おじたん。的ぶろぐ生活。

おじたん。である。語るんである。

海の幸を堪能する…。(いせえび編)

2005-05-27 20:01:57 | 我思う、故に書くなりよ。
公国の名においてかなり美味であった。

母方の親戚筋に、千葉で釣り船をやっている家があり、たまにこうしたお裾分けに与れる。元は漁師であり、これがまた良いところに家があり、眺望は絶景そのもの「太平洋はオレのもんだぜ…へっへー♪」なワケである。まぁ、それだけに辿り着くのが急な坂道以外に何も無いワケで、おいそれと浜に降りるのも大変ではあるのだけどね。

おじたん。もご幼少の頃は家族ぐるみでの親交が盛んであり、夏休みだのになれば彼の地を訪れ、普段は食せない「海の幸」をたらふく御馳走になったのを覚えている。

また当時、この家の家長とおぼしき老人が健在であり、とてつもなく大きいのだが、物静かにそして無言で、古びて真鍮の地肌がほとんど露わとなった双眼鏡を手に、窓から太平洋をじっと眺める様は「ヘミングウェイ…」そのもの。「老人と海」であったのだ。この人が血縁関係にあったのかどうか、定かな記憶はないのだけれど、何か「近寄ってはいけない…」雰囲気が漂うのであって、家人の接する姿と、客人である私はどう接して良いのか判らないギャップに、ある種の戸惑いと畏怖感とでも言う物を感じたのである。

さて、ご幼少の頃に、彼の地の食卓に「普通」に上がるこうした食材は、珍しいだけのもので「高級」だとも、またその「価値」ともに全然理解していない。子供ながらに「美味しい」とは思ったのだが、それが何故自分の家の食卓には頻繁に上がらないのかは「海から遠いから…」ぐらいにしか考えていなかったである。

自ら働くようになり、その対価を手に好きな物を食べに出掛ける様にまで成長すると、世の中の仕組みの中でのこうした「食材」の占める位置や存在理由と価値観に遭遇する事となり、己の対価の価値観さえ揺らいで、そして蜃気楼のようにおぼろげな物である事の現実に苦悩するのである。

まー。要するに「すげー高けー!」。

最近じゃそれほどでも無くスーパーで新鮮な物が手に入ったり、企業努力のお陰で産地などでは無茶でも無い価格で食す事が出来る様になったのであるが、どちらも未だに「高級食材」である事に違いない。それもこれも養殖や繁殖が難しく、大量生産として市場に供給するってのも無いワケじゃないが少ないからである。従って「天然物」と言う自然の摂理からしてみれば「普通」な事なのではあるが、ここに「付加価値」が付くんである。

そう。今目の前にあるのも「天然物」。ご幼少の頃の記憶では、漁師のおじさんは私たちが朝起きる頃に海から帰ってきて、収穫を私ら客人に披露しつつ「みそ汁に入れて食べなさいよ…」と、アサリやらワカメとあまり変わらない感じで渡してくれるんである。何か特別な物…という感じはそこに無い。

「網や篭を沈めておけば、朝になれば入ってる…」

そんな感じだったのを覚えている。夜中の暗い中に船を海に走らせる事の方がとてつもなく「偉業」に感じながら、漁に同行させてもらったのだ。後は漁場に着いたら網なり篭なりを投げ入れておしまい。その場で「収穫」が目に出来ると思っていたので少々がっかりではあったが、そこに「高級感」と結びつく物は見て取れない。

だからこそその価値観が「不思議」だったのだけれど、そう言うのを見てるし、食べてもいたので、有難味をってのがほとんど無い。あれからだいぶたった頃に聞いた話では、そんな漁も不漁が続き、漁師として暮らすよりも「釣り船」として暮らす方が楽だし、収入も良いとの事だった。天然の恵みではあっても限りがあるワケだし、高齢化の波って事もあったのだと思う。

となれば、目の前の「天然物」は入手経路もさることながら、かなり「貴重」なんである。そんな想いも沸き上がることから、写真を撮りながら食べ始めた。

「痛っ!」

懐かしい痛みが指先に走る。いせえびはあちこちが「痛い」のだ。刺身や半身になってみそ汁に浮かんでいたりするとなかなか判らないけれど、実はかなり「痛い」動物である。この辺はかなり似ている「ザリガニ」などとはえらく違う。あれらはハサミに挟まれない限り痛い想いをする事も無いので、手に取るのも楽勝だけれど、いせえびは違う。同じ感覚で手に取ろうものなら、予想だにしない「痛み」に驚くと思う。特に大きな物で無くても、痛いんである。

これこそが「天然」の証。自然の荒波の中で育った物は、何でこんな所まで…と思う様な所まで鋭くトゲトゲしいのだ。その痛みも、久しぶりの嬉しさとなっている。

薄い醤油で煮られた2匹を、懐かしい想い出と共に丁寧に分解しながら食べる。大きな物では無いので、正直な所、あまり食べられる部分は少ないが、尾の身のブリブリ感は煮られても失ってはおらず、素朴に美味しい。頭と胴を割り、細かい部分に残る「ミソ」を吸い出すのも痛みが伴う。それもまた格別。

んーーー。どーゆーことよ? どーしちゃったらこーなんだろう?

感嘆とも驚きとも付かない「感激」の味。出来れば細い足の中の身まで吸い出して食べてしまいたいのを「諦める」って言う贅沢。ビバ甲殻類! 食す部分よりも捨てる部分の方が多く見えるし、実際にもそうなんだろうと思うが、赤く、そしていかにも「量産機とは違うのだよ…」的な武骨であり重武装な外骨格の残骸が「もったいない…」気がしてならないのであるが、食べられないんだから仕方ない。

半分にして、グリルで焼いても美味しいと思う。また、塩味で煮て、オマールエビの様にマヨネーズでも美味しいだろう。だが、私の記憶の中のいせえびは薄い醤油で煮られた物。丸ごと煮て、そのまま出て来る。余計な飾りも無ければ、味付けもない。痛みさえも伴う素朴な味。それはレストランなどでは恐らく味わう事の出来ない物でもあり、そこで出されるいせえびよりも、心に残る贅沢な味わいでもあるのだ。

「フッ…連邦の白いのがどういう味なんだか。喰わせてもらおーか!」

連邦の白いのが喰える物なのかどうだか、またそれが何なのか? 全くわけわからんが、もー、どーかしちゃった位に美味であったのは間違いない…。

Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「ものさし」を大事に見る…。

2005-05-27 04:49:04 | 我思う、故に書くなりよ。
「ものさし」って言っても、いろいろある…。地震の話である。

地震の予知ってのが出来たら超便利なんだけれど、ハイテク満載でもままならないってのが「現状」。「いつどこでどれくらい…」ってのが判らないと「予知」とは言えないって事で、何か関係のありそうな事柄を少しづつ掻き集めながら「どーなんだろうねぇ、これは…」って考えているのが現実なワケ。

「明後日、大きな地震が起きる!」

なんて言う人もたまにいたりするんだけれど、これは予知じゃない。

「明後日の午後、関東地方南部を中心として、震度5強の地震が起きる!」

これはどうだろうか? 一見、予知にも思えそうなんだけれど、まだ予知じゃない。その根拠となる「データ」とか「事象」ってのがなきゃいけない。これが無ければ誰にだって言えるし、言ったところで確証が無い。

さて、じゃあ「確証」となりえる「データ」なり「事象」って何さ? と、考えると、ハッキリと決まっているのかいないんだか、定かじゃ無さそうなんである。一般的には大きな地震の前に「余震」と呼ばれる地震があるとされており、判り易いんだろうけれど、直下型と呼ばれるタイプはこれが無いか、あっても体感しづらい場合が多いのである。

特に、日本なんか地震が起きそうも無いって所は皆無に近いほど、地震の巣だらけなワケで、前もって余震が来てからドカンと1発…って事は少ないと言われてる。また、余震ではあったとしても、それが本震と変わらない位に大きな物だとすると、どっちでも良くなってしまうワケ。

となると、「確証」ってもんがいったい何なのか? 非常にわかんない物でしかないんであるのよ。

で、昔から「ナマズが暴れる」だとか「井戸が枯れる」とか、「虫や動物が見当たらなくなった」なんて言う伝承があってだね、これを「前兆」なんじゃなかろうか? って事で調べられて来てはいる。特に「雲」なんかは阪神淡路大震災の時に、非常に変わった物が前もって観察された事で、ここ最近では注目株なワケなんだけれど、こうした「事象」はそれを捉える人によっては「見方」が分かれる物であって、明らかにおかしい事象ではあっても、地震と確実に結びつくかどうかは「?」が付いてしまう。確実では無いのだけれど、関連性を疑っても悪くなさそうな位に、広く、多くの人がこの事象を見たり、感じたりしている事から、切って捨てるのも「?」ではないだろうか、と言うのがここ最近の捉え方でもある。

じゃあ、もっと分かり易い形で何か「指標」となる様な物は無いだろうか? って事で、いろんな方法を試している人や機関が増えて来ている。継続的な形で、指標となる物を計測して、その数値の動きに地震との関連性を見てみようって動きと言えば良いかな。

これだと、人による感覚の温度差って物を排除し易い事では「?」が取れ易い事は確かだと思うが、そもそもの指標の動きと地震の関連性において「?」が取れているワケじゃない。

取れているワケじゃあ無いのだけれど、今の所人間が得た科学とか化学とか物理とか…いろんな知識なんかで関連性を説明出来る方向にある物の方が「指標」として用いやすいワケだし「事象」としても「データ」としても「まぁ、何となく判るよ…」って事だと思う。

で、岩盤が崩壊する時に発生する電磁波を捉えるとか、その電磁波が他の電波に与える影響を調べるとか、地面に絶えず流れている電流の値を調べるとか、地面のゆがみとかねじれとかひずみを捉えるとか、植物の中を流れている電流の変化を調べる…なんていろんな方法が行われているワケなんだけれど、どれか1つやっておけば「間違いない」って物は今の所存在しないと言って良いんだと思う。これだけ見ておけば、間違いなく地震の予知が出来るって言う「指標」になる物が見付かってはいないワケ。

じゃあ、考えられそうな物全部…。ってワケにも行かないので、それぞれがそれぞれの理論なり根拠の元で、壮大なる実験を始めたばかりなんだと思えば良いと思う。それが「現状」。

で、それぞれが得続けている指標の動きをインターネットを通じて第3者に見て貰うって事を始めたのもここ数年の事。それぞれが指標の動きを基に、地震との関連性や、その仕組みやらを謎解いて行く努力を続けているのである。

だが、そのどれ1つを取ってみても「いつどこでどれくらい…」がハッキリ示される物は無い。

「どうも地震の前に、この様な指標の動きがあるようだ…」

と言う段階には来ている様に思える。中には、指標の動きから地震が起こるまでの大体の間隔や大きさまでが読み取れるに近い物もあったりして、不測の事態に備える様に呼びかけている所もある。

だけれども「?」は取り切れているワケじゃない。相手は自然なワケだから、指標の動きとピッタリなんて事も無いんだろう。また、指標となる物に影響を与える物が皆無なワケでもない。恐らくだけれど、ハッキリと判る指標は無いのかもしれない。

それでいても「何かおかしいぞ…注意しておいて損はなさそう…」って物が判っているのと、全く判らないのじゃあ、結果によってはエライ違いが出てしまう。そもそも地震なんか起きなきゃ起きないで良いわけだしね。

んでまぁ、いろんな指標の動きが自宅にいながらネットサーフィンするだけで見ていられる様になってるワケで、見ておかないのも何だし…、ここ2年位は見ているんだけれど、ここの所の1ヶ月、いろんな指標で動きがあるのは間違い無いと解釈している。これだって、地域による温度差は当然あって、例えば、関東では指標を見ているが、関西ではやってないとか、その逆だってある。私は関東に住んでいるので、関東で行われている指標、中部で行われている指標を見ているんだけれど、それぞれが微妙に動いている。全くどれもがリンクして動いているワケでは無いし、見方に因れば「いつもと同じ…」かも知れない。でも、どれもが「動き」を示している事なんじゃなかろうか…って事は判る。

これが「いつどこでどれくらい…」とまで判れば「予知」なんだろうけれど、残念ながらそうじゃない。でも「なんだか変らしいな…」って事は判るので、ちょっといつもより慎重に「備えておく…」事にしてみたんである。

いろんな「ものさし」が転がっていて、それぞれを読んだって事なんだけれど「?」はどの「ものさし」にも付いている。「ものさし」の読み方は、人に因って温度差が当然ある。どれもが「ノギス」や「マイクロメーター」なワケでも無いし、読み方が統一されたワケでも無い。

非常に漠然としてあやふやな「指標」なんだけれど、大まかな動きを見るには「使えない事も無い…」んじゃなかろうか? そう考えている。

指標としての温度差が有りすぎるからと言って、雲を見ないワケでも無い。散歩の途中で虫を見付けてみたり、飼っているちゅーちゃんの様子をあーでもない、こーでもないとしげしげと観察したりもしている。そうこうしているウチに、私が何か新しい「ものさし」を発見するかもしれないんだし。

得てして、地震絡みとなると、こうした記事は大騒ぎの基になったりもしかねない。例え、そうであったとしても、その「質」がそろそろ変わっても良い頃なんじゃないかと思うんだ。

「大地震が来る! 逃げろ!あーどーしよー!」

だけで、騒いでいても何もならない事は今までで判っているハズだと思う。そもそも、地震が起きるのを我々は止められはしない。また、地震が起きればしっかりと揺れる「日本」って所に住んでいる。地震や津波って言葉さえ知らないほどに地震の起きなかった所だって、大災害が起きてしまったワケだし、地球の表面を探してみても、逃げ場はそうそう無い。

だとしたら、起きる物として捉えて、それに備える事に重点を置いた「大騒ぎ」に変わらなければ、いつまで経っても似た様な「被害」しか受けられないワケ。

少しでも「被害」を少なくする為に前向きな「大騒ぎ」へと「質」を変えて行かなきゃならんだろうに。

「地震が起きたら、この辺りはこれぐらいに燃えちゃって、ぐちょぐちょでダメダメで…」

なんて事は判っていないよりは判っていた方が良いかも知れないけれど…

「じゃあどーすんだよ、それ…」

って事に進んだ方が良いのでは無いかと思うのよ、そろそろ。燃えさかる瓦礫の中から断末魔の悲鳴を聞きながらボー然とすんだろうけれど「さて、どーしましょうか?」って事への切り替えが早ければ早いほど事後は良いんだし。地震じゃないけれど、それが出来ていたのが尼崎の列車事故だった様な気がする。

「うわぁぁ…大変だぁ…」

で、終わってしまったら、命が助かった人はもっと少なかったかもしれない。もちろん、規模は違うので一概には比較なんか出来ないけれど、そういう「質」の違いがあのマンションの近所の人にはしっかりとあったと思うのさ。それもこれも大きな震災を体験しているからだと、そして、そこから「次」って物を見極めたからに違いない。

前向きに、質を変える大騒ぎ…ならば、ちっとも悪く無いと思う。今までの大騒ぎは、大事な「ものさし」をへし折って来たばかりか、新しい「ものさし」の発見さえも潰してばかりだったんじゃなかろーか?

Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする