~風に吹かれて~ by ポー(paw)

-人の中に 人の創り出した物の中に 動植物の中に 地球や宇宙の中に 魂の琴線にふれ 愛を感じながら 生き込みたい-

鎮守氷川神社(埼玉県川口市)

2017-12-31 09:53:50 | ・神社・お寺

2017.12 鎮守氷川神社(埼玉県川口市)へ参りました。すでに新年をお迎えする準備が進んでいましたよ。

青木中学校の前に鎮座しています。

厄割石 
授与所で、「厄割玉」をいただき「厄割石」にぶつけて厄を落とすそうです。

参道に掲げられたお守り各種。新年、並びながら選ぶのかな。

境内の「浅間神社」 富士塚ですね。

富士講の石碑や祠がたくさんありました。

富士塚山頂 撫で犬は子宝・安産>親犬、子育て>子犬、家内安全>親子を、というように祈願に応じて撫でるとよいそうです。

氷川神社拝殿

本殿

境内社の稲荷神社

鎮守氷川神社は室町時代(700余年前)の初期(応永年間)の創建にかかる地方(武蔵国)の古社で古来より時代時代に幾度か

社殿が修復され再建されて来たが、明治17年に本殿、拝殿が再建されました。

元旦には五万人ものお参りがあり、年間を通し多くの方々の参拝があるため『小さな大社』といわれているそうです。

寒い日でした。参拝後、駐車場に戻ると、ものすごい音が・・・。すぐ近くの川口オートレース場からの爆音でした。
静かな山や山里での参拝が多いので驚きましたよ。こんな爆音の中でも神様は降りてきてくれるのかなあ。スサノオは、
そんなこと気にしないかな^^


北野天満社(八王子市北野町)

2017-12-29 06:28:42 | ・神社・お寺

2018.12 神社の前を通りかかったら、呼ばれましたので、参拝しました。

境内正面の保存帯。参道だったのでしょうね。

この保存帯には祠や石碑がありましたが風化が激しかったです。

境内 正面は天満社拝殿、右側が塩竃神社。

境内にはケヤキの巨木が多いです。右側のイチョウの下にはたくさんの銀杏^^

拝殿

本殿

本殿

塩竃神社

北野石器時代住居跡(縄文時代後期(約4千年前)の住居跡)

古峯原神社

神池 

本殿裏手には巨木や神池、更にはたくさんの祠や石碑がありました。

思ったよりも立派な境内でビックリしました。良い引き寄せの参拝でしたよ。

天満社
・東京都八王子市にある神社。北野町の地名の由来になっている。旧社格は村社。
・ 創建は不明、横山党の一族が京都北野天満宮を勧請したとされている。
・江戸時代将軍に武運長久の祈願札を毎年献上していた。
1600年代ご神木であるケヤキが植えられる。 1664年(寛文4年)社殿を再建する。 1880年(明治13年)唐破風向拝の社殿を
 再建する。
・1963年(昭和38年)北野駅周辺の区画整理により由井第一小学校内にあった北野石器時代住居跡(市指定文化財)が移設される。
by wikipedia


雷電神社(埼玉県鶴ヶ島市)

2017-12-28 05:43:53 | ・神社・お寺

2017.12 仕事でいつも脇を通る雷電神社を参りました。

この神社のすぐ近くの、良く話をしていた客先の社長さんが他界されたので、供養も兼ねてお参りしました。

雷電池のほとりに社があります。

雷電社

雷電池児童公園となっていて地元の方々の憩いの場所でもあります。

雷電池 綺麗な水で鯉も泳いでいましたよ。思ったよりも大きな池で驚きました。また池を繋ぐ水路もけっこう流れが
あって、良気を感じましたね。良い空気・空間でした。小春日和でもあり青空の下、暖かでした。

鶴ヶ島の近辺には台地上に高度の違う2つの湧泉群があることが知られている。ひとつは標高45から50mにみられるもので、
おかねが井戸、池尻池、逆さ木池などで上流湧水帯と、他のひとつは標高35から40mで雷電池などがこれにあたり下流湧水帯と
よばれている。 前者は武蔵野レキ層を帯水層とし、小渓流沿いの小規模な湧水を溜池にしてより安定な水源にしたものです。

後者は下末吉レキ層を帯水層とし、比較的安定な水源で溜池が作られずそのまま用水として利用していた。
http://escience.html.xdomain.jp/saitama/daichi/tsuru/tsuru.html より。

脚折雨乞(すねおりあまごい)

巨大な蛇体を作って練り歩き、雷電池(かんだちがいけ)へ導くことで降雨を祈願する。かつては旱魃の年に行われていたが、
近隣の住宅地化と専業農家の減少によって途絶の危機に瀕し、1976年(昭和51年)以降は4年に1度行うことで保存継承を
図っている。竹や麦藁を用いて作られる蛇体は龍蛇(りゅうだ)と称し、長さ36m、重さ3tになる巨大なものである。かつて
脚折村の鎮守であった白鬚神社で祈祷を行い、途中善能寺を経由しておよそ2kmの行程を練り歩いて脚折5丁目の雷電池に至る。
龍蛇は板倉雷電神社の神水とともに池に導かれた後、担ぎ手により解体され、その一部を持ち帰れば幸が訪れるとされる。
かつて雷電池には雷や雨をつかさどる大蛇が棲んでおり、ほとりの雷電社に祈れば必ず雨が降ると言われていた。しかし寛永
年間の新田開発により池は狭くなり、大蛇が上州板倉(群馬県邑楽郡板倉町)に移ってしまったため、以後は雨乞いの効果が
なくなってしまった。そこで板倉雷電神社で降雨祈願をしてそこの池の水を持ち帰ったところ、たちまち空が曇りやがて雨が
降ったという。by wikipedia

白鬚神社へは2017.3に参拝しています。


甲斐駒ヶ嶽神社・竹宇地区(山梨県北杜市)

2017-12-18 06:32:22 | ・神社・お寺

2017.12.2 山梨県北杜市にある神社・遺跡を巡ってきました。

その後、前回、日向山の登山帰りに参ろうとして行けなかった甲斐駒ケ岳神社へ。(その時は間違えて「横手駒ケ嶽神社」へ
参ってしまったのでした)

大きな駐車場に停めて神社へ。ところがあまり「神社はこちら」みたいな看板が無くて、なんとなく尾白川渓谷、甲斐駒ケ岳
竹宇登山口方向へと歩いていきました。
砂利道をしばらく歩いても神社が見当たらなくて前方から来る方に訪ねると、すぐ
そこですよとの事。大きな岩を通り過ぎると右側に神社が見えてきました。

甲斐駒ケ岳の名称は建御雷神から生まれた天津速駒と言う白馬が住んでいたのに由来します。同様に尾白川 もこの白馬の尾
から取られたものです。甲斐駒ケ岳は 信州の人今右エ門の次男、権三郎(後に弘幡行者開山 偉力不動尊)によって開かれた
信仰の山であります。 駒ケ岳神社は甲斐駒の麓にあり、今から約270年前 に駒ケ岳講信者が建立し、須佐之男命の子、
大躬 貴命が祭られています。幽玄なる神木に囲まれたこの 神社は毎年4月12日に神楽が行なわれ講社、氏子の 参拝で
賑やかです。~由緒書より。

「山梨県神社誌」には横手の駒ケ嶽神社は記載されているが、ここ竹宇の駒ケ嶽神社は載っていないそうです。横手の駒ヶ嶽
神社の由緒書には「雄略天皇の御代二年六月(西暦460年位)に改めて 雲州宇迦山(出雲大社)より遷祀した」とあります。
横手の方が歴史があるのかもしれませんが、いずれにしても江戸時代以降の山岳信仰によって、どちらの神社も歴史を重ねて
きたような境内の空気・空間です。

手水舎

渋い鳥居です。

不動明王でしょうか。

神楽殿

拝殿と神楽殿

祖霊社

拝殿

境内の手前から拝殿の奥まで沢山の石碑が立っています。修験系、山岳信仰の神社の色合いが見られますね。

崖崩れの恐れありとの事で右側の「黒白龍神宮」にはロープが張られいて参れませんでした。

摩利支天社
刀が立て掛けられていますね。

摩利支天像でしょうか? 見ていると惹きこまれますね。

境内には数え切れないほどの石碑が建っています。「お墓ではありません」と立札がありました。

境内奥に尾白川にかかる釣橋があります。ここから甲斐駒ケ岳の登山道へと続いていきます。

吊り橋は定員5名ですよ。

いや~綺麗な川床です^^

下流側

登山道入り口

神社入り口境内脇の「尾白荘」

帰りに、尾白渓谷駐車場を出てしばらく走ると猿の集団が道路を横切っていきましたよ。

国道20号に出る前に振り返りました。神社の方からは近すぎて見えませんでしたが、甲斐駒ヶ岳が奥から姿を現していました。


穂見諏訪十五所神社(山梨県北杜市)

2017-12-17 07:57:50 | ・神社・お寺

2017.12.2 山梨県北杜市にある神社・遺跡を巡ってきました。

「金生遺跡」「八嶽(やつがたけ)神社」の後、「穂見諏訪十五所神社」へ参拝に向かいました。

背が低くとても可愛い感じの鳥居です。

境内の池

6月頃には蓮の花が綺麗に咲くようです。

おっ!と唸ってしまうほど存在感のある大ケヤキが!

鳥居をくぐり太鼓橋を渡ります。

神門

池にはたくさんの鯉が^^

拝殿

拝殿裏の少し離れた山の中腹にある「本殿」

拝殿裏からは階段はあるものの低い扉があって、本殿近くまで行けないと思って諦めたのですが、帰ってからググって
みたら社務所の脇から行けたようです。残念。。。。。

本殿は、町指定の文化財建造物。江戸中期の再興と推定され、長坂町では最古に属する建築。建築年代は、桃山期の
元亀4年(1573年)と推定され、享保14年(1729年)に修理を加えているそうです。

大ケヤキ
樹齢約700年あまり。幹の周囲5.2メートル。縁結びのケヤキとして崇敬されている。町指定天然記念物。
もともとは夫婦ケヤキとして2株一対をなしていたが、左側にあった妻ケヤキは樹勢が衰え枯死してしまい、現在残るのは
夫ケヤキのみのようです。

神楽殿

境内より神門・鳥居方向

穂見諏訪十五所神社
・『延喜式神名帳』にある「穂見神社(甲斐国・巨麻郡)」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では郷社。

・創建年代は不詳。往古、甲斐の国民が多く稲穂を献じたことにより、穂見神社と称されたという。

主祭神は保食神。戦国時代、甲斐国主の武田信虎によって諏訪神(建御名方命)が合祀された。信虎が命じて始めさせた
 御筒粥神事は、毎年1月14日夜より翌15日にわたり厳修され、今も執行されている。町指定無形文化財。

十五所神は十五所権現とも称せられ、当社別当職として社僧が常住していた時、江戸時代前期の延宝年間(1673年
 -1681年)に合祀された。以下の通り。なぜか16柱。国狹槌尊・豊斟渟命・大戸道命・大戸邊命・面足命・惶根尊・
 句句廼馳命・迦倶槌命・埴安姫命・金山彦命・罔象女命・天八十魂命・天三下魂命・天八百魂命・天合魂命・天八十萬
 日魂命。

・昭和20年(1945年)9月10日、郷社に列した。例祭は4月10日。太々神楽が伝わっている。

http://www.buccyake-kojiki.com/archives/1064210019.html より。

境内前では、たくさんの穂(穂見神社ですから^^)がまるで雪のように飛び交っていました。
90歳過ぎだと思うお婆さんが一人で参られていましたよ。

葦原にはこの子が居ました。どうしても穂にピントが合ってしまって・・・残念。。。オオジュリンかなあ?


八嶽(やつがたけ)神社(山梨県北杜市)

2017-12-16 12:05:12 | ・神社・お寺

2017.12.2 山梨県北杜市にある神社・遺跡を巡ってきました。

「金生遺跡」へ立ち寄った後、近くの八嶽(やつがたけ)神社へ詣でました。

参道正面近くの南側には、ここからも甲斐駒ヶ岳が綺麗に望めました。

参道入り口

拝殿

ものすごく大きいです。巨大な兜のような屋根がすごいですね。八ヶ岳を背負って建てられています。

御祭神: 建御名方命、石長姫命、罔象女命

建御名方命は、大国主命(おおくにぬしのみこと)の息子で、諏訪大社の祭神。
岩長姫命は、大山祇神の娘で、木花咲耶姫の姉です。岩長姫命は八嶽権現とも呼ばれています。
罔象女命は、伊邪那美命の娘の水の神。

由緒沿革: 創建年月不詳なるも文献によれば今より約千百年前六十代醍醐天皇の御代延喜二年と推定される。初め
建御名方命を祀り、天正三年八獄の神霊を合祀して八獄神社と称す。明治十年飛火のため類焼したが其の後再建現在の
拝殿である。http://www.yamanashi-jinjacho.or.jp/intro/search/detail/6177

本殿 拝殿がものすごく大きいのでとても小さく感じます。

神楽殿

手水所 龍が個性的^^

ご神木のコナラ

社務所

拝殿周りにはかつては水の流れがあったのでしょう。太鼓橋も見られます。境内の外ではすぐ近くに川が流れています。

境内の巨石。八ヶ岳・権現岳の山頂には祠が鎮座する岩塔があり、かつては桧峰神社、または八ヶ岳権現と呼ばれており、
山岳宗教の場であったことを物語っている。第56代清和天皇の貞観10年(868)9月17日、甲斐檜峰の神は従五位下を
授かった、と『日本三代実録』にあるそうです。

境内から参道方面

八ヶ岳は、以前から馴染みがあって周辺にはよく旅行に来ていました。良いところですね。この神社は里宮となるので
しょう。地元に溶け込んでいるような空気が漂っていました。それにしても、この拝殿の大きさはどうしたものなので
しょう。ちょっとググってみましたが情報は見当たりませんでした。


金生遺跡(山梨県北杜市)

2017-12-15 06:57:27 | ・旅・山

2017.12.2 山梨県北杜市にある神社・遺跡を巡ってきました。

建岡神社から、「金生遺跡」へ。この日は抜群の天気で北杜市からは富士山、八ヶ岳、甲斐駒ケ岳が綺麗に望めました。

富士山 金生遺跡へ向かう途中から^^  こちら側から望む富士山は北西側に当たりますが、あまり雪が無さそうな・・・。
川越辺りから望む北東側の富士山はけっこう白いですけどね。

金生遺跡付近から望む八ヶ岳

八ヶ岳・赤岳(2899m) 迫力ありますね~。いつか登ってみたいですなあ。 

こちらは南アルプス方面

甲斐駒ヶ岳(2967m)

北岳(3193m) 富士山に次ぐ日本第二の高峰 もう真っ白ですね。

金生遺跡 入り口 「甲斐駒ヶ岳」が望めます。

金生遺跡 入り口の男根状の巨大な石棒モニュメント。何もこんなに大きくなくても(笑)
バックに「八ヶ岳」が望めます。

金生遺跡   思っていたよりも小さかったです。

国指定の史跡として高い価値をもつこの遺跡は、縄文時代の後期から晩期にかけて祭祀を行った場所とされています。この遺跡
からかいま見られる縄文人の生活は、清らかな水と、木々の豊かな実り、多くの動物と人との共栄など自然の宝庫であったこと
に間違いないと思われます。
また八ヶ岳山麓には存在しない花崗岩などの出土から、遠方との交流もあったと考えられています。そして何よりも膨大な数の
石が集められた配石遺構の祭壇や土偶などから、自然を糧とし、また源として愛してきた縄文人の純粋な心を知ることができま
す。https://www.hokuto-kanko.jp/guide/%E9%87%91%E7%94%9F%E9%81%BA%E8%B7%A1より。

自由に遺跡内に入ることができます。これには驚きました。

男根状石棒 ホントに縄文後期のものなのですかねえ。なかなかリアルです(笑

石棒を中心に周りが少し平らになっています。しばらく座ってみました。少しタイムスリップできましたよ。

「石棺状遺構からは焼けた人骨片や耳飾などの装身具が出土」し、「イノシシ幼獣の下顎を火にくべるという宗教的行為」が
あったようです。縄文後期、この場所に人々が集まり、死者を弔ったり、子孫繁栄を願ったりしていたのでしょうね。

イノシシは多産であることから、縄文時代には豊穣の象徴として、縄文時代の精神世界においても重視されていたとされ、
土器文様としてイノシシ装飾が見られる。by wikipedia

金生遺跡(きんせい いせき)

●山梨県北杜市大泉町谷戸寺金生に所在する遺跡。国指定の史跡。

●金生遺跡縄文時代の集落跡や祭祀施設と、中世の城館跡や集落跡が複合した遺跡。

●県北西部に位置し、八ヶ岳南麓の尾根上に立地する。標高は760-80メートル付近。旧大泉村域の最南部に位置。

●縄文遺跡が集中する北側をA地区、中世の遺跡が集中する南側をB地区として区分されている。A地区の縄文遺跡では、
 住居址群と配石遺構や石組など埋葬施設や祭祀施設が複合した遺跡であることが特色とする。

●八ヶ岳山麓は縄文時代の遺跡が濃密に分布する地域で、富士山や奥秩父連山をはじめ、後世に信仰の対象となった山々を望む
 ことができる立地にあり、北杜市大泉町域でも縄文前期後半の天神遺跡をはじめ大規模な集落遺跡が見られ、祭祀的遺構も多い。

●金生遺跡は気候が寒冷化し遺跡数も減る縄文後晩期の遺跡。

●1980年(昭和55年)、圃場整備に伴い山梨県教育委員会による発掘調査が行われ、38棟の住居址、5基の配石遺構が確認され
 ている。住居址は縄文後晩期が中心で、竪穴式住居や敷石住居、石組住居など。石組は方形や円形で立石、石棒、丸石などが
 配置された形態で、石棺状遺構からは焼けた人骨片や耳飾などの装身具も出土しており、墓前祭祀行為が行われていたとも考
 えられている。

●出土遺物は200点を越える土偶のほか石棒、石剣、独鈷石、祭祀用土器などの祭祀遺物のほか、日用品や土製耳飾などの装身具が
 出土している。

●動物遺体では縄文時代のツキノワグマ、イノシシ、ニホンジカ、ニホンカモシカなどが出土している。特に遺跡一角の直径1.3m、
 深さ60cm程度の円形の土坑内部から、大半が幼獣である焼けたイノシシの下顎骨が138個体分出土している。出土した下顎骨は
115体が幼獣のもので、多くが非熱していることが指摘される。こうした出土状況から、イノシシ幼獣の下顎を火にくべる宗教的
行為が想定され、アイヌのクマ送りの儀礼であるイヨマンテに通じる何らかの狩猟儀礼や農耕儀礼が行われていたとも考えられて
いる。また、縄文時代にイノシシの飼養が行われていた可能性がある事例としても注目されている。

●B地区からは縄文後期や平安時代の住居跡も見られるが、中世の遺構が主体となっている。15世紀のものと考えられている49基
 の地下式土坑群や人骨が検出された墓坑や、16~17世紀の住居跡が10棟以上、溝状遺構や内堀、水溜と考えられる石組遺構が
 検出されている。地下式土坑は墓所や貯蔵穴、隠れ穴などの説がある。位置的に隣接する旧長坂町域にあたる深草館跡の外郭部
 遺構と考えられている。出土遺物は土器や陶磁器類、石臼など石製品や金属製品などの日用品、銭貨など。

●縄文時代の精神文化がうかがえる貴重な遺跡として、発掘調査の行われた翌1983年(昭和58年)に国の史跡に指定された。付近
は住居が復元され、公園として整備された。出土遺物は甲府市の山梨県埋蔵文化センターや山梨県立考古博物館などが所蔵している。
by wikipedia

この遺跡付近は、ホントに素晴らしい山々(甲斐駒、八ヶ岳、富士山)を望める場所で、穏やかな空気・空間に包まれて
いました。縄文の人々の暮らしを思い浮かべることができそうでしたよ。


建岡神社(山梨県北杜市)

2017-12-12 16:47:53 | ・神社・お寺

2017.12.2 山梨県北杜市にある神社・遺跡を巡ってきました。

金生遺跡へ向かう途中、地図にも大きく載っていた「建岡神社」へ立ち寄りました。

境内入口

建岡神社 国史現在社 有栖川宮御祈願所

祭神 建御名方神

例祭 五月五日 特殊神事 夏越祭 七月三十一日

宝物 有栖川宮織仁親王御染筆額字 高松宮家奉納系図 日野大納言資矩等の公家奉納和歌法楽百首

当神社は日本武尊が天津神を祀り建岡と称したと云われ後に黒源 太清光公が諏訪大明神を配祀しました 建岡の神様は
出雲の国からすぐ れた文化をもたらし妃の八坂刀売神と共に先住民族に耕作機織の業 を教え産業を興し信濃の国を
開発しました 私達の祖先はこの神様を 氏神様と敬い御神徳をいただき神社を中心に平和な豊かな大八田を 築いて
きました 私達が今日あるのは氏神様と御先祖のお蔭です 氏神様を建岡の山から末永く見守って下さいます

鳥居をくぐると左右に末社の祠がたくさんありました。

右側には夫婦道祖神も見られます。

「百年余年知らずに踏んで来たに三ツ星大神下段の三ツ星は前にコブが出ているのでわかりやすいが、上段の星は見にくい。
氏子等も思わず踏んで来た尊い神様。先日、宮司中沢氏に伺ったら魔除けの神とか異動も可と聞き、早速、平成十二年
十二月十九日 大安の日、塩・酒・米を供え、手すりの下へ移動しました。この神様は、舞鶴城址にもあるとのことです。
上段二段目」

参道石段の中腹に三ツ星大神と称する模様形が彫られ、案内板が立てられていました。が、どこが模様なのかよく
分かりませんでした。由来も不明のようですが、ググってみましたら、深く考察されている方がいらっしゃいました。

上段、下段に2種類の三ツ星が彫られているようですが、そのうちの一つのタイプの山形の星象については、妙見信仰の
石塔などで見られる場合があり、これは道教とも深いかかわりのあることがよく 知られているそうです。もう一つの
タイプはオリオン座の三ツ星を模したものと考えられるとの事。

http://www.maroon.dti.ne.jp/starlore/bunka/kishou.html より

参道石段の両脇にも祠がたくさんありました。

参道石段途中の神門

随身門の門番の神様はどちらも松ぼっくりの絨毯の上に居られましたよ。

拝殿 狛犬がとても古そうです。

拝殿上部には「法楽百首」

神楽殿

木々に塞がれていますが、甲斐駒ヶ岳が見えていました。

本殿

拝殿脇の境内社と丸石(道祖神?)

拝殿全景 すごい屋根ですね。

諏訪大社の神紋

境内入り口脇

境内外のわずかに西から望む甲斐駒ヶ岳

とても地元に溶け込んだ神社でした。


軍荼利(軍太利神社)&八耳堂(埼玉県飯能市)

2017-12-10 11:55:03 | ・神社・お寺

2017.11.26 天覧山へ低山(丘?・笑)ハイクへ行きました。多峯主山から下りた後、軍荼利(軍太利神社)&八耳堂へ
立ち寄りました。

軍荼利(軍太利神社)&八耳堂は、御嶽八幡神社の南、入間川(名栗川)を渡った対岸辺りにあります。

八耳堂と軍荼利神社
この八耳堂は、真言宗の寺、金輛山無量院金蔵寺の仏堂で、太子堂とも呼ばれています。本尊は、聖徳太子(厩戸皇子)
まつり、保元年間(1156~1158)に建立されたといわれていますが、現在の建物は、文政3年5月再建したものです。この奥手
軍荼利神社があって、鎌倉時代の建仁2年(1202)に飯能地方の武士、大河原四郎氏が創建したといわれています。大河原
氏は、この地方の殿屋敷と呼ばれる場所に居住して、この社の南方に位置す龍崖山に砦を造って非常に備えるとともに、
金蔵寺とこの神社を厚く信仰したといいます。この紳社は、天和2年(1682)年に火災にあったのちに再建されました。看板より

八耳堂の脇、神社の前には池があり、大きな鯉が何匹かおられましたよ。

軍荼利(軍太利)神社

紅葉が綺麗です。本殿裏の大イチョウも見事な黄葉でした。

一の鳥居、二の鳥居、灯籠、両御神木(シラカシ)が綺麗に重なり合っていて参道を進むごとに雰囲気が変わります。

本殿

軍荼利(軍太利神社)拝殿・本殿の左にも鳥居があって奥に摩利支天社がありました。

本殿裏の末社

軍太利神社

祭神:加具土命、大日霊貴命外7柱の命

建仁年間(1201-1203)当村の領主大河原四郎が勧請したと伝えられます。明治5年村社に列格、明治40年近隣の
稲荷神社3社・神明神社2社・愛宕神社3社・白山神社・阿松神社・八坂神社・軍太利神社を合祀しています。

<由緒>
名栗川の南岸にある当地は、二つの山の狭間にあり、すぐ後ろは竜崖山が控え前方には多峯主山が望める。『風土記稿』
によると古くはここは軍茶ヶ根(ぐんだがね)村と呼ばれ、これは「軍太利神社」を祀るために付けられたものかと記され
ている。社記によると、当社の勧請は土豪の大河原四郎の手により行われ、部門の守護神として末社摩利支天社とともに
祀られる。大河原氏はこの地の殿屋敷と呼ばれる所に居住し、当社南方の竜崖山に砦を築き戦いに備え、殿屋敷・篝場・
売堀・馬場などの地名が『明細帳』の記載に見える。また、近くの真言宗金蔵寺と八耳堂(太子堂)も大河原氏が厚く信仰
していたと伝える。末社の摩利支天社は負けず嫌いの神といわれ、現在でも勝負事や商売繁盛の願を掛けるものはブリキの剣
を奉納するのを習わしとしている。「埼玉の神社・埼玉県神社庁発行」より
http://akatoge.jp/hannougundarijinjya.html より。

軍荼利明神・摩利支天信仰・・・武士の信仰ですね。

今回は背後に控える竜崖山へは登りませんでしたが、この杖を作られた方がおられて、山頂からの日出など美しい写真を
見せていただきました。「竜崖山を愛する80人衆」の作られた看板などがあちこちにあるようですが、そのお一人だったの
かもしれませんね。

神社の手前にある「八耳堂」

この八耳堂は、真言宗の寺、金輛山無量院金蔵寺の仏堂で、太子堂とも呼ばれています。本尊は、聖徳太子(厩戸皇子)
まつり、保元年間(1156~1158)に建立されたといわれていますが、現在の建物は、文政3年5月再建したもの。

聖徳太子なのでしょうね。

太子信仰
太子自身を信仰対象として、聖徳太子像を祀った太子堂が各地の寺院にある。聖徳太子は観音菩薩の化身として尊ばれた。

豊聡耳(とよとみみ、とよさとみみ)
ある時、厩戸皇子が人々の請願を聞く機会があった。我先にと口を開いた請願者の数は10人にも上ったが、皇子は全ての人が
発した言葉を漏らさず一度で理解し、的確な答えを返したという。この故事に因み、これ以降皇子は豊聡耳とも呼ばれるように
なった。
『上宮聖徳法王帝説』、『聖徳太子伝暦』では8人であり、それゆえ厩戸豊聰八耳皇子と呼ばれるとしている。 『日本書紀』と
『日本現報善悪霊異記』では10人である。また『聖徳太子伝暦』には11歳の時に子供36人の話を同時に聞き取れたと記されて
いる。一方、「豊かな耳を持つ」=「人の話を聞き分けて理解することに優れている」=「頭がよい」という意味で豊聡耳と
いう名が付けられてから上記の逸話が後付けされたとする説もある。by wikipedia


御嶽八幡神社(埼玉県飯能市多峯主山(とおのすやま))

2017-12-04 17:57:48 | ・神社・お寺

2017.11.26 天覧山へ低山(丘?・笑)ハイクへ行きました。
天覧山から入の谷津田へ下り、見返り坂をだらだら上り、多峯主山(271m)へ。

多峯主山山頂(271m)

多峯主山・・・「とおのすやま」と読みそうですが読めませんねえ。名の由来は諸説あり不明のようです。
山頂には1万2千個もの経文を書いた石が埋められてると言われる経塚があります。修験道の山だったのでしょうね。。。

山頂から東方面 少しもやっていましたが天気が良くて良い日和でした。

中央左に東京スカイツリーがもわっと写っています。やはり背が高いですね~。

高層ビル群が、まるで角角の山のようでしたよ。低い山ですが見晴らしは抜群です。富士山も見えていました。

お昼には早い時間だったので、山を下りて江戸時代に飯能を領していた黒田氏の祖、黒田直邦(飯能の国衆中山氏の一族で、
江戸幕府の寺社奉行、老中を勤めた大名)の墓をお参り。さらにお墓直下の「雨乞い池」へ。

「雨乞い池」

この池は、雨乞池、または雨乞渕といいます。多峰主山頂近くにありながら、かつて水のかれたことのない池です。古くは、
この上手に、高龗・闇龗(雨をつかさどる神として古来祈雨・止雨の神)がまつってあって、近郷の人たちの信仰が厚かった
ものです。田畑の作物がかれるような旱天が続くと、ここに集まって、神に雨を乙い、池のまわりでにぎやかなお祭りをしたと
いいます。「この水を濁すと雨か降る」といい、また、鼻をつまみ息を止めて七回りすると、池の中に異変がおこるというような
伝説もありました。看板より

息を止めてこの池の周りを7回も回ったら死んじゃいますよ・・・^^;

山を少し下った南斜面に「御岳八幡神社」があります。大きな岩山となっていて岩の下部から回り込みました。

大岩の斜面には牛頭天王の祠や金毘羅の石碑などいろいろとございました。

「ロッククライミング禁止」^^;

大岩下直下の石碑。不動明王さんかなあ?

前岩と云われる大岩の天辺に神社の拝殿がありました。

富士山や大武山が綺麗に見えていました。

御嶽八幡神社 通称「おんたけさん」

祭神:誉田別命、大山祇命、大己貴命、少彦名命

創立年代不詳。
前岩と称される巨岩の上に社がある。産土神(うぶすながみ・生まれた土地の守護神)として信仰が厚い。

多峰主山の南西の岩壁は前岩と呼ばれている。この辺りは昔、牛頭天王社などの小社が鎮座していた。江戸時代末期に飯能村
名主、大河原氏の委任を受けた、与平という人が山仕事をしていた。ある日、前岩で昼寝していると、いつのまにか山麓に
転げ落ちていた。不思議に思った与平が屋敷鎮守の琴平宮をこの山に祀り、百余段の階段を築いた。明治時代初期、
御嶽教行者丸田開元と名主大河原又右衛門が御嶽神社の分霊を安置。1907年、無格社・八幡神を合祀、社号を
御嶽八幡神社に改称。 by wikipedia

近くに「大河原」という地名の交差点がありましたよ。

それにしてもすごい存在感の「前岩」です。

神社の前岩から少し下ったところに巨木がありました。

楠(クスノキ)ですね。大きくて立派です。前岩と云われる大岩に大クス。南斜面。風水的にもとても良さそうな場所
です。明るい初冬の陽光を浴びて、素晴らしい空気・空間でした。二日酔いでしたが(笑)、ずいぶんとエネルギーを
受け取ることができました。

前岩から、さらに下ります。昔は棚田であったであろう場所があって、川の流れにも近く、広々としていて気持ちが
良かったので、そこで昼食にしました。

昼食後、さらに下るとポツンと鳥居が見えてきました。

そういえば前岩付近には鳥居が無かったんですよね。

さらに県道70号近くまで降りると、こんなに立派な御嶽八幡神社の鳥居があったのでした。
山全体、特に前岩が信仰対象だったのでしょうね。

鳥居脇の無人野菜売り場で野菜を買ってネギ背負って歩きましたよ(笑
売り場の前にお年寄りの方と思われるお財布が落ちてました。野菜買った後に落としたんだろうなあ。野菜売り場の小銭入れ
の脇に置いておきましたが・・・・御嶽八幡神社の神様は力を貸してくれましたかねえ。。。。

御嶽八幡神社・里宮 帰り途中に見つけました。
1160年創立とされる。明治に入って前岩の八幡神社と合祀され廃社となったが、不便なために再び分霊されたそうです。

入間川の川向かいから望む御嶽八幡神社拝殿の側面。

低山ハイクでしたが、地場のエネルギーも感じられて予想以上に楽しめました。上図、下山後に止めるのを忘れて
しばらくクルマで走って止めたのでおかしなことになっています^^;


天覧山(埼玉県飯能市)能仁寺・紅葉・十六羅漢

2017-12-02 04:58:03 | ・神社・お寺

2017.11.26 天覧山へ低山(丘?・笑)ハイクへ行きました。

まずは、飯能の「大里屋本店」へ。
明治より100年続く、飯能の老舗和菓子店。創業当時と変わらない伝統の製法と味を今に伝えています。看板商品の「四里餅」
は飯能市内外を問わず、根強い人気商品。閉店時間前に売り切れることもよくあり、特に東京の人に人気とか!?

朝8時半開店直後に立ち寄りましたが、クルマがどんどん入ってきました。いや~地元では人気なんですね~。

今を遡る百余年、この名栗川を西川材が筏に組まれて盛んに切り出される頃、四里の急流を竿一本であやつることは大変むずか
しく、特にあづま峡に入ると岩数も多く、筏師の難所といわれました。丁度その頃、あづま峡付近の小さな茶店で餅を売る親爺が
あり、筏乗りはいつもこの餅を食べ(しりもち)もつかず、いかなる難所も一気に乗り切ったという話が伝わっており、古来より
西川名物の一つに数えられ、万人の方々の絶賛を博しております。http://brand.cci-saitama.or.jp/hannou/goods_hannou_1458/

「武陽山能仁寺(のうにんじ)」
埼玉県飯能市にある天覧山南麓に広がる曹洞宗のお寺

山門

仁王像

迫力ありますね~。

仁王門付近は紅葉が綺麗でしたよ。

本堂

お寺から天覧山へ向かおうとしましたが、いったんお寺を出ないと登れないようでした。山門を出て東へ。わずかに行くと
天覧山への登り口がありました。

赤重ね^^

紅葉!!!
いや~、美しい~!!!と思って見上げると、更に美しい色合いが広がっていましたよ。

天覧山への登り始めですが、ホントにお見事でした^^

十六羅漢石仏
天覧山のハイキングコースの山頂のすぐ下あたりの岩場にあります。

天覧山は、山麓にある能仁寺に愛宕権現を祀っていたので、もとは愛宕山と呼ばれた。それが時代を下り、徳川五代将軍綱吉
の病気平癒のお礼に、生母桂昌院が十六羅漢の石仏を奉納したので、羅漢山と呼ばれるようになった。それが1883年
(明治16年)4月18日に、山麓で行なわれた近衛兵春季小演習を明治天皇がこの山頂から統監したことにより、天覧山と呼ば
れるようになりました。by wikipedia

ここを登ると、あっという間に天覧山山頂。

天覧山は、標高197m(山頂の看板では195mと記載)。山というよりは丘ですね。でも、眺めはとても良かったですよ。
つづく~


「映画」アラヤシキの住人たち

2017-12-01 07:15:36 | ・映画・本・絵

いや~、ほっこりさせて頂きました^^

二時間、住人達と一緒に暮らさせてもらったような錯覚になりました。

瑞穂さん、いい味出していましたね。逢いたいです。
最後の「時間よ 止まれ」も♪

ヤギ出産にも、その場に立ち会ったように感動しましたよ。

耳鳴りのような膨大な虫の音
(聴覚マインドフルネスに最高!)

四季の生活  雪下ろし は やっぱり大変だね。
百葉箱のアップダウンも重そうでしたね。

ラジオ体操

結婚式 

「競争社会」と「協力社会」

去る者は追わず来るものは拒まず

どの社会に居ても、そこで生きるものにとって修行です。
逃げ出しても、その場に居ても、この世に居る限り修行は
続くわけですね。

目の前にあることに集中し、一つ一つ、それをこなして
生きていく。流されるのでもなく、ともかく目の前の
ひとつひとつにキチンと向き合い続けること。

ありがとうございました。

帰りに流れてきた楽曲は
チャラの「タイニータイニータイニー」♪
過ごした時間にぴったりマッチしてました。

 
 
世界はたくさん、人類はみな他人。