~風に吹かれて~ by ポー(paw)

-人の中に 人の創り出した物の中に 動植物の中に 地球や宇宙の中に 魂の琴線にふれ 愛を感じながら 生き込みたい-

梅園神社(埼玉県越生町)

2017-03-31 11:56:00 | ・神社・お寺

2017.3 黒山熊野神社参拝後、引き返して、梅園神社へ詣でました。

素敵な鳥居ですね。

大杉に囲まれた拝殿付近

少し傾いた大杉の間から覗く拝殿は、とても印象的です。

拝殿・本殿

本殿

全体的に朽ちていますね。残念です。良い感じの境内なんですけど・・・。


古くは、神仏習合の社であった。小杉天神社と称した江戸時代には、本山派修験山本坊配下の大泉院が社務を司っており、
明治維新の神仏分離令を経て、明治40年に堂山の近戸神社と上谷の三島神社などを合祀して梅園神社と改称した。 http://www.jalan.net/kankou/spt_11327ag2130012543/

元は小杉天神社といい、平安時代に北野天神を京都から勧請したものという。梅ノ木もその頃もたらされた。梅の実は
梅干に加工され江戸に送られたという。http://kamimeguri.web.fc2.com/umezonojinjya.html

崖には祠もありました。

境内から道路を挟んだ反対側の川向うは越生梅林です。

越生梅林
埼玉県入間郡越生町にある越辺川沿いに広がる梅林。水戸偕楽園、熱海梅園と共に「関東三大梅林」の1つとされている。
南北朝時代に武蔵国小杉村に大宰府より天満宮を分祀する(梅園神社)際に梅を植えたのが起源という。by wikipedia


黒山熊野神社(埼玉県越生町)

2017-03-31 11:54:15 | ・神社・お寺

2017.3 黒山熊野神社(埼玉県越生町)へ参拝に行きました。

熊野神社は古くは将門宮と称した。
同じく黒山にある榛名宮と愛宕宮をあわせて熊野権現(熊野三山)としたのである。
平将門の後裔といわれる栄円は関東に修験道を広めるために、応永5年(1398)に
黒山の山本坊を開いてその拠点とした。その後、修験者の道場として栄えたが、
明治元年の神仏分離令によって熊野神社とされ黒山の鎮守様となった。
社殿は昭和60年に焼失、同63年に再建された。
http://youzantei.la.coocan.jp/mitisirube/kuroyama_spot01.html より

黒山三滝の風景はこちら(2008年、2012年)

道路に沿って良い感じです。

拝殿

境内はもっと広いかと思ったらさほどでもありませんでした。

立派な杉でしたよ。

神社前の「越辺(おっぺ)川」

なんで「おっぺ」と読むのだろうとググってみましたが、

越辺川の語源については、「越生の辺りを流れる川」から来ているという説や、北海道乙部町の「乙部」と同様に
アイヌ語の「オ・ト・ウン・ペッ(o-to-un-pet 下流の方に沼のある川)」に由来するという説などがあるものの、
詳しいことは分かっていない。by wikipedia

との事でした。この川の源流は、ここから直ぐ近くの黒山三滝のようです。

対岸にある「越生町 全洞院」

全洞院は、岩松山と号し曹洞宗の寺で本尊は弥陀を安置している。この寺には、近くで自刀した渋沢平九郎(しぶさわへい
くろう、渋沢栄一の養子)の墓がある。 渋沢平九郎は、飯能戦争のときの振武軍(しんぶぐん)の副将で、渋沢成一郎を大将
として飯能市羅漢山(現、天覧山)に立てこもった。 振武軍は慶応四年(1868年)五月二十三日の官軍三千名の総攻撃を
受け敗れ、渋沢平九郎は傷つきながら故郷下手計村(しもてばかむら、現在の深谷市)に退れようとする途中 、顔振峠の茶屋
の主人に落人姿では危ないと言われたため百姓姿に身を変えたが、越生町まで進出していた官軍に発見されてしまった。藁包
に忍ばせてあった小刀で抵抗したが、多勢に無勢、利あらずと悟った平九郎は近くの大岩に座って自刃した。首は官軍に
よって越生にさらされたが、胴体は村人の手により全洞院に葬られ「ダッソ様」(脱走様)と呼ばれた。なお、岩の脇のグミ
は平九郎の血を吸ったため、その実は平九郎の血を宿すと言われ「平九郎グミ」と呼ばれ、後年、一族の渋沢栄一、渋沢敬三
らによって碑が立てられている。

越生の梅林は、もう枯れていましたが、ここは少し奥なので未だ梅が綺麗に咲いていましたよ。

右下にフキノトウ。早春の風景ですね。 


大満(だいま)八幡神社(埼玉県越生町)

2017-03-30 08:21:29 | ・神社・お寺

2017.3

黒山熊野神社を目指していたら、佇まいが良い感じの八幡神社がありましたので詣でました。

越生梅林を過ぎたところにあります。

金比羅神社、八坂神社もございました。

大きくて立派な燈籠ですね。

地面には歩き易いように?土が流れないように?緑色の押えがされていました。

二拍の音が素晴らしかったです。
ググってもあまり情報の無い神社ですが、氏子さんに愛されているような気が満載していました。 


市場神社(埼玉県毛呂山町)

2017-03-30 08:21:04 | ・神社・お寺

2017.3 毛呂山町にある市場神社へ行きました。

地域の氏神様のような神社でしたよ。 

階段上に削られた木株がありました。

 

この神社、ググってもあまり情報がありません。

具体的な創建時期は、不明と成るが、かつては、三島神社と称した。明治40年(1907年)には、地元の大利社、
平将門卿、愛宕社の主祭神となる火之迦具土神(かぐつち)などを合祀し、現在の社名へ改称した。
樹齢千年を超える神木杉が有名となっている。
http://jinjajin.jp/modules/newdb/detail.php?id=3306 より

以前は「三島神社」だったようですね。三島神社の大半は伊予の大山祇神社(大三島神社)か伊豆の三嶋大社と関係の
ある神社のようです。毛呂山町市場地区なので市場神社となったのでしょうね。静けさの漂う神社でした。

「樹齢千年を超える神木杉が有名」となっていますが、見当たりません。上の木株だったのでしょうか・・・・。


2017.3の花たち

2017-03-27 08:33:32 | ・植物

ヒイラギナンテン

阿伎留神社(あきる野市)

ヒイラギのような葉っぱだなあと思ったら、ヒイラギナンテンの花のようですね。 

春先に総状花序に黄色い花をつける。その中にある雄しべは、昆虫などが触れることによる刺激で内側に動いて、
花粉をなすりつける。by wikipedia

おお、スゴイ技を持っていますねー^^

シロバナタンポポ

所沢市滝の城跡公園にて

昔は、ほとんど見たことがなかったです。日本に昔からあるタンポポの一種ですが、四国や中国地方などを中心に
西日本には比較的広く分布しているタンポポのようです。温暖化で東に分布を広げているのかなあ。

ニリンソウ

所沢市滝の城跡公園にて

ここで見れるとは思いませんでしたね。改めてイチリンソウとの違いは、花が一回り小さく、葉っぱに切れ目はあるけど

丸っこい感じですかね。 

アマナ(オオアマナかな?)

カタクリの葉っぽもありましたよ。

所沢市滝の城跡公園にて

スミレ(タチツボスミレかな?)

所沢市滝の城跡公園にて

ラッパスイセン

所沢市滝の城跡公園にて

み~んな同じ方向を向いて可愛かったですよ。

う~ん・・・白菜の花かなあ???

アブラナ科の野菜たちは・・・キャベツ、ブロッコリー 、ミズナ、ダイコン、コマツナ、ハクサイなどなど。。。

所沢市滝の城跡公園にて


阿伎留神社(東京都あきる野市)

2017-03-26 11:27:32 | ・神社・お寺

2017.3 阿蘇神社の後、阿伎留(あきる)神社(東京都あきる野市)へ参拝に行きました。

神社は秋川沿いの高台に建っていました。

阿伎留神社

・創建は不詳であるが、『延喜式』神名帳に武蔵国多摩郡8座の筆頭に記載されている、同国著名の古社である。

・「あきる」は「畔切」を意味し、当地が開拓され始めた頃に祀られた神社とする説もある。

・現在の宮司家は創立以来70余代目とされ、初代神主の土師連男塩が氏神を祀ったことに始まるとも考えられている。

・天慶3年(940年)鎮守府将軍の藤原秀郷(田原藤太)が大原野明神(京春日)を勧請したことから、中世以降
 「春日大明神」と称された。また鎮座地により「松原大明神」と称し、通称は「松原さま」といわれた。

・昭和41年(1966年)9月の台風25号により、杉、檜など大木が百本以上倒れ、昼なお暗かった境内林は半減した。
by wikipedia

藤原秀郷といえば、先に参った阿蘇神社で「平将門を討った藤原秀郷が鎮魂のため社殿を修復」とありましたね。

「武蔵国多磨郡八座」(927年にまとめられた全国の神社一覧表(延喜式神名帳という)に載っている神社)
阿伎留神社、小野神社、布多天神社、大麻止乃豆乃天神社、阿豆佐味天神社、穴澤神社、虎柏神社、青渭神社の8社。

・宮司家はアメノホヒ命17世の末裔とされる武蔵国造家に連なっており、代々「阿留多伎(有竹・在竹氏)」が宮司を
 務めてきたという。(1989年時点では74代)

拝殿 

立派な拝殿です。 

 天満宮

占方神社

境内末社は、
3社合祭(大鳥神社・若電神社・熊野神社)
4社合祭(菅原神社・小川神社・占方神社・倭建命神社)
6社合祭(日枝神社・伊多弓神社・松尾神社・平野神社・庭津日神社・国造社)
4社合祭(稲荷神社・松原稲荷神社・白光稲荷神社・福穂稲荷神社)

とあるようですが、天満宮(菅原神社)、占方神社が真新しくなっているようです。

ところで、この「占方神社」とは???

と思ってググってみましたが、 全て「阿伎留神社」末社と出てきちゃいます。
「占いのようなことをしていくことをお手伝いくださる神社」とされているページもありました。

ところで、阿伎留神社には神符の発行に用いられた阿比留草文字(神代文字のひとつ:漢字伝来以前に古代日本で
使用されたとされる文字)系統の版木(和歌)が残されているそうです。神代文字で書かれた和歌もあるようですよ。 

また「神伝鹿卜秘事記」という鹿卜(しかうら:日本古代の占法の一つ。「太占」(太兆)ともいう。鹿の肩骨を
波々迦(バラ科サクラ属落葉高木の上不見桜)で焼いて、できた裂け目で吉凶を占う法。)に関して最も古い資料が
阿伎留神社に伝わっているそうです。(どうも占方神社と関わりがありそうですね)

http://d.hatena.ne.jp/hokuto-hei/20040419/p1 こちら様に詳しく載っております。

古い形をした井戸の名残

まいまいず井戸/まいまいとは「かたつむり」のことで、螺旋状に上り下りするタイプの穴を持つ井戸

 

この神社の境内に入ったとき、何やらもの凄い鳴き声が響いていました。ん?犬か?なんだ?というギャーギャーという
鳴き声だったのですが、解りました。境内奥の高木の上にアオサギがたくさん居て、ギャーギャー鳴いていたのでした。
どうやら10羽以上居たようです。巣があるようですね。巣材を加えているアオサギも居りました。アオサギでググって
みると、
「松林などに集団繁殖地(コロニー)を形成する。主にオスが巣材を集め、メスが樹上に木の枝を組み合わせた皿状の巣を
作る。日本では4 - 5月に1回に3 - 5個の卵を産む。同じ巣を修理して何年にもわたり使用しつづける。」by wikipedia

 

地面にはアオサギの卵と思われる殻が落ちていましたよ。孵化後なら良いのですが、どうだったのでしょうね。

それにしても、なかなか恐ろしい鳴き声で、まるで鳥獣かと思っちゃいました。


武蔵阿蘇神社(東京都羽村市)

2017-03-25 09:14:56 | ・神社・お寺

2017.3

一宮小野神社、二宮神社へ参拝後、阿蘇神社へ詣でてきました。

クルマが置ける東参道から入りましたが、いったん境内外に出て南参道側から・・・鳥居が無いなあと思ったのですが、
帰ってきてからグーグルマップで確認したら、けっこう離れた場所に南参道の鳥居があったのでした^^;

多摩川

手前は用水路。水が勢いよく流れていました。水音も清らかな良い感じでしたよ。鳥居をくぐった中なので、どうやら
ここもすでに境内だったわけですね。いや~、これは素晴らしい空気・空間です。

多摩川に沿った南参道です。いや~参道らしくないですね。右の竹藪の奥に宮司さんのお宅があります。

神社らしくなってきました。

南参道・第二の鳥居 

拝殿

拝殿・本殿全景

祭神は、総本山の熊本・阿蘇神社と同じく、

健磐龍命、阿蘇都媛命、速瓶玉命、国竜神、比味御子神、彦御子神、和歌比味神、新彦神、神比味神、若彦神、
弥比味神、金凝神(阿蘇十二神)です。

拝殿

木の温もりを感じさせる拝殿です。

阿蘇神社の総本山は、熊本県阿蘇市にありますが、全国には九州を中心に約450社あるそうです。
しかし、熊本県内以外には2社しか存在しないとの情報もあり。そのうちの1社がこの神社です。
(もう1社は、阿蘇神社(岐阜県羽島市) - 別名「小熊一宮」・「小熊本宮」か?)

創建は601年(推古天皇9年)とされ、933年に平将門が社殿を造営。940年(天慶3年)藤原秀郷が平将門をの霊を
鎮めるためとして修復した。その後、平将門の子孫と称する三田氏が1536年(天文5年)に社殿を修復する。また、
1598年(慶長3年)には徳川家康が参詣したとされている。by wikipedia

古くは阿蘇大明神、あるいは長渕郷総社龍水山阿蘇宮と称したようです。「長渕郷総社竜水山阿蘇宮」と称していた
社名を、現・阿蘇神社に変更したのは明治期になってからのこと。

拝殿前の境内から望む多摩川

阿蘇神社・御神木(スダジイ)

スダジイの巨木は平将門を討った藤原秀郷が天慶3年(940年)頃に植樹したという伝説があります。
現在のスダジイはそのひこばえから生長したものとされているが、一般には800~1000年ほどの樹齢を持つと
認識されている。
近年の降雪や台風で枝が折損するなどの被害を受けましたが、まだまだ樹勢は旺盛。 

年代的にも、ほぼ植樹した時期と樹齢が一致していますね。 

お百度参り用の札

初めて見ました。こんな札があるのですね。 

東参道前にて

東参道の鳥居

東参道鳥居正面の「阿蘇宮」

一瞬、こちらが拝殿かと思っちゃいました。 う~ん・・・この「阿蘇宮」とは??

宮司さん宅

宮司さんの宮川家住宅主屋

桁行7間半,梁間3間規模,入母屋造,もと茅葺,平入,平面は六間取とし,養蚕に伴う煙出しを載せる。

市内現存最古の民家とされる。http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/139641 より

こちらの宮司・宮川さんは、阿蘇氏の分家のひとつと言われていて、第2次世界大戦の敗戦後、神道を排除しようとした
GHQの説得にあたったお一人でもあるそうです。

玄関には、節分の魔除けとして使われる 「柊鰯(ひいらぎいわし)」が飾られていました。

柊の葉の棘が鬼の目を刺すので門口から鬼が入れず、また塩鰯を焼く臭気と煙で鬼が近寄らないと言う(逆に、鰯の臭いで
鬼を誘い、柊の葉の棘が鬼の目をさすとも説明される)。日本各地に広く見られる。by wikipedia


いや~、なかなか普通の神社と違って不思議な空間でした。また詣でたい神社が増えましたね。


二宮神社(東京都あきる野市)

2017-03-24 10:56:01 | ・神社・お寺

2017.3

「武蔵国一之宮 小野神社」参拝後、武蔵国二宮の「二宮神社(あきる野市)へ詣でました。

大鳥居

拝殿

本殿

御神木の大杉があったのでしょうね。

優しい風が吹いて、風で揺れる絵馬の音が印象的でした。

五社(伊勢・八幡・天王・天神・稲荷の五社を合祀)

荒波々伎社

足神様、門神様とも言われ、日本の原始信仰を残す神、健足長寿の神様。

時計が可愛い、社務所でした。

見晴らしが良かったですよ。


・創立年代は不詳。
・『和名抄』に記されている武蔵国多摩郡小川郷の鎮守であり、「小河大明神」とも称された。
・当社は武蔵国の二宮であったとされ、『神道集』『私案抄』にみられる「武州六大明神」の一角に数えられている。この
 六社のうち唯一、式内社ではない。現在も武蔵国総社・六所宮(現・大國魂神社)の一座に祀られているほか、周辺の
 地名は「二宮」と称されている。
・古記録によると、藤原秀郷が生国の山王二十一社中の二宮を崇敬する縁故をもって特に当社を崇敬し、天慶の乱に際し
 戦勝祈願をこめ、乱平定の奉賽として社殿玉垣を造営した。
・源頼朝、北条氏政も崇敬篤く、ことに北条氏照は滝山城主となって、同氏の祈願所とした。のち、神殿・神宮宅は罹災し、
 記録の大半が焼失した。
・一方、鎌倉時代には当地付近に大石氏中興の祖とされる信重が城館を構え、5代にわたって居城としたとの記録がある。
 この「二宮城」の所在を探るため、昭和47年(1972年)に二宮神社境内の一角が発掘調査されたが、関係する資料を
 得る
ことはできず否定された。しかし、この発掘調査では、寺院に関係する小型の金銅製薬師如来像や中世の瓦が発見
 され、
新たな謎を呼んでいる。特に、薬師如来像は小河大明神の御正体と推測されている。
・天正19年(1591年)、徳川家康より朱印15石を受け、以後、代々継承されてきた。現在の本殿は、江戸時代に建立
 された
といわれる。明治3年(1870年-1871年)、現社名に改称した。by wikipedia

二宮神社お池

参道の石段を降りて道路を渡った反対側には、当社の「お池」があり、豊富な湧出量を誇る清らかな湧き水が満々とたたえられ、
「千人清水」と名付けられた小川が勢いよく流れ出している。この湧水は同市の八雲神社の湧水とともに、東京都選定

「東京の名湧水57選」のひとつに数えられている。by wikipedia

どんな干天でも涸れたことのない池だそうです。とても綺麗な湧水で、巨大な鯉が数匹優雅に泳いでいましたよ。


二宮神社の裏手には「二宮考古学館」があったので寄ってみました。

すごいですよ!縄文式土器に触れました^^ 

縄文中期の土器。いや~、なかなか複雑なデザインです。

こんな石棒まで展示されていました。

先に「・・・ この発掘調査では、寺院に関係する小型の金銅製薬師如来像や中世の瓦が発見され、新たな謎を呼んでいる。
特に、薬師如来像は小河大明神の御正体と推測されている。」と引用しましたが、まさかの金銅製薬師如来像が展示されて
いました! 


武蔵国一之宮・小野神社(東京都多摩市)

2017-03-23 05:52:49 | ・神社・お寺

2017.3 多摩市にある「武蔵国一之宮・小野神社」へ詣でてきました。

そもそも一之宮とは何ぞや???

一宮(いちのみや)とは、ある地域の中で最も社格の高いとされる神社のことである。一の宮・一之宮などとも書く。
通常単に「一宮」といった場合は、令制国の一宮を指すことが多い。一宮の次に社格が高い神社を二宮、さらにその次を
三宮のように呼び・・・・by wikipedia

というわけで、簡単には、「ある地方の立派な神社」というわけですね。

しかし、これがなかなか複雑な・・・・・。

大鳥居

08:30頃着きました。朝の陽射しがとても気持ち良く、広々した境内はとても清々しかったですよ。

隋神門

いや~、彫刻がスゴイです。

龍が睨みを利かせていました。

拝殿

赤い拝殿・・・何かチカラの漲った空間です。

本殿

こちらも鮮やかな赤色でした。

拝殿の神鏡の裏側

裏側も鏡になっていました。神鏡の裏側を見ることはなかなか無いですね。 

末社殿

この中に末社が入っています。大切にされていますね。

南門

こちらにも隋神門がありました。

境内の外にも祠が・・。

武蔵野国の6つの神社と総社

 小野神社のhpによると、「一之宮とは、中世に全国的に確立した、国内における神格の格付けで、国内第一の鎮守という

意味です。南北朝時代に成立した『神道集』の記載にも『一宮は小野大明神』という記載が見られ、一宮=小野神社(当社)で

あることが確認できます。武蔵国内には

一之宮:小野神社(当社:多摩市)を筆頭に、
二之宮:小河神社(現・二宮神社:あきる野市)、
三之宮:氷川神社(さいたま市)、
四之宮:秩父神社(秩父市)、
五之宮:金鑚(かなさな)神社(児玉郡神川村)、
六之宮:杉山神社(横浜市緑区西八朔)が編成されていたことが分かります。」となってます。

 

http://sigin.sakura.ne.jp/junpaikai/HTML/Musasikoku1miya.htm
こちら様のページに「武蔵国の一宮問題」とあります。下記に要約します。なかなか複雑ですね^^;

・武蔵団の一宮は通説として、旧大宮市にある氷川神社とされている。


・一宮として資料的にも近世以降の古文書は「一宮」を裏付けている。室町末期の『大日本一宮記』や橘三喜の
『一宮巡詣記』も武蔵国一宮としている。

・諸国一宮を比定した資料、『国史大辞典』・『神道大辞典』・『大日本地名辞典』などにでは、武蔵一宮は
氷川神社一社としている。武蔵国こは氷川神社が多い。東京都には59社、埼玉県に164社もあるという。
その総本社が大宮氷川紳杜。

一宮、二宮、三宮、、、の序列は日本六十八カ国、国単位だけでなく・、郡・荘園・郷村単位にもあった。それ故、
全国各地に一宮、二宮、三宮、の地名や一宮、二宮、三宮神社等の紳社名が多い。

・小野神社は古代は多摩郁小野郷。中世は多摩郡(多西郡)。現在、東京都多摩市一宮に所在する。『中世諸国一宮制の
基礎的研究』(岩田書院)によれば、14世紀成立『神道集』・『吾妻鏡』の中に一宮とする記述があり、郡・荘園・郷村
の一宮とせず、氷川神社とともに武蔵国一宮としている。

・氷川神社と小野神社との処遇の比較を見ても平安や江戸時代、明治から戦前に至る公的処遇は当然、武蔵国一宮は氷川神社
と軍配を上げざるをえない。


・武蔵一宮説
古文書に鎌倉時代に小野神、一宮という記録や多摩市内に一宮という地名が残る。小野神社の「小野」は第三十代敏達天皇
春口皇子を祖とする古代豪族であり遣隋使となった小野妹子、平安時代遣唐副使や参議にもなった小野筧、その孫小野小町等
が有名である。.この筧の七世高泰が武蔵国守として赴任し、その子孫が蛮族として土著した。武蔵七党といわれ横山・猪俣
などの諸氏である。小野氏は小野妹子が近江国滋賀都小野郷に住み姓名としたと『姓氏録』にある。現在もこの地に
武蔵小野神社の本源とも見なされる小野神社がある。

・武蔵一宮の初見は鎌倉初期。
一宮、二宮、三宮、、、の序列に武蔵七党的など党的武士団の影響力が強く、この頃、小野神社が一宮とされたのではないか
と推定する。 『中世諸国一宮制の基礎研究』jによれば、鎌倉時代の神社ランクと支持武士団を次のようにしている。
一宮小野神社(横山党・西党〉、
二宮二宮神社(西党)、
三宮氷川神社(野與党・足立氏〕、
四宮秩父神社(丹党・猪俣党)、
五宮金鑚神社(児玉党)、
六宮杉山神社(横山党)。 
これら武士党人は国衛の役人としても権力をもつこともあり、律令制度では神階も高い名神大社の氷川神社を三宮にする
など、歴史の変遷による一宮問題の流れが見られる。しかし、室町、戦国時代、江戸期にかけこれまた支配者の変化により、
氷川神社が浮上。一宮の地位を確保したと推察する。

・武蔵国総社(惣社)とLて東京都府中市宮町に大国魂神社がある。六所宮ともいわれ国府の所在地にある。総社はその国の
有力な神々を国府へ勧請し国内の行政安泰などを祈願する神社である。いわば神様の出先機関の総合神社ともいえる。
この神社の祭神は主神大国魂大神(人己貴命〉に配祀して
小野大神・小河大神・氷川大神・秩父大神・金佐奈大神・杉山大神が祀られている。
団塊の神々に口々の平穏を祈願するためである。 

・武蔵国以外にも「二つの一宮」が多い。その原因を大別すると、

(1)朝廷、貴族が支持Lた神社と台頭してきた武士階級の八幡宮などとの対立や並立。
(2)粗神め男神の神社とその妃神を祀る神社との対立。
(3)天孫族を含む高天原系紳社と出雲族系の神やや渡来系土着地祇神との対立、並列
(4)同名・同神であるが本宮・中宮・下宮が一宮を名乗ると様々である。

武蔵一宮のケースは1・3の項目こ該当するようだ。この多摩市小野神社に対し「論社」として府中市に同名の小野神社が
ある。旧郷社であり主神天下春命も同じである。国府の近くにあった。


3月の鳥さん

2017-03-21 18:51:36 | ・鳥・生物

う~む・・・今年はレンジャクは関東に来てるのかな?

アトリの多いシーズンだったようですけど、遭遇は一度だけだったな。 

カワセミ

2017.3 埼玉・秋ヶ瀬公園にて

モズ

2017.3 埼玉・秋ヶ瀬公園にて

わはははは(笑)み~んな逆立ち^^ オナガカモかな?

2017.3 埼玉・秋ヶ瀬公園にて

アオサギ

2017.3 埼玉・秋ヶ瀬公園にて

ギャーギャーと何かが鳴いている・・・。

高樹木の上にアオサギの巣があって10羽以上飛び回っていました。まるで鳥獣です^^;

2017.3 あきる野市・阿伎留神社境内にて

アオサギ

2017.3 あきる野市・阿伎留神社境内にて

アオサギの卵の殻だと思われます。青みがかっています。

孵化した後か・・はたまた・・・

2017.3 あきる野市・阿伎留神社境内にて

オナガ

2017.3 埼玉県所沢市


仙波浅間神社(埼玉県川越市)

2017-03-20 20:11:39 | ・神社・お寺

2016.3 仙波浅間神社(埼玉県川越市)へ参拝に行きました。

この神社に関しては、http://www.kawagoe-yell.com/sightseeing/hujisengen-shrine/

こちら様に詳しく解説がされています。こちら様によると、

仙波浅間神社の社殿が乗っかっている小山は、「浅間神社古墳」という古墳です。

全部で6基ある小仙波古墳群の1つです。別名「母塚」と呼ばれ、ここより約300m程歩いた場所には父塚(愛宕神社古墳)

があります。高さ5.8m、径が4.2mほどの大型円墳で、墳頂は神社社殿によってかなり削られてしまっているようです。

また、古墳の周囲には低い部分があることから周溝(古墳のまわりをめぐらされた溝)があったと考えられています。

拝殿

本殿

溶岩が積み上げられていますね。なかなかの迫力です。

本殿裏には、このような溶岩洞穴を模したような穴もありました。


八幡神社(入間市上谷ケ貫)

2017-03-20 20:11:15 | ・神社・お寺

2017.3 入間市上谷ケ貫の八幡神社へ詣でてきました。

とっても「村の鎮守様」という雰囲気でした。

なんか・・・かわいそうな状態でした。。。。


文和三年(1354)武田一族で、増岡重義(嘉慶二年・一三八八)と云える者が、豊前の国(大分県)の宇佐八幡宮の分霊を

当村誌金子の郷谷ヶ貫村逢谷に勧請したものと伝承される。


白鬚神社(埼玉県鶴ヶ島市)

2017-03-10 16:05:51 | ・神社・お寺

2017.3 いつも近くを通る白鬚神社(埼玉県鶴ヶ島市)を詣でてきました。

奈良時代の創建と伝えられ、武蔵国を開拓するためにこの地に居住し高麗郡をつくった高句麗人たちが築いた神社とされて

いる。高句麗人は高麗郡に26の神社を創建し、それぞれを村の鎮守として崇敬したという(高麗郡における高句麗人の創建

した神社として日高市の高麗神社が有名)。江戸時代頃までは和田、高倉、大六道(上新田)、小六道(中新田)、

太田ヶ谷、針うり、脚折の7村(現在全て鶴ヶ島市)の総鎮守として崇拝され、明治時代以降は村社として存在していた。

by wikipedia


 

・白鬚神社(しらひげじんじゃ)は、の総本社は、滋賀県高島市鵜川にある。

 

・高島の白鬚神社は、沖島を背景として琵琶湖畔に鳥居を浮かべることから、「近江の厳島」とも称される。

 

・祭神は猿田彦命 (さるたひこのみこと、猿田彦大神)

 

・国史に「比良神」と見える神名が当社を指すとされており、元々の祭神は比良山の神であるともいわれる。人格神が

 

 猿田彦命とされた由来は不詳であるが、猿田彦命は水尾神社(高島市拝戸)の縁起『三尾神社本土記』にも見えること

 

 から、両社の密接な関係が指摘される。

 

・社伝では、垂仁天皇(第11代)25年に倭姫命によって社殿が建てられたのが当社の創建であるという。また白鳳2年

 

 (674年)には、天武天皇の勅旨により「比良明神」の号を賜ったとも伝える。

 

・後述の国史に見える神名「比良神」から、当社の元々の祭祀は比良山に対するものであったとする説がある一方で

 

 白鬚信仰の多く分布する武蔵国北部や近江・筑前には渡来人が多いことから、それら渡来人が祖神を祀ったことに

 

 始まるという説もある。by wikipedia

手水舎の裏側にも祠がありました。

本殿と梅

異様な木肌で、一瞬驚きました。

境内の脚折のケヤキ 樹齢900年以上

昭和7年に県指定された当時は、樹高約36メートルでしたが、昭和47年の暴雨風により枝周り3メートルの大枝が損壊し、

幹の3分の1を欠落してしまいましたが、それでも樹高は約17メートル、幹周りは約7メートルの巨木。市内で唯一の

県指定文化財の保存に力を入れています。 

 

ところで、白髭神社・高麗神社に関して、とても興味深いサイトをみつけました。

いや~、素晴らしいです!! まさに古代ロマンですね!

「白ひげさん伝説」

http://www.rekitan.co.jp/styled-2/styled-25/index.html

こちら様によると(抜粋)

・埼玉県の日高市を中心として、川越市、狭山市、入間市、飯能市、鶴ヶ島市には、約30社もの白髭神社が点在している。

・埼玉の白髭神社は村社が多く、人々に慕われ、愛されてきた場所である。

・高句麗の人々の痕跡は、地名や遺跡で知ることができる。甲斐の国~巨摩郡。相模~高麗山。東京~狛江市。こうして、

 分散され住まわされた人々を一箇所にまとめて作ったのが、高麗郡。

・高麗郡がおかれた場所は、いわゆる空閑地。弥生時代、古墳時代の集落の跡は発見されていない。この原野を開拓し、

 田や畑を作り、窯の跡、製鉄の跡等も発見されている。集まった1799人が、短期間のうちに高度な文化的生活を送る

 ようになった。それを実現するための強力な指導者が高麗若光であったと考えられる。

・日本書記には、666年(唐と新羅からの挟み撃ちに合いながら、必死で戦っている時)、高句麗からの使いが日本に

 やって来たと書かれている。その中の一人に玄武若光の名前がある。そして、続日本紀によると703年、

 「従五位下高麗若光に王(こきし)の姓を賜う」との記載が登場する。この段階での王の姓の授与は、既に高句麗からの

 渡来人を組織し、ある土地で名をなした首長になりつつあったことを意味する。この地とは、神奈川県の大磯であったと

 思われる。高麗山の下にある高来神社が、その伝承を伝えている。

・高麗神社も昔は「白髭神社」と呼ばれていた。高麗神社は、高麗若光を祀るとともに、代々直系の子孫が宮司職を継いで

 おられる。「白髭神社」は、いつしか、高麗若光のイメージと重なり、本物の「白鬚」をはやした若光を祀る神社へと

 変遷していったのではないだろうか。この地で言われる「白髭明神」とは、高麗若光に他なりません。

・四神の考え・・若光は玄武、すなわち、北の守り神。青龍の地が上総、大磯に朱雀、甲斐に白虎であったのではないか。

・夏至の頃の星座・・北極五星のひとつこぐま座のβ星コカブ、右側の、北斗七星、そして左斜め上には現在の北極星

 こぐま座のα星ポラリスの位置関係が、高麗神社と白髭神社の分布と同じである。玄武若光は、玄武(北)の空の

 不動の星となり、それを囲むように白髭神社が作られた。


正一位浅間神社(市川三郷町宮原)

2017-03-05 17:22:22 | ・神社・お寺

2017.2

ミスミソウを見終えた後、市川三郷町宮原地区の「正一位浅間神社(宮原浅間神社)」へ立ち寄りました。

すごい両部鳥居ですね。

鳥居の上部の笠木には瓦屋根、黒い稚児柱にも瓦屋根があります。

境内

水の流れは無く澱んでいましたが本殿を包むように水路がありました。

拝殿

本殿

神楽殿・・・かなり老朽化していましたね。

創建年代は不詳。社記は景行天皇56年6月、国造・塩海足尼が入国のさいに幣帛を奉じたと伝える。岩間庄の総鎮守、

また岩間・葛篭沢・宮原3村の産神であり、ふるくは表門神社、浅間神社、磐間宮などと称したほか、当地域の一宮とも称された

(宮原の山宮明神を二宮、八幡宮を三宮と称する)。有栖川宮家の祈願所であり、天保8年(1837)に正一位の神階を授けられる。

明治6年に郷社へ列格、社号を浅間神社に定めた。http://iiduna.blog49.fc2.com/blog-entry-42.html 様より抜粋

宮原浅間神社壱番神輿

神輿は神霊が本社から他所に渡御されるとき、奉安する輿のことです。この渡御を、御幸・お旅と称します。この神社の御幸は

「河内御幸」とよばれ、甲州三御幸の一つで公祭として「古ハ東河内領十島ヨリ落居ニ至ル西河内領南部ヨリ箱原ニ至ル諸村ヨリ人夫ヲ出シテ供奉」

(甲斐国志)していました。この神輿は、山梨県における三大神輿の一つといわれ、下山宿大工棟梁石川七郎左衛門源重甫により文化13年(1816)

丙子8月吉日に建造されました。http://iiduna.blog49.fc2.com/blog-entry-42.html 様より抜粋