~風に吹かれて~ by ポー(paw)

-人の中に 人の創り出した物の中に 動植物の中に 地球や宇宙の中に 魂の琴線にふれ 愛を感じながら 生き込みたい-

10.私心と本心8(相対の両極)

2012-03-29 08:19:14 | ・「ありがとうございます」をもっと平易に

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宇宙絶対神は、「無限の大光源」「無限の大光明」そのものです。だから宇宙絶対神の表現としての全大宇宙

には、無限に小さい光から無限に大きい光まで、無限の段階の光の表現だけが存在するのです。ところが大き

い光の立場から、小さい光を眺めると、暗く感じられるのです。相対的な比較上の問題として、大きい光の立場

からは、小さい光は暗闇に感じられるのです。

ここで人にとって大切なことは、天浮橋(アマノウキハシ)(相対の両極)に立つということです。無限の大光源と

いう立場に立つ時は、暗闇に対して、光を投げ与えるだけでよいのです。暗闇から光を求めることは、全く必要が

無いのです。報いを求めずに、ただ与えるだけでよいのです。これは愛の心の一面の、"思いやり"に相当する

わけです。

反対に暗闇の立場に立つ時は、無限に小さい光をも、なんと素晴らしい光であることよ!と褒め讃え・感謝し・

喜んで、自分の心の中にしっかりと包容すればよいのです。全大宇宙のすべてのものを、素晴らしく感じて、心に

しっかりと包容することは、愛の心のもう一面の、「寛容」相当するわけです。

自分に少しでもプラス面が有るならば、それは他へ与え尽くす為に循環してきたものです。比較して自慢したり、

他を軽蔑したりする為のものでは決して無いのです。また自分が他から何かを与えられようとする時は、それが

どんなに小さい光であっても、必ず自分にとって必要不可欠な光なのです。小さい光だから要らないと、決して

拒絶してはならないのです。光一元に仰ぎ見て、すべてから光を吸収することが、本心の自分を大きく輝かすこと

になるからです。

その光をどれだけ受けるかは、一人一人の完全な自由に任せられているのです。先ずは自分の持っているすべて

の光を与え尽くし、その後、光一元に眺めた宇宙のすべてから光を吸収するのです。その循環を速く大きくしてゆく

ことが、本心の自分を大きく輝かせる生き方なのです。

いついかなる時にも、すべてをプラスに受ける為には、自分の立場をマイナス無限大に置けばよいのです。 マイ

ナス無限大は宇宙創造の原点です。神さまはマイナス無限大を創造の出発点にして、そこへ無限の大光源を加

えて、光一元の妙趣あるプラス無限大の表現を、一瞬一瞬新たに、創造し続けているのです。

(「ありがとうございます」より・一部語句互換)

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少し解り難いので、上記のような図を描いてみました。要するにもっとも神さまに近い側に立つ事と、もっとも

神さまから遠い側に立つ事を常にイメージしなさいということです。自分の立つ位置を固定してしまうと、窮屈

になってしまい、イマジネーションも沸いてきません。相対の両極に立つことを学べば「人の気持ちになる、

相手の気持ちに立つ」ための最大限のダイナミックなイマジネーションを持つことができるでしょう。

私たちには、神さまの小さな分身が宿っていると言われます。(私たちだけでなく、万物全てのものに神さまが

宿っていると言われます。)神さまが光であるのならば、私たちも光を放っているわけです。小さな光もあれば、

大きな光もあるでしょう。

お互いの光を比較するようになれば、あの人は大きな光、この人は小さな光と、私心を育ててしまいます。全て

に対して感謝するような本心を育てるためには、光からもっとも遠い位置に立つ事が必要であると訓えています。

要約すると、

「本心の自分に戻って、本心の自分を生きることができたら、いつも無限の幸せで一杯になれるのです。即ち謙虚

心でマイナスの極に立ち、光一元に仰ぎ見れば、すべてを神さまの現れとして受け取ることができるのです。」 

となり、これがこの本のもっとも伝えたい「感謝の心」の実践方法です。

全ての光を感謝して仰ぐ=「生きているだけで幸せ」という境地に近いものかもしれません。そして、どのような

人の中にも光を放つものがあり、その光を拝みましょうということなのでしょう。しかし、現世の苦難の中で、「生き

ていくことが苦痛」という人もいるでしょうし、「恨み憎しむ相手に光を見出すこと」は難しいかもしれません。

今生では無理かもしれない・・・・・しかし、来世に向けて少しでも山の頂上を目指して歩めるかもしれない・・・。

輪廻転生を視野に入れた長期的なビジョンで、ダイナミックに自分自身を見つめることも大切ではないでしょうか。

ここで終わりという事はなく、自分の歩む道は、果てしなく続いていくのですから^^

焦らず、あわてず、一歩ずつ、地に足をつけて、楽観的に、自分のペースで・・・誰と比べる事もなく・・・

とりあえず、今回で{「ありがとうございます」をもっと平易に}の集中投稿は終わります。まだ半分くらいしか読み

終えていないので、投稿意欲のかき立てられる箇所がありましたら、また適時投稿しますねー^^


9.私心と本心7(自分を正しく知る)

2012-03-22 12:18:14 | ・「ありがとうございます」をもっと平易に

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「自分を正しく知る」ということ

ソクラテス(古代ギリシャの哲人)は、「汝自身を知れ」という有名な言葉を残しています。「自分を正しく知る」という

ことは、いつの時代にあっても、最も大切な課題なのです。釈迦も「一切の苦しみの根本原因は本当の自分を知ら

ないこと、即ち無知にある」と教えています。多くの人間は、四苦八苦の繋縛から、自由になりたいと願いながらも、

本心の自分を知ろうと、真剣に努力しないから、いつまでもその苦しみから逃れられずにいるのです。

人間は「自己の自由意志」によって、徹底的に本心の自分を生き切らなければならないのです。人間は「自己の自

由意志」によって、本心の自分を生き切る時に、一切の苦しみから解放されて自由自在となり、無限の法楽を味わい

続けることができるのです。反対に本心の自分を生きるのを忘れた時は、業想念(過去に積み重ねた想念感情)の

奴隷となって、四苦八苦からは決して逃れることができないように、仕組まれているのです。なぜならば四苦八苦は、

本心の自分に気付かせる為の「気付け薬」となるからです。

それでは本心の自分をしっかりと生きる為に、その状態を具体的に、幾つか列挙してみましょう。

【本心の心を生きている状態】

① 移り変わる姿には決して執着しないで、常に客観的に眺めて楽しんでいる。
② 何事も明るく善意に解釈して、その奥にある神さまの愛を感じ取っている。
③ 神さまと一体の自分、永遠に生き通しの自分、一貫して変わらない自分を信じているので、いつも心が安らかです。
④ 常に与える生き方をとっているので、必要なものは豊かに与えられている。
⑤ 与えられるままに感謝を深めているので、運命はどんどん善くなっている。
⑥ すべて神さまの御心のままにと全託し、人の自由を決して縛らない。
⑦ すべてに絶対価値を見出して、常に褒め讃え・感謝し・喜んでいる。

【業想念の奴隷になっている状態】

① 小さい物事に執着し切って、巻き込まれては自由を失い、苦悩に喘いでいる。
② 何事も暗く悪意に解釈して、神さまの愛を疑い、逆恨みをしている。
③ 必ず死滅する肉体、地獄に落ちるかも知れない業想念の集積(魂)を自分と思い込んでいて、いつも恐怖で一杯です。
④ 常に奪う生き方をとっているので、大切なものまで大きく奪いとられている。
⑤ 求めるだけの不平不満不足の心なので、運命はどんどん悪くなっている。
⑥ 我の心ですべて自分の思い通りにしようとするから、人を奴隷扱いしている。
⑦ 相対的に比較して、上に立っては蔑み、下にあっては羨んでいる。

(「ありがとうございます」より・一部語句互換)

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①に関して

私たちは、昔はよかったな、あの頃に戻りたいな、などのノスタルジックな思いにふけったりするわけですが、思い

出してよかったなあと客観的に楽しむ(本心)のか、その頃に執着して、今を悲観的に生きる(私心)のとでは随分

と様相が違ってきますね。

②に関して

人に何かをしてもらって、単純に「ありがとう」と感謝する(本心)とか、何か魂胆があるんじゃないか?と疑いの気持ち

を持って「ありがとう」と言う(私心)のとでも、同じ言葉でも意味合いが違ってきます。

③に関して

これは、まさにスピリチュアリズムの訓えでもあり、いわゆる「魂は不滅であり、私たちの魂は、死後も個性を持って

存続する」という事を、どこまで信じ切れるのか?が鍵になります。悲観的な方が、臨死体験などをすると身を持って

識りますから、その後において性格がガラリと楽天的に変わることも良くあるようです。

④に関して

人に与える物が、物質的なものであっても、それは表面的なもので、中身は「こころ」ということ(本心)です。ここでの

表現は、見返りを抱いて渡す(私心)ものは含まれないでしょう。因果律、カルマ的な解釈でしょうね。

⑤に関して

これを実践するのは難しそうですねー。「与えられるままに感謝を深める」・・良い事だけならともかく、悪い事も含まれ

そうです。例えば、クルマの事故を起こしたときに、ああ、事故を起こしてクルマが凹んじゃった、最悪~~と思うのか、

誰かに怪我をさせたわけでもなく、クルマが凹んだくらいで済んで本当に良かった~~と思うのか・・・。常に最悪の

場合を想定していれば、それ以下の事は(比較対象すれば)、感謝できるようになりそうですね。しかし、その最悪の

状態が与えられたとき・・・果たして、感謝できるでしょうか?そんな出来事や事件が多々ありますから・・・・・・。難題

である事は確かでしょうね・・。

⑥に関して

「人を認める」ということでしょうか。自分の思い通りにならないから怒ったり、憎んだり、悔しい思いをしたりしてしまう。

もし、人の歩く道は、それぞれで、自分と違う道を歩くのは当然であり、100人いれば100の歩む道があるんだと思え

れば寛大になれるでしょう。そして、「君は違う道を歩いているんだから僕には関係ないね。」、と相手を無視するのでは

なく、「君と僕は違う道を歩いているかもしれないけど、応援しているからね!」と、エールをおくることもできます。

⑦に関して

隣の芝生がよく見えたり、誰かと比べて優越感に浸ったり、比較するところから生じる心・・・これは「私心」なのでしょう。

劣等感が、競争社会においては、大いに力になることもあって、ナニクソ!と自分を奮い立たせる事もありますね。競争

相手がいたからこそ、ここまでやってこれた、などはスポーツ選手からよく聞く言葉です。これらは、あくまで、自己鍛錬、

自己改革、自己啓発などへ誘うものと捉え、より高みを目指す一つの段階、通過点なのかもしれませんね。(もしそこで、

試合や勝負に執着すれば、業想念に囚われてしまう事でしょう。)通過点を超え、その先にあるものは、人は人、自分は

自分であり、精神面での鍛錬(更なる能力を引き出す)や、自己世界(本心)の表現へと繋がっていくように思います。


8.私心と本心6(五欲の奴隷となるな)

2012-03-15 08:34:42 | ・「ありがとうございます」をもっと平易に

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五欲の心の奴隷となるな!五欲とは財欲・名誉欲・色欲・食欲・睡眠欲のことです。五欲を正しいものと肯定して

いては、いつまでも五欲の奴隷でいなければならないのです。「欲」とは「大いなる存在の光心、即ち本源心・本心

の自覚の欠如している心の状態」です。

「欲」とは私心(業想念)の心であり、あれが欲しい・これが欲しいという利己的な願いであり、不平・不満・不足・

妬み・愚痴・嘆き・失望・落胆・怒り等々の四苦八苦する心です。五欲の奴隷状態から解放され、自由になる為には、

大いなる存在と一体の自覚・本心の自覚を深めてゆかなければならないのです。

人間は本来、大いなる存在と一体です。この真理を素直に肯定できるのが、本心の心です。これを傲慢に否定する

のが、私心(業想念)の心です。人間が幸せ一杯に生きることが、大いなる存在の光心・願いなのですから、人間が

幸せに生きる為に必要なものは、"既に"豊かに与えられているのです。だから本心の自覚を深めて、宇宙のすべて

は大いなる存在の愛の現れであると、心にしっかりと確認することです。"生かされている" この事実に気付けば、

無限に深い感謝と賛嘆と喜びの心が、自然に湧き出てくるにちがいないのです。

五欲を解脱する為には、感謝の心を輝かせて生きてゆけばよいのです。

 (「ありがとうございます」より・一部語句互換)

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この国の高度成長期の欲求事物は、マイホーム・マイカー、そして海外旅行でした。(80年代・総務省統計局)

バブルの崩壊まで、これらを追い求め、それらを手に入れる事が一般的な「幸せ」の尺度でした。物欲の世界で

したね。そしてバブルの崩壊・・この「幸せ」をある程度手に入れた人も、手に入れられなかった人も、大きく「幸せ」

に対する考え方が変わることになります。周りの人たちと比較する尺度からの幸せから、個々の人たちが作り上げる

自分自身の幸せを考えるようになりつつあります。今どきの欲求事物は、時間・お金・健康だそうです。この30年余り

で随分と様変わりしてきたものです。

それはともかく・・・

お金欲しい~、美味しいものを食べたい~、いっぱい寝たい~、あれが欲しい、これが欲しい~・・・と、五欲(睡眠欲・

食欲・性欲・金欲・名誉欲)を満たす為に、一生懸命に働き、生きることはいけないのでしょうか?

労働意欲を支えているもの(オリコン2007年調べ20~40代)を見ると、収入(70%)、家族(35%)、仕事に対する

責任(30%)、やりがい(30%)、夢(12%)・・・となっており、意外と昇進・出世・肩書きなど(3~5%)は低い結果の

ようです。

私的には、「生きる」あるいは「働く」ためのモチベーションを維持するには、五欲によるものが大きいのではないかと

思いますがどうでしょう?

 

一方、生き易い環境かどうかを見るために、世界の自殺者数を比較してみます。日本の自殺率は24.4/10万人で8位、

アメリカは11/10万人で42位。一方、福祉大国であるスウェーデンは12.7/10万人で28位、デンマークは11.9/10万

人で33位となってます。。(2011年WHO調べ)福祉が行き届いていると思われる国でも、自殺者の数は結構多いので

すね。アルコール中毒者も多いそうです。福祉が行き届いているがゆえに、子どもたちが親の面倒を見なくなって孤立化

させたり、働かなくても暮らしていける等で自立心を妨げたりするのが要因だと言われています。いわゆる「生きがい」の

低下が生きる意欲を低下させるのでしょう。

 

では、五欲以外に、どうすれば生きるモチベーションが高められ、維持できるのでしょうか?「本心で生きること」を目標

に、そこからエネルギーを摂取し、モチベーションを維持するということなのでしょうか。この思考回路を作り上げる為には、

五欲を糧にしては生きられないくらいの強烈な体験が必要なのかもしれません。心が空っぽになる位のどん底の状態を

経験しなければ、そう簡単に五欲を解脱するのは難しいでしょう。しかし、そこから活路を見出すことができれば、大きな

飛躍へと繋がることでしょうね。

若い頃は、五欲に突き動かされ、周りと競ったり、同年代の人たちと比較したり(結婚を焦ったりなど)、隣の芝生がよく見

えたりするものです。しかし、勝気でトゲのある若者が、歳を重ねるに連れ性格が丸くなって協調性が出てきたり、身近な

愛する人との死別を経験して考え方が変わったり、自らが死と向き合うような病に侵されて神さまに思いをめぐらせたりと

転換期が訪れたりもします。更には、暴れん坊の暴走族だった人が、数年後に牧師さんになっていたり、全身麻痺に近い

ような事故に合われた方が、素晴らしい絵を描く芸術家になったりして、本心を大きく表現される方もおられます。

 

五欲の先にあるものへは、ある程度、年老いて枯れてこないと(枯れても執着する人もいるけど・笑)認識できないかも

しれない(だんだん自分の死を意識し出す)けれど、五欲にかかずらわっていられない程の苦悩や挫折の体験なども、

自ら見ている世界観を変えることでしょう。

 

いずれにしても、五欲を生きる為の根っこにするのではなく、五欲に執拗に捕らわれないように、五欲を薄め、本心から

湧き出る隣人愛の実践や自分自身の行動・言動の正しい動機を見つめ、その衝動を根っこにし、そこから生命エネルギー

を摂取できるようになれば「生きがい」を持てるようになるのではないでしょうか。この摂取方法を維持していく為には、

常に独り静かに自分自身の内側を見つめる時間を作ったり、大いなる存在や各々の本心の顕れである真理の言葉や

心を打つ事象、自然(四季の移り変わりや花や生物)、芸術(音楽、絵画等)などに自分の思考の周波数を同期させ、

そこへ自分自身の身を置いておくことが良いのではないかと思います。とはいえ、そう簡単にその理想的な境地に達する

ことはないでしょう。でも、一日の終わりにうまくいかなかったなあ、駄目だったなあ、と思っても、また翌日から実践すれば

いいのです。にんげんだもの(相田みつを)・笑 継続は力なり! 「感謝の心」については、またいずれ^^


7.私心と本心5(五欲への執着)

2012-03-07 11:45:12 | ・「ありがとうございます」をもっと平易に

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我欲煩悩をどれだけ満足させても、決して真実の幸せは得られないのです。我欲煩悩の欲求は、どこまでも

どこま業想念の心〔五欲(財欲・名誉欲・色欲・食欲・睡眠欲)〕を自分の心なのだと信じている人にとっては、

業想念が厚ければ厚い程、神さまの愛は感じ取り難いものです。それは厚い業想念に覆われて、業想念の

奴隷になって、本心の自分が隠されてしまっているからです。神さまに生かされているということを、忘れた

状態が欲なのです。神さまへの感謝を忘れたところから、業想念(五欲)が発生し蓄積されてゆくのです。神

さまへの感謝を忘れ、怠る状態が続けば続く程、業想念は厚くなってくるのです。

業想念が厚くなればなるほど、五欲を満足させる為に、自分の思い通りに生きようとする利己的な心が強く

なってくるのです。何でも自分の思い通りにならなければ、腹が立つのです。周囲の人々の思惑を生かして

あげようという愛の気持ちが、業想念によって覆い隠されてしまっているからです。

業想念の心(五欲)を幾ら満足させても、それは本心の心の満足では無いのです。だから自分も他人も決して

本当の幸せにはなれないのです。業想念で築き上げたものは、必ず自壊(外力によらず、内部から崩壊する)

するのです。思い通りにならない時が必ず来るのです。築き上げたものが大きければ大きいほど、大轟音を

発して崩壊するのです。の崩壊する姿が、七難八苦となるのです。その時に業想念の心を自分の心として

掴んでいたら、必ず大きな苦痛を味わい続けることになるのです。

しかし幸いなことに、その苦痛が魂を浄め、生き方の誤りに気付かせてくれるのです。同じ失敗を何度も繰り

返すのは愚かです。他人の失敗を見て、他山の石としないのも愚かです。お手本は至る所に存在しているの

です。五欲の奴隷状態に止まっていては、決して真実の幸せを掴むことはできないのです。このことをしっかり

と肝に銘じておかなければならないのです。

例えこの一生が七難八苦の連続であっても、地獄の苦しみを味わうことと比べたら、万分の一以下の軽さです。

その苦痛によって魂を浄め、感謝のできる本心の心に引き戻していただけるとしたら、何が何でも感謝し続けな

ければならないものなのです。(「ありがとうございます」より・一部語句互換 )

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「業想念で築き上げたものは、必ず自壊(外力によらず、内部から崩壊する)する」「その崩壊する姿が、七難

八苦となるのです。」とはどういうことなのでしょうか?

五欲のうちの財欲を例にとって具体的にみてみましょう。

財欲とは、まあ、お金が欲しい!という事ですよね。元からあったのか、稼いで貯めるのか解りませんが、まず

お金があって、そのお金をを更に、割と手間を掛けずに、投資をしたり、ギャンブルに投じたりする。欲が膨らめ

ば、うまい話に乗せられて、騙されたりする。投資が失敗して全てを失ったり、ギャンブルに負けたりする。もし始め

から、暮らせる分のお金があればいいと思っていれば、こんな事にはならない。欲深だからこそ、こうした失敗に

よって、イライラしたり苦痛を味わったりするわけですね。

 

まあ私的には、この世の中を生きているのであれば、まったく欲をなくすことなど、現実問題としてできないとは

思っています。多少の事は、神さまも目をつぶってくれるんじゃないかなと楽観的に考えています(笑)。しかし、

どうせ死んであの世へいけばお金を持っていても仕方がないわけで・・。三途の川を渡る駄賃くらいあればよい

でしょう(笑)。自分自身はどうでも、財産を子どもに残したいというのはあるかもしれませんけれど。いずれにして

も、異常な執着を持てば持つほど、欲深になればなるほど、はまればはまるほど、どんどんと、私財をつぎ込んで

いきますから、いずれは大変な目に合ってしまうでしょう。

このように他の欲についても、名誉を得る為にウソ偽りで自分を固めたり、異性に騙されて酷い目にあったり、

食べ過ぎて病気になったり、寝過ぎて遅刻したり(違うか?笑)と、「過ぎる」とトンでもないになります。やはり

何事もバランスで、偏る事なく、中庸をキープしていきたいものです。

 

「 業想念の心(五欲)を幾ら満足させても、それは本心の心の満足では無い」・・・よくこの世の全てを手に入れ

ても、何か空しい、寂しい、満たされない・・・というような物語がありますよね。私は全てを手に入れたことがない

ので、何とも言えませんが(笑)、やはり精神面の充足が得られなければ、本当の幸せを手中にすることはできない

のでしょう。

 

「例えこの一生が七難八苦の連続であっても、地獄の苦しみを味わうことと比べたら、万分の一以下の軽さです。」・・・・

肉体の無い霊魂の世界では、精神面で同じような思考や境遇のものたちが集まって暮らしているそうです。です

から、五欲の強いものたちは、類は友を呼ぶ、のようにお互いに引かれ合い、同じような強欲なものたちの中で

満たされない欲望の中を苦しみながら生きることになるのでしょう。この世界を地獄と呼んでいるわけですね。

この世は、強欲なものたちから、本心で生きようとするものたちまでバラエティに富んでいます。手を差し延べてくれる

たちが顕れたりして、少しでも自身の本心を見出すことができれば(強欲なもの同士の世界では本心に気がつき難い)、

容易に地獄から脱出することもできるでしょう。そこで「万分の一以下の軽さ」という表現なのでしょうね。逆に万倍

以上の苦しみは・・・想像したくありません(笑


6.私心と本心4(ヤマタノオロチ)

2012-03-01 08:15:35 | ・「ありがとうございます」をもっと平易に

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我欲煩悩をどれだけ満足させても、決して真実の幸せは得られないのです。我欲煩悩の欲求は、どこまでもどこま

でもエスカレートして、止まるところを知らないのです。その上に有限のものを奪い合う のですから、その欲求が叶

えられることは皆無に近いのです。欲する通りにならなくて、四苦八苦するのが、我欲煩悩の本質です。

 

八俣遠呂智(ヤマタノオロチ)(八大煩悩) を退治しなければ、草薙剣(クサナギノツルギ)(本心)を得ることはでき

ないのです。草薙剣(本心)を天照大御神(宇宙絶対統一神)に奉献しなければ、神我一体とは成り得ないのです。

八俣遠呂智を狭き門(祈りの道)に誘い込み、酒(真理のエキス・祈り言葉)を飲ませ、酔わしめて、切断する時に

初めて、草薙剣(本心・感謝の心)を手にすることができるのです。その草薙剣(本心・生命)を天照大御神に奉献し

た時から、『神と共に生き、神と共に在る』自分となるのです。

須佐之男命(肉体の自分)が、自分の考えで行動している時は、闘争の連続であって、その結果は大混乱の極に

達し、世の中を真っ暗闇にしてしまったのです。天照大御神の分身の八百万神の至誠の行事によって、天照大御神

(大調和)は再び御出現になり、その時に諭し導かれて、自己の非を深く悟り、大御神に絶対信順しようと一大決心

するのです。そして草薙剣を天照大御神に奉献することによって、大御神に対して至忠・至孝・至悌という、絶対奉仕

の道を忠実に歩むことになったのです。こうして須佐之男命は天照大御神と一体化して、須佐之男命の一切の行動

は、天照大御神の御行動となったのです。(「ありがとうございます」より・一部語句互換)

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なるほど、そういう解釈なわけですね。特に解説は不要でしょう^^


5.私心と本心3(思いやりの心)

2012-02-22 11:54:41 | ・「ありがとうございます」をもっと平易に

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『思いやりの心』とは、相手が真実に求めているものを、必要な相応しいものだけを報いを求めず与え尽くす心です。

(「ありがとうございます」より・一部語句互換)

 

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この相手が「真実に求めているもの」を把握することは、とても難しいです。例えば、身体の不自由な方がクルマに

乗る時に全面的に手を貸すか、それともその方が自分で乗ろうとする行為を見守るべきなのか・・・その時点では

その方は困っているわけですから、その行為を手助けしようと思うわけですが、それもリハビリだとみて、見守りながら

ホントに危ない時に手を差し延べるという考え方もあります。

このような、少し引いて判断するような局面は結構ありますよね。子育てもそうでしょうし、スポーツ選手育成の

場面でもありそうです。

手を差し延べる側も、その動機において優越感を持っていたり、自己満足な思いが隠されている場合もあります。

「小さな親切、大きなお世話」なんて場面もあります(笑)

さらには、相手が相手の自我の領域でホントに困ってて、何とかしてもらいたいと望んでいても、その通りに手を差し

延べては、その相手の本心にとっては良くない手助けだったりする場合もあります。で、その時、手を差し延べなければ、

「冷たい」とか「ケチ」とか言われちゃうわけですね。(苦笑)で、数年経ってから、あの時は、ああいう態度で接してくれて

ホントに助かった、なんて感謝される事もあったりします。

ですから、相手にとって本当に良かれと思うことはどういう事なのか?よ~く考えて行動しなければなりません。相手の

成長過程、時間的なタイムラグなども含めて・・・。「相手の立場になる」とは、よく言われることですが「相手の本心の立場」

に立つということが、本当の「思いやり」なのかもしれませんね。

「報いを求めず」というのも、とても難しいですよね。ついつい、こーしてあげたんだから、あーしてあげたのにと思って

しまいます。まあ仕方のないことかもしれませんが、その感情に執着せずに、できるだけパッと切り離して忘れちゃうことで

しょう(笑)今日は今日、明日は明日という風に引きずらない事です・・・ね^^


4.私心と本心2(苦しみとは?・求める心と感謝の心)

2012-02-16 17:13:19 | ・「ありがとうございます」をもっと平易に

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一切の苦しみの根本原因は、本心の自分を忘れて、業想念の心の奴隷に陥ることにあるのです。本心の自分

には、一切の苦しみは無いのです。本心の自分は感謝する心・喜ぶ心ですから、常に無条件で、すべてをプラス

に観て、感謝し喜べるのです。過去を掴む心・執着の心・業想念の心には、常に四苦八苦が影のように付きまとう

のです。何故なら移り変わる無常なものに執着して、その変化を止めようとしても無理なのです。決して思い通り

にはならないのです。だから苦しむことになるのです。自分の思い通りにならないのが苦しみなのです。

 

宇宙のすべては、神さまの御心のままに移り変わっているのです。宇宙というのは、この世の宇宙だけではないの

です。心の波長の異なる宇宙が、無限に無限に存在しているのです。各自がそれぞれに感じ取っている世界という

のは、各自の心境に波長の合った無限の無限の中の一つの世界なのです。心の明るい人にとっては、明るい世界

が感じられ、心の暗い人にとっては、暗い世界が感じられるのです。自分自身の心境の変化に応じて、その心境に

ぴったりの世界が感じられるのです。自分と異なる心の波長の人は、別の異なった世界を感じているのです。

 

求める心・不足の心・業想念の心を生きていては、幸せの少ない世界に波長が合って、幸せはどんどん小さく・少なく

なってゆくものです。反対に感謝の心・満足の心・本心の心を生きれば、幸せの多い世界に波長が合って、幸せは

どんどん大きく・多くなってゆくものです。求める心と感謝の心のどちらを生きるかによって、未来の運命に雲泥の差が

生じるのです。(「ありがとうございます」より・一部語句互換)

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若い頃は、皆、共通する「感じ方」や「思い」があるんだと思っていましたね。こうすれば自分は楽しいから、みんなも

楽しいんじゃないか?みたいな・・・。ところが年を重ねれば重ねるほど、皆、違うんだ、100人いれば100人の「感じ方」

や「思い」があって、同じ、この場所に居ても感じ取っている世界が違うんだなと・・・。

コップ半分の水を見て、ある人は、ああ、もう半分しかないんだ(不足の心)と悲観的に見るけれど、別の人は、ああ、まだ

半分もあるんだ(満足の心)と楽観的に見るかもしれません。(そうてつさんのmixi日記より)

桜の花を見て、ああ、綺麗(天心)と思う人もいれば、桜の花の咲くころに愛する人を亡くしたりしていれば、ああ、悲しい

(過去を掴む心)と思うかもしれません。

人は、私心と本心のバランスの中で、人それぞれの世界を生きているんですね。

感謝・満足・謙虚に行こうよ、と言われても、今まで生きてきた思考回路がありますから、そう簡単に自分の「感じ方」や

「思い」を修正するのは難しいかもしれません。しかし、そこを変えていかなければ「私心の枠組み」、上記に書かれている

「業想念の心の奴隷」から脱する事はできないでしょう。どうすれば、その思考回路から脱することができるのでしょう? 

それは、またいずれ・・・^^


3.私心と本心1

2012-02-09 19:40:37 | ・「ありがとうございます」をもっと平易に

[「ありがとうございます」をもっと平易に]カテゴリーからの投稿です。

 

第一章、第二章(約1/3・200ページ弱)を読み終えました。内容は、一貫して「私心(過去を掴む心・

業想念の心)の奴隷となってしまっては、決して本当の幸せは得られない。本心の心(感謝する心・

喜ぶ心)をしっかりと生きれば、無限の幸せで一杯になれる。」というものでした。おそらく他の章も、

この内容が核となって書かれていると推測されます。

 

この本は、たったこれだけの事を、ありとあらゆる角度から眺め、幅広く、各々の人の魂に少しでも

届くように工夫・表現されています。真理は一つということでしょうか。ただ、「神さま(天照大神)へ

感謝の心を深めていく信仰」という事ですので、読者によって違和感があれば、神さまを「大いなる存在」

「源泉」「神聖なる知能」などと置き換えればよいと思います。この本では、神さまを「宇宙絶対神」という

書き方もしています。

 

ググってみたところ、ある方が、全文をブログで公開していました。興味のある方は、下記サイトをご覧

ください。

「ありがとうございます」
(平成19年9月発行 無料贈呈 複製自由 名も無きボランティアグループより)の内容ご紹介ブログ。

というわけで、全文公開されているので、これで終わりにしようかと思ったのですが(笑)、私の魂の琴線に

特に触れた箇所や、この文章は、どうやって解釈すればいいの?などの悩ましい箇所を抜粋して、時々

取り上げていく事にします。と書きつつ、頓挫しちゃうかもしれませんが^^;; 

各投稿のコメントに、いろいろとご意見をいただければ幸いです。

では、次回の[「ありがとうございます」をもっと平易に]カテゴリーからの投稿から・・・^^ 


2.本心とは

2012-01-27 08:37:58 | ・「ありがとうございます」をもっと平易に

[「ありがとうございます」をもっと平易に]カテゴリーからの投稿です。

私たちの「こころ」は「私心」と「本心」でできています。「私心」については前回投稿しました。

さて、ここで言う本心」ですが、よく会話に出てくる「うん、あなたの考えは分かったけど、で本心

はどうなの?」のように使われる本心とは異なります。この場合の本心は、表面的な受け答えは

さておき、個人的に本当に思っていること、その感情や考え方はどうなの?という意味ですね。

 

この「ありがとうございます」に出てくる「本心」とは、人の本来備わっている仏性、いわば仏心

(ほとけごころ)のような意味合いです。1/22にNHKスペシャル、「ヒューマン・なぜ人間になれ

たのか」を見ました。非常に興味深かったのは、「ここにあるお金を相手に分ける」という真理テスト

でした。なんと地球上の様々な人種にテストして、偏ることもなく、ほぼ半分弱を相手に分けるという

という結果になりました。進化の過程で、分け与えることが種の生き残りに繋がる という本能

植えつけられているとの解釈でしたが、相手に分け与える行為(物でも心でも)は、まさに仏心ですね。

 

また、言葉が通じない人々の間で共通する認識は、「笑顔」だそうです。相手の勘違いによって、

一触即発の戦闘を招きそうな事態のときに、相手に笑顔をみせ、ほほ笑む行為によって戦闘が

回避されたという事例も紹介されていました。まさに「笑う門には福来る」です。また、笑いは免疫力

を高め、免疫によってガン細胞が排除されるという「笑う門には癌来らず」とも言われています。

 

このブログの副題は、「-人の中に 人の創り出した物の中に 動植物の中に 地球や宇宙の中に

 魂の琴線にふれ 愛を感じながら 生き込みたい-」なのですが、「魂の琴線に触れる」とは、本心の

顕れを感じ取る」事なのかもしれません。

 

この世をこの世的な価値観で、うまく生きるには、打算的で計算高く、スマートに効率よく時間の流れ

に乗ることが必要なのかもしれません。が、反面、それって「愛がないんじゃない?という言われ方

もします。こんな中にも私心と本心が見い出せそうです。

 

話がずっこけてしまいましたが(笑)、「ありがとうございます」では、「本心」とは、感謝する心・喜ぶ心と、

訓えています。 次回からは、私心と本心について書かれているところを抜粋し私的考察していきます。


1.私心とは

2012-01-22 10:22:04 | ・「ありがとうございます」をもっと平易に

[「ありがとうございます」をもっと平易に]カテゴリーからの投稿です。

先日紹介した「ありがとうございます」の本から学びとった事がらを、自分なりにかみくだき、さらに

自分のことばで表現して載せていこうと思います。(できれば週/一回くらい)

私心とは

こころ=私心+本心

私たちの「こころ」は「私心」と「本心」でできています。

星星の瞬く夜空や、お日さま燦燦の空を「本心」だとすると、それを隠してしまう雲が「私心」です。

「私心」は、オギャーとこの世に生まれてから、たくさんの出来事に遭遇して、積み重なって出来上がった

こころです。

たくさんの出来事とは・・・例えば・・・

誰かにいじめられたり、誰かをいじめたり、

両親や先生から教わった事・・・「こうしたらいけない」とか、「こうしなさい」とか、

テレビや週刊誌で、誰かのことを非難している事を見たり、

みんなが、「そうだ、そうだ」ということを耳にしたり、

誰かを好きになったり、ふられたり、

試合に負けたり、勝ったり、

何かを好きになったり、キライになったり、

好きなものをたくさん食べたり、キライなものを無理やり食べさせられたり・・・

このように、暴力、不公平、強制、不快、迎合、同調、慣習、慣例、自己主張、挫折、悔しさ、嬉しさ、

得意、不得意、劣等感、優越感、虚栄心、嫌悪感、飽食、強要、執着、それらのトラウマなど・・・・・

たくさんの出来事に遭遇したり、さまざまな経験や体験を通して自分の「私心」が作られてきました。

さらに「私心」は、生まれ育った町の習慣や、その国のその時代の道徳や常識、そして宗教、

また過去生などからも大きな影響を受けているでしょう。

そして、これらに五欲(色欲・食欲・睡眠欲・名誉欲・財欲)をプラスしたものが「私心」を形作っています。

「私心」は、生まれてから、あの世へ旅立つまで、変化し続けていきます。

若いころ、怒ってばかりいた人が、年をとったら丸くなった(怒らなくなった)と言われたりすることなども

よく耳にしますね。

そして、これらの「私心」の奥のほうに、「本心」があります。