おじたん。的ぶろぐ生活。

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癌という病気とどう向かい合う? その8。

2005-07-14 10:57:09 | 我思う、故に書くなりよ。
その後の父は、治療の効果が上がらずに、癌に圧され気味である。

最初のうちは効いていた化学療法が効かなくなり、効果の出るだろう薬を探さねばならない状態となっているんだと思うが、首に転移した部分が大きく腫れ上がるなどの見た目の変化も著しく、放射線療法も始まっている。

今は、入院して治療を受けるのではなく、通院しながら放射線治療をして、化学療法の効き目がどれくらいあるんだかないんだか見極めているんだろうと思うが、総じてあまり良い方向に向かっているとは思えず、当初の予想と大きく違っているワケでもないみたいだ。

まぁ、スタートが「末期」なんだから、大きく良い方向に違ってくれたらいいな…ってのは、無理だと思っていたので別に驚きはしないのだけれど、最後まで「希望」やらに賭けるのもいかがなものかと…私は思う。まだ、自分の意思で何か出来るうちにさせておいてあげたい…と、思うのである。

自分で動くのもままならず、おおよそ「希望」通りにならない事が目に見えて来ても、「希望」に賭けて、苦しくツライ治療を続ける事が本当に良い事なのかどうだか。最後まで諦めずに戦うのもひとつの選択だと思うが、限られた時間を有効に使うのもひとつだと思うし…。

そんなこんなを、本人が決める時間も無く、治療にせかされて流されている様で、傍で見ていて、

「オレだったら嫌だな…」

と、思うことがしばしばなのである。出来ること、したいこと、やらなければならないこと、いろんながあっという間にやって来てしまう病気だから、身内はそれぞれに考えなければイケナイ事を強いられるんだけれど、周囲の考えに圧倒されて、本人の考えが伝わらないのでは、何のための闘病なのか? 誰のための闘病なのか? 見えなくなったままに進んでいってしまうのでは…と言うのが、何だか怖いんである。

この期に及んで、身内が妙な宗教にでも頼りだしたらもっと怖いが、得体の知れないサプリや水を急に買い出したするのが怖かったりする。「癌に効く…」と名のつく書籍が目に見えて増えるのも恐ろしい。だが、それもこれも父の回復を願う心からだと思うと、何も言えないのである。

ちょっと理性的に考えれば、癌に効くような物が通販で気軽に買えるワケが無い。一時的に免疫力を高める効能のある食品などはあるかもしれないが、それが癌に効果が著しいならば「薬」になっているワケで、対処的なものだと割り切って買い与えるならいざしらず、飲んでるうちに、食べてるうちに「治る」なんて事は極めて稀であって、極めて稀な部分に期待するにはあまりにも小さいと言うか、無視だろうと思う部分だと思う。そうした心理を見越して儲ける事を考えられた価格すらも目に入らなくなるから、なおさら恐ろしい。

そうした事を、何も疑わずに「正しい」と捉えて実践する家族を見ていると、やり切れない。まぁ、反対は唱えても、決定権は私には無いので、こうして書いても意味は無いが、何か見えてない。

やはり「癌」と言う病気は、何か特殊な病気なのかもしれないと、嫌々ながらに思う。私だって、父にはもう少し元気でいて欲しいと思う。出来るなら、病から抜け出して欲しい。だが、それも限りがある。現実はずっと厳しい。現実に晒されている父を、仮想でなんとか出来るワケではない。

厳しい現実の中であっても、父らしく最期まで生きて欲しいと思うだけなのだが、もはや難しくなっているのかも知れない。

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