~風に吹かれて~ by ポー(paw)

-人の中に 人の創り出した物の中に 動植物の中に 地球や宇宙の中に 魂の琴線にふれ 愛を感じながら 生き込みたい-

滝の城・城山神社(所沢)

2016-02-26 12:47:58 | ・神社・お寺

2016.2 所沢の「城山神社」へ行ってきました。

鳥居をくぐり階段を上ります。

階段上部より。なかなか急こう配です。

眺めがいいんです。 

城山神社

夫婦樫

東京都清瀬市~埼玉県所沢市の間に辺りますが、15mくらいの急峻な崖が続いています。

河岸段丘は、柳瀬川流域の南側に発達しているが、他方の北岸には狭山丘陵からつづく古くからの丘陵地形が存在しているため、

地形景観の違いをみせている。北側の丘陵地形は、その縁が古くから柳瀬川の浸食をうけてきたために切り立ち、所沢市本郷に

所在する中世の山城である滝の城も、この柳瀬川に南面する急峻な崖を利用し、丘陵上に空堀をめぐらせて築城されている。

http://members3.jcom.home.ne.jp/nabari.u.y/pkoza1.pdf より

「堀」が残っています。

wikipediaによると、

滝の城(たきのじょう)は、埼玉県所沢市 城に所在した日本の城である。 

同市の東端で隣接する東京都清瀬市との都県境、柳瀬川の北岸に位置し、

豊かな緑に覆われた断崖の上に 曲輪や空掘り跡などが残っている。

今日では本丸跡に「城山神社」が祀られ、その南側を中心に滝の城址公園

として整備され、梅・桜の木や運動施設などが揃う公園となっている。

滝の城(滝之城, 瀧之城)は 別称「本郷城」とも呼ばれ、1925年(大正14年)に

埼玉県指定史跡に指定されている。その原型は、伝承によると1180年

(治承4年)頃に 源頼朝の挙兵に応じて土豪が築城したものと言われているが、

記録などは残っておらず詳細は不明である。

また、横穴式墓群の出土により、この場所は城としての成立以前の古代においても

何らかの重要な拠点として使用されてきたものと推測される。戦国時代には、

関東管領上杉氏の家臣で武蔵国守護代 大石氏の滝山城(後に八王子城)の支城

として対岸の清戸番所との関係もあったとされる。その後大石定久の代に後北条氏の

支配下となり北条氏照の支城になった。 氏照は本拠の滝山から北関東に度々

出陣しており、その直線上にあたる滝の城は軍勢集結の拠点になった。

1564年(永禄7年)の北条氏による下野への遠征の際にはこの城で陣揃が行われた

ことが記録されている。その後1590年(天正18年)、豊臣秀吉の小田原征伐の際に、

浅野長政率いる豊臣方に城北側の大手方面から急襲され八王子城と共に落城、

徳川家康の関東入国の領内整備の頃には廃城となったと推測されている。


大宮氷川神社・他

2016-02-24 14:10:24 | ・神社・お寺

2016.2 「大宮氷川神社」に行ってきました。

二の鳥居

たくさんの人が歩いていました。神社の脇には、サッカー場、野球場、陸上競技場などがあり、そこへ向かうストリートでも

あるようです。

氷川参道

敗戦後の大宮駅前の闇市時代を経て、参道は南北に2km伸び、現在ではケヤキ並木となっています。

杉からケヤキに変わったのは戦中、戦後の資材難から伐採された事や、車の排気ガスや振動、地下水脈の低下や

歩行者による根元の踏み固めなど複数の要因が考えられます。更に古い時代には参道沿いに松の並木が描かれて

いる絵図がありますので松並木の時代もあったようです。

三の鳥居

額殿

三の鳥居をくぐり境内に入るとすぐ右側に神楽殿、額殿があります。額殿は江戸末期の頃の建物のようです。

稲荷神社

宗像神社

赤い橋を渡ると「桜門」 

桜門をくぐると・・・

舞殿

神楽殿ですね。

舞殿、拝殿の辺りはとても広々としています。

拝殿

参拝者は途切れません。

大宮氷川神社

東京都・埼玉県近辺に約200社ある氷川神社の総本社。

神社の境内は見沼(江戸時代中期まで存在した広大な沼)の畔に立ち、もとは見沼の水神を祀っていたと考えられている。

現在の神池は、見沼の名残である。埼玉県・東京都の荒川流域、特に旧武蔵国足立郡を中心にして氷川信仰に基づく

氷川神社が多数分布する。by wikipedia

本殿と神輿舎

力石

門客人神社と御嶽神社

 

大宮氷川神社は、富士山と筑波山を結んだ線と、浅間山と冬至の日の出を結んだ線の交差地点に位置する。

また、大宮の氷川神社・中川の中氷川神社(現 中山神社)・三室の氷川女体神社が浅間山と冬至の日の出の線上に一直線に

並ぶことから、この三社が男体社・女体社・簸王子社として一体の氷川神社を形成していたという説がある。by wikipedia

 

というわけで、 続いて「中山神社」へ

中山神社

中山神社は以前にも訪れています。詳細リンク

さらに「氷川女体神社」へ

氷川女体神社

こちらも以前訪れています。詳細リンク

というわけで氷川神社三社巡りでした^^


あの枝垂れ梅

2016-02-18 09:09:04 | ・植物

2016.2.16撮影

あの枝垂れ梅です^^

そろそろかな?・・・・・・思ったよりも咲いていました。五分咲きくらいかな。

今シーズンは気温のアップダウンが激しいから、咲いていいんだかどうか迷っているでしょうねー。 

   

武蔵野線「JRF 桃太郎」通過~^^

 

ツグミちゃんが居ましたよ。

2016.2.14 大雨後の春一番が吹いた日

一時間ウォーキングして、カエル君、4カップル含めて10個体確認。クククと鳴いてます。

大雨and気温上昇で、冬眠から一気に目覚めたみたい。

その後、真冬に逆戻り。。。今頃、どうしているかなあ。。。。

 


鬼鎮(きじん)神社&鎌形八幡神社(埼玉県嵐山町)

2016-02-12 09:26:55 | ・神社・お寺

2016.2 埼玉県嵐山町の神社へ行ってきました。

まずは「鬼鎮(きじん)神社」へ

カーブしている道路脇に、おもむろに真っ直ぐ参道が伸びています。

「畠山重忠公の菅谷城の、鬼門除けの守護神として鎌倉街道に沿って建立された神社」ということで、ここは旧鎌倉街道なのかな?

拝殿前には「こん棒」が立て掛けてありましたよ。まさに鬼に金棒^^

鬼を祭る珍しい神社です。

旧村社で、地元では俗にキジンサマ・キチンサマなどと呼ばれているようです。

戦時中は軍人や家族が、現在では受験生や選挙の候補者などが「必勝祈願」に訪れる。

節分の日には境内で豆まきが行われるが、青鬼と赤鬼の面をつけた氏子が、「福は内、鬼は内、悪魔そと」と叫びながら、

参拝者に福豆をぶつける。

約八百年前、安徳天皇の御代、寿永元年に創建され、御祭神は衝立船戸神、八衢比古命、 八衢比売命で、主神の、衝立船戸神は、

伊邪那岐命が黄泉の国を訪れた後、筑紫日向の橋 小門の阿波岐原で、禊祓いをして持っていた杖を投げ出した時、杖より生まれた

神である。 それが幅広く解釈されて、悪魔払いの神、家内安全商売繁昌の神、受験の神と、人生の指 針を示し、強い力を授ける神

として崇められている。

 

続きまして・・・「鎌形八幡神社」へ

鎌形八幡神社

平安時代の初期、延暦年間に坂上田村麻呂が九州の宇佐八幡神社宮の御霊をここに迎えて祀ったのが始まりであると伝えられている

社です。この説からすると鎌倉の鶴岡八幡宮より古いことになるようです。昭和41年の台風の時に古木のほとんどが倒れてしまった

そうですが、以前は老杉が境内を覆っていたそうです。

都幾川左岸にあるのですが、とても立派で歴史を感じさせる境内です。

木曾 義仲(きそ よしなか)=源 義仲

平安時代末期の信濃源氏の武将。河内源氏の一族、源義賢の次男。源頼朝・義経兄弟とは従兄弟にあたる。

『平家物語』においては朝日将軍(あさひしょうぐん、旭将軍とも)と呼ばれている。

出生地は義賢が館を構えた武蔵国の大蔵館(現・埼玉県比企郡嵐山町)と伝えられる。

(木曾義仲誕生の地を、上野国多胡郡とする説もあり) by wikipedia

鎌形八幡神社(本堂脇)に奉納された繭額(まゆがく)。

本物のまゆがたくさん入っています。昔のまゆは現在のものより小さく、中央がくびれた形をしている。

ひと昔前までは、町内のいたるところで養蚕の風景が見られたようです。まゆの生産量が多く通称「1トン農家」と呼ばれる家も

たくさんあり、昭和の中頃までは全国的にも最も養蚕が盛んな地域でした。

ここ鎌形八幡神社にある木曽義仲産湯の清水は、義賢がこの地に下屋敷をもうけて小枝御前に生ませた駒王丸の産湯の清水

と伝えています。社殿前の階段を下りた所にあり今も御手洗槽の竹筒から清らかな水が零れています。竹筒の根本の石垣の上には

「木曽義仲産湯の清水」の石碑が立っています。

鎌形という名の由来として、鎌倉の鶴岡八幡宮に社殿が似ているから鎌倉の形・・・鎌形となったとも云われているようです。

人知れず・・・キーンとした静けさが漂っていました。

重厚な歴史を重ね、古社の空気が漂っていましたが、様々な思念も全ての執着を終え、ただただ雛型のように感じました。 


鎌倉のはずれハイク^^

2016-02-10 15:52:44 | ・旅・山

2016.2 知人親子を訪ねて北鎌倉下車。

この電車に乗ったわけではありませんよ。この電車は通過していきました(笑

湘南新宿ラインで新宿から一時間ちょっと。思ったよりも近いです。

北鎌倉で降りると、学生さんがいっぱい。地図で見ると鎌倉○○という高校が二つありますね。また駅を降りて直ぐに円覚寺が

ありますので、観光客もたくさん。寄ってみたかったのですが、時間が無く残念。

明月院通り 葉祥明美術館の脇を進みます。この小川や橋が良い感じです。

道路脇に・・・

ここから急坂の山を登りました。まさか山越えになろうとは・・・(笑 

散在ガ池森林公園の入り口に大きなリスが・・・。

この後、公園を散策して、知人宅へ向かったのですが、公園にはあちこちにリスがいました。その知人宅付近にも

けっこう現れるそうです。

調べたら、「台湾リス」のようですね。

 

神奈川県の江ノ島では、1951年に伊豆大島から連れてきた54匹のタイワンリスを江ノ島植物園で飼育した。

しかし、台風で飼育小屋が壊れたことで逃げ出し、弁天橋を渡って鎌倉市内に入り込んで繁殖するようになったと
言われている。また、鎌倉市内の個体については、別荘地で飼われていた個体が逃げ出し野生化したとする説もある。

神奈川県鎌倉市では、民家の天井裏などに住み着き、庭の果樹をかじる、物干し竿を伝い歩きすることによって洗濯物を
汚す、電線や電話線をかじるなどの被害が出ている。鎌倉市では、1999年からタイワンリスに対する餌付けを禁止し、
捕獲作業を行っている。捕獲を開始してからは、年々捕獲数、被害相談件数ともに減少している。by wikipedia


石上神社&大宮住吉神社(埼玉県坂戸市)

2016-02-08 08:54:43 | ・神社・お寺

2016.2 埼玉県坂戸市にある二つの神社に行ってきました。

まずは「石上神社」

こんもりとした丘の上に建っていました。古墳の上に建てられた神社のようです。


此地は古くは武蔵國入間郡三芳野の里大塚村と言ひ古墳を氏神塚として尊崇して来たが嘉元二年(1302)の頃氏神塚の下の川の深い

渕の中より漁師の手綱に再三掛った石を氏神塚に安置し当時中里郷の前にあった広伝寺のすすめによって石上明神とした。

拝殿正面に掛る「石上宮」の神号額は全徳寺第七世國水伝春が明和四年(1767)揮毫し篆刻奉納したもの。

文化六年(1806)坂戸宿棟梁高山兵部藤原師美の手によって拝殿が作られた。何時の頃からか子授安産の神として尊崇され

春秋の祭典には近隣より参詣の人々群をなし俗に「押上様」と云われる程栄えたと云ふ。http://ishigami-jinja.jp/index.html

入西のビャクシン

立派でした。捻じれ具合がすごいですね。樹齢650年くらいのようです。大瀬崎のビャクシンに逢いたくなりました。

ツグミちゃん 久しぶりでした。

・ 

別の日に「大宮住吉神社」へ

大宮住吉神社

天徳3年(959)、山田長慶が長門一の宮(山口県下関市)住吉神社の分霊を勧請したことに始まります。

康平年間(1058~1064)、源義家が奥州平定の途中に反徒の鎮定を祈願し陣鉦を献じたといわれ、

文治3年(1187)には源頼朝により北武蔵十二郡の総社に指定されました。

立派な神楽殿です。

大宮住吉神楽について

大宮住吉神社では年3回(2月23日、4月3日、11月23日)大宮住吉神楽が奉納されます。

古くから大宮住吉神社の氏子の有志により継承されてきた大宮住吉神楽は、江戸里神楽の系統を伝承しており、

神話を題材にした十二曲のほか、十曲の座外の曲目が伝えられています。

国選択無形民俗文化財・県指定無形民俗文化財に指定。

駐車場前の弁天様。弁天池に鯉がたくさんいて、鯉の餌の販売機まで設置して在りました。