~風に吹かれて~ by ポー(paw)

-人の中に 人の創り出した物の中に 動植物の中に 地球や宇宙の中に 魂の琴線にふれ 愛を感じながら 生き込みたい-

イワタバコ

2017-07-23 17:41:53 | ・植物

2017.7.22 高尾町蛇滝

綺麗に咲いていましたよ。

イワタバコ(岩煙草、Conandron ramondioides)

・イワタバコ科の多年草。
・湿った岩壁に着生し、花は美しいので山草として栽培もされる。
葉がタバコに似るのでこの名がある。また若葉が食用にできることから別名イワヂシャ(岩萵苣)ともいう。
・日本の本州以南および台湾に分布する。
・高さ10cmほどの花茎を出して散形花序をつけ8月頃に開花する。
・葉は冬には枯れ、新葉が縮んだ冬芽として越冬する。 by wikipedia


「埴沙萌(はにしゃぼう)」さんと「甲斐信枝」さんと小宇宙

2017-07-15 15:25:19 | ・風に吹かれて

「埴沙萌(はにしゃぼう)」さん(1931.2.3-2016.2.23)

この素敵なお顔に惚れちゃいました。

 

http://www6.nhk.or.jp/special/detail/index.html?aid=20130706

1968年もしくは1971年に生まれ故郷である臼杵市にて植物生態を撮影しはじめた。以来45年間もの間、植物の生態を撮り
続けた。1994年には「雪のなかの植物の生態を見たくて」群馬県に移り住む。75歳前後(2006年ごろ。ただし、それ以前
から撮影していた可能性は高い)からは、「動かない植物が動く瞬間をとらえたい」と願うようになり、動画の撮影も開始
する。2013年にはNHKがその長きに渡り積み重ねてきた植物生態撮影をNHKスペシャル「足元の小宇宙~生命を見つめる
植物写真家~」で取り上げた。春夏秋冬1年中にただひたすら、植物の命を撮影する様子に密着した同作品は人気を博して
DVDにても発売され「植物たちの小さな命の尊さに迫る」とキネマ旬報社に記載された。生涯に渡って撮影した写真は50万枚
を超えると言う。by wikipedia

「甲斐信枝」さん(1930-)

埴沙萌さんと同じような感性の持ち主ですね。信枝さんにも惚れちゃいました。

日本の絵本作家。広島県出身。京都府京都市嵯峨野在住。『雑草のくらし-あき地の五年間-』で第8回絵本にっぽん賞、
第17回講談社出版文化賞を受賞。2016年11月23日にNHK総合テレビジョンのドキュメンタリー「足元の小宇宙 絵本作家と
見つける生命のドラマ」を密着取材された。by wikipedia

 

この方々の生き方に触れると、きっと生き込むことはこういう事なんだろうなと思う。

このスピード感溢れる時代を生きていると日常と五感が乖離しているように感じる。

私たちは日常を普通に流しているけれど、病気になったり事故にあったりすると、なんて日常は大切なのだと
思い返す。その時、時間の流れと五感がピタリと寄り添う。

いつの日か、我々はこの世を離れて行くのだけれど、この世に居る間は五感をフルに使って一つ一つの事象を楽しむ
べきだと思う。

私は、今のところ健康で、あちこちに足を運ぶことができ、見るもの、聴くもの、肌に感じる風、香り、美味しいもの
を楽しんでいる。

いつか目が見えなくなったり、音楽が聴こえなくなったり、外に出られなくなったり、口で食べられなくなること
が起きるかもしれない。それでも、何か一つでも感覚が残り、感じる事ができるならば、この世に居る間は、その感覚に
集中して楽しみたいと思っている。わずかな庭にも、丁寧に観察し続ければ沢山のドラマがあるだろう。それもできなく
なれば、いろんな音や音楽を聴いて色や絵や言葉に変換してもいい。

「埴沙萌」さんも「甲斐信枝」さんも、一人でいても、きっと寂しいとか思わないのだろう。目の前の身近な自然を
観察し続け、毎日、新たな発見をしているから、寂しいなどと思う暇もなく、楽しくワクワクしながら生きているのだ
と思う。

私たちは、固定観念や先入観を取り払えば、「世界」中を自由に羽ばたき飛び回ることができるのだ。その時、この
「世界」は、どんなに小さい世界でも、目に見えない世界でも、限りなく奥深く神秘的で美しく感じられるだろう。


横浜橋商店街

2017-07-15 12:49:43 | ・ショートトリップ

神戸に続き、なぜか横浜~~~♪ 港町つづきですな^^

ちょっと時間があったので、なんら情報を持たずに「横浜橋商店街」へ。
いや~、これがこれが、なかなか昭和チックというか何というか・・・実に個性的な商店街だったんでした。
思わず、スマホでパシャパシャ撮っちゃいました。関内のライブハウスにはちょくちょく行ってたんだけど、
近くにこんなところがあるとは。。。。。。。

横浜橋通商店街は、戦前から生活用品や食料品などの身の回り品中心の品揃えで、地域に密着した商店街として消費者に
親しまれ、近隣のお客様はもとより遠方からも来街いただき盛況を極めて参りました。

終戦後間もなく、横浜橋通商店街有志により食料品を中心に生活必需品販売のマーケットを開設。http://www.yokohamabashi.com/shops/ より

商店街入り口

商店街アーケード

他にも、若い女の子が鮮魚店で上海ガニを買っていたり・・・中国、韓国の方が多かったのかなあ。

ちょっと離れた場所にあった、なかなか雰囲気のある映画館「ジャック&ベティ」

調べたら、すごい歴史が・・・

1952年12月25日「横浜名画座」として開館 。第二次世界大戦後、アメリカ軍の飛行場として使用されていた場所に
建設された。かつて隣接して営業していた横浜日劇とともに「洋画は日劇、邦画は名画座」のフレーズで地元密着型の
映画館として親しまれた。by wikipedia


神戸 SONE♪

2017-07-14 18:27:04 | ・風に吹かれて

2017.7.9に亡き母の姉が天に召されました。94歳でした。11日に告別式に参列致しました。法要後に少し早い時間でしたが、
SONEに連れて行って頂きました。2005.9に叔父さんの告別式に参列した時にも連れてきてもらいました。12年ぶり。
その時は、太鼓の音に心を奪われて・・・・あれから12年。あっという間だったような随分月日が流れたような・・・・。
葬儀の時間帯の中では、母や、すぐ上の他界した姉の顔も浮かんできました。日常の時間の流れから切り離された時間・・・
このような時間も大切な時間だなとつくづく感じたのでした。

早い時間帯なのでお得なミニコース♪ 美味しかった~^^  タンカレージンは飲み易くてヤバイですね。

臼井優子さん、石田ヒロキさん、河合鉄兵さん(今夜初出演だったようですよ)、伊波大輔さん
日帰りだったので1ステージのみ聴かせて頂きました。良かったですよ♪ 0時前には東京に戻りました。
やっぱり良いお店だなあ。。。。神戸はいい街だなあと改めて感じましたよ。なが~い一日でした^^

 

天然の良港として古くから栄えていた神戸、日本文化の一つである宝塚歌劇団、そして、神戸に多く住む外国人を
通して異文化を受け入れる神戸人の気質、これらが相まって神戸にジャズが根付きました。(日本のジャズ発祥の地)

1923年(大正12年)に、日本で最初にプロのバンドによりジャズが演奏されたのが神戸です。宝塚オーケストラの
バイオリン奏者であった故井田一郎氏が、4人編成のジャズバンド「ラフィングスターズ」を結成し、神戸市内の
ホテルで開かれているダンスパーティの音楽を奏でたのだそうです。

1923年の9月には、14万人以上の死者や行方不明者を出したあの忌まわしい関東大震災で横浜港が打撃を受けたため
外国航路が神戸に集中しました。当時のジャズは、ダンス音楽やディキシーランドジャズでありこれらを総称して
ジャズと呼んでいました。

本格的なジャズが演奏されたのは、戦後の進駐軍の時代です。ホテルや外国人クラブなどがその舞台で、やがて、
異国情緒を漂わせる北野町界隈にジャズクラブが誕生し、毎夜、多くのジャズセッションが繰り広げられております。

40年以上の歴史を持つ「ソネ」(1969~)や40年近い歴史を持つ「サテンドール」など、異人館街のある北野を中心に
20軒近くのジャズクラブがあり、また、多くのジャズファンに支えられて27年続く「神戸ジャズストリート」や
24年続く「スチューデントジャズフェスティバル」などのジャズイベントが繰り広げられています。
http://club.kobe-np.co.jp/jazz/blog/?page_id=137より


少し、神戸をドライブしてもらいました。神戸空港まで行きましたよ。

ポートアイランドの橋から望む「神戸メリケンパーク オリエンタルホテル」や「神戸ポートタワー」

いや~スゴイ入道雲 もう梅雨明けしているのでは??

ポートアイランドの橋から望む「摩耶山」方向

新幹線といえばお弁当(笑 懐かしい感じの味でした。

深川めし・・・美味しかったですよ~^^

メモメモ:東京~新神戸は、西明石(割引適用600KMを超えるので)まで買った方が乗車券割引になってお得です^^


大嶽山那賀都神社(山梨市三富)

2017-07-12 17:53:22 | ・神社・お寺

2017.7 牧丘でキャンプを楽しんだ翌日に、キャンプを楽しんだ皆さんと大嶽山那賀都神社(山梨市三富)へ詣でました。

2011.11、2013.10に続いて三回目の参拝です。

上空から見る(グーグルマップ)と、神社は、笛吹川にあちこちから川が集まっている辺りに位置していますね。

参道入り口の宮司像

社殿の大造営があった明治時代の宮司像で、参道の入口に立ち、参詣者の安全を見守ってくれます。神社HPより。

参道には、たくさんの小さな奉納旗がありました。

講碑 自然風化と思われる花崗岩に「亀戸開運講」の文字と葉団扇の神紋

参道脇に「行ノ道」(上級)・・・・いや~かなりの勾配ですが、ここを登るんですかね^^;

参道の上り坂が終わるころ、植林も無くなり神域といった空気に包まれます。

不動明王

不動明王への信仰は神仏習合、修験道ですね。

亀の手水舎

龍が多いですけどね。調べたらウサギ、カエルなどもあるそうです。亀戸天神の手水舎は、 もちろん亀。 講社と関係ある・・・?

神社境内の中には皮が剥ぎ取られたいるヒノキが沢山ありました。色合いがとても綺麗です。
ヒノキの外樹皮は檜皮葺の屋根材料として使用されるようですよ。

「渡辺いそ」霊が祀られていました。予想通り霊能を持たれた氏子さんだったそうです。他にも何人か(何人も)の霊能者が
おられたそうです。

参道左側で穏やかなお顔の天狗様(神の使い)が迎えてくれていました。

再び川を渡ると、いよいよ随神門です。

巨大な剣ですねー。

随神門

いや~、三度目ですが、スゴイ迫力です。

寺院の山門に当るりますが、神社では隋身門(隋神門)と称し、通常両サイドに右大臣・左大臣を配しています。当社では、
大天狗・小天狗が立っています。神社hpより。

隋神門のカラス天狗(左側)

小天狗・右手の剣で邪気を祓い、胸の薬袋で病人を救うとされています。神社hpより。

険しい眼力で睨んでいました。私の邪気を見通されたのかも。

隋神門の天狗

大天狗・左手の炎で邪気を清め、右手の神通力の羽団扇(はうちわ)は願望を成就へ導くと云われています。神社hpより。

門をくぐると・・・

手水舎にこんなに大きな鏡がある神社はあまりありません。「素の心となる如く清めよ」ですね。

神楽殿

昭和38年復興(昭和25年水害で流出)大祭には軽やかなリズムで神楽が奉納されます。神社hpより。

立派な神楽殿です。ここでお神楽かあ・・・・見てみたいですね。

急な階段を上ると拝殿です。

拝殿

此の拝殿は大嶽山の中腹に在ります。
今から60年程前までは「女人堂(下拝殿)」と称し、此れより上の本殿は女人禁制とされていました。神社hpより。

御祭神

・大山祇神(おおやまつみのかみ)
・大雷神(おおいかずちのかみ)
・高オカミの神(たかおかみのかみ)

大祓式にオカリナ♪ 素敵でしょうね~♪ 行ってみようかなあ。。。

年に二回、六月三十日と十二月三十一日に全国の神社で行われる神事だが、六月の祓いは特に盛大で「夏越の祓い」として
古歌にも詠まれている。当社では、地理的条件から此の時期に行っている。深山幽谷ゆえ涼風は下界の暑さを忘れさせる。
神社hpより。

いつの頃でしょうか?修験道の空気満載です。

この地図、とても分かり易いです^^

大嶽山那賀都神社の奥宮は国師ヶ岳天狗尾根(標高2159m)にあるそうですよ。


拝殿裏を散策しました。この奥に本殿がありますが、今回は詣でられませんでした。

オダマキが綺麗でした。

「ツルマンネングサ」で良いのかな?

う~ん・・・分からない・・・植えられたシュウメイギクかなあ??

日向社
う~む・・・日向山信仰・・かなあ?

こちらにも不動明王

神社hpによると、

・人皇十二代景行天皇の御代、日本武尊 東夷御征定の砌、甲武信の国境を越えさせ給う時神助を蒙り、神恩奉謝の印として
 国司ヶ岳の天狗尾根に佩剣を留め置き三神を斎【いつ】き祀る。(現・奥宮)


・第四十代天武天皇の御代、役行者小角 当山(現・社地)の霊験なるを以て修験道場として開山、不思議にも昼夜連日鳴動
 して止まず、以来当山を「大嶽山鳴渡【なると】ヶ崎」と呼ぶ。

・第四十四代元正天皇養老元丁巳【ひのとみ】年(717年)三月十八日奥宮より遷座す。

・天平七年行基、観世音像(昭和二十五年流失)を刻し、『赤の浦 鳴渡ヶ崎に那留【なる】神のみゐづや高く 那賀都とは
 祈る』との神歌を奉じ、是より当社を「那賀都神社」と称したと伝えられる。又、養老元年最澄、天長八年空海相次いで
 来たり、清浄ヶ滝・座禅岩、下流川浦に絵書石等の行跡を残す。


・江戸初期大破に及ぶ事有り小祠となるが、元文五庚申年再建の為、羽黒派修験東叡山支配となり社殿残らず建立す。

・今の本殿は嘉永三年着工、明治十年竣工、他社殿神楽殿は同三十五年(流失昭和三十六年復興)・随神門同三十七年竣工、
 何れも甲府三日町の名医 喜多島宗甫氏の奉納。


・彫刻は都留市谷村の名匠 福田俊秀氏が当社に半生を篭もり手掛けた秀作。拝殿は同四十三年再建。

・明治六年村社に列せられ、昭和五十七年本殿が旧三富村文化財に指定。


こちらによると、大嶽山鳴渡【なると】ヶ崎→那留【なる】神→那賀都神社となったようですね。


八幡社(山梨市牧丘町北原生捕)

2017-07-09 12:55:55 | ・神社・お寺

2017.7 山梨市北原・生捕地区のキャンプ場の集いへ行きましたが、そこの氏神様へ詣でました。

裏の山は妙見山

八幡社(生捕)
御祭神:誉田別尊(応神天皇)。
12世紀、笛吹川流域を勢力域とした甲斐源氏・安田義定(1134-1194)公の勧請と伝えられているそうです。

生捕の地名には、跡部景家の伝説が関わっている。跡部氏は甲斐守護代となると40年にわたり専横した。武田信昌はこれを憎み、
1464(寛正5)年19歳になると初めて守護代跡部景家を討って、その勢力を滅亡させた。「生捕」は、甲斐国側での信昌と跡部氏の
争い「夕狩沢(ゆうかりざわ)合戦」で、跡部方の兵士が生け捕りになったところという伝説が伝わっており、『甲斐国志』にも
「乱戦の有様を以て名づくる所なりと云う」と記されている。また武田の将、三枝勘解由守友が落ち武者をかくまったという説も
伝わっている。http://crd.ndl.go.jp/reference/ より

生捕の下は「漆川地区」となりますが、漆(うるし)を作っていたそうです。漆の利用は縄文時代から開始され、土器の接着・
装飾に使われているほか、木製品に漆を塗ったものや、クシなど装身具に塗ったものも出土している。函館市の垣ノ島遺跡の調査で、
出土した漆塗りの副葬品が約9000年前に作られたものであったことが明らかになった。これが現存する最古の漆塗り製品。
by wikipedia

神社の山側のキャンプ場より

梅雨の合間を縫って二日とも天気に恵まれました。エゾハルゼミの声が響いていました。

少しだけ夕景も拝めました。

夜には、ゲンジボタルが4度も舞い、ミヤマクワガタもやってきてくれました。
氏神さまに感謝^^
 

お世話になった「マキオカネイチャークラブ」
 
「そば丸」http://www.koshu-kankou.jp/map/inshoku/sobamaru.html
美味しゅうございました♪

甲斐国一宮浅間神社 ( 山梨県笛吹市)

2017-07-09 12:53:50 | ・神社・お寺

2017.7 釈迦堂遺跡博物館に寄り牧丘のキャンプ場へ向かう途中、偶然にも参道入り口前を通ったので立ち寄りました。

以前から参拝したかった浅間神社です。

国道20号、甲州街道に建つ大鳥居

境内入り口

随神門

七夕飾りがいいですね。夏越の祓の茅の輪くぐりも^^

境内側から参道方向

樹齢二百数十年。古には鶴の松と対であったと言われています。

拝殿

拝殿は参道と直角。西側にあります。 

なんか不思議な写真が撮れました^^

神楽殿と神輿庫

護国社と祓門

十二支参り像 

本殿脇

夫婦梅という木があって、一花で二つの実を付ける不思議な梅がありました。

隋神門ちかくにある「山宮遥拝所」と「 陰陽石」

社伝によると、垂仁天皇八年(前22)正月に神山の麓に創建とあり、これが現在の当社摂社である「山宮神社」であり、
当社創建の地とされています。
現在の当社鎮座地から東南に2km程の地で、蜂城山の近く神山と呼ばれる山の麓に鎮座して
います。山宮神社付近を地図で見てみると、すぐ近くには蜂城山の山城があります。また、古くには甲府盆地の東部、御坂山系
より流れ出た京戸川は蜂城山ふもとを抜けた所で、多くの土砂を堆積させ、典型的な扇状地を形成し、この扇状地には約15000年
前から、人々が生活を始めました。
釈迦堂遺跡はこのほぼ中央から発見されました。(釈迦堂遺跡博物館へはここへ参る直前に
寄ったのでした)という事で、かなり古い時代から脈々と形を変えながら信仰されてきているように感じましたね。笛吹のこの
神社は里宮というわけですが、この創建された山宮神社へいつか参ろうと思います。


浅間神社(あさまじんじゃ)

・山梨県笛吹市一宮町一宮にある神社。式内社(名神大社)論社、甲斐国一宮。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。
・全国にある浅間神社の一社。甲斐国一宮であることから「一宮浅間神社」と通称され、「一宮さん」とも呼ばれている。
・祭神:木花開耶姫命 もと山宮神社に祀られていた3柱のうちの1柱で、木花開耶姫命のみ遷座したという。
・社伝では垂仁天皇8年正月(約2千年前)神山の麓(現 摂社山宮神社)で創建され、貞観7年(865年)旧暦12月9日現在地に
 遷座したという。
一帯は古代甲斐国の中心地で、付近には甲斐国分寺跡・甲斐国分尼寺跡が残っている。
・『延喜式神名帳』で名神大社に列格する「甲斐国八代郡 浅間神社」の論社の一社である。また、平安時代末期より甲斐国一宮と
 されたとしている。ただし、当社の鎮座地は旧山梨郡であることや、他に甲斐国一宮を称する神社もあることから、名神大社
 および甲斐国一宮は当社ではないとする説もある。
・『日本三代実録』によれば、貞観6年(864年)の富士山の大噴火を受けて甲斐国でも浅間神を祀ることになり、翌貞観7年
 (865年) 12月9日(旧暦)に甲斐国八代郡に浅間神社を建てて官社としたとある。
摂社・山宮は元は神山を祭祀する神社であったと見て、甲府盆地の開発が進むとともに里宮に移り、のち浅間神(木花開耶姫命)
 の神格が与えられたとする考えもある。
・当社は武田氏からの崇敬が篤く、関係文書も多く伝わっている。その頃以降、当社を一宮とする史料や当地にあった「一宮庄」
 の記載のある文書も見られ、一般に甲斐一宮として崇敬された。江戸時代に入ってからも江戸幕府から所領を安堵されるなど
 保護された。

・神道では神に日本酒を「御神酒(おみき)」として奉納するが、一宮浅間神社では戦後の1965年(昭和40年)から山梨県で
 算出されたワインを御神酒として奉納することが行われている。by wikipedia

この神社に関しては下記の神社メモさんが深く掘り下げておられます。

https://jinjamemo.com/archives/58984702.html


高麗川神社(埼玉県日高市)

2017-07-09 12:52:31 | ・神社・お寺

2017.6 高麗川神社(埼玉県日高市)へ参拝に行きました。高麗神社は超有名ですが、こんな神社もあったんですねー。

境内入り口 何やら目を見張るような巨樹が・・・

すごい巨木です。まさかこんな巨樹の御神木に出会えるとは思いもよりませんでした。

御神木の「タブの木」
幹周りは北側で5.2m、南側で5.3m。樹高約22m。樹齢は約300~400年。とても元気そうです。

拝殿

 御祭神:日本武尊・橘姫命

巨大なタブの御神木が圧倒的な存在感を放つ神社でした。良い出逢いでした^^


野々宮神社(埼玉県日高市)

2017-07-09 12:52:09 | ・神社・お寺

2017.6 野々宮神社(埼玉県日高市)へ詣でました。

野々宮神社は、祭神に天照大神、瓊々杵尊、猿田彦命、倭姫命を祀っている。創立年代は不詳であるが、社家の古文書によると
大宝3年(703)社殿修築という記述があって、口碑、伝説などがら推察するとがなりの古社と考えられる。慶安2年(1649)
徳川家光から賜わった社領4石5斗の安堵状なども保存されている。野々宮神社は関東地方では珍しく、狭山市に一社あるほかは
近隣にはない。祭神や高麗川のほとりにあることや、拝殿内の絵馬に、奉献「太祓一万度」とあるところなどから、潔斎の宮・
お祓いの神であり、京都嵯峨か紫野の野宮の分祠と考えられる。

例大祭は、毎年十月九日で、この際奉納される獅子舞は近隣のものに比へて勇壮で美しく、特に蛇をのむくだりは、他に例を
見ないものである。

参道入り口

お隣は牛乳工場。ちょ~っと工場の音が気になりましたねえ。

拝殿

本殿

野々宮神社の創建は定かではないが、大宝3年(703)に社殿を建築した伝承がある古社です。祭神に天照大神、瓊々杵尊、
猿田彦命、倭姫命を祀っています。高麗川の川辺に鎮座し「祓の社」といわれています。当社は伊勢神宮に仕える斎王に
選ばれた皇女、女王が身を清めるため1年間こもった嵯峨の野宮神社の分社であると考えられています。
社蔵文書には「当社高麗王の尊霊を祀る」との記述がみられることから高麗郡の設置や高麗王若光との関係がうかがわれます。

境内には天保2年(1831)に江戸相撲歳寄行司武が築いた土俵が残されています。

境内はとても綺麗にお手入れされていました。

手水舎と力石

境内奥の祠

境内から参道方向 


阿豆佐味天神社(東京都西多摩郡瑞穂町)

2017-07-08 06:41:34 | ・神社・お寺

2017.6 阿豆佐味天神社(東京都西多摩郡瑞穂町)へ参拝に行きました。以前から気になっていたのですがようやく実現
しましたよ。

良い感じの参道ですね~

青梅街道入り口にある文久3年(1863年)の社号標。

桜が咲いたら綺麗でしょうね~

ここから境内ですね。

わお~、小学生の神社見学時間って感じでした^^ いいですね~にぎやかでしたよ~^^

小学生たちが帰ったら、一気に静まり返りました(笑

拝殿

重厚な感じですね。

柱に、お百度参りの算木がありました。

拝殿の扉・・・いや~こんな重厚な趣の扉は初めてですね。

本殿

本殿 裏より

神明社前より神楽殿 ちょっと神楽殿はかわいそうな状態でした。

更に山へ入ると「須賀神社」もあったようです。

拝殿前より参道方向

 

阿豆佐味天神社(あずさみてんじんじゃ)

祭神:少彦名命(スクナビコナ) 素戔嗚命 大己貴命

・東京都西多摩郡瑞穂町にある神社であり、他の阿豆佐味天神社の総本宮である。

・瑞穂町と武蔵村山市のほぼ境界上の狭山丘陵南麓部に位置する古社で、『延喜式神名帳』には武蔵国多摩郡八座の一座
 数えられている。

・社伝によれば、寛平4年(892年)桓武平氏の祖・高望王が創建したという。

・村山郷の総鎮守で、武蔵七党の一、村山党(高望王の子孫で秩父平氏の流れを汲む)の氏神として崇敬を受けた。

・阿豆佐味という社名については、梓弓によるという説、楸(きささげ、古名あずさ)によるという説、湧水
 (阿豆=甘い、佐=味の接頭語、味=水で、甘い水の意)によるという説など諸説ある。

・天正12年(1584年)、慶長3年(1598年)の修復を経て、享保年間(1716年-1736年)村山土佐守により社殿の修復が
 行われ、その後も後北条氏が社領15貫文、徳川幕府が朱印地12石を寄進するなど、歴代領主から厚く遇されている。
 明治6年(1873年)郷社に列格した。因みに殿ヶ谷の地名は、村山党の居館があったことに由来するという。

・立川市砂川町に鎮座する阿豆佐味天神社は、江戸時代の初め、当社を勧請したものである。砂川の新田開発を行った岸村
 (現在の武蔵村山市岸)の村野氏(後の砂川氏)は村山党の後裔を称する。また、小平市小川町の小平神明宮、同市仲町の
 熊野宮は、同じく小川新田の開発を行った岸村の小川氏と、当社の社家、宮崎氏が、岸村に鎮座していた当社の摂社、
 神明社と熊野宮を勧請したものである。

・「猫返し神社」としても知られており、飼い猫の無事や健康を祈る参拝客が多く訪れる。境内内の蚕影神社がその社で
 あり、蚕の天敵がねずみであることから、ネコが守り神となっている。「猫返し神社」として知られるようになったのは、
 ジャズピアニスト山下洋輔の影響とされている。by wikipedia


狭山神社(西多摩郡瑞穂町箱根ヶ崎)

2017-07-08 06:40:57 | ・神社・お寺

2017.6 狭山神社(西多摩郡瑞穂町箱根ヶ崎)へ詣でました。

参道入り口

御祭神:
伊邪那岐尊・伊邪那美尊・泉津事解男命・箱根大神・木花咲耶姫命・大山衹命・巌永姫命
由緒:
創建年代不詳 箱根大神は永承年間(1046~53)源義家の奥州征伐の折、筥の池(狭山池)辺に陣営、箱根権現の霊夢に
感じ、当地に勧請、凱旋の時に奉賽したと謂われる。木花咲耶姫命他二柱は源頼朝の関東五百社勧請の一社と思われる。
主祭神の伊邪那岐、伊邪那美二神と泉津事解男命はそれ以前の奉斎と思われる。
幕末と明治の火災の後、昭和二十六年拝殿幣殿完成。

拝殿

 

本殿

「瑞穂町史」によると、「創立年代等不明であるが、往昔は箱根権現とも三社大権現(この三社は、三柱=木花咲耶姫命・
大山祇命・吾田津姫命と思われます)
とも称していた。狭山丘陵の西端にある。箱根ヶ崎の鎮守として明治六年村社に
列せられた。」となっています。

箱根権現(箱根山の山岳信仰と修験道が融合した神仏習合の神)の勧請から、「箱根ヶ崎」の地名ができたのでしょうね。
この神社は、狭山丘陵の西端に当ります。

「金刀比羅宮神社」「高尾神社」

「権現山稲荷社」

機(はた)神社

「機」は「機織り」のことで、武蔵村山市の「村山大島紬」の神社として建てられたとのことです。

狭山丘陵南麓の村山地域は江戸時代より木綿紺絣(こんかすり)の産地として知られていました。明治時代から大正にかけて、
木綿絣は研究開発が進められ生産量を増やしましたが、大正8年ごろに板締染色の技術が群馬県伊勢崎から導入されると、
絹織物(村山大島紬)がたくさん作られるようになりました。大正10年に八王子織物同業組合に村山大島部会が結成され、
昭和4年には独立して村山織物同業組合となりました。武蔵村山市hpより。


静岡浅間神社(静岡市葵区)

2017-07-07 16:53:34 | ・神社・お寺

2017.6.9~11 静岡・愛知方面へ出かけました。

あちこち神社にも寄ってきましたよ。最後に、帰り途中に「静岡浅間神社」へ立ち寄りました。ほぼ何も下調べせずに
立ち寄ったので、いろいろとビックリさせられました。

石鳥居

立派ですねー。

総門

「神部神社」「浅間神社」の文字が見えます。 

静岡浅間神社は「神部(かんべ)神社」「浅間(あさま)神社」「大歳御祖(おおとしみおや)神社」の三社の
総称で摂社ではなく三つの社が対等にあるということだそうです。「おせんげんさん」と地元では親しまれています。

総門をくぐると・・・

楼門

神部神社・浅間神社の楼門で、文化13年(1816年)竣工。総漆塗で、彫物には「水呑の龍」「虎の子渡し」などがある。
また、二層部分に「當國總社・冨士新宮」の扁額が揚げられている。

いや~、立派な楼門です。

境内側より

楼門をくぐると、いや~、これまたスゴイ拝殿です。

拝殿手前の舞殿

文化14年起工、文政3年竣工。江戸時代後期に造営された社殿中唯一素木造り。

大拝殿

神部浅間両神社の拝殿で、文化2年起工、同11年竣工。楼閣造りで、いわゆる浅間造の代表的なもの。高さ25mあり、
殿内は132畳敷きの広さがある。天井は十間の合天井となり、その各間に狩野栄信・狩野寛信の「八方睨みの龍」
「迦陵頻伽」「天人」の天井絵を飾る。

 

浅間神社(冨士新宮)

主祭神:木之花咲耶姫命
御鎮座:平安時代の延喜元(901年)に醍醐天皇の勅願によって、現在の富士宮の「富士山本宮」のご分霊を勧請し、
「冨士新宮」としてお祀りされた。

神部神社(駿河国総社)

主祭神:大己貴命(大国主命の別名)
御鎮座:第十代崇神天皇の御宇(約2100年前)の鎮座と伝えられ、登呂遺跡の時代からの、この地方ではもっとも古い神社
であり、延喜式内社である。

大拝殿脇より

本殿がわずかに見えていました。

浅間神社(左)、神部神社(右)御本殿[重文]文化元年起工、同10年竣工。比翼三間社流造り。

祈祷受付所の奥が大拝殿 

神部神社・浅間神社と並び三社に数えられている大歳御祖神社

他の二社とは社殿が分かれています。
主祭神:大歳御祖命
鎮座:273年~第15代応神天皇の時代

大歳御祖神社は静岡浅間神社から南へと延びる浅間通りの赤鳥居を正面にして建てられています。

昔、安部川沿いにあったという安部の市の守護神として崇められてきた歴史があり、産業繁栄の神として崇められています。

 

冨士浅間神社3社の他にも境内に4社(八千戈(やちほこ)神社、玉鉾(たまぼこ)神社、麓山(はやま)神社、
少彦名(すくなひこ)神社(工事中)の計7社がありますよ。

八千戈(やちほこ)神社

入母屋造銅瓦葺で、朱塗極彩色を施す。当神社の造営は御本社に次いで行われ、本殿中・両社本殿に次ぐ大きさである。
蟇股には二十四孝を題材とした彫刻が付けられ、立川流の円熟した技を見ることが出来る。

主祭神:八千戈命(神部神社大己貴命の荒御魂神)

本社の左側に鎮座。もと摩利支天社と称し、徳川家康公の念持仏たる摩利支天を祀る。明治の神仏分離により八千戈神社と
改められた。漆塗極彩色。蟇股の二十四孝彫刻が有名。

こちらも立派な拝殿ですね。

玉鉾(たまぼこ)神社

御祭神:羽倉東麿・岡部真渕・本居宣長・平田篤胤(国学の四大人)
御由緒:本社の北側に鎮座。社殿は伊勢神宮の御古材にて昭和51年再建された。明治9年官許を得て県内の神官により
創祀され、受験・学問の神と仰がれている。

少彦名(すくなひこ)神社は工事中だったので写真撮っていませんよ。境内奥の階段を上ります。なかなか急な階段ですよ。

賤機山(しずはたやま)の中なのですが、何処までが公園で古墳で境内か良く分かりませんね。そこが融合していて
良い感じなのですが^^

麓山(はやま)神社・拝殿

文政3年起工、天保5年竣工で三間社流造り、漆塗り極彩色を施す。
御祭神:大山祇命を主神とし、日本武尊を配祀する。
御由緒:古来、賤機山上に鎮座。「山宮」と称せられた。本社の別宮である。細部に彫刻を配し漆塗り極彩色を施す。
主神は本社浅間神社の木之花咲耶姫命の御父神にまします。
旧郷社で宮元8ヶ町(安西一丁目・八千代町・安倍町・宮ヶ崎町・御器屋区・浅間ビル区・西草深町・片羽町)の氏神であり、
さらに錦町・馬場町・通車町・屋形町・中町・富士見町の本氏神でもある。

麓山(はやま)神社・本殿

本殿脇より こちらもスゴイ本殿ですね。

お気に入りのショットです^^

賤機山(しずはたやま)古墳

6世紀頃(1500年前)の築造とされ、円墳でその規模は大きく、県下随一の家形石棺を有し、出土品の豊富華麗なことは
東海地方に類を見ない。出土した装身具・武具・祭祀遺品等多数を、浅間神社の宝物とともに境内の文化財資料館に展示
している。(昭和28年、国指定史蹟)

墳丘は賤機山の南端の斜面を利用して造られており、直径は約32メートル・高さは約7メートルの円墳で、埋葬施設として
横穴式石室を持ち内部に家形石棺が置かれている。古墳の築造時期は6世紀後半とみられている。

なるほど・・・山の斜面を利用して古墳が作られているわけですね。

「静岡」の地名は、賤機山→賤ケ丘→静岡 となったそうですよ。http://www.surugawan.net/guide/34.html

神池 奥の巨樹も立派ですね。

お祓いの待合所。子どものおもちゃがあったり、とってもアットホーム、地元に溶け込んでいる感じでしたよ。
いや~、見どころ満載の神社でした。大昔から安部の市がたち、賑わっていたのでしょうね。ブラタモリ風に地域を
分析すると、賤機山の先端(昔は半島の先端だったのだろう)に浅間神社や古墳が位置します。熱田神宮や近くある
古墳群と同じような土地柄だったのでしょうね。いや~楽しい旅行でございました(終)

旅メモ
普段なら出勤時間の平日、ヒッチハイカー、カツサンド、たこ焼き、トラック多い、富士山雲の中、由比、シラス、桜エビ、神社、

カラス、バイパス国道、清水、狭い、クルマ飛ばす、三保の松原、茶そば、清水インター間違い、新城、湯谷温泉、貸切、湯の花温泉、
部屋食、おばさんチップ、広い部屋、エアコン、カジカガエル、イワツツジ、貸切風呂、満月、朝散歩、電車、朝食、トビの餌付け、
カラス、おじさん、鳳音寺東照宮、ユキノシタ、青い花、杉の上、ラン、東照宮、鳥居の上、ラン、大きな事故、下道で名古屋、
日本の原風景、昼食、味噌煮込み、きしめん、神社、生地糸屋、コスプレ、ピンクの神社、名古屋市内混んでる、走り方ヘン、
我が道を行く、ビジネスホテル、近くの飲み屋、縦横ベッド、熱田神宮、明治神宮を少し小さく、コメダ珈琲、八丁味噌ラーメン?、
静岡浅間神社、渋滞、中華、あんかけかた焼き、石釜チャーハン


熱田神宮(名古屋市熱田区)

2017-07-03 19:22:35 | ・神社・お寺

2017.6.9~11 静岡・愛知方面へ出かけました。

あちこち神社にも寄ってきましたよ。続きまして・・・あの有名な名古屋の熱田神宮^^

広いです。大きいです。イメージとしては明治神宮を少し小さくした感じでしょうか。

帰ったら、ちょうど、ブラタモリで名古屋城、熱田神宮をやっていましたね。良い勉強になりました。

南門(正門)

南門(正門) 立派な鳥居です。

明治神宮、伊勢神宮に似た参道ですね。

手水舎脇の鳥居

おお!巨木が!

大楠

立派な御神木です。樹齢は約千年。
弘法大師のお手植えと伝えられ、境内には楠が多く、特に巨大なものがあったので、俗に七本楠と言われております。

三つ目の本宮へと誘う鳥居

授与所

本宮前 とても広々としています。

拝殿より御垣内を拝すると、一番奥に最も高く千木(ちぎ)・勝男木(かつおぎ)の見える社殿が「本殿」で、熱田大神は
ここに鎮まります。
拝殿から順に「外玉垣」「内玉垣」「瑞垣(みずがき)」の垣があり、垣の各南正面には御門があります。内玉垣と外玉垣
との間の広場を「中重(なかのえ)」といい、正面中程に立っている鳥居を中重の鳥居といいます。例祭をはじめ祭典の多く
はこの中重にて斎行されます。

社殿は、再建以来50余年を経て、大屋根の葺替えをはじめ授与所・神楽殿の修造時期を迎えたことから、平成19年10月
22日「仮殿遷座祭」を齋行。約2年の歳月をかけて事業は竣功し、平成21年10月10日に「本殿遷座祭」、翌11日に
「臨時奉幣祭」を晴れて斎行。4年後の平成25年、創祀千九百年の慶節を真新しい社殿でお迎えする準備が整いました。hpより

確かに伊勢神宮と同じような空気・空間でしたね。

さて、ここから更に奥へと向かいます。

本宮西側に沿って北方向へ こちらに来られる方は少ないですね。

本宮 西側より

一之御前(いちのみさき)神社

熱田神宮 北側の再奥に静かに鎮座しておりました。

本宮の北側(裏側)からも鳥居がありお参りすることができました。

本宮の北側から東側へ

清水社
本殿の東、御田神社の北に鎮座。御祭神は水をつかさどる神様である罔象女神(みずはのめのかみ)をお祀りしております。
社殿の奥に水が湧いていることから、俗に「お清水(しみず)さま」と呼ばれ、その水で眼を洗えば眼がよくなり、肌を
洗えば肌がきれいになるという信仰があります。hpより。

 

こちらも立派な巨樹ですね。

土用殿(どようでん)

神楽殿の北に位置し、もと、草薙神剣を奉安した御殿で、旧本殿の東に相並んで鎮座していました。様式は宝庫造、
俗に井楼組(せいろうぐみ)と呼ばれる造りで、屋根切妻桧皮葺の箱棟でした。

永正14年(1517)将軍足利義稙(よしたね)の造営と伝え、天文11年(1542)修造されており、昭和46年に屋根を
銅板葺にして復元されました。hpより 

神楽殿脇

この石は???関係者の方に聞いてみましたが・・・特に意味はないと・・・???(笑

神楽殿脇 立派ですねー。

神楽殿・正面

佐久間燈籠
正参道と東参道の交差するところに、石の大燈籠があります。
寛永7年(1630)5月、佐久間大膳亮勝之は海難にあい、当神宮に祈りその加護によってことなきをえたのを感謝して寄進されたと言われております。高さは約8メートル、形も六角形で雄大な相をもち、江戸時代から日本三大燈籠の一つとして知られております。hpより

いや~、流石に立派な神社でした。朝早くの参拝は正解でした。10時過ぎには沢山の人達が参拝に来られていましたよ。
ブラタモリで勉強させてもらいましたが、当時は熱田台地の先端に位置していてようですね。熱田神宮の直ぐ近くには、
愛知県最大規模の断夫山古墳(大型前方後円墳・6世紀前半(古墳時代後期)の築造と推定)があります。当時尾張地方に
大きな勢力を持った尾張氏の首長墓に比定されるようです。熱田神宮では、古くから「陀武夫御墓」と称して日本武尊妃の
宮簀媛命(みやずひめのみこと)の墓としています。大昔から栄えていた地域であることが良く判ります。そこに家康が
名古屋城を築き計画的に発展させた・・・スゴイですね^^

 

熱田神宮
・愛知県名古屋市熱田区にある神社。式内社(名神大社)、尾張国三宮。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。
 宮中の四方拝で遥拝される一社。神紋は「五七桐竹紋」

・名古屋市南部の熱田台地の南端に鎮座する。古くは伊勢湾に突出した岬上に位置していたが、周辺の干拓が進んだ現在は
 その面影は見られない。

三種の神器の1つである草薙剣(くさなぎのつるぎ)を祀る神社として知られる。なおこの剣は、鎮座の後も、盗難に
 遭ったり、形代が壇ノ浦の戦いで遺失するなどの受難にみまわれている。

景行天皇43年創建と伝えられており、同年は西暦に換算した場合に113年とされることから、2013年(平成25年)に
 創祀1900年を迎えるとされ、同年5月8日に「創祀千九百年大祭」が行われた。

・建物は伊勢神宮と同じ神明造であるが、1893年(明治26年)までは尾張造と呼ばれる独特の建築様式だった。

・祭神:主祭神~熱田大神
 熱田大神とは草薙剣の神霊のこととされるが、明治以降の熱田神宮や明治政府の見解では、熱田大神は草薙剣を御霊代・
 御神体としてよらせられる天照大神のことであるとしている。しかし、創建の経緯などからすると日本武尊と非常に
 かかわりの深い神社であり、熱田大神は日本武尊のことであるとする説も根強い。

・創建
 第12代景行天皇の時代、日本武尊が東国平定の帰路に尾張へ滞在した際に、尾張国造乎止与命(おとよのみこと)の娘・
 宮簀媛命と結婚し、草薙剣を妃の手元へ留め置いた。日本武尊が伊勢国能褒野(のぼの)で亡くなると、宮簀媛命は熱田に
 社地を定め、剣を奉斎鎮守したのが始まりと言われる。そのため、三種の神器のうち草薙剣は熱田に置かれているとされ、
 伊勢神宮に次いで権威ある神社として栄えることとなった。by wikipedia