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武田泰淳に移行中

2012-04-15 | 読書【読了】

私的@倉橋由美子祭りが終わり、

古い友達の影響で現在は、武田泰淳に移行中(すぐに終わりそうですが…)。

 

武田泰淳の「滅亡について」(岩波文庫)をようやく読み終えました。

途中は流し読みでしたが、人となりが分かるエッセイ集でした。

 

「身心快楽 武田泰淳随筆集」(講談社文芸文庫)も似たような構成だったので、

買わなければ良かったと少し後悔。

「司馬遷」(講談社文芸文庫)も買ったあと、講談社文庫版を見つけて、少々ショックでした。

とはいえ、今日、「風媒花」(新潮文庫)をゲットしたので、読んでみることに。

昭和29年発刊で、解説が三島由紀夫でした。

 

三島由紀夫については、「滅亡について」の中の「ささやかな感想―戦後作家の並立について―」で、

埴谷雄高「死霊」と三島由紀夫「獅子」との並立を指摘されている。

「獅子」は、三島由紀夫が生前、最後に出した自選短篇集に収録されているとのこと。

時間を見つけて読んでみようと思います。

いずれ「死霊」は挑戦しなければいけないのでしょうが、

今のところは、まだまだ先のようです。

 

 

 

 

 

 

 

でここからは、ちょっとした私的メモ。

3次元のxyz軸から、どうやって4次元のt軸を考えるのか?

これは3次元を無理やり、2次元の平面の中に収めることで、

4次元の時間軸を(3次元の原点が進む方向として)、取り込むという方法である。

(ガリレオのドラマの中で福山雅治が黒板に描いていた記憶があります、たぶん)

4次元(x, y, z, t)というパラメータで考えるというのは

あまりに数学的過ぎて、人間のアタマでは意味のない表現のような気がします。

x, y, zとtの間に等価交換は成り立たないので。

とくに3つという軸で空間を考え、認識するということ、

そこから導き出される(外されている)4つ目の次元は時間である必要性があるのだろうか?

(と言っても、時間以外のもので軸と成り得るものがあるのだろうか…)

あるいは、時間を認識することは、哲学的にも不可能なのだろうか、という疑問も出てきました。

そこでベルクソンの連続性かバシュラールの瞬間の美学か、

という疑問が湧いて、『詩とは何か』、を改めて考えさせられるのでした。

ちょっと量子力学なども調べていたのが悪かったのか、

しばらく悩む問題のひとつになりそうです、

この白木蓮の季節に。