるが論社も存在する。

・大磯町国府本郷で行われる国府祭に参加する相模五社の1社で相模国三宮に当たり、所在地名の「三ノ宮」は当社にちなむ。
・旧社格は郷社で、現在では神奈川県神社庁による献幣使参向神社となっている。by wikipedia

由緒を見ると、とんでもなく古い時代からの伝えがあるようですよ。

・天保5年(1834年)に書かれた『比比多伝記』によれば、当社は神武天皇の天下平定の際に、人々を護るために建立された
 としている。『比々多神社 参拝の栞』によれば、これは神武天皇6年(紀元前655年)のことで、人々が古くから祭祀の
行われていた当地を最良と選定し、大山を神体山とし豊国主尊を日本国霊として祀ったことを起源としている。
・さらに境内および近隣から発掘された遺跡遺物から推測して、縄文時代中期の環状配石中にある立石こそ祭祀遺跡であり、
 当社の淵源は10,000年以上前の原初的な神社信仰にまで遡ると述べている。当社は大山の東南山麓に鎮座しているが、
 当初は大山を遥拝する宮だっただろうと考察している。by wikipedia

とても大きな拝殿です。

拝殿真裏の境内社

博物館へは寄りませんでしたが、「←元宮」の看板があったので行ってみました。神社からほぼ北西の大山さんへ
向かう丘陵部に鎮座していました。途中には南向き丘陵の畑の間を縫って上がりましたよ。

茅取り場もありました。

元宮より伊勢原を望みます。明るく実り豊かなイメージが湧き上がります。

元宮の奥には大山が望めました。

大山山頂付近 超望遠にて。

なんだか鳥居みたいですね。

この辺り、グーグルマップで上空から観ると古墳や縄文遺跡が点在しています。この辺りも丹沢山塊のヘリになります。
陽当りも良いですし、大山から流れ出でる川に囲まれています。とても明るく陽の気に包まれた良い空気・空間でした。

近くより拝めた夕暮れの富士山^^


八菅(はすげ)神社(神奈川県愛甲郡愛川町)

2018-05-04 07:21:44 | ・神社・お寺

2018.4.28 神奈川の神社を巡りました。依知神社参拝後、修験系の八菅山へある八菅神社へ。修験系の神社、好きなんですよね^^

立地は厚木市内の北、丹沢山系の東はずれになります。山下には宮ケ瀬湖から流れ出て相模川へ注ぐ中津川が流れています。

かなりの急こう配です。更に上の拝殿まで階段で約300段の石段と云われていますが、そんなに石段は無かったような。。。。

拝殿(覆殿)

お掃除されている方とお話ししました。パワースポット、心霊スポットですよ~との事^^ 後述するwikiとほぼ同じ内容のお話を
お聞きしました。けっこう遠くからもお参りに見えられるとか(そういえば、初めにどちらから来られましたか?と声を掛けられ
ました)。この拝殿の脇にゲタ箱があって、スリッパに履き替え拝殿内部を近くから見ることができました。

覆殿内部のずらりと並んだ本殿。すごいです!この拝殿(覆殿)はおそらく神仏分離前はお寺の客殿とかではなかったのかなあ。
なお、この写真はiphoneで撮らせて頂きました。下記の七社の本殿と思われます。
・国常立命 ( くにとこたちのみこと )
・伊弉諾尊 ( いざなぎのみこと )
・伊弉冉尊 ( いざなみのみこと )
・誉田別命 ( ほんだわけのみこと )
・金山毘古命 ( かなやまびこのみこと )
・大己貴命 ( おおなむちのみこと )
・天忍穂耳命 ( おめのおしほみみのみこと )

由緒 中世に遡る関東でも有数の修験道の霊場であったが、慶應4年/明治元年(1868年)の神仏判然令で、神仏分離が行われ、

さらには廃仏毀釈によって、神仏習合の修験は解体され、明治以降は郷社八菅神社となった。

この地を拠点とした八菅修験は、正応4年(1291年)に熊野長床衆が峯入り修行をした巨大な碑伝(ひで)(峰入り修業を
行った修験者がその証しとして立てるもの。八菅神社の宝物館に収められているこの碑伝は、八菅に峰入りした長喜、
竹重寺別当、顕秀等3人の名が記されています。長さ368センチメートル、幅43センチメートル、厚さ11センチメートル。
滋賀県大津市明王院所蔵の元久元年(1204)、高さ391センチメートルの碑伝に並ぶ国内最古最大級の碑伝です。)が残り、
天文21年(1552年)には、京都の聖護院門跡の道増がこの地に入峯した記録が残る。

貞享4年(1687年)には聖護院末の本山派修験となった。中世には八菅山の神は「八菅山大権現」として祀られた。

近世に至り、八菅山七社権現となり、熊野権現を中心に、蔵王、箱根、男山八幡、山王、白山、伊豆走湯の七社権現を祀り、
別当寺の光勝寺のもとに、本坊24坊、脇坊22坊が奉仕する修験者の一山組織をなし、修験集落として栄えた。

峯入り修行は、八菅山と大山の間の峰々をたどる修行で、春の峰は2月20日から4月8日まで、秋の峰は7月20日から9月8日
まで、いずれも49日間であったが、弘治3年(1557年)に35日となり、秋の峰は永禄3年(1560年)に中絶した。しかし、
春の峰は明治5年(1872年)まで継続した。

明治5年の修験宗廃止令によって、修験集落八菅山は消滅した。山内に多数居住していた修験者は還俗し、山麓で帰農した。
この際、宝喜院など有力な15の院坊は足立原姓を名乗った。「鬼の子孫」としての誇りを伝えたのである。

春の例大祭では修験道時代の名残で「火渡り」が行われている。 八菅山の縁起は天明6年(1786年)、文化6年(1809年)、
天保11年(1840年)の三本がある。これらはいずれも、大宝3年(703年)の役小角の開基を説く。天保本によれば、
日本武尊が東征の砌に、この山を「蛇形山」と名付けた。その後、役小角が峯入り修行に入り、不動・薬師・地蔵の三体の像を
刻んだ時に、池の中から白菅八茎が生ずる奇瑞が起こったので「八菅山」と名付けた。和銅2年(709年)に行基が勅願所として
七社権現の寺を建立したという。縁起や伝承には様々な異説が伝えられている。by wikipedia

七社権現の中に「伊豆走湯」があるのがビックリですね。2016.10 熱海 <こちらで以前に行っています。

八菅山頂上付近(170m) 展望台より 東京、横浜方面が良く見えていました。展望台までアスレチックがあったり
子ども連れでも楽しめるかも。遠足とかで登られているような。。。

ミヤマナルコユリ

ササバギンラン

龍神様の目を司る右眼池(左眼池もあります)

八菅山は古名を蛇形山といった、むかし日本武尊が坂本(現在の中津坂本地区)でこの山をながめられ、山容が竜に似ている
ところから名付けられました。そしてこの山中には蛇体の各部分にあたる池の名前(左眼池、右眼池、鼻池、口池、舌畑など)
と言われる場所が今も残っています。

八菅神社は、丹沢山塊の東のヘリに位置し、東に中津川、南にも中津川に注ぐ川が流れています。風水的にも良さそうに
思えます(良く分かりませんが)。樹勢も強いですし、とても生命力を感じる山中の神社でした。


依知(えち)神社(神奈川県厚木市)

2018-05-02 18:41:03 | ・神社・お寺

2018.4.28 神奈川の神社を巡りました。まずは大きなイチョウがあるという依知神社へ。

大きなイチョウは神社と道路を挟んで反対側にドカ~~~~ンと立っていました。

ものすごい存在感でした。異様なほどの気根(乳状下垂)も迫力満点でした。雄花もたくさん落ちていました。

厚木市指定天然記念物 依知神社のイチョウ 昭和43年11月30日指定
依知神社は、古くは「赤城明神社」といい、依知郷全体を守る総鎮守社と伝え、イチョウも神社の神木として地元の人々に
よって大切に守られています。

この二本のイチョウは、神社の由緒によると、鎌倉幕府の二代征夷大将軍に任ぜられた源頼家が、神社の建物を再建し、その
記念として境内に植えたものであると伝えられています。

現在は、神社とイチョウとの間に県道が通っていますが、昔は一体の神社の境内にあり、イチョウのほかにもタブ・エノキ・
ケヤキなどの大きな木がおい茂っていたようです。看板より

源頼家が植えたとなると、樹齢は800年を越えますね。昔は静しずかな夜に、水を吸すい上げる音が聞こえたと伝つたえられ
ています。 

黄葉時も美しいでしょうね。

拝殿の装飾彫刻の獅子? 眼が動きそうです。

依知神社の沿革
縄文弥生の往古より遠い祖先は、盤筒男命を祭神に依知神社を創建し、郷土の開発に尽力して来たのである。

第五十代桓武天皇六代の後裔平将門公関東平定の節当社に参詣し相模川氾濫の苦難を眼前に熟視され赤城山神馬献進の託宣を
給い忽ち堅牢なる護岸の完成が実現したのである。
之に感謝感激した 氏子は、将門公の御霊を相殿にして天慶元年(937)社殿を再建し、赤城明神社と称したのである。

建久三年(1192)源頼朝公鎌倉幕府を創設せられるや当社に沿革由緒に深く感銘され、拾万余坪に及ぶ 社領を寄進されたという。
その境内は、祭り競馬をした所を馬場、大鳥居のあった所を鳥井という地名にして 現代に遺す程の広大なる土地であった。

続いて鎌倉幕府第二代将軍源頼家公は建仁二年(1202)当社の社殿 再建記念に銀杏を寄進されたという。それが現在厚木市
指定天然記念物の神木大銀杏である。

天正十九年(1591)徳川家康公は、当社の由緒経緯と氏子の誠意に深く感動され、御朱印壱石を下賜された のである。以来
依知郷の郷社として祭礼も盛大に行なわれ、金田村までも神輿が渡御したと伝承されている。

明治四年広大な社領も維新の大改革により上知となり、ついで社地の払い下げを得て同二十七年七月十九日に 依知神社と
社号を改名し現代に至っているのである。 当社は上記の通り千有余年の往古ささやかな一農村の守護神として創建され、
霊験あらたかに郷土発展の 支柱となり、氏子住民は言うに及ばず他地域有名人の崇敬も受けて来たのである。その間
天変地異栄 枯盛衰の試練に堪えて祖先は、新築造営、維持修繕を幾度も繰り返し神社を護ってきたのである。

昭和現代の今ここに氏子崇拝者一同の絶大なる浄財の集結を得て、荘厳なる社殿増改築 を完遂したのである。 神社殿の
大前に益々諸難や治安の守護神とし、又五穀豊穣 大願成就 家業繁昌の神として、地域住民 の福祉安泰を鎮守されるよう
畏み畏み祈願するものである。 昭和五拾七年四月二十五日依知神社社殿改築造営の竣工に当たり記念碑を建立し、当社の
沿革由緒を延べ後 余に伝える次第である。境内の記念碑より

境内社の狹水神社
祭神は水の神罔象女の命である 寛文七年(1667)水天宮として幹線水路一関の所に地区農民により祀られた。
その後元地元年(1864)依知神社境内に安置され相模川の水害を防除し依知地区水田の潅漑用水を守り 耕作農民の生活安全と
豊作を守護している。
明治末期入之藪水利組合が設立されると共に狹水神社と改命し秋の祭日には農民の代表が参列して祭事を行っている。境内看板より

境内裏手

二十三夜塔
庚申講(こうしんこう)と同じく民間信仰のひとつとして、人々が集まって月を信仰の対象として「講中」といわれる仲間が
集まり、飲食をし、お経などを唱えて月を拝み、悪霊を追い払うという月待行事(月待行事)を行い、その記念や供養のあかし
として建てられたもので、月待塔ともいいます。

交通量の多い相模川のほとりに佇む神社でした。今となっては境内敷地は相当削られてしまっていると思われますが、
大イチョウを含め、存分にタイムトリップのできる空間でした。それにしても神社巡りをしていると様々な神社があり、
まったく飽きることがありませんね。こりゃ、こっちの世界に居る限り楽しめそうだと改めて思ったのでした^^


高虫氷川神社(埼玉県蓮田市)

2018-05-02 07:20:33 | ・神社・お寺

2018.4 高虫氷川神社へ詣でました。

拝殿

天朝神社

門客神社

http://blog.livedoor.jp/abnab1-minuma/archives/46511187.html
http://tamtom.blog44.fc2.com/blog-entry-1896.html

天朝神社、門客神社・・・あまり聞いたことのない神社だと思い少しググってみました。二つの神社に関しては上記様のブログ
に考察されています。

「境内社には,摂社と末社がある。摂社には、主神と縁故関係が深い神がまつられており、末社は、主神に従属する小祠である
場合が多い。客神の場合は,この両者とも異なり、主神のまつられている拝殿の一隅に
まつられたり、〈門(かど)客神〉と
称され随神のような所にまつられ、まだ独立の祠をもっていないことが特徴である。

東北・関東の〈荒脛巾(あらはばき)神〉、南九州の〈門守(かどもり)神〉などはその一例だが、なかには普通の境内社
より大きな一社を別個にたててまつる例もある。客神はちょうど人間社会における客人の扱いと同じで、外界からきた来訪神
を、土地の神が招き入れて、丁重にもてなしている形である。客神が,けっして排除されることがないのは、外から来た神が
霊力をもち、土地の氏神の力をいっそう強化してくれるという信仰があったためと考えられている。氷川神社の門客神神社、
気比神宮の角鹿(つぬが)社、厳島神社の客神社、美保神社の客人神社などは、有名な大社にまつられた客神の代表例である。

だが、現在の氷川神社の主祭神は出雲系であり、武蔵国造一族とともにこの地に乗り込んできたものである。これらのことを
根拠として、荒脛巾神は氷川神社の地主神で先住の神だとする説もある。
http://tamtom.blog44.fc2.com/blog-entry-1896.html 様より」

「当社は、十七世紀の終わり頃、武蔵国一之宮氷川社を勧請したと伝えられており、享保四年(1719)に今の境内地が確定した
といわれている。昭和十九年(1944)に氷川社から氷川神社へと改称した。本殿は、元文三年(1738)に建築され、その後、
慶応元年(1865)に解体修理された。氷川神社は武運長久の神として知られ、建速須佐之男命・大己貴命・奇稲田姫命を合祀する。」

民家、田んぼの隣接する守られた雑木林が境内になっています。このような境内も自然体で良いですね。す~っと身体に馴染む
感じです。山中に居るような柔らかな空気・空間でした。そんな中に静かに重厚な本殿がひっそりと佇んでいたのでした。

本殿に施された見事な彫刻。
http://d.hatena.ne.jp/shousin/20170503/1493813265 様によると、
「二十四孝の彫刻」のようです。「二十四孝(にじゅうしこう」は、中国において後世の範として、孝行が特に優れた
人物24人を取り上げた書物。「孝行」とは父母によく仕える行為。子の親に対する道徳。家族制度を基盤とする儒教
道徳の基本。日本では近世封建社会以後,生活規範として確立され重視された。


ところで、あちこちの神社へ参拝巡りをしていると随身門、拝殿、本殿などの見事な彫刻が目に飛び込んでくる。神社
だけでなく仏閣もそう。
なぜ彫刻を施すのか(どんな思いを込めて)?どんな彫刻があるのか?ちょっと調べてみました。

寺社彫刻は、じっくり見ると、いろんな発見があって楽しいのである。 モチーフとなっているのは、仏教、神道だけでなく、
道教や儒教の説話、国生み神話、中国の故事、義経伝説などのほか、龍や鳳凰(ほうおう)、獅子などの霊獣、動物、花鳥、
そして庶民の暮らしを描いたものや、珍しいところでは明治政府の憲法発布の場面が彫られた神社もあるという。
https://www.sankei.com/entertainments/news/141015/ent1410150004-n2.html

というわけで、寺社彫刻には様々な装飾彫刻のモチーフはあるようです。

「寺社の装飾彫刻  若林 純」という写真集があるようです。今度見てみよう!


氷川鍬神社(埼玉県上尾市)

2018-05-01 06:29:47 | ・神社・お寺

2018.4 上尾駅前にある「氷川鍬神社」を詣でました。

伝説によれば、寛永8年(1631年)桶川宿方より来た童子が引いていた櫃が上尾宿本陣前で動かなくなり、童子はいずこかへ
消え失せた。 翌正月に櫃を開けてみると、鍬2本と稲穂があり、鍬2本を神体として本陣前に社を建立して祀ったのが創建の
経緯と伝えられる。 稲穂は「御子稲」と称し、種を増やして庶民に分け与えた。 長く、御鍬太神宮(おくわだいじんぐう)と
呼ばれてきたが、明治41年(1908年)上尾村総鎮守の氷川神社から女体社を合祀し、現社名となった。by wikipedia

社務所前に車を停めさせてもらいました。駅前でもあり隣はコインパーキング。2~3台しか停められないので
ちょうど拝殿前に居られた宮司さんらしき方にお聞きしたら、どうぞどうぞと快諾を頂き駐車させていただきました。
気持ちよく参拝させていただきました^^


岩淵八雲神社(東京都北区岩淵)

2018-05-01 06:19:44 | ・神社・お寺

2018.4.22 久しぶりのサンデーamショートトリップ^^ その四。ブラブラと十条冨士から柏木神社、熊野神社、墨田川沿いを
北上して八雲神社へ。

墨田川 穏やかで気持ちいいです^^

水難事故供養のお地蔵様

岩淵八雲神社は、岩槻街道の東裏、荒川堤防の南側近くに鎮座します。
この神社は、江戸時代に徳川将軍が日光東照宮に参詣する際に利用した日光御成道の第一の宿場として栄えた岩淵宿の鎮守社
でした。
祭神には須佐之男尊が祀られています。
創建年代は不詳ですが、江戸時代後期に編纂された「新編武蔵風土記稿」には、「牛頭天王社、宿ノ鎮守トス、正光寺持」
とあり、これが「テンノウサマ」として親しまれていたことがわかります。
また神仏分離以前には正光寺が別当寺でした。
明治6年7月に村社に定められ、それ以来、赤羽八幡神社の兼務社となっています。
境内には、本殿、幣殿・拝殿、神楽殿、末社水神社が配置されています。
水神社は舟運業者の信仰を集めた神社です。祠の右側には「寛政12庚申正月吉日」の年紀が刻まれています。また、勝海舟が
荒川で足止めされたときに書いたとされる大幟旗も所蔵します。
現在、本殿は、末社水神社の祭礼とおもに隔年ごとの六月第1土曜・日曜に行われています。このとき、氏子たちによって神輿が
巡幸されます。
参道の端に「岩淵町、町名存続之碑」があります。昭和37年5月に「住居表示に関する法律」が交付されると、北区も住居表示の
変更を進めました。由緒ある岩淵町の名を守るため、岩淵町1丁目の住民は町名存続運動を展開しました。この石碑は、そのとき
の記憶を未来へと刻むものです。

境内に入ると地元のお爺さん二人が木陰でお話をされていました。地元の憩いの場所なのでしょうね。岩淵長明存続運動で、
氏子さんの結束も強いのかもしれません。こちらの神社も墨田川沿いですが、境内社の水神社は近くの河川敷から移転してきた
ようです。日差しの強い日でしたが境内には木々が生い茂り柔らかな空気に包まれていました。